樹陰の思い出
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吹雪が階段下の小扉を開けると、そこには立夏がみっちりと詰まっていました。
「あ゛ー、涼しくてチョー気持ちいぃー」
その空間は二階の水回りのための配管スペースで、立夏は上下水の水道管の間に身体をねじ込ませています。流れる水が冷気を運ぶことに加えてコンクリートブロックの壁が外気を遮断し、このパイプスペースは一年を通じてあまり温度の変化がありません。今日のように、猛暑注意報が出される暑さであっても。
足元に流れ込む心地よい冷気と、恍惚の表情でうたた寝する立夏。二つの意味で吹雪が立ちすくんでいると、立夏の顔がみるみるうちに歪んでいきます。
「んもー、誰ぇ? 冷蔵庫と同じで、開けっ放しはいけないんダヨー?」
不機嫌そうに唸りながら目を開けた立夏は、吹雪の姿を見るなり、まるで取り繕うように笑顔を浮かべました。
「あっ、ゴメンネー。吹雪ちゃんには悪いけど、ここ、早いもの勝ちだからさー」
吹雪は最初、何も言わずに黙って扉を閉めてあげるつもりでしたが、にへらっと笑い掛けるあまりの悪びれなさに、ひとこと苦言を呈さずにはいられませんでした。
「悪いと思っているなら、どうして――」
「だって、リカも暑いのキライなんだモン」
「それは私も同じです、立夏姉。極論すれば、暑さに弱いのは誰もが同じです」
「そーだよねー、暑いのは誰だってイヤだよねー。……だったら、せっかくの涼しさがどんどん逃げていくのがどれだけイヤかって、吹雪ちゃんにもわかるよね?」
こればかりは立夏の言い分が正しく、吹雪は返す言葉を失ってしまいました。
ソフトクリームの柔らかさで流れ出る冷気は次第に勢いを弱めつつあって、立夏の額にも汗がにじみ出てきているのが見えます。
「ねー、そんなイヤそうな顔しないでよー。まるでリカがワルモノみたいじゃない? ほら、他にも涼しい場所があるんだし。ね? こういう時はにっこり笑って気分転換。イライラを吹き飛ばしチャオー!」
「…………」
吹雪にはもう、口を開く気力すら残っていませんでした。どの口がそれを言うのかとげっそりさせられたうえ、これ以上無駄に熱気を吸い込むのは我慢のならないことでした。
「……おやすみなさい」
永遠に、と付け加えたくなる衝動をこらえながら扉を閉めると、行く宛てを失った吹雪は廊下をとぼとぼと歩き始めます。
足取りが重いのは決して気のせいばかりではありません。澱んで蒸し暑い空気はにじみ出る汗と相まって、手足にべったりとまとわりつくよう。空気の熱さがそのまま廊下の床板に染み込み、先のゴールデンウィークで家族旅行に行った砂浜を吹雪に連想させます。
しかし、海辺と違って熱気を吹き飛ばしてくれる潮風がありませんし、火照った身体を冷やしてくれる波打ち際もありません。太陽に焼かれないという唯一の救いを帳消しに、ひたすら不愉快な空間が延々と続きます。
「これから先、私はどうすればいいのでしょう……」
立夏の言っていた『涼しい場所』は既にチェック済みで、その全てが完売御礼でした。空のバスタブは虹子が寝転がっていて、洗濯機のボディには青空が抱きつき、和室の板の間では観月がしどけなく寝そべり、地下の食料保管庫は真璃の住まう臨時のタンプル塔と化していました。
大家族ゆえにクーラーの限られたこの家では、涼しく快適に過ごせる場所の確保こそが越冬ならぬ越夏に欠かすことができません。暑さにひどく弱い吹雪には文字通りの死活問題。他の姉妹たちの動きを考慮し、できるだけ人目につかないようローテーションで巡っていた吹雪でしたが、今年に入ってからはそれもままならなくなってきました。どうやら『暑さに弱い吹雪のいる場所=涼しい』という図式が皆にバレてしまったらしいのです。むしろ今まで露見してこなかったことが不思議なぐらいですが、当たり前過ぎて気づかなかったのか、あるいは敢えて気づかないふりをしていたかのどちらかでしょう。
いずれにしても、妹たちの他に彼女しか姿を見掛けないことからほぼ間違いなく立夏の仕業なのですが、立夏以外に恩恵を受けているのが自分より年下ということもあって、吹雪にはどうすることもできないのです。ある程度の年齢に達すれば涼を求めて一人で出掛けることもできますが、おいそれと外出のできない妹たちの身を思えば、そこを空けろなどと強権的に迫れるはずがありません。
先に自分自身が言ったように、夏の暑さは誰にとっても等しく厳しいもの。立夏が暑さに苦しむ妹たちを見かねたのだとしたら尚のこと、不満はあれども立夏を責める気にはなれませんでした。
しかし、吹雪の身体を取り巻く環境は厳しさを増すばかり。こめかみから滴り落ちる汗は止むことを知らず、身体じゅうに貼り付けた冷却シート改め人肌蓄熱シートがぼろぼろと剥がれ落ちていきます。ふと振り返り見た廊下の水滴模様は驚くほど左右に大きく振れていて、無意識のうちに蛇行していたことがわかりました。思っていた以上に熱の影響は深刻です。ここまで急速に進むとわかっていたなら、多少強引にでも立夏を引っ張り出してやるべきだったかもしれません。
吹雪は壁にもたれ掛かり、そのままずるずると身体を引きずりながら歩き続けます。午後の昼下がりという時間帯もあって、人の動く気配はほとんど感じられません。妹たちは午睡の真っ最中ですし、大半の姉たちは涼しい朝のうちから出掛けています。この場で倒れてしまうようなことがあれば、発見は数時間も後になってしまうでしょう。吹雪の足は自然とクーラーのある部屋へ――リビングに向かっていました。
「できれば……あまり、行きたくないのですが……」
この時期は終日点けっぱなしになっていて、他の季節以上に家族が集まりがちです。必然的に人の出入りも多くなり、それに伴う騒々しさも吹雪にとって忌避すべき要素です。
しかし、それ以上に吹雪を、他の姉妹たちをリビングから遠ざけさせていたのは、猛暑で体調を崩している綿雪の存在でした。
やがて、吹雪の行く手に扉が見えてきました。キッチンに通じる扉です。キッチンからリビングへは地続きになっているので、クーラーの冷気もそれなりに行き渡っているはず。吹雪はもう居ても立ってもいられなくなり、いそいそと扉を開けて中に入りました。
「あぁ……」
途端にどっと押し寄せる冷気が、吹雪の全身をやわらかく包み込みます。あまりの心地よさにそのまま意識が遠のきそうになりますが、背後からじりじりと迫ってくる廊下の熱気でハッと我に返り、慌てて扉を閉めました。
改めてキッチンを見回すと、カウンターテーブルに突っ伏した蛍と、その足元で丸くうずくまったさくらの姿が目に入ってきました。二人ともエプロン姿でぴくりとも身動きしないところをみると、おやつの仕込みが終わって一休みというところでしょう。その証拠に、キッチンにはフルーツの甘い香りが漂っています。
それらの光景を一通り眺め見て、吹雪は思わずひとりごちました。
「なるほど。羨ましいですね」
吹雪が感心したのは、他ならぬさくらに対してでした。場所の取り合いに敗れたのか、最初から争い事に加わらなかったのかはわかりませんが、蛍の手伝いを買って出れば、自ずとこの部屋に留まる理由ができます。
「……私にはとても、真似ができません」
手伝いをするのが嫌だというわけではなく、吹雪の体質ではしたくてもなかなかできないのです。
肌が触れただけで気を失うようでは却って邪魔をしているようなもの。近眼気味という特徴も、人を避けようと距離を見誤る点で迷惑を掛けてしまいます。
ましてや蛍には普段から何かと気を配ってもらっています。下手にでしゃばるより、大人しくしている方が迷惑にならない――吹雪は日頃から自分にそう言い聞かせているのです。
吹雪は二人を起こさないようキッチンカウンターに身を隠し、リビングの様子をそっと窺います。
遠くおぼろげに見える人影は三人。ソファーに寝そべった一人は綿雪で、その傍らの二人は氷柱と彼です。
そして、聞こえてくる話し声はその二人のものばかり。楽しげな雰囲気の割に綿雪があまり喋っていないところを見ると、油断はまだまだ禁物といった容態なのでしょう。
ここ一週間ほど平穏だった綿雪の体調が急変したのは昨晩の出来事でした。
一時は救急車を呼ぼうかというところまで熱が上がり、今でこそ普通に会話できる程度まで落ち着いていますが、予断を許さない状況であることには変わりありません。絶対安静は必須です。
ところが、綿雪を寝かせようにも子供部屋はことごとく南向き。綿雪の部屋にはエアコンが設置されていますが、日当たりの良さと熱の篭る二階という地理条件に加えて今日の猛暑ではほとんど無力です。そこで、リビングが一時的なベッドになっているのです。
「――ちょっと下僕! 何どさくさに紛れてユキに触ってるのよっ!」
不意に氷柱の金切り声がしたと思うと、人影がもたもたともつれ合う様が見えます。大方、綿雪の汗をぬぐったとかぬぐわなかったとかそういう話なのでしょう。彼があたふたとしているのが場の空気でわかります。
そして、その後もぐだぐだと続く言い合いを耳にしていると、吹雪の心の中に何とも形容のしがたいものがこみ上げてきます。
――私もあのようにしたい。もっと近づいて、精神的にではなく、物理的に彼の存在を感じたい。
それは、いつぞやのリビングでの出来事――真璃と観月が積木遊びをしているところに虹子が絡み、そこへ現れた彼に自ら触れてしまって以来、吹雪の中でずっと燻り続けている感情でした。
――不愉快でしかないはずの失神間際が、なぜか奇妙な高揚を伴っているなんて。胸が締めつけられて苦しいはずなのに、さらにその奥では嬉しさと幸福感に満たされている。これは一体、どういう心の働きなのでしょうか。
神経伝達物質の異常分泌や人体に流れる微弱電流の相性、生体磁場の急激な変動――他にも色々な仮説を立ててみたのですが、どれも納得のできるものではありません。
ともかく、彼にもっと触れてみたいという欲求は日を追うごとに増すばかり。気持ちが募るあまり、容態を崩す度に看病してもらえる綿雪を羨ましく感じる時もあり、自分のそんな浅ましさに気づかされるのが嫌で、綿雪を、ひいては彼を避けるようになっていました。
「私は一体、何をしているのでしょうね……」
自嘲めいた言葉が吹雪の口をふとついて出ます。
悪いことは何もしていない。隠れ潜む必要はどこにもない。それなのにこうして身を隠さねば心の平静を保てないというのは、あまりに不条理で滑稽だと言わざるを得ません。
しかし、涼やかな風に乗って伝わってくる楽しげな雰囲気を肌に感じると、彼らの邪魔をしてはいけないという気持ちが強く働き、自ら身を晒す気にはどうしてもなれないのです。
何度目かになるため息を吐きながら、吹雪はカウンターテーブルの支柱にしがみつきます。ステンレス製の支柱は吹雪の身体を急速に冷やしてくれますが、吐く息はなぜか熱く潤んだまま。
これもやはり彼の影響でしょうか、などと吹雪が訝しく思ったその時、彼が何気なくこちらの方に向き直りました。
「――っ!」
吹雪は思わず息を飲み、その反動でわずかにカウンターテーブルが揺れます。
彼と目が合った――ような気がしました。いえ、やはり気のせいではありません。隠れているこちら側を覗き込むように上体を傾げ、しきりに頭を伸ばしています。
吹雪はいつになくうろたえ、慌てました。傍らの蛍を見上げると、もぞもぞと身じろぎを始めて今にも目覚めそう。咎められる行いをしているわけではありませんが、説明が面倒な状況であることに違いありません。そして彼の方に目を向ければ、今にも立ち上がってこちらへやってきそうな気配。
「一体、どうすれば――」
と、言い終えるよりも早く閃いた答えは、とても単純で確実なものでした。
すっくと立ち上がった吹雪はくるりと踵を返し、脱兎の如く逃げ出します。兄と姉、そのどちらにも自分の存在が不確定であるならば、確定されてしまう前に姿を消してしまえばいいのです。
扉を開けた途端、熱気と共に後悔が吹雪へ向けて押し寄せますが、未練を振り切って廊下に飛び出します。後ろ髪を心地よくそよがす誘惑を後ろ手で閉ざすと、吹雪はそこではたと立ち止まりました。逃げ場を全て失った今、これからどこへ行けばいいというのでしょう。
考えあぐねている間にも灼熱が吹雪を蝕み、思考能力をどんどん奪っていきます。ついさっきまで身体が冷やされていた分、肌に感じる暑さもひとしお。どっと吹き出す汗に加えて、中途半端に乾いたワンピースが再び熱を帯びていくのも不愉快で仕方ありません。
――このまま何食わぬ顔で戻るのも一つの手でしょうか。
そんなことさえ頭に思い浮かんだその時、吹雪の目の前を黒い影がさっと横切りました。それは立ちくらみの予兆にも似ていて、吹雪はハッと身を硬くして来るべきものに備えます。
ですが、異変らしきものは一向に訪れず、代わりにやって来たのは一陣のそよ風でした。それは黒い影の去った方――勝手口から吹いて来ていて、そこから裏庭へ出ることができます。
「外へ出て風に当たれば、気化熱で涼めるかもしれませんね……」
吹雪の考えを裏付け、おいでおいでと手招きするように、勝手口の扉が前後にゆらゆら揺れ動きます。
それを見て、吹雪の心は固まりました。
行く手を阻む熱気を掻き分けながら、吹雪はようやくの思いで勝手口にたどり着きます。
扉の隙間からじわじわと漏れ出てくるのは午後二時過ぎの真夏。思い切って扉を開け放つと、今にも身体を溶かしてしまいそうな熱風が襲い掛かってきました。肌触りから推定される気温は35℃前後。体温とほとんど差がないせいか、皮膚の感覚が拡散して自他の境界線が広がっていくような錯覚に囚われます。
吹雪はしばらくその場で立ちすくみ、何とはなしに裏庭の生い茂りを見つめます。雲ひとつない快晴は空色のオーブンレンジ。容赦なく照りつける太陽に頭を垂れてうんざりして見える緑たちですが、風が吹き渡ると、いささか元気を取り戻したようにざわざわと枝葉を鳴らします。
「――吹雪ちゃん、ちょっと待って」
揺れる木々の向こうにまたしても黒い影を見つけたのは、背後からの呼び掛けに振り向こうとしたまさにその時でした。
最初は樹と樹の重なりがそう見えただけだろうと思ったのですが、それにしては木々のざわめきと無関係に揺れ動いているのです。もっとよく確かめようと目をこらしてみても、近眼ではたかが知れています。それにあの方向は確か――
「大丈夫? 吹雪ちゃん」
振り返るのと同時に蛍の顔が目に飛び込んできます。中腰で吹雪の目を覗き込んだ蛍は、焦点が合っているのを確かめてにっこり笑い、その場にしゃがみながら両腕いっぱいに抱えた荷物を下ろしました。荷物は替えのワンピースやバスタオルやスポーツドリンクの入ったスクイズボトルなど、とにかくその他いろいろです。
「蛍姉がどうしてここに」
「まずは着替えね。汗で濡れたままだと風邪引いちゃうでしょ」
差し出されたボトルを半ば自動的に受け取ると、その冷たさと重さが広がっていた身体の感覚を元に戻してくれます。吹雪はひとまず疑問を仕舞い込み、身体が訴える窮状に素直に耳を傾けることにしました。先ほどから喉が渇いて仕方なかったのです。
一度ストローに口をつけると後はもう止まりません。蛍がワンピースを脱がせ、タオルで汗を拭いてくれる間もボトルを持つ手を入れ替え、休むことなく一心不乱にスポーツドリンクを飲み続けます。少々物足りない冷たさですが、水分補給の面では却って適温です。
吹雪はごくごくとはしたなく喉を鳴らしながら、あっという間に500ccのボトル丸ごと一本を飲み干してしまいました。と思いきや、どこからか伸びてきて蛍の手が空のボトルと入れ替えに新しいものを持たせてくれます。
「足りなかったら言ってね。すぐ作ってくるから」
こくんと頷き返した吹雪ですが、二本目も半ばまで来るとさすがに胃袋が飽和状態です。
ぷはっと口を離して一息ついたタイミングで、蛍が「よかった」と笑い掛けてきました。
「あんまりすごい飲み方だから、買い置きの2リットルでも持ってきた方がよかったかなって、ちょっと思ってたところなの」
「そうですね。長期的にはそれぐらい欲しいところですが、今はこれで十分です。既製品のままでは濃度が高くて水分補給にやや不適ですし、私の胃袋の容量は推定で1リットル程度ですので」
「やっぱりそうよね。吹雪ちゃんぐらいの身長だとそれぐらいよね」
蛍は手を止め、腕組みをしながら首を傾げます。
「夕凪ちゃんは星花ちゃんと似たようなものだからいいけど、綿雪ちゃんは事情が事情だからあまり参考にならないし。青空ちゃんなんか目を離した隙にどんどん飲んじゃうのに、虹子ちゃんは春風ちゃんの言うことを真に受けて『お水の取りすぎはむくみの原因』とか言い出しちゃって、それでちょっとわからなくなってるのかも。小さい子ほど脱水症状起こしやすいから、周りが気をつけてあげないと――」
「あの、蛍姉」
「……どうしたの?」
「質問があります」
ほとんど母親同然の蛍を邪魔するのは気が引けましたが、綿雪の名前を耳にした途端に当初の疑問が急激に膨れあがり、どうしようもなくなるぐらいに胸を押し潰されたのです。
「私がここにいると、どうしてわかったのですか」
「あら、それはだって――」
蛍は吹雪の足元を指差し、その指をキッチンの方へつぅっと動かしながら言いました。
「水滴がキッチンからずっと続いていたもの。これ、吹雪ちゃんの汗でしょ?」
「……確かに、そうですね」
吹雪は自分の返事がひどく落胆していることに驚き、戸惑いました。落胆をするからにはまず期待が裏切られなければいけませんし、キッチンを出てすぐ横を向けばこの勝手口は丸見え。そもそも質問するまでもなかったのです。
――思考を密かに狂わせるぐらいに、私は一体何を期待していたのでしょうか。
「でも、吹雪ちゃんに気づいたのはホタじゃなくてお兄ちゃんなの」
「えっ?」
吹雪の胸が急にどきんと高鳴りました。そして、すぐさま納得します。どうやら私は彼に見つけてもらいたかったらしい、と。
「キッチンカウンターの近くに水滴がいっぱい落ちてるのを見て、吹雪がいたみたいだから様子を見てあげてって、まるで探偵さんみたいに。……吹雪ちゃん、ちょっと目を閉じててね」
言われた通りにすると、たちまちうなじや首筋にベビーパウダーがはたかれていきます。蛍の体温がさっきより高く感じられるのは気のせいでしょうか。
「しかし、理解できない点がひとつあります」
「なぁに?」
「兄さんは真っ先に私の存在に気づいておきながら、どうして昼寝中の蛍姉を起こしてまで事後を任せたのでしょうか」
「どうしてって、それは――」
蛍の動きが止まり、考え込んでいるのが気配でわかります。
「やっぱり、ホタの方が吹雪ちゃん慣れしているからじゃないのかな」
「その理屈は変です」
言い掛かりに近いと自覚しながらも、こう言わずにはいられませんでした。
「綿雪ひとりに対して兄さんと氷柱姉と二人もついています。綿雪の容態もあるので一概には言えませんが、一時的に人手を裂いたとしても何ら問題ないのではありませんか?」
「確かにそうかもしれないけど、今は氷柱ちゃんが放したがらないみたいだし……それに、吹雪ちゃんは平気?」
「何が、ですか」
「その、裸を見られても」
やや躊躇いがちな声にハッと目を開け、吹雪は改めて自分の身体を見回しました。気温が高いせいで下着一枚きりでいることをすっかり忘れていたのです。
「ホタはともかく、お兄ちゃんに見られたらやっぱり恥ずかしいでしょ?」
「わかりません。実際にそういう場面に遭遇した経験がないので」
「もしもの話。ホタもそういうシチュエーションがあったわけじゃないし、水着ならまだしも、下着だけっていうのはやっぱりその、すごく恥ずかしいかなって」
「……私ぐらいの年齢なら、倫理的にさほど問題があるとは思えませんが」
あくまで抗う吹雪でしたが、本音はまた違っていました。
――もしも今、この場に彼が現れたとしたら。
そう考えただけで急にいたたまれない気持ちになり、息苦しささえ感じてしまいます。彼はどんな顔をして裸体を見るのでしょうか。わっと悲鳴を上げて慌てて背を向けるのか、何事もなかったように平然と受け流すのか。幼稚園児たちの着替えを手伝う彼と、中高生の着替えに出くわす彼。
――そして私は、どちらの彼を望んでいるのでしょうか。
「それに、兄さんには綿雪の身体を拭いて綺麗にした経験があるはず。全くの素人ではありません」
「確かにそうかもしれないけど……」
困り顔で言葉を濁した蛍は、そこに答えが書いてあるかのように吹雪の顔をじっと見つめていましたが、おもむろに背筋を伸ばしたと思うと、両手をすっと頭上に掲げました。
「……お手上げ、ですか?」
「ばんざい」
「えっ?」
「吹雪ちゃんもホタの真似して。はい、ばんざーい」
「はぁ……」
言われるままにおずおず両手を上げると、そこにすとんと新しいワンピースが落ちてきました。うまい具合に頭も腕も通り抜け、あとは胸元のリボンを結ぶだけです。
「はい、これでおしまいね」
いっしょに、いつもの明るい声も降り注いできます。
「本当に助かりました、蛍姉」
「いいのいいの。それより、ボトルの中身ってあとどれぐらい?」
「半分ぐらいですね」
「半分かぁ。それでしばらくは足りそう?」
「ええ、まあ」
すると蛍は、傍らから大小一対の平べったい何かを取り寄せ、吹雪に手渡そうとします。
「じゃあ、はいこれ」
大きい方は一人用のレジャーシート。小さい方は――
「これは、ペットフードのように見えますが」
「そう。ネコちゃん用のシャケのジャーキー」
吹雪は思わず蛍の顔とジャーキーとを交互に見比べました。
「人間が食べても害はないと思いますが、果たして私の味覚に合うかどうか」
「違う違う、吹雪ちゃんが食べるんじゃなくて」
蛍は慌てて首を振り、急に声をひそめます。
「だって吹雪ちゃん、お外に行くんでしょ」
「ええ、そのつもりですが」
「だったらこれ、あった方がいいと思うな。だって、人間の同じ食べ物ってホントはダメなんでしょ?」
「そうですね。人間向けの味付けは動物たちにとって濃すぎるようです。特に塩分が――」
そこまで言って吹雪は、ようやく蛍の意図に気がつきました。
蛍が言おうとしているのは、少し前に吹雪が出会った白いネコのこと。すっかり痩せこけたその白ネコにパンの欠片を与えたところ、そのお礼のつもりなのか裏庭の中でも特に涼しい場所を教えてくれたのです。
そして蛍が微妙に話をぼやかしていたのは、他の姉や妹たちにその場所を隠し通すためなのでしょう。これだけの大家族となれば、どこで誰が聞き耳を立てているとも限りません。
「きっと喜んでくれると思います。なかなか口にできるものでもないでしょうから」
吹雪が礼を言うと、蛍が嬉しそうに微笑み返します。彼にしかあの話をしていなかったのになぜ蛍姉が、という疑問はありますが、今はとにかくその気遣いが嬉しかったのです。
それに、おかげで最高の逃げ場の存在を思い出せました。さっきこの勝手口に辿りついたばかりの時には、白ネコとの出来事などすっかり頭から抜け落ちていたのです。
と、その時。吹雪の脳裏にハッと閃くものがありました。
「――それでは蛍姉、私はこの辺で」
「あっ、ちょっと待って。麦わら帽子探してこなきゃ」
「大丈夫です。木立の中はほとんど日陰ですから。心配ありません」
急にあたふたし始める蛍をなだめる吹雪ですが、実のところ、焦っているのは吹雪も同じでした。
「でも、あんなところで日射病になったらどうするの? いくらホタでもすぐに見つけられないし」
「このレジャーシートを掲げてはダメですか。これなら直射日光はいくらか防げます」
蛍は腕組みをしてしばらく考え込む素振りを見せていましたが、吹雪が実際にレジャーシートを掲げると根負けしたように大きく一つうなずきました。
「おかしいなぁ。お昼寝前に見たときには、いつもの帽子掛けにあったの確かに見たんだけど……」
なおも納得いかない面持ちの蛍にぺこりと頭を下げると、サンダルを履く手間ももどかしく裏庭に飛び出しました。おやつの時間までに帰ってきてね、という注意を背中で聞きながら。
――あの黒い影の向かった方角は、確か。
吹雪の記憶が確かなら、その方向には白ネコの教えてくれた場所があるはず。例の黒い影が陽炎か何かである可能性は高いのですが、先回りされた挙句に占拠されたのかもしれないと思うと、居ても立ってもいられなくなってしまったのです。
綺麗に刈り揃えられた芝生を足早に横切ると、生垣代わりの低木の切れ目からその向こう側へ出ます。手入れが行き届いているのはここまで。これより先は、冗談半分に魔境とも喩えられる裏山です。
奥へ進むにつれて木立は密度を増し、対照的に下生えが姿を消していきます。家を出て三十秒と経っていないのに、そこはもう蝉時雨の降り注ぐ雑木林です。風の通りはあまりよくないのですが、湿り気を帯びた腐葉土のおかげで暑さがいくらか和らいでいます。同じ屋外でも雑木林の外に比べて数℃近く。日陰ということを考慮すれば体感でそれ以上に違うかもしれません。
他より頭一つ大きな木を道しるべに折れ曲がること数度。不意に火花の飛び散るような音がし、吹雪は「きゃっ!」とその場にしゃがみ込みました。
恐る恐る見上げると、熱した油に水が爆ぜるような音を撒き散らしながらセミが飛んでいくのが見えました。吹雪は眉をひそめながら周囲を見回し、恨めしげにつぶやきます。
「……ここが虫の棲家でなければ、いくらでも涼みに来るのですが」
虫と暑さ、どちらも吹雪の苦手なものですが、敢えてどちらかを選べと言われれば躊躇なく暑さを選びます。夏の暑さは不可抗力ですし、最悪、失神するだけで済むからです。それに、万が一にも体内へ侵入された時のことを考えると、生物の類は出来る限り避けねばなりません。どこかで羽音がする度に吹雪は身をすくめ、レジャーシートでうなじを隠しながら足早に進みます。
そのまましばらく歩き続けると、ほんの微風程度ですが向い風を感じるようになりました。例の場所はもうすぐ。目をこらして彼方を見ると、遥か遠くに行く手を遮る形で急な斜面があり、その麓にケヤキの巨木が立っているのがかろうじてわかります。その根元こそが、例の白ネコに教えてもらった場所なのです。
さらに目をこらして先客がいないか確かめる吹雪ですが、動いているものといえば風に揺れ動く木漏れ日ぐらいなもので、今のところはネコの子一匹見当たりません。
近づくにつれて風はその勢いを増し、根元へ辿り着いた頃には、途切れることのないそよ風が吹雪の髪を揺らし続けるようになっていました。
風は適度に冷気を含んでいてそのままでも程々に涼しいのですが、もっと快適なのは根元にある平らな岩の上。根に半ば抱かれるように埋まっているそれは、凹凸の少ない滑らかな表面といいベッドぐらいの広さといい、遺跡から掘り出された石棺の蓋のよう。
吹雪はレジャーシートを広げ、サンダルを脱いでからその上に座り込みます。それが石棺ではなく巨岩の一部であることはわかっているのですが、土足と躊躇わせてしまう雰囲気がここにはあるのです。さっきまでは蝉時雨で耳が潰れそうなほどだったのにこの一帯だけは妙に静か。周囲の木々たちも遠慮しているのか、やや遠巻きに取り囲んだ木立がリング状の日なたを枯葉の絨毯の上に描き出しています。
「誰もいない……ようですね」
そうひとりごちる吹雪ですが、それに異議を唱えるかのように、なぉん、という鳴き声が背後から聞こえてきました。
振り返るとそこにはあの白ネコ。口元が赤黒く汚れているのが目に飛び込んできてハッと息を飲む吹雪でしたが、彼が生粋の野良ネコらしいことを思い出し、胸をなで下ろします。
「食事には不自由していないようですね。獲物は野ネズミですか? それとも野鳥?」
もう一度、なぉん、と返事した彼は吹雪の足元に近づき、伸びの要領で上体を伏せたと思うと、身体を前へ戻しながら吹雪のアンクレットに頬擦りします。そしてそのまま尻尾の先まで身体を擦りつけると、ここが自分の定位置だと言わんばかりに吹雪の隣へ座り込みました。前に見た時と比べて身体の汚れは増していますが、それはより積極的に活動している証拠。力強く輝く目が心身の充実ぶりを如実に表しています。
「うまくやっているようで安心しました。以前会った時のキミは、それはもう酷い有様でしたから」
病気か何かで餌からしばらく遠ざかり、それでやむなく人前に姿を現した――あれから一度も姿を見掛けなかったところをみると、どうやらそういう事情だったようです。
「ああ、そうです。重要なことを忘れていました。キミにお土産があります」
吹雪は傍らのシャケジャーキーを取り、やや勿体ぶった身振りで封を切ります。かつてないご馳走の匂いに彼はどんな反応を示すのだろうという好奇心がそうさせたのですが、しかし、吹雪の期待とは裏腹に彼の反応は実に素っ気ないものでした。一本取り出して目の前に置いてみても、しきりに鼻を鳴らして匂いを確かめるばかり。ようやく口を開いたかと思えば先端を一度舐めたきり。
「……シャケでは気に入りませんか?」
思わず落胆しかける吹雪ですが、それは杞憂というものでした。彼はあくまで未知との遭遇に戸惑っていただけらしく、食べても大丈夫らしいと判断すると後は無我夢中。瞬く間に一本平らげたと思うと、なぁなぁと鳴きながらワンピースの裾を引いておねだりし始めます。
「そんなにしなくても残りは全てキミのものですよ」
差し出したジャーキーを両手で受け止め、後ろ足で立ったまま食べる姿は普通のネコそのもので、ちょっとした飼い主の気分です。
「そういえばこれは、キミが初めて出会う獲物のはずですね。もう少し緯度が高ければ、この辺の川にもシャケの遡上が見られたかもしれませんが」
味は大満足でも量は不満だったらしく、袋を逆さに振ってみせても彼はなかなかおしまいを理解してくれません。吹雪の周囲をぐるぐると回り、何度も鳴いてはねだりますが、どうやら本当にないらしいとわかるとその場へごろんと寝転がりました。こちらへ背を向けてとぐろを巻く姿はまるで拗ねているようで、吹雪は思わず目を細めます。
「キミはまるで、小さなあの子たちのようですね……」
自分のそのつぶやきがきっかけになったのでしょうか。
ふっと我に返ったその時には、抱き上げた彼を自分の膝の上に乗せて頭をなでていました。
かつて、クーベルチュールのテンパリングでめまいを起こしそうになった吹雪ですが、その際の温度は35度前後。ネコの体温は人間をも上回る39度なのに、不思議と何事も起きません。めまいはもちろん、気分が悪くなるようなことも。これも、この場所が持つ涼しさのおかげなのでしょうか。
「……不思議、ですね」
意識を保ったまま人と触れ合えない吹雪には、こうして頭をなでる程度のスキンシップも初めての体験です。ネコと人で身体の造りが違うことぐらいは自分の身体に触れればわかりますが、それでも、吹雪にとっては十分に妹たちの代わりでした。
最初はちょっと迷惑そうに身をよじっていた彼も次第に気を許すようになり、ややもすると吹雪の膝にのっしりと身を預け、ぐるぐると喉を鳴らすようになっていました。
「気持ちいいのですか?」
吹雪の問い掛けに再びぐるぐる。なぜか吹雪の方まで気持ちよくなってきます。
柔らかく、しなやかな毛皮のすぐ下に存在するのは骨の硬さ。どこに隠れているのかと疑わしくなるほどに筋肉は薄く、それでいて確かに感じられる熱の塊。人肌よりずっと熱いはずなのに、失神はおろか今はめまいすら無縁です。
それは多分――きっと、互いの存在を互いに認め合えるからなのでしょう。吹雪はそう思いました。触れることを許し、許される関係性そのものが信頼の証。
阿吽の呼吸。無意識の連携。美しく整った意思の疎通は、傍から見ていても気持ちがいいものですし、自分がその当事者であればなおさらです。例えばさっきの蛍のように。何も言わなくても吹雪の望みを一から十まで叶えてくれましたし、この心地よいひとときを過ごせているのも全ては彼女のおかげ。未来見を標榜している霙よりもずっと先が見えているようです。
それにしても、蛍はどこまで知っていたのでしょうか。吹雪がキッチンに隠れ潜んでいたことぐらいはお見通しのはずなのに、それについては何も言わないまま。なぜそこにいたのかと訊ねるでもなく、みんなと一緒にいればと誘うでもなく。
――蛍姉は私の心を、どこまで見通していたのでしょうか。
そして吹雪の脳裏をふとよぎるのは、彼に――兄に頭をなでられる綿雪の姿。
その途端、締めつけられるような鈍い痛みを、吹雪は胸に感じました。
――私は彼に触れられない。触れ合えない。それはつまり、彼に存在を認められていないということ。
「家族の中で、私だけが……」
急に手を止めた吹雪を訝しむように、膝の上の彼が吹雪の顔を見上げます。
それはただの被害妄想かもしれない。私が気を失っていても、皆は私に触れられる。私という存在を物理的に確かめられる。触れ合う肌と肌との間に、絶対的な境界線があると。
しかし、『私という自我』は違う。私は意識を保てない。私が触感で認知できない以上、私以外の存在があると私自身に対して証明できない。仮に、皆が実体のない幻影であったとしても、私はその真実に永遠に辿りつけない。
改めてそのことに気づかされると、吹雪はいつになく気が沈むのを感じました。
「私だけ……」
そう口にしたきり、次の言葉が出てきません。
これだけの大家族ともなれば、容姿も性格もそれぞれ違って当たり前。ヒカルの男勝りや麗の男嫌いのように、他人に触れられないという吹雪の体質は『個性』の一言で片づけられてきました。
しかし、これからは違います。一度気がついてしまったものを見て見ぬふりし続けることは、覆水を盆に返す以上に難しいことなのです。特に、吹雪のような並外れた頭脳と知性の持ち主には。
うなだれた吹雪を慰めようとしているのか、彼が吹雪の手のひらを舐めてきます。ざりざりとくすぐったい舌の感触が、これが紛れもない現実だということを吹雪に教えてくれます。
「……ありがとう。キミはやさしいですね」
なおも舐め続けようとする彼の頭を軽く押さえ込むと、耳のあたりをくしゃくしゃと少し乱暴になで回してやります。
それにしても、より体温の高いネコは平気なのになぜ人間が駄目なのでしょうか。
「キミは……どう思いますか?」
吹雪のひとりごとに応えるように、不意の強風が吹雪の隣を駆け抜けます。真夏の屋外で吹く風とは思えないぐらいに冷たく、涼しいを通り越して寒いと感じさせるほど。
吹雪は風上の方向、木の背後にそそり立つ急斜面を見つめました。この斜面を登った先に何があるのかわかりませんが、必ず何かが――この冷風を生み出している源があるはずです。例えば、地底湖へ繋がる洞穴の入り口など。ゾウやフラミンゴが生息できる裏山なのですから、その程度の秘密が眠っていて当然と考えるべきでしょう。
何の根拠もない思い込みが、吹雪の心を急に揺さぶります。
この場所なら、何か不思議なことが起こってもおかしくない。例えば、気を失わずに彼と触れ合えるとか――
しかし、すぐ我に返って吹雪は赤面します。
「わ、私は何を、そんな非科学的な……」
慌ててかぶりを振って否定する吹雪でしたが、吹雪に非科学的な考えを抱かせること自体が既に『不思議なこと』とも言えます。
そして、一度軌道を逸れた心はなかなか元に戻ろうとしません。
「だけど本当は、私は……それを望んでいるのです。触れ合い、語り合う……そう、ちょうど今の私とキミのように」
ネコが人間の言葉を理解するはずもなければ、答えが返ってくるはずもありません。一般的な常識、紛れもない事実ですが、前足をきちんと揃えて見上げる賢そうな瞳に、話し掛けずにはいられなかったのです。私はどうにかしていると自覚しながら。
「しかしそのためには、彼をここに連れてこなければなりません」
わずかに沈んだ声を敏感に感じ取り、彼がちょっと首を傾げます。
「そんなに簡単ではないのです。何と言い訳して連れてくればいいのか。首尾よく運んだとしても、私が失神したケースを考えるとあまりにリスクが大きすぎます。家の中ならまだしもここは裏山。私を連れ帰るだけでも一苦労でしょう。それ以前に、綿雪から彼を奪うことはできません。もう少し彼女の容態が落ち着いてからでなければ――」
とその時、誰かに呼ばれたようにパッと顔を上げ、膝の上の彼が吹雪から飛び降ります。そしてそのまま、一目散に駆け出して行きました。吹雪は後を追おうともせず、木立の合間に消えていく白い影を身じろぎもせずに見送るのみでした。
「どうやら、私の話が退屈だったようですね」
口ではそう言いながらも、吹雪の意識を占めていたのは彼の姿が消えた方向です。吹雪の方向感覚に間違いがなければ、彼の向かった先には家があります。
「……いえ、そんなはずは」
吹雪は即座にかぶりを振り、あまりに都合の良すぎる想像を追い払いました。仮に吹雪の言葉を理解していたとしても、それを彼に伝えられるかどうかはまた別の問題なのです。
一時の高揚が去って急に手持ち無沙汰になった吹雪は、レジャーシートの上へごろんと横になります。シート越しに感じる岩は硬くて冷たく、氷山の上で寝転がっているような気分にさせられます。もちろん、本物はこんなにやさしいものではないのでしょうが。
「気持ちいい、ですね……」
遥か頭上できらめく木漏れ日を見ているうち、次第に瞼が重くなっていくのを感じます。昼寝の時間を過ぎていることに加え、普段使わない領域で考え続けていたせいもあるのでしょう。眠気は加速度的に抗いにくいものになり、徐々に遅くなるになる風の音は寄せては返すさざ波のよう。
引く波に合わせ、吹雪の意識もすっと遠のいていきました。
眠りに落ちて、どれだけ経ったでしょうか。
目を閉じた闇の中にふっと光が点り、腐葉土を踏みしめる軽い音と一緒になって次第に近づいてきます。そしてそれは吹雪のすぐ隣で止まり、それっきり一向に動こうとしません。彼が戻ってきたのでしょうか。
――目覚めるまで待つなんて、意外に律儀ですね。
そんなことを思いながら瞼を開いた吹雪は予想外の顔を目にし、驚きのあまりに「きゃっ!」と小さく悲鳴をあげてしまいました。ですが、驚いたのは向こうも同じだったらしく、こちらは「うぉっ!」と心持ち太い声で後ろに仰け反りました。
「眠り姫が急に目覚めるなんて話、聞いたことないよ」
吹雪がむっくりと起き上がると、尻餅をついた彼が愛想笑いを浮かべていました。
「私は極端に寝相がいいらしいので、眠り姫に例えられることも時にあります。特に同室の星花姉や夕凪姉に」
すると彼は、急に真面目な顔になってこう続けます。
「ぴくりとも動かないから、寝顔を見ていてだんだん不安になってきてさ。まさか揺さぶって起こすわけにもいかないし」
「声を掛ければよかったのではありませんか?」
「ちゃんと呼んだよ。何度もね」
そうですか、と素っ気なく返事しながら、吹雪は内心で首をかしげていました。
――何者かの接近には気づいていたのに声は聞こえなかった。彼はここに来ないだろうという先入観がフィルタの役割をしていたのでしょうか。
「だから、奥の手を使うかどうかで少し悩んだんだけど」
「奥の手、ですか」
反射的にうなずき返した彼は、急に吹雪から視線を逸らしてもじもじとし始めました。
「どうかしたのですか?」
「いや、まあ、そんなに大した話じゃないけど……ほら、眠り姫を起こすのは、ええと、その……お、王子様の役目って、昔から相場が決まってるよね?」
しどろもどろな彼に、吹雪は思わず微笑んでいました。キス、とはっきり言わないところがいかにも彼らしいですし、普段の言動を見ていると、そのような気の遣い方をするのは一定年齢以上の姉たちに対してだけです。それがなぜ嬉しいと感じるのか、今の吹雪にはそこまで意識が回らなかったのですが。
「それは賢明な判断ですね。如何に理由をこじつけたところで身体的接触であることに変わりはありませんし、例えそれが正解だったとしても、覚醒した次の瞬間には失神してしまいますから」
吹雪は、ふふっと笑ってから彼に答えます。
「それに、残念ながら私は春風姉ではありませんので」
そうだね、と相槌を打った彼は、苦笑いのようなものを浮かべて言います。
「でも、春風さんには怖くて言えないな。すぐ本気にしてしまいそうで」
「そのようなことを私に言っていいのですか? 告げ口しないとも限りませんよ」
すると彼は急に顔をほころばせ、力強くかぶりを振りました。
「大丈夫。吹雪はそんなことしないから」
その刹那、様々な考えが吹雪の脳裏を駆け巡りますが、半ば不意を打たれた格好で「あ、はい」と答えるのが精一杯でした。
――彼はどのような意味で私にそう言ったのでしょうか。確かに私は場をいたずらに混乱させるような言動は好みませんし、実際に春風姉へ告げ口するつもりは毛頭ありません。それぐらい、彼もわかっているはずです。にも関わらず「そんなことしない」と重ねて念を押すということは、そうさせるほどに春風姉の勘違いを恐れているのか、あるいはもっと何か別の理由が――そういえば私は、どうしてそんな軽口のようなことを彼に言ったのでしょう。普段の私からは考えにくい台詞ですし、彼もそうに感じていて、だからあのような満面の笑みで私に接したのかもしれません。
瞬時にそのような結論へたどり着くと、吹雪は急にいたたまれなくなってきました。もぞもぞと身じろぎする吹雪に気づき、彼がバツの悪そうな顔をして距離を置きます。
「ごめん。ちょっと近すぎたね」
「い、いえ、そのようなことはありません。私は平気です」
慌てて言い募る吹雪でしたが、彼は、今度はゆっくりとかぶりを振ります。
「でも、ちょっと顔が赤いよ。体温は大丈夫? 熱は出てない?」
「問題ありません。何もかも平常通りです」
「だけど――」
いつになく心配性な彼を「大丈夫です」と制し、吹雪は先を続けます。
「もしも私の顔が赤いとしたら、それは恐らく日光の仕業でしょう。昼寝している間に少々焼けてしまったのかもしれません」
「でも、それにしては……」
なおも何か言いたげにしていた彼ですが、ぽりぽりと自分の頭を掻いてから自らを納得させるように小さくうなずきました。
「そういえば、綿雪が心配していたよ。一緒にいればいいのにって」
「……見つかっていたのですね」
「ちらっとだけどね」
うつむく吹雪を気遣ってか、やわらかい口調で彼が答えます。
「あんなに大きなリビングなんだから、一人ぐらい増えても何てことないのに」
見られていたという恥じらいが、吹雪の言葉をいつになくこわばらせます。
「ですが、綿雪の具合を考えればそれはできない話ですし、私より幼い妹たちがこぞって遠慮している中、一人だけ特別扱いというのは姉として示しがつきません」
「身体が弱いのは吹雪も綿雪も同じだよ。それに、綿雪がちょっと寂しがっていたんだ。最近はあまり話し相手になってくれなくて、何だか避けられているみたいだって」
「いえ、それは」
触れて欲しくないところに触れられ、吹雪は思わず言葉を濁しました。
「そのようなつもりは決して、ありませんが……」
「じゃあ、どうして?」
あくまでやさしげな彼の口ぶりでしたが、問われれば問われるほどに吹雪の心は内へ固く閉じ篭ろうとします。
「暑さに弱い私が熱源を避けるのは当然の行動。体調の悪い綿雪から距離を置くのは、あくまでもその結果としてです」
「だったらなおさら。近くに寄らなくたって、同じ部屋にいるだけで綿雪は喜んでくれるよ。ここは確かに涼しいけど――」そよぐ風が木の葉を動かし、揺れる光が彼の目を細めさせます。「リビングなら日焼けの心配もないし」
しかし吹雪は、何度も繰り返しかぶりを振って彼の言葉をひたすら拒み続けます。
綿雪。綿雪。綿雪。
さっきまでの楽しい気分は掻き消え、彼が綿雪の名を口にするたびに吹雪の胸がちくんと痛みます。痛みの正体に心当たりのない吹雪でしたが、痛みを作り出している原因は明らかでした。
そう、吹雪も綿雪も同じと言っておきながら、彼が叶えようとしているのは綿雪の望みばかり。いつもなら当たり前のように譲っている吹雪ですが、新たな疎外感に気づいてしまった今ではどうしても納得がいかないのです。
いつも皆にしているように、キミも私の願いを聞き届けて欲しい。この不思議な場所で共に過ごす。たったそれだけの、ささやかなわがままなのに。
「――ひとつだけ」
「ん?」
すかさず目を合わせてくる彼をまともに見られず、吹雪は慌てて視線を外しました。どうしてこんなに動揺してしまうのか、自分でもよくわかりません。
「ひとつだけ教えてください」
「どうしたの? 急に改まって」
「兄さんはなぜここへ来たのですか。綿雪の願いを叶えるためですか。誰かの頼みによってですか。そもそも、この場所へどうやって――」
ここで始めて、吹雪はあの白ネコの姿がないことに気づきました。
「そういえば、彼の姿が見当たらないようですが」
「彼って……動物か何か?」
「ええ、この山で生活している野良の白ネコです」
「裏山で? すごいな。野良っていうか、野生だね。そのネコは」
ぐるりと周囲を見渡してしきりに感心する様子を見て、吹雪は瞬時に確信を得ます。
「彼がキミをここへ導いてきたのだとばかり思っていましたが、どうやら違うようですね」
――ならば兄さんは、なぜこの場所を探り当てられたのでしょう。
新たな疑問をぶつけようとしたその時、こちらへ近づいてくる彼の姿が目に飛び込んできました。
「彼がそうです。ほら、あの白ネコ」
何かをくわえてのしのしと歩く様子は獲物を仕留めたライオンのよう。思わず指差す吹雪に、兄が表情を緩めて応えます。
「へぇ、さすがは野生。自分の食事はちゃんと自分で用意するんだね。ほら、口にネズミをくわえて――」
「どうかしましたか?」
急に言い澱んだ兄の顔は彼を捉えたまま、怪訝そうに目がすがめられていました。
「いや、ネズミじゃないな。あれは……セミ?」
その瞬間、兄の言葉を裏付けるように彼の口元の何かがびくんと跳ね動きました。
「ま、まさか……」
吹雪の顔からさぁっと血の気が引いていきます。
「そんなはずは、ありません。幼虫ならともかく、生きた成虫を捕らえるなんて、栄養的にも非効率です。賢い彼が、そんな無駄なことをするはず――」
しかし、吹雪の願いもむなしく、彼の歩みに合わせて不自然に蝉時雨が拡大していきます。
昆虫というだけでも嫌悪の対象だというのに、鳴き声と体長の大きさが迷惑極まりない存在。夏も盛りを過ぎれば道端のそこかしこに死骸が転がるようになり、吹雪にとっては暑さ以上に憂鬱の源です。
「こっちに近づいてくるみたいだけど……ああ、そういうことか。普段から可愛がってくれているお礼にわざわざ捕まえてきて……どうしたの、吹雪?」
ようやく振り向いてくれたその時には、吹雪の身体は小刻みに震え始めていました。
「大丈夫? ちょっと顔色悪いみたいだけど」
「え、ええ。体調は問題ありません」
「問題ないって、いや、もしかして熱射病かも――」
その時、一際大きなセミの声が響き渡り、吹雪は「きゃあっ!」と悲鳴を上げながら頭を抱えてその場にうずくまりました。
「吹雪?! 大丈夫か? 一体どうしたんだ?」
「わ、私は虫が嫌いなので、だから……」
「虫って……ああ、あのセミのことだね。大丈夫、僕が何とかするよ」
自分から離れていこうとする気配を感じ取り、吹雪は必死で懇願します。
「お願いです。わ、私のそばから離れないで、守ってください。どうか……」
「だけど、追い払うか何かしないと」
「乱暴はやめてください。彼は私の、大切な友人なのです」
返事の代わりに困惑のため息が降り注いできます。
兄が戸惑うのは当然でした。ネコに触れられなければネコじゃない方に触れて動かせばいいのですが、そのネコじゃない方が吹雪となれば話は別。パンがなければケーキを、というわけにはいかないのです。
それに、意思の疎通も不十分な相手を友人と表現したのは少々無理があったかもしれません。他の家ではどうなのかわかりませんが、虹子や観月がいるこの家族の中では、きちんと会話が成立するぐらいでなければなかなか信じてもらえないでしょう。
「……わかったよ」
ややあって、戸惑いを残した声が返ってきました。兄にとって今の吹雪は、さぞやわがままに感じられるはず。吹雪の目の端にじわりと涙が浮かび出ました。
「このまま睨み合いが続けられればいいんだけど……」
伏せている吹雪にその様子は窺い知れませんが、状況はどうやら膠着しつつあるようです。ジジッ、ジッという断続的な鳴き声が近づくでも遠ざかるでもなく、一定の間合いを保った状態でうろうろしているのがわかります。
「よっぽど好かれてるみたいだね、吹雪は」
「……えっ?」
「完全に仕留めれば楽なのに、どうしても生きたままプレゼントしたいみたいだ。あんなにじたばたもがかれて、あれじゃ今にも逃げられ、うわっ!」
その瞬間、耳をもつんざく雷鳴が轟きました。正確には切れ間なく続くセミの悲鳴なのですが、吹雪の耳にはほとんどそのようにしか聞こえなかったのです。
「た、助けて……兄さんっ!」
虫と雷。恐れるものが二つも揃ってしまった今、吹雪に正常な判断力はもう残っていませんでした。恐怖に突き動かされるまま、吹雪は無我夢中で最も手近なものにすがりつきます。
「怖い、私、ダメです……こんな、ああっ、どうか、私を、助けて……っ!」
広くて大きくてあたたかなもの。そして、自分のものとは明らかに違う汗の臭い。それら全てが一体となって、吹雪にかつてない安心感を与えます。
そして自分が何をしているのか気づいた途端、吹雪の意識がふっと遠のいていきます。意識だけが身体から乖離して浮き上がっていくこの感覚は、他人の身体に触れた時と同じ。
気を失う間際の脳裏に後悔の念がよぎります。私はなぜ、彼に自ら抱きつくなどという愚を犯してしまったのだろう、と。
ところが、それから間もなくしてある異変が起こります。離れかけていた意識が戻っていく――というより、どんどん沈み込んでいくのです。子供が手を離してしまった風船の紐を捉え、手繰り寄せたそれを再びその手へ握らせるように。
あるべきものがあるべき場所へ収まった途端、吹雪の目がひとりでに開きました。
「私は、一体……」
「大丈夫か、吹雪」
心配そうな声に顔を上げると、すぐ目の前に兄の顔がありました。不安げに顰められていた眉がゆっくりと元へ戻っていくのが見えます。
「よかった。急に倒れ込んでくるから、セミで気絶したのかと思ったよ」
吹雪は自分が兄の腕の中にいることに気づきますが、まるで実感が湧きません。
「私はどれぐらい気を失っていましたか?」
すると兄は、急に難しい顔になってあらぬ方を見つめます。
「敢えて数字にするなら、五秒ぐらいってところかな」
「それでは最早、失神とは呼べませんね……」
独り言のようにつぶやく傍ら、吹雪の胸にようやく歓喜が広がっていきます。
理由はともかく、意識を保ったままで触れ合えているのです! 今まで一度として起こらなかった奇跡が、よりにもよってこの人を相手に起きている。おまけに、ついさっき望んだ願いがすぐに叶えられた。こんなに嬉しいことが他にあるでしょうか。
――やはりこの人は私たちに、いいえ、私にとって特別な存在。初めて会った時に感じたあの予感は、紛れもない本物でした。
「あぁ……」
吹雪は長い長い安堵のため息をつき、見た目より広い胸板に顔を埋め、力強ささえ感じる体臭を胸いっぱいに吸い込み、兄という存在を身体じゅうで感じ取ります。
夢中になるあまり頬擦りまで始める吹雪とは対照的に、兄の方はどこか居心地が悪そう。それでも妹の好きにさせるあたりは、さすが唯一の男性を務めているだけありました。
そのまま数分ほど経ったでしょうか。
すっかり抱き枕状態の兄でしたがさすがに焦れてきたらしく、「そろそろ戻ろうか」と吹雪の耳元へ囁いて促します。
「今日のおやつはかき氷なんだ。早く戻らないと、誰かが勝手に作り始めちゃうよ」
一瞬心動かされる吹雪でしたが、そのままかぶりを振って身体的欲望を追い払います。
「溶けた氷は冷凍庫に入れれば元に戻ります。問題ありません」
「……あー、吹雪」
兄はあらぬ方を向いて言いにくそうにしています。
「さっきの、どうしてここへ来たのかっていう質問の答えだけど……」
「はい?」
「吹雪を呼びに来たんだ。食べるのも作るのもかき氷は吹雪の大好物だから、少しでも早い方がいいかなって。ホタが大体の方向を教えてくれたから、場所は何となくわかった」
「はい」
「いや、だから……ね?」
そう言って立ち上がる素振りを見せる兄に、吹雪は思わず絶句しました。
気を遣ったのだから大人しく従ってくれと言わんばかりのこの態度。気を失わずに他人へ触れられたという、この記念すべき出来事の意味と重要性をまるで理解していないのです。
あるいは、こういったシチュエーションに慣れすぎているせいでしょうか。上は立夏から下は青空まで。いくら家族とはいえそれこそ日常茶飯事のように抱きつかれているのですから、感覚が鈍くなっていてもおかしくありません。
「――私はもっと、このままでいたいのです」
吹雪が兄の胸に体重を預けると、それを全く予想していなかったのか、吹雪を抱き止めたまま仰向けに転がってしまいました。
「ふっ、吹雪?」
馬乗りになった吹雪は、いつになく厳しい顔で兄を見下ろします。
「まだ気づかないのですか? 私とキミの身体が直接触れ合っているのに、私はちゃんと意識を保っている。これが私にとってどれだけ重要な出来事か、わからないキミではないはずです」
「だけど……ほら、顔がだんだん赤くなってる」
言われて自分の額に手を当ててみると、確かにじっとりと汗がにじみ出ていました。もしかすると、吹雪の体調が急変するのではと気に掛けるあまり、奇跡を喜ぶどころではないのかもしれません。そう仮定すると少しは許せる気分になりますが、納得はできません。
吹雪は額の汗を拭い去り、熱いため息を一つ吐き出しました。
「私は、平気です」
「でも、今は偶然そうかもしれないだけで、例えば僕が手で触れたりなんかしたら、またいつものように気を失ってしまうかもしれないよ」
なかなか言うことを聞いてくれない兄に、吹雪は次第にいらいらしてきました。これが綿雪だったなら氷柱の顔色を窺いながらでも望みを叶えてくれるでしょうし、年上の姉たちならばみっともないぐらいに動揺してみせたはず。
ところが今の兄はそのどちらでもありません。そしてその平静さが、吹雪の神経をいつになく逆なでしていました。
「いいえ、そんなことはありません。ほら」
吹雪は兄の手首を掴み、大きなその手をブラウス越しに自分の胸へ押し当てます。
「わかりますか? 私はこんなにも興奮しているのに、キミの心拍数は……成人男子の平均をわずかに上回る程度です」
「吹雪、お願いだから少し落ち着いて」
冷静さが特徴の吹雪にしてはあまりにらしくない感情の動きですが、むしろそれこそが兄の危惧するところだったのかもしれません。
「率直に言って不公平です。キミはさっき言いました。吹雪も綿雪も同じだと。それなのにキミの態度は、綿雪に対するそれとはまるで――」
刹那、一際強い風が地を這うように吹きつけて、吹雪のワンピースが大きくめくり上がりました。すると吹雪の指先が、急に加速していく脈拍を感じ取ります。不思議に思って兄の顔を確かめると、わずかに赤く染まった顔をあらぬ方に向けていました。
――何をそんなに恥ずかしがっているのでしょうか。
それらの因果関係が一つに結びついた途端、吹雪の脳裏にある思いつきが浮かび上がります。
下着が見えたぐらいでこの程度ということは、全裸になればもっと興奮状態にさせられるはず。
そうとわかれば躊躇いはありませんでした。兄がおろおろと止めるのも無視してワンピースの裾に手を掛けます。もはや完全に主客転倒してしまっているのですが、吹雪はそれに気がつきません。
これで私も皆と同じになれる――と、その時でした。
例の黒い影が目の前を横切ったと思うと、吹雪たちの横に立ち、低い声でこう言い放ちました。
「いくら暑いからといって全裸になるのは感心しないな、吹雪。虫に刺されるぞ」
「み、霙姉さん……?!」
素っ頓狂な兄の声より早くその正体に気づいた吹雪は何食わぬ顔で兄から降り、そ知らぬ風を装って霙から顔を逸らしました。理性と羞恥心が猛スピードで蘇り、とにかく少しでもいいから第三者の視線から逃れたかったのです。
それにしても、一体どの時点から目撃されていたのでしょうか。今改めて吹雪を打ちのめすのは普段の自分からは考えられない痴態の数々。自ら触れに行くというだけでも噴飯ものなのに、抱きついて押し倒したり全裸になろうとしたり、とにかくその全てが理屈に適っていません。恥ずかしさのあまりに身体じゅうが熱く、誰にも触れられていないのに失神してしまいそうです。
兄も恥じらいを感じているのか、問い掛ける声はどもりがちでした。
「で、でも、姉さんがどうしてここに」
「ん? いや、吹雪のために麦わら帽子をと思ってね。こんなところで吹雪が倒れては、運ぶオマエが大変だろうからな」
「あ、そうだった。忘れてた。……大丈夫か、吹雪。一人で立てる?」
「吹雪なら私に任せておけ。それよりオマエ、早く戻った方がいいぞ」
「えっ?」
「急がないと大変なことになるが、傍から見ている分には一向に構わない。その程度の出来事だ」
「どういうことですか?」
「まあ、それはそれで面白い光景だろうからな。とはいえ、一番の曲者たる立夏の存在が危ういな。アイツは天性の扇動者だ。自ら火種を起こすばかりか、何の躊躇いもなく燃料を注ぎ入れる。無邪気という名の邪気があると、オマエもそろそろ知るべきだ」
「だから、肝心の内容を言ってくれないと何が何だかさっぱりですよ」
「今日のおやつはかき氷だ」
「それは知ってます」
「ならばわかるだろう」
「それだけじゃわかりませんよ」
「かき氷といえばシロップだ。それぐらいはわかるな?」
「当たり前です。バカにしないでください」
「定番のイチゴにメロン、レモンに加えて今年はブルーベリー、アンズにユズ、ジンジャー、ミントと大盤振る舞い。無論いずれもホタの手作りだが、こんなに種類が多いのは全てオマエのせいだ。どの味がオマエの好みなのか知りたがっていたからな。しかし悲しいことに、ホタの心チビども知らずだ。……どうやら、これだけ言ってもまだわからないらしいな」
「……すみません」
「色とりどりのシロップを前にあの子たちが我慢できると思うか? ただでさえお絵描き好きチビどものことだ。お兄ちゃんのためだとか何とか言いながら、画用紙に見立てたかき氷の上に――」
がばっと起き上がる気配を感じたと思うと、猛然と駆け出して行ったのが風の動きでわかりました。
「吹雪のことは私に任せておけ……と、もう見えなくなってしまったな。普段は鈍いくせに、時折予想以上に素早くて困る。オマエもそうは思わないか?」
自分が呼ばれたのかとちらっと霙の方を見ると、いつの間に現れたのか、例の白ネコが霙の足元に行儀よく佇んでいました。そして、霙の手から何かを受け取って食べています。どうやら煮干のようです。食事中にも関わらず霙の手は彼の頭や喉元をなで回していて、二人の間柄がただならぬものであることを示しています。
その途端、吹雪の中で全てが一つに繋がりました。たびたび目の前に現れていた影の正体から、白ネコが生きたセミを捕らえて持って来た理由まで。もしかすると……いえ、やはり何もかもがこの人の企てだったのでしょうか。しかし、なぜこんなことを――
訝しげな視線に気づいたのか、霙が吹雪の方へ向き直りました。それも、いつもの皮肉めいたそれとは違う、穏やかな笑みを浮かべながら。
吹雪はますます混乱し、再び目を逸らしてしまいます。
「……どうして、こんなことを」
「心配するな。私の白玉入り宇治金時に手を出す愚かな妹はいない。もっとも、氷はまだ削り出していないのだがな」
「そういう意味ではありません、霙姉。そういう意味ではなくて――」
パサッと突然被せられた麦わら帽子が吹雪の言葉を遮りました。そして間髪入れずに、優しげな声が降り注いできます。
「よかったじゃないか、吹雪。アイツにとっては当たり前の出来事でも、オマエにとっては偉大なる第一歩だ。あれでもう少し気が利けばよかったのだが、まあ、あれぐらい鈍感でなくては今ごろは胃潰瘍持ちで通院生活だろうな」
――やはり、見られていたのですね。
帽子のつばを持ち上げ、恨みの篭った視線を向ける吹雪ですが、対する霙は実に平然としたものです。
「どうしたその顔は。何か不満でもあるのか? 要望があるなら言ってみるがいい」
「……ならば、一つだけ聞かせてください」
「何なりと」
「霙姉が苦手とするものを教えていただきたいのです」
「ほう?」
霙の表情から初めて笑みが消えました。
「しかしそれは……いや、なぜそんなことを知りたがる」
「……霙姉にはとても感謝しています。このような形でとはいえ、私の願いが叶ったのですから」
「それは何よりだ」
「しかし――」
「しかし?」
「どうしても、許せないのです。私に無用の恥じらいを与えたことが。だから霙姉にも、私の感じたあのやり場のない感情を味わってもらわねば気が済まないのです。私のこの胸の、と――」
ときめきを、と言いそうになった吹雪は、自らの心に不審を抱きながら慌てて言い直しました。
「動揺を」
「復讐というわけか。なるほどな」
霙の目がすっと細められ、いつもの冷徹な光が宿ります。
吹雪は思わずため息をつきました。
「やはり、教えてはもらえないようですね……」
すると、霙の顔に苦笑らしきものが浮かび上がりました。
「……ドラ焼きだ」
「はい?」
「大量のドラ焼きが怖い。オマエの小遣いではとても買い切れないほどのな」
そう言ってニヤリと笑った霙は、マントを翻しつつ吹雪へ向けて手を差し出しました。
「立てるか?」
吹雪は霙の顔と手を交互に見比べると、迷うことなく袖を掴み、それを支えに立ち上がりました。そしてそのまま、吹雪を先導する形で霙が歩き始めます。
「待ってください、霙姉」
霙は立ち止まらず、顔だけを振り返らせます。
「ドラ焼きの他にもう一つ、怖いものがありますよね」
「何だ、知っていたのか」
「ええ、一応は」
「蛍でさえも知らなかったのにな、『まんじゅうこわい』は。オマエの爪の垢でも煎じて皆に飲ませてやりたいところだ」
「どうせ煎じるなら緑茶にしましょう。三十グラムぐらいならば私のお小遣いでもそれなりの高級品が買えますし、きっと満足していただけるはずです。無論、量的にも」
「二煎目や三煎目で誤魔化すつもりならそれは安直というものだ」
「お言葉ですが霙姉。成分的には二煎目も一煎目と大して差はありません」
「本で得た知識だけが全てではないぞ、吹雪よ。論より証拠。オマエはもう少し、その辺を理解するべきだな」
その言葉にいつもと違う何かを感じ取り、吹雪はぴたりと足を止めました。振り返った霙の方も吹雪の態度に何かを感じたのか、じっと吹雪を見下ろしています。
「思い込みは世界を狭くする。愚かなことだ。無意識が意識に打ち克ったときを思い出せ。ついさっきの、そう、あの出来事だよ」
そして、握ってみろとでもいうように、袖を掴まれた方の手のひらを上へ向けました。
「しかし……」
「大丈夫だ。体温の低さには自信がある。先の二人、いや、一人と一匹よりは物理的にも障害が少ない。だから私の手を取れ、吹雪」
躊躇う吹雪を後押しするようにうなずく霙でしたが、しかし、吹雪は小さくかぶりを振ってやんわりと払い除けます。
「せっかくですが、霙姉。今はできません」
「心配性だな。オマエをおんぶして連れ帰るぐらい、私には造作もないことだ」
立て続けの奇跡の後。今なら何事もなく触れ合えそうな気がしますし、触れてみたいと思っていました。心だけではなく、身体で姉の気持ちを確かめてみたい。魂には形がなくても、魂の入れ物には形がある。質量がある。実体がある。
ですが、いくつかの不安要素が吹雪を押しとどめていました。
「理由が二つあります。第一にあの場所から離れてしまっていること。そして二番目が、その、少々言いにくいのですが――」
「何だ。言ってみろ」
吹雪は非難がましい目で姉を見上げると、どっとため息を吐き出してからこう言いました。
「ここは一体どこなのですか。ほんの数分と歩かないうちに、私の記憶にない場所へ迷い込むなんて」
Fin.