凍鉄の夜更け(上) 読み物TOP

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 晩御飯の終わったダイニングには、独特の緩んだ空気が漂っています。
 居並ぶどの顔も眠たげにまばたきをし、それに拍車を掛けるのは全力運転の唸りをあげるエアコンと二台の石油ストーブ。氷の浮かんだグラスには露がびっしりとくっついています。
 そんな中、ひとりだけ張り切っている人物がいました。室温だけは常夏の楽園に、いかにも取り澄ました風な彼女の声が響いています。
「シベリア寒気団の発達に伴う西高東低の配置で、典型的な冬型の気候となっており――」
 何の変哲もない天気の解説ですが、リビングのプラズマテレビは真っ暗なまま。
 そう、その声の主は、いつもの格好にたすき掛けをした美晴でした。
 キャスター付きのホワイトボードの前で指示棒を振るう美晴は、マーカーで描いた等圧線を消さないよう、『高』と書かれた青い丸型のマグネットを慎重に貼り直します。
「――というわけで、これから数日は厳しい冷え込みが予想され……って、みんなちゃんと聞いてる?」
 腰に手を当てて胸を反らせた美晴は、ダイニングをぐるりと見渡しました。
 細長いテーブルに連なっているのは次女の霙から九女の麗まで。今は三女の春風と八女の小雨の姿がありませんが、要するに『一桁代』の姉妹たちです。普段なら主役となりうる彼の姿は、今はありません。そして、十九人と一人とを束ねる母親の姿も。
 ちなみに昨日は姉妹全員を集めて同様の解説を行ったのですが、星花の「劉備様の蜀はこのへんですね」の一言を皮切りに、マリーとフェルゼンのりょうち、フレディの生まれこきょう、などと、突発的に始まったホワイトボード上の陣取り合戦で散々な結果に終わってしまいました。
 そんな『二桁代』は、春風と小雨の引率で、今はお風呂に入っている真っ最中。話の理解できる年齢なら邪魔はされないはず、というところまでは美晴の思惑通りだったのですが……。
「はいはい、聞いてる。聞いてましたってば」
 テーブルに突っ伏したままでだらんと手をあげるヒカルですが、これでもまだ反応のいい方。ほとんどの姉妹は無関心で、少しでも自分の時間を確保しようと俯き加減です。唯一、六女の氷柱だけが顔を美晴に向けているのですが、しきりに頭上を気にしていてそわそわと落ち着きがありません。
 妹たちのあまりの無愛想ぶりに、美晴はやれやれとため息をつきました。
「みんな、よっぽどおやつがいらないようね。いつもの三時にプラスして晩御飯のデザートも食べられるなんて、そうそう滅多にないのよ?」
「でーもー、ちっちゃい子はお風呂から上がるだけでもらえるのに、リカたちだけ不公平だヨ」
 と、足をバタつかせながら立夏が唇を尖らせますが、その横から鋭い声が飛んできました。
「ちょっと、静かにして!」
 麗は受話器の話し口を塞いでいた手を取り、険しい顔で電話に向き直りました。
「もしもし、お母さま? ……ううん、何でもないの。それより、今から私が話すことをよく聞いて。最速で帰って来られる乗り換えを携帯のメールで送ったんだけど、それで、5番ホームに列車が来てたらそれに乗って。もしも来てなかったら、これから2番ホームに入ってくる……えっ? 来てない? ……全部ダメなの? ……そう……はい、わかりました。ううん、私は大丈夫。お母さまのほうこそ気をつけて。いい? あの男と同じ部屋はダメだから。絶対にダメよ。……何かあったらすぐ電話してね。私、寝ないで待ってるから」
 そう言って受話器を下ろしたのを合図に、誰彼の区別なくため息が漏れて出ました。
「ねぇ、何て言ってたの?」
 確認の意味で美晴が訊ねると、憤懣やるかたないといった面持ちで麗が不満をこぼします。
「もう、最悪よ。この程度の悪天でことごとく抑止なんて、国鉄マンの気概はどこにいったのかしら」
「抑止? ウヤっていうのとは違うの?」
 蛍が首をかしげると、麗はふんと鼻を鳴らして応えます。
「ウヤは運転休みの意味で、抑止とは別。何度も言ってるんだから、ホタもそろそろ覚えて」
「ということは、今日じゅうにお兄ちゃんたちは帰ってこれないのね」
「お母さまたち、の間違いよ。……何よ、元はと言えば全部あの男のせいなのに。役所の手続きも一人でできないなんて、軟弱もいいところだわ」
「麗の気持ちもわからなくもないけど、ほら、高校の転出とか役所への届け出とか、そういうのは保護者がいなきゃダメでしょ? 本当は新年度に合わせてウチに来るはずだったのを、ちっちゃい子たちが泣いてぐずるから、それで無理に早めてもらったんだし」
「それぐらいわかってます。わかってます、けど……」
 美晴にたしなめられて少し怒りのトーンを落とす麗ですが、まだまだ気は収まらない様子です。
「だいたいお母さまもお母さまよ。今、お母さまが一番必要なのはあさひなのに。……そうでしょ、あさひ?」
 その呼び掛けに、きゃっきゃと応える声がありました。
「あらあら、起きちゃったのね」
 美晴が「よいしょ」と揺すり上げた背中にいたのは巨大なてんとう虫――の格好をさせられたあさひでした。たすきに見えたのは、あさひをおんぶするための紐です。
「あー、こいつ笑ってるぞ」
「何だか嬉しそうね」
 一番下の妹を見つめるヒカルと蛍は笑顔ですが、麗の表情は厳しいまま。
「そんな、ウソでしょ? ……あなたは、あいつなんかにお母さまを取られたのよ。悔しくないの?」
 しかし、麗の脅しにもあさひは動じません。そんなことないよと言いたげに、満面の笑みで手足をばたばたさせます。
「何よ、あさひまであんなのの味方するの? みんな揃ってどうにかしてるわ!」
「いい加減にしなさい、麗」
 今度は強めに注意され、麗はようやく黙り込みました。ですが、その顔には不満の色がありありと浮かんでいます。
「だけど、そんなにガッカリしなくてもいいじゃん。麗ちゃんにだけ、スペシャルなおみやげ買ってくれるんでしょ?」
「――どうしてリカが知ってるの?」
 キッと睨みつけられて一瞬たじろぐ立夏でしたが、すぐに態勢を立て直します。
「さ、さっき、電話で話してるの聞いたヨ。キオスクでおみやげ買ってたら電車に間に合わなかったって。だから、きっと特別なヤツだと思うな。いいなぁー、リカもお兄ちゃんに特別扱いされたいなぁー」
「全然よくないわ。乗り遅れた上にモノで人の心を買おうなんて、そんなの人間として最低よ」
「そうかな? だって、麗ちゃんのことが好きじゃなかったらみんなと同じのにすると思うし、乗り遅れるぐらいに一生懸命選んでくれたってことだヨ。うん、きっと絶対にそうだネ!」
「仮にそうだとしても、私じゃなくて綿雪ちゃんのために買ってきてあげるべきよ。……氷柱姉さまもそう思うでしょ?」
 しかし、氷柱は相変わらずの上の空で一向に返事は返ってきません。皆の視線に気づいて向き直ったのは、それから十秒も経ってからでした。
「……何? どうしたの、麗。そんなに怖い顔して」
「男なんかに気遣いを求めるのは間違ってます!」
「悪いけど、何を言ってるのか私には全然わからないわ」
「まあ、要するにだな――」
 ヒカルの説明を聞き終えた氷柱は、ふんと鼻を鳴らしました。
「そう。あんなのにしては気が回るほうね。悪くないわ」
「つ、氷柱姉さままであの男の――」
 氷柱は立てた人差し指を自分の唇に当て、麗を黙らせました。
「それと、プレゼントは大人しく貰っておきなさい、麗」
「あの男はきっと、私に嫌がらせをしたいだけなのよ。それに、お土産は綿雪みたいな子にこそ必要なのに」
「……確かにそうね。今のユキに一番必要なのは他でもないアイツだから」
 氷柱は仰いだ天井の一点をじっと見つめます。
「本当ならすぐにでも入院させなきゃいけない熱なのに、あの子ったらわがまま言って……。悔しいけど、こればかりは私じゃどうにもならないわ」
「それならなおさら。一分一秒でも早く帰ってこれるように組んだのに、その乗り継ぎに遅れるなんて許せないわ」
「そうね、確かに許せない。たかが下僕の分際でユキはもちろん、ママの手まで煩わせるなんて。でも、仮に間に合っていたとしても、今日のこの天気じゃきっと同じことね。そうでしょ、美晴姉さん」
「残念ながら正解。この荒れ模様は全国的な規模だから、交通機関は明日も終日乱れる見通しよ」
「そう……」
 氷柱の素っ気ない返事を切っ掛けに、しばし沈黙が訪れました。
 窓の外は一面の銀世界。足跡で穴ぼこだらけの裏庭に、音もなくしんしんと雪が降り積もります。
 浴室のほうから聞こえるのは賑やかな歓声。そして、霙がページをめくる音。それに混じって、どどどっと屋根雪の滑り落ちる音がしました。
「――ユキ?!」
 氷柱が急にハッとなり、疾風のような勢いで慌しく部屋を出て行きます。美晴やヒカルたちが一様に表情を曇らせる中、立夏だけがきょとんとしていました。
「あれっ? 氷柱お姉ちゃん、あわててどうしたの?」
「どうしたもこうしたも、氷柱がああなるとしたら一つしかないだろ」とヒカル。しかし、立夏はまだ納得がいかない様子です。
「うん、それはリカもわかるヨ。今まで何ともなかったのに、急に走って行っちゃうから。……おやつ、いらないのかな」
「綿雪ちゃんの咳でも聞こえたのかな?」
「だとしたら、大した地獄耳ね。氷柱姉さまは」
 蛍と麗が互いに顔を見合わせました。それを横目に見た立夏が「そうだ!」と、おもむろに手を上げます。
「だったら、リカが氷柱ちゃんの分のおやつを持っていってあげるネ。……それと、ついでに綿雪ちゃんの分も」
「とか言ってオマエ、綿雪の分を食べるつもりだな?」
 ヒカルに絡まれ、立夏が露骨に動揺してみせます。
「ええっ? そっ、そそそそんなことリカはしないヨ? ホントにホントだヨ?」
「今の綿雪にそんな食欲あるわけないじゃないの。常識的に考えて」
「そうだよ。お粥を作っても、一口か二口がやっとなのに」
 美晴と蛍に二人掛かりで責められてしゅんとなる立夏でしたが、やはり諦め切れないようです。身のほど知らずにも、美晴へ食って掛かります。
「それじゃあ、リカたちの分はどうなるの? 美晴お姉ちゃんの言うこと聞いていてあげてるんだから、いじわるなんかしないで今すぐちょうだい!」
「うーん、どうしよっかなぁ……」
 腕組みをした美晴はさらに首をかしげ、わざとらしいポーズで悩んでみせます。
「だいたい、みんなして私の話を聞いてないのよねー。少なーいお小遣いの中から自腹で買ってきたのにそんなぞんざいな扱いされるなんて、いくら何でもちょっと酷すぎると思わない?」
「思わない」とバッサリ切り捨てるヒカル。「だいたい、美晴姉の動機が不純なんだって。……本当ならちょうどこの時間に帰ってくるはずだったんだろ?」
「どういうこと? ヒカルお姉ちゃん」
「あー、つまりだな……」
 ヒカルが蛍に向き直ります。
「二人が帰ってくるタイミングに『みんなー、風邪には注意しましょうねー』ってお天気予報やってるところをぶつけて『ああ、美晴姉さんってすごく妹思いな人でボクとっても胸キュンです』ってアイツに思わせようと考えた、美晴姉なりの策略ってこと」
「へぇー、そうだったんだ」
 蛍だけは納得してうんうんとうなずくのですが、他の姉妹たちは軒並みじとっとした目つきで美晴を見つめました。さすがの美晴もこれには少したじろいで、愛想笑いを浮かべます。
「それにしても、100%まるっとバレバレだったとはね……」
 しかし、本気で悔しがっているわけではなく、むしろ、どこか嬉しそうにさえ見えます。
「当ったり前だって」
 ヒカルがどうだとばかりに胸を張りました。
「こっちは、生まれてからずっと美晴姉の妹をやってるからな。それぐらいお見通しだって」
「ホタもずっと妹だけど、全然気がつかなかったよ」
「あ、リカもリカも」
「……こんなのが私のお姉ちゃんだなんて」
 すっかり利用された形の麗は、当然のように頬をふくらませています。
「でも、わざわざこんなことしなくても、美晴お姉ちゃんは美晴お姉ちゃんってだけで、お兄ちゃんにアピールできてると思うんだけどな」
 蛍の疑問に再びヒカルが答えます。
「確かにそうだけど、ほら、アイツってチビどもに大人気だろ? おかげで美晴姉の予定と違って全然構ってもらえてないから、それでこんな小細工で気を惹こうとしたってわけ。まさか、一番のお姉ちゃんだからっていう理由で強引に奪うわけにもいかないからな」
「そうそう。美晴お姉ちゃんって結構いばりんぼだから、お兄ちゃんとラブラブなところを見せつけて、リカたちに自慢したいんだよネ」
「でも、そんな簡単にいかないと思うよ。ホタがお兄ちゃんのお世話をしようと思っても、春風ちゃんにいつもいいところ取られちゃうし。美晴お姉ちゃんは帰ってくるのが一番遅いから、ホタよりもずっと難しいんじゃないかな」
 すっかり言われたい放題の美晴は、冷蔵庫をちらっと振り返り見ました。
「……生ものの返品って受けつけてくれるかしら」
「ちょっと、美晴姉っ!」
 美晴の何気ない一言を皮切りに、姉妹の間で言い争いが始まります。美晴と対決するのは、ヒカル、蛍、立夏の三人。
 そんな姉たちを見つめる麗の表情は複雑です。
「……もうっ、一体何なのよ」
 麗は話の輪からひとり外れ、テーブルの端へ歩きだします。
「みんなしてあんなのに夢中になって……バカじゃないの?」
 そして、暖房から遠く、一番目立たない位置へ座っていた妹に語り掛けました。
「ねぇ、あなたもそう思うでしょ。吹雪ちゃん。……吹雪ちゃん? ねぇ、ちょっと、しっかりして。だ、誰か、氷持ってきて! 吹雪ちゃんがまた――」
 
 
 
 真っ先に吹雪の目に入ってきたのは、心配そうに歪んだ麗の顔でした。
「……気がついた?」
 麗のその後ろには、さらに姉たちの顔が並んでいます。皆の視線がむず痒くて身じろぎすると、額から冷却パックがずり落ちてきました。背中には木の硬い感触。過熱で意識を失っていたらしいのですが、それほどひどくはなかったらしく、椅子に座らされたままで手当てを受けたようです。
「……いつもすみません、麗姉」
 自分でも思っていた以上に、しっかりした声が出ました。
 それで安心したのか、麗を除く姉たちはぞろぞろと元の場所へ戻っていきます。それぐらいに、吹雪の失神は日常茶飯事なのです。
 残った麗が、膝を曲げて吹雪と目線を合わせました。
「ほら、腕上げて」
 言いながら、手にした冷却パックを脇の下に押し当ててきます。動脈が多く走っている箇所なので、冷却効果は抜群です。脇を締めてパックを挟むと、体温がぐんぐん下がっていくのが実感できます。
「気分はどう? 大丈夫?」
「ええ、はい。大体は」
「大体?」
「多少ですが、喉が渇きまし――」
 言い終えるかしないうちに、吹雪の目の前へグラスが差し出されます。氷の浮かんだアイスミルクです。吹雪は黙って、露まみれのグラスを受け取りました。
「濡れてて滑りやすいから気をつけて。……コップ、私が拭いてあげようか? それとも、ストロー?」
 かぶりを振ってその両方ともを断ると、グラスに少し口をつけます。
「これは……私の飲みかけに氷を継ぎ足したものですね」
「ごめんね。やっぱり薄かった?」
「いえ、これはこれで。冷たくて気持ちがよければ、今はどんなものでも」
 今にも新しい牛乳を持ってきそうな気配なので、吹雪は慌ててフォローを入れました。グラスの中で氷がパチッと音を立てて弾けます。
 吹雪が牛乳を飲むさまを何気なく見つめていた麗でしたが、おもむろに、はぁっと疲れきったため息を吐き出しました。
「私もだけど、吹雪ちゃんも可哀想ね」
「何が、ですか」
「美晴姉さまの天気予報」
 吹雪の隣に座り、テーブルへ頬杖をつきます。
「大人しく話を聞いてくれるからっていう理由で強引に出させられて、おまけにこんなサウナみたいな室温だもの。……ねぇ、本当に大丈夫? エアコンの設定、下げてこよっか?」
「個人的にはそのほうが助かるのですが、今日はこのままにしておきましょう」
「どうして? 無理しなくていいのよ?」
「この寒さですから、妹たちが風邪を引いてはいけません。お風呂上がりの洗い髪ほど身体を冷やすものはありませんし、綿雪が寝込んでいるこの状況下ではなおさらです」
「でも、この暑さだとまた気絶しちゃうわ」
「そんなに心配しないでください。この部屋を出さえすれば、冷蔵庫並みの寒さが待ち構えていますから」
「あなたがそこまで言うなら、うん、いいけれど……」
 未練がましげに言ったと思うと、一転して割り切った口調で「今度は反対側」と冷却パックのあるほうの腕を上げさせ、逆の脇に挟み直します。
 いつもはここまで世話焼きではない麗ですし、吹雪も他人に依存するタイプではないのですが、今に限っては事情が別です。『彼』という存在を巡って何かと孤立しがちな麗の胸のうちを鑑みれば、ここは彼女の気の済むようにやらせてあげるべき――吹雪はそう考えたのです。
 当の吹雪はといえば、彼に対しては消極的な態度を取り続けています。自ら近づいて話し掛けるような真似はせず、また、彼について姉や妹たちと語らうこともほとんどありません。一度、麗にそれとなく訊いたきりです。
 それには、人肌程度の温もりでも失神してしまうという身体的な特徴も理由の一つでしたが、それ以上に吹雪を思いとどまらせていたのは、彼がこの家にもたらした事象の多さと大きさによるものでした。
 彼がやって来てからというもの、この家の様相はまさに一変しました。
 お風呂上がりに下着だけで闊歩する姿は見られなくなり、(以前から少なかったのですが)ジャージなどといったラフな格好はこれを契機に絶滅しました。食事にしても、彼の好みを探るという名目で奇抜な献立が多く登場するようになり、各々が好き勝手に喋っていた夕食の時間は、彼と会話を交わす機会を得ようとするあまり、平均して三割近く間延びするようになりました。
 吹雪自身はそのいずれに対してもあてはまらなかったのですが、周囲が一斉に変化したのでは影響を受けないはずがありません。マイペースな人間にとって、自分のペースを崩されるのは苦痛であり、不安の種でもあります。明らかに以前と異なる姉妹たち。下は遊び相手が増えたとはしゃぎ回り、上は好意を伝えようと躍起になり、麗と氷柱は嫌悪感を露わに食って掛かり――
 この先、私たち家族はどうなってしまうのか。どこへ行き着こうとしているのか。
『好き』や『嫌い』といった感情ではなく、それが、彼から吹雪を遠ざけている最も大きな理由でした。
 麗は、向こう側で盛り上がっている姉たちに顔を背けると、テーブルに突っ伏して長々とため息をつきました。
「はぁ……どうして、みんなしてあんなのに熱を上げてるのかしら。私にはぜんっぜん理解できないわ。家族が増えるなんて毎年のことなのに」
「それはやはり、彼が男性であるという点に尽きると思います。それまでの私たちは全員女性でしたから、彼は明らかな異分子です。過剰とも思える反応は当然と言うべきではないでしょうか」
「でも、ただの兄弟よ? 気に入られたいとか、好かれたいとか……そういうのは何だかおかしいわ。転校生とは違うんだから」
「私はまだ、転校生を迎え入れた経験がないのでよくわかりませんが……そういうものでしょうか」
「そういうものよ」
 麗はようやく少し微笑みました。
「来る、っていう予告はあったりなかったりするけど、どちらにしても転校生の噂でクラスは持ちきりね。特に異性だった場合は。といっても、話題の中心は格好よさとか可愛さとか、そんなのばかり」
「容姿が主な話題になるということは、転入が予告される場合は前もって写真を掲示するのですか」
「まさか。名前だって教えてくれないのよ。よくて性別。登校したら机が増えてて、それでようやくわかったりとか」
 そう言って、麗はくすくすと笑います。吹雪が年齢相応の顔を見せたせいなのか、あるいは年上としての存在感を示せたせいなのか。きっと、その両方ともなのでしょう。
「名前はおろか、外見のわからない相手で盛り上がれるというのは、よほどに想像力を刺激される存在なのですね、転校生は。いずれ来る邂逅の時が、今から少し楽しみです」
「でも、吹雪ちゃんにはきっとつまらないと思うわ」
「どうしてですか」
 吹雪が問い返すと、麗は急に困った風な顔になって口ごもりました。
「だって……吹雪ちゃんは、みんなと違うみたいだから」
 そして話の盛り上がっている方向をちらっと見るので、何を言わんとしているのか理解できました。耳を澄ませてみると、姉たちの話題の中心はやはり『彼』です。
「自分からは話し掛けてないみたいだけど、別に嫌いってわけじゃないんでしょ? あの男」
「そうですね。現時点ではあくまで観察の対象です」
「どうして?」
「今はまだ、直接的に接触する段階ではありませんから」
「そう言うと思った。でも、転校生もあの男も大して変わらないわ」
 吹雪は少しだけ考えてから、小さくうなずきました。
「どちらも、共同生活における秩序を一時的に乱す存在ではありますが……麗姉は、転校生が嫌いなのですか?」
「そんなつまらない事で騒ぐみんなが、ね」
 どう答えていいのか判断に迷い、吹雪はあいまいにうなずき返しました。
 同じ嫌兄派の氷柱の場合は『彼』という一個人に対してのものなのでまだ理解しやすいのですが、麗がどうしてそこまで男性全般を嫌うのか、吹雪はもちろん、誰にもよくわからないのです。彼に対して激しい敵意を示したかと思えば、運転士や車掌には一転して憧れの眼差しを向け、何かの拍子に話し掛けられようものなら普段より1オクターブは高い声で受け答えたり……。
「あなたは……吹雪ちゃんはどうなの?」
「私は、その時になってみなければわからないと思います」
「ううん、転校生じゃなくて。吹雪ちゃんはどう思ってるの? 今のこの空気は」
 言葉に合わせて麗の目がすっと細くなりました。姉妹の中でも一二を争う美形と言われているだけに、ひたっと睨まれると迫力があります。テーブルの上でゆるく波打つ黒髪は、鱗も艶やかな蛇のよう。
「……まるで、私を脅しているようですね」
「私は氷柱ちゃんとは違うわ。誰かに泣いてぐずられても私の態度は同じ。……美晴姉さまたちに従っているのは、そのほうが都合がいいからよ。勘違いしないで」
 と、まるで取りつく島がありません。男嫌いにも関わらず、男性が圧倒的に多い鉄道趣味の世界に足を踏み入れているのですから、意思の強さも姉妹の中では抜きん出ています。中途半端な理由では納得してもらえないでしょう。
 そこで吹雪は、話題を切り替えることにしました。
「そういえば、麗姉のために彼がお土産を買ってくるそうですが」
「ど、どうして吹雪ちゃんが知ってるの?!」
 麗は顔を真っ赤に染めて椅子から飛び上がりました。予想以上の効き目に吹雪のほうが戸惑ってしまいます。
「……そんなに変でしょうか」
「だって吹雪ちゃん、さっきまで気絶してたはずじゃ……まさか、あれはお芝居だったの?」
「私はそこまで器用ではありません、麗姉」
 疑惑の眼差しに耐えながら、吹雪はあくまで冷静に説明します。
「確かに意識は失っていましたが、感覚器から入力された情報がリアルタイムに処理できていなかっただけで、その間に私の目や耳が捉えた出来事は読み出すことが可能です」
「つまり、記憶を巻き戻したってことね」
 吹雪が無言でうなずき返すと、麗は呆れ顔になってかぶりを振りました。
「まるで人間ビデオね。いつも言ってる気がするけど、吹雪ちゃんってば本当に変わって――」
「それより、彼はどのようなものを麗姉のために選んだのですか。教えてください」
「どうしてそんなことを知りたがるの? 全然大したものじゃないんだから」
「言葉を返すようですが、大したものでなければ隠す必要はないと思われます。それに、私にとっては大変貴重な情報です。彼という人物を探る上で」
 若干とはいえ、麗を頼ったのが効いたのでしょうか。相変わらずの渋い表情ですが、麗は渋々と口を開きました。
「……プラレール。681系2000番台」
「それは確か――」
 吹雪は思わず首をかしげました。
「麗姉の所持している車両とは重複していないようですが、どこか不満でも」
「不満? 不満どころじゃないわ。だって、ちっとも美しくない……待って、誤解しないで。車体そのものじゃなくて、既存の車両との整合性の話」
 麗はそこで話を切ると、指折り数えながら形式番号を挙げていきます。それらがどのような外見でどのようなスペックを備えているのか、記憶力に優れた吹雪には容易く思い出せました。
「私の覚え違いでなければ、いずれも関東近郊の通勤型車両ばかりですね」
「その通り。さすがは吹雪ちゃんね……そう、だからこそ悩んでるの。681系はれっきとした特急列車。そんな子を一緒に走らせるなんて、やっぱり美しくないと思わない?」
「……模型なのですから、あまり突き詰めて考えるのもどうかと。それを言い出せば、JRと私鉄の車両を同一路線上で走らせている現状から改善する必要が生まれますので」
「ああ、もうっ、本当に悩ましいったらないわ」
 麗は再びテーブルに突っ伏し、頭を抱え込みます。
「681系の2000番台自体に全然罪はないのよ。在来線最速の時速160kmで走れる子にスノーラビットエクスプレスなんて愛称はちょっとどうかと思うけど、白地の車体にクリムゾンレッドの組み合わせはなかなか悪くないし、おまけに専用のロゴマークまで用意されてて……プラレールって首都圏の車両ばかりラインナップされてるけど、そんな中にこれだけが入ってるのも何となくわかる気がするわ」
 麗の本当の悩みはもっと別のところにあるような気がするのですが、それを指摘する理由が見当たらないので、とりあえずは言わずにおくことにしました。
「でしたら、なおさら受け取るべきではないでしょうか。麗姉以上にそれの価値を見出せる人間は、私たちの中にはいませんから」
「そんなのわかってるわ!」
 麗が、ばん、とテーブルを叩きながら立ち上がりました。すさまじい剣幕の麗に、周囲がしんと静まり返ります。吹雪だけではなく、向こうで盛り上がっていた姉妹たちも。ですが、麗はそれに気づきません。
「でも、今さらどんな顔して受け取ればいいの?! 今まで散々邪険にしておいて、自分好みのプレゼントだからって急に尻尾を振れっていうの? そんな恥ずかしい真似、私にできるわけ――」
 奇妙な沈黙に気づいた麗が急に口を閉ざします。恐る恐る背後を振り返った麗を待ち受けていたのは、にやにや笑いを浮かべた姉たちの顔。
「ちっ、違うの、それは誤解よっ?! 私、プラレールぐらいで愛想を良くするほど安い人間じゃないんだから」
 麗の言い訳に、姉たちのにやにや笑いが一層深まります。
「へぇぇ、プラレールか。よかったなぁ、麗」
「前からコレクションしてたんだよネ? いいなー、うらやましいなー」
「よかったね。これで、今月は乗り鉄……だっけ、に専念できるね」
「妹の好みをズバリ的中させるなんて、あの子ったら、こんな短い間にずいぶんお兄ちゃんらしくなったのね」
 麗は顔を真っ赤に染めてぷるぷると震えていましたが、「知らないっ!」と鋭い声を残すと、脱兎のごとく部屋を出て行きました。
「あっ、ちょっと待って、麗ちゃん」
 蛍が後を追い掛けて行き、立夏が開いたままのドアを閉じると、美晴とヒカルが思わず顔を見合わせました。
「あーあ、怒らせちゃったぞ。どうするんだよ、美晴姉」
「悪いのはあなたもでしょ、ヒカル」
「まあね。だけど、これはなかなか難しい問題だな」
 ヒカルが笑いながら肩を竦めます。
「プレゼントを取るか、己のプライドを取るか。なぁ、美晴姉はどっちだと思う?」
「それはもちろん考え中よ」
「だからどっちだよ」
「私じゃなくてあの子。どんな言い訳して受け取ればいいのか、それを必死に考えてる最中よ」
 確かに難しいところですね、と声に出さずにつぶやくと、吹雪はアイスミルクに口をつけました。氷はいつの間にか溶けてなくなり、さっきより一段と薄味になっています。小脇に挟んでいた冷却パックも常温に戻っていて、このまま居座ろうものなら再度の失神は免れえないでしょう。美晴の気象解説が再開される見通しはなく、その意味でも潮時です。
 にも関わらず、吹雪はなぜか、この場を立ち去りがたい気持ちでいました。
 今すぐに自分の部屋へ戻れば麗に絡まれる可能性が大であり、それならば、この部屋に留まって間接的にでも彼という人間を探るべきではないか――吹雪はそう考えたのです。
 彼と姉妹たちの関係は、ハブとスポークのそれ、もしくはクロスワードパズルに例えられるかもしれません。複数のスポークの先にそれらを束ねるハブがあるように。タテとヨコのカギを埋めていくうちに本当の答えが浮かび上がってくるように。姉たちが噂し、語り合う中に、彼を知るための手掛かりはきっとあるはずです。
 そして、彼に対して抱く漠然とした感情の正体も。
 ――私はなぜ、こんなにもあの人のことが気になるのでしょうか。
 吹雪が今まで生きてきた中で、ここまで感情を掻き立てられる存在は初めてです。長く生き別れていた肉親。男のきょうだい。客観的に表せばたったのそれだけ。冷静に落ち着いて考えればすぐにわかるはずなのに、なぜかそれがうまくいかないのです。
 試みに彼の顔を思い浮かべた途端、吹雪の意識がふっと遠のきました。傾いた上半身を立て直してから額に手を当てると、体温が明らかに上昇の傾向をみせています。
「……どうも、変ですね。最近の私は」
 椅子から降り立った吹雪は、ややおぼつかない足取りでリビングへ向かいます。ダイニングと続き間で室温は若干低い程度ですが、吹雪の目的地はさらにその奥にありました。カーテンで覆われたガラス戸。さらにその向こう側は、一面の銀世界と化した裏庭です。不規則に連なった小さな足跡たちはクレーターを作り、降り続ける雪に埋もれているおかげで、月面写真にしては柔らかく見えます。
 吹雪はカーテンの隙間から頭だけを突き出すと、ほとんど氷と化したガラスにぺたりと頬をつけました。
「はぁ……」
 冷気のもたらす心地よさに、思わずため息が漏れて出ます。ガラスがぬるくなると顔を動かして別の場所に。またぬるくなると今度は反対の頬で違う場所に。冷気の源は鈍色の夜。グラスに浮かべた氷や冷却パックとは訳が違います。
 綿毛を思わせる雪がしんしんと音もなく降り積もり、時おり吹き抜けるゆるい風にあおられ、まるで羽を持つ生き物のようにゆったりと舞い飛びます。
「北国に生息する雪虫とは、このように飛ぶのでしょうか……」
 吐く息で曇るガラスを拭き取った吹雪は、そこに霙の顔が照り返しで映っているのに気づきました。
 霙は相変わらずの本の虫で、ほぼ一定の間隔で機械的にページをめくっています。すぐ近くで繰り広げられている会話に対しても何の反応も見せません。
「――ところで、お兄ちゃんがお風呂に入る順番ってどうなったの?」
「そういえば、まだちゃんと決めてないんだっけ。一人で入らせてあげたいけど、こんなに大勢いると後がつっかえちゃうし」
「じゃあ、リカがいっしょに入っちゃえばいいんだヨ。わぉ、ナイスアイディア!」
「おお、確かにナイスなアイディア……ってバカかオマエは。それができないからこうやって悩んでるんじゃないか」
「小さい子たちと一緒に入ってもらうっていうのはどう? お兄ちゃんはどうかわからないけど、小さい子たちは喜ぶから一石二鳥だと思うよ」
「そんなにうまくいくわけないって。今まで一人っ子だったヤツがいきなり小さいのを風呂に入れるって、そりゃ無理だろ」
「だったら、実践的かつ実戦的に教えてあげればいいのよ。もちろん、手取り足取りおまけに腰取りね」
「あーっ! 美晴お姉ちゃん、またヘンなこと考えてるーっ!」
 遠く離れた吹雪にも聞こえているのですから、音源から席を二つ三つ空けただけの霙にはかなり騒々しいはずです。しかし霙は、やはり微動だにしません。
「……どうしてなのでしょうか」
 吐息で白く濁った姉を見つめながら、吹雪はふと考えを巡らせます。
 静謐と孤独とを好んでいるらしい霙にとって、この環境は決して望ましいものではないはずです。先の一連の騒ぎにしても、霙はついに一言も喋りませんでしたし、意外な甘党という一面からあくまでデザート狙いという説も浮かびますが、それだけが理由とは思えません。直接訊ねるという選択肢は、普段の霙の物言いを考慮するとあまり得策ではない気がします。
 当の吹雪自身はといえば、もちろんデザートが目的ではありません。どちらかといえば『二桁代』と一緒にお風呂へ入れられるのを防ぐためでしたし、美晴からの呼び掛けも、むしろそういった面を強調したものでした。麗には「可哀想」と同情されたのですが、実のところはそうでもなかったのです。
 悩んで眉を寄せる吹雪とは対照的に、すっきりとあくまで涼しげな霙の顔。間近なガラスに映っているおかげで、近眼の吹雪の目にもいつも以上によく見えます。
 そういえば、初めて彼と会ったときもよく澄まし顔をしていたのを思い出しました。
 他の姉や妹たちが喜怒を露わにしている中、霙だけは普段と全く変わらない口調で終末論を語り、最後に「共に滅びよう」などと告げては居並ぶ全員を唖然とさせたのです。
「あなたは一体、何を考えて――」
 何の前触れもなくふっと意識が遠ざかり、吹雪は慌てて顔を上げました。失神する間際に感じる、血の気が引くような感覚とは違います。恐らくは眠気。過熱によって蓄積した疲労が、今になって襲い掛かってきているのでしょう。
 おまけに室内の熱気と隙間から吹き込む寒気の混ざり方が絶妙で、吹雪にとっては非常に心地よい涼しさです。試しに目を閉じてみると、一秒ごとに足元が――意識が沈んでいくのがわかります。本当はソファーにでも横たわるべきなのでしょうが、この心地よさには勝てません。
 ――少しぐらいなら構いませんよね。
 その油断が、風呂上がりの人津波から逃れるタイミングを失わせました。
 どどどっ、という地響きに混ざって聞こえてくるのは、困惑しきった春風と小雨の声。髪、乾かす、という単語が暗闇の中に響きます。
 そして、雛鳥のように甲高いさえずりがいくつもいくつも。
「これがデザート? マリーはケーキがよかったのに」
「でも、れいぞうこに入ってたから、つめたくてふわふわでおいしそう」
「だけど、おふろから出たばっかりだからアイスがいいのに」
「あ、そうだ! お外に出しておいたらカチカチに凍って、アイスになるかもしれないよ」
「ふむ、それはおもしろそうじゃ。試す価値はありそうじゃの」
 不穏な空気にハッと目覚める吹雪ですが、時すでに遅し。吹雪の周囲は人垣によってすっかり取り囲まれていました。
「吹雪ちゃん、こんなところで何してるの?」
「あっ、また雪がふってきてるよ」
「ほう。そちの真似をすると、冷たくて気持ちがいいのう」
「そんなことより、お外に出なきゃアイスにならないよ」
 カーテンが引き開けられ、人垣が一層狭まり、悲鳴を上げる暇もなくガラス戸との間で板挟みになってしまいました。目の前が白く曇って見えるのは、湯気のせいばかりではなさそうです。背中は熱いのに、胸はひんやり。極端な温度差に圧迫感が加わり、どんどん気分が悪くなります。
「あれっ? 開かないよ」
「カギがかかってるから外さなきゃ」
「ダ、ダメです。外へ出ては――」
 何とかしなければと思うのですが、ぎゅうぎゅうに押しつぶされては満足に声を上げることもできません。それどころか意識を保つことすら難しくなってきました。顔から血の気が引いていくのが自分でもわかります。普段なら吹雪の変調にちゃんと気づいてくれる姉妹たちも、この混乱しきった場で自発的に引いてくれるとは思えません。要するに、万事休すです。
 その時、吹雪の目の前にふっと影が差しました。
 ――ああ、また失神してしまのですね。
 諦めの心境でそう思っていると、なぜか身体の浮き上がる感覚がします。半ば自動的に下を向いた吹雪は、自分のつま先の向こうにいくつもの驚く顔を見つけ、そのまま気を失ってしまいました。





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