凍鉄の夜更け(下) 読み物TOP

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 吹雪は夢を見ていました。誰もいない、無人の電車に乗っている夢です。
 今、目の前に広がっている光景を夢だと断じたのには理由があります。片側に6ドアもある通勤用の車体なのに、座席は特急などで見られるリクライニングシートだったのです。おまけに、天井にはレトロなデザインの扇風機。その両側では吊り革が揺れていて、つまりは現実にあり得ない車両なのです。
 それにしても、と車窓に広がる暗闇を見つめながら吹雪は思います。こんな夢を見ているということは、再び麗姉の手を焼かせてしまったのでしょうか。
 普段であれば妹たちが抱き上げられて遠ざけられていくのに、先の感覚は明らかにその逆でした。しかし、自分が持ち上げられたとするならば、麗以外の誰かの仕業です。小学一年生の吹雪を軽々と持ち上げられる人物はかなり限られているのですが、物心ついてからというもの、そのような扱いをされた覚えはありません。
「……これは一体、どういうことなのでしょうか」
 シートは妙に柔らかく、身じろぎしただけで身体がずぶずぶと沈んでいきます。やはり夢の世界です。あまり電車に乗った経験がない吹雪ですが、座席がこんなに柔らかくないことぐらいは知っています。
「いつもとは、何かが違いますね」
 ――そういえば、失神した際に夢を見るのは初めてのような気が。
 新たな事実に気がついたその時、妙に高い音色の警笛がけたたましく鳴り響きました。車体ごとびりびりと震わせる大音量に驚いた吹雪は弾みで飛び起き、そして――目が覚めました。
 吹雪が身じろぎすると、身体の下でじゃらっと軽い音がしました。ベッドではなく、ビーズクッションに寝かされていたようです。
「……ここは?」
 目をこすりつつ周囲を確かめると、吹雪のすぐ近くに赤々と燃え盛るストーブがありました。その上に乗せられたヤカンからは、笛のような鋭い音を立てながら蒸気が吹き出ています。警笛の正体は恐らくこれだったのでしょう。起き抜け直後のぼんやりした頭で湯気を見つめていると、視界の端から伸びてきた手がヤカンを外しました。
「気分はどうだ」
 あまり抑揚のない低い声。その声の主は吹雪を見ようともせず、ベッド脇のスツールに腰掛けたままで、サイドテーブルのティーポットにヤカンのお湯を注ぎ始めます。
「大丈夫か? いつもとオマエの様子が違うと、麗が心配していた」
 吹雪は、たちまち広がっていくハーブの芳香に鼻をうごめかせながら答えました。
「ええ、大丈夫です……が」
「……が、どうした?」
「夢を見ていました。気を失っていたのにも関わらず、です」
 その一言でハーブティーを淹れる動きが止まりました。霙は初めて吹雪を見返し「ほう」と返事をします。
「それはなかなか面白い体験をしたな」
「ええ、私もそう思います。しかも、電車に乗っている夢でした。現実にはあり得ないキメラのような車体で、麗姉が見たら確実に怒るでしょう」
「そうか。ならば、この場限りの秘密にしておくがいい。オマエが可愛いあまり、真璃や虹子たちはかなり怖い目に遭ったらしいからな」
 小さな妹たちに向かって怒鳴り散らす姿が容易に思い浮かび、吹雪は少しぶっきらぼうになって言いました。
「麗姉は大げさです。私が倒れるなんて、そう珍しいことではないのに」
「まあ、そう言うな」
 唇の端を吊り上げて笑った霙は、ポットの中身をカップに注ぎ、一口すすって「ふむ」と眉を顰めます。
「心配される間が花というものだ。そのうち、年相応に放置される時が……いや、吹雪はそうでもないか。役得だな。オマエには、姉が大勢いるのだから」
「霙姉?」
「気にするな。ただの独り言だ」
 そう言ってかぶりを振る霙でしたが、やや曇りがちの声と俯き加減な顔のおかげで、何か訳ありのように思えてしまいます。
 吹雪と霙は、それほど親しい間柄ではありません。かといって特に険悪というわけではなく、互いに暇さえあれば本を読んでいる性格ゆえに、日ごろから接触がないだけなのです。本を借りに霙の部屋を訪れることはあっても、用件が済んでしまえばそれっきり。自分がされて嫌なことは他人にもするな、という人として基本的なルールに従えば、部屋の扉をノックすることさえも憚ってしまいます。
 カップをもう一つ用意した霙はそちらにもハーブティーを入れると、傍らの水差しを引き寄せて中身を注ぎ足しました。
「レモングラスとローズマリーのブレンドだ」
 そう言ってすっくと立ち上がり、座ったままの吹雪へ無造作にカップを突き出します。
「飲め。少しは寝起きの不快感も晴れるだろう」
 姉妹の中では最も身長が高く、見上げるとちょっとした巨人のよう。それで、吹雪の脳裏にふと閃くものがありました。
「先ほど、私を助けてくれたのはどうしてですか?」
「オマエが私を見ていたからな」
 当たり前のように霙が言うので、吹雪は何を言われているのか一瞬わかりませんでした。
「……ガラスの照り返しを、ほんの十秒ほど見つめていただけなのですが」
「それだけ見つめられれば十分だ。第一、オマエのように近眼ではないからな。……何をしている。早く受け取れ」
 ぐいっと突き出されたカップを取りながら、吹雪は「どうしてですか?」ともう一度問い掛けました。
「見られていたから、という些細な事が動機だとは思えません。あなたと私とはそこまで親しい関係ではありませんでしたし、助けてもらったのは今回が初めてです。しかも、海晴姉やヒカル姉を差し置いて。方法も違います。妹たちを物理的に引き離すのではなく、私自身を抱え上げて隔離するという手法は異例です。私の記憶にありません」
 霙は少し顎を上げて、わずかに吹雪を見下ろしました。
「では、あのまま放置されていたほうが良かったのか? それとも、私以外の誰かに助けて欲しかったのか?」
「いいえ、そういうつもりで言ったのではありません。助けてくれたことにはとても感謝していますし、霙姉が気を悪くしたのならあやまります」
「ああ、わかっている。私のほうこそ、オマエの揚げ足を取って悪かったな」
 さらりと流した霙は、再びスツールに腰掛けて足を組みました。
「要は、普段の私とのギャップが気になるのだろう? いつも部屋に閉じ篭っていて、姿を見せたかと思えば誰とも言葉を交わさぬままに本を読み耽る。人前に出ている意味がないのに今日に限ってダイニングに居座り続けるということは、さては海晴姉の買ってきたデザートが目当てなのだろうか――と、このような感じだろうな」
「……さすがは霙姉ですね」
「世辞はいい。それより、適温を逃す前に飲んだらどうだ。オマエの嫌いな匂いではなかったと思うが」
「ええ、はい。そうですね」
 釈然としないものを感じながらも、吹雪はカップの中身を一口すすりました。ハーブティーは熱くもなければ冷たくもなく、吹雪にはちょうどいいぬるさです。さわやかなレモンの芳香の中にスパイシーなローズマリーの香りが広がり、おいしさに誘われるまま、吹雪はそれを一気に飲み干してしまいました。
「いい飲みっぷりだな」
 霙がティーポットを掲げてみせます。
「もう一杯、どうだ?」
 しかし吹雪は、ふるふると首を振って断りました。レモンの強烈な香りが今ごろになってやってきたのです。息苦しさに思わず咳き込んでしまう吹雪ですが、それとは別にもう一つ、咳が聞こえてきました。
「大丈夫か」
 やさしく気遣う霙の声は、吹雪ではなく、ベッドのほうへ向けられています。霙の背中に遮られ、吹雪の位置からベッドの主は見えませんが、程なくして聞こえてきた小さな返事で、ここが氷柱と綿雪の部屋だとようやく気づきました。
「……氷柱お姉ちゃんは?」
「今は風呂に入っている」
「お兄ちゃんは?」
「……まだだ」
「そう……」
 仕草でも答えたのか、布団のざわざわと動く音がしました。
「……いつもとちがう匂い。いい匂いね」
「オマエには強すぎる。眠れなくなるぞ」
「じゃあ、うんとうすくして。それならいいでしょう?」
「……仕方がないな。氷柱には私が怒られておこう」
「ごめんなさい」
 気にするなと言いながら、霙はあっという間にハーブティーを淹れ、ベッドの主を助け起こします。その拍子に、ゆるくウェーブの掛かった髪がちらっと見えました。
「熱いぞ。気をつけろ」
「うん……」
 綿雪に飲ませている傍ら、吹雪を振り返り見た霙が目配せをしました。唐突でしたが、霙が何を言わんとしているのかおおよその意図は読み取れます。
「……どうしたの? ユキのほかに、誰かいるの?」
「いや……オマエの気のせいだ。それより、もう横になったほうがいい」
 慣れた動作で横たわらせると、霙は甲斐甲斐しく布団を掛け直しました。
「今は眠れ。次に目覚めたときには、彼が……オマエのお兄ちゃんが、私の代わりにここにいる。だから、今は眠れ」
「……うん。ありがとう、霙お姉ちゃん」
 途中何度か咳が聞こえましたがそれも次第に治まり、ややもすると規則正しい寝息へと変わりました。
「すまなかったな、吹雪」
 吹雪へ向き直りながら、霙が謝ります。
「綿雪に余計な気を使わせるわけにはいかないからな」
 そうですね、と相槌を打った吹雪は、空になったティーカップにふと目を落としました。さっき、ハーブティーを水で割ってから出してくれたのは、熱いものが苦手な自分のためだと気がついたのです。温度はもちろん、味もちょうどいい濃さ。
「……やさしいのですね、霙姉は」
「急に何を言うのかと思えば」
 霙は、ふふん、と鼻で笑い、肩をすくめてみせました。
「こう見えても二番目の姉だからな。それとも、私がただの居候だとでも思っていたのか?」
「いいえ、そんなつもりでは」
 吹雪は慌てて首を振ります。
「ただ、霙姉のことを今まであまりにも知らなさすぎたと感じたので……」
 霙の向こうからは、すっかり安心しきった寝息が聞こえてきます。綿雪との会話を思い出す限り、霙による看病は一度や二度の出来事ではなさそうです。かなりの頻度で、あるいは、ほとんど日課として氷柱の代理を務めているに違いありません。
 先のヒカルの言葉を借りるなら、吹雪は生まれてからずっと霙の妹です。一つ屋根の下でずっと暮らしてきたのに、こんな一面があることに今まで気づきもしなかった――そんな私に、どうして彼のことがわかるのでしょうか。そこへ考えが及ぶと、自然に吹雪の頭がうつむいていきます。
「……まあ、気にするな」
 立ち上がって近づいた霙が、吹雪の頭をやんわりとなで回します。
「オマエはまだ幼い。自我が芽生えてから三年、いや、四年ほどか。その中から睡眠と学校に費やす時間を抜けば、オマエの自由時間は三分の一ぐらいになる。単純に姉妹の頭数で割ればほんの少しだ。そんなごくわずかな時間で真に他人を理解するのは難しい。至難の業といってもいい。例えば、そう……オマエは麗と仲がいいようだが、なぜあんなにも男性を毛嫌いしているのか、その理由を未だ知らずにいるはずだ」
「知っているのですか?」
 驚いて見上げると、霙は「ああ」と大仰にうなずきました。
「だが、私の口からは言えない。本人から直に聞くといい。時が満ちれば、やがては教えてくれるだろう」
「よくわかりませんが、今はまだ、それを言い出すタイミングではないということですか」
「極めてデリケートな話題だ。オマエが知るには早すぎると思っているのだろう。……麗だけではなく、私もそう考えているのだが」
「……そうですか」
 思わぬところで二人の繋がりを知り、なぜだか気が沈んでしまいます。
「霙姉は、麗姉と仲がいいのですね」
 吹雪の言葉で、霙の顔になぜか苦笑らしきものが広がります。
「これは珍しい」
 霙はくるりと踵を返すと、スツールに腰掛け、冷めたティーポットの中身を自分用のマグカップに移します。
「オマエでも、嫉妬することがあるのだな」
「そうではありません。私はただ、事実を確認したいだけです」
「事実ならオマエの目の前に広がっている。言ったはずだ。こう見えても二番目の姉だ、とね」
 自らの存在を示すように腕を広げた霙は、おもむろにベッドを振り返り見ます。
「ずっと昔……何年も前の、寒い冬の夜。こうしてベッドに横たわっていたのは、綿雪ではなく氷柱だった」
「氷柱姉が、ですか」
 霙は背中を向けたままでうなずき返しました。
「今の彼女からは想像もつかないだろうが、冬になると毎年のように熱を出してね。そう、ちょうど今のような感じで、看病は私の役目だった。というより、私が自ら望んだのだ」
 わずかに見える霙の口元がふっと緩みます。
「当時の私と氷柱は、今の麗とオマエの関係に似ていたといえるだろう。私は氷柱がかわいくて仕方がなかったのだ。なあ、考えてもみるがいい。氷柱が生まれるまで――氷柱が『氷柱』と名づけられるまで、私はずっと仲間外れだったのだ」
「名前が、ですね」
「もっとも、そう思い込んでいたのは私一人だけで、海晴姉たちは特に何も感じていなかったようだが」
 ミハル、ミゾレ、ハルカ、ヒカル、ホタル。
 本人が言うように、語感的に霙だけが浮き上がって感じられますし、漢字という面でも一人だけ寒々しいものが当てられています。
 霙はマグカップに軽く口をつけました。
「そんな氷柱も今では綿雪に首ったけなのだから、血は争えない……いや『字は争えない』とすべきかな」
 霙と氷柱と綿雪。しかし、十三女の綿雪の前には十二女の吹雪が入ります。
「ええ、はい。確かにそうですが……」
「わかっている。心配するな」
 吹雪へ向き直った霙の顔には笑みが浮かんでいました。
「まだ小さなオマエを沐浴させ、おしめを取り換え、子守唄を歌って寝かしつけたのはこの私。オマエが覚えていないだけだ、吹雪」
「そう、だったのですか?」
「ああ」
 霙はこくんとうなずきます。
「オマエもすぐに熱が出てしまう子で、それなりに手を焼かされた。綿雪の面倒も見るはずが手が足りなくなって、そこで氷柱が……というわけだ」
「……興味深い話ですね」
 吹雪は氷柱と綿雪を思い浮かべ、それとなく霙の顔をうかがいました。見た目のよく似ている氷柱と綿雪に対し、霙と吹雪との間では、外見的に共通する要素があまり見当たらないように感じられます。
「一つ、訊ねてもいいでしょうか」
「どうした。急に改まって」
「もしも私に、冬を感じさせない名前が当てられていたとしたら、先ほどの私はどうなっていましたか?」
「どういう意味だ?」
 霙が眉をひそめて聞き返します。
「答えをまだ聞いていません。どうして、私を救い出してくれたのか」
「ああ、そのことか」
 霙は組んでいた足を入れ替え、ふうむ、とため息をつきました。
「ただの気まぐれ、という答えでは納得してもらえないのだろうな」
「霙姉のやさしさや思いやりを疑うつもりはありません。ですが、普段の言動とはあまりにかけ離れた像を見せているので、それが私の戸惑いの原因になっています」
 言いながら吹雪は、どうして自分が助け出してくれた理由に拘っているのかに気づきました。霙も同じところに思い当たったらしく、急に神妙な顔つきになります。
「……なるほど。言われてみればその通りだな」
「教えてください、霙姉。あなたの取った行動と、あなたが普段から口にしている終末思想との間には大きな隔たりがあるように思われます。いずれ全てが滅びるのであれば、私たちがどうなろうと関係ないのではありませんか?」
「改めて問われると難しいな。さすがは吹雪だ」
 言葉を探しながら、霙はゆっくりと語ります。
「強いて言うなれば、より良き滅びを迎えるためだ。どうせ滅びてしまうのならどのような経過を辿っても同じだという考え方は、それこそ破滅的だ。美しくない」
「ですが、一度塵に帰してしまえばそこに感情の入り込む余地はありません。感情を生み出すのは脳で、脳を形作るのは多くの原子です。物質の源たる原子は、原子以外の何物でもないのです。それとも霙姉は、水に感謝の言葉を掛けて凍らせると、それに応えて綺麗な結晶ができるとでも考えているのですか?」
 霙の目が吹雪を値踏みするかのように細められます。
「オマエがそこまで徹底したリアリストだとは思わなかったよ。……認識を改めねばならないようだな」
「私の目には、霙姉が大変なロマンチストに映ります。あらゆる事象を考慮し、計算の結果として滅びが導き出されるのであれば、私はそれでも構いません」
「滅びはオマエが思っているほど甘美で魅力的なものではない。オマエは死というものを知らないから、そのような――」
 と、その時。不意に寝返りを打つ音がし、霙がぎくりと動きを止めました。
 音を立てないように固定した上半身を、ロボットのように腰で動かしてベッドの様子をうかがいます。そのまま息を潜めること十秒あまり。綿雪が目覚めないことを確かめると、霙はゆるゆると息を吐き出しました。
「この話は止めにしよう」
 霙は小声で、しかしきっぱりと言い切りました。
「今ここで、話す内容ではない」
 吹雪は無言でうなずき返すと、立ち上がり、霙の隣まで歩いて綿雪の寝姿を見下します。綿雪は、寝顔こそ穏やかですが、頬も額も鮮やかな赤に染まっていて、見ているだけでこちらにも熱が移ってきそうです。
 自分の行いが急に恥ずかしくなり、吹雪の口が小さく動きます。
「……ごめんなさい」
 ふとこぼれ出たつぶやきに、霙が怪訝そうな顔で向き直りました。
「少し、言い過ぎてしまいました。綿雪にも、霙姉にも」
 霙は「そうか」とだけ言うと、吹雪の頭にそっと手を置きます。普段なら邪魔に感じることもあるスキンシップがいつになく心地よく思え、吹雪はふと本音を漏らしました。
「私は……不安だったのです」
「不安?」
「彼という存在が。彼の到来によって変化しつつあるこの家に対して、私は不安を感じているのです」
「……これは驚いたな」
 霙はまじまじと吹雪の顔を見つめました。
「以前と変わらぬ素振りを見せているから、てっきり関心がないものとばかり」
「今はまだ、直接的な接触を図る段階ではありません。もう少し、彼に関する情報を集めてからでなければ」
「なるほど。いかにもオマエらしいな」
 ふっと表情をゆるめた霙は、すぐに真顔になって吹雪へ告げます。
「だが、あまり悠長に構えてる暇はないぞ。ぼやぼやしていると、海晴姉あたりに取って食われてしまう危険性がある。……もっとも、今日の失敗でしばらくは経済面から静観の構えだろうが」
「霙姉は平気なのですか?」
 吹雪の発した何気ない一言に、霙が「何だと?」と片眉を吊り上げました。今までとは違う過敏な反応に、吹雪のほうが動揺してしまいます。
「いえ、その、私の見ている限りでは、霙姉も彼に対して関心がないように思えたので……」
「な、なぜそう言い切れる? 私は普段通りに振舞っていただけだ」
「? 普段通りに振舞っている、だから、関心がない、のではないのですか」
「いや、待て……それはその、つまり……どういうことだ?」
 すっかり混乱の只中にあるらしい霙は、髪を掻きむしるように、両手で頭を抱え込んでいます。
「皆が彼に関する話で盛り上がっている中、霙姉だけが何の反応も見せていないのですから、傍目からは無関心とか映りません。違いますか?」
「ん……ああ、そうか。私が孤立しているからそのように見える、と。そうだな。確かにその通りだな……」
「では、どちらなのですか?」
「どちらというのは……何がだ?」
「彼に対して関心があるのか、ないのか」
「それは言ったはずだぞ。私は普段通りに振舞っている、と」
「……ということは、彼に対して一定以上の関心は持ち合わせているのですね?」
「まあ、そういうことになるのだろうな」
 いつにない歯切れの悪さに思わず首を傾げる吹雪でしたが、気を取り直して本題に入りました。
「いい機会ですので、単刀直入に伺います。霙姉は、彼をどのような存在だと捉えているのですか?」
「ど、どのようなというのは……」
 狼狽の色をあからさまに見せる霙を無視し、吹雪はさらに言葉を続けます。
「他の姉妹から見た私たちの態度は、極めて同一に近いものに見えると思われます。ということは、霙姉が彼に対して抱いている感情が、そのまま私にも該当する可能性は十分に考えられるのです。私はなぜ、こんなにも彼の存在が気掛かりなのでしょうか。なぜ、彼に関する皆のおしゃべりを聞いていたいと思うのでしょうか。私は、私の心を知りたい。だから、教えてください。あなたは、彼をどう思っているのですか」
「オマエは一体――」
 一瞬絶句する霙でしたが、急に真面目くさった顔になると、吹雪にこう問い掛けました。
「オマエが彼について考えているとき、オマエはどのような感情下にあるのだ?」
 今度は吹雪が困惑の表情を浮かべました。しかし、その答えは冷静です。
「不安、の一言に尽きます」
「不安? 本当にそれだけなのか? 例えば、そう……動悸が激しくなるとか、呼吸が荒くなるとか」
「はい、時々は感じます」
「胸は痛くならないのか。何というか、ぐっと締めつけられるような」
「それはありませんが、一連の身体的な変調の原因は、不安や恐怖を司る脳内物質、具体的にはノルアドレナリンの作用によるものと考えられます」
「だが、彼の何について考えれば不安を感じる?」
「彼の存在そのものと、私たちとの関連性についてです。なぜ今になって私たちの前に現れたのか。19と1、素数同士の融合に伴って生まれた20という数字は手と足の指を合わせた数でもあり、様々な文明や文化の中に二十進法という形で――」
「わかった、それは後で聞こう。しかし、くどいようだが本当にそれだけの感情しか抱かないのか? 海晴姉やヒカルたちが彼について話しているのを聞いて、何か思うことはないのか」
「いいえ、ありません」
「彼と二人きりになった状況下を想像して、何かしら思うものは? 彼が他の誰かと親しそうに話しているのを見て、えもいわれぬ気持ちになったことは?」
「それもありません。ですが――」
 吹雪は、純粋な疑問からこう問い返しました。
「私にそのような問い掛けをするということは、霙姉自身に何か心当たりがあるのですね?」
「なっ、何を根拠にそのような……!」
 瞬間的に顔を赤くした霙は、スツールから腰を浮かせ、握り締めたこぶしをわななかせながら吹雪をにらみつけます。しかし、引き攣り気味の霙の顔を見る限りでは、怒りよりも戸惑いの感情に囚われているように感じられます。霙はきっと、自分でも不思議に思っているはずです。傍らで綿雪が眠っているにも関わらず、大声を出してしまったのですから。
 ここまで取り乱した霙を見るのは初めてな吹雪ですが、吹雪の側もまた、戸惑いの色を隠せません。先ほどの指摘の何が、霙をこんなにも動揺させたのでしょうか。
 もしかすると、と吹雪の脳裏にある可能性が浮かび上がります。霙姉も、海晴姉たちのようにもっと気安く彼に接触を図りたいのではないでしょうか。非社交的な性格が災いし、肉親でありながらも見知らぬ異性を前にして、どのように接すればいいのかわからない――それならば、無言でリビングに居座り続けた理由も説明できます。皆の会話を参考にして自分なりの切っ掛けを見出すため、と。
 吹雪が考え込んでいる間に激情も治まったらしく、ばつの悪そうな顔で霙が腰を下ろします。そして、上体をひねって自分の背後に手を伸ばすと、何かを引き寄せて吹雪の目の前に突き出しました。
「オマエの分のデザートだ。誰かに食べられてしまわぬよう、取っておいた」
 お皿に乗った白い大福が二個。怪訝そうに吹雪が見つめていると、イチゴ大福だ、という説明が加わります。
「一つは私の分だが、欲しければ両方ともくれてやろう。その代わり、その……あれだ。オマエがたった今見聞きしたことは、誰にも――」
「賄賂ですね」
 あくまで直接的な吹雪に、霙は一瞬声を詰まらせました。
「そういえば、かつてはお菓子の色が山吹色と決められていたらしいのですが」
「そ、それはまた次の機会だ。山吹色でも青緑色でも、オマエの望むお菓子を何でも買ってこよう。だが、今はこれでガマンして欲しい」
「冗談ですよ、霙姉。安心してください」
 霙があまりに必死なので可哀想になり、吹雪はお皿を軽く押し戻しました。
「それに、一つで十分ですよ。私には二つもいりません」
「しかし、それでは――」
「彼に対する感情をなぜ隠そうとするのか、私にはよくわかりません。海晴姉たちを見ている限りでは特にその必要性を感じないのですが……それが霙姉の希望であれば、叶えたいと思います。霙姉には先ほど助けてもらいましたから、それと引き換えに」
 霙はなおも吹雪の顔をじっと見つめていましたが、やがて、ひとつため息をついてからうなずきました。
「そうだったな。オマエを助けたのを忘れていたよ」
「ですから安心してください、霙姉。私の性格はよくご存知のはずです」
 それに、霙はこう見えても甘いものが好物で、いつだったかは自分の分のドラ焼きがなくなったと、彼を巻き込んで大騒ぎしたこともあります。霙からの申し出とはいえ、後でどうなることか……。
「では、私はこちらをいただきます」
 吹雪はイチゴ大福へ手を伸ばし、自分の口へ運びます。
 いかにも姉らしい、穏やかな面持ちでそれを見守っていた霙でしたが、急に「ああっ」と大きな声を出しました。
「待て、そっちは私の――」
 しかし、霙の手が止めるよりも早く、イチゴ大福は吹雪の口の中へすっぽり収まっていました。
「ああ、遅かったか……」
 吹雪は怪訝そうな顔で、もぐもぐと口を動かします。
「……これは新しいタイプのイチゴ大福ですね。イチゴが入っていない代わりに、餡からほのかにイチゴの香りがします」
「すまない、吹雪。オマエが近眼なのを忘れていた」
 霙が気まずそうな口調で言葉を続けます。
「オマエが口にしたのは私のイチゴ大福だ。不慮の事故に備えて、先にイチゴだけ食べておいたのだ」
「……事故というのはつまり」
 吹雪の脳裏にふと浮かんだのはヒカルの顔でした。
「誰かに食べられてしまう可能性のことですか」
「そうだ。先にイチゴだけでも食べておけば、悲劇は……最悪の事態は防げる。イチゴあってのイチゴ大福だからこそ、何としてもイチゴを確保せねばならない。それに、この季節に生のイチゴは貴重だ。綿雪にイチゴミルクを食べさせようと、氷柱が徴収して回る可能性も十分に考えられる。確かにあまり行儀のいい行動ではないが、ある程度は理に適っているはずだ。間違いない」
 自分でも言うように、後ろめたさが強いせいか霙はいつになく饒舌です。
 イチゴと一緒に食べるからこそのイチゴ大福では、と思わなくもない吹雪でしたが、ここは敢えて触れずにおくことにしました。
「ですが、かつてのドラ焼きの一件とは違って、こうして自分の手元に置いておく限りは不慮の事故など発生する余地もないと思われます。ましてや、中からイチゴだけ取り出す手間を考えると、杞憂と言わざるを得ないのでは」
「オマエの言い分はもっともだ。だが――」
 霙の目が急に遠くを見つめます。
「イチゴの乗っていないショートケーキほど、悲しいものはないからな」
 怪訝そうな吹雪を置いてきぼりに、霙がゆるゆるとかぶりを振りました。
「これもやはり、オマエが生まれて間もない頃の話だ。少し目を離した隙に、私のショートケーキはただのケーキに成り下がってしまった。犯人は未だに不明のままだ。誰も白状しない」
「大胆不敵極まる犯行ですね。通常、力関係を盾にして年上の者が年下から奪うケースが圧倒的に多いのですが」
「その時、海晴姉はいなかった。私がその場で一番の年上だった。そこに私の油断があったのかもしれないな」
「それでイチゴだけを、ですか」
「特別に好きというわけでもないのだが」
 霙はわずかに苦笑いを浮かべ、首を小さく縦に振りました。
「その点でオマエは恵まれている。オマエからイチゴを盗もうものなら麗が黙ってはいるまい」
「はい。おかげで私は、好きなタイミングでいつでもイチゴを楽しむことができます」
「オマエが羨ましいよ。それに引き換え私ときたら、姉のくせに取られることを恐れて真っ先に食べねば――」
 霙がふと口をつぐんだと思うと、あらぬ方を向いて黙り込みました。
「どうかしたのですか」
「ふむ、そうか……これは使えるな。うん」
 そして、一人で勝手に納得しては何度もうなずきます。
「あの、霙姉?」
「……ん? ああ、いや、何でもない。こっちの話だ。……それより、私のミスでオマエに迷惑を掛けてしまったな。詫びと言っては何だが、もう一つ食べるがいい」
「しかし、それでは」
「遠慮などするな。私の気が変わらぬうちに、さあ」
 と、霙がお皿を突き出してきます。しかし、ついさっきまで恨み節を聞かされていた身としては、容易に手出しできるものではありません。それに、ふと思いついたある仮説が吹雪の手を止めさせます。
 ――霙姉の終末思想は、イチゴを食べられた過去に端を発しているのかもしれませんね。
「本当にいいのですか? イチゴだけを食べて、残る大福部分を渡すこともできますが」
「いい。私はもう十分に満ち足りている。だから、食べてしまえ」
 それでもなお吹雪が躊躇っていると、霙はやれやれと頭を振りながらイチゴ大福を手にします。そして、好き嫌いを咎める姉の顔になって「食べるんだ」と語気を強めました。
「ずいぶんと強引ですね」
「一つ余計に食べられるのだから、そこは喜ぶところではないのか」
「イチゴに対する並々ならぬ思い入れを聞かせておきながら、食べろと強要するのはどうかと思います」
「なるほど。確かにそうだな」
 吹雪に指摘されて素直にうなずいた霙は、ふっと表情を緩めました。
「お礼だよ。これは」
「何のことでしょうか。私は霙姉から礼を言われるようなことは特にしていませんが」
「オマエに心当たりはなくとも、この私にはある」
「……霙姉の考えはよくわかりません」
 思えば、先ほどからの霙はずっとこのような調子です。普段被っている冷静な仮面はどこへやら、ここで見せているのは全く違う一面。そしてそれは、話題が彼に及んだときから――
 吹雪はある予感に駆られ、こう言いました。
「それは、イチゴ大福よりずっと価値のあるものですか」
「そうだな。私にはとても価値がある」
「……それは、イチゴよりも甘くて酸っぱいものですか」
 しかし霙は、黙って笑いながらイチゴ大福を吹雪の口へ押し込み、そこへお風呂上がりの氷柱と麗が戻ってきたので、何もかもがうやむやになってしまいました。


  *


 彼と母親の二人が雪まみれになって帰ってきたのは、翌日のお昼すぎのことでした。
 二人の帰宅を今か今かと待ち望んでいた姉妹たちは、具合の良くなった綿雪も含めて総出で出迎えたのですが、なぜか霙の姿だけが見当たりません。どこへ行ったのかしら、と囁き合う姉たちの姿にふと直感めいたものを感じた吹雪でしたが、敢えて何も言いませんでした。その直感が本当なら、霙の邪魔をするべきではないと思ったのです。
 それから程なくしてふらっと帰ってきた霙でしたが、果たしてその夜更け。
 妙な胸騒ぎに目覚めた吹雪が一階に下りると、ダイニングの方向から霙の声が聞こえてきます。気づかれぬように扉の隙間から中を覗き見ると、椅子に腰掛けた彼の後姿とその隣で腕組みをする霙の姿が目に入りました。
「――中に何か入っているのではというオマエの危惧もわからなくもないが、そんなに深く考える必要はない。私はただ、オマエが体力を消耗しているのではないかと思って用意しただけだ。何しろオマエは我が家の要。今、オマエの身に何かあってはそれこそ一大事だ。まさかオマエ、イチゴショートが嫌いなのではないだろうな? ……そうか、安心したぞ。いや、何でもない。こっちの話だ。それはともかく、早く食べたらどうだ。遠慮などするな。……ふむ、オマエはそんなところから食べるのか。今はそれでいいかもしれないが、妹たちの前であまり隙を見せるべきではないな。今でこそオマエを立てている妹たちも、オマエが我が家に馴染むにつれて遠慮も薄れてくる。目を離した隙に食われてしまいかねないな。それに、オマエがそれで良くとも他の子たちが黙ってはいまい。一人だけずるいだの何だのと言っては大騒ぎ間違いなしだ。もしもそうなったらオマエ、どのように収拾をつけるつもりなのだ? ……ふふ、やはりそう来るか。奇遇だ。実に奇遇だな。オマエと同じく、私もケーキのイチゴは真っ先に食べる派でね。……私とオマエ、気が合うと思わないか?」





 Fin.