V
Kの足音が聞こえなくなったのを確かめてから、Vはゆっくりと身を起こした。
電気製品が密集する熱溜まりの傍でくつろいでいたとはいえ、長く寝そべり過ぎて頭がぼうっとする。僅かに体を動かしただけで、関節がみしみしと五月蝿い。大きく伸びをすると少し耳鳴りがした。
電源を入れてPCの起動を待つ合間に、Vが必ずやらなくてはいけないことがある。
Vはチェストと壁の隙間へするりと入り込んだ。並外れた柔軟性を持つVであっても難儀する狭さだが、Kに見つかっては後々面倒なのでやむを得ない。なにしろKときたら――いや、止めておこう。今は時間が惜しい。
昨日に押し入れ過ぎたせいでかなり奥まったところにあったが、ようやくに手が届いた。
青いジャンプスーツ。Vの、いやVたちの偉大なる先人“D”の姿を模したものだ。
PCに向かう際Vたちは、これを着ることによって“D”に敬意を表する。そして手を合わせ、三回お辞儀をする。一回目は“D”のために。二回目はノイマンのために。そして三回目は、Vをここまで導いてくれたRのために。
そう、Rがいなくては、VがPCを操るまでには至らなかったのだ。Kの目を盗んでPCの使用法を教授し、テキストも特別に起こしてくれた。それだけにとどまらず、指の短いVのためにタイピング用グローブを作ったり、耳の位置が違うVのためにインターカムを改造したり。Vにはこれ以上望むべくもない環境――Kの目がなければ最高なのだが――を、Rは作り上げた。
Vは何度と無くRへお礼を差し出したのだが、Rは笑って断わるばかりだった。
実のところVには、Rにここまでされる理由がわからない。なにしろ理由がないのだ。K曰く“拝金主義”のRに無一文のVがしてあげられることといったら、Rの膝に自分の頭を乗せるとか、その程度のものでしかない。Vはいわゆる“癒し系”に属しているのでRにすればそれで十分らしいのだが、独立独歩が信条なVにはいささか心苦しい。
そういう意味では、何の縁もない“D”やノイマンなどよりもRへ三回の礼を奉げたいのだが、当のR自身が“D”の崇拝者なので一応は自粛している。そういえば、このジャンプスーツもRのお手製だ。
着替えているうちにログイン画面が表示された。光量を下げ忘れたモニタを正視して、Vの目が一瞬くらむ。あわててフロントパネルを触り、輝度を落とす。Vは異常に夜目が利くので、モニタがほんの微かに灯る程度で十分間に合う。それに、普通の明るさでは洩れた光でKにバレてしまいかねない。
パスワードをキリル文字で打ち込むと、しばらく間を置いてモノクロームのデスクトップが映し出された。
キーボードとマウスを駆使し、Vは次々とソフトを立ち上げていく。これら入力デバイスにもRの気配りが反映され、キーボードは打鍵音のしないタイプに、マウスは全然ネズミらしくない形状のものにそれそれ交換されている。キーボードはともかく、Vたちにとってマウスの形状こそが大変に重要な問題だった。
ネズミを連想させるそのシルエットがVたちの心を掻き乱すのだ。温室育ち――あるいはヒキコモリ――気味なVはさほど影響を受けなかったが、本能的に心惹かれるのは事実だ。ついつい上から引っぱたきたくなる。
チャットソフトが起動完了。インターカムを装着してログインする。
Vが主催しているチャットルームにはまだ誰も入っていない。相手もVと同じように同居人の目を盗んでいるので、確実に接続できるわけではない。半日も待ち惚けを食らうこともあれば、十分と経たずに次々ログインしてくる日もある。それぞれの同居人の動きと、あとは運次第だ。
今日は割にツイているようで、Vがメールの下書きをしていた小一時間のうちに、チャットウィンドウにはハンドルネームが三つ増えていた。
――最近、そっちはどうよ
――何か面白いことない?
――そういえばアイツがさぁ
のどを低く唸らせての、他愛も無い会話が銅線の中を行き交う。会おうと思えばいつでも会える相手なので、まったく身のない話ばかりだ。実際、冬に入るまではほぼ毎日顔を会わせていた。その時も特に内容のある話をしていたわけではなく、身の回りの出来事の報告が主だった。Kに言わせると、Vは『能天気でいたずら好きの毛玉ちゃん』だそうで、確かにVは寝てばかりだったが、友人たちに比べれば色々と考えている方だと自負している。
と、インターカムのスピーカーから異様な音が飛び出してきた。どすっ、ぼすっ、という打撃音。Vはやれやれと首を振りながら、管理者権限でメンバーの一人をチャットルームから蹴り出した。
しばらくして、蹴り出されたメンバーが戻ってきた。スタンドタイプのマイクが猫じゃらしに見え、それで正気を失ったのだという。詫びはマグロフレークのレトルトだと彼が告げ、チャットはしばらくそれで盛り上がった。そんな彼らを尻目に、Vは今の出来事をRへのメールに書き加えた。
Vの友人たちを手引きしたのも、やはりRだ。RはVの――正確にはKの――界隈ではちょっとした有名人で、PCに細工をするのも簡単だったらしい。友人たちは、寒い冬に外へ出なくても済む、とおおはしゃぎだったが、VにしてみればRの真意がまるで読めず、謎は深まる一方だった。
そうこうしている間に時計の針は回り、チャットルームにはVだけが取り残された。Vはソフトを終了させて、キリル文字で打ち込まれたメールをRへ送った。
送信状況を示すプログレスバーを何気なく見ていたVは、不意に以前耳にしたKとRの会話を思い出した。K曰く、Rの名前は鈴の鳴る音に似ている、と。Vの友人たちの中には、鈴を首にぶら下げているものが多い。それは友人らに限ったことではなく、Vが属している種において半ば不文律とされている。あの“D”にも、赤い首輪に金の鈴がくっついているのだ。
もしかしたら、とVは考える。Rは自分たちの仲間ではなかろうか。姿形はVとR、全然違うのだが、年老いた者はKのような“二足”に化けられるという話を耳にしたことがある。それにRがいつも身に付けているゴーグルが気になる。Kも不思議に思いそれとなくRに訊いたが、笑って誤魔化すばかりだったという。きっと、あの下には三角の耳が隠されているのだ。加えてRの名前“鈴の鳴る音”。ほとんど推論に近いが、そうでも考えないとRがVやVたちに肩入れする理由がないのだ。
そして重要なポイントがもう一つ。今でこそメール、つまり文字を使っての意志の疎通が容易となったが、そのような手段が確立する前から、お互いに意志の遣り取りが出来ていたのだ。通常“二足”の言葉は“四足”に理解出来ても、その逆は不可能に近いという。ソロモン王の指輪を持つCでもほとんど読み取れないらしいというのに、Rにはそれが出来る。やはり、どう考えてもRは元“四足”だったとしか思えない。
この新発見を遠方のMに伝えようと、キーボードへ向かった。MはVをはるかに超える巨体の持ち主だが少し気弱いのか、同居人をご主人様と呼んでいる。Mに言わせれば、養ってもらっているのだから主と呼ぶのは至極当然、とのこと。同じ“二足”でもずいぶん違うものだ。
三分の一を書き上げたところで、Vの耳は聞き馴染みのある足音を二人分察知した。Kが帰ってきた。一緒にいるのはRらしい。
Mへのメールは明日以降に回すことにし、急いでOSを終了させる。同時にモニタを元の設定へ戻す。不審がられてはPCを触れる機会が減ってしまいかねない。こういう時にこそ、普段の冷静さが要求される。
玄関からKの呼ぶ声がする。ジャンプスーツを脱ぐのももどかしげに、チェストの隙間へねじ込んだ。
Kの声がやかましい。RがKをなだめる様子も聞こえた。
大きく一つ伸びをし、Vは部屋を出た。
「もう、バニラったらどこに行ったのかしら」
「まあまあ、猫なんて気紛れな生き物なんだし、その内にひょっこり出てくるんじゃないの」
鈴凛のその言葉に誘われるかのようにして、白と黒の斑猫が階段を駆け下りてきた。
「どこにいたの? せっかく鈴凛ちゃんが遊びにきてくれたのに、こんなに待たせちゃって」
「いいのいいの可憐ちゃん。猫っていうのは、もっと自由でなきゃね」
バニラは差し出された可憐の手をくぐって鈴凛に近付き、頭を擦り付けながら大きくナォンと一声鳴いた。
Fin.
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