ばたばた 読み物TOP

サイトTOP

 1


 壁を隔てた向こうからどたばたと慌しい足音が聞こえてくる。直後、盛大に転ぶ音がして、ハンガーに吊るした制服がわずかに身じろぎした。その隣にはもう一つ別のハンガー。こちらの足元には雛子のパジャマが積まれてある。今着ているのとお揃いの柄だ。
 咲耶は腫れぼったい目でその様を見ながら、昨晩の間に支度を整えておいてよかったと心の底から思った。時計を見ると、本来なら家を出ているはずの時刻。寝坊も寝坊、大寝坊だ。一緒のベッドで寝ていたのだから、ついでに起こしてくれてもよかったのに。
「あー、もう。春先って、どうしてこんなに眠いのかしら」
 そう呟いた口が眠気に抗えず、そのままゆっくりと大きく開く。ほうっと息を吐き出すと、そのまま魂まで抜けていきそうだ。どうにも意識がはっきりしない。
 はっきりしない、といえば最近の兄の行動もそうだ。
 三月に入ってからというもの、「ちょっと出掛けてくる」と行き先も告げずに家を空けることが多くなったのだ。大学が休みに入っていることは誰もが知っていたが、持ち回りでやって来る『お兄ちゃんの日』には一日中付き合ってくれるし、夕食にはちゃんと間に合うように帰って来るので必要以上に騒ぎ立てる妹はいなかった。以前なら周囲をうんざりさせるほどに問い詰めていた可憐や四葉も、根掘り葉掘り訊くことで逆に兄の不興を買うのでは、と思い留まるようになったらしい。それはもちろん兄が普段から見せる誠実さあってのことだろうが、他の姉妹の存在も同じぐらいに大きいのだろう――そう、例えばこの私。訊きたいことはたくさんあるのに、笑顔でお兄様を送り出している。
 無論、不安がないはずがない。身内贔屓を差し引いたとしても兄は十分に男前だ。自分たち姉妹を優先させるあまり、コンパなどを全て断っているのは知っている。講義が終わればトンボ帰りしてくれていることも、おかげで友人が極端に少ないことも。
 兄がそのほとんど全てを捧げ尽くしていることは誰もが知っている。
 それでも不安を拭い切れないのだ。兄の誠実さが『兄としての』誠実さに留まっているとすれば、妹である自分たちにはそれ以上を求めることができない。どこの馬の骨ともしれぬ女に、あくまで一人の男性として誠実さを尽くしている可能性はゼロではないのだ。
 そして、兄はとうとう帰って来なかった。正確には帰って『来られなかった』のだが、不在には変わりない。
 未練がましく抱き締めた枕を置き、眠気でふらつきながらベッドを降りた。
 部屋の外ではひっきりなしに足音が行き交っている。ドアを開け閉めする音に混じって悲鳴や叫び声も。その慌しさから察するに家中が寝坊らしい。
「お兄様がいないからって弛みすぎよ、まったく」
 自分を棚に上げたその時、不意に扉がノックされて咲耶は反射的に背筋を伸ばす。
「咲耶ちゃん、もう起きてますか?」
 可憐の声だった。
「私たち、もう学校に行ってしまいますけど」
 こちらは鞠絵の声。
「ちょっ、ちょっと待って」
 咲耶はふらふらと扉に近付き、薄く開いたその隙間から顔だけを突き出す。
「おはよう、二人とも」
「おはようございま――」
 そう言い掛けた二人が互いに顔を見合わせた。
「やだ、私ってそんなに酷い顔してる?」
「ええ、まあ、何と言うか、その……」
 鞠絵が言葉を濁すところをみると相当なものとみてよさそうだ。すぐさま鏡を見たい欲求に抗いながら、かろうじて自分の役割を思い出す。
「それより、他の子たちは大丈夫なの?」
 すると鞠絵が自信なさげに頷き返した。
「大丈夫だと思います。鈴凛ちゃんが起こして回っていましたし、私もみなさんの顔を一通り見てますので」
「あの鈴凛ちゃんが?」
 鈴凛といえば言わずと知れた寝坊常習犯だ。一ヶ月の半分は四葉に引き摺られる格好で姿を現し、残る半分は四葉にも見捨てられてしまい、誰かが起こしに行くまで出て来ない。そんな鈴凛が一番の早起きとは、もはや異常事態と呼ぶべきだろう。
「でも私、あの子に恨まれる覚えなんてないんだけど」
 二人が顔を見合わせ、今度は可憐が口を開く。
「実は雛子ちゃんが止めたらしいんです」
「どういうこと?」
「咲耶ちゃんは疲れてるみたいだからもう少し寝かせてあげて、って鈴凛ちゃんに。でも、可憐は反対したんですよ。お兄ちゃんがいないからって、お寝坊さんはよくないって」
「それって鈴凛ちゃんの方に言ったのよね」
「もちろんです」
 そうきっぱりと断言する可憐に思わず苦笑してしまう咲耶と鞠絵。昨晩の一件で鈴凛に不信感を抱いているのが丸わかりだ。
 兄から「今日は帰れないかもしれない」と連絡が入ったのは、夕食を一時間ほどおあずけしている最中のことだった。居場所は今住んでいる所からは二つほど地方を隔てた県庁所在地で、何事もなければ新幹線で日帰り圏内。ところが、その近郊で発生した局地的な大雨のせいで足止めを食っているというのだ。
 それからはもう蜂の巣を突付いたような大騒ぎで、受話器が姉妹の間を激しく飛び交う始末。安否を気遣う台詞だけで三十分が経過した頃になって、突然その場を仕切りだしたのが鈴凛だった。強引に受話器を奪い取った鈴凛は「他に帰れる手段がないから、カプセルホテルにでも泊まってくれる?」と言ったと思うと、さっさと切ってしまったのだ。これにはさすがの咲耶も驚いたが、それ以上に驚いたのが他ならぬ可憐だった。お兄ちゃんのことが心配じゃないんですか? と金切り声で叫ぶ可憐に対し、電話代の無駄よと簡潔に切り捨てる鈴凛。一時は一触即発の危機が訪れたが、鈴凛がプリントアウトしておいた時刻表などで裏付けが取れたので、外堀から埋まる格好で立ち消えとなった。しかし、だからといって心配の種が尽きたわけではなく、それが全員寝坊の伏線になったのは言うまでもない。亞里亞と雛子が寝付いたのは、もうすぐ日付が変わろうかという頃だったのだ。
「そっか。ヒナちゃんが言ったんなら仕方ないわね」
 言いながら自然と頬が緩んでしまう。普段は一人で寝ている雛子だが、昨日は自然と添い寝する形になった。もしかするとその恩返しのつもりかもしれない。
「それで、今は春歌ちゃんが仕切ってるのね」
「ええ。まだ誰も家を出られていないですけど」
 屈託のない笑顔で言う可憐に鞠絵がやんわりとフォローを入れる。
「でも、白雪ちゃんも寝坊したみたいですし。あ、今朝はホットケーキですって」
「じゃあ、ヒナちゃんが喜ぶわね」
 廊下の向こうからは春歌の怒鳴り声が聞こえてくる。どうやら衛が犠牲者らしい。小走りで可憐たちの背後を通り抜けるが、そこでまた「廊下を走ってはいけません!」と叱責が飛ぶ。
「衛ちゃんも可哀想。急がなきゃいけないのに走ったらダメなんて」
「でも、四葉ちゃんを踏ん付けてしまう危険性もありますし。いつだったかはミカエルの尻尾が踏まれて」
「四葉ちゃんは別にいいんです。自分から廊下に這いつくばってますから」
「はいはいOKわかったわ。とにかく、私が行かなきゃダメってことね」
 妹たちは顔を見合わせ、揃って頷いた。
「やっぱり咲耶ちゃんが一番頼りになります。千影ちゃんは相変わらずよくわからなくて」
「春歌ちゃんはちょっと気負ってるだけかもしれません。何だか張り切っているみたいでしたし」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。じゃあ、さっさと下りて朝ご飯を食べてちょうだい。すぐに行くから」
 二人に投げキッスを飛ばすと勢いよく扉を閉め、その勢いのままにパジャマを脱ぎ捨てる。身体はまだ眠気を訴え続けているが、妹たちの期待を裏切るわけにはいかない。南向きということもあってか部屋の空気は生暖かく、下着一枚でもそんなに苦ではない。半月前まではストーブが恋しかったというのに。
 アイロンの掛かったブラウスはパリッとしていて、袖を通すと自ずと背筋が伸びる。ブレザーまで一通り着替えるとそれなりに気も引き締まった。
「よし、っと」
 頬をぴしゃぴしゃと叩いた咲耶は手櫛でごく簡単に髪を整える。ツインテールはこの際諦めた。鏡を覗き込みたいところだが今は時間が惜しい。兄がいないのだから、、少しぐらい身なりが雑でも問題はないはずだ。全員を追い出してからが自分の時間。それが年長者の宿命だ。
 指に絡まった髪の毛を払い落としながら、ふと独り言を漏らす。
「春歌ちゃんはともかく、千影がもう少し頼れるようになるといいんだけどね」
 咲耶、千影、春歌の三人は誕生日が半年以内に収まっている。可憐たちとは二年の差があるので否が応にも姉という役割がクローズアップされる三人だが、千影は亞里亞にべったり、春歌は真面目過ぎるきらいがあって、どうしても咲耶に集中してしまう。気立ての良さを兄にアピールできるのでそれはそれで悪くない。だが、周囲を取り巻く環境が安易な現状維持を許さないのだ。
 一ヵ月後には高校三年。
 一年後には卒業式。
 咲耶はまだ、自分の将来を決められないでいる。
 しかし、時間は待ってくれない。
 深呼吸して気を取り直した咲耶は、鞄を引っ掴むなり廊下に飛び出した。が、その途端、何かやわらかい物体を踏みつけてしまい、足元から「チェキィ!」という叫び声が上がった。
「んもう、いきなり何するデスか?」
 正体は四葉の足首だった。
 こちらにお尻を向けた四つんばいの格好から、肩越しに咲耶を見上げている。
「それはこっちの台詞。こんな朝から何やってるのよ。時間がないの、わかってる?」
「もっちろん。しっかりハッキリわかってるデスよ」
「全然わかってない」
 咲耶はやれやれとばかりに頭を振った。何しろ四葉は未だにパジャマのままでいるのだ。
「今は遊んでいる場合じゃないの。とにかくさっさと着替えなさい」
「着替えなんて後回しデスよ。四葉は今、非常に重要な調査の真っ最中なのデス。だって、あの鈴凛ちゃんが一番早くに起きるなんて絶対におかしいデス。兄チャマが帰って来なかったこととセットで陰謀の臭いがシマスね。ぷんぷんするデスよ」
 そう言いながら鼻をうごめかす四葉。しかし、廊下をほのかに漂っているのは甘いバニラの香りだ。
「で、これが四葉ちゃんの言う陰謀の臭いかしら。素人の私にもホットケーキってわかるんだけど」
 腕組みしながら見下ろすと、四葉が悔しそうに眉を顰めた。
「こっ、これは罠なのデス! みんな揃ってお寝坊さんだなんて絶対にぜーったいにおかしいのっ!」
「何言ってるの。推理に夢中で夜更かししたのはどこの誰?」
「でも、咲耶ちゃんだってホントは気になるデスよね? 兄チャマがどうしてあんな場所にいたのか」
 何気ない問いに、咲耶はふっと目を逸らせた。
「みんなに聞いても、あんなところ知らないって言うばっかりデス。そんなの絶対に変デスよ。四葉たちに関係のないシティにわざわざ行ってたなんて」
「お兄様のことだから何か考えがあってのことよ」
 むしろ自分へ向けて咲耶は否定した。
「きっとそうよ。だから余計な詮索は止めなさい」
「そう言われても、兄チャマは謎が多すぎデス。大学がもうお休みなのは学校にお電話してチェキ済みデス。それなのに毎日のようにお出かけしてて、しかも、昨日お出かけしていた場所は誰とも無関係で、鈴凛ちゃんはハンペンチクワが発生しそうな早起きで、衛ちゃんは花穂ちゃんのパシリで――」
「はいはい、それはもういいから先に着替えなさい。それとも詮索って言葉の意味がわからなかったの? 詮索っていうのは、しつこく人に聞きまくるって意味。だから、詮索するなはチェキ禁止ってこと。これでわかった?」
「謎の方が先デスよ。これを逃したら解明のチャンスは二度とナッシングの予感がシマス。咲耶ちゃんは気にならないデスか?」
「私には四葉ちゃんがいつまでもパジャマ姿なことの方が謎なんですけど」
 咲耶は、再びチェキに入ろうとしていた四葉に釘を刺す。向き直って女の子座りした四葉は、えへへと愛想笑いを浮かべた。
「咲耶ちゃんは細かいことを気にしすぎデス。四葉なんかチェキしても面白くないデスよ?」
「そうじゃないでしょ。学校よ、学校。急がないと遅刻する時間って言ったでしょ」
「四葉のことなら全然ちっとも心配ないデスからっ」
 と、脱兎の如く逃げ出そうとする四葉。しかし、咲耶の手の方が一瞬早かった。立ち上がったところで奥襟を掴み、そこから片腕を取って羽交い絞めに移行する。鈴凛のやっているそれをいつものように見ているので、初めてでもあっさりできた。
「離せっ! はーなーすーチェーキー! 卒業式の練習なんてウンザリでタイクツでアキアキなのデス!」
 四葉はじたばたと足を踏み鳴らし、往生際が悪いことこの上ない。そろそろ伸びの鈍ってきた咲耶に対してまだ成長期を残している四葉だが、それでも頭半分は違う。
「四葉ちゃんは卒業する側じゃない。失敗してお兄様に笑われてもいいの? 四人同時だから他の子たちと比べられるのよ。可憐ちゃんとか」
「でーもー、号令に合わせて立ったり座ったりお辞儀したりの繰り返しで全然ちっともおもしろくないデス。先生たちは春歌ちゃんみたいに細かいことでガミガミ言ってばかりで、こんなのおかしいデス。だって、卒業するのは四葉たちなのに。鈴凛ちゃんもおかしいって言ってマスよ? 鞠絵ちゃんはお顔が真っ青で辛そうデスし、可憐ちゃんはどうだか知らないデスけど、とにかくあんなのは嫌デス」
「その気持ちはわからなくもないけどダメなものはダメ。あんたが恥を掻くのはいいけど、最悪、お兄様が恥ずかしい思いをするのよ」
「咲耶ちゃんの方こそこのままだと遅刻して、恥さらしのアブラアゲにシチューとひき割りナットウの刑デス。海神シスターズの大ボスとして咲耶ちゃんに遅刻は許されないのに」
「大ボスって何よ、大ボスって。訂正しなさい」
 思わずがくがくと四葉を揺さぶる咲耶だが、その反動でパジャマを残したまま四葉の腕がするっと抜けてしまう。好機とばかりに、四葉は上半身裸のままで廊下を駆け出した。
「ちょっ、何でノーブラ……じゃなくて、待ちなさい!」
「待てと言われて待つバカはいないのデスぅ」
 慌てて追う咲耶だが、普段からこういうシチュエーションが多いせいか四葉の逃げ足は早い。廊下には姉妹の部屋が並び、階段までは結構な距離がある。
 こんなことをしている場合じゃないと焦り始めたその時、四葉の行く手にある扉が不意に開いた。中からは制服姿の春歌があたふたと出て来る。
「下がって、春歌ちゃん!」
 しかし、既に遅かった。あっと思う間もなく二人はぶつかり、咲耶は反射的に目を閉じる。不気味な沈黙の後、どさっと崩れ落ちる音がした。
「まあ、これは一体……?」
 戸惑いがちな春歌の声。
 恐る恐る目を開いた咲耶が見たのは、髪を一つに括ろうとしたままで固まっている春歌と、その足元で目を回して伸びている四葉だった。
「春歌ちゃん、大丈夫? ケガはない?」
「ええ、はい、ワタクシは別に。ですが四葉ちゃんがその、多分、肘にぶつかったんだと思いますけど……それより、これは一体どういうことですか?」
 眉を顰めて問い質す春歌に、咲耶はとりあえず親指を立てて見せた。





 Next