ばたばた 読み物TOP

サイトTOP

 2


「やればできるじゃない。四十秒で着替え」
「正確には三十七秒。お着替えのハヤワザなら得意中の得意デスよ」
 咲耶のすぐ目の前でライトブラウンの尻尾が一本、ひょこひょこと揺れている。さして長くない四葉の髪とはいえ、歩きながら梳かすとなるとなかなか面倒だ。
 あの後、息を吹き返した四葉と春歌との間で一悶着あったのだが、結局は咲耶が大幅に譲る形で決着した。というより、割って入り込む形で無理矢理終わらせた。どちらも自分の主張を曲げないタイプで長期戦は必至だったし、春歌には今朝の分の借りがある。それにしても、まさか四葉が髪の毛程度で納得するとは思わなかったのだが。
「あー、そういえばそうよね。何だっけ、あの変装。怪盗何とか」
「んもう、何度言ったらわかるデスか? 怪盗クローバーは怪盗クローバーなのデス。四葉の宿命のライバルであって、その正体は四葉とゼンゼン関係がないデスよ」
「だったら髪型ぐらい変えたらどう? ヒナちゃんにだって正体バレてるんだし」
「だーかーらー、四葉とクローバーはまったくの別人で――」
「こらこら、こっち見ないの」
 振り返ろうとする四葉をブラシの柄で小突いた。
「それが面倒ならせめてカツラにするとか。喋り方や声色なんかも重要よ。ただでさえ特徴ありまくりなんだから」
「こ、今度会ったらクローバーに伝えておくデス」
 咲耶は口元だけで笑い、手早く髪をまとめる。四葉は一掴みだけ縛って終わりなのでかなり楽だ。可憐や鞠絵のような三つ編みとなるとそうもいかない。そして、それ以上に面倒なのが亞里亞の髪だ。八つに分けた髪をそれぞれ三つ編みにし、そこで出来た小房をさらに巻き上げて仕上げるのだ。誰かに手伝ってもらわないと到底無理な上に、どんなに急いでも十分は掛かる。きっと今頃は千影が泡を食いながら整えていることだろう。
「咲耶ちゃーん、もうすぐ階段デスよー」
「ん、こっちももう少しで……はい、終わったわよ」
 再び突付いて合図を送ると、四葉は括った毛先を下から跳ね上げて確かめる。
「言っとくけど、縛る位置はヒナちゃんのと同じぐらいにしてあるから。気に入らなかったら自分で直しなさい」
「ううん、ゼンゼン大丈夫」
 四葉は振り返り、にぱっと笑った。相当な勢いで春歌の肘にぶつかったというのに、額の一部が赤く色付いているだけで他にはどこも異常がない。
「さっすがは咲耶ちゃん、いつもの鈴凛ちゃんより上手デス」
「当たり前よ。にわかの鈴凛ちゃんとは年季が違うんだから」
 咲耶は持たせた鞄を受け取るついでに四葉の腕時計を覗き込む。
「それより早く行きなさい。急げばまだ間に合う時間だから」
「ラッジャー」
 おどけて敬礼してみせた四葉は、手すりに腰掛けたと思うとそのまま器用に滑り降りて行く。咲耶は思わず周囲に目をやり、春歌の姿がないことを確認した。大和撫子を自称するだけあって、春歌は人一倍立ち居振る舞いに厳しい。相手が兄であってもお構いなしだ。
 四葉が視界から消えたと思ったら、入れ替わりで衛が駆け上がって来た。よほどに急いでいるのか二段飛ばしで、しかもホットケーキをくわえたままでどたばたと通り過ぎて行く。何気なく目で追うと、少し先を行ったところで花穂と出会い、ホットケーキを分け与えながら何やら会話を交わしている。
 戻って様子を窺おうかとも思ったが、そこまで世話を焼く必要はないと思い直した。こんな忙しい朝に何をもたついているのか知らないが、あの二人に関しては中に割って入る方が野暮というものだ。
 階段を下りてダイニングに入った途端、甘いバニラの香りが咲耶を出迎えた。十三人サイズの楕円形の大テーブルには鈴凛だけが座っていて、他には使い終わった食器や瓶の類が散らばっているのみ。四葉へ構っている間に何人か家を出たらしい。
 咲耶の接近に気づいた鈴凛が、スローモーに動かしたナイフでキッチンの方を指す。
「ホットケーキなら向こう。白雪ちゃんが手が離せないっていうからセルフサービス」
 と告げた直後に大きくあくびする鈴凛。きっと、昨晩はいつも以上に夜更かししたのだろう。
「何よ、そんな大あくびなんかして。だらしないわねぇ」
「別にいいじゃない。見られても減るもんじゃないし」
「お兄様に見られても?」
「それぐらいで幻滅するようなアニキじゃないって」
 と言って再び大あくび。咲耶は苦笑いしながら、寝ぐせの残る鈴凛の髪をわしわしとかき回した。
「とにかく昨日はお疲れさま。大変だったでしょ」
「アニキの気持ちがわかった気がする。モテ過ぎるってのも大変よね」
 鈴凛は胸ポケットからメモ用紙を取り出し、咲耶に向けてテーブルの上を滑らせた。姉妹らの間を巡り歩いたらしいそれは、油染みや指紋で汚れ放題に汚れている。
「アニキの推定帰還スケジュール。今朝は始発から平常通りに動いているらしいから、多分そういう時間割で帰ってくるんじゃないかな。あ、丸してある数字がこっちに着く時刻ね」
 言われて覗き込むと数字が何行かに渡って連なっていて、それぞれの最後には丸で目印がしてある。もっとも若い数字で九時台の後半。家へ着く頃には十時を回っていることだろう。
「ふぅん。よくこんなに調べたわね」
「ま、好きでやってることですから。昨日はアタシのせいでぐちゃぐちゃになっちゃったし、そのせいもあるかな。その代わり、来月のお小遣いに少しだけでいいから色付けて欲しいなぁー、なんて」
「それとこれとは話が別」
 額をぴんと突付くと鈴凛はわざとらしく頬を膨らませた。
「ちぇっ、咲耶ちゃんのいけずぅ」
 そのしたたかさも含め、時にタヌキ呼ばわりされる鈴凛だが、今朝はいつもより顔が丸く見える。よく見ると、目の下にはくっきりと隈が浮かんでいた。これでは本当にタヌキだ。
「でも、結構遅くなるのね。一時間目をさぼれば、ってわけにもいかないか」
「お昼には間に合いそうだからいいんじゃないの? 何しろ今日は午前で終わっちゃいますから」
「練習中にいびきなんか掻かないでよ」
「はいはい、わかってるって」
 答えた傍からあくびをする鈴凛。何だか不安になって来た。
「それで、お兄様から何か連絡は?」
「んー」
 鈴凛はちらっとだけ咲耶を見て、すぐホットケーキに視線を落とす。
「あった……ことにしてある」
「どういう意味?」
 腕組みした咲耶を、今度は背もたれに寄り掛かった鈴凛が見上げる。
「だって、正直にないって言ったらまた大騒ぎするでしょ、あの子たち。電話に張り付いて学校どころじゃなくなるの、目に見えてるじゃない」
 あの子たち、というのは可憐や春歌のことを指しているのだろう。屈託なく誰とでも付き合える鈴凛だが、その一方でやや辛らつな言い方になってしまうのは性格によるところが大きい。
 発明や機械弄りを趣味としているだけあって、鈴凛の考え方は合理的かつ冷静沈着。昨晩の一件にしても、一時は優勢だった『タクシーを飛ばして帰って来る』という案に対して「そのお金でどれだけアイスクリームが買えると思ってるの?」の一言で年少組を味方に付け、泥縄式に逆転してみせた。利に聡いのも彼女の特徴だ。
「まあ、全然心配じゃないって言ったらウソになるけどね。でも、連絡してこないのだってきっと何かの事情があると思うし。どこへ行って何をしてるのか知らないけど、アニキはアタシたちのために骨を折ってくれている。それだけは間違いない……よね?」
 鈴凛は自分の言葉の効果を確かめるように咲耶の顔色を窺う。本音を見透かされる前に咲耶は即答した。
「当たり前よ。私たちのお兄様だもの」
「まあ、そうよね。アタシたちのアニキなんだし。そんなに深刻ぶらなくても最低一年はあるんだから」
「一年? 三年の間違いでしょ。鈴凛ちゃんたちが高校を出るまでの期間」
 鈴凛は目を伏せたままで緩く微笑む。
「ううん、一年であってる」
 それはどこか、諦めの色が混ざった声だった。
「咲耶ちゃんは家計簿付けてるんだからさ、それぐらいわかってるよね? アニキにばっか押し付けられないって」
「じゃあ、鈴凛ちゃんはどうして直前になっていきなり変えたのよ。一年しかって思ってるんならそのままでもよかったじゃない」
 鈴凛は一人だけ違う学校へ進学するはずになっていた。
 ロボットコンテストやソーラーカーなどでそこそこ名の知れた、とある高専がそれだった。鈴凛の祖父の知り合いが学校の関係者で、薦められるままに推薦入試を受けていたのだ。結果は文句なしの合格。その日はふて腐れた四葉以外のみんなでささやかながらお祝いをしたものだ。
 ところが、あとは手続きを済ませるだけという段になって突然「止める」と言い出したのだ。これには四葉以外のみんなが腰を抜かして驚いた。当の本人はといえば「授業料ボッタクリだし、お金に見合うだけの授業が受けられるとは限らないでしょ」と言ってのけては年長組を大いに呆れさせたのだが、それがただのポーズに過ぎないということは誰の目にも明らかだった。
 代わりの進学先は咲耶や千影、四葉たちと同じく学園の高等部。どちらかといえばスポーツで名を売るタイプで、文化系は物的にも人的にも少々扱いが悪い。恐らく、鈴凛が学校生活の中で得られる発見はほとんどないはずだ。
 鈴凛がなぜ、自分にとって不利ともいえる決断を下しただろう。なぜ、三年間を捨てるような選択をしたのだろう。メカ鈴凛を完成させ、兄の傍らに寄り添わせる。それが彼女の究極の目標だったはず。
 考えられる理由は一つしかなかった。
「鈴凛ちゃんもホントはずっと続いて欲しいって、ううん、ずっと続くと思ってる。どう? 違う?」
「違わない。ずっと続いて欲しい」
「だったらどうして」
 なおもしつこく食い下がる咲耶に一瞥を寄越し、鈴凛はぷいっと顔を背ける。
「……そっか。咲耶ちゃんも他の子と同じなんだね」
 鈴凛が突き放すように言う。だが、咲耶はなおも食らい付く。
「どういう意味?」
「言葉通りの意味。咲耶ちゃんならちゃんとわかってるって、そう思ってたのに」
「それぐらい、私だってわかってるわ」
 動揺を悟られまいと誤魔化したつもりが、却って不自然な口調になってしまう。
「それぐらいわかってる。わかってるから口に出さないだけじゃない。お兄様からの連絡と同じように」
「やっぱりわかってない。アタシは咲耶ちゃんが相手だから打ち明けてるの。他の子にそんなこと言えるわけないじゃない。そうでしょ?」
 鈴凛の不安はよく理解できた。というより、ほとんど毎日のように付き纏っているのだ。
 一人一人は大したことがなくても、それが十三人となれば一ヶ月の食費は軽く五桁を越える。一年間なら軽く六桁に届くし、学費はそれ以上。姉妹全員が同じ学園に通っているが、団体割引が適用されるはずもない。電気水道その他諸々を含めれば一体どれだけの金額になることか。
 そして、それらは全部兄が負担している。咲耶たちが用意したのはクローゼットの中身ぐらいなもの。それが何を意味しているか、わからないはずがなかった。咲耶も、鈴凛も、他の妹たちも。本当に気付いていないのはミカエルぐらいなものだろう。
 押し黙る咲耶をよそに、鈴凛は残りのホットケーキを淡々と口の中にねじ込む。一見して冷淡にも思える鈴凛の態度だが、それがあくまで表面的なものに過ぎないということを咲耶は知っていた。
 キッチンからは白雪の楽しげな鼻歌が途切れ途切れに流れてくる。咲耶はできるだけそれに意識を集中し、鼻をすする音が聞こえないように努力した。
 鈴凛の顔が不意に起き上がったと思うと、その直後、四葉が口をもごもごさせながらキッチンから駆け戻って来る。
「ふぃんふぃんふぁん、おふぁふぁふぇふぇふぅ」
「おふぉーい」
 弾みをつけながら鈴凛は上体を起こした。
「ふぉふぇんふぁふぁいふぇふ」
「ふっふぁふぃ、ふぁふぃふふぁふぇふぁふぁふぁい」
 どうやら会話が成立しているらしい。鈴凛は足元の鞄を手にのっそりと立ち上がり、そこへ四葉がやって来て合流した。
 咲耶に向けて小さく手を上げた鈴凛はそのまま部屋を出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと待って。他の子たちは?」
「ふぁ?」
 鈴凛が一度喉を鳴らしてから胸をどんどんと叩く。すっかりいつもの鈴凛だ。
「あー、アタシが見たのは可憐ちゃんと鞠絵ちゃんと春歌ちゃんかな。後は知らない」
 その隣で四葉は相変わらず口をもごもごさせている。
「ふぃふぁふふぃふぁんふぁふぁふぃっふぃんふぇ」
「白雪ちゃんがキッチンで」
「ふぁふぉふふぁんとふぁふぉふぁんふぁふぁふぁふふぇふぃふぃふふぃふぁいふぇふ」
「衛ちゃんと花穂ちゃんがまだ上にいるみたいデス、ってどうしてアタシが通訳してるのよ。日本語で喋りなさい、日本語で」
「ふぁーい」
「だから日本語でOK」
「まあまあ、わかればそれでいいんだから」
 四葉が直す気配を見せないので、咲耶は慌てて会話に割り込んだ。
「引き止めてゴメンね。ほら、後は私に任せてさっさといってらっしゃい」
「わかってますってば。でも、今日はずっと練習だからあんまり行きたくないんだけどね。正直時間の無駄」
 不満を隠そうともしない鈴凛の傍らで、激しく同意とばかりに四葉が頷く。
 そこへぱたぱたというスリッパの足音が近づいて来る。
「あら、それでは在校生の立場がなくなってしまうですの。みんなを気持ちよく送り出そうとしてますのに」
 向き直った三人は一様に驚いた。それもそうだ。白雪の顔はホットケーキの山で隠れていたのだから。
「だ、大丈夫なの……?」
「これぐらいは平気のへいざですの」
 両手で抱えた大皿の上におよそ三十センチ。白雪が小柄なので余計に大きく見える。呆れるよりも先に、よくもまあこれだけ焼いたものだと感心してしまった。テーブルの上に置いた途端、山全体がぐらっと揺れる。
「それに、可憐ちゃんにばかりおいしいところを取られても平気ですの? 卒業生代表で答辞を読み上げるって、なかなかできることじゃないと思いますの」
 両手を腰に当てて言い放つ白雪に対し、鈴凛はきな臭そうな顔で頭を掻く。
「うーん、そうは言ってもねー。アタシらヒラの卒業生に何ができるんだか」
「じゃあ、壇上でパフォーマンスするというのはどうデスか? 怪盗クローバーがサッソウと登場するとか」
「それ、本当にやったらお兄様が泣くわよ」
「あら、咲耶ちゃん。おはようございますですの」
 白雪はようやく咲耶に気付き、大皿を咲耶の方へ動かす。
「さあさ、冷めないうちに召し上がれですの」
「でも、こんなに焼いてどうするのよ。みんな食べ終わったんでしょ?」
「ところがそうでもないですのよ。後は咲耶ちゃんと千影ちゃんと……そういえば、亞里亞ちゃんと雛子ちゃんのランドセルがキッチンのテーブルに」
「ウソ。あの子たち、もうとっくに出たと思ってたのに」
 雛子一人なら急かせられるが、歩みの遅い亞里亞が一緒となるとそうもいかない。咲耶は時計を見た。そろそろ危ない時刻だ。
「ねぇ、鈴凛ちゃんは見てないの?」
 そう水を向けたのだが、当の鈴凛は視線をあちこちにさまよわせた挙句に答えがはっきりしない。
「え? ええっと、その、あー、うん、見てない見てない。ね、四葉ちゃん?」
「そ、そうデスそうデス、ゼンゼンちっとも見てないデスよ。この名探偵の推理力をもってしても、今の雛子ちゃんたちを見つけるのは不可能なのデス」
「もうお手上げだなんて、今朝は嫌に諦めが早いのね」
「だって、見つけても雛子ちゃんに――」
「あーあーあー! もっももももうがっこ行かなきゃ! ね? ね? ほらほら、遅刻したらヤバいんだし」
 口を塞いで止めた鈴凛は、そのまま引っ張り上げる格好で四葉を連行して行く。
「変な二人ね。さっきまであんなに嫌がっていたのに」
「ほら、今日は一時間目から練習ですから。体育館に直接忍び込むのはさすがに恥ずかしいですの」
「ああ、なるほどね」
 咲耶は頷きながら納得した。鈴凛だけならともかく、四葉が一緒となるとほとんど不可能に等しい。何しろ、四葉の潜入は騒々しいこと極まりないのだ。というよりもはや潜入ですらない。
「というわけで、姫たちも急ぎませんと」
「そうね。ヒナちゃん捜しは一人でやるから、白雪ちゃんはさっさと学校に行って」
「すみませんですの」
 食器を片付ける白雪を背に、咲耶は廊下へ飛び出した。左右を確かめても人影はない。天井からは相変わらずばたばたと走り回る音がするが、これは衛か花穂のものだろう。雛子の歩幅ではないし、亞里亞に至ってはそもそも走らない。
 とりあえずトイレや洗面所を巡るが、どこを覗いても二人の姿はなかった。裏口はありひなサイズのサンダルが揃っているので、最近始めた家庭菜園の水遣りというわけでもなさそうだ。
「ホント、どこ行ったのかしら……」
 ふと漏らした声が上擦っている。自覚はないが相当焦っているらしい。たかが遅刻程度でと思わなくもないが、それと同じぐらいに、自分が何とかしなくては、という気持ちも募る。
「お兄様がいないんだから、私がしっかりしなきゃいけないのよ」
 上の階にいるかもしれないと考え直し、咲耶は廊下を逆戻りする。
 玄関の前に差し掛かったその時、ある扉の前で寝そべるミカエルの姿が目に止まった。それだけなら別にどうということもないが、咲耶の意識に引っ掛かったのはその格好だ。扉の木枠の間に四肢を突っ張らせ、まるで閂のよう。
「ミカエルー。ミカ。ミーカー、おいで。ほら」
 手招きするが、ミカエルは一度鼻を鳴らしただけでぷいっとそっぽを向く。これはおかしい。咲耶の中で急に疑惑が高まった。いつもなら尻尾をふりふり歩み寄って来るというのに。
 そんなミカエルが閉ざしているのは応接と物置とを兼ねた部屋だ。普段から人が立ち入ることは少なく、リビングの騒々しさは避けたいが、かといって自室に篭るのは少し寂しい――そんな時に使われる。無論、学校が終わって以降の時間に限られるのだが。
「まさか、ね」
 咲耶はミカエルの目の前に腰を下ろし、手を差し出した。しかしミカエルは、臭いを嗅ぐどころか見向きもしない。目を合わせようと覗き込んでもその都度そっぽを向いて咲耶の視線を嫌がる。それで疑惑が確信に変わった。隠し事をしている時は目を合わせたがらない。犬も人間も同じだ。
 おもむろに立ち上がってドアノブに手を掛けると、ミカエルは慌てた素振りで扉に全身をくっつける。何としてもここを通させないという決意が感じられる。鼻面に皺を寄せるなど温厚なミカエルらしくもない。よっぽど強く命令されたのだろう。
「あらまあ、ミカエルも大変ね」
 咲耶は同情しつつ、それでもなお非情にドアノブを回す。
「でも、ごめんね」
 扉を押し込むと、ミカエルの身体がずるずると向こう側に倒れた。
「ここって押して入るドアだから」
「もーっ、ミーカーエールー。ちゃんと通せんぼしなきゃダメって言ったのに!」
 即座に叱られたミカエルは、咲耶の足に身体を擦りつけながら後ろに隠れる。咲耶はこみ上げる苦笑を押し隠し、わざとらしいしかめっ面を作ってからひょいっと中を覗き込んだ。
「ダメでしょ、ヒナちゃん。ミカエルはちゃんと頑張ったのに」
「えっ、咲耶ちゃんなの?」
 雛子は一瞬「しまった」という顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻す。既に制服へ着替えている雛子だが、髪はなぜか片方だけしか結んでいない。
「どうしたの? ヒナたちに何か用?」
「たち?」
 よく見ると、雛子の陰に隠れる格好で亞里亞が椅子に腰掛けていた。編みかけの髪もそのままに、膝に乗せた皿から黙々とホットケーキをついばんでいる。フォークに刺した一片を「はい、雛子ちゃん」と肩越しに突き出したところで咲耶に気付き、にこっと微笑んでみせた。
「あのね、ヒナね、亞里亞ちゃんの髪を結んであげてるの。ね、亞里亞ちゃん?」
 亞里亞は無言でこくんと頷き、さらにフォークを突き出した。雛子は「ありがと、亞里亞ちゃん」と即座にパクつく。
「それは見てわかるけど、でも、だからってこんな場所でやらなくても」
 亞里亞の髪は二つ目のお団子で止まっていた。完成までにはどんなに咲耶が急いでも十分は掛かるのに、雛子一人なら果たしてどれぐらい掛かることか。
「それに千影はどうしたの? 亞里亞ちゃんの世話は千影の役目じゃない。自分の髪を途中にしなくたっていいでしょう?」
 つい詰問調になってしまい、雛子の表情がたちまち掻き曇る。咲耶は慌てて言い繕った。
「ええっと、あのね、そういう意味じゃなくて、向こうでやれば誰か手伝ってくれたんじゃないかなーって。ほら、三つ編みだったら可憐ちゃんとか鞠絵ちゃんとか上手じゃない」
「違うの。だから、ヒナたちはこっちに来たの」
「どうして?」
 咲耶が近付くと、雛子は手にしたブラシを身体の後ろに隠してしまう。
「だって、ヒナが亞里亞ちゃんの髪を結んであげるのに、手伝ってあげようかって言ってみんなでジャマするの。別にこれぐらい、ヒナは一人でもできるんだから」
 雛子は軽く胸を張りながら唇を尖らせる。さっきから言葉の端々に誉めて欲しいオーラが滲み出ている。
 姉妹の中では身長も年齢も一番下の雛子だが、亞里亞に対しては何かと世話を焼こうとする。それには亞里亞の特殊な育ち方も影響しているが、それ以上に雛子が背伸びしたがっていることの方が大きい。最近の雛子は子供扱いするとすぐにヘソを曲げてしまうのだ。
 しかし、それらを抜きにしても姉が妹に甲斐甲斐しく世話されている絵というのはあまりいただけない。普段から仲良しな二人だからいいようなものの、我関せずとばかりにホットケーキを食べ続ける亞里亞を見ていると雛子が可哀想に思えてしまう。
 千影を呼び付けたい気持ちをぐっと飲み込み、咲耶は雛子の頭をやんわりと撫でる。
「うん、それは見てわかるけど、ヒナちゃんの髪がまだ途中じゃない」
「ヒナのは後でやるからいいの。すぐにできちゃうし、それに咲耶ちゃんだってまだだよね。あっ、そうだ! 咲耶ちゃんのもヒナがやってあげるね。亞里亞ちゃんの後でよかったらだけど」
「……ありがとう、ヒナちゃん」
 慌しく出て行く白雪の悲鳴を遠くに聞きながら、咲耶はゆっくりとかぶりを振った。
「でもね、今が何時か知ってる? 亞里亞ちゃんと一緒に行くんだったらすぐに家を出なきゃ」
 文字盤の向きを合わせて腕時計を見せると、雛子は「ええっ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「咲耶ちゃん、あのね、ヒナ、今日お当番なの忘れてたの」
「当番って、クラスの日直?」
 雛子は弱々しく頷いた。強気な態度から一転してすっかりしょげ返っている。
「だったらすぐに行きなさい。後は私がやるから」
 ブラシを取ろうと手を伸ばすと、雛子は後ろ手のままでいやいやと首を振りながら後ずさった。
「で、でも、亞里亞ちゃんのがまだ途中だもん」
「だからって、遅刻はしたくないでしょう?」
 一度は首を縦に振る雛子だが、すぐさま左右に動かした。
「ダメ、やっぱりヒナがやるのっ」
 雛子は亞里亞を軸にしてその向こう側へ逃げてしまった。盾にされた亞里亞は、きょとんとした顔で二人の顔を交互に見ている。
「だから、咲耶ちゃんは自分のをやってて」
 咲耶は苦笑いし、軽く膝を曲げて目線を合わせてから雛子を手招きする。
「わかったからこっちにいらっしゃい。そっちに行ったままじゃ、編みたくても編めないでしょ」
 しかし、雛子はなかなか疑り深い。
「ホントに? ヒナがやるんだよ?」
「私は手伝ってあげるだけ。そうじゃないと遅刻しちゃうから。それとも、お兄様に笑われてもいいの?」
 その途端、雛子の顔色がさあっと変わる。
「ダ、ダメ! もし遅刻しても、おにいたまにはナイショのヒミツなの!」
 意外と大きな反応に気を良くした咲耶は、ここぞとばかりにダメ押しをする。
「そんなの当たり前よ。もちろん、私とヒナちゃんの秘密にしてあげる。絶対に言わないわ。でもね、遅刻の回数って通信簿に書かれちゃうから、それを見たお兄様が――」
 今度は薬が効き過ぎたようだ。咲耶を突き飛ばさんばかりの勢いで駆け戻った雛子は、
「咲耶ちゃん、早くして! ヒナはこっちをやるから、咲耶ちゃんはそっち」
 と、すっかりその気になっている。作戦はうまくいったようだ。
「はいはい、わかったわ」
「もうっ、お返事は一回だけなのよ?」
「はい、わかりました」
 もしかして、罠に嵌ったのは私の方なのかも。
 眉間に皺を寄せる咲耶をよそに、亞里亞が手の甲で口元を隠しながら優雅にあくびした。





 Next