3
亞里亞のお団子は半分までできていたので、後は大した作業でもなかった。
残った髪を細い三つ編みにするのが咲耶。その房を丸く団子に巻き上げるのが雛子。雛子の力では編み込みが緩く、あまり見た目はよくなかったが、咲耶は敢えて手を出さなかった。直せば雛子のプライドを傷つけるだろうし、もし亞里亞が不満に思ったとしてもそれは千影の責任というもの。そもそも、千影がしっかり面倒を見ていればこんなことにはならないのだ。どちらも可愛い妹だが、どちらか一方をと言われれば迷わず雛子を選ぶだろう。雛子とはそういう間柄なのだ。
「さ、亞里亞ちゃん。できたわよ」
亞里亞は肩越しに頭の後ろを見たり、お団子を下から叩いたりして具合を確かめていたが、やがてにっこりと笑った。
「雛子ちゃん、咲耶ちゃん、ありがとう」
ぺこりと頭を下げた亞里亞は、礼を言った順に抱き付いて感謝の気持ちを表す。今日はいつもより念入りで、頬まですり寄せてくる。ふと隣を見ると、雛子が心持ち赤らんだ頬を呆然とさすっていた。
「それじゃあ亞里亞ちゃんはランドセル取って来てくれる? 亞里亞ちゃんとヒナちゃんの分」
「ランドセル、どこ?」
「あ、ヒナ知ってるよ。取ってくるね」
「ちょっとヒナちゃん」
駆け出そうとする雛子の腕を取って捕まえると、亞里亞に「キッチンにあったから」と耳打ちしてそっと背中を押した。亞里亞なりに急いで出て行くのを見送ったところで、雛子が不満そうに鼻を鳴らした。
「亞里亞ちゃんじゃなくてもヒナが行ってきたのに」
「そうじゃなくて、今のうちにヒナちゃんの髪を括るのよ。時間ないんだから」
「でも、咲耶ちゃんはまだぜんぜんできてないよ?」
「私はいいの。自分でやるんだから」
「じゃあ、ヒナも自分でやるの」
雛子は唇をへの字に曲げ、精一杯の抵抗を試みている。
「でも、今日はダメよ。遅刻したくなかったらね」
咲耶は雛子の頬を両手で挟んで固定し、じっと目を覗き込む。最初の方こそきつい目付きで睨み返す雛子だったが、すぐにしょんぼりと目を伏せてしまう。
「自分でやるのは、明日ちゃんと早起きできたらね」
身体を回して前後を入れ替えると、雛子は無言でこくんと首を振った。
改めて雛子の頭を見るが、よほどに慌てていたのだろう。分け目といい束ね方といいやっつけもいいところで、このままでは恥ずかしくてとても外へ出せない。機嫌を損ねるのを承知で一旦全部下ろすと、咲耶は手早くリズミカルに髪を梳かす。肩の強張り方で雛子が怒っているのがわかったが、それも長続きはしなかった。やがていつものように咲耶へ寄り掛かる。
「ねぇ、ヒナちゃん。今朝は急にどうしたの?」
「急にって、何が?」
「私をわざと起こさなかったりとか、亞里亞ちゃんの髪のこと」
「あっ、それはね」
背筋を伸ばし、自力で立ち上がりながら雛子は言う。
「だって、ヒナは四月から『ちゅうがくねん』だから」
「ちゅう……ああ、中学年ね」
「ヒナは三年生になって、亞里亞ちゃんは四年生で、だから、ヒナと亞里亞ちゃんはおんなじちゅうがくねんなの」
「そっか。亞里亞ちゃんにはやっぱり負けたくないか」
雛子は肩越しにちらっとだけ振り向いたと思うと、すぐに前へ向き直った。
「何、どうしたの?」
「ううん、何でもないの」
そう言ってくすくす笑うので問い詰めるのはなしにした。
「ヒナちゃんは学年が上がって嬉しいのね」
「じゃあ、咲耶ちゃんは嬉しくないの?」
「えっ?」
咲耶は一瞬息を詰まらせた。
「別に、そんなことないわよ。学年が上がれば身体も大きくなって、今より立派になった胸でお兄様を悩殺できるんだから」
「ヒナも咲耶ちゃんみたいになれる? すっごいないすばでぃーになって、おにいたまをのうさつできるようになれる?」
「当たり前よ。だってヒナちゃんは私の妹なんだから」
「そうだよね。絶対に絶対にそうだよね」
何度も頷きながら呟く声はどこか寂しげで、そして大人びて聞こえた。
「ヒナちゃん……?」
「あのね、咲耶ちゃん。ヒナね、何だかよくわからないけど、今すっごくやなこと考えちゃったの」
「嫌なこと、って?」
咲耶はある種の確信を持って問い質した。しかし雛子は、首を左右に振ってそれを拒む。
「学年が上がってもいいことばかりじゃないって、ヒナは知ってるよ。だって、衛ちゃんは来年から中学生でしょ? 白雪ちゃんは嬉しいかもしれないけど、花穂ちゃんはすごくさびしいと思うの。花穂ちゃんと衛ちゃんっていつも一緒の仲良しさんだから」
明るい声が却って痛々しく聞こえてしまい、咲耶は「そっか」と相槌を打つのが精一杯だった。
「あ、でもね、ヒナは平気だよ。だって、ヒナは花穂ちゃんみたいな泣き虫じゃないし、最後にヒナだけ初等部に残っちゃうけど、でも、おうちに帰ればまたみんなと一緒だもん。だからね、ヒナは大きくなるの、ぜんぜん怖くないよ。もっともっともーっと大きくなってキレイになって、おにいたまのお嫁さんになるの。ね、いいでしょ?」
あくまで前向きな言葉に、咲耶はもう笑うしかなかった。
「でも、お兄様のお嫁さんになれるのは一人だけなのよ」
「じゃあね、月曜と水曜と金曜がヒナで、咲耶ちゃんは火曜と木曜と土曜がおにいたまのお嫁さん。日曜日は亞里亞ちゃんとかに貸してあげるの」
「……もう、ヒナちゃんったら」
咲耶は目の前の小さな背中を抱き締めようとして寸前で思い留まった。今抱き締めたら自分の胸が張り裂けてしまうに違いない。不安や恐れを無理矢理に押し込めたこの胸が。雛子にこれ以上感付かれてはならないのだ。あんな思いをするのは私だけで十分だ。
そして咲耶はふと考えてしまう。
――このまま時間が止まってしまえばいいのに。
永遠に今日を繰り返し、明日は決してやって来ない。ずっとずっとずうっと、一つ屋根の下で十三人が暮らしてゆく。始まりと終わりの結び付いた世界で、楽しいことも悲しいことも同じ場所をひたすら巡り巡る。もう誰とも出会わない。もう誰とも別れない。辛い思い出ばかりが増えてゆくのなら、いっそこのまま時間が止まってしまえばいい。
だが、それは決して許されない。可能であったとしても許されない。
永遠の今を望むこと。それは自分の、雛子の、皆の成長を否定することだ。妹の成長を喜べないなんて、そんなのはお姉ちゃんでも何でもない。
それに、時間が流れなければ兄は永遠に誰のものにもならないのだ。自分だけの人になってくれる可能性を得るためには、誰かに取られてしまうという可能性を賭けねばならない。
そう、答えはもう出ている。
時間がその流れを決して止めない以上、自分もそれに沿って歩き続けるしかないのだ。たとえどんな出来事が待ち受けていようとも。
雛子が不意に何かを思い付いたらしく、あっ、と声を弾ませた。
「ねぇねぇ咲耶ちゃん。千影ちゃんってどこかで見なかった?」
「ううん、私は見てないけど」
「咲耶ちゃんもわからないの?」
括っている途中で首を傾げようとするので、咲耶は一旦バンザイのポーズをした。
「それでね、わからないのは亞里亞ちゃんもなの。亞里亞ちゃんはいつも変だけど、今日の亞里亞ちゃんはいつもよりもちょっと変なのよ。千影ちゃんのこと、ぜんぜん呼ぼうとしないし。これってすごく変だよね?」
「うーん、そういえば変ね。いつもなら見てて鬱陶しいぐらい一緒なのに」
「いっしょだと、う、うーっとし?」
「うっとうしい?」
「うっとうしく、見えちゃうの? ヒナと咲耶ちゃんも」
「大丈夫よ。誰にも見られなかったらね」
そう言って頭を撫でると、安心したらしい雛子がまた少しだけ寄り掛かって来た。大人びた考え方をしていても、それは爪先で立っている間だけだ。
「そんなに遠慮しなくてもいいのよ。もっとがばーって」
「ヒナは亞里亞ちゃんと違うんだよ? だって、あんまりくっついたら咲耶ちゃんのジャマになっちゃうもん」
「はいはい、わかったわかった」
「はいは一回だけなの。じゃないと、また春歌ちゃんに怒られちゃうんだから」
思わず苦笑し掛けたその時、亞里亞が二人のランドセルをずるずると引っ張りながら姿を現した。文字通り、亞里亞には少し荷が重かったらしい。亞里亞の額には薄く汗がにじんでいた。
「ご苦労さま、亞里亞ちゃん」
「咲耶ちゃん、ヒナの髪」
雛子が下ろした髪の両側を掴んでアピールする。そういえばまだ途中だった。
「っと、ちょっとのんびりしすぎたかしら」
「咲耶ちゃん、急いで急いで」
手早く雛子の髪を縛ると、ランドセルを背負わせながら玄関に連れて行く。雛子がその途中、括った髪の先を下から跳ね上げて具合を確かめていた。
「さあ、危なくない程度に急いでね。お当番はちょっと微妙かもしれないけど」
靴を履きながら雛子が振り返った。
「あり? 咲耶ちゃんはいっしょじゃないの?」
「そうしたいんだけど、ほら、窓とか閉めてかなきゃいけないから。低い所も高い所も全部ね」
さりげなく牽制すると、それに感付いた雛子が少し拗ねた調子で小さく口を動かす。
「ヒナがお手伝いできたらすぐ終わっちゃうのに」
「もっと大きくなったらね。その時は頼りにしてるから」
「うん」
雛子は勢いよく頷いて、傍らの亞里亞の世話を焼き始める。セーラーを整えたりスカーフの結び目を直したりと千影並に細やかだ。
そして世話されている方はといえば、階段の踊り場をじっと見つめたまま微動だにしない。元より落ち着いた雰囲気の子ではあるが、今朝の亞里亞は普段に輪を掛けて物静かだ。
「千影なら、私がちゃんと探して追い掛けさせるから」
そう声を掛けると、亞里亞は初めて咲耶の存在に気付いたように目を見開く。そして、うっすらと微笑んだ。
「ううん、いいの。姉やはね、今は――」
「亞里亞ちゃん、いこ」
「あっ」
急ぐ雛子に手を引かれ、亞里亞はよたよたと走り出す。
「走ったら危ないわよ、ヒナちゃん」
返事はなかった。代わりに二組の足音が素早く遠ざかって行く。聞こえなかったのか聞こえないふりをしたのか。今の雛子ならきっと後者だろう。
疲れをため息に乗せて吐き出すと、まるで時報のようにお腹が鳴った。時計を見るともう制限時間いっぱい。本当に急がないと本格的に危ない。残るは朝食と身支度のフィニッシュ、そして戸締り。今朝がホットケーキで本当によかった。食べながら歩き回れるので、あと十分あれば家を出られるだろうか。
「さーてさて。ここで私が遅刻でもしたらお姉ちゃんの名折れよね」
腕をぐるぐると回し、踵を返してダイニングに戻ろうとする咲耶。いい加減お腹が空いてきた。健康的な肉体は規則正しい三度の食事から。食事抜きはダイエットにもよくない。花穂や鈴凛がいい例だ。
だが、事は咲耶の思うように運んでくれない。しばらく静かだった二階が再び騒々しくなり、どたどたという足音が頭上を駆け抜けて行く。
一度は無視を決め込んで歩き続ける咲耶だったが、やはり義務感には勝てなかった。
「まったくもう。何? 今度は一体何なのよ?」
扉の向こうから漂うのはホットケーキの甘い誘惑。少しつまんでからとも思ったが、一口食べたが最後、そのまま座り込んでしまいそうな気がする。ようやく振り返っても、未練とやるせなさが咲耶の足を鈍らせる。
しかし、それが結果的に幸いした。
階段を登ろうと思ったその瞬間、何かが鼻先をかすめてどさっと落ちた。
「ひっ!」
咲耶は慌てて飛び退る。ニアミスした物体がランドセルだとわかった直後、今度は人影が音もなく静かに降り立つ。初等部の制服を着た人影――衛は、階上に向かって声を張り上げる。
「花穂ちゃん、早く早く! 急いでよ」
「ちょっと衛ちゃん。今何をしたのよ」
「えっ?」
咲耶に気付いた衛は、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ごめんね、咲耶ちゃん。ボク、二階ぐらいまでの高さが限界なんだ。三階はさすがにちょっと怖くて」
「そうじゃなくて、下にいる人のこと考えなかったの? もう少しでぶつかるところだったんだから」
「あ、そういう意味だったの? うん、今度から確認して飛ぶよ」
と、あまり悪びれた様子はない。今が成長期の衛は身長こそ咲耶とほぼ互角にまで伸びたが、年齢では下から数えて四番目だ。短い髪や活発な性格と相まって余計に子供っぽく見えてしまう。
「それも違います。普通は二階から飛び降りたりしないって意味。誰かが真似したらどうするの?」
「そんなの、咲耶ちゃんは心配しすぎだよ。亞里亞ちゃんや雛子ちゃんがそんなことするわけないじゃん」
「67点。四葉ちゃんの存在を忘れてるわ」
「あ……」
思わず顔を見合わせる咲耶と衛。
「あの子、ただでさえ怪盗クローバーごっこで無茶なことやってるんだから」
「でも、四葉ちゃんって結構頑丈だよね。前に雨どいによじ登った時なんかそこから木に飛び移ろうして落っこちてるけど、すり傷だけであとは全然平気だったし」
「あれは生垣がクッションになってただけでしょ」
「ま、衛ちゃーん。今行くからぁ」
そんな二人の間にちょうど真上から割って入る声があった。見上げると、ランドセルを背負った花穂が手摺りから身を乗り出している真っ最中だった。
「50点……じゃなくて、花穂ちゃん何してるの? 危ないから普通に下りなさい」
「そうだよ。無理しないで普通に来てよ」
しかし花穂は、腕をがくがく震わせながらも飛び降りる気満点だ。花穂の目を見ればすぐにわかる。狙った獲物は逃がさない――そういう目付きだ。
「だって、花穂と衛ちゃんはずーっと一緒なんだから、衛ちゃんにできて花穂にできないことなんてないもん」
「えっ、そうかなぁ? 逆上がりとかバク転とか結構あると思うけど」
普通に返してしまう衛に対し、花穂はじれたように一層ボルテージを高める。
「それに衛ちゃんなら……衛ちゃんなら花穂のこと、絶対何とかしてくれるからっ」
「なっ、何とかって一体何なの?」
「飛び降りる花穂を衛ちゃんが受け止めるの。お姫さまだっこで」
そこでようやく衛が焦った声を出した。
「ダ、ダダダダダメだって! 無理! いくらボクでもそれは無理だから!」
「そうよ、止めなさい。マンガとかアニメじゃないんだから」
「無理じゃないもん。衛ちゃんなら絶対できるもん」
花穂はすっかり駄々っ子モードだ。さっきまでの雛子とは比べようがない。
「そんなの勝手に決めないでよ」
「じゃあ、花穂が床の上に直接飛び降りて、失敗して足の骨を折っちゃってもいいの? そしたら衛ちゃんは初等部に戻って来て、歩けない花穂をおぶってくれるの?」
そういうことね、と咲耶は納得した。いつになく花穂がナーバスになっていると思ったら、衛の卒業が相当堪えているようだ。
「それもダメだって。竜崎先輩に怒られちゃうよ」
言ってから縋るような目をこちらに向ける衛。だが、花穂が過剰に反応する。
「衛ちゃんは花穂だけ見てて!」
叫ぶ傍から花穂は手摺りを乗り越え、飛び降りる体勢に入る。これでは動こうに動けない。
「衛ちゃん、今行くからね。花穂のこと、ちゃんと受け止めてね」
だが、肝心の受け止める側がすっかりパニック状態だ。
「ああっ、ど、どうしよう? ボク、どうすればいい?」
「どうすればって、とにかく頑張るしかないじゃない」
「頑張る? どうやって?」
「頑張るってほら、足に力入れるとか」
「じゃあ咲耶ちゃんも手伝ってよ」
「こんなのどうやって手伝うのよ」
「今は応援でも何でもいいからさ」
「じゃあ、花穂が応援してあげる」
とっさに頭上を仰ぎ見たのと、手摺りに乗っかった花穂が手を離したのが同時だった。そして案の定、バランスを崩して前のめりになる花穂。もう間に合わない……!
大惨事の予感に背筋を凍り付かせた瞬間、視界から花穂の姿がふっと消えた。反射的に視線を落とす二人。だが、床には何も見当たらない。
「花穂ちゃんが、消えた……?」
「何がどうなってるのよ」
二人は顔を見合わせるが、それで原因がわかるはずもない。目配せで短く会話すると、咲耶を先頭におっかなびっくりで階段を上がる。
「ねぇ、オバケのせいってこと、ないよね?」
「こんな朝から出るわけないじゃない……多分」
「たっ、多分?」
衛は咲耶の背中に隠れる格好でぴったりと貼り付いている。鈴凛もそうなのだが、姉妹の中では髪の短い子ほどオバケに弱いという不思議な傾向がある。人一倍臆病なはずの亞里亞も例外ではないのだから不思議だ。
「あんまりくっつかないでよ。危ないでしょ」
「で、でも、離れたほうが危ないってば」
「花穂ちゃんに見られたらもっと危ないわよ」
その一言でようやく離れてくれた衛だが、歩みが遅いのには変わりない。
いつもの倍近く掛けてたどり着いた二人が見たのは、あお向けに大の字で目を回している花穂と、羽交い絞めをしながらその下敷きになっている千影だった。その顔が目に入った瞬間、咲耶の頭にかあっと血が上った。
「ちょっ、千影! あんた何で今頃になって!」
目尻を吊り上げる咲耶をよそに、千影はあらぬ方を向いてぼそぼそと呟く。
「間一髪で花穂くんの確保ができたよ。危なかった。我ながらよくやったと思う。自分で自分を誉めてあげたいね」
しばらく花穂の下で身じろぎしていた千影だが、
「そろそろ助けてくれないかな? 花穂くんがこんなに……とは知らなくてね……」
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