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楕円形のテーブルの頂点は全員の顔が見渡せる場所だ。食事の際には兄の指定席となるが、それ以外の、例えば家計簿を付けようという時には勝手に座り込んでいる。兄は何も言わないし、妹たちにはもちろん何も言わせない。責任に見合うだけの地位は確保されて然るべきなのだ。可憐だけは未だに納得していないらしいが。
咲耶はホットケーキの山から一枚だけ手掴みした。食器の類は残らず片付けられていて、今さら取りに戻るのも面倒だった。そのまま小さく千切って口の中へ放り込む。白雪にしては珍しくプレーンなホットケーキだが、焼き色も焼き加減もちょうどいい。さすがの腕前だ。
ホットケーキは雛子と一緒に住んでいた頃によく作ったのだが、どういうわけかほとんど失敗ばかりだった。生焼けか黒焦げかの極端な出来上がりで、それでも雛子がおいしいと言って食べてくれたのを思い出す。
だが、雛子にホットケーキを作ってあげる機会はもうやって来ないはずだ。こうして皆で暮らしている限り。
「待たせたね」
半分ほど食べて人心地ついたところで千影が戻って来た。手にブラシと小物入れを提げている。
「あらかじめ言っておくが、場所が場所なので余計な手は加えない。あくまで髪の毛だけだ」
両手を広げて宣言するので、まるでマジックショーか何かのようだ。
「なるほど。妙に気が利くと思ったらそういう魂胆だったわけね」
「恩を仇で返されるのは面白くない」
「とかいって、ホントはメイクに自信がないだけでしょ?」
「うるさいな。私はそういう主義なんだ」
どうやら図星らしく、千影の顔がわずかに紅潮する。
咲耶はそれを見て、ずっと昔の、ある雪の日を思い出していた。千影の肌は雪のように白いのに、雪へ触れるとすぐに赤く染まる。咲耶が試しても赤くはなったが、千影ほど綺麗な色にはならなかった。肌ばかりではない。瞳も髪も鮮やかな色をしていて、それが幼心に羨ましく映った。何より、千影と千影のママはとてもよく似ていた。もし離れ離れになってしまっても、誰かが二人を見ればすぐに親子だと気付いてくれる。それぐらいに雰囲気が似ていた。
千影のママが純粋な日本人でないと気付いたのは、それから少し大きくなってからのことだった。
染めてない本当の金髪。
作り物じゃない本当の青い目。
そっか、あの子のママってガイジンだったんだ。
最初に亞里亞と会った時、すぐに思い浮かべたのは千影のママだった。その時はまさか、亞里亞のママと同一だとは思いもしなかったのだが。
「何をじろじろ見ているんだ。この歳ならむしろ当たり前だと思うが」
「はいはい。それじゃ、パパッとお願いね」
座り直して髪を背もたれの外に出すと、背中を伸ばして千影の手が入るのを待つ。いつも自力でやってばかりで、こうして誰かにやってもらうのは本当に久しぶりだ。日常的な行為のはずなのに何故か緊張してしまう。
もう一方の当事者といえば、こちらもまた戸惑いを隠せないでいる。背後でうろうろと足音が動き回り、一向にブラシの入る気配がない。
「千影。それぐらいで何ビクビクしてるのよ」
「そっちこそ頭の先が震えている。もう少し肩の力を抜いてくれないと困るんだが」
「別に緊張なんかしてないってば」
「ほう、それはそれは」
鼻で笑う音が聞こえた。
「妙にぎくしゃくしていると感じたら、これしきの事で緊張していたとは。意外も意外、実に意外だ」
「し、仕方ないじゃないの。いっつも自分でやってばっかりなんだから」
ムキになって言い返すが、対して千影はがらっと口調を変える。
「他人に背後を任せられないとは実に不幸せだよ。もう少し周囲の人間を信用したらどうだい」
どこか憂いを帯びた、哀れみさえ感じ取れるような声。同情されているようで咲耶は妙に腹が立った。そもそもは千影のせいなのに。
「そうじゃなくて、私はヒナちゃんたちを優先させてるって意味。どこかの誰かとは違ってね」
「いいや、同じことさ」
「またそんな屁理屈言って」
「きみの方こそ先入観を持ちすぎだ。もう少し私の話を――」
「いい加減しつこいってば」
咲耶は絡み付く声を振り払うように背後を見上げた。千影もまた、戸惑いがちに細めた目で咲耶を見下ろしている――だが、千影はなぜ戸惑っているのだろう。
互いに困惑を持て余し、睨み合いとは呼べない睨み合いがしばらく続く。そんな微妙な沈黙を破ったのは、千影の腹から鳴り響いた異音だった。
「お腹が空いたな」
全く表情を変えずに、だが、蚊の鳴くような声で千影は呟く。
「我慢してきたが、さすがにそろそろ限界だ」
「へぇー。自分の髪を整える暇があったのに?」
「花穂くんが絶好のタイミングで割り込んでくれたおかげでね。それにしてもさっきのは効いたよ。ランドセルの角が空きっ腹に食い込んでしまって」
あまりに情けなく聞こえるので、咲耶の心もつい動かされてしまう。
「食べる?」
千切ったホットケーキを突き出すと、千影は面食らったように口をもごもごさせた。
「いや、しかし、手掴みのようだが」
「食べるの? 食べないの?」
「食べるさ」
「だったら。ほら」
さらに突き出すが、千影はなかなか首を縦に振ろうとしない。
「食べるんじゃなかったの?」
「自力で食べる。恩の押し売りはご免だ」
「亞里亞ちゃんはそんなこと考えないわよ。ヒナちゃんにやってあげてたけど」
「亞里亞くんは手掴みでそんなことしない」
「神経質ねぇ。ヒナちゃんはそんなこと気にしないわ」
「私は雛子くんでもない」
「じゃあ、亞里亞ちゃん?」
「どちらかといえばそうなるな」
「でも、亞里亞ちゃんだったらそんなこと気にしないんじゃない?」
そう言うと、千影はふっと視線を外した。
「そういえばそうだな。亞里亞くんのいいところだ」
うっすらと微笑んだ千影は、咲耶の指先からホットケーキを受け取ろうとする。
「ちょっと待ちなさい」
おあずけをされ、千影の表情がみるみる険しくなる。
「何か?」
「何かじゃないわよ。油まみれの手で私の髪を触るつもり?」
「きみは知らないかもしれないが、毛根には皮脂腺というものがあって」
「屁理屈言わない。大体、髪の脂でどうやってホットケーキを焼くの?」
「では、私はどうすればいいんだ」
「そんなの決まってるじゃない」
咲耶は左右をちらっと確認し、わざとらしく咳払いした。
「仕方がないから食べさせてあげるわ。千影だけ働かせるのも悪いから」
「なるほど。私の攻撃材料を減らすつもりか」
相変わらず受け取り方がひねくれている。だが、声色を聴く限りはまんざらでもなさそうだ。
「仕方がない、せっかくだから受けてやろうじゃないか。これ以上不毛な論議を重ねるのは本意じゃない」
「わかったらさっさと動く。ほら」
人差し指だけで招くと、千影は身体を屈めて顔を寄せた。その無造作な接近ぶりに咲耶は思わず息を飲んでしまう。クォーターらしく目鼻立ちのはっきりとした顔。切れ長の目からは青い虹彩が覗き見える。認めたくはないが、間違いなく美人だ。
「バターも何もつけてないけど」
「いいさ、別に」
千影は事もなげに言い放つ。一時期は歯を見ることも難しかった千影だが、亞里亞のおかげもあってか最近は随分と隙を見せるようになった。例えば今がそうだ。崩したブラウスの胸元から中が覗き見えそうになっている。もっとも、こんな貧相なもので喜ぶ物好きは少ないと思うが。
「何か言ったかい?」
「全然別に。ほら、口開けて」
わかった、と素直に大口を開く千影。
これも亞里亞ちゃんのせいかしら。そう思いながら、咲耶はせっせとホットキーキを運んでやった。
案の定というか何と言うか、千影は妙に食べさせられ慣れている。あっという間に手持ちの分が無くなってしまった。
「とりあえずはこんなものかな。ごちそうさま」
「じゃあ、次は千影の番。ご奉仕してもらったお返しのご奉仕」
「わかっているさ」
腰を叩いて伸びをした千影は、おもむろにブラシをあてがって髪を梳かし始める。最初はどこかぎこちなかった手付きも、何度かブラシを上下させる間にスムーズに動くようになる。
「へぇ、なかなか上手じゃない」
リズミカルに髪を伝う感覚が心地よく、我知らず上擦った声を出してしまう。千影が鼻で笑った気がした。
「毎日やってあげているからね。嫌でも上手くなるさ」
やや自嘲めいた口ぶりで答える千影。その理由は聞くまでもなかった。
「ずっと自分のだけやってたんだから仕方ないわよね。私なんて皆のをやってあげてばかり。衛ちゃんと鈴凛ちゃんはずっと短いから必要なかったし、四葉ちゃんはさっきやってあげたから、後は春歌ちゃんだけかな」
「自分でやれることは自分でやる。日常生活の基本だよ」
「じゃあ、亞里亞ちゃんはどうなの」
「あの子は特別さ」
即座に返って来るので、咲耶は思わず問い返していた。
「それは、本当の妹だから?」
千影の手がふっと止まった。
しばらく置いて再び動き出すが、その心を反映したようにその動きは遅い。何かを探すようにのろのろと、ブラシが髪の間を掻き分ける。
「妹に、本当も本当じゃないも関係ない。きみと雛子くんだって――」
「ちょっと言ってみただけだから」
「そうか」
千影が素っ気なく答え、そのまま会話が途切れる。
今現在、姉妹の中で母親が同じとわかっているのは千影と亞里亞の二人だけだ。他は確認できていない。というより、お互い確かめ合わないようにしている。
血縁関係は探れば何が出てくるかわからないパンドラの箱。それは皆の誕生日からも明らかだ。
十二月の咲耶、二月の千影、五月の春歌。半年の間に三人。
それから二年を置いて、四月の鞠絵、六月の四葉、七月の鈴凛、九月の可憐。半年の間に四人。
これが何を意味しているのかわからない年齢ではない。母親は違うが姉妹。そこから導き出される結論はたったの一つだ。
それはあまりに残酷な事実だった。自分たちの父親に当たる人間がそんな非道な振る舞いをしたなどと、誰が認められるだろうか。そして『父親』を否定した瞬間に姉妹の縁は切れてしまう。母親も父親も違う、全くの赤の他人に戻ってしまう。
だから、千影と亞里亞の二人は特別視されている。誰も口にはしないが誰もが羨ましがっている。父親がどうであろうと、この二人は決して切れることのない絆で結ばれている。四葉と鈴凛の間にもなく、衛と花穂の間にもない。そして、自分と雛子の間にも。
「千影はさ、これからどうするの?」
「これから?」
「帰るんでしょ。フランスに」
「フランスのどこに」
「亞里亞ちゃんの家」
「ああ」
相槌とため息が混ざったような息が聞こえてきた。
「いつかはきっと、そうなるのかもしれないね」
「いつかっていつ?」
「わからないよ」
そして再び言葉が途切れる。髪を梳かす音だけが、がらんどうのダイニングに静かに響く。
「――しかし、急にどうしたんだい?」
今度は千影が問う番だった。
「今日の咲耶くんは少し変だ。神経質というか何と言うか――」
「バカじゃない? そう思う千影の方が変なのよ」
「そうか。案外そうなのかもしれないな」
千影は特に怒るでもなく、穏やかな声でさらっと受け流した。そんな余裕しゃくしゃくとも取れる態度が咲耶の神経を逆撫でする。
「千影は何も思わないの? こんな時期にお兄様が朝帰りなんて」
「そうか。きみの抱えている不安はやはりそれだったのか」
「えっ?」
振り返ろうとする咲耶だったが、千影に頭を掴まれて正面に固定される。
「前々から気付いてはいたが、確証を持つまでには至らなかった。だが、これでようやくわかったよ」
咲耶の顔がかあっと熱くなる。何もかもお見通しだった? そんなまさか。でも、いつもより従順だった理由がこれで説明できる。
「私をハメたのね」
「人聞きの悪い事を。策略でも何でもない。ただ、私が知りたいと思っただけだ」
「そんな言い訳で私が納得すると思うの」
「この際、きみの感情はそれほど重要ではない。重要なのはきみのポジションだ」
千影はそこで言葉を切り、間にため息のようなものを挟んだ。。
「きみはこの家の要だ。しっかりしてくれないと私たちが困る。ただそれだけのことだ」
「それだけって、本当にそれだけ?」
「全部言わせるつもりか? 誰もきみの変わりは務まらない。きみでなくては、私たち姉妹をまとめあげることすらおぼつかない。つまりはそういうことだ。わかったか? もう二度とは言わないからな」
最後にフンと鼻を鳴らして話を終わらせる。
「ふぅん、そうなの」
咲耶は適当な相槌を打ちながらも、千影が千影なりに認めていてくれたことに驚きを感じていた。だが、それとこれは別だ。
「で、結局何が言いたいわけ?」
「別に何も」
咲耶は何度目かになるため息を吐き出した。猫が威嚇するようにふうぅっと深く。
「いい加減にしなさいよ、千影。私を何だと思ってるの」
千影は答えない。というより、答えに迷っているようだ。息を飲む音が何度も聞こえる。
「もしかして、私を試してたりする?」
「何を、かな?」
図星とみえて、千影の声がかすれる。咲耶は耳に掛かった髪を掻きあげた。
「だっておかしいでしょ。隠し事のだーい好きな千影ちゃんがそんな思わせぶりな言い方してさ。脅すにしても中途半端なのよ。バレバレじゃない」
「……それもそうだな」
髪からブラシの抜ける感触がする。肩越しに確かめると、顔を俯かせた千影がブラシの毛先を弄んでいた。
「どうしたものか考えあぐねているんだ。言おうか言うまいか。今日のきみを見ていると、このまま喋っていいものか判断できない」
「だから、そういうのが思わせぶりだって言ってるの」
椅子の上に片膝を立てると、咲耶は身体ごと千影に向き直った。
「そんなの内容によるでしょ。聴きたくなかったら自分で耳を塞ぐから」
「いや、そういう問題でもないと思うが」
「じゃあ、さっきのは何だったの? 人を持ち上げるようなこと言っておいて今はそんな態度。もう少し信用してくれてもいいんじゃない?」
ああ、と生返事しながらブラシを弄り続ける千影だったが、やがて自分自身へ言い聞かせるように小さく何度も頷いた。
そして、唐突にこう切り出した。
「兄くんの行き先に心当たりがある」
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