ばたばた
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6
その瞬間、心臓がどくんと大きく跳ねた。身体じゅうを駆け巡る血と同調して、色々な考えが頭の中をぐるぐると回る。お兄様の行き先? お兄様はどこへ行ったの? 何をしに行ってるの? それより、どうして千影が知ってるの? どうして私が知らないの? どうして千影だけが――
「どういう、意味……?」
左の胸を押さえながら、それだけを言うのが精一杯だった。手の下では心臓が激しく脈打っている。百メートルを全力疾走した後よりも酷い。
そんな咲耶の様子を眉毛一つ動かさずに見守っていた千影だが、やがて、ブラシの先をぎゅっと握り込みながら口を開く。
「兄くんが許す限り、私たちは一緒に暮らせるということさ」
咲耶は黙って顔を上げた。
「だってそうじゃないか。ずっとバラバラだった姉妹を集め、一緒に住まわせてくれているのは他ならぬ兄くんだ。廃屋も同然だったこの家の改修も、生活費も、学費も、ほとんど全て。私たちが持ち出した物といえば、自分の匂いが染み付いたお気に入りのぬいぐるみぐらいなもの」
何をそんなに当たり前のことを言ってるのだろう。それだけのためにいちいち勿体ぶってるの?
無言の問い掛けが鋭い視線となって千影を射貫く。
しかし千影は動じる様子を見せず、「そうか」と言って頷いた。
「なら、私の言っている意味がわかるはずだ。私たちの全ては兄くんの掌の上にある。そっぽを向かれた途端に私たちは散り散りになり、そして二度と再び――」
「やめて!」
咲耶は椅子を蹴って立ち上がっていた。
「冗談でもそんなこと言わないで! お兄様がそんなことするはずないわ。千影だって覚えてるでしょ? お兄様はいつだって私たちの味方よ。私たちを必ず守ってくれる」
「そうとも、兄くんは私たちの騎士さ。白馬に跨って颯爽と現れ、囚われの姫君たちを救い出した」
淡々と紡ぎ出される言葉とは裏腹に、その顔には苦痛のようなものが浮かんでいる。
「じゃあ、どうしてそんなこと言うの」
「騎士には武具と馬が必要だ」
「いい加減にして。あんたのわかりにくい例え話はうんざりよ」
「ああ、それもそうか」
頬を少しだけ緩めて応える千影だったが、一度瞬きする間に元の表情へ戻っていた。
「では、最近の兄くんが弁護士と会っていることを、きみは知ってるかい?」
「――弁護士?」
全く予想もしなかった単語に思わずオウム返ししてしまう。千影は小さく一度頷いた。
「鞠絵くんに聞いた話だ。兄くんと二人、喫茶店で話し込んでいるところを病院の帰りに目撃したらしい」
「鞠絵ちゃん? 鈴凛ちゃんじゃなくて?」
千影はさらに強く頷く。
「鞠絵くんだ。ここに時々やって来るご老人を知っているだろう? 兄くんが『先生』と呼んでいるあの人だ。ひょろっと細長い瓜実顔をした」
咲耶の脳裏にふっと思い浮かぶ人物があった。
「ちょびヒゲで眼鏡を掛けたおじいさんね」
身なりの良さ、物腰の丁寧さからは、おじいさんというよりも老紳士という印象を受ける。そんな人だ。月に一度の割合で訪れ、兄と別室で話し込んでは去って行く。そんなこともあって咲耶たちと直接の係わりはないのだが、毎回お土産を携えているので年少組はもちろん、白雪の受けもいい。というのも、お土産の洋菓子が必ず一流パティシエの手による作品なのだ。お菓子作りには絶対の自信を持つ白雪だが、文句やケチをつけるどころか四葉から奪ったデジカメで撮影したり、細かく観察してはメモを取ったりと、彼女のパティシエール魂に並々ならぬ影響を与えている。時にはあまりに熱が入りすぎ、待ち切れなくなった亞里亞が泣き出してしまったことや、メモを取る前のを亞里亞に食べられて逆に泣き出してしまったことも。
「でも、その言い方だと、まさか……」
咲耶は誰に向けるでもなく、独り言のように呟いた。名前も素性も知らない――聞かされていない――のにそれをすんなりと受け入れていたのは、お土産の他にも、兄の下へも置かぬ扱いぶりがそうさせていた。だから、先生と呼んでいても中学か高校の恩師ぐらいにしか思わなかったのだ。
「そのまさかだよ」
千影の声が一段と低くなる。
「彼女が目撃したその時には、胸に弁護士バッジを付けていたそうだ」
弁護士バッジ。ドラマや何かでは時々見掛けるが、日常生活ではそんなに縁のあるものではない。
「けど、それって一目でわかるものなの? 鞠絵ちゃんには悪いけど、眼鏡掛けてるからちょっと」
「逆に考えればそれだけ信用できるということだ。人一倍思慮深い鞠絵くんが、何の根拠もなしに断定すると思うかい?」
それもそうかと納得し掛ける咲耶だが、別の疑問が浮かびあがる。
「その話って、他に知ってる子はいるの?」
「いや、鞠絵くんが私にだけと」
「千影だけ……」
目尻が吊り上がるのが自分でもわかる。千影が気まずそうに顎を掻いた。
「咲耶くんの気持ちはわかるよ。亞里亞くんと雛子くんの内緒話に割って入れない時に、似たような感情を抱くことがある」
「何よそれ。全然違うじゃない」
「そうかっかしないでくれ。きみがそんなだから、鞠絵くんが避けたとは思わないのかい?」
「私だって好きでキレてるわけじゃないわ。千影が間抜けなこと言うから」
「とにかく、だ」
千影は両手を小さく挙げて咲耶を制止する。
「彼女が言うからには信じてもいいと思わないかい? 何せ、どこかの賑やかしとは言葉の重みが段違いだ」
確かにそんな下らないことで言い争っても仕方ない。
「OK、わかったわ」
咲耶はこめかみに指を添え、考えながら言葉を紡ぎ出す。
「で、あのおじいさんが本当に弁護士だったとしても、それってそんなに特別なことかしら。お兄様以外は未成年なんだし、みんなの親との間に入ったって不思議はないと思う」
「しかし、兄くんは一介の大学生だ。少なくとも外見はそうだし、内面は私たちがよく見知っている通りだ」
「またそんな回りくどい言い方して」
咲耶の嫌味にも、千影はあまり気にした様子もない。
「こういう話はあまり好きではないが、あの兄くんに私たちを養うだけの収入があるとは思えない」
「それは……うん、そうね」
咲耶はいつの間にか腕組みしていた。
「株か何かに手を出しているわけでもないようだ。外に電話をしている形跡はないし、それに博打に手を出すような人でもない」
「携帯があるでしょ」
「忘れたのかい? きみたちがあんまり騒ぐものだから、そのおかげで通話先まで公開してくれているじゃないか」
言いながら眉を顰めているのは、自分を一緒にしないでくれということなのだろう。それは咲耶も同じ気持ちなのだが。
「あ、あれは可憐ちゃんとか春歌ちゃんのせいで――」
「今は同じことさ。どちらにせよ、兄くんの収入源は謎。そういう認識で構わないね」
「……そうね」
今までの出来事を思い出しながら咲耶は返事した。一家の家計を預かる身という兄に最も近い位置にいながら、咲耶はほとんど何も知らないままだった。
食費やお小遣い、その他諸々で必要なお金は必ず咲耶の手元を通る。だがそれらは、大本を辿れば兄の懐から出ているのだ。必要な額を言えば、言った分の額だけ月の初めに振り込まれている。メカ鈴凛が踊り場を踏み抜いて大穴を開けた時の修理代も、次の次の日にはちゃんと用意できていた。まるで打ち出の小槌のように。
この家で暮らし始める時もそうだった。
ここがみんなで暮らす家だよと連れて来られた場所は、長く放置されていた三階建ての洋館。最初は嬉しかった。こんな素敵な場所でヒナちゃんやお兄様と暮らせると、ほとんど浮かれていた。キッチンは白雪のわがままが最大限に反映されたし、薄暗かったバスやトイレにはリフォームが施された。衛の『雨の日でも運動したい』という願いには、並んだ空き部屋の壁を取り払ってフローリングを貼り替えることで応え、花穂の『広いお庭いっぱいにお花を咲かせたい』という望みには、どこからか呼び寄せたショベルカーで地面という地面をひっくり返した。他にも挙げればキリがない。本当に、本当に底なしだった。
だが、底なしであるが故に恐ろしくもなった。ある朝ハッと目覚めたと思ったら、何もかもが廃墟に戻っているのではないか。それまでの生活がただの幻となってしまうのではないか。
幸福が有限であることを咲耶は知っている。
――お兄様のくれた幸せはどこまで続くの?
咲耶の不安の源はそこにあった。そして、兄の背後に見え隠れする謎がその不安を一層煽っているのだ。
「でも、わからないものを無理に暴かなくたって」
「なるほど。それがきみの答えか」
「えっ?」
ハッと上げた顔に千影の視線が突き刺さる。どうやら、さっきからずっと見つめられていたらしい。
「兄くんの遠出と弁護士先生、そしてお金。これらを結び付けるものが一つだけある」
咲耶は答えなかった。千影がずっと躊躇っていた理由がわかってしまったからだ。今なら耳を塞ぐことができる。でも、本当にそれでいいの?
咲耶の葛藤をよそに、千影は「これはあくまで私の憶測だが」と前振りをした。
「土地だ」
「……土地?」
「そう、土地だ。遺産相続という形で不動産を所有していたとしても不思議はないし、私たちを取り巻く環境を考えれば極めてその可能性は高い。売ればまとまったお金になるうえ、それら財産の管理に弁護士が関わるのはごく当たり前のこと。そして、所在地に縁がなかったとしても何ら不思議はない」
咲耶の喉が勝手に鳴った。飲み下した唾が乾いた喉に痛む。
「じゃあ、お兄様が出掛けてるのはそれの手続きのため」
「そうでもなければ行き先をはっきりさせているはずだ」
「でも、どうして今になって」
言いながら、咲耶の脳裏にひらめくものがあった。
「……もうすぐ四月」
「今年は一挙に五人だ。お金はいくらあっても困るものではない」
そして千影は、唇の端を奇妙に歪める。
「兄くんは剣を質に入れてしまった。まだ甲冑や馬が残っているのかもしれないが、それも時間の問題だろう。やがては、裸の王様ならぬ裸の騎士だ」
その瞬間、咲耶の目の前が怒りで赤く染まった。
「そんな、他人事みたいにっ!」
千影の胸元を掴み上げて前後に激しく揺さぶった。
「そんな大事なこと、どうして今まで黙ってたの。答えなさい!」
吊るし上げられたままで口を開く千影。
「今のは私の憶測だ。それで非難されては困る」
「だったら言わなきゃいいでしょ」
「言えと言ったのはきみの方だ」
「隠してたのは千影よ」
「隠す必要があった。今のきみに言いたくなかったんだ」
「どうして? 私には知る権利があるはずよ」
「私だって知りたい。兄くんが何を考え、どこへ導こうとしているのか」
姉が激昂すればするほど妹の声は冷静さを増してゆく。
「あんたは別にいいわよ。いざとなったら亞里亞ちゃんに泣き付けばいいんだから。でも私は? 私たちはどうなるの? ヒナちゃんには私しかいないのよ」
「それはわかっている」
「わかってる? 冗談じゃないわ。あんたなんかに私の何がわかるって言うのよ!」
そう叫んだ途端、千影の瞳が怒りの色に輝いた。直後、全身に脂汗がどっと吹き出る。
「……うるさいっ!」
千影の怒鳴り声を聞いたのは初めてだった。片手で胸倉を掴み返され、わずかに踵が浮く。
「他人の考えなどわかるはずがない。誰にもわからないんだ。でも、私たちは何だ? 姉妹だろう? 他人は他人でもずっと近いはず、いや、近くなければいけないんだ。それぐらいのこと、きみがわからなくてどうするんだ」
咲耶は声が出なかった。あの千影が声を荒げたという驚きと、正論に対して返す言葉の見つからない悔しさと、他にも色々なものが混ざり合って咲耶の喉を押し潰す。
吐息の掛かる距離でじっと睨み合う姉妹。
そして、咲耶は気付いてしまった。
目の高さが同じだ。こっちは踵が浮いているのに、目の高さが同じだ。ああ、千影に追い越されてしまった。今までずっと、ほんの数センチだけ大きかったのに、とうとう妹に追い抜かされてしまった。
時間は決して止まってくれない。
やがて、どちらからともなく襟元の手を離す。踵を下ろすと、下ろした分だけ千影が高くなった。咲耶は急に泣きたい気分に襲われた。目の奥がちくちくして痛い。
千影が己の行いを恥じるかのようにそっぽを向く。
「不安なのは皆同じだ。私にも、きみにも、兄くんにも、誰にもわからない。これから先、私たちがどうなって行くのか」
しわがれた千影の声はすっかり落ち着き払っていた。さっきまで身体じゅうにみなぎらせていた怒りは、もはや微塵も感じられない。
「千影も、怖いの?」
「怖いさ」
まだ手にしていたブラシを制服のポケットにねじ込む千影だが、またすぐに取り出して頭の方をやんわりと握る。
「私だって怖いんだ。どうすればいいのかわからない。それに――」
千影は喘ぐかのように口篭った。
「それに?」
「それに、時々思うんだ。私たちをどうにかしなければ、兄くんは一生、悠々自適の生活を送れていたのかもしれないと」
「でも、まだそうと決まったわけじゃない」
言いながら咲耶は、それがただの願望に過ぎないと自覚していた。認めたくはないが、今は千影の言うことが正しい。そうとも感じていた。
「――できれば、そうあって欲しいものだね」
と、千影が咲耶の両肩に手を置いた。
「途中だった」
「えっ?」
「髪」
ぶっきらぼうに千影が言い、目で示す。つられて頭を動かすと、肩に引っ掛かっていた髪が静電気で頬に吸い付いた。
「あらホント。すっかり忘れてたわ」
ひとりごちる咲耶を無視し、千影はぐいぐいと肩を押しまくる。
「ちょっ、ちょっと千影。危ないでしょ」
「どっちだ」
「は?」
「続き」
それでようやくピンと来た。まじまじと千影の顔を見つめると、頬がわずかに赤らんだ。
「いいの?」
「やれと言ったのはきみだ」
「ふぅん。そんなに義理固いなんて知らなかったわ」
「いいから早く決めろ」
これ以上いじめるのも可哀想なので、咲耶は自分から背中を向けた。
「じゃ、よろしく」
椅子に座るのと同時にブラシが入った。あまりに素早いので咲耶は苦笑してしまう。あんなこと言っておいて、髪を結うのがそんなに楽しいのかしら。
「――ずいぶん変わったわね。千影も」
髪を梳かす音に混じって「そうかな」と素っ気ない返事が戻ってきた。
「そうよ。さっきの台詞なんて、昔の千影からは想像もつかないわ」
「台詞?」
「私たちは姉妹だ、って」
千影の手が一瞬止まり、鼻息のような緩い唸り声が続く。
「やっぱり亞里亞ちゃんのおかげかしら」
「それもある」
「も?」
それには答えず、再び千影の手が動き出す。咲耶は辛抱強く続きを待った。
「誰かに頼られるというのも、なかなか悪くない気分でね」
どれだけか経って、千影がぽつりと呟いた。
「今朝もそうだったよ。花穂くんと衛くんがおろおろしていたものだから」
「もしかして、自分から?」
ああ、と呻くように答える千影。自分の柄ではないことを気にしているのか、いつにも増して口が重い。
「そっか。やっとで『お姉ちゃん』の魅力に気付いたってところね」
「……そうかな」
「そうよ」
「……そうか」
千影はもう一度「そうか」と呟き、
「だから、なのかな」
吹っ切れたように明るい声を出した。
「私もきみもずっと小さかったあの頃。きみはいつもお姉さんぶっていて、私にはとうとう髪を触らせてくれなかった。これぐらい、自分でできるって言って」
「そうだっけ?」
「そうだよ。忘れたのかい? 私がママに髪を結ってもらって、その流れで私がきみのを結ってあげようとした時だ」
咲耶の脳裏に突然蘇るものがあった。
確かにそう、千影の言う通り。千影の後ろに千影のママ。陽だまりの中で二人の髪の毛がきらきら光っていて、声も掛けられないぐらいに綺麗だった。
でも違う。私が髪を触らせなかったのは、そんな理由からじゃない。あれはとっさについた嘘だった。なぜなら、あの時の私は――
「あの時の私はこれといって何も感じなかったよ。ママがずっと傍にいてくれると信じていたから」
「……そうね」
千影は間違いなく愛されていた。それは、ようやく物心ついたあの頃の自分から見ても明らかだった。多分それが、千影に対して抱いた敵意の原初なのだろう。
あの人の事は考えたくもない。あれは自分が知っている中でも最低の人間――私は、ただの着せ替え人形に過ぎなかった。綺麗なよそ行きを着せられては連れ回され、それが終われば放っておかれた。何かの拍子に夜目覚めても真っ暗な部屋には自分一人だけ。泣きながら家中を探しても誰もいなかった。あんな思いは二度と味わいたくない。味わわせたくない。絶対に。
私が欲しかったのは綺麗な服じゃない。転んだ時に差し出してくれる優しさだった。寂しい時に包み込んでくれる温もりだった。
そして、代わりに差し伸べられ、抱き締めてくれたのは少しだけ年長の男の子。
そう、その時から心に決めていたのだ。大きくなったらこの人のおよめさんになる。私はお兄様と結婚する。
たとえそれが、あの人の――母の書いた筋書き通りであっても。
「でも、今は嬉しいんだ」
「えっ?」
咲耶は思わず耳を疑った。
「ようやくきみの髪に触れることができた。十年越し、いや、それ以上かな」
不審を抱く咲耶へ応えるように、背後でかぶりを振る気配がした。
「こうして他人を背後に立たせている気分はどうだい? 声は聞こえるが、私がどんな表情をしているかは見えないはずさ。そして、何をしようとしているのかも。きみに危害を加えることぐらい、今の私には雑作もないことだよ」
制服の布地の擦れる音が頭の後ろで動く。咲耶はとっさに身を硬くした。
「ちょっと、何する気よ」
「何もしない。冗談だよ」
「冗談で済むことじゃないでしょ」
半笑いで「すまない」と謝る千影だったが、がらっと口調を変えてこう言った。
「でも、だからこそ、それは信頼の証。何よりも一番大事な頭部を、自分の身を委ねる行為だからこそ、他人に髪を触らせる関係はとても大切なんだ」
咲耶は自分の顔が熱くなるのを感じた。全然そんなつもりはなかったのに、何を千影は勘違いしているのだろう。それとも、無意識のうちに千影を当てにしていたのだろうか。
「ごたくはいいからさっさとやってよ。さっきから全然進んでないじゃない」
「わかったよ」
不満そうに鼻を鳴らし、千影は髪結いを再開する。
「言っておくけど、これは亞里亞ちゃんの面倒を見なかった罰ゲームなんだから。変な勘違いしないでよね」
「勘違いも何も、この際、きみの意思は関係ないさ」
「勝手に決め付けないで。それとも、私の心が読めるっていうの?」
「いいや。でも、自分の心はわかる」
「そんな当たり前――」
「私はまだ、誰にも手伝わせていないんだよ」
髪の中で急に千影の指がもつれた。
「だから、きみが何を求めていたのかわかったんだ。消去法でね」
咲耶の頭にハッとひらめくものがあった。
「もしかして千影、まだ昔の事を」
千影は答えなかった。
だが、その沈黙こそが答えだった。
「亞里亞ちゃんでも、ダメなの?」
「……あの子の素晴らしいところはね、万事につけて素直なところなんだ」
ややあって、千影は重く口を開いた。
「亞里亞くんはただの甘えん坊ではないよ。周囲の人間を信頼しきった上で自分の身を委ねている。一種の才能だよ。危害を加えられる危険性を厭わず、自分を無防備に曝け出して丸ごとぶつかってゆける。自分を必ず受け止めてくれると信じているから、だからああいうことができるんだ」
「それが、さっき言ってた亞里亞ちゃんの長所ね」
背後で千影が頷くのがわかった。そして、今にも消え入りそうな囁き声で言う。
「私には、真似できないな」
その一言に、咲耶は彼女の苦悩を垣間見た。
千影はまだ、亞里亞に対するわだかまりを捨てられないでいるのだ。行方不明になった母が、遠くフランスで新たに女の子を設けていた。自分は捨てられたと思い込むのも無理はない話だ。事実、それを知った当初は亞里亞を激しく拒んでいたのだから。
子供にとって母親は絶対的な存在だ。幼ければ幼いほど――世界が狭くて小さいほど、その存在は強く心を支配する。なぜなら、心を形作る身体は母親から与えられたものだからだ。最初は文字通りの一心同体として始まり、自分を包む込んでいる温もりの正体に気付き、それがかつては自分だった他人だと知って、少しずつ離れ、遠ざかり、やがて別れる。
だから、千影の痛みはほとんど自分のものとして理解できた。
何度も振り返り振り返りしながら、おぼつかない足取りで世界を広げてゆく。怖いものに出会ったらすぐ逃げ帰れるように。自分のことをちゃんと見てくれているか確かめるように。
それなのに、振り返ってもそこには誰もいない。
だから、咲耶には理解できた。わかってしまった。ママは優しくない。優しいママはもういない。置かれた境遇は違っても二人はよく似ていると。似ているからこそ、互いに互いを許せないのだと。
そう、咲耶にはどうしても許せなかった。自分の殻に閉じ篭り、優しいママの夢を見続ける千影が。咲耶にはそれすらも許されなかった。
私には優しいママなんていない。何も与えてくれなかった。だから、幸せは自分の手で掴み取るもの。何より、私にはたくさんの妹がいる。ヒナちゃんがいる。ある日、どこからともなく連れて来られたヒナちゃんに、私のような思いをさせたくない。
だが、千影の考え方もわかるのだ。会うは別れの始め。別れるのが嫌なら、誰にも出会わなければいい。苦痛が来ない代わりに未来はやって来ない。喜びも訪れない、永遠に一人ぼっちのまま。それが今までの千影。
しかし、今は違う。千影の殻は亞里亞の手によって砕かれてしまった。今の千影は雛だ。よちよち歩きで戸惑いながら、それでも、初めて出会った『妹』に導かれるように、少しずつ少しずつ成長している。千影は間違いなく変わった。今朝の出来事がそうだ。千影が自分から失せ物探しを手伝っただろうか。千影が言われるままに髪を結ってくれただろうか。千影が――
そして、咲耶は唐突に気が付いた。
ああ、そうか。今がそうなんだ。千影は千影なりに私を信頼してくれている。だって、あの千影がこんなにも打ち明けてくれているなんて今までになかったこと。そう、今この場が千影の信頼の証なんだ。
咲耶は少しだけ千影が許せそうな気がした。そして、邪魔にならない程度に背もたれへ寄り掛かった。
「ねぇ、千影」
「ん?」
「いっそのことさ、二人で家事手伝いに就職するっていうのはどう?」
「家事手伝い?」
「こうしてずっと家にいて、お兄様やみんなの帰りを待つの。一人だけなら面倒でも、二人なら掃除も洗濯もそれなりに楽だと思うから」
「ほう」
千影の返事はいつものように素っ気ない。そして、それっきり黙り込んでしまう。単に興味がないだけか、突拍子もない提案に呆れているのか。どちらにしても面白くない。
「千影だってまだ決めてないんでしょ。卒業した後のこと」
「決まっているさ。誰かとは違ってね」
咲耶はムッとして声のトーンを上げた。
「へぇー、それは初耳。だったら教えてよ。私と被らないためにもね」
「だが断る」
「ウソね。ホントは決めてないだけでしょ」
「それは違う。ただ、決めかねているだけだ」
「似たようなものじゃない」
「全然違う。いくつかある中でどれを選べばいいのか迷っている、そんな状態だ」
「またそんな言い訳して。決めてないことには変わりないんだから」
「もうその辺にしてくれないか。絵空事も甚だしい」
「逃げようたってそうは行かないわよ」
意気高らかに振り向こうとする咲耶だが、またも頭を掴まれ戻されてしまう。
「振り返らず、しっかり前を向くんだ」
どっちの意味だろうかと、咲耶は一瞬考えた。しかし千影は、何も言わぬままに髪を梳かす作業を再開する。その沈黙が妙に気まずく思え、しどろもどろで言い募った。
「冗談で言っただけよ、冗談。だって次の年には春歌ちゃんが卒業するし、ほら、あの子って何やらせても上手だから、そうなったら私たち二人じゃ勝てっこないじゃない」
「私たち、か」
そう言ってくすくすと、本当に可愛らしく笑うので咲耶は驚いてしまった。亞里亞ちゃんとそっくりな笑い方。どんな顔で笑っているのだろう。鏡の前にいないのが本当に惜しい。
「何がそんなにおかしいの? 私、間違ったこと言ってる?」
「いいや、合っているさ。違ってない。違ってはいないけど――」
「けど?」
千影の手が急に忙しくなった。まるで、頭の代わりに回転させているかのよう。何をそんなに考えているのだろう。
「――千影」
「できた」
「へっ?」
「できた、と言ったんだ」
しかし、その割には頭の重心がいつもと違う気がする。
「本当にできたの?」
「見てみるかい」
肩越しに差し出された手鏡を受け取り、半信半疑のままに覗き見る。そして、映り込んだ自分の頭に椅子を蹴って立ち上がっていた。
「なっ、何よこれ!」
「似合っているよ」
「似合うも何も、これって……!」
そして、それっきり絶句してしまう。なぜなら、鏡に映った頭と千影の頭はそっくりだった――つまり、シニヨンに結われていたのだ。
「ツインテールにしてくれとは言われてないからね」
追い討つようにしれっと言ってのける千影。その澄まし顔といい、どう考えてもわざとやったとしか思えない。
「そんな屁理屈、通用すると思うの?」
「よく似合っている。どこもおかしなところはない」
「そうやって問題をすり替えないでよ」
「本当にそう思って、私はやったんだよ」
千影らしくない、拗ねたような口調だった。じっと見つめていると、その視線の意味に気付いた千影がぷいっとそっぽを向いた。
「姉妹だから、その、たまにはお揃いもいいじゃないかと、そう思ったんだ」
「仕返しとかじゃなくて?」
「失敬な。そう受け取りたければ勝手にするがいいさ」
と、背中を向けてしまう。どうやら本当に拗ねてしまったようだ。
なおもぶつぶつとぼやき続ける千影をよそに鏡を覗き込んでみる。シニヨンを結った女の子。髪や瞳の色はともかく、吊り目がちなところはそれなりに似ているだろうか。あとは全体的な顔立ちも。純粋な姉妹とまではいかなくても、従姉妹ぐらいなら誰もが納得してくれるはず。
「――そうね。たまにはこういうのも悪くないかしら」
似ている似ていないはともかく、今は千影の気遣いが嬉しかった。それに、いつまでもツインテールのままではいられない。あの髪型が許されるのは高校生ぐらいまで。ツインテールの女子大生や社会人なんて見たことも聞いたこともない。千影がそこまで考えていたとは思えないが、図らずもちょうどいいテストになった。
もう一度、鏡の中の自分にじっと見入る。うん、これはこれで悪くない。千影の意見に賛成するのは少し悔しいが、確かに似合っている。
とその時、玄関の方向から何か物音がした。扉を開けて閉める音。そして、ばたばたと靴を鳴らす音。紙袋らしき音も混ざって聞こえる。
二人は顔を見合わせた。
「何? 泥棒?」
「まさか。こんな時間からそれはないと思うが」
冷静に答える千影だが、たぐり寄せたナイフを振り被って構えるあたりを見ると、やはり気が動転しているのかもしれない。
咲耶が判断に迷っている間にも、うぐいす張りのごとく床板が軋む音はだんだん近付いてくる。忍び歩きはせず、音の大きさからは大人の男性っぽいとわかる。だが、気配を隠そうとしない割にはそろそろと動いていて、中の様子を窺っているかのよう。戸惑っているのだろうか。
そこでふと思い浮かぶ顔があった。
「――お兄様?」
「――兄くん?」
二人が呼び掛けたのと、戸口から顔が突き出たのがほとんど同時だった。
不意打ちを喰らった格好の兄は二人重なった声に驚き、次に机の上でうず高く積み上がったホットケーキに驚き、ナイフを振り被って構える千影に驚いてから、最後に咲耶の頭を見て驚いた。予想はしていたが、まじまじと見つめられるとやはり恥ずかしい。
「えっと、あの、これ、千影にいたずらされただけで、別に何か意味があるわけとかじゃなくて」
「それは違う。私は咲耶くんに頼まれただけであって、いたずらなどとんでもない。むしろ、罠に嵌められたのは私の方だ」
反論しながら、何気ない振りを装ってテーブルにナイフを戻す千影。逃すまいと上から刃先を押さえつけると視線がぶつかった。
「何が罠よ。それはこっちの台詞。頼んだのは本当だけど、シニヨンにしてほしいなんて一言も言ってないんだから」
「私は結ってほしいと言われただけだ。それも、無関係な亞里亞くんを巻き込んだ脅迫紛いの方法で」
「元はと言えば千影が亞里亞ちゃんを放っておくから」
「どちらにしても、姉が妹にやることではないね」
そう言って千影がふっと笑みを浮かべるので、咲耶はなぜかどぎまぎしてしまう。そして千影が顔を寄せながらこう囁いた。
「それとも、兄くんの目の前でこれ以上続ける気かい?」
ハッと我に返って向き直ると、どこかバツの悪そうに兄がその場に立ち尽くしていた。目が合うと、紙袋を提げた方の手で頭を掻く。
「や、やだ、お兄様ったら。いるならいるってちゃんと言ってくれないと」
「それより兄くん。聞いていた予定よりも少し早い帰りのようだが」
すると兄は、救われたような顔になって説明を始める。ホテルに落ち着いたはいいものの、みんなの顔が思い浮かんで止まらなくしまったこと。ヒッチハイクで帰ることを思い付いて、真夜中にホテルを飛び出したこと。最初の一台を捉まえるのに二時間も掛かってしまったこと。
いかにも兄らしい話に、咲耶は今までの自分の振る舞いが恥ずかしく思えてならなかった。何をあんなにびくびくしていたのだろう。お兄様はどこまで行っても私たちのお兄様。そんな当たり前のことすら忘れていたなんて本当にどうにかしていた。ふと隣に目をやると、どうやら千影も同じ気持ちらしく、片手を胸に置きながら佇んでいた。
もっと早く着ければよかったんだけど、と言いながら歩み寄った兄は、紙袋から平べったい包みを取り出して机に置いた。
「何これ。おまんじゅう?」
「お土産にしては少し平凡だね。白雪くんが何と言うか」
容赦のない批評に兄が苦笑を浮かべる。そしてその顔のまま、そんな二人はどうしてこんな時間に? と問い掛けて来た。姉妹はまたも顔を見合わせた。
「いっけない。学校のことなんてすっかり忘れてたわ」
「姉失格だね。皆のお手本にならないといけないのに」
「そんな他人事みたいに言って。千影も同罪よ」
「わかっているさ。私には十人の妹がいるからね」
「それで自慢のつもり? 私なんて十一人よ、十一人。すごいと思わない?」
「ああ、全くその通りだ。でも、自慢話は後にしてもらいたいね」
千影は横目でちらっと兄の方を見た。
「大事なことを忘れている」
それですぐに理解できた。確かにとても大事なことを忘れている。
二人は互いに目配せを交わし、声を揃えた。
「おかえりなさい」
Fin.