Cycloid life(サイクロイド・ライフ)
自分の吐く息が耳にうるさかった。
花穂は走るのを止め、徒歩に切り替えた。途端にどっと汗が吹き出しては、ジャージの内側をべったりと濡らす。絶え間無く吐き出される白い息が、濃紺の夜空へ次々と消えていった。
携帯のバックライトへ写し出された時刻に、花穂はうっすらと笑みを浮かべた。兄との約束の時間にはどうにか間に合いそうだ。3学期の始業式はまだなのだが、チアリーディング部の部活動は一昨日から始まっている。花穂としては兄に甘えることのできる貴重な時間を失いたくはなかったが、入試で3年生が抜けた今となってはそんなわがままも許されない。チア部は初等部と合同になっているだけに、花穂たち上級生の責任も重大だ。
花穂は額の汗を拭い、さらに歩を早めた。足を踏み出すたびに肩へ掛けたバッグの金具がみしみしと軋む。練習で疲れた身体にはかなり堪える重さなのだが、玄関で出迎えてくれるであろう兄の顔を思い浮かべるだけで足取りも軽くなるというものだ。
通る人もない住宅街を花穂は歩きに歩いた。大通りより入ってきて以降、誰ともすれ違っていないことに花穂はふと気付いた。夜の校舎も気味が悪いが、それとはまた種類が違う。人が住んでいるはずの住宅地で人と会わないというのはちょっとしたホラーだ。
花穂は再び走り出した。先の疲労は抜けきっておらず、すぐに息があがる。それでも花穂は走り続けた。少しでも近道をするために児童公園へと駆け込む。
日中は嬌声の絶えない公園にも人影はなく、ただ水銀灯だけが周囲を冷たく照らしていた。湧き上がる恐怖心を抑えながら花穂は必死に足を動かした。
ブランコの鎖がじゃらりと鳴ったのはその時だ。小さな悲鳴を上げ、花穂はその場に立ち竦む。怖れに引き攣った顔をブランコの方へ向ける花穂だったが、そこにあったのはよく見知ったジャージの後姿だった。街灯にぼんやりと浮き上がっているだけだが、花穂には間違えようもない。途端に恐怖は霧散し、代わってちょっとした悪戯心が頭をもたげる。
花穂は荷物をその場に下ろし、ブランコに腰掛ける人影へそろそろと近付く。十分に距離を詰め、まだ気付かれていないことを確信すると、その背中へ一息に飛び付いた。
「まもーるちゃん!」
「うひゃぁッ! 何? だ、誰なの?」
予想以上の狼狽を見せる衛は手足をバタつかせて背中の花穂を振り解こうとする。
「衛ちゃん、花穂だよぉ。そんなに暴れないでってば」
「え、花穂ちゃん? ……何だぁ、いきなりだからびっくりしちゃったよ」
肩を落とし、安堵のため息を吐く衛。
「ごめんね、衛ちゃん。衛ちゃんがそんなに驚くなんて全然思わなかったから」
「ううん、こっちこそごめんね、花穂ちゃん。いつもだったら多分気付いてると思うけど、ちょっと考え事しちゃっててさ」
「考え事?」
前へ回された花穂の手に触れ、衛が口を開く。
「うん。これからどうしようかなって、どこへ行こうかなって、それで悩んでるんだ」
「え、どうして? 悩む事なんてないよ、衛ちゃん。お兄ちゃまもきっと喜んでくれると思うから」
衛が困惑の表情を浮かべながら花穂を振り返った。
「それ、何の話? 何で推薦入試にあにぃが出てくるの? そりゃあ、全く無関係でもないけど」
自分の早とちりに花穂が、あっ、と小さく声を上げた。
「ごめんなさい。花穂、勘違いしちゃってた。今日って花穂の誕生日だから、それで、花穂のお家に来るのか来ないのかで悩んでるって」
耳までを赤く染めた花穂の言葉に、今度は衛が顔を赤くさせた。
「ごッ、ごめん! 今日が花穂ちゃんのお誕生日だってすっかり忘れてた! ええっと、あの、本当にごめん。だから、プレゼントとかそういうの全然できてないから、その、何て言うか……」
衛はしどろもどろで必死の弁解をする。
しばらくの間、二人はお互いにあやまり続けていたが、やがてどちらからともなくくすくすと笑い出した。
「衛ちゃん、さっきからずっとあやまってばっかり。本当は花穂がいけないのに」
「花穂ちゃんだって。ボクがもっと早く気付けばよかったのに。……それとも、花穂ちゃんのドジがボクに移ったのかな」
「あーっ。もう、ひどいよ衛ちゃん。花穂、これでも昔よりは失敗しなくなったんだよ? 今はチア部の副部長もやってるんだから、もうドジっ子なんかじゃないもん」
花穂はそう言って頬をふくらませてみせた。目を合わせ、再び笑う二人。
それもしばらくのことで、沈黙がその場を支配するようになった。
去年までは明らかに違うのだ。目の前の幸せだけを追い求めればよかった時代が、今まさに過ぎ去ろうとしている。衛は人生の岐路に立たされ、花穂自身もチア部の下級生を率いる役目が与えられている。もう後には戻れない。この先どんなに苦しくても、今までのように逃げ出す事はできない。
そんな不安が、二人に重くのしかかっていた。
やがて、意を決したかのように花穂が口を開く。
「ねえ。推薦って、どこにするの」
花穂の問いに衛がとある学校の名前を答えた。
「その高校、ニュースで聞いたことあるよ。確か、スポーツで有名なところだよね?」
衛が黙ってうなずく。
「陸上で願書を出そうかなって考えてるんだ。ボクの成績だったら絶対に受かるらしいけど、でも――」
「でも……?」
「その学校、ここからは結構遠いんだ。だから、もし合格したら寮で暮らすことになると思う」
「え? それじゃあ……」
頭を巡らし、衛はしばらく逡巡を見せる。
「うん、だからずっと迷ってるんだ。得意な陸上でどこまでやれるか試してみたい。でも、花穂ちゃんやあにぃと離れて暮らすのは……ちょっと考えただけでも、辛い……」
衛は大きく一度身震いをした。
「一応、近くの高校にも陸上の強いところはあるんだ。だけど、やっぱり比べ物にならなくてさ。設備とかコーチとか、全然違う」
衛が夜空を仰ぎ見た。花穂もつられて空を見上げる。
「ねぇ、花穂ちゃん。ボクは、どうすればいいと思う? どっちがいいと思う?」
「それは……」
思わぬ問い掛けに花穂は戸惑う。
「衛ちゃんがやりたい事、やればいいと思うよ。だって、衛ちゃんの夢なんでしょ、陸上。チアの練習終わってもまだずうっと走ってるし、それだけ頑張ってるのにあきらめちゃうなんて、やっぱりダメだよ。花穂と離れてても、衛ちゃんのこと応援してるから、だから……だから……」
言葉が詰まったかと思うと、急に視界が歪んだ。言葉の代わりに涙がどっと溢れ出た。
「イヤ……そんなのイヤ……。もう、お誕生日なんかいらない。みんな、ずっと一緒にいる方がいいもん。離れ離れなんて、そんなのイヤだよぉ……。お兄ちゃまからのプレゼントも白雪ちゃんのケーキも欲しくない……いらないもん。だから……だから、時間が止まってよぉ。みんな、ずっと一緒にいたいの。ずっとこのままで、いたいの……」
向き直り、嗚咽を漏らす花穂をそっと抱きしめる衛。花穂は衛の首に取りすがり、その泣き声はまた一段と大きくなった。
「花穂ちゃん、そんなに泣かないでよ。せっかくのお誕生日が台無しだよ」
「でも……でもぉ……」
涙声の花穂をなだめるかのように、衛の手がゆっくりと花穂の頭を撫でる。
泣き止む頃合いを見計らい、花穂をしがみ付かせたままで衛はおもむろに立ち上がった。
衛へ抱きついたままの花穂の足は、ほんの僅かに宙へ浮いていた。花穂が驚きの表情で衛を見つめ、やがてはにかみ笑いへと変わった。
「衛ちゃんって、こんなに大きかったんだね。花穂、ちっとも知らなかった……」
回した腕を解きながら花穂がつぶやいた。
「うん、そうだね。いつの間にか咲耶ちゃんを追い抜いちゃってたよ。ずっと目標にしてたんだ、身長の。だから次はあにぃを目標にしてたんだけど、やっぱりダメみたいなんだ」
首を傾げる花穂の視線を受け、衛は続ける。
「小さいときからずっとあにぃに近付こう、近付こうって思ってて、それでも離されていくから、せめてこれ以上遠くならないようにって頑張ってきたんだ。でも、どんなに筋肉つけても、走っても跳んでも泳いでも、やっぱりボク、女の子なんだ。あにぃみたいになれたらって思ってきたけど、やっぱり、女の子は男の子になれないんだよね」
「衛ちゃん……」
「ボクもね、時間が止まってくれたらって思ったこと、何度もあったんだ。走っても走ってもあにぃに追いつけないってわかったその時から、ずっと考えてた」
「でも、ダメなんだよね。花穂の知らない間に、衛ちゃん、こんなに大きくなってたもの。学校で毎日顔を合わせてるはずなのに、全然気がつかなかった」
「花穂ちゃんもすごく変わったよ。チア部で下級生に教えてるとき、自分のことを名前じゃなくて『私』って言ってる。最初、本当に花穂ちゃんなのかなって、すごくびっくりしたよ」
「え、ウソ? 花穂、全然気がつかなかったよ。ママにいつも『いい加減にやめなさい』って言われてるのに」
「うん、本当だよ。まだチア部の時限定だけどね。あと、少しだけ竜崎先輩の教え方に似てきたかなぁって思う」
「そ、そうなの……? 今も先輩に時々会ってるけど、もしかしてそのせいなのかな?」
「竜崎先輩って、まだ大学生だったよね」
「うん。チアはもうやめちゃったけど」
「ふうん、そうなんだ。やっぱり、今でも怒られたりしてるの?」
「もう、そんなことないよ。昔と違って、誉めてくれることが多くなったの。あ……でも、会ったら必ず一回は叱られるから、半分半分ぐらいかな」
衛の腕の中で他愛もない会話に興じているうち、花穂の気分も次第に落ち着いてきた。もはや条件反射にも近い。今までに何度この抱擁を繰り返したのだろうか。縁日で兄とはぐれた時、お気に入りのハンカチを野良犬に取られたとき、そして、大好きな兄に会えなくて寂しい時。何かあった時にはこうして抱き合い、お互いを慰めてきたのだ。もっとも、ほとんどの場合で花穂は慰められる側だったのだが。
だがそれも、あとしばらくのことだ。二人を取り囲む世界はその意志に関わることなく移ろっていく。こうして衛の温もりを頬で感じ取る日々も、あとどれだけ続くのだろうか。
自然と花穂の両腕に力が篭る。衛は思わず咳き込んだ。
「花穂ちゃん、ちょっと苦しいってば。もう少しゆるめてくれないと、その、胸とか当たってる、し……」
衛の言葉に花穂があわてて腕を解く。
「あ……ごめんね、衛ちゃん。ちょっと寂しくなっちゃったから、それで……」
花穂は一歩二歩と後ずさり、改めて衛の姿を見つめた。短めに刈り込まれた髪と花穂より頭一つ高い身長は、愛しい兄の姿を容易に連想させた。
「衛ちゃん、やっぱり変わったよね」
衛はゆっくりと首を横に振った。
「みんなそう言うよ。ボクは変わったつもりなんて全然ないんだけどね。ずっと同じ所を走ってただけでさ。花穂ちゃんの方こそ、すごく変わったよ」
今度は花穂が首を振る番だった。
「ううん、花穂も変わったつもりなんてないよ。衛ちゃんやお兄ちゃまの応援がしたくって、それでチアの練習を頑張ってただけなのに、みんな『花穂ちゃんは少し大人っぽくなったね』って、そう言うの」
「不思議だよね。毎日同じ事してるだけなのに」
衛は再びブランコに腰掛けた。
「何だか、トラックを走り続けてるみたいだよね」
「トラック?」
隣のブランコに座りながら花穂が聞き返す。
「うん、グラウンドのトラック。今まではあんまり好きじゃなかったんだ。同じ所走るのが退屈で、勝手に外走ったりなんかしてさ。後に流れていく風景とか、それだけで楽しくって」
地面を小さく蹴り、ブランコを前後に揺する衛。
「でも、最近になってトラックもだんだん面白くなってきたんだ」
「風景は変わらないのに?」
衛はブランコを止め、花穂の方へ向き直った。そして、人差し指を上へ突き出した。
「お空……?」
「うん。校舎とか体育館の場所は変わらないけど、雲の形や空の色が変わっていくって、気が付いたんだ。同じトラックをぐるぐる走っててボクの居場所は動かないけど、それでも空は動くって。変わっていくって」
「……それって、今の花穂たちみたいだよね」
「そうだよね、今のボクたちみたいだよね」
花穂は夜空を仰ぎ見た。水銀灯の光の幕の向こうにオリオン座が瞬いている。
しばらくの間、二人は無言で佇んでいた。
と、その静寂をけたたましい着信音が掻き乱す。
「あッ! お兄ちゃまとの約束の時間、もう過ぎちゃってるよ! ど、どうしよう……」
花穂は携帯を手におろおろとするばかり。
「どうしようって、走ればいいんじゃないの? 花穂ちゃんのお家、ここからそんなに遠くないんだから」
「そ、そうだよね。ごめんね、衛ちゃん。また今度、学校でね!」
そう言うなり、花穂は一目散に駆け出した。
「こういうところが変わってくれるとボクも助かるんだけどなぁ」
十分後、花穂の家の玄関前に衛の姿があった。その手には花穂が置き忘れたカバンが握られている。
Fin.
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