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 雛子は手を引かれるのが嫌いだった。
 手を引かれると、決まってどこかイヤなところへ連れて行かれるからだ。
 痛くなるぐらいに力いっぱい手を握られて、そうやって引っ張られた部屋の中にはタバコの臭いと大人がいっぱい。
 真っ赤な爪のオバさん。黒いメガネのオジさん。どっちを向いても大人ばかり。
 大きな怒鳴り声で自分を呼んでいると思ったら、大人の人みんなが指差してじろじろ見てくる。ないしょ話が終わったらまた手を引かれて、来たときとはぜんぜん違う道。そして、ぜんぜん違うお家。
 何回くり返したのか覚えていない。
 覚えているのは、どの家にもあったテレビだけだ。
 スイッチを押してチャンネルを変えると、楽しそうな景色が映る。
 公園で遊んでいるみんな。自分と同じぐらいの女の子。でも、同じじゃない。あの子にはパパがいて、ママがいる。ヒナの回りにはだれもいない。ひとりぼっちのヒナ。ヒナにはパパもママも、だれもいてくれない。
 雛子が孤独から解放されたのは、最後に連れて来られた家だった。
 その家は今までとどこか違っていた。タバコの臭いはあまりしないし、廊下はぴかぴかできれい。そして、大人のものじゃない革靴があった。
「――あなたが、ヒナちゃん?」
 顔を上げた先には、髪を二つに縛った女の子がいた。自分より大きく、大人にしては小さい。
 やさしい声に戸惑いながら頷く雛子に、その女の子は笑顔で応えた。
「ねえ、お腹空いてない? ほら、そんなところに立ってないで、早くこっちにおいでよ」
 今までに無い出来事にまごまごしていると、その子の手がすっと伸びて雛子の手を掴んだ。
「もう大丈夫よ、ヒナちゃん。これからは、私がずっといてあげるから」
 掴んだ手はとてもあたたかかった。
 連れて行かれた先には、湯気を立てたホットケーキが待っていた。
「久しぶりに作ったから、あんまりうまく焼けなかったんだけど……」
 恥ずかしそうな言葉通り、ホットケーキは黒焦げと生焼けばかりだった。それでも、ハチミツとマーガリンでベタベタなそれを、雛子は全部平らげた。食事といえばコンビニのおにぎりばかりだった雛子に、焼き加減の上手や下手もなかった。
 それが今から数年前。咲耶との出会いだった。
 以降、雛子が大人たちに手を引かれることはなくなった。ひとりぼっちではなくなった。大人たちのいない、二人きりの家。
 でも、寂しくない。約束通り、ずっと一緒にいてくれたから。
 それでも、手を引かれるのは嫌いだった。またどこか、寂しいところへ連れて行かれるかもしれないから。
 だから今は、自分から手を引くようにしている。今よりずっと楽しいところへ行けるようにと。


 *


 板張りの廊下をみしみしと踏み鳴らす音が二対。
 一つはやや早く、リズミカルに。もう一つはのんびりと、引きずるように。
 初めは規則正しく交互に刻まれていた足音も、片方が遅れるにつれて不協和音へと変調していく。遅れ始めたリズムに、前を行く雛子が歩きながら振り返った。
「亞里亞ちゃん、もっと早く歩いてよ」
 雛子は少し唇を尖らせ、疲れ切った表情をした姉の手をぐいぐい引っ張った。いつもは人形のように白い亞里亞の顔が、熱さで真っ赤に染まっている。学校ほどもある大きな建物だ。動き慣れした雛子はともかく、ずっと歩き通しとなれば亞里亞はひとたまりもない。
「雛子ちゃん、待って……少し、休みたい……」
「ダメだよ、あと少しなんだから。早くしないと、また四葉ちゃんに見つかっちゃうよ」
 強い口調にも、亞里亞はふるふると首を振るばかり。
 と、急に亞里亞が立ち止まり、その頭があらぬ方を向いて止まった。
「四葉ちゃん、近いの?」
「うん……」
 亞里亞は囁くように言い、顎を軽く上げて目を閉じる。雛子もそれにならい、耳をすませてみた。
 土曜の昼下がり。十三人の住まう家は、波の音にも似たざわめきに包まれていた。
 窓の外から聞こえて来るのはピッピッていうホイッスルの音。きっと、衛ちゃんが花穂ちゃんの練習を手伝ってあげてる音。その中に混ざるキーンって耳の痛くなる音は、鈴凛ちゃんが電気で動くノコギリを使う音。今、下のほうでガシャーンって鳴ったのは、きっとお鍋か何かがひっくり返っちゃった音。今日は白雪ちゃんがお当番だけど、おやつは大丈夫なのかな。
 かくん、と手を引かれる感覚に雛子はハッと顔を上げた。
 亞里亞がこちらをじっと見つめ、静かに言った。
「四葉ちゃん、ここのすぐ下です」
「ホントに?」
「四葉ちゃんの足音、動いてて……階段に近づいてるの」
「でも、ヒナの耳には全然聞こえなかったよ?」
 ウソをつく亞里亞じゃないと知っていても、聞こえないものを聞こえると言われて素直にうなずけるわけがない。
 しかし、亞里亞は力強く首を振る。
「亞里亞には、聞こえるの……あ、階段上ってきて……」
「ねえ、どうしてわかるの? ヒナには全然――」
 きぃきぃとネズミの鳴くような音がしたのは、ちょうどそのときだった。
 この建物にいくつかある階段だが、中でも一際やかましく鳴るのは、ここからすぐ近くにあるものだった。軽い雛子はそんなでもないが、一番重い兄が上るとみしみしぎしぎしとすごくうるさい。そんなこともあって、体重を気にする姉たちはあまり近づこうとしない。近づくのは体重を気にしない姉か、もっと別のことを気にしている姉だ。
「クフフゥ、この名探偵四葉ちゃんの前には、いかなるヒミツ工作も無駄無駄無駄ぁなのデス!」
 曲がり角から聞こえる甲高い声に、二人は顔を見合わせる。
「むむっ、ここに落ちてるプラチナブロンドは……ズバリ、亞里亞ちゃんのデスね! 二人とも、この先にいるのはわかってマス。そろそろカンネンして、おとなしくおナワにつきサーイ」
 足音に混じって四葉の声が近づいてくる。
「ど、どうしよう……またヒナのしみつ基地が見つかっちゃうよ」
 迫り来る危機に動揺する雛子だが、最初から亞里亞の言葉を信じていればこんなことにはならなかったのだ。
 だが、それを責める亞里亞ではない。雛子の手を取り直し、声のするほうへと歩き出した。
「そっちじゃないよ。見つかっちゃうよ」
「でも、亞里亞たちが先に見つかれば、雛子ちゃんのしみつ基地は見つからないの」
 この場合は亞里亞が正しいのだが、今の雛子にそれを考えるだけの余裕はなかった。それに、手を引かれるのは嫌だった。
「違う、こっち!」
 雛子は力いっぱい亞里亞の手を引き、声とは反対の方向に走り出した。
 壁に居並ぶ扉たちの前を駆け抜け、L字になった廊下の角を目指す。そこにもまた別の階段があるが、その脇はちょっとした休憩コーナーになっていた。廊下と同じ板材で作られたベンチや机があり、身体を隠すことができる。
 雛子は引いた手を振り回すようにして亞里亞を押し込めると、とっさにすぐ近くの部屋の扉を少し開けた。それからコーナーに逃げ込むのと、四葉が曲がり角から姿を見せたのが同時だった。
「さぁ、かくれんぼはオシマイ、デス」
 自分の勝利を確信してか、四葉の歩みはみしり、みしりと焦らすように遅い。
 雛子は、亞里亞の身体を抱えるようにして、木製のベンチの陰へ潜んだ。背もたれが床まで続いて一体になっているので、回り込まれない限りは見つからない。
「それにしても四葉ちゃん、しつこいなぁ」
 亞里亞がこくんと首を振って賛成した。
 そもそも、どうしてこういうことになったのかよく覚えていない。
 この一方的なかくれんぼが始まったのは、引っ越してきてから間もなくのこと。雛子が空き部屋にひみつ基地を作り上げてからだ。
 ひみつ基地、とはいっても、キャラメルのおまけや自分でも気に入ったお絵かきなどを集めて隠しただけで、鈴凛のラボのように壁を壊したりはしていない。咲耶には「自分の部屋に隠せばいいじゃない」と言われたが、それだけではどうしても不安なのだ。
 ――あのビーズの指輪、どこいっちゃったかな?
 一番最初のたからもの。咲耶と出会う前、どこかのメイドさんが作ってくれたものだった。怖い大人ばかりだった中で、その人だけがやさしかった。抱っこしてくれたり、いっしょに歌ってくれたり。この人がホントのママだったらいいのにと、そう思ったことさえあった。
 その大事な大事なたからものは、何度か引っ越しを繰り返すうちにどこかへ消えてしまった。前の家か、前の前の家か、それよりもっと前の家かはわからないが、きっと置いてきてしまったのだろう。誰か違う人が住んでいて、もう取りに行くこともできない。そんなことなら、どこか外に隠しておけばよかった。
 咲耶が言うには、この先もう引っ越しはしないらしい。それでも雛子は不安だった。
 ぬいぐるみのクマさんたちはすぐに見つかるけど、手のひらよりも小さなブローチやペンダントは探すのが大変。それに、このお家の中でお引っ越しするかもしれない。だったら、どこかに隠してしまえばきっと大丈夫なはず。
 ただ、それだけのことだ。
 にも関わらず、四葉はしつこく探し出そうとする。ちょうど今のように、亞里亞をひみつ基地に招待しようというときを狙って。
 もう何度と見つかっているが、これ以上見つかるわけにはいかない。ひみつ基地はひみつ基地。ひみつじゃなくなったら、ひみつ基地でなくなってしまう。もっとも、ひみつ基地をひみつにするひみつの場所には事欠かないのだが。
 この屋敷は十三人で暮らすには広過ぎ、皆が使っているのは凹形になった右半分だけだ。残る左半分には鈴凛のラボと千影の書庫があり、残るは物置か空き部屋。雛子たちが潜んでいるのもそんな一隅だ。
 四葉の足音がすぐ近くで止まった。
「――隠れたのはいいデスけど、ドアが開けっ放しデスねぇ。雛子ちゃん?」
 その直後、ばん、と勢い良く扉が開けられた。足音とダンボールのがたがた動く音とが壁越しに聞こえる。
「亞里亞ちゃん、今のうちに逃げよ」
「うん」
 雛子は亞里亞の手を引いてそろそろと動き出す。お互いのフリルをさやさやと触れ合わせながら階段を目指す二人だったが、亞里亞が「あっ」と小さく悲鳴を上げた。
「どうしたの?」
 亞里亞が振り返って、しきりに何かを気にしている。「どうしたの?」と繰り返すと、亞里亞は床へ這わせていた指をおずおずと前へ出した。
「くすん……」
 見ると、亞里亞の人差し指には小さな棘が刺さっていた。血は出ていないが、代わりに赤い点が浮かび上がっている。
「大丈夫? 痛い?」
「痛い……」
 いつもと違う感覚に動揺が増したのか、亞里亞の手が小さく震え出す。
「ちくちく、痛い……」
「亞里亞ちゃん、泣いちゃダメ。四葉ちゃんに見つかっちゃうよ」
「だって……」
 亞里亞は首を振り振り、くすん、としゃくり上げた。
 ――亞里亞ちゃん、また始まっちゃった。
 亞里亞の泣き虫ぶりは、年下の雛子から見ても少し奇妙に映った。倒したコップの水で制服を濡らしても泣き、庭先の水たまりで靴を濡らしても泣く。
 濡れちゃったら乾かせばいい。
 少し考えれば自分で簡単にできることも、ただくすんくすんと泣くばかりで何もやろうとしない。特に、千影を『姉や』と呼ぶようになってからは、さらにひどくなったような気がする。何をするにも姉や姉やと叫んでは千影を呼び寄せるのだ。呼ぶ亞里亞も亞里亞だが、それに応える千影も千影だ。
 そんな甘えぶりを少し疎ましく思う反面、羨ましい気持ちも少しあった。兄の次に年長の咲耶はいつも忙しい。その忙しさがこの暮らしを成り立たせていることを、雛子は理解していた。
 だからなおのこと、甘えたくても甘えられない。このおうちでみんないっしょにいたかったら、ヒナがガマンしなくちゃいけないから。
 くすんくすんくすん。
 壁の向こうから、どたばたという音に混ざって「おかしいデスねぇ」と四葉のぼやきが聞こえる。
 泣き声は大きくなる一方。四葉に気づかれるのも時間の問題だ。
「ねぇ、亞里亞ちゃん。下まで歩ける?」
「いや……姉や、どこ?」
「じゃあ、千影ちゃん呼んでくる?」
 と、動き出そうとする雛子のスカートを、亞里亞が空いた方の手で掴んだ。
「ひとりも、イヤ……」
 歪めた顔を振り続けるだけの姉に、さしもの雛子も少しイライラし始める。
「ねぇ、亞里亞ちゃんはどうしたいの? 泣いてばかりじゃわからないよ?」
 ややきつい物言いにびくっと肩を震わせる亞里亞だが、それでも、雛子に向けて指をそっと差し出した。
「痛いの、イヤ」
「あ……」
 雛子はそこで、棘がまだ刺さったままだったことを思い出した。
「ゴメンね、亞里亞ちゃん。ヒナ、四葉ちゃんに見つからないようにって、そればっかり考えてから」
 もう一度「ゴメンね」と謝ると、亞里亞の顔にうっすらと笑みが浮かんだ。
「亞里亞もちくちく痛くて、どうしていいかわからないの」
「えっと、抜けばいいと思うけど……」
「抜くの? どうやって?」
「どうやってって、指でつまんで引っ張るだけだよ」
 雛子の説明におずおずと指を添わせる亞里亞だったが、棘に触れた途端、くすんとひとつ泣いた。
「ちくちく、もっとちくちくするの」
「でも、いま抜かないとずっとちくちくしちゃうよ」
「そんなの、イヤ」
「じゃあ、いま抜かなくちゃダメだよ」
「でも、触ったらちくちくするの」
 続く堂々巡りに、雛子は力なくしゃがみ込んだ。
 途方に暮れる雛子の脳裏にふと思い浮かんだのは、頼れる姉の顔だった。こういうとき、咲耶ちゃんだったらどうするのかな。
 咲耶を真似て腕組みし、しばらく考えると、
「それじゃあ、ヒナが抜いてあげるね」
「え? でも……」
「でも、いま抜かないとずっとこのままだよ。それにね、トゲって刺さりっぱなしだと、身体の中に入っちゃってすっごく大変なことになっちゃうの」
「大変なことって、なあに?」
「えっと……とにかく、いま抜かなきゃダメなぐらい、大変なことなの」
 棘が心臓に届いて死ぬこともある、と聞きかじりで知っているが、まさかそれをそのまま言えるはずがない。きっと大泣きしてしまうはずだ。
 雛子の剣幕に押されてか、亞里亞の手がそっと突き出された。棘はごく小さい。ベンチかどこかのささくれのようだ。
 雛子はそろそろと手を上げて身構え、トンボを捕まえる要領で素早く振り下ろした。亞里亞に眉をしかめさせる暇も与えず、棘はあっさりと抜けた。
「ほら、もう大丈夫だよ」
「あっ……」
 亞里亞が何度もまばたきしながら、手を裏表に返して確かめる。
「雛子ちゃん、ありがとう」
 ふわりと笑うと、亞里亞は雛子の胸へそっと寄り掛かった。亞里亞の方が大きいので、そのまま押し潰されそうになる。
「亞里亞ちゃん、ちょっと苦しぃ……」
「あ……ごめんなさい」
 青いドレスが離れ、ちょこんと座り直す。雛子は息を整えながら、ある疑問を口にした。
「亞里亞ちゃんって、最近はいつもこうなの?」
「いつも、って?」
「だって、前はこんなことしなかったでしょ」
「前……?」
 小首を傾げてあらぬ方を見る亞里亞だったが、ふっと視線を戻し、
「姉や、恥ずかしがりやさんだから」
 亞里亞の話はとにかくよく飛んでわかりにくい。
「恥ずかしがりやさんって、千影ちゃんが?」
 雛子が怪訝そうに問い返すと、亞里亞は微笑みを浮かべた顔をゆっくりと縦に振った。
「だって姉やは、亞里亞が『ありがとう』って言っても、赤くなったお顔があっち向いたままで聞こえてないふりするの。だから、こうやって――」
 と、雛子に再び抱きつく亞里亞。勢いのあまり、二人は床に転がる。ごつん、と鈍い音が聞こえて目の前に星が飛び散った。
「い、いたた……」
「あ……」
 そしてまた「ごめんなさい」と謝って、亞里亞の身体が戻る。雛子はずきずきと痛む頭をなでながら、千影のことを少しかわいそうに思った。
「ねぇ、亞里亞ちゃん。こういうの、ヒナはやめたほうがいいと思うな……」
 言いながら身体を起こす雛子を手伝うでもなく、亞里亞はただ、きょとんとした表情で見守るばかり。
「どうして? 姉やにお礼を言ったら、ダメなの?」
「そうじゃないけど……いつもこうやってぴょーんって抱きついてたら、千影ちゃん、いつかケガしちゃうよ」
「姉やにお礼を言ったら、姉やがケガしちゃうの? ……そんなの、ヘンです」
 何かが気に障ったらしく、亞里亞の口調に少し棘が混じる。
「ヒナはそんなこと言ってないよ。今みたいにいきなり抱きついてたら、大きな千影ちゃんでも転んじゃうかもしれないでしょ?」
 変と決め付けられた雛子も、負けじと眉を吊り上げた。
「でも、兄やは平気です」
「おにいたまは男の人だから平気なの。千影ちゃんは女の人でしょ」
「女の人でも、じいやは平気だったの」
「じいやって、男の人のことでしょ? ……亞里亞ちゃん、まだそんなこと言ってるの?」
「違う、違うの」
 亞里亞がぶんぶんと首を振る。
「男の人のじいやもいたけど、亞里亞の今のじいやは女の人なの」
「亞里亞ちゃんのほうがヘン。おじいさんは男の人で、おばあさんが女の人だから、じいやは男の人なの。女の人だったら、ばあやになるんだよ」
「でも、じいやは女の人なの!」
「もうっ、亞里亞ちゃんのわからずや!」
 いつまでも平行線をたどる話にとうとう切れた雛子は、勢い良く立ち上がって二度三度と地団駄を踏んだ。
 雛子の脅しにびくっと肩を震わせた亞里亞だが、今日は虫の居所が悪かったようだ。たちまちにすまし顔を作ったかと思うと、ぷいっと顔を背けた。こうなると二人とも幼いだけに、自分から引くことを知らなかった。
 姉妹の間に気まずい沈黙が横たわる。
 ふと気づくと、あたりは耳が痛くなるほどに静まり返っていた。
 雛子は急に怖くなった。さっきまであんなにうるさかったのに、今は何の音もしない。下の階のざわめきも、壁の向こうのわめきも、今は何も聞こえない。ニスの剥がれた床板の古さが、寂しい雰囲気を増していた。
「亞里亞ちゃん……?」
 たまりかねて口を開くが、雛子の声は宙を舞う埃をほんの少しかき混ぜるばかり。口を薄く開けた亞里亞は、気の抜けた表情で窓の外を見ている。
 雛子はぶるっと身震いした。今は意地を張っている場合ではない。
「ねぇ、亞里亞ちゃんってば……。ヒナ、ごめんなさいってあやまるから」
 雛子がにじり寄るも、亞里亞は一向に気づかない。雛子は首を伸ばして亞里亞の視線の先にあるものを確かめようとするが、窓一面に広がっていたのは青い空だけだった。
 いつもなら「また始まっちゃった」で済むのだが、今は違う。静けさの中で動かない亞里亞は、まるで人形そのもののように雛子の目に映った。
「もしかして、亞里亞ちゃん……」
 雛子の脳裏に、ある光景がふと浮んだ。そこから連想できるものに誘われるまま亞里亞の背後へ回り込み、唐突に背中のファスナーを引き下ろした。
 いきなり現実に戻された亞里亞が「ひゃん!」と小さく悲鳴を上げた。
「ひっ、雛子ちゃん……?」
「ダメ、じっとしてて!」
 剣幕に押され、亞里亞はわけもわからずにただ従う。
「ひじ曲げて……違うよ、そうじゃなくて後ろに両方とも曲げるの。次は右手を上げて、ううん、バンザイするみたいにして……つぎ、左手だよ。右手とおんなじようにするの」
 程なくして亞里亞は、上半身だけをきれいに脱がされてしまった。亞里亞は露わになった胸を両手で隠し、うるんだ目で雛子を見上げている。
「雛子ちゃん……亞里亞のこと、いじめないで……」
「ほらっ、後ろ向いて」
 雛子は聞く耳を持たない。くすん、とひとつしゃくり上げ、亞里亞は言われるままにのろのろ動いた。
「ありり、おかしいなぁ。このへんにあったの見たことあるけど……」
「やっ、やぁんっ……雛子ちゃん、くすぐったい……」
 亞里亞の白い背中を雛子の手が這い回る。わき腹をつつかれた亞里亞の上体が、反射的にびくんと仰け反った。
「亞里亞ちゃん、じっとしてて。動いたらぜんぜんわからないの」
「で、でも……」
 亞里亞が反論しかけた、ちょうどそのとき。
「ふははのは! こーんなところに隠れてた二人をチェ――」
 物陰から飛び出た四葉が、ルーペを突き出した格好のままで固まった。
「ナ、ナニしてるデスか……?」
「えっと……四葉ちゃんのほうこそ、何してるの?」
 四葉に追われていたことを、すっかり忘れていた雛子だった。





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