← Back
3
三十分もすると、十羽近い鶴が絨毯の湖を泳いでいた。
その半分は雛子が折ったものだ。折り方が甘くて曲がったものもあるが、久しぶりに折ったにしてはキレイにできた。
残りは亞里亞と千影で半分半分。
亞里亞は千影の隣にべったりとくっつき、一回折るごとに見せたり見てもらったりと忙しい。それもしばらくするとどうにか折れるようになってきたが、やはり形が少し崩れている。折り直しのあとに沿って身体は凹み、翼はよれよれ。ミカエルのように長く伸びなければいけないくちばしは、ブルドッグのようにぺしゃんこに潰れている。
それを支えるようにピンと翼を広げているのは、千影の折った鶴だ。丸くふくらんだ身体とは反対に首筋はまっすぐ伸び、小さな頭は遠くを見つめている。触るとちくちく刺さりそうな鋭さといい、どことなく千影に似ている。
それを作った本人は、今も亞里亞に付きっきりだ。横から口を挟みながら、膝に乗せた本を机代わりに素早く手を動かしている。あまり手元を見ずにてきぱき折りあげてゆく様子は、ロボットか何かを見ているようだ。しゅるっ、しゅるっと、紙の上で指を走らせる静かな音が、壁を隠したカーテンに吸い込まれて消える。
「どうしたんだい?」
気づかないうちに見とれていたらしい。千影は目を細め、床に座ったままの雛子を見下ろす。
「えっと……千影ちゃん、折るの上手だなって」
「そうかな。いつも強く折り過ぎて、硬くなってしまうんだ」
「でも、すごくキレイだよ」
「そうか」
千影は微笑みながらつぶやいた。
「だが、私は雛子くんのほうがいいと思うな。それぐらい柔らかいほうが、より鶴らしい」
「う、うん……」
青い瞳に見つめられると、なぜかどきどきしてしまう。どうしてだろうか。咲耶や兄にほめられたときは跳びあがりそうになるのに、千影のときは胸が締めつけられる感じ。うれしい気持ちは同じなのに、どうしてこんなに違うのだろう。
「それにしても、きみがそんなに上手だとは思わなかったよ」
それでも雛子は、胸を張って答えた。
「ずっと昔にね、咲耶ちゃんに教えてもらったの」
「昔、か……」
千影が目を落とす。
「きみのような小さな子にそう言われると、何だか変な気分だね。私のずっと昔は、そうだな……十年ぐらい前といったところかな。雛子くんが生まれたか生まれないか、それぐらい前」
「十年?」
そう言われても、雛子にはピンと来ない。
「そう……小学校へ入る前だな。それが私のずっと昔」
「ヒナのずっと昔も、小学校に入る前だよ。えっとね――」
雛子は目を閉じて、記憶をたどりながらひとつひとつ指を折りたたむ。
「四年か、五年ぐらい前。小学校に入る前の、もうちょっと前ぐらい」
「そうか、それは奇遇だね。年数は違うが、私も同じぐらいだ」
囁く千影の声はあくまでも柔らかい。
昔――ちょっと昔までは、こんなにやさしくなかった。いつも怒ったような顔していて、近づきたくてもなかなか近づけなかった。笑っている顔を見るようになったのは、本当につい最近になってから。
そんな千影に寄り添った亞里亞は、姉のお手本を前にすっかり夢中だ。
「きみは、その頃から咲耶くんと?」
「うん、そうだよ」
雛子の答えに、千影はふっと目を逸らせた。
「やはり、そういうものなのかな。……思えば、私が咲耶くんと知り合ったのもそれぐらいの頃だ。いや、もう少し前だったかな」
「じゃあ、ヒナが生まれる前からなんだね」
「そういうことになるかな」
やはり、雛子には想像もつかない世界だ。
雛子が今までに一番長くいっしょにいたのは咲耶で、それもずっと昔――四、五年前からのこと。他の姉たちとはそれよりも後に出会っている。大人たちと違ってみんなやさしかったし、今でもやさしい。
だが、その中でも一番やさしいのは、一番長くいっしょにいる咲耶だった。
雛子は、ふと思い浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「でも、千影ちゃんは咲耶ちゃんのことずっと昔から知ってるのに、ケンカしてるのはどうして?」
ぴくっと千影の眉毛が動いたのを見て、雛子は一瞬首をすくめた。
そんな雛子に、肩をすくめて微笑む千影。
「どうしてそう思うんだい?」
「だってヒナは、一番ずっといっしょにいる咲耶ちゃんと一番仲良しさんだもん。だから、ずっと昔から知ってるのにケンカしてるのってヘンだなって」
「そうだね……」
答えるのが難しいのか、千影は腕組みをしながら首をひねった。
「やはり、みんなにはそう見えてしまうんだろうね」
千影はひねった首のまま、目だけを動かして雛子を見つめる。
「違うの?」
「例えるなら、そう……」
そこで千影は頭を戻す。
「鈴凛くんと四葉くんのような関係かな」
「ふぅん……」
それならわからなくもない。だいたいの場合、四葉を止めるのは鈴凛の役目だ。時には可憐や春歌だったりもするが、その場合は叱られた相手にしばらく近づこうとしない。叱られてもすぐに仲直りするのは鈴凛のときだけ。
「じゃあ、どっちが鈴凛ちゃんで、どっちが四葉ちゃんなの?」
「……さぁ、どっちだろうね」
一瞬驚いた顔をしたものの、千影はいつものようにさらっと受け流した。
「案外、役目は決まってないのかもしれないな。お互いが、鈴凛くんとも四葉くんとも言える」
千影はそう言って、隣の亞里亞をちらりと見る。
それに続く声は、雨音に隠れてしまいそうなほど小さかった。
「だが、きみたちには、私たちのようになってほしくはないね」
「えっ?」
聞き返すと、千影は顔を軽く俯かせながら上目に雛子を見た。
「ずっと仲良しのままでいてほしいと、そう思っているよ」
「う、うん……」
雛子の顔がかあっと赤くなり、自然に頭が垂れ下がった。
さっき、わざとイジワルしていたことを知られたらと思うと、息が苦しくなる。もしかして、心の中を読んだうえで言ったのだろうか。青い瞳に見つめられると、なぜかそんな気がしてしまう。
そっと様子を窺うと、千影は再び折り紙に向かっていた。もう自分を見ていないことに、雛子はほっと胸をなで下ろした。
「あ……」
不意に亞里亞の身体がぴくっと跳ねた。膝から折りかけの鶴が落ち、千影がそれを拾い上げる。
「どうしたんだい?」
「誰か、帰ってきたの」
「私には何も聞こえなかったが……」
そう言って、千影は雛子へ目を向けた。聞こえなかった雛子は、もちろん首を横に振る。
「では、宅配便かもしれないな」
亞里亞は昨日と同じように目を閉じ、意識を集中させている。眉毛の間に、うっすらと川の字が浮かんでいた。
「ひとりで、何か持ってて……かさかさ、かさかさって」
「ますます宅配便っぽい。しかし、ドレスは昨日届いたばかりだが」
雛子は目を輝かせた。
「じゃあ、何かもっと別のもの?」
この家へ届く物といえば、亞里亞の替えのドレスか、近所のスーパーの宅配サービスかという程度だが、それでも雛子には何となく楽しみだった。もしかしたら自分宛ての何かかもしれないし、何より、いっしょに暮らす前は郵便すらも縁がなかった。
「さぁ、どうだろう。お中元やお歳暮とは縁のない家だから、食べ物ではなさそうだね。案外、怪盗クローバーかもしれないが」
「また四葉ちゃん?」
「雛子くんの気持ちはわからなくもないが」
千影は小さく肩を揺すって笑う。
「ちゃんとクローバーって呼んであげないと、また追い掛けられ――」
そのとき、ごとん、と何かが重く落ちる音が下の階から聞こえた。目を開けた亞里亞が不安そうに千影を見上げる。
「大丈夫、大丈夫だよ」
しかし、千影にしがみついて怖がる亞里亞を追い打つように、今度は同じ落下音がいくつも連なって響いた。
雛子は食いしばるように長い絨毯の毛を掴み、耳をすませた。
「何か転がってる……」
「缶詰か何か、そんな感じだね」
千影が亞里亞を抱き寄せながら頷く。
「かんづめ……」
ふとひらめいたのは、風邪を引いたときに咲耶が開けてくれた桃の缶詰だった。言葉よりも先に雛子の身体が立ち上がる。
「ヒナ、見てくる」
「いや、私が行こう。何かあるといけないから」
雛子へ手を伸ばして立ち上がろうとする千影だったが、その動きはうめき声と苦しげな表情と共に途中で止まる。
「こ、腰が……」
「姉や?」
姉の異変に驚いた亞里亞は、見開いた目をおろおろとさまよわせるばかり。
駆け寄った雛子は千影の脇へ手を回し、抱き止めるような格好でゆっくりと座らせる。埋めた千影の胸からは、咲耶とまた違う匂いがした。
「面目ない……」
かすれた声で礼を言う千影は、顔を真っ赤に染めていた。
「これも、咲耶くんに教わったのかい?」
「ううん、ぬいぐるみのクマさんを座らせるときにね、いつもこうやってるの」
「ああ、なるほど。道理で」
千影は顔を俯かせ、いつものように唇の端だけで笑う。
「ありがとう、助かったよ」
「えへへへ。ヒナ、ほめられちゃった」
照れ笑いに表情を崩す雛子とは対照的に、亞里亞は唇をすぼませ、不満の色をありありと浮かべている。雛子はそんな亞里亞を横目に見て、さらに胸を反らせる。
「じゃあ、千影ちゃんはじっとしてて。ヒナが下見てくるから」
「いや、何かあったら大変だ。それに、他に誰かいるだろう。任せておけばいい」
「姉や……」
亞里亞が千影の袖を引いて、ふるふると首を振った。耳を澄ませても、聞こえてくるのは雨の音ばかり。
「まさか、誰もいないのか? そんなバカな」
「千影ちゃん。やっぱり、ヒナが見てくるよ」
「いや、きみをひとりで行かせるのは……」
千影は腕を組み、なおも迷っている。亞里亞はそんな姉に寄り掛かり、腰に腕を回してぴったりくっついている。
その姿が昨夜の光景と重なった。
「じゃあ、ふたりならいいの?」
雛子の口からとっさについて出る言葉があった。
「亞里亞ちゃんといっしょなら、大丈夫でしょ?」
「それは……いや、どうだろうな」
当の亞里亞はと言えば、眠りから覚めたようなぼんやり顔をふたりへ交互に向けている。
「大丈夫だよ。ふたりだったらぜんぜん平気だもん。ね、亞里亞ちゃん?」
雛子は、亞里亞に向けて勢いよく手を突き出した。亞里亞はいそがしく何度もまばたきして、その手を見つめている。
実のところ、雛子にはどっちでもいいのだ。亞里亞へ話を向けた時点で、雛子は亞里亞よりもずっと有利な立場にいる。手を取らなければ、雛子は亞里亞の分までほめられる。しかし、自分もほめられようと手を取れば、姉やから離れなくてはいけない。
だから、雛子にはどちらでもいいのだ。自分が、甘えん坊の亞里亞よりも大人なことを証明できれば。
――イジワルなんかじゃない。亞里亞ちゃんは、甘えんぼさんなだけなんだから。
しかし亞里亞は、ちらっと一度だけ千影のほうを見ると、おずおずと雛子の手を取った。
「亞里亞も、雛子ちゃんといっしょ」
予想が外れたので雛子は返事に詰まった。だが、それも一瞬の迷いだった。
「うん。ヒナも、亞里亞ちゃんといっしょだよ」
雛子が手を引くと、ドレスの裾をふわりとはためかせながら亞里亞が立ち上がる。何羽かの鶴が、不意のそよ風にあおられて絨毯を滑った。
「ね? いいでしょ、千影ちゃん」
「まあ、ふたりがそういうのなら」
まだ納得できていないのか、千影の反応は鈍い。
「いこ、亞里亞ちゃん」
雛子は、千影の気の変わらないうちにと駆け出した。
引いた亞里亞の手は、いつもより少し重かった。
*
灰色に照らされた廊下はいつもより暗く、そして怖い。
床板をそっと踏みしめる音もどこか悲しそうに聞こえる。
ずっと昔――咲耶が生まれる前にあった『せんそう』よりも前――にはホテルだったと教わったが、本当なのだろうか。雛子が知っているホテルは、駅の前や街の中にある大きなビルだ。外から覗き込んでみると、天井から吊り下がったシャンデリアがきらきら光っている。玄関にはいつもピカピカに光った黒い車が止まっていて、出たり入ったりしているのは大人ばかりだ。
ということは、ここは子供ホテルだったのかもしれない。天井から下がっているのは白いガラスの玉で、電気が点いてもあまりきらきらしない。車は入ってこないし、大人はひとりもいない。学校と言われたほうがまだわかる。かけっこできるぐらいに長い廊下も、ずらっと続くたくさんの扉も、コの字に折れ曲がった大きな建物も。これでもっと新しければ小学校とそんなに変わらない。
そういえば、亞里亞とはいつもこうして手をつないで通っている。もしかしたら、ここは本当に学校かもしれない。
「雛子ちゃん、どうして笑ってるの?」
亞里亞が突然立ち止まったので、雛子は思い切り前につんのめった。どうにか踏みとどまり、花穂にならずに済んだ。
「う、ううん、何でもないよ」
振り返って笑うと、亞里亞もつられて微笑んだ。
「亞里亞ちゃん、怖くない?」
「雛子ちゃんがいっしょだから、平気」
握った手に力が入り、じんわりと熱くなる。
正直な話、亞里亞がついて来てくれてうれしかった。
いいところを見せようと意気込んでみても、やっぱり怖いものは怖いのだ。謎の物音そのものだけでも怖いのに、薄暗さと静かさがさらに加わっている。もしもひとりだったらと思うだけで、寒気がこみ上げてくる。
「雛子ちゃん、寒いの?」
一度だけ身震いした雛子を、亞里亞は見逃さなかったらしい。
「んっと……ちょっとだけ」
すると亞里亞は、ほどいた手を雛子の腰に回してぎゅっと抱きついた。ハイソックスの足がドレスのふわふわスカートに埋まる。すぐ目の前に亞里亞の唇があった。
「こうすれば、寒くないでしょ?」
亞里亞はくすくす笑いを残しながら、しがみついたままで雛子の背後に回った。
「でも、亞里亞は怖いのイヤだから、雛子ちゃんが前ね」
「う、うん……」
雛子はどきまぎしながら、かくんと首を振った。抱きつくのには慣れていても、抱きつかれるのにはあまり慣れていない。
しかし、今は背中に感じる亞里亞の温もりがうれしかった。
「じゃあ、行こっか」
「うん」
亞里亞のほうが大きいので、雛子の肩に頭を乗せる格好になる。頬をくすぐる銀の巻き髪から、千影とよく似た匂いがした。
お互いの足を踏まないようによちよち歩くうち、ふたりは大階段に差し掛かった。ここを下りれば玄関の真正面に出る。
耳をすませると、がさごそと動き回る音が下から聞こえてくる。
「亞里亞ちゃん、聞こえた?」
亞里亞は、返事をする代わりに回した腕へ力を込めた。
「ふたりいっしょなら大丈夫だよ」
小声で励ます雛子だが、むしろそれは、自分を勇気づけるためでもあった。
先にもまして慎重に歩くふたりだが、段を目前にぴたりと足が止まった。
「このままじゃ、おりれないの」
「ホントだ……」
いくら小さな足だからといって、一段へふたり同時に乗れるはずもない。
「どうする? はなれる?」
亞里亞の答えは「くすん」だった。
「でも、このままだとおりれないよ……」
亞里亞に抱きつかれたまま、雛子はすっかり途方にくれてしまった。
そんな雛子の頭に浮かぶのはいつも頼りにしている咲耶の顔だった。
こんなとき、咲耶ちゃんだったらどうするのかな。亞里亞ちゃんに離れてもらうのかな。それとも、いっしょのままでおりるのかな。亞里亞ちゃんは千影ちゃんの言うことばかり聞くから、咲耶ちゃんならこのままおりようとするかも。でも、前を向いたままじゃおりれないから――
「あっ、そうだ」
雛子は腰に回された亞里亞の手を取り、そのままふたりいっしょに回れ右をした。
「横になってカニさんみたいに歩けば、きっとおりられるよ」
その説明にも、亞里亞は不思議そうな顔で見つめてくるだけ。
「じゃあ、やってみようよ」
雛子の先導でふたりは横歩きでちょこちょこと階段に近づき、左足を下ろした。めいめいに足をつけた途端、ふたりの身体がぐらっと揺れ、転げ落ちそうになる。
「わわっ!」
雛子がとっさに両手を広げてバランスを取ると、ふたりは上半身を二度三度と前後させながらようやく身体を落ち着ける。
「あー、びっくりした」
「でも、ホントに大丈夫なの?」
亞里亞の手がブラウスの背中をくいっと引く。
「今のはね、足がそろわなかったからだと思うの。だから亞里亞ちゃんは、ヒナの声に合わせて動いてね」
雛子は亞里亞の背中をぽんぽんと叩き、注意を向ける。
「いくよ、亞里亞ちゃん。ひだり、みーぎ、ひだり、みーぎ、ひだり――」
今度はうまくいったようだ。ふたりは、ゆっくりと確実に階段を下りてゆく。亞里亞もだんだん慣れてきたのか、囁き声で調子を取り始める。
「みーぎ、ひだり、みーぎ、ひだり――」
踊り場の壁いっぱいに広がったステンドグラスが少しずつ大きくなってくる。いつもは階段を虹色に染めているのだが、この曇り空では薄くぼんやりとしか光っていない。
手すりを折り返すと、下から吹き上がったそよ風が額の汗をぬぐった。
「こうしてると、ヒナと亞里亞ちゃんって何だか『タイタニック』みたいだね」
雛子は踊り場の端で正面を向き、両腕を真横へ広げ直した。だが、亞里亞は雛子の肩に頭を乗せたまま、何も言おうとしない。
「亞里亞ちゃん、『タイタニック』知らないの?」
疑うような口ぶりに、亞里亞はいつもより少し語気を強めた。
「ううん、亞里亞も知ってるの。でも、亞里亞の知ってる『タイタニック』はそういうのじゃないの」
「じゃあ、どういうの?」
「亞里亞が知ってるのは、人がいっぱい流されてしまって、それで、お金もいっぱいなくなってしまったっていうお話」
「ヒナの見た『タイタニック』はね、船の一番前でこうやってたんだよ。ずっと昔にね、咲耶ちゃんといっしょにテレビで見たの」
「亞里亞は、おひげを生やしたおじさまに教えてもらったの。『りすくまねーじめんと』のお話って、じいやが言ってました」
「ふぅん。ヒナ、よくわからないや……」
雛子の知っているタイタニックは、大勢の人が船の上を逃げ惑う途中で終わっている。気がついたときには、ベッドの上で朝になっていた。あのふたりがどうなったのかを聞いても、咲耶はついに教えてくれなかった。だが、亞里亞の知っているタイタニックを聞く限りでは、あまりいい終わり方をしなかったらしい。
「でもね、亞里亞はこうやっていると、ダンスのレッスンを思い出すの」
「ダンスって、えっと……フォークダンス?」
「ううん、違うの」
亞里亞は、雛子の無知を笑うでもなく、ふるふるとかぶりを振った。
そして、一度離れてから正面へ回り込むと、
「亞里亞がレッスンしたのは、こういうの」
そう言って雛子の右手を取り、残る腕を腰に回して全身をぴたっと張りつかせた。
「雛子ちゃんは、やったことない?」
額に亞里亞の吐息がかかる。風もないのに前髪がそよいだ。
「こ、こんなの……ないよ。テレビで見たこと、あるけど……」
雛子は思わずぷいっと顔をそむけた。
すぐ目の前に唇があるのに、どうしてこんなに平気でいられるのだろうか。恥ずかしくないのだろうか。
「それなら、わかるでしょ? 音楽にあわせて、手と足を動かすだけ。ほら、亞里亞についてきて」
腰へ回された腕に力が入ったと思うと、亞里亞がすっと横に動く。ひっぱられるように雛子の身体も横滑りした。
階段を下りていたときと違って、亞里亞の身体はゆるぎない。さっきが花なら、今は木だ。自らを軸にして、雛子を振り回すように踊る亞里亞。
くるくると回りながら踊り場を一往復すると、ドレスをふわっと落ち着かせながらダンスが終わった。踊っている間、足音はひとつもしなかった。
「亞里亞ちゃん、すごい……」
賞賛が、かろうじて驚きを上回った。大きく目を開く雛子に、亞里亞は満足そうな微笑みを返した。
「もしかして、亞里亞ちゃんのダンスで階段おりれるかもしれないね」
「じゃあ、やってみる?」
雛子の返事を待たず、亞里亞が力強く手を引いた。
今までにないリードに口を挟む余裕もなかった。上体を大きく左右へ振りながら、ワルツの三拍子で一段一段を確実に下りてゆく。さっきまでの危うさはどこにも感じられない。
亞里亞のリズムに抱かれるうち、ふたりの胸の鼓動がシンクロしてゆくのがわかった。左の胸も右の胸もどきどきしていて、どっちの胸がどっちの胸なのかわからない。
「亞里亞ちゃんのダンスって、いつもこうなの?」
「うん」
密着した感触にも、亞里亞は涼しげ顔を崩さない。弾む吐息で楽しそうだとわかる。
「えっと、じゃあ……運動会のフォークダンスのときも、こんなにぴったりくっついたの?」
「うん。でもね、みんな真っ赤なお顔になって、すぐ逃げちゃうの。どうしてなのか、雛子ちゃんは知ってる?」
「んーっと……」
生返事をするしかなかった。
雛子でさえも恥ずかしさが先に来ているのに、これが同じ年の男の子ならなおさらだ。ときどき亞里亞とふたりして兄に抱きつき、わざと顔を赤くさせて遊んでいる雛子だが、やはり咲耶や春歌にはかなわない。何しろ、雛子たちふたり掛かりのときよりも、兄の顔を赤くさせているのだから。たぶんきっと、年が近いほど顔が赤くなるのだろう。
――もしも、おにいたまに同い年の『かのじょ』ができたら、もっともーっと顔が赤くなるのかな?
そんなことを思いついた瞬間、左の壁の向こうから、どさっ、と何かのぶつかる音が鈍く響いた。亞里亞が足を止め、身体を震わせながら雛子にしがみつく。ふたりの鼓動がばらばらに飛んで跳ねた。
「あ、亞里亞ちゃん、苦しいってば……」
しかし亞里亞は、頬を雛子の肩へこすりつけるように首を振るばかり。
壁の向こうでは物音がまだ動いている。その中にぶつぶつとつぶやく低い声を聞き取り、雛子の背筋も寒くなった。恥ずかしさを忘れ、ぎゅっと亞里亞の体温を抱き寄せる。
玄関に向かって右側はリビングルーム。しかし、声のする左側は誰もいないはずの応接間だ。とはいっても、元はロビーだった大部屋を仕切って使っているだけで、テレビも何もない。部屋の片隅には机や椅子が積み上げられていて、かくれんぼをする以外、雛子たちには用のない部屋だ。
今度はごそごそと床を這い回る音がする。
さっきまでの夢見気分は、とっくの間に消えてなくなっていた。髪の合間から見える亞里亞の顔色もどこか青ざめている。
「亞里亞ちゃん、こわい?」
「こわい……」
「そんなにこわいんだったら、ヒナ、いっしょに戻ってあげてもいいよ」
本当は雛子自身が逃げ帰りたい気分でいっぱいだった。それでも、自分から逃げようと言い出さないのは、雛子なりのプライドの表れだった。
「でも、雛子ちゃんはどうしたいの?」
亞里亞が震える声で、しかし、はっきりとした音色で囁いた。
「亞里亞は……雛子ちゃんといっしょなら、平気」
「うん……」
返事を考えていると、不意に動いた亞里亞の手が雛子の頭をやわやわとなで始めた。雛子の迷いを見抜き、答えを促すかのように。
「じゃあ、このまま行こっか?」
亞里亞は、くすん、としゃくりあげて答えた。
どのみち、後には引けないのだ。くっついたままで階段を上がるのは面倒だし、玄関がすぐ近くなので、本当に怖い何かが出たときは逃げ出せばいい。外に出れば、きっと誰かいるはずだ。
階段はあと少し残っていた。慎重に慎重に、そうっとゆっくりと足を下ろしてゆく。
完全に下りたところで玄関を見ると、ひとり分の足跡が外から点々と続いていた。
「誰かが帰ってきたみたいだよ。亞里亞ちゃん」
「どうしてわかるの?」
「だって、ほら。げた箱の前で、あしあとが消えてるでしょ。それに、お客さんだったら靴が置きっぱなしになってないとおかしいもん」
四葉のヘンテコ推理に追い回されているせいで、いつの間にか鍛えられていた雛子だった。
「でも、もしも、お靴をはいたままで入ってきていたら?」
そんな亞里亞の仮説を裏付けるように、がさごそという音が聞こえてくる。それと、うろうろ歩き回る足音も。
雛子は、くうっと喉を鳴らして飲みこみ、自分へ言い聞かせるように囁いた。
「靴の音じゃないよ、きっと」
「でも……」
「だいじょうぶだって。ふたりいっしょなんだから」
今度は雛子がリードする番だった。亞里亞の腰に手を回し、じりっ、じりっと身体ごと引っぱり歩く。雛子の強引さに亞里亞も安心し始めたらしく、少しずつ足の動きが揃う。
何かあったときに逃げやすいよう、壁を大きく回りこむように雛子は進路を取った。この辺の機転も四葉のおかげだ。
「そっとだよ。そおっと」
「うん」
「もしつかまりそうになったら、バラバラに逃げるんだよ」
「うん」
囁き声を交わすうちに、応接間の扉が見え始めた。扉は大きく開いている。
さらに回り込んで正面に出ると、入ってすぐの床に置かれた茶色の紙袋が大きな口を向けていた。よく見ると、ところどころが濡れて大穴が開き、そこから何か光るものが見える。
「何かな、あれ」
雛子の中で、恐怖心よりも好奇心が勝った。いやいやと首を振る亞里亞を引きずるように近づいてゆく。
部屋へ首をつっこみ、もう少しで袋の中身が見える。まさに、ちょうどそのとき。
扉の陰から、大口を開けた虎の顔がぬっと滑り出た。
突然の出来事に身体が縮み上がり、ふたりはますますくっついた。
「で――」
それでも、お互いの口をお互いの手でふさぎ合うふたり。もはや逃げるどころではない。
しかしそれは、よくよく見ると刺繍の虎だった。銀と青にきらきら光るジャンパーの背中に細かく縫われてある。
と、何かに気づいたらしいジャンパーがおもむろに振り返った。
「うわぁっ!」
掛けたサングラスを振り落としながら飛び下がったのは、鈴凛だった。
Next →