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「い、いつからそこに……?」
 しばらく、驚いた顔を凍りつかせて見つめ合うふたりとひとりだったが、
「とにかくこっち。隠れて!」
 ハッと我に返った鈴凛はふたりを引っぱり込んだ。
 廊下に顔を突き出して左右を確認すると、後ろ手で静かに扉を閉める。
「こんなところで何してるの?」
 雛子の問いに、鈴凛は人差し指を唇に当てた。
「何って、そっちこそどうしたの? そんなに抱き合っちゃってさ」
 鈴凛の小声に、亞里亞を突き飛ばすようにして離した。
「だって、亞里亞ちゃんがこわいって言うから」
「くすん……」
 鈴凛はふたりを交互に見ながら腕組みをした。
「何それ? どういうこと?」
 そこで雛子は、亞里亞の部屋からの出来事を残らず話して聞かせた。亞里亞はその間に、応接セットのソファーへ腰掛けてうたた寝を始めている。
 一通り聞き終えた鈴凛は頭をぼりぼりと掻いた。そういえば、いつものゴーグルがない。
「あー、やっぱ二階まで聞こえてたか。素直に裏口から入ればよかったかなぁ」
 そう言いながら、何度も後ろを気にしている。
「聞こえてたって、何が?」
 鈴凛はニヤッと笑って、握っていた手のひらを開いて見せた。
 それは小さなサイズの缶だった。果物の絵と、100という数字が目立つ。
「缶ジュース……?」
「入れてた紙袋が雨で濡れちゃってね。んで、落ちたの拾おうと思ったら真ん中から破れて、なだれみたいにどさーって全部この部屋に。一応、これで全部集めたはずなんだけど、まだどっかの下に落ちてるかも」
 鈴凛の見た先には、缶ジュースが床へ綺麗に並べられてあった。ざっと数えても十本は越えている。
「お買い物? 雨なんだから、ビニール袋に入れてもらえばよかったのに」
 率直な問いに、鈴凛が苦笑いする。
「買い物っていうか、貰い物……なのかなぁ。どういうわけか、決まって紙袋なのよね。そこ」
「一、二、三……あ、みんなの分あるよね」
「んー、そうだね」
 そう答えた鈴凛は何か様子が変だ。咲耶が自分を子供扱いするときのような、そんな感じ。目があちこちを見て動き回っている。
 雛子があやしく思っているのにも気づかず、鈴凛は並ぶ缶ジュースの列に歩み寄る。
「ねぇ、どれがいい? 好きなの一本ずつあげるよ」
 と振り返った鈴凛は、背伸びして亞里亞の様子を見た。
「いいの?」
「いいよー。うん」
 やっぱり何かが変だ。いたずらを見つかったときのように、声が少し高い。
「……鈴凛ちゃん、何か悪いことしてない?」
 上目でじとっと決めつけると、鈴凛の身振り手振りが急に大きくなり始める。
「あっ、雛子ちゃんはそういうこと言うの? お姉ちゃんを信じられないなんて、アタシ悲しいなぁ。素直じゃない悪い子にはご褒美の缶ジュースをあげないぞ」
 両手を腰に当てて胸を反らしたり、人差し指をリズミカルに上下したり、肩をすくめて首を横に振ったり、まるで子供番組に出てくるお姉さんのようだ。そう思うと、なんとなく声までそれっぽく聞こえてきた。
「じゃあ、モモのジュースってある? あったら信じてあげる」
「モモ? かなりレアね、それ。そんなもの景品にあったかな、っと……あっ、ありました。鈴凛選手、奇跡的に発見です!」
 鈴凛は上半身をしならせるようにして、勢いよくを拾い上げた。待ちきれない雛子は、自分からすたすたと駆け寄る。
 そんな雛子を見て、鈴凛が笑みを浮かべた。
「へぇー、そんなに好きなんだ」
「うん。ヒナね、モモのジュース大好き!」
「ふぅん、それは初耳。……あの子のチェキも意外に穴だらけね」
 四葉が知らないのも無理はない。今まで、咲耶以外の誰にも言ったことがなかったのだから。
 雛子にとって、モモは咲耶との思い出の味だ。たくさん食べたわけでも、特別においしかったわけでもない。ただ、缶詰の甘ったるいシロップの味を覚えているだけのことだ。
「はい、雛子ちゃん」
 と、開いた雛子の手の上に缶ジュースを持ってくる鈴凛だが、一向に落とそうとしない。
「どうしたの?」
「そのかわりにこれだからね」
 と鈴凛は、人差し指をまた唇に当てた。さっきの驚き方といい、この缶ジュースはよっぽど秘密にしておきたいらしい。ひとり占めしたいぐらいにおいしいのだろうか。
 雛子はしばらく考えてから首を縦に振った。直後、すとんと重みが乗っかる。
 それをポケットへ押し込みながら、
「でも、何で?」
「まあまあ、そんなのどうでもいいじゃない」
 しかし、隠されると余計に知りたくなるというものだ。
「でも、その変なジャンパーって何? それと、さっきサングラスもしてたよね」
「これはその、気分転換っていうか――」
「教えてくれなきゃ、大声で千影ちゃん呼んじゃうよ」
 何気なく言っただけなのに、鈴凛の驚き顔は本物だ。
「まさかそれ脅迫? いやいやそんな、冗談キツイってば」
「じゃあ、教えて」
「じゃあ、返して」
 鈴凛はそう言うなり、大きく広げた両手で雛子を抱き込んだ。
「ほーれ、ほーれ、人を信じない悪い子はこうだぞー」
「りっ、鈴凛ちゃん、やめっ、やっ、やーめーてーよっ!」
 ポケットから何からをまさぐられ、雛子はくすぐったさに足を踏み鳴らして悶えた。
 だが、雨音を遥かに上回る騒音に、思いがけず鈴凛が慌てる。
「わっ、わっ、ちょっと、静かにしてってば!」
 しかし、姉の焦りに気づいた雛子はさらに調子に乗る。
 そろえた両足でジャンプしながら、
「教えて! 教えて! 教えて! 教えて!」
「ああ、もうっ!」
 そんな声が聞こえたと思うと、すっと鈴凛の手が離れた。
 あきらめたのかなと思った直後、肩と足が同時に抱え込まれた。そして、そのまま横に抱え上げられる。膝から下がつかまっているので、お姫さまだっこというよりはお魚さんだっこに近い。釣った魚を自慢しようと、両手で持ち上げるときのような感じ。
「やだ! 下ろしてよ!」
「ダメ。おとなしくしたら下ろしてあげる」
 そう言われても、今にも腰から落ちそうで怖い。お姫さまだっこと違って、身体がVの字になっているのだ。
 少しでも落ち着こうともがく雛子は、ふとジャンパーから漂ってくる異臭に気づいた。
「――鈴凛ちゃん、タバコくさい」
 とてもイヤな臭い。あちこちつれ回された、ずっと昔のできごと。思い出したくもない。
 雛子は鈴凛を睨みつけた。
「だから、みんなに秘密なんだね」
「ちっ、違う違う! それ誤解、タバコなんか吸ってないって。アタシは、そういう臭いのする場所に行ってただけで――」
「ヒナ、タバコだいっきらい!」
 とにかく逃げたかった。これはイヤなところへ連れて行かれる臭い。腰から落ちようがケガしようが、そんなことはどうでもいい。
 逃げたい一心の雛子は、それこそまな板の上で飛び跳ねる魚のように全身をばたつかせた。
「ちょっ、ちょっと待ってってば! アタシの話を聞いて? ね?」
「やだやだやだっ! ヒナはきらいだもん! タバコなんかあっちいけ!」
 振り回したげんこつが何度もぶつかる。苦しそうな鈴凛の声が続いた。
「だから、それ違うんだってば」
「じゃあ、何が違うの?」
 雛子はぴたっと手を止めた。鈴凛の言い分を聞くというより、手が痛くなってきたことのほうが大きい。
 すると、鈴凛がため息混じりにこう言った。
「これ以上暴れないって約束してくれたら教えてあげる」
「それと、何でしみつにしてたのかも」
 ほのかな刺激臭に鼻をつまむ雛子。
「しみつ? ……ああ、秘密ね。わかった、それも教えてあげるから」
「ホントだよ? ゼッタイだよ? ゼッタイのゼッタイに約束だからね」
 雛子はしつこかった。タバコの臭いのする人間は信用できない。それが、今までに得た教訓だった。
「じゃ、指切り」
 雛子は鈴凛に抱えられたまま、差し出された小指に小指を絡めた。何度も指切りをしている雛子だが、空中でするのは始めてだった。いや、もしかすると世界で始めてかもしれない。
 そっと床に立たされると、目覚めたらしい亞里亞がとことこと駆け寄り、雛子の頭をなでた。
「あ、そうだ。これ亞里亞ちゃんの分」
 と、鈴凛はポケットから缶ジュースを取り出す。
「そんなことより早く教えてよ」
「はいはい、そんなに慌てないの」
 手渡された亞里亞は、物珍しそうにぐるぐると缶をいじり回している。
「で、どうしてなの?」
 焦れた雛子が詰め寄ると、鈴凛は頭を掻きながら天井を見つめた。
 だが、なかなか口が開かない。
「ねぇ、どうして?」
「いや、あのね、これはその……そう、変装! 変装用の衣装なの」
「……変装?」
 真顔で首を傾げる雛子の姿に、うんうんと鈴凛が頷く。
「そうそう、変装なのよこれって。ちょっと頼まれちゃって、タバコの臭いのする場所に潜入捜査」
「でも、どうして鈴凛ちゃんなの? 探偵は四葉ちゃんのお仕事でしょ?」
「うーん、なかなか鋭い質問。さすがは雛子ちゃんね」
 鈴凛は腰を曲げ、ふたりと目線を合わせる。
 そして小声になると、
「ここだけの話……四葉ちゃんって、探偵としてどう思う?」
「どう、って?」
「つまり、上手か下手か――」
「へたくそ」
 雛子の答えは早かった。
「うわ、めちゃくちゃはっきり」
「だって昨日なんか、後からついてきてるのすぐわかったんだよ」
 そうだよね、と亞里亞に笑い掛けると、亞里亞も笑顔を見せた。
「亞里亞は、すぐ聞こえちゃうの」
「そっか、亞里亞ちゃんは地獄耳だからね……っと、話が脱線しちゃったけど、つまりはそういうこと」
「えっと……四葉ちゃんがヘタクソだから、その代わりに鈴凛ちゃん?」
「そうそう、そういうこと! えらいねー。んー、雛子ちゃん大好きっ!」
 両手を広げた鈴凛は大げさに誉めたかと思うと、そのまま雛子に抱きつこうとした。鼻を突く臭いが波のように押し寄せる。
 そんなに強い臭いではなかったが、雛子は露骨に嫌な顔をしてみせた。
「鈴凛ちゃん、タバコくさいよ」
「あ、ごめんごめん」
 鈴凛は、急いで脱いだジャンパーを大きく後ろへ投げ捨てた。巻き起こる風に亞里亞がひくひくと鼻を動かす。
「じゃあ、この缶ジュースって何?」
「それが今日のお仕事のお礼」
「でも、みんなに秘密なのはどうして?」
「それは、これが秘密のお仕事だから。それに、四葉ちゃんにバレたらどうなるかわかるでしょ?」
 すぐに思い浮かんだのは、白雪とケンカしてミルクティーをひっくり返した、あのアフタヌーンティーだった。
「……あばれる」
「さすが雛子ちゃん、よくわかってるじゃない」
 また頭をなでてくれたので、雛子はそれで納得した。
 嫌な思い出のする臭いで暴れてしまったが、よくよく考えてみれば鈴凛がタバコなんて吸うはずがない。タバコを吸うのは、自分をどこか遠くへ連れていこうとする悪い大人だけだ。
 鈴凛ちゃんは悪い人じゃないし、それに大人じゃない。
 鈴凛は広げたジャンパーで紙袋とジュースを包むと、
「ということで、絶対みんなには内緒だからね。いい? 約束だよ?」
 荷物を担ぎ、忍び足で扉に近づく鈴凛。薄く開けた隙間からきょろきょろと左右を確認するしぐさは、探偵というよりもむしろ泥棒だ。
「あ、そうそう。飲み終わった空き缶はアタシの部屋に持ってきてね。証拠隠滅」
 じゃあね、と軽く手を上げた鈴凛は、お尻で隙間をこじ開けながら出ていった。
「変な鈴凛ちゃん」
 後を追って扉の隙間から覗き見ると、内履きを脱いだ鈴凛がスケートのように足を滑らせ、音を立てずに動いている。そこまでして隠す秘密とは何だろうか。
 だが、今は缶ジュースのほうが先だ。ジュースといえば、オレンジかリンゴかブドウといつも決まっている。モモなんてそんなに飲めるものではない。
「別にいいや。得しちゃったし」
 雛子は扉をそのままにソファーへ歩み寄った。弾みをつけて、ぼふんと腰掛ける。
 少し遅れて、亞里亞がその隣へ静かに座った。ふたりとも床に足がついていないので、何となくぶらぶらしてしまう。
「んー、まだタバコ臭いなぁ」
 そう呟いて鼻をくんくん鳴らすと、亞里亞が頷いて答えた。
「ちょっとがらがらしてて変だけど、いい匂い」
「いい匂い?」
 雛子は思わず缶ジュースを落としそうになった。
「くっさーいタバコの臭いだよ? 亞里亞ちゃんは、そんなのが好きなの?」
「だって、タバコの匂いのするおじさまは、亞里亞にいつもおみやげを持ってきてくれたの。バラの花束とか、オルゴールとか――」
 自慢とも思い出ともつかない話をする亞里亞に、雛子はすっかり面食らってしまった。
「雛子ちゃんは、そういうのなかったの?」
「ヒナの……?」
 亞里亞は缶ジュースを行儀よく膝の上に置き、小首を傾げながらこちらを見ている。
 雛子は少し腹が立ってきた。自分がイヤな思いをしている間、亞里亞はいい思いをしていた。しかも、それを当たり前だと思っている。
「亞里亞ちゃんは、どうしてそんなこと聞くの?」
「聞いたら、ダメ?」
「ダメじゃないけど、どうしてって聞いてるの」
 それっきり亞里亞が黙ってしまったので、雛子はそっぽを向くように座り直した。
 タバコの臭いは、いつだってイヤなものを運んでくる。
 今、鈴凛がタバコの臭いといっしょに運んできたのは缶ジュース。だからといって、すぐにタバコへの考えが変わるわけではない。イヤなものは何をしたってイヤだ。
 雛子は気を取り直して、プルトップを開けた。甘いモモの匂いが鼻をくすぐる。昔は開けるのに咲耶の手を借りたが、今はそんなこともない。これぐらいはひとりでできる。
 一口ふくんだジュースは手のひらの熱ですっかりぬるくなっていた。しかし、喉にねっとりと絡む甘みをものともせず、雛子は喉を鳴らして一気に飲み干す。
 好きなものは、誰かに取られる前に食べてしまう。それが雛子の流儀だった。
「あー、おいしかった」
 雛子はそこで、亞里亞がじっとこちらを見ていることに気づいた。
「どうしたの?」
「うん……」
 亞里亞が目を落とした先は、膝に置いたままのオレンジジュース。もちろん、まだ手をつけていない。
 それだけでもう、亞里亞の言いたいことがわかってしまった。
「もしかして、開けれないの?」
「亞里亞、初めて……」
 くすん混じりの言葉に、雛子は思わず耳を疑った。
「初めてって、缶ジュースのこと?」
「見たことあるけど、持ったのは初めて」
 冷蔵庫を開けると必ず紙パックのジュースや牛乳が置いてある。白雪次第では絞りたてのジュースが出てくるのだから、缶ジュースの出番はほとんどない。
「でも、自動販売機とか外にいっぱいあるよ。ホントに初めてなの?」
「だって、フランスにはそんなものなかったの」
 そういえば、春歌も四葉も自動販売機を珍しがっていた。
 だが、『ない』と『知らない』は違う。
「――亞里亞ちゃんって、ホントに何も知らないんだね」
 思わず口をついて出た言葉に、亞里亞がしゅんとしおれた。それでも、雛子に横目を使う表情には不満の色がありありと浮かんでいる。
「だって、じいやはそんなこと教えてくれなかったもの」
「そういうときは聞けばいいんだよ。ヒナはね、知りたいことやわからないことがあったらいつも咲耶ちゃんに聞いてるよ」
「亞里亞も、わからないことは聞いてるの。でも、じいやは姉やみたいにやさしくないから、亞里亞が聞いてもいつも『いけません』って言って亞里亞のことを叱るの」
 自分の腕を抱いて首を振るところをみると、どうやら本当に怖い人らしい。
「亞里亞ちゃんのおうちって、そんなイジワルな人しかいなかったの?」
「じいやのほかにも、コックさんとか庭師さんとかたくさんいたけど、でも、ずっと亞里亞のそばにいてくれたのは、じいやだけ」
「ふぅん」
 キレイなお洋服や甘いお菓子がいっぱいでも、近くにいてくれるのがそんな人だったらあまりうれしくないかもしれない。
「ヒナには咲耶ちゃんひとりだけだったけど、咲耶ちゃんはいつもやさしくて、聞いたら何でも教えてくれたんだよ」
 自然と自慢するような響きになった。亞里亞も負けじと言いたてる。
「でも、じいやだってやさしいもん。亞里亞がひとりで寝れないときは、亞里亞のことだっこしながらいっしょに寝てくれたの」
「そんなの、ヒナだって同じだよ。それに、咲耶ちゃんはヒナとずっといっしょに寝てくれたもん」
「――ずっといっしょ?」
 亞里亞が、意外なものを聞いたという風にうっすらと笑みを浮かべた。
「雛子ちゃん、ひとりで寝られなかったの?」
「そ、そんなことないよっ!」
 雛子の顔があっという間に赤くなった。
 雛子に言い負かされてばかりの亞里亞だが、今日はいつもと少し違っていた。
「亞里亞は、昔からひとりで寝られます。じいやがね、いつまでも甘えんぼさんだと立派なレディになれませんよって」
 雛子は返事に詰まった。亞里亞の言葉通り、ひとりで寝るようになったのは皆で暮らすようになってからだ。
「け、けど、それは昔のヒナだもん。今のヒナはちゃんとひとりで寝てるよ。……ときどきいっしょだけど、でも、最近の亞里亞ちゃんは千影ちゃんといっしょばっかりでしょ? だから、今は亞里亞ちゃんのほうが甘えんぼさんなんだよ」
「でも、雛子ちゃんより亞里亞のほうがレディなの。じいやが、立派なレディになることが、兄やに好きになってもらえる一番の方法だって」
「じゃあ、レディになる方法ってどんなの?」
「方法?」
 顎をつんと上げて軽く見下ろすその目は、千影とそっくりなぐらいに細められていた。
「雛子ちゃん、そんなことも知らないの?」
「そんなの知らなくたっていいもん!」
 ほとんど売り言葉に買い言葉の世界だ。咲耶と千影がこの光景を見たら、何と言って呆れるだろうか。
「そう? じゃあ、咲耶ちゃんに聞けばよかったのに。それとも、聞いたけど教えてくれなかったの?」
「だけど、じいやっていう人は、缶ジュースの開け方を教えてくれなかったんでしょ?」
「でも、レディになる方法や、お辞儀の仕方はちゃんと教えてくれました」
「そんなことより、缶ジュースの開け方のほうが大事だよ」
 腰に手を当てた雛子は胸を反らせ、ソファーに座り直した。背筋を伸ばして亞里亞よりも頭を高くする。
「こんな簡単なことができないなんて、亞里亞ちゃんってやっぱり子供。ヒナのほうがずっとずっと大人だよっ」
 しかし、妹に見下ろされてただ黙っている亞里亞ではない。
 雛子に向き直り、負けじと胸を張る。元より亞里亞のほうが大きいので、すぐに頭の高さが逆転した。
「でも、亞里亞が知っていて雛子ちゃんが知らないことだってあるのよ」
「それじゃあ、どんなこと知ってるの? ヒナに教えてよ。あ、ダンスはもうダメだよ。さっき見ちゃったから」
 亞里亞がふっと真顔に戻り、雛子を見つめたままで忙しくまばたきする。
 あまりにじっと見つめてくるので、思わず視線を外してしまった。
「――キス、知ってる?」
「えっ?」
 見返すと、亞里亞は真顔のままで雛子を見つめ続けていた。
「キスの仕方。雛子ちゃんは、知ってる?」
 吸い込まれそうな瞳の青に、一瞬、胸がドキッとした。
「そ、それぐらい……知ってるよ?」
 普通に返事をしたつもりなのに、その声は少し震えていた。
 それを聞いた亞里亞がほんの少しだけ、唇の端だけで笑った。なぜか、嫌な予感がした。
「じゃあ、亞里亞にしてみせて」
「ヒナが、亞里亞ちゃんに……?」
 驚いて固まった雛子の表情に、亞里亞がまた少し、唇の端を引き上げた。どこかで見たことがあると思ったら、どこか千影の笑い方に似ている。
「だって、知ってるんでしょう? キスのやり方」
「そっ、そうだよ。だってヒナ、テレビで見たんだもん」
 ただし、指の隙間からだ。そういう場面になると、咲耶は恥ずかしそうな様子でチャンネルを変えてしまったし、そんなことが何度もあったせいで、ひとりのときもまともに見られなくなってしまった。
「それなら、亞里亞にもキスできるよね」
「でも、何でヒナが亞里亞ちゃんにしなくちゃいけないの」
「どうして、できないの?」
 いつもはきれいでうっとりする声なのに、今はとても腹が立ってしまう。
「本当はできないんでしょう?」
「で、できるもん!」
「じゃあ、亞里亞にしてみせて。亞里亞に、雛子ちゃんのキスを教えて?」
 亞里亞は挑むように顔を突き出し、すっと目を閉じた。
「レディは、キスができて当たり前なのよ」
「だから、なんでヒナが亞里亞ちゃんに……」
 雛子は途方に暮れてしまった。
 できると言った手前、今さら後には引けない。恥ずかしいのは嫌だが、ウソつきと呼ばれるのはもっと嫌だ。
「雛子ちゃん、まだ……?」
「う、うん……」
 まるで眠っているような声と顔。唇の端には、さっきの笑みがほんの少し残っている。こんなに自信あふれる顔は、今まで見たことがない。
 ふと思い浮かんだのは、いつも頼りになる姉の顔だった。
 こんなとき、咲耶ちゃんだったらどうするのかな。女の子どうしでも、キスするのかな? キスしても、いいのかな……?
 ためしに頭の中で、咲耶を千影にキスさせてみた。
 背伸びして千影の前髪をかき分け、おでこにキスをする咲耶。ふたりともきれいなので、よく似合っているように思える。
 ――ヒナも亞里亞ちゃんにキスしたら、咲耶ちゃんに近づけるのかな?
「――じゃあ、キスするからね?」
 亞里亞は「早く」と急かすように、全身でにじり寄った。
 すぐ近くで見る亞里亞の肌は透き通りそうなぐらいに白い。眉毛もまつ毛も銀に光るその中で、唇だけがピンクに色づいていた。
 雛子は少し考えてから息を止め、亞里亞の額にそっと口をつけた。
 唇の先がやわらかく潰れたのを感じた途端、のど元に鼻息が吹き掛かる。
「んっ、ん……ん、ふぅっ……」
 鼻を鳴らしているのは亞里亞だ。気持ちいいのだろうか。瞼がひくひく動いているのがわかる。
 だが、雛子にキスを楽しむ余裕はない。耳をくすぐる鼻声は、聞いているうちにお腹がもぞもぞしてくる。息が苦しい。
 あっという間に限界へ達した雛子は、真っ赤に染まった顔を後ろに倒し、ぷはぁっと息を吐いた。
 その荒々しい呼吸に亞里亞が驚き、目を開く。
「どうしたの?」
 キスされた額をなでながら、ぽつんと亞里亞がつぶやく。白い肌に、ほんのりと赤い花びらが貼りついていた。
「ヒナね、息、止めてた、から」
「そうじゃなくて、キス……もう終わり?」
「そ、そうだよ」
「そう……」
 亞里亞は手を止め、細い肩をしょんぼりと落とした。今にも泣き出しそうな顔を俯かせ、ふるふると首を振る。
「これが、雛子ちゃんのキスなのね……」
「亞里亞ちゃん……」
 本当に残念そうな声につられて、雛子の心もいっしょに沈んだ。くすん、くすんとしゃくりあげる音が雛子をさらに追い打つ。
 イジワルじゃなくて、本当にキスしてもらいたかっただけかもしれない。そう思うと、雛子の胸にじわじわと息苦しさが広がる。
 しかし雛子には、亞里亞がここまで落ち込む理由がわからない。雛子が見て知っているキスは頬か額にするものだ。
「――じゃあ、今度は亞里亞の番ね」
「えっ?」
 つい今までの暗さはどこへやら、亞里亞の鼻声は楽しそうに弾んでいた。
「亞里亞が、本当のキスを教えてあげる」
 言葉の意味を考える時間もなかった。
 まばたきしたほんの一瞬の間に、亞里亞の笑顔がすぐ近くにせまる。
 涙でいつもよりきらきらした目が傾いたと思うと、次の瞬間には唇の先がふにゃっと潰れた。ずっと手のひらに乗せていたマシュマロのように、ふわふわであたたかい感じ。
 唇と唇が触れ合っているとわかるのに、しばらく時間がかかった。
 ――亞里亞ちゃんと、キスしてる。
 そうとわかった途端に心へ押し寄せてきたのは、何がなんだかわけのわからないものだった。
 うれしいとか悲しいといった感情はなく、ただ単純な衝撃だけしか来なかった。きぃんと耳鳴りがする。思いっきり拍手したあとの手のように、頭の中がじんじんと気持ちよくしびれる。
「んっ、んぅ……うぅっ……」
 耳鳴りの内側からそれが聞こえてくる。
 今、鼻を鳴らしているのは雛子だった。
 さっきまで頭の中は恥ずかしさでいっぱいだったのに、それもどこかへ飛んでしまった。熱くて苦しいはずの顔も、今はなぜかその熱さが気持ちいい。
 もっと熱くなりたいと身体を前に倒した途端、体重を受けたソファーがずぶりと沈む。雛子があっと思う間もなく、ふたりの唇がすれ違うように離れた。
 だが、バランスを崩した身体は抱き合うようにくっついている。ちょうど今は、亞里亞の胸へ頭を乗せた格好だ。ソファーへ突き刺した両腕をつっぱらせ、亞里亞を押し潰さないようにどうにか体重を支えている。
「ふぅっ……んっ、んふぅ……」
 雛子は動かなかった。いや、動けなかった。頭の中がぐるぐるしていて、どうすればいいのかわからない。残念なようでいて、どこか安心する気持ち。ひとりでに、はぁっとため息がこぼれた。
 そんな雛子の肩をつかみ、やんわりと押し戻す亞里亞の手。
 まっすぐになったところで、今度は亞里亞が顔を寄せてきた。
「雛子ちゃん、モモの味」
 かすれ気味の囁きは、雛子の耳に心地よく響く。
 言葉の内容は関係ない。雛子はただ、黙って首を縦に振った。
「もっと、してほしい?」
 ジュースよりも甘い甘い言葉。頭が前へ倒れそうになった。
 だが、いくらぼんやりとしていても、恥じらいの感情はしっかりと残っていた。
「亞里亞ちゃんが、したかったら……いいよ」
 これは、亞里亞ちゃんのわがままに付き合ってあげてるだけ。だからヒナは、自分からキスするような子じゃないの。
 雛子のそんな自己弁護に気づいたのか気づいていないのか、亞里亞はうれしそうにくすくす笑った。
「じゃあ、してあげるね」
「う、うん……」
 期待に思わずつばを飲み込んだ。ひりひりと熱い喉に、甘ったるいモモの味がちくちくと引っかかる。
 視線に気づいて目を上げると、亞里亞がまばたきを忘れたようにじっと見つめていた。
「今度はね、亞里亞の大好きなフレンチキス」
「それ、甘いの……?」
 思い浮かんだのは、メープルシロップのたっぷりかかったフレンチトーストだった。日曜の朝には白雪がときどき作ってくれる。
 雛子はまた、こくんとのどを鳴らした。
「これは特別なキス。好きだから、キスするの」
 丸くて青い瞳がゆっくりと近づき、ゆっくりと細くなる。肩に置かれたままの亞里亞の手が、首筋を伝わってそろそろとはい上がる。ヘビが動いているみたいと、雛子は思った。二匹の白ヘビは髪の結び目にそれぞれ噛みつき、そこで止まった。
 ドレス越しの亞里亞の腕はひんやりしていて、恥ずかしさで熱い身体に気持ちいい。
 亞里亞は恥ずかしくないのだろうか。恥ずかしくても身体が熱くならないのだろうか。
 そんな疑問も、鼻先と鼻先とがぶつかる感触でどこかにはじけ飛んだ。
 二回目の唇は、ほんの少しだけモモの味がした。
「んっ、んむぅ……ん、ふぅっ……」
 唇のやわらかさを確かめるように、亞里亞は前後へ頭を揺らせてぽよぽよし、はむはむと唇を甘く噛む。鼻息がくすぐったい。ふかふかのタオルにくるまったときのように、顔の全部がじぃんと気持ちよくなる。これが、甘くて特別なキスなのだろうか。
 そう思った瞬間、亞里亞の舌先で唇がこじ開けられた。次に何が来るのか、キスを知らない雛子にもわかった。
 しかし、口を閉じられない。亞里亞という名の白ヘビは、雛子に巻きつき、絡みついて、身も心もやわらかく締め上げる。
 この部屋だけ時が止まったように、ふたりは固まった。雛子は動けない。亞里亞は動かない。
 窓を叩く雨の音だけが時間を刻んでいた。
 そんな静寂を破ったのは、ふたりの間で生まれた水音だった。亞里亞の身じろぎに、くちゅっという音が続き、熱く湿った鼻息が雛子の頬をねぶる。
 さらなる予感に雛子の身体が硬くなった。
 亞里亞の舌が滑り込んできたのは、まさにそのときだった。唇と歯の隙間をなぞったかと思うと、前歯を乗り越え、さらに奥へと進み入ってくる。
 目の前で青い宝石が光っていた。亞里亞の目はうっとりと細められ、かすかにうるんでいる。上あごをなでる舌先は、亞里亞の感情を映したようにやさしく動く。ひときわ強くなでた動きにあわせ、背筋の毛がいっせいに逆立った。
 雛子には全てが初めてだった。今までに体験したどんなこととも違う。咲耶の胸に抱かれたときとも、兄に頭をなでられたときとも、何もかもが違う。
 あっという間に、怖さが気持ちよさを上回った。雛子はもう、奥で縮こまるしかなかった。
 しかし、キスに夢中な亞里亞は妹の恐怖に気づかない。いつまで経っても応えようとしない雛子を求め、舌を伸ばす。雛子をどこかへ連れ去ろうとする、あの手のように。
 やがて、舌同士がざらりとこすれる。もう限界だった。
 雛子の中で恐怖が弾け、それがそのまま身体の動きにつながる。
 亞里亞を思い切り突き飛ばした雛子は、その勢いのまま後ろへ一回転し、ひじ掛けを乗り越えて腰から床に落ちた。尻もちをついたまま、ずりずりと下がって逃げる。
「雛子ちゃん……?」
 そんな雛子を、ぼんやりとした声が呼び止める。雛子はハッと動きを止め、亞里亞をあおぎ見た。
 亞里亞は怒っても笑ってもいなかった。ただ、ほんの少し歪んだ眉毛が、亞里亞のとまどいを表していた。
 曖昧な顔のまま、音もなく亞里亞がせまる。小さく開いた口からピンク色の舌先が見えた。それでまた、あのザラついた感触が口の中に蘇る。
「――そこで何をしている?」
 ふたりが同時に振り向いた先には、戸口へ寄り掛かる千影の姿があった。腰をさすりながら、よろよろと近寄ってくる。
 助かった、と雛子は思った。千影ちゃんなら、亞里亞ちゃんを止めてくれるはず。
「千影ちゃん! あ、あのね、亞里亞ちゃんがね――」
 そう言いかけ、はたと気がついた。
 このふたりは本当の姉妹なのだ。
 ママが同じな女の子。ヒナや咲耶ちゃんと違う。咲耶ちゃんはヒナのことを叱るときがあるけど、千影ちゃんが亞里亞ちゃんを叱ったのって見たことない。だから千影ちゃんは、亞里亞ちゃんの味方をするのかも。
 そこまで考えが及ぶと、雛子はもう迷わなかった。
 ぴょこんと飛び起き、亞里亞を置き去りに、千影を置き去りに、一目散に部屋を飛び出した。
「雛子くん!」
 千影の声が呼び止める。しかし、素直に従う雛子ではなかった。
 廊下をひた走る雛子の目に、半分開いた扉が見えた。鈴凛のラボだ。鈴凛ちゃんなら、きっとだいじょうぶ。
 鈴凛の部屋に滑り込んだ雛子は、重い鉄の扉を思いっきり押して閉めた。ガチャンとカギの掛かる音に安心し、その場へずりずりとへたり込んだ。
「どしたの? そんなに慌てちゃって」
 のんびりとした鈴凛の声に、ある重要なことを思い出した。
 ゆっくりと向き直り、頭を掻きながら愛想笑いを浮かべる。
「空き缶、見つかっちゃったかも……」





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