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5
「だから、さっきから謝ってる――」
鈴凛の言い訳に、春歌が床を叩く音が重なる。
「お黙りなさい! これは、ただ単に謝って済む問題ではありません」
また、床をバンバンと叩く音。
言い争うふたりは、リビングの壁際に正座で向かい合っている。
「しつっこいなぁ、もう。ほんの出来心って言ってるじゃないの。メカ鈴凛の修理だって、結構掛かるんだから」
「お金の問題でしたら、あなたがお得意の倹約術でどうにかすればいいでしょう?」
「あのねぇ、一円玉貯金でどうにかなる額じゃないんだってば。いやいやマジで。そんなことしてたら十年は掛かっちゃう」
「そのような事情、ワタクシの知ったことではありませんわ」
「あ、そんなこと言うんだ。ふぅん、いいよ別に。……メカ鈴凛に木刀の素振りを教え込もうとして、関節の稼動範囲ブッちぎらせたの誰だったっけなぁ」
「そっ、それとこれとは話が別ですわっ。それに、そういうあなたはワタクシへの感謝の気持ちが足りません。いつも三度の食事を用意するワタクシに、何か言葉はないのですか?」
「あー、白雪ちゃんにならありがとうって言ってるよ。いつも」
「どうしてそこで白雪ちゃんの名前が出てくるのですか?」
「いや、あのさぁ。アタシがこんなこというのも何だけど、同じ厨房を預かる姉妹同士で、も少し何とかならないの?」
「ですから、それとこれとは話が別です!」
と、完全に開き直ったらしい春歌が床を叩いた。
壁際でひとり離れて座っている雛子にもやかましく、思わず耳をふさいだ。春歌がいつもより激しいことに付け足して、今はリビングとダイニングが間仕切りで分かれているせいだ。狭いトイレで声が響くのと同じことなのだろう。
「よろしいですか、鈴凛ちゃん。あなたは罪を犯したのですよ? 兄君さまだけではなく、わたくしたち姉妹の顔にも泥を塗ったのです。この春歌、断じて許すわけにはいきません」
「じゃあ聞くけど、具体的にはどう許さないわけ? 誠意の証に小指でも詰めればいいの? アタシが怪我なんかしたら、それこそアニキが悲しむんじゃない?」
「またそんな屁理屈をっ……!」
ドンと床を踏み抜く勢いで片膝を立てる春歌だが、鼻息も荒くすぐに座りなおす。
このふたりは、こんな感じでずっとケンカを続けている。鈴凛がすぐに口をはさむせいで、お説教の時間は晩ご飯が終わってから今までの間だ。
お風呂の順番も回り、リビングにいるのは千影と鞠絵とミカエル、それに雛子だけ。腰をむき出しした千影は腹ばいでソファーに横たわり、鞠絵に湿布を貼ってもらっている。
「とにかく、鈴凛ちゃんには何かしらの罰を受けてもらわねばなりません。未成年の身でパ、パチン……あの、何屋さんでしたっけ?」
「パチンコ」
「あぁ、それ! それですわ、鈴凛ちゃん」
「ま、向こうにあんなものはないだろうしね」
「それにしてもパチンコ……よくよく考えてみると、何だかその、とても……チ、チン……だなんて、ワ、ワタクシ……」
急に春歌の声が小さくなったと思うと、その顔がポポポっと赤く染まった。対する鈴凛は、顔を覆って身体をくねらせる春歌の姿をニヤニヤと笑いながら見守っている。
「あーあ、春歌ちゃんってば恥ずかしいなぁ。そんな幼稚な連想、雛子ちゃんでもしないわよ?」
突然名前が出てきたので、雛子は少しびっくりした。
そして、雛子よりびっくりしたらしかったのは春歌だった。
「なっ、何ですって!」
春歌は目を三角にしながら怒鳴った。
「発想が幼稚なのは鈴凛ちゃん、あなたの方です! そんなパ、パチンコ屋などという名前の場所に入り浸って、破廉恥にも程があります。どうせ、淫売宿か何かなのでしょう?」
「淫売宿? 言うに事欠いて淫売宿? アンタ頭おかしいんじゃない? そりゃ、ガサツな男女のアタシだけど、初めてはアニキに捧げようって思ってるんだからね!」
鈴凛がそう言い切った途端、なぜか急に部屋が静かになった。
春歌はポカンと口を開けてたまま動かない。
しばらくして、鈴凛がいきなり笑いだした。
「あは、あはははははっ! な、なに言ってんだろアタシってば。兄妹で、そ、そんな、アレとかソレとなナニするなんて、全然ちゃんちゃらおかしいじゃないのよもう!」
「そっ、そうですわね。男女七歳にして席を同じくせず、ですもの。兄妹で添い寝など、夢のまた夢ですものねっ!」
互いに顔を見合わせながら、不自然な笑いを続けるふたり。
これで仲直りできたのかと思ったら、
「ってアンタ、何どさくさに紛れて言ってるのよ。添い寝とか言っておいて、夜這いとか仕掛けたことあるんでしょ。この、淫乱妄想女!」
「そういうあなたは口の利き方がまるでなってません! 目上に対してそのような汚らしい言葉遣い。あなたのような破廉恥女は、ワタクシが教育して差し上げます!」
こうして再び、床の叩き合いが始まる。
鞠絵と千影は顔に手を当て、同時にかぶりを振った。
「やれやれだね……」
千影がぼそっと呟いた。
「兄くんがいないからいいようなものだ。もし聞かれたらと思うとぞっとするね」
「ですけど、ケンカするほど仲がいいとも言いますし」
同じぐらいに静かな声で、鞠絵が相槌を打った。
「でも、少しうらやましいですね。鈴凛ちゃんは誰とでもケンカできて」
「鞠絵くんの意見とも思えないね、それは。鈴凛くんだって、好きで口論しているわけでもなかろうに」
「あら、そうでしょうか? 少なくとも春歌ちゃんは、相手を選んでケンカしているように見えますけど」
「私は選ばれたくないね。やれやれだ」
「それよりわたくし、千影ちゃんにこそやれやれと言いたいです」
鞠絵はうっすらと微笑みながら、千影の腰に指を這わせた。
「湿布も貼らないで放置するなんて。すぐ人に見せないから、こうして痛みがひどくなるんです」
千影はぎくっと身体を震わせ、枕元にあったクッションを抱き込んだ。
「いや、その……臭いで亞里亞くんに敬遠されるかと、思って……」
「そういうことは、もう少し早く言ってもらわないと」
頬に片手を当てながら、鞠絵がため息をつく。
「今は、臭いの無い湿布とかいろいろあるんですよ。救急箱にもちゃんと入ってますのに」
「……迂闊だった」
クッションにもぞもぞと顔を埋める千影だったが、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「今からその無臭性のに替え……られないか。やっぱり」
「当たり前です」
珍しく、鞠絵が怒ったような声を出した。ミカエルを相手にしたとき以外、怒っているのを見たことがない。
「でも、次からはちゃんと言ってくださいね。手当てをしてもらうのは、決して恥ずかしいことではありませんから」
「これぐらい、どうということはないさ。私にだってそれなりの知識はある。今回は、それが不足していただけだ」
クッションに顔の下半分を埋め、千影はつま先をぴくぴくさせている。あまり平気そうな顔に見えない。
「ほら、またそんな言い方をして……。千影ちゃんはそろそろ、人を頼ることを覚えてください」
「頼る、か……」
千影がおもむろにクッションから顔を出し、ちらっと横目で鞠絵を見上げた。
「説得力のある言葉だね」
鞠絵は返事の代わりにゆっくりと頷いた。
「それなら、亞里亞くんのことを頼むよ。今日は風呂に入れない。臭いで不愉快な思いをさせたくないんでね」
「あら、一日ぐらいでしたら湿布の臭いでごまかせませんか? わたくしなんて、ひどいときには一ヶ月も入れませんでしたもの」
「ああ、そうか。そうだったね……。それに比べれば私は恵まれているのだろうが、しかし、一度気になりだすとなかなか、ね……」
寝そべっていたミカエルがおもむろに立ち上がり、千影の臭いをかぐ。すんすんと鼻を鳴らすと、大丈夫、とスタンプを押すようにソファーへ片足を乗せた。
雛子もそれを真似して自分の臭いをかいでみる。お薬のような、真新しい洋服の臭い。
着ている白のブラウスは、咲耶が今日買ってきてくれたものだ。お姫さまのドレスのように袖が少しふくらんでいて、細かく並んだプリーツラインが前を飾っている。そして合わせ目には、ボタンを隠すぐらいにいっぱいのフリル。
雛子は一目で気に入った。自分の大好きがたくさん詰まっていたからだ。
雛子は袖を頬にすりつけ、感触を確かめた。まだ洗ってないので少しごわごわしているが、そんなことはどうでもいい。咲耶ちゃんはヒナの大好きを知っている。それで十分だった。
突然、鈴凛の声がこっちに向けられる。
「――ねぇ、千影ちゃんも何とか言ってよ!」
話を振られた千影だが、面倒くさそうに身体を起こし、
「自業自得だな……」
再びクッションに顔を埋めた。
「ったく、何よ! そもそも千影ちゃんのせいでバレたってのに……」
雛子の胸がちくりと痛んだ。ちゃんと片付けていれば、こうして鈴凛がお説教されることはなかったはず。
あのあと、何がどうなったのか雛子は知らない。亞里亞が千影に話したのか、千影が亞里亞に訊いたのか、あるいはその両方か。咲耶が帰ってくるまでの間、雛子はずっと鈴凛の部屋に隠れていたからだ。
とにかく、鈴凛が『ぱちんこ屋』へ行っていたことはバレた。どういう場所なのか雛子は知らないが、あのやさしい兄が本当に怒っていたので、行ったらダメな場所だということはわかる。とはいっても、廊下のずっと向こうでふたりきりだったので、兄の怒る姿は誰も見ていない。
ただ、あの鈴凛が半べそで帰ってきたので、みんなでそううわさしているだけなのだ。
少し責任を感じている雛子だが、しかし、同情はできなかった。これは、タバコの臭いをさせた鈴凛が悪いのだ。
――おにいたまは、鈴凛ちゃんが悪い大人になろうとしてたから、だからすっごく怒ったの。
だが、春歌にまでガミガミ言われている姿を見ていると、少しかわいそうになってくる。さっきに比べて鈴凛の位置が下がっている。雛子の見ている前で春歌がじりっと膝を進め、鈴凛が同じだけ下がった。言葉だけなら同じ強さでも、それ以外は春歌のほうが強いらしい。部屋のすみっこに閉じ込められるまで、あとそんなに残っていない。
と、そのとき。
春歌の怒鳴り声に混じって、廊下を小走りに駆ける足音があった。ぱぱたん、ぱぱたんとふたり分。
「――ちゃん、待って。髪の毛乾かさないとダメでしょ?」
千影がぎくりと頭を起こした。そのまま逃げようと、腕の力だけで身体を引きずろうとする。
「ねぇやぁ……?」
息を切らせながら入ってきたのは、ナイトドレスに着替え終わった亞里亞だった。まっすぐに下ろした髪は水に濡れ、蛍光灯を受けて白く光っている。
きょろきょろと見回して千影を見つけると、
「姉や!」
満面の笑みを浮かべた。それと反対に、千影の顔色が変わる。
「ダ、ダメだ。今はまずい。ダメだ。こっ、来ないでくれ」
「亞里亞ちゃん、今はダメですよ。千影ちゃんは怪我しているんですから」
そう呼びかける鞠絵だが、腰を半分浮かせていつでも逃げられるようにしている。その前へミカエルが割って入り、どしんと腰を下ろす。
しかし、ミカエルのそんなナイトぶりも今回は空振りに終わった。
「ダメですよ、亞里亞ちゃん。髪の毛はすぐに乾かさないと」
亞里亞の後ろからバスタオルをかぶせたのは、同じくお風呂上りの可憐だった。突然目隠しされた亞里亞は、タオルを振り払おうともぞもぞしている。
「やあぁ……亞里亞は、姉やがいいのっ」
「濡れたままだと枝毛になってしまいます。そんな髪の毛じゃ、お兄ちゃんに笑われちゃいますよ?」
可憐がタオルの上から頭をなでると、亞里亞の動きがピタッと止まる。亞里亞以外の全員が安堵のため息をつき、そしてまた時間が動き出す。
千影と鞠絵は手当てを続け、春歌と鈴凛はケンカを続ける。
可憐に座らされ、髪を乾かしてもらっている亞里亞はまったくいつもと変わりがない。昨日の今ごろと同じように、お姉ちゃんに甘えかかっている。
本当に何も変わりがない。
――ヒナと、あんなことしたのに。
ご飯を食べていても、ふとした拍子であの感触を思い出してしまう。メンチカツのざらっとした衣、サーモンマリネのぬめっとした赤身、スライスオニオンのしゃきしゃきでぴりっとした切り口。何かが口の中を強くこするたび、無意識のうちに亞里亞の舌と似ていないかを確かめてしまう。
おかげで今夜は食べるのが一番遅くなってしまった。風邪でも引いたのかと咲耶に心配されたほどだ。おでこにおでこを当てて熱をみてくれたのに、それがとても恥ずかしかった。いつもはすごくうれしいのに。
亞里亞は可憐の耳元に顔を近づけ、ひそひそと口を動かしている。雛子の位置からは、可憐へキスしているようにも見えた。見ているこっちのほうが恥ずかしくなってくる。
雛子は誰にも見つからないようにそろそろ動き、一番端っこの間仕切り壁に手を触れた。自分が通れるだけの隙間を作ると素早く入り込み、後ろ手で閉ざす。口ゲンカが壁で防がれて、急に静かになった。
ダイニングには電卓を叩く音だけがひっそりと響いている。
食卓の一番向こう、兄の指定席には、家計簿を前に咲耶が座っている。
キーを叩く手を止めたかと思うと、その手をゆっくり上に伸ばしたり、肘を曲げてぐるりと回したり。
毎月の終わりが近づくとなかなか終わらないらしく、こうして体操をしながら遅くまで続けている。お風呂はいつも咲耶といっしょな雛子だが、このときばかりは誰か別の姉と入っている。
よっぽど集中しているのか、近寄る雛子にも気づいた様子はない。ボールペンで書き込み、レシートをクリップで止めて、また電卓。ひょいっと手元をのぞき込むと、空になった湯のみが雛子の目にとまった。
――そうだ、いいこと思いついちゃった。
雛子は足音を忍ばせながら、カウンターテーブルを回りこんでキッチンに入る。
ぐるりと頭を巡らせると、目当てのものはすぐに見つかった。
カウンターテーブルのいつもの場所に、電気ポットと急須が置かれてある。
シンクの洗い物かごからそっと湯のみを引き抜くと、ポットの前に陣取り、身構えた。
白雪の身長を考えたキッチンなので、小さな雛子でもどうにか手が届く。少し背伸びし、操作パネルを確認した。赤い丸のボタンを押せばお湯が出るはず。理論は見て覚えて知っている。
だが、自分でお茶をいれるのは初めてだった。
いれ方は見て知っているし、あとは実際にやってみるだけ。危ないからと絶対に触らせてもらえないが、触る理由のある今なら大丈夫だ。失敗してもそんなに叱られないだろうし、成功すればいつもよりうんとたくさんほめてくれるはず。
急須の中にはまだお茶の葉が入っている。お湯の出る場所に急須を置き、期待にどきどきしながらボタンを押す雛子。
「ありり? なんで出てこないの?」
ピッ、ピッと音はする。しかし、何度押してもお湯は出てこない。
「もしかしてヒナ、こわしちゃったのかな……?」
言いつけを破って勝手に触ったからなのだろうか。雛子は急に怖くなった。あせって何度も何度もボタンを押すが、やはりお湯は出てこない。
――咲耶ちゃんに聞いたら、やっぱり怒られるかな?
迷いに指が止まったそのとき、視界の後ろからすっと細い手が伸びた。
「お湯を出すときは、先にこの青いボタンを押すんですよ」
振り返った先には鞠絵の微笑んだ顔があった。
「青を押してから、赤?」
「そう。お湯の赤いボタンは、押している間だけ出るの。水滴が飛ぶこともありますから、気をつけてね」
雛子は言われた通りにボタンを押した。すると、たちまちに急須から湯気が立ち昇る。番茶の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「入れたら少し待っててくださいね。お茶の味が出るまで我慢、我慢」
鞠絵は誰に対しても――たとえミカエルが相手でも――丁寧な言葉を崩さない。それが学校の先生みたいで、ときどき怖くなってしまう。
「鞠絵ちゃんは、ヒナのこと怒らないの?」
鞠絵は「どうして?」と言いたそうに眉を少し上げた。
「だって、あぶないから触っちゃダメって、みんな言ってるのに」
「それじゃあ雛子ちゃんは、どうして自分から触ったのかしら?」
「えっと、それは……」
雛子は口ごもりながら鞠絵を見上げた。咲耶にほめられたかったからとはちょっと言えない。
「ごめんなさい。ちょっと意地悪だったかしらね」
ふふっと小さく笑った鞠絵は、急須のふたをこつこつ叩いた。
「熱いから気をつけてくださいね」
「う、うん……」
袖をたぐり寄せてなべ掴みの代わりにしても、掴んだ取っ手はじんわりと熱い。湯のみの中へ慎重に傾けていくと、ちょうどいいところで注ぎ終わった。お茶の色も、いつも見ているそれと変わらない。
「上手上手」
鞠絵が静かに拍手した。
「これなら咲耶ちゃんだって文句は言わないでしょうね」
「鞠絵ちゃんは、どうしてヒナのこと怒らなかったの?」
「さぁ……どうしてでしょうね?」
と鞠絵は、外した視線を天井に向けた。
しかし、雛子はあきらめない。
目を上へ向けるのは、ウソをつくかごまかしているかのどちらか。咲耶が「大人になったら教えてあげる」と言うときには、いつもそうしているからだ。
そんな雛子のプレッシャーに、鞠絵がとうとう根を上げた。
「――応援したいから、でしょうか」
雛子に向き直り、恥ずかしそうに鞠絵は微笑んだ。
「応援って……花穂ちゃんみたいに?」
「わたくしに、あんな短いスカートを穿く勇気はありませんよ」
そしてまた静かに笑う。
「自分の力で何でもできるようになるということは、とても素晴らしいことなの」
雛子はなぜか、亞里亞の顔を思い出していた。今もまだ、可憐に髪をとかしてもらっているのだろうか。
「そう……かなぁ?」
「そうよ。絶対にそう。雛子ちゃんには、まだわからないかもしれないけれど」
いつもなら反発してしまう言葉だが、今は不思議と素直に受け止められた。
「でも、無理をしてはいけませんよ。困ったときは誰かに相談すればいいの。人に訊くことは、恥ずかしいことではありませんからね」
「鞠絵ちゃん、さっき千影ちゃんにおんなじようなこと言ってたよね?」
「まぁ、聞こえていたんですね。……少し、声が大きかったかしら」
雛子は、メガネを押し上げる鞠絵の手つきを見守った。いつの間にか来たらしいミカエルが、鞠絵の足元に腰を下ろす。
「わたくしだけかもしれませんけど、雛子ちゃんと千影ちゃんって似ている気がするの」
「ヒナ、あんなにつり目じゃないよ」
雛子は人差し指で目尻を上にひっぱった。
「それに、千影ちゃんは亞里亞ちゃんの本当のお姉ちゃんだもん。ヒナは……違うよ?」
「でも、みんな雛子ちゃんのお姉ちゃんでしょう? 咲耶ちゃんも千影ちゃんも、わたくしも」
「亞里亞ちゃんも、だよね……?」
鞠絵は「そうですね」とうなずいて、立てかけてあったお盆を取り寄せた。
「だから、もっとみんなを頼ってもいいんです。頑張るのはいいけれど、頑張り過ぎるのはよくありませんから」
鞠絵の言いたいことは何となくわかる。しかし、亞里亞は頼りないし、咲耶は頼れない。頼って甘えたいという気持ちも、頼らないでほめられたいという気持ちも、両方同じだけあった。
雛子は鞠絵の手からお盆を掴み取った。
「でもね。やっぱり、ヒナと千影ちゃんは似てないと思うの」
「どうして?」
「だってヒナは、咲耶ちゃんにほめられたいだけなんだから。千影ちゃんは、そんなこと考えたりしないでしょ?」
黙って微笑んだ鞠絵は、大きく一度首を振った。
「大丈夫? ちゃんと運べる?」
「平気だよ。だって、ヒナは花穂ちゃんじゃないもん」
お盆に湯のみを乗せて持ち上げるが、いざ前に進んでみるとぐらぐらして怖い。ご飯のときとは違う。自然と忍び足になる。
ダイニングへ戻った雛子の目に飛び込んだのは、空中へ真横に突き出された咲耶の足だった。
椅子の上に残る片足であぐらをかいた咲耶は、真っ赤な顔で両手を合わせてぷるぷるしている。表情は真剣そのものだ。
雛子がお盆を置いたかすかな音で、ようやく咲耶が人の気配に気づいた。
「あ……ヒナちゃんか」
足を戻した咲耶は笑顔で雛子の顔を見、そして不思議そうな顔でお盆を見る。咲耶が何か言い出すよりも早く、それを押し出した。
「はい、お茶だよ」
「これ、ヒナちゃんが? 自分で?」
目の前にあるものが信じられない、といった感じだ。雛子とお茶とを交互に見ている。
「うん」
「そう……」
咲耶がふっと真顔になる。無言でそのまま手を伸ばしてきたので、雛子は反射的にぎゅっと目を閉じた。
「――ありがと」
髪をわしゃわしゃされた。
恐る恐る目を開けると、そこには笑顔に戻った咲耶の顔があった。
「ちょうどのど渇いてたとこなの。ありがたくもらうわね」
と、湯のみを持ち上げる咲耶。お小言のひとつやふたつは当然と思っていただけに、これには拍子抜けした。
「咲耶ちゃん、怒らないの?」
「何で?」
「だって、ポットは危ないからさわっちゃダメって」
「あー、うん。確かにそう言ったっけね。怒るのは春歌ちゃんに任せたいところだけど……」
咲耶は壁の向こうを見透かすように目を細め、一口ずずっと飲んだ。そして、雛子へにっこり微笑みかける。
「でも、おいしいからチャラにしてあげる」
「ホントに?」
「その代わり、また今度もお願いね」
「うん!」
また、頭をくしゃくしゃとなでられる。ひとりでに小さな笑い声が漏れ出た。ほめられるのはうれしいが、その中でも咲耶と兄は特別にうれしい。
壁の向こうではまだ言い争いが続いている。背後からはぺちゃぺちゃと水をなめる音。
「それ、気に入ってくれたんだ」
咲耶が湯のみを置きながら言う。
「よかった。私とお兄様と二人で選んだんだけど」
「うん。咲耶ちゃんもおにいたまも、ヒナの大好きをちゃんと知ってるんだね」
くるっと一回転して裾を踊らせる雛子を、机に肘をついた咲耶が微笑みながら見守る。
「当たり前よ。だって、私はヒナちゃんのお姉ちゃんなんだから」
投げ掛けられるやわらかい視線に、雛子の口をついて出る言葉があった。
「咲耶ちゃんって、ヒナのママみたいだね」
「私が、ママ?」
丸まっていた咲耶の背中がバネ仕掛けのようにピンと伸びた。かと思うと、空気が抜けてゆく浮き輪のようにゆっくりと上体が崩れる。
「うーん、ママかぁ。悪くないかもね、それ」
家計簿の上に突っ伏しながら、ついでに表情もぐにゃりと崩れる。
「そういえば、ヒナちゃんの洋服買ったときってお兄様とふたりだったっけ。もしかしたら、店員さんに学生結婚のカップルって勘違いされてたかも――」
おこづかいを手にした鈴凛のようにニヤニヤと笑う咲耶だったが、ふうっと大きくため息をついて急に残念そうな顔になる。
「なぁんてね。……私の年齢で、ヒナちゃんみたいな大きな子がいるわけないもの。妹の服を買いに来たって、普通に思ってるわね」
咲耶はだらしなく腕を投げ出し、むふーっと前髪を吹き上げる。
「じゃあ、咲耶ちゃんはどっちがいいの?」
「どっちだと思う?」
弱々しく笑って返事をした咲耶は、どこか遠くを見る目つきになった。ウソをついている目でも、ごまかしている目でもない。咲耶も迷っているのだ。
雛子は自分の心のままに答えた。
「ヒナは……ママがいいな」
机の上に伸びたまま、咲耶が腕を伸ばす。雛子は自分から近寄って、その腕に抱き込まれた。
「お姉ちゃんじゃ、ダメ?」
急に小さくなった声は、ひそひそと雛子の耳をくすぐる。
「だって、『お姉ちゃん』だったら、いつかケッコンしておヨメさんに行っちゃうでしょ」
「でも、ヒナちゃんだっていつかは結婚するのよ」
「じゃあ、ヒナはケッコンしないよ。そしたら、ママの咲耶ちゃんとずっといっしょだもん」
「パパのお兄様が何て言うかしら」
咲耶はのどを鳴らして笑う。
「早く嫁に行けって追い出そうとするかも。意外に頭の固い人だから」
「違うよ、おにいたまはそんなことしないよ。おにいたまもヒナとずっといっしょがいいって、きっと思ってるもん」
耳元で、少し困った風なため息が聞こえた。
「みんなの幸せが自分の幸せだって、前にお兄様が言ってたの。だから、それはないと思うわ」
「どうして? ヒナのしあわせは、咲耶ちゃんやおにいたまといっしょにいることだよ」
「じゃあ、他のみんなはいいの?」
亞里亞の顔が思い浮かび、一瞬、返事に詰まった。考えていたことを抜き取られたみたいに、なかなか言葉が出てこない。
真っ白になりかけた頭をぽんぽんと叩かれ、雛子はハッと顔を上げた。
「――ごめんごめん。冗談よ」
咲耶は身体を起こしているところだった。
「それじゃあ咲耶ちゃんは、おにいたまとケッコンしたくないの?」
「したい。すっごくしたい」
咲耶が背もたれに寄り掛かり、みしっと音がした。腕を組んでじっと前を見つめている。
なかなか動こうとしないので、雛子も空いている椅子によじ乗った。
「――でも、ダメね」
薄く笑いながら、咲耶が湯のみを手にした。両の手のひらで包み込むようにし、軽くゆすっている。
「どうしてダメなの?」
「だって、お兄様と結婚できるのはひとりだけよ」
「そんなの平気だよ。だって、ヒナもおにいたまとケッコンするんだもん」
雛子は椅子の上で胸を張った。
「咲耶ちゃん、知らないの? ずっと遠くの砂漠の国はね、男の人は何人でもおヨメさんが持てるんだよ」
いいニュースによろこんでくれると思いきや、咲耶は顔に手を当てて首を振るばかり。
「また千影ね。……ったく、余計なこと吹き込んで」
「違うよ。前にね、テレビで見たの」
「テレビ?」
咲耶は眉毛と眉毛を寄せ、ずずっとお茶をすすった。
あれは世界のお金持ちを特集した番組だった。
森の中のお城に住んでいる人や、庭にジェット機を止めている人が出てきた中で、ゾウやトラをペットにしていたおヒゲのおじさんは一番よく覚えている。シンドバッドやアラジンの世界から抜け出たような女の人がいっぱいならんでいると思ったら、全員がそのおじさんのおヨメさんだという。たくさんのお姉ちゃんがいると咲耶から知らされたときには、真っ先にこの光景を思い浮かべたものだ。
そういえばあのおじさん、みんなと順番にキスしてたっけ――
「どうしたの? ちょっと顔赤くない?」
「な、なんでもないよ……」
そういえばそうだ。すっかり忘れていた。『ふうふ』はキスをするのだ。それも、唇と唇で。
もぞもぞとしている雛子の前がふっと暗くなる。
目を上げると、そこには咲耶の顔があった。雛子が逃げるひまもなく、額と額がこつんとぶつかる。それでまた、雛子の顔が赤くなった。
「んー、やっぱり熱いわね。ご飯のときだって顔赤くしてたでしょ。今日はお風呂に入らないでもう寝なさい。あ、お薬は鞠絵ちゃんに聞いてね。私もできるだけ早く終わらせて、今夜は一緒に寝てあげるから」
「う、うん……」
咲耶の温もりを感じているうち、本当に熱が上がってくる。
そう答えるのが、今の雛子の精一杯だった。
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