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 6


 咲耶の布団はいい匂いがする。
 シャンプーや香水などが混ざったような、少し甘い匂い。千影や春歌とはまた違う。
 身体を動かすと中の空気が押し出され、鼻をふわっとなでる。何となくうれしくなり、雛子はわざとばたばたしてみる。
 明かりの消えた薄暗がりに、スプリングの音だけが響く。
 ――ママの匂いって、こんな感じかも。
 たちこめる甘い匂いに、ふとそんなことを考えた。
 本当に熱が出てきたみたいで、頭がぼんやりしている。それに眠さが合わさって、頭の中はもうぐるぐるだ。
 目を閉じてじっとしていると、人の気配が頭の上へ動いてくるのがわかった。ベッドが揺れ、布団の中に潜り込んでくる。いい匂いが強くなった。
「咲耶ちゃん……?」
「ごめん、起こしちゃった?」
 何度かベッドが揺れたあとに目を開けると、ピンク色のパジャマの合わせ目から白い胸元がのぞき見えた。すべすべでやわらかそうな肌に、なぜかどきどきしてしまう。いつもなら何も考えずに抱きつけるのに。
 少し迷いながら咲耶の背中に手を伸ばすと、向こうからすかさず抱き寄せられた。目がやわらかくふさがれて真っ暗になる。だが、怖くはない。息を深く吸い込めば咲耶の匂い。お風呂に入ってないせいか、いつもよりずっと強く感じる。とても落ち着く、気持ちのいい匂い。
 亞里亞が千影の胸へ飛び込む理由が、何となくわかった気がした。
 下ろした髪をなでる咲耶の手は、とてもやさしい。
 ――なんだか本当にママみたい。
 そう思った途端、涙が出そうになった。
 雛子はママを知らない。
 気がついたときには、大人たちの間を転々としていた。
 もしかすると、あの大人たちのうちの誰かがママだったのかもしれない。だけど、それならママなんていないほうがいい。
 さびしいときいっしょにいてくれない。おやつのホットケーキもつくってくれない。そんなママは、ママじゃない。咲耶ちゃんのほうが、ずうっとママらしい。
 こみ上げるさびしさにつられるように、両手が咲耶の背中をまさぐっていた。やがて、ぷつっという音と共にブラのホックが外れる。
 慌てたのは咲耶だ。
「ちょっ、ダメダメダメ、それはダメだってば」
 肩を掴まれたと思うと、乱暴に引き剥がされた。消えてゆくぬくもりをさびしく感じ、思わず涙がこぼれ出た。鼻をすすった音が、いつもより大きく聞こえた。
 それと重なるように、ハッと息を飲む音も聞こえる。
「……ご、ごめんね。ちょっと、びっくりしただけだから」
 剥がされたのと同じぐらいの強さで、今度は抱き寄せられた。再び鼻をくすぐるママの匂いに安心し、雛子は大きなため息をつく。
「くすぐったいってば、雛子ちゃん」
 咲耶が身をよじるが、腕はゆるめようとしない。むしろ、強まっている。
 しばらくの間、ふたりはそうやって抱きあったままだった。
「――そういえば、前にもこんなことあったっけ」
 咲耶がぽつんと漏らした。
「ずっと前だから、ヒナちゃんは覚えてないかもしれないけど」
「えっと……どれぐらい前?」
「すっごく前。昔々の物語。ヒナちゃんがあの家に来てからすぐぐらい、かな。そのときも、今みたいにヒナちゃんが泣いててね――」
「ヒナ、泣いてなんかないよ」
 すぐ子供扱いする咲耶からもぞもぞと離れ、雛子は頬をふくらませた。
「でも、鼻をすすってるじゃない」
「これは、だって……今のヒナは、かぜ引きさんなんだもん」
「はいはい、そういえばそうでした」
 あたたかい暗闇の中で、咲耶が笑っているのがわかった。
「じゃあ訂正。そのときはヒナちゃんがわんわん泣いててね。……何やっても泣き止んでくれなくて、私まで一緒に泣いてしまいそうになったっけ」
「それで、どうしたの?」
「ヒナちゃんはね……今と同じことしたの」
 いたずらっぽく笑う声で、雛子の顔がかあっと熱くなった。まるで覚えていない。
「そっ、そんなのウソだよ。ぜったいウソ!」 
 覚えていないが、そのころの他の出来事は覚えている。少なくとも、赤ちゃんだったときではない。
「ヒナちゃんたら思いっきり強く吸うんだもん。もうホントにすっごく痛かったわ。あんまり痛くて、その夜は寝られなかったぐらい」
「やっ、やだ、それ以上言わないでよ! ヒナ、そんなに子供じゃないもん!」
「またそんなにムキになっちゃって。ほーら、これでもくらいなさいっ」
 と、咲耶がまた腕をせばめた。苦しいほどに押し潰され、暗いはずなのになぜか目の前が赤い。頭が熱いのか咲耶が熱いのかわからず、どこからどこまで自分なのか区別できない。
 いよいよ息が苦しくなってきたそのとき、パッと腕が離れた。
「……なぁんてね。ごめんごめん」
「もうっ、咲耶ちゃんのイジワル!」
 恥ずかしさをごまかすように、咲耶の胸をぽかすか叩く。
「ごーめーんってば。謝ってるんだから許してよ。ね?」
「ダメ、許してあげないっ! だって、あやまってるのにぜんぜん真剣じゃないもん」
「あら、そう。……じゃあ、もっと恥ずかしいことバラしてあげよっか? たとえば、おねしょとか――」
「あーっ! それホントに言っちゃダメ!」
 雛子は身体を起こして、ばたばたと腕を振った。
「んー、どーしよっかなぁ。ここへ来てからおねしょしたなんて聞いたら、みんな何て思うかしら」
 咲耶は寝そべったままで、にやにやとそれを眺めている。
「ぜったいのぜったいにダメだってば! ふたりだけのないしょのしみつって、約束したでしょ?」
 あれは、すさまじい雷の夜だった。すぐ近くへ落ちたのか、真っ暗なはずの夜が昼間に変わるぐらいに強く光った。家じゅうの窓ガラスがいっせいに震えたあと、悲鳴を上げながら忙しく行き来する音が聞こえてきたが、雛子はベッドから出られなかった。
 こういうときに限って、寝る前にお腹いっぱいジュースを飲んでいたのだ。
 そして、そこは雛子のこと。秘密のうちに片付けようとしたが、雛子ひとりではどうすることもできない。朝起こしに来た咲耶にバレたのは当然のなりゆきだった。
 咲耶が相手でも恥ずかしいのだ。他の姉たちにバレたらと思うと、恥ずかしさを通り越して怖くなってくる。兄はまだいいとしても、亞里亞には絶対知られたくない。知られたら最後、もう二度とあんな口は利けない。おねしょは子供だけの失敗なのだから。
「わかった。わかったから、そんな顔しないの」
 よっぽど変な顔をしていたらしく、咲耶の声は半分笑っていた。雛子はまた頬をふくらませた。
「じゃあ、ぜったい言わないって約束して。特に亞里亞ちゃん」
「はいはい」
 咲耶がのっそりと差し出した小指を、すかさず絡め取る雛子。
「ぜったいだよ? ぜったいのぜったいにぜったいだからね」
「信用ないのね、私。そんなに念を押さなくてもいいじゃない。鈴凛ちゃんのと違って、証拠はもう残ってないんだから」
 そういえば、今日はこれで二回目の指切りだ。結果として鈴凛との約束は破ってしまったが、咲耶ならきっと大丈夫のはず。
 ちょっぴり不安を感じながらも、雛子は大きく手を振って指を切り離した。
「おねしょなんて誰でもするものよ。そんなに怖がらなくてもいいじゃない」
「でも、こんなに大きくなってからなんだよ? きっとヒナのこと、赤ちゃんみたいって思っちゃう。……でも、そんなのヤダ。だってヒナは、亞里亞ちゃんより大人なんだもん」
「もしかしたら、亞里亞ちゃんもおねしょしてたりして。千影が隠しているだけでね」
「それホント?」
「だから、もしかしたらの話」
 変な顔であくびを我慢した咲耶は、布団をめくり上げてシーツを軽く叩いた。
「寒くない?」
 言われて始めて身体が冷えていることに気づいた。もぞもぞと潜り込むと、頭から布団がかぶせられる。とてもあたたかい。
 雛子は、咲耶の闇の中で丸くなった。
「――急がなくてもいいのよ」
 外から咲耶の声がぼんやりと聞こえる。
「みんなみんな、そうやって少しずつ大人になってゆくの」
 布団越しに、咲耶の手が身体をなでさする。引いては寄せる波のように、ゆったりと大きく。
「私も、お兄様も、千影も、みんなそう。おねしょしたり、ママが恋しくて泣いたり、自分でお茶を淹れられるようになったり。階段を上るように一段一段、少しずつ――」
 手の動きに合わせて声もだんだんゆっくりに、そして小さくなってゆく。
 雛子の心に染み込んだ言葉は、子守唄のようにやさしく響く。
「だから――ちゃんは、私みたい――ないで――」
 途切れる声に引き込まれながら、キスもその中に入るのだろうかとふと思った。
 その途端、あのやわらかな感触が蘇る。黒い闇の中に、白い顔がぼうっと浮かびあがる。
 まぼろしから逃げるように、雛子は勢いよく頭を布団から突き出した。
「ねぇ、咲耶ちゃん。キスも、そうなの?」
「へっ?」
 不意を突かれた咲耶は、眠そうな目をぱちぱちさせる。
「キスって……それが何か?」
 いまいち薄い反応に、雛子は急に不安になる。ぜんぜん外れた質問をぶつけたのだろうか。
「えっと、だから、大人になるのに、キスの練習もするのかなって」
「そんなもの、別に練習なんかしなくたって――」
 咲耶はそこまで言って、突然目を大きく開いた。
「だ、誰? 誰とキスしたの? まさか、お兄様と? で、どこ? まさか、唇だったりしないわよね?」
 襟を掴まれてがっくんがっくんと揺さぶられ、
「ミ、ミカエル……」
 と、とっさに思いついた名前を吐き出すのがやっとの雛子だった。
 咲耶がぴたっと止まった。
「そっか、そうよね。そんなわけあるはずないもんね、うん。そっか、ミカエルかぁ」
 何度も首を振ってひとりで納得する姿は、近くで見ていて少しカッコ悪い。こういうのは、いつもとの差が大きいほどかわいく見える。例えば千影とか。
「もしかして、お口をペロペロされたとか」
「うん、おくちペロペロ」
 咲耶のプライドを傷つけないためにも、とりあえず話を合わせておいた。
「じゃあ、咲耶ちゃんも?」
「ミカエルも男の子だもんね。キスするんだったら、やっぱりかわいい女の子のほうがいいに決まってるじゃない。でも、唇はちょっと勘弁してほしいかな。好きなのはわかるけど」
「好きって、キスが?」
 咲耶があくび混じりの眠そうな声で答えた。
「グリル何とかっていう昔の詩人さんが『唇の上なら愛情のキス』って。ヒナちゃんにはまだ難しいかもしれないけど」
「……愛情って、どういう意味?」
「要するに、好きってこと」
「ふぅん」
 雛子は指先で唇をなぞりながら適当に返事した。
 ――唇の上は好きって意味。……じゃあ、唇の中は?
「その詩人さん、他には何か言ってたの?」
「あと覚えてるのは、


  手の上なら尊敬のキス
  額の上なら友情のキス
  頬の上なら満足感のキス


 だったかな。まだ続いてたと思うけど……ごめん、ちょっと思い出せない。鞠絵ちゃんに教えてもらったんだけど」
「友情って、お友達って意味なんだよね」
「そうそう、そういうこと。尊敬は、相手のことをえらいってほめてあげる気持ちのことで、満足感は……まあ、わかるわよね?」
 雛子は亞里亞へのキスを思い出していた。お友達のキスだから、それがイヤであんなことをしたのだろうか。
「――どうしたの? 急に黙っちゃって」
「え? う、うん……ミカエルでも、唇のキスは恥ずかしいなって」
「このおませさん」
 咲耶がくすくす笑いながら額をつつく。
「ヒナちゃんにはまだ早い早い。そこで恥ずかしがるのは、もう少し大人になってからね」
 雛子は黙って頷いた。なぜか、顔がまた熱くなる。
 亞里亞と唇と唇のキスをしたと知ったら、どんな顔でびっくりするのだろうか。
「じゃあ、そんなこと言う咲耶ちゃんはどうなの? おにいたまと、キスしたことある?」
「なっ、何言ってるのよ。そんなの、あ、あたり前じゃないっ!」
 ほんの軽い気持ちで言っただけなのに、咲耶の慌てぶりはこっちがびっくりするほどだった。
「咲耶ちゃん、ウソついてない? ホントにホントにおにいたまとキスした?」
 布団の中がたちまちに暑くなる。これは咲耶が原因だ。ものすごく恥ずかしがっている。
「い、いいからもう寝なさい! 風邪がひどくなるでしょ。明日は月曜なんだから。ほらっ!」
「そんなのずるっ、わぷっ」
 頭からすっぽりと布団をかぶせられ、雛子は追求のチャンスを奪われてしまった。首を抱き込むようにして上から押さえられているので、息はできても言葉は出ない。
 あきらめきれずに身体をもぞもぞさせて近づくと、なぜか同じだけ離れようとする。
 もう一度、今度は抱きつくように。すると咲耶は手を回したままで腹ばいになり、それ以上近づけようとしない。さっきとはまるで反対だ。
 雛子は急におかしくなった。
 ――咲耶ちゃんはまだキスを知らないだ。
 そう思った途端、ひとりでにくすくすと笑っていた。
「どうしたの?」
「な、何でもないよっ」
 ――なぁんだ。キスだったらヒナのほうが大人なんだ。
 身体じゅうが熱くなる。内側から力がわいてきた。
 雛子はその勢いを解き放ち、ポンと弾んでベッドから飛び降りた。
「ヒナちゃん?」
「やっぱりヒナ、ひとりで寝るね」
「何でそんな、急にいきなり」
 咲耶が身体を起こしかけ、途中でぎくりと固まった。背中に手を回し、もぞもぞし始める。
「だって、咲耶ちゃんにかぜがうつったら大変でしょ?」
「ヒナちゃんはそんな心配しなくていいの。妹はお姉ちゃんの言うことを聞くものよ」
 そこでまた、雛子の喉がくくっと鳴った。
「……でも、ヒナのほうが大人だもんね」
「何か言った?」
「ううん、何でもない!」
 雛子はそう言い置き、捕まえられないうちに急いで部屋を出た。
 夜もすでに遅く、廊下は足元を照らす常夜灯だけが点々としている。まるでクリスマスのイルミネーションのようだ。
 いつもなら怖くて震えるだけの雛子だが、今はそんな感想を抱くだけの余裕があった。
 自分の部屋に戻ろうと向き直ったそのとき、廊下のずっと向こうで動く白い影が見えた。
 雛子が息を飲む間もなく、それは物陰にすっと消える。
 今のは何だろうか。
 姉妹の部屋はひとつのフロアに固まっていて、その両端はカーテンで仕切られている。その中は『だんしきんせい』で、夜の間は閉ざすきまりになっている。
 だが、そのカーテンが開いている。
 向こうには誰の部屋もない。トイレもない。こんな時間にあんな場所を歩くなんて誰だろう。ゆうれい? それとも、おばけ?
 立ちすくむ雛子の頬をふわりと風がなでる。たかぶっていた気持ちが、それに吹き飛ばされて消えた。急に寒くなる。
「――ヒナちゃん?」
 小さく咲耶の声がする。一瞬、戻ろうかと考えた。扉の向こうは安全だ。
 しかし、雛子はぶるっと身震いし、意を決して前に進む。
「怖くない、怖くない、怖くない……ヒナは大人だから怖くなんかないもん」
 隣の部屋なのに、とても遠く感じられた。
 薄く開けた扉へ滑り込んで後ろ手に閉めると、雛子は一目散にベッドへ逃げ込む。
 自分ひとりだけのベッドは、少し寒かった。





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