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 7


 遠くで電話のベルが鳴っていた。
 今、この家には誰もいない。ミカエルがいるが、ミカエルは電話に出られない。だから、自分が出るしかない。
 パジャマ姿の雛子は毛布を抜け出て、リビングのソファーから降り立った。が、足をついた途端によろめき、すぐ足元で寝転がっているミカエルの尻尾を踏みそうになる。
 さっきから寝て起きてを何度も繰り返しているせいで、頭がふらふらする。脱いだままの制服をつま先で蹴飛ばしてしまった。
 電話のベルは鳴り続けている。
「もう、今行くってば」
 雛子はクマさんのスリッパを鳴らしながらリビングを出て、玄関の電話に駆け寄った。
「もしもし、ヒナちゃん? 何ともない? 熱は引いた? どこか痛いところとかない? お腹とか頭とか。ねぇ、ホントに大丈夫?」
 受話器を取った直後、台風の日のような勢いで咲耶の声が吹きつけてくる。雛子は「平気だよ」と返すのでやっとだった。
「ホントごめんね。今日、どうしても休めなかったから。そのかわり、学校終わったらすぐに飛んで帰るから。それまで待っててね」
「大丈夫だよぅ。熱だってもうないんだし――」
「ダメよ、ダメダメ。ちゃんと寝てなさい。ちょっとしたことですぐに上がっちゃうんだから。ああ、もう、こんなことなら無理にでも捕まえていっしょに寝ればよかった」
「だから、もう平気だってば」
「もうお昼だけど、春歌ちゃんの作ってくれたおかゆがあるからそれを食べてね。小さい土鍋に入ったやつ。あ、ガスはダメよ。危ないから、レンジでチンして。でも、火傷には気をつけてね。持つところが熱くなるから」
「それ、朝に聞いたよ」
 電話の向こうからお昼休みのざわついた空気が聞こえてくる。この話が誰かに聞こえているのかと思うと、耳まで熱くなった。
「咲耶ちゃん、もう切っていい?」
「お薬はちゃんと飲んでね。苦いからって捨てちゃダメよ。あと、温かくして寝ること。ストーブとかじゃなくてエアコン。それじゃ、また掛けるから。いい子で待っててね」
 言うだけ言って、咲耶の電話はぷっつり切れた。
 ふと見ると、ミカエルがいつの間にか隣に座っていた。
「咲耶ちゃん、ちょっとしつこいよね」
 ね? と首をかしげると、ミカエルは大きなあくびをした。
「だって、休み時間ごとに電話してくるんだもん。寝てなさいって言われても、ぜんぜん寝られないよ……」
 今日、雛子は風邪で学校を休んだ。
 といっても、寝起きの熱が高かっただけだ。他には何もなかったし、雛子自身は学校に行く気満々だったのだが、それを大騒ぎして勝手に電話を掛けたのが咲耶だった。昨日の出来事を気にしていたのか、その慌てかたは寝坊をしたときの花穂よりもひどかった。春歌や鞠絵を押しのけて走り回る咲耶の顔を見ると、風邪なんかぜんぜん引いてないとはとても言えなかった。そもそもは咲耶の勘違いが元だけに、なおさらだ。
 甘くて苦いシロップを飲んでうたた寝しているうち、その熱も下がってしまった。今はもうどこも悪くない。無理に悪いところを言うなら、頭が少しぼんやりするぐらいだ。枕をしないでお昼寝したときのような、そんな感じ。
「いこ、ミカエル」
 そう言って手を伸ばすと、ミカエルは鼻を一回鳴らして勝手に先へ行ってしまった。
 追って入ったリビングは太陽の光でまぶしい。思わず、目元を手で隠した。
 目を細めながら窓の外を見上げると、空には雲ひとつ浮かんでいない。こんな日にずっと家の中にいないとダメなんて、すごい損だ。
 ミカエルは日差しを避けるように、ソファーの陰で寝そべっている。
 テーブルには咲耶の残したメモが置いてあって、おかゆの温めかたから薬を飲む時間、まさかのときの連絡先まで細かく書かれてある。電話の内容とほとんど変わらない。
 もうお昼の時間だが、正直、あまりお腹は空いてない。調子に乗って缶ジュースを三本も飲んでしまったせいだ。風邪にはビタミンCだから何本飲んでもいいよと言われては、飲まないわけにいかない。ちなみに、その缶ジュースは鈴凛から没収したものだ。
「どうしよっかなぁ」
 雛子は弾みをつけてソファーに座った。ぼふんと隙間から空気が押し出され、ミカエルの耳を揺らす。
 テレビのリモコンをどけて、教科書とノートをテーブルに広げた。
 こんな時間のテレビは昔を思い出してしまう。
 昔はずっとこんな感じだった。幼稚園にも行かないで、ただ咲耶の帰りを待つ毎日。
 毎日が日曜日という生活はとても退屈だった。違うのはテレビの番組だけ。週末には咲耶がいてくれたが、日曜日を待ち遠しく思えるようになったのは小学校へ上がってからのこと。それからも留守番の日々は続いたが、ひとりの時間はぐっと短くなった。
 留守番にはもう慣れているのに、今日の咲耶はモモのジュースよりも甘い。あの頃は一時間ごとの電話もなかったし、ジュースの数も限られていた。ミカエルもいなかった。昔はそれが当たり前で、それがずっと続いていた。
 それに比べれば今日はとてもいい日だ。
 ひとりだけど、ひとりじゃない。
 声が聞けて、ジュースがあって、ミカエルがいる。それに、咲耶がとても心配してくれている。それがうれしい。ひとり占めできた気分になれるから。
 だが、子供あつかいされるのはおもしろくない。あの頃の自分とは違うのに。寂しくて泣くこともないのに。少しだけ大人になれたのに。
 と、そのとき、玄関のほうから物音がした。雛子はぎくっと手を震わせて鉛筆を落とす。ミカエルがすくっと立ち上がり、玄関へ駆け出した。
 そのすぐ後に、ごめんください、という大人の男の声が聞こえてきた。がちゃがちゃとドアノブを回す音が続いたと思うと、突然ミカエルが吠え始めた。
 雛子がそっと頭を出して様子を見ると、曇りガラスに映った大きな影が消えるところだった。ミカエルはその場をぐるぐると回り、勝ち誇ったように吠え続けている。
「もう行っちゃったよ、ミカエル」
 雛子の声に、ミカエルはぴたっと動きを止めた。
 振り返ってこっちを見る目は、いたずらを見つかったときに似ていた。尻尾をたらんと下げ、弱々しく振っている。そういえば、吠えるミカエルはほとんど見たことがない。
「怒らないよ。ヒナは、春歌ちゃんじゃないから」
 その言葉が効いたのか、ミカエルは頭を下げたままで歩み寄ってきた。雛子の前まで来ると、座り込んで上目で見上げる。ミカエルがほめてほしいことぐらい、すぐにわかった。
「ミカエルって、いつもあんなことしてるの?」
 雛子が首をかしげると、ミカエルもそれを真似たように頭を倒した。わかっているような、わかってないような。
「気持ちはわかるけど、ちょっと声が大きいと思うな。だって、びっくりしてひっくり返ったら大変でしょ? ケガしちゃうかもしれないし、もしかしたら、花穂ちゃんみたいにすぐ転ぶ人かもしれないし」
 ミカエルが、ぐぅるるとうなる。
「あ、でもね、ヒナはうれしかったよ。ミカエルがいてくれたから、ぜんぜん怖くなかったもん。だから、ほめてあげるね」
 そう言って頭をなでると、ミカエルはうれしそうに尻尾を振り回した。
「ミカエルはえらいよね。いっつもひとりでお留守番してるんだもん」
 その割に、鞠絵はミカエルへ電話を掛けてこない。犬だから出られないという理由があるにしても、これではミカエルのほうが大人ということになってしまう。
 そこで雛子はハッとした。
 ミカエルはキスを知っている。雛子も知らなかったわけではないが、唇のキスはミカエルのほうが先だった。顔じゅうをなめ回されたのを含めれば、他のキスも早い。
 かといって、このまま先を走らせるのはおもしろくない。ミカエルのほうが何歳も年下なのに。
 雛子はなでるのを止め、その場にしゃがんだ。
 これから何が始まるのかと、前足で落ち着きなくステップを踏むミカエル。それでもいつもの癖で、雛子が「お手」と出した手にすかさず前足を乗せた。
「いい? これからするのがえらいえらいの『そんけい』のキス。ヒナのほうがキスを知ってるんだから、ヒナのほうが大人なんだよ」
 そう宣言すると雛子は身をかがめ、金色の毛の上にちょっとだけ唇をつけた。ミカエルの身体はお日さまのような匂いがする。
 手の甲で口を拭きながら、雛子ははたと気がついた。
 動物には手がない。その代わりに足が四本ある。ということは、これは足へのキスなのかも。
「咲耶ちゃん、知ってるのかなぁ」
 ひとりごとに反応して、ミカエルが首をかしげる。
 でも、お手をして出てきた足だ。お足、とは言ってない。だから、やっぱりこれは手でいいのだ。
 そんな雛子の鼻へいきなり、生あたたかい息が吹きかかった。
「わっ」
 飛び下がって尻もちをつくと、それを追いかけるようにミカエルの鼻が伸びる。大きくて荒い鼻息が、耳から目へ、目から頬へとゆっくり動く。ぬめっとしているので、何となくナメクジを思い浮かべた。
 そう思った途端、ミカエルと目が合った。黒目ばかりで何を考えているのかわかりにくい。それでも、べちゃっと鼻先をつけられれば嫌でもわかる。
「だぁめっ、ここはダメなのっ!」
 しかし、そんな雛子へ反発するように、ミカエルはぐいぐいと鼻先を押しつける。
「ダメって言ってるでしょ、ミカエル! ほっぺは、あとでヒナが教えてあげるんだから」
 雛子はそれを止めようと、両手でミカエルの口を握った。ミカエルは、むぐぅっとつぶれたような声を出しながら片足を上げてもがくが、その程度で外す雛子ではない。
「ほっぺにしようとしたから、これは仕返しっ」
 ゴムのような鼻に思いっきり息を吹きつけると、今度は頭を左右にぶんぶんと振って暴れだした。
「もう、じっとしてて! ミカエルはね、悪いことしたんだよ?」
 だが、そんな一方的な押しつけがミカエルに通用するはずもない。
 弾みをつけた一振りで、雛子の身体はごろんと一回、後ろに転がされた。
 自分に何が起きたのかわからず、呆然と座り込む雛子。手を開くと、一本のヒゲと何本かの毛が指の間にはさまっていた。
 一方のミカエルは、片足で鼻をこすりながら、残る三本をばらばらに動かしてフローリングを踏み鳴らす。
 雛子が顔を上げたときには、垂れた尻尾が部屋を出ようとしているところだった。
「待ってよ」
 あわてて手を伸ばすが、それで立ち止まるミカエルではなかった。追う雛子の足音にも振り返ろうとしない。
 石貼りの玄関に、ちゃっちゃっとマラカスを振るような音が小さく響いている。
「ねぇ、ミカエルってば」
 ほとんど叫びに近い声にもミカエルのリズムは乱れない。
 棒立ちの雛子が見ている前で、ミカエルは彼専用のくぐり戸を抜けて出て行ってしまった。しんと静まり返った空気の中で、規則正しい足音が遠ざかってゆく。
「ミカエル……」
 呟いた声は、しっくいの白壁に冷たくはね返された。
 本当にひとりぼっちになったとわかると、急に心細くなってきた。
 とぼとぼとリビングへ戻ると、雛子の不安を映したようにふっと空が曇る。思わず涙が出そうになった。目元をこすると、手にくっついた金色の毛がむずがゆい。払っても払ってもなかなか取れない。
「もぅ、ミカエルのイジワル」
 雛子はソファーに座り、かき寄せた毛布にくるまった。
 寝転がって見上げた天井がやけに高い。
 小さな家でひとりぼっちもさびしかったのに、こんなに大きな家でひとりぼっちはもっとさびしい。
 聞こえてくるのはスズメの鳴き声だけ。他に何も聞こえない。いつもなら必ず誰かの足音がするのに。
「誰か帰ってこないかな……」
 ソファーから身を乗り出してランドセルを引っぱり、カバーをめくった。その裏に雛子と亞里亞の時間割が並んでいる。今日はふたりとも五時間目で終わり。いつもなら、手をつないでいっしょに帰ってくるはずなのだ。
 時計を見るとまだお昼休みの時間。どんなに早くても、帰ってくるのは二時間も先だ。
 ――でも、どんな顔して会えばいいのかな?
 あのキスが、雛子の中でまだ尾を引いていた。
 今朝はドタバタしていてそれどころでなかったが、思えば、あのときからちゃんと顔を会わせていないのだ。
 会いたいけど、会いたくない。
 亞里亞が嫌いなわけではない。今までのように仲良くしたい。年が一番近いのは亞里亞だし、次に近い花穂と衛はいつもベタベタで入り込めない。それに、もっといろんなことを教えてあげたい。咲耶ちゃんのように、もっと『そんけい』されたい。
 だが、キスを知ってるのは亞里亞のほうだ。
 思い出した雛子はまた顔が赤くなり、毛布を頭からかぶり直した。
 どうしてあんなことをしてきたのだろう。
 ――ヒナよりも大人だよって、言いたかったから?
 いろんなことができるのが大人。いろんなことを知ってるのが大人。
 自分が知っていて、亞里亞が知らないことがある。もちろん、その逆もある。
 唇へのキスは、そのアピールなのだろうか。缶の開け方も知らないの? となじった、そのことへの仕返しなのだろうか。
 しかし、咲耶はこう言った。
『唇の上なら愛情のキス』
 愛情は、好きということ。
 ――イジワルしちゃったのに、それでも好きなままなの?
 それに、唇の上ではなくて、本当は唇の中だ。
 咲耶は教えてくれなかった。唇の中は、どういう意味なのだろう。
「うー、何だか頭が痛くなってきちゃったよ……」
 わからないことは聞けばいい。今までそうしてきた雛子だが、何でもというわけではない。聞けることと聞けないことがある。
 前に、赤ちゃんの作り方を聞いたときは大変だった。
 咲耶に聞くと『そのうちにわかるわ』と言われ、千影に聞こうと振り向けば姿を消したあとで、聞いてもいないのに四葉が『キャベツ畑から生まれてくるデス』と叫び、その頭を叩いた鈴凛は『もうすぐ学校で教えてくれるんじゃないかな』と中途半端に笑った。そこで衛と花穂に質問をぶつけたのだが、このふたりがさらに大変だった。衛は真っ赤な顔をぶるぶる振り続けるだけで何も言わなかったし、花穂は『か、花穂、まだ来てないもん!』と叫びながら逃げようとし、三回続けて転んだ。
 赤ちゃんの作り方を聞いた雛子が知ったのは、赤ちゃんの作り方を聞いてはいけないということだった。姉たちの態度を見ると、それはとても恥ずかしいことらしい。
 唇の中のキスも、それと同じことになりそうな感じがする。それでも、亞里亞は黙って首をかしげるだけかもしれないが。
 雛子は芋虫のように身体をくねらせ、顔の位置をずらした。熱くほてった顔にひんやりとした布地が気持ちいい。
 耳をすませても自分の吐く息しか聞こえなかった。
 まだ、誰も帰ってこない。


 お腹のあたりがもぞもぞする。じんわりとあたたかい。
 毛布の中で目覚めた雛子は、手を這わせるように伸ばして探った。すると、毛布越しに何かがぶつかる。
 指でつつくと、マシュマロのようにぽよんと沈み込んだ。ミカエルだろうか。ミカエルにしてはやわらかいような。
 雛子は残る片手で毛布を払いのける。
 その途端、光がふわっと飛び散った。一瞬、目がくらむ。
「ぅわっぷ」
 光だと思ったそれは、太陽をはじき返した銀色の髪だった。ゆるやかに波打った髪が、毛布の風にあおられて宙を泳いでいる。
 と思ったら、髪の中から二本の腕がにょきっと突き出てきた。
 その指先がぷるぷる震えたと思うと、
「おはよう、雛子ちゃん」
 亞里亞の声が眠そうに挨拶した。
「亞里亞ちゃん、どうしたの?」
 何だかよくわからない状況に、心強さよりも戸惑いのほうが大きい。どうして目の前に亞里亞の顔があるのだろう。
 その亞里亞が、よいしょっと身体を動かすと、再びお腹のあたりがもぞもぞし始める。髪に隠れていた笑顔がようやく見えた。
「学校から帰ってきたの」
「そうじゃなくって、どうしてここにいるの?」
「だって、ひとりでお留守番、さびしそうだったから」
 亞里亞はそう言って、今度は身体を寄せてきた。迫る亞里亞の顔から逃げようとした雛子は、ここがソファーの上だということをやっとで思い出した。
「ちょっ、亞里亞ちゃん。ここ、ふたりで寝られないよ。落ちたら危ないんだよ?」
「でも、こうすればいいの」
 言い返すよりも早く、亞里亞が巻きついてきた。腕が背中に、足が足に。制服はドレスより薄いので、毛布の上からでもいつもより身体がくっつく。
 たちまち背もたれに押し込まれる雛子だが、それでも亞里亞が不安定なのには変わりない。落ちてケガされると困るので、仕方なく亞里亞の背中に手を回した。
「ホントはね、ネコさんみたいなぐるぐるおだんごにしたいの」
 亞里亞がくすくすと笑う。
「でも、ソファーの上はむずかしいね。亞里亞も雛子ちゃんも、ネコさんより大きいから」
「おだんごって、ミカエルが寝てるときみたいなの?」
「ミカエルは一匹だけでしょ? でも、ネコさんはたくさん」
「亞里亞ちゃん、何言ってるのかぜんぜんわからないよ。ちゃんとヒナにもわかるように教えて」
 寝起きのせいで、いつもより亞里亞の言うことが難しく聞こえる。つい、怒った声になってしまった。
 叱られた亞里亞は、しょんぼり顔を毛布へ埋めるようにうつむいたが、
「じゃあ、教えてあげるね!」
 パッと上げた顔が大きく笑った。
「亞里亞についてきて」
 手首を掴まれたと思うと、亞里亞はそのままソファーから滑り下りた。そして、雛子の身体をぐいぐいと引っぱり上げる。
「雛子ちゃん、早く! みんな帰ってきちゃうから」
「ちょっ、ちょっと待ってよ!」
 毛布がはらりと落ち、雛子は肌寒さに身震いした。そういえば、ずっとパジャマのままだ。
「ほら、急いで」
 立ち上がらされて床に足をつけると、思いきりふらっとよろめいた。そんな雛子の身体を亞里亞がしっかり抱きとめる。
 上目に見た姉の顔は、いつになく自信に満ちあふれていた。
「いこ、雛子ちゃん」
「う、うん……」
 戸惑いながらも、亞里亞の先導で歩き始めた。
 廊下へ出ると左に曲がり、玄関の大階段を上る。晴天に輝くステンドグラスが、虹色の影をふたりに投げ掛けた。
 二階に用があるのかと思ったら、亞里亞はさらに階段を上り続ける。三階は千影以外に誰も使っていない。
 しかし、三階にたどりついた亞里亞は、千影の部屋と反対の方向に足を向ける。この先はあまり掃除もされてなく、目で見えるぐらいにほこりっぽい。
 亞里亞の歩みはゆっくりで、あまりほこりが踊らない。しかし、そのゆっくりさが雛子の不安をだんだんと増やしてゆく。
「ねぇ、どこ行くの?」
 亞里亞は大人じゃないとわかっていても、手を引かれるのは怖い。
 手を引かれると、決まってどこかイヤなところへ連れて行かれるからだ。
「亞里亞ちゃん……千影ちゃんの部屋、そっちじゃないよ」
 この先には空き部屋しかないはず。前に作ったひみつ基地は四葉に見つかってしまった。それからは本当に何もない、ただの寂しい場所だ。
「ねぇ……ねぇってば」
「ダメ、静かにして」
 足を止めて振り返った亞里亞は、珍しく怖い顔をしていた。
「静かにしないと、すぐに逃げちゃうの」
「逃げるって、何が?」
 おそるおそる聞き返すと、亞里亞はふっといつもの笑顔に戻った。
「それは、ひみつ」
「でも、教えてくれるんだよね」
 亞里亞は「うん」と頷いてから顔を寄せ、雛子の耳元に囁き掛けた。
「まだ、亞里亞だけのひみつなの。姉やにも、兄やにも、誰にもずっとないしょにしてたの」
「千影ちゃんにも?」
 姉やへのべたべたぶりを知っている雛子には、ちょっと信じられない言葉だった。
「うん。だから、教えるのは雛子ちゃんが初めて」
「でも、今はそんなこと言ってても、いつかは千影ちゃんやおにいたまに教えちゃうんでしょ?」
 つい、イジワルな言い方になってしまった。
 しかし、亞里亞はふるふると首を振った。
「これは、亞里亞と雛子ちゃんだけのひみつにしたいの。ひみつにしないと、いけないの」
 青く光る瞳に引き込まれるように、雛子は思わず頷き返した。
「だって、亞里亞はいつも雛子ちゃんに教えてもらってばかり。だからこれは、そのお返しなの」
 雛子は瞬間的に腹が立った。
 人にさんざん迷惑を掛けておいて、ひみつのひとつでなかったことにしようなんて、そんなのはずるい。
「お返しって、そんなのいらない」
 きつい口調に亞里亞の表情が崩れる。
「どうして……なの?」
「ヒナ、いつも亞里亞ちゃんに言ってるよ。わからないことは聞けばいいんだよ、って。それなのに亞里亞ちゃん、ぜんぜん聞いてこないんだもん。昨日の缶ジュースだって、すぐに聞いたら教えてあげたのに」
 不意に、雛子の身体が小刻みに揺れ始める。
 地震かと思ったら、それは、亞里亞が涙をこらえている震えだった。つないだ手から、かたかたと伝わってくる。
 それで、雛子はハッと我に帰った。
「ごめん、なさい……」
 俯いた顔に銀色の髪が引っかかる。
 亞里亞が手を離した。
「ううん、いいの。姉やにもときどき、言われてるから」
 涙声の亞里亞は、くすん、としゃくりあげる。
「亞里亞はいつもいつも、みんなに教えてもらってばかり。それなのに、亞里亞は何も教えてあげられないの。だから、あのときは聞けなかったの。自分で缶を開けようと思っても、どうしていいのかぜんぜんわからなくて、だから……」
 細い声で悩みを打ち明ける亞里亞は、雛子の知っている誰かに似ていた。
 ――ヒナと、おんなじだ。
 咲耶を前にした昨夜の雛子と、雛子を前にした今の亞里亞と。
 そう思った途端、咲耶の言葉を思い出していた。
「えっと、あのね。そういうときは、あせらなくても……いいと思うよ」
 咲耶のようにはなかなかうまくしゃべれない。考え考え、少しずつ言葉をつむぎ出す。
「みんなね、階段を上っていくみたいに、少しずつ大人になっていくから、だから、急がなくてもいいと思うの」
 触れ合う髪の動きで、亞里亞が首をかしげたとわかった。
「どうして? 亞里亞は、知らないことがいっぱいあるのに」
「だって、階段は一段一段のぼらないとあぶないでしょ? 一段飛ばしでのぼると早いけど、転んだらケガしちゃうもん」
「急いで覚えたら、ケガするの?」
「そうじゃなくて、えっとね……あ、そうだ。足し算とか掛け算とかと同じだよ」
 同じタイミングでふたりが顔を上げた。
「同じ?」
「うん。だって、掛け算は、足し算を覚えないとできないでしょ? 4×3は、4が3つあるってことだから、4+4+4っていう風に足し算が出てくるよね。だから、足し算がわからないと掛け算ができないみたいに、他のことも順番にやっていかないとダメなの」
「う……ん」
 必死の説明にも、亞里亞はまだ少し納得できていないようだ。
「それで、亞里亞はどうすればいいの?」
「う……」
 今度は雛子がうなる番だった。
「えっと……わからないことは、聞けば……いいと思う」
「聞いても、いいの?」
「だって、聞かないとわからないよ」
 亞里亞はまた頭を下げ、何度も小さく頷く。
 やがてその顔に、ゆっくりと笑みが浮かび始める。
「――わからないことは、聞けばいいのね?」
 亞里亞の向けた微笑みに、雛子もつられて笑顔になった。
「うん、そうだよ」
「もっと、いろんなこと聞いてもいい?」
 雛子の手に、亞里亞の指がしゅるしゅると絡みつく。
「いいよ。ヒナの知ってることなら、何でも教えてあげる」
「亞里亞も、雛子ちゃんと同じ」
 そう言って、本当にうれしそうに――まぶしくて目を細くするぐらいに、亞里亞は笑った。
「亞里亞の知ってることなら、何でも教えてあげる」
 亞里亞はそこで、急に声のトーンを落とした。
「だから……何でも聞いてね。ちゃんと教えてあげられるかわからないけど」
「何でも……?」
 その何気ない台詞は、雛子の心へするっと入り込んだ。
 目の前で青い瞳がきらきらと輝いている――昨日は、あのときは、もっと近くで光っていた。
 雛子の脳裏に、昨日の出来事がはっきりと浮かび上がる。
 このタイミングなら言える。
「あ、あのねっ、亞里亞ちゃん。き、昨日の、キ――」
「しっ!」
 亞里亞が人差し指を唇に当てた。
「どうしたの?」と聞き返す雛子にも険しい表情を崩さず、あらぬ方を見ている。
「もしかしたら、もう逃げちゃったかもしれないけど……」
「逃げちゃった、って?」
「いこ、雛子ちゃん」
 そして、亞里亞がまた手を引いた。
 雛子はもう怖くなかった。





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