どきどき 読み物TOP

サイトTOP

 Back


 8


 亞里亞に連れてこられたのは建物の一番奥だった。
「ここ」
 亞里亞がそう言って、廊下の突き当たりの壁を指差す。
 壁と同じ色でわかりにくいが、腰ぐらいの高さに鉄の引き戸があった。大人ひとりぶんぐらいの幅があって、うっかりするとそのまま転げ落ちてしまいそうだ。
「これって、えっと……『シューター』だっけ……」
 咲耶から聞いたことがある。ホテルとして使っていたときに、汚れたシーツを下に落としていた穴だと。同時に、危ないから近寄っちゃダメ、とも。
 しかし亞里亞は、扉の前に歩み寄って膝をつくと、音を立てないようにそっと扉を引き開けた。ぽっかりと浮かんだ暗闇に亞里亞が頭を突っ込み、すぐに戻す。
「雛子ちゃん」
 亞里亞が笑顔で振り返った。
「でも、そこ、危ないから近づいちゃダメって言われた場所だよ?」
 ついいい子ぶった口をきいてしまうが、本心では何があるのか早く知りたかった。咲耶の言いつけよりも、今は亞里亞の手招きのほうが強い。
「よかった。まだ、逃げてないの」
 亞里亞の隣に膝をつくと、亞里亞が満面の笑みで囁き掛けた。
「ネコさんの絵。今日は、二匹がお団子」
 雛子は思わず首をかしげた。
「見てもいい?」
「でも、そっとだよ。音、すごく響いちゃうから」
 ふたりはどちらからともなく肩を寄せて、同時に穴を覗き込んだ。
「――わっ」
「ね? きれいでしょ?」
 目の前にあったのは、亞里亞の言葉通りのものだった。
 まっくろのまんなかに小さく絵が見える。
 頭と尻尾を反対反対に、白と黒の二匹のネコが丸くなって寝ていた。どこからか、勝手に入りこんだらしい。
 キャンバスはレモンソースの掛かったチョコレートの色――板貼りの床に、太陽が差し込んでいる色だ。光を閉ざした真っ黒な縦穴は、絵を飾る壁のよう。
 ふたりはしばらく言葉を忘れて、目の前の光景に見入った。
 ずっと見つめていると、絵がこっちへ向かってくるような感じがする。
 雛子は宙に片手を差し込んで、ゆらゆらと振り回した。
「変なの。手が届きそうなのに、ぜんぜん届かないや」
「一階ならさわれるかもしれないけど、きっとすぐ逃げちゃうの」
「じゃあ、二階からなら届くかな?」
「でも、亞里亞は開けられない。鈴凛ちゃんなら、開けられるかもしれないけど」
「そっか。鈴凛ちゃん、力もちだもんね」
 そんな会話を交わしているうちに、キャンバスがゆるゆると暗くなってゆく。肩越しに見える廊下も同じように薄暗い。
 目を戻すと、薄暗いネコの絵はさっきより遠ざかって見えた。白いほうのネコが少し頭を持ち上げてしっぽをぱたぱたする。起きるのかと思ったら、しばらくたって動きが止まる。
「何か、ふしぎだね……」
 素直な感想を漏らした途端、雛子のお腹も正直に鳴った。ぐうぅぅ、という恥ずかしい音が、狭い縦穴にこだまする。
「ヒナ、まだお昼食べてないんだっけ」
「大丈夫……?」
 お腹を押さえながらのそのそと出ると、亞里亞も心配そうな顔でついてきた。
「亞里亞ね、プリン持って帰ってきたの」
「プリン?」
 雛子はおもわず目を輝かせる。
「うん、給食のプリン。雛子ちゃんがお休みだったから、もらってきたの」
「じゃあ、ヒナの分なんだよね。ヒナが食べちゃってもいいんだよね」
 亞里亞はこくんとひとつ頷き、立ち上がって手を差し出す。雛子は迷わなかった。
 行きより少し早足で、ふたり並んで歩き出した。
 ちらっと振り返り見た廊下がまた明るく照らされる。
 もう少し見ていたい気もするが、今は腹ペコ。プリンのほうが先だ。それに、この分だといつ来ても違う絵が見られそうだ。今は二匹でも、次は三匹や四匹かもしれない。誰もいないかもしれない。今は真ん中でも、次はちょっとずれた場所かもしれない。尻尾だけかもしれない。
 お日さまだけでもこんななのに、夜になったらどうなるんだろうか。
「ねぇ、亞里亞ちゃん」
 雛子は、ある思いつきを口にした。
「昨日の夜って、あの場所に行かなかった?」
「えっ……?」
 握った手がぴくっと震えた。驚きの色をありありと浮かべた顔は、あまり亞里亞らしくない。
 丸まるように身体を縮めながら、亞里亞は小さく囁いた。
「雛子ちゃん、知ってたの……?」
「えっと……ううん、知らないよ。でも、白いおばけみたいのを昨日の夜に見たの。こっちの方に動いてたから、もしかしたら亞里亞ちゃんかなって」
「まだ、誰にも言ってない?」
「だって、おばけを見たって言っても、信じてくれないんだもん」
「じゃあ、それでいいの」
 安心したらしい亞里亞は、嬉しそうにくくっと喉を鳴らした。
「でも、姉やにはぜったいひみつね」
「うん。千影ちゃんにしゃべったら、大変なことになりそうだもんね」
「ううん。かわいいからひみつなの」
「亞里亞ちゃんって、おばけがかわいいの?」
「……何のこと?」
 雛子と亞里亞は思わず顔を見合わせた。
 ふたりはいつの間にか廊下の角にまで来ていた。おととい、ふたりで隠れた場所だ。
「亞里亞はね、ネコさんのこと」
「ヒナはおばけのこと……ありり? 何でおばけのこと考えてたのかな……?」
 雛子が「別にいいや」と脇に置くと、すかさず亞里亞が口を開いた。
「だってネコさん、あんなにかわいいんだもん。姉やはね、かわいいのが大好きだから」
「そうなの? 千影ちゃん、フリルのお洋服とかって嫌いそうに見えるんだけどな」
 雛子は、少し前のアフタヌーンティーの時間を思い出していた。あの恥ずかしがり方は、見ているこっちまで恥ずかしくなるぐらいだった。
「それは、亞里亞と姉やだけのひみつ。でもね、これは、亞里亞と雛子ちゃんだけのひみつ」
「咲耶ちゃんは、ダメ? 咲耶ちゃんにも教えてあげたいな、あのネコさんのこと」
 雛子のお願いに、亞里亞は少し眉をひそめてみせた。
「雛子ちゃんがどうしてもって言うなら、いいけど……でも、ホントにいいの?」
 雛子を握る手がぎゅっと強くなる。
「姉やがあんなにかわいいの見たら、亞里亞はきっと、姉やの一番じゃなくなっちゃう。……雛子ちゃんは、大丈夫? 咲耶ちゃんが見ても、雛子ちゃんは一番のまま?」
「えっと……」
 雛子の足が止まった。
 亞里亞は手を繋いだまま、雛子より少し先の陽だまりで答えを待っている。クリーム色の制服が光の中に溶けて、亞里亞をまぼろしのように見せている。
 雛子は、昨日の咲耶との話を思い出しながら呟いた。
「でも、ヒナはそれでもいいの。だって、咲耶ちゃんの一番は、おにいたまだから。咲耶ちゃんがしあわせになれば、ヒナもしあわせになれるの。だから――」
「雛子ちゃんって、すごいのね……」
 ハッと顔を上げると、亞里亞は笑っていた。
 いつも見せている、楽しそうな笑いかたではない。さびしいけれどさびしくないとウソをつくときのような、そんな笑いかた。
「亞里亞は、兄やが好き。雛子ちゃんも、ミカエルも、みんな好き。でも、今一番大切なのは姉やなの」
 亞里亞はその笑みを貼りつかせたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「亞里亞はね、姉やからママンを取っちゃったの。亞里亞がママンといっしょだったとき、姉やはさびしいさびしいって泣いてたの。だって、亞里亞と姉やはちがう国にいたのに、ママンは同じひとりのママンだから。亞里亞は最初ね、そんなこともわからなかったの。ママンから姉やがいるって聞いて、それで姉やが姉やだってわかって、でも、たったのそれだけ。亞里亞がいるから姉やはママンとはなれてさびしかったのに、亞里亞がママンを取っちゃったのに、それでも姉やは、亞里亞を許してくれたの。亞里亞が姉やのことを好きって思ってたら、それが姉やに伝わって、亞里亞のことを好きになってくれたの」
 そこで言葉を切り、すうっと大きく息を吸った。
 ゆっくりと吐く息に合わせて、いつもの笑みが広がる。
「だから、亞里亞は姉やが好き。だから姉やも、亞里亞のことが一番好きでいてほしいの」
 雛子は俯き、黙って唇をかみ締めた。
 亞里亞がこんなことを考えていたなんて想像もしなかった。
 ママが同じ、本当のお姉ちゃんがいるということを、ただうらやましく思っていただけだった。
 雛子は本当のママを知らない。
 そして、雛子と咲耶は本当の姉妹ではない。
 それでも咲耶は、雛子を特別扱いしてくれているし、雛子も咲耶が好きだった。
 だが一方で、それが雛子の不安にもなっていた。
 ――ヒナのことがかわいそうだから、やさしくしてくれている?
 捨てネコを見たら、頭をなでてあげたくなるように、拾って帰りたくなるように、咲耶もそういう風に思っているだけかもしれない。
 だから、雛子は早く大人になりたかった。かわいそうな子供として見られるのは、もう嫌だから。
 だから、雛子は亞里亞がうらやましかった。本当のお姉ちゃんだからあんなに甘えていられるのだと、ずっとそう思い込んできた。
 しかし亞里亞は、嫌われるかもしれないという不安とずっと戦っていたのだ。それも、ママが同じだからという理由で。
 雛子は本当のママを知らない。だが、ママという存在を大事に思っているから、ママのいないさびしさを知っている。
 ママの違う、本当じゃないおねえちゃんと。ママの同じな、本当のお姉ちゃんと。どっちも、さびしいのはいっしょだ。悲しいのも、つらいのも。
「ヒナと亞里亞ちゃんって、おんなじなんだね……」
 嫌いだからイジワルしていたわけじゃない。自分と同じだから――好きだから、あんなにイライラしていたのだ。まるで、いつまでも子供でい続けようとする自分を見ているようで。
 その想いに背中を押されるように身体が動いた。
 雛子は陽だまりの中へ歩み寄り、亞里亞の肩に手を掛ける。そして、亞里亞を支えに思いっきり背伸びして、その白い額に唇をつけた。亞里亞の額はシルクのハンカチのようにすべすべで、ひんやりとしていた。
 ぐらつきそうになる身体を、しっかりと亞里亞の腕が抱き止める。亞里亞がこんなに大きく思えたのは初めてだった。
「どうしたの?」
 亞里亞のやさしい吐息が喉をくすぐる。
 逃げるように唇を離すと亞里亞の支えも解け、みしっと音を立てて着地した。
「今のは、友情のキスだよ。お友達のキス」
 胸がどきどきしている。キスが恥ずかしいからじゃなく、自分の気持ちがちゃんと伝わったかどうか。
 その結果に、胸がどきどきしていた。
「――雛子ちゃん、知ってたの?」
 ハッと息を飲む音が聞こえた。
「亞里亞ちゃん、知ってるの?」
 しかし、驚いたのは雛子も同じだった。
「ヒナは、咲耶ちゃんから聞いたの。亞里亞ちゃんは?」
「亞里亞は、じいやから教わったの。キスのやり方といっしょに」
 亞里亞は楽しそうにそう囁き、雛子の頬に唇を寄せる。触れた感触は、咲耶にやさしくなでられたような感じだった。
「満足のキス、だっけ?」
「そう」
 亞里亞は顔を離しながら雛子の肩を抱き、いっしょに腰を下ろした。
「それでね、亞里亞は鞠絵ちゃんに教えてあげたの。だって、ミカエルは鞠絵ちゃんのお口ばかりぺろぺろするから」
 雛子は頷きながら、さっきのことを思い出していた。
「ヒナには、ほっぺたにしようとしてたよ」
「だって、ミカエルは鞠絵ちゃんが大好きだもの」
「お口のキスって、愛情のキスだもんね……」
 さっきはミカエルに悪いことをしてしまった。鞠絵がキスを知っているなら、ミカエルも知っていておかしくないのに。それなのに、大事なヒゲまで抜いてしまった。帰ってきたら、ちゃんと謝ってあげないと。
 ぶらぶらと迷わせていた手に痛みが走ったのは、ちょうどそのときだった。
「いたっ!」
「どうしたの?」
 驚く亞里亞に、雛子は痛む場所を差し出して見せた。
 右手の人差し指の真ん中に、赤く小さな点がひとつ浮かんでいる。そこへまっすぐに突き立っているのは、光にも透き通りそうなほど細いささくれだ。
「ここ、危ないね。トゲばっかりだよ」
「でも、どうすればいいのか教えてもらったから、亞里亞は平気」
「だけど、痛いのはヒナなんだよ」
 唇を尖らせると、すかさず亞里亞の指が絡みついてきた。
「前は雛子ちゃんの番だったから、今度は亞里亞の番ね」
 一瞬、ちくっと触れる痛みがした。雛子が見ると、そこにもう刺はなかった。
 見えたのは、亞里亞の指から刺が落ちるところだった。教えてあげたのは自分なのにそれよりうまくて、何だか少しくやしい気分。
「ヒナより上手だね……」
「そう?」
 少し気取った風に顎を上げる亞里亞。
「でも、雛子ちゃんの見てたから、できたの」
 亞里亞はそう言って、もつれたままの指を顔の高さまで持ち上げる。
 何をしようとしているのか、雛子にはすぐわかってしまった。
「雛子ちゃんは、キス、好き?」
「えっ! あ、うん……」
 心の中を覗かれた気がして、とっさに頷いてしまった。
「亞里亞はね、キスが好き」
 亞里亞の顔が、ふたりの手の上に覆いかぶさった。と思ったら、ちゅっと音がして、熱さと痛さと痒さがいっしょになって走ってくる。
「そ、そこ、きたないよ……」
 雛子の眉毛がひくひくと動く。
 自分でしゃぶったときは違い、舌の動きは亞里亞任せだ。痛むところもそうでないところも、関係なしに舐めてゆく。生温かい感触と合わさって、ひどくむず痒い。靴の上から足を掻こうとしているような感じだ。
「――でも、キスは好きでしょ?」
 戻った亞里亞の顔は満足そうに笑っていた。血の味が好きなのだろうかと、雛子はふとそんなことを考えた。
「じゃあ、どうして好きなの?」
「だって、雛子ちゃんが好きだから」
 あまりに自然に言うので、意味がわかるまでに少し時間が掛かる。
「す、好きって……」
 わかった途端、火がつくように顔が熱くなった。まともに顔が見られなくなって、雛子は頭を下げた。
「だけど、ヒナ……亞里亞ちゃんにいっぱいイジワルなことしたんだよ?」
「それじゃあ、雛子ちゃんはどうして亞里亞にキスしたの? 亞里亞は雛子ちゃんが好き。だから、亞里亞はキスしたの。亞里亞は雛子ちゃんのことが好きって、わかってもらいたかったから。亞里亞が嫌いなのに、雛子ちゃんはキスしたの?」
「そっ、そんなことないよ……」
 顔を背けたままの耳に、鈴を鳴らすような笑い声が届いた。
「だから、それが答え」
 亞里亞の手が肩に掛かった。磁石同士が引き合うように、ふたりの身体がせばまる。
「キスは、好きだからするの。もっと好きになってもらいたいから、キスするの」
 笑顔が少し傾いたと思うと、唇と唇がやわらかく重なった。
 あっと思う間もなく、亞里亞はすぐに離れる。
「唇の上なら、愛情のキス」
 胸のどきどきがうるさくて、亞里亞の声は聞こえにくかった。
「愛情は、好きって意味だよね……」
「今度は雛子ちゃんの番」
 亞里亞が雛子から手を離し、すっと目を閉じた。
「キスはね、好きって気持ちをわかってもらいたいから、するの。だから、雛子ちゃんの気持ち、亞里亞にもちゃんと教えて」
「うん……」
 雛子の声はからからに乾いていた。
「じゃあ、キスするね?」
 あらためて宣言すると、じわじわと恥ずかしさがこみ上げてくる。
 亞里亞がまた唇を動かすが、雛子にはもう何も聞こえない。胸の音だけが頭の中で鳴っていた。
 肩を掴み、ゆっくりと顔を近づけてゆく。
 唇、唇に、唇の上に。唇の上にキスは、愛情のキス。愛情は好きってこと。ヒナは亞里亞ちゃんのことが好き。だから、ヒナは亞里亞ちゃんの唇にキスするの――
 と、鼻の先に何かがぶつかる。驚いて顔を引くと、亞里亞が薄く目を開けた。
「顔を斜めにしないと、お鼻とお鼻がぶつかっちゃうの」
「あ、そっか。そうだね」
 亞里亞がくすくす笑いながら雛子に手を伸ばし、頬を挟んで少し傾けた。そしてまた目を閉じる。
 キスを待っている亞里亞は、まるでお姫さまのよう。吐息に揺れる前髪が、日差しの中できらきらと綺麗に光る。制服じゃなくていつものドレスだったら、もっとお姫さまに見えているかも。
 雛子は片方の手で自分の胸を押さえた。
 眠り姫を起こす王子さまも、こんなにどきどきしたのだろうか。
 小さくひとつ喉を鳴らすと雛子は目を閉じ、えいっとばかりに唇を押しつけた。
「ん……んんっ……」
 口元をなでる鼻息が亞里亞の気持ちを伝えている。ほてった肌に、それはとても気持ちよかった。
 その瞬間、雛子の心が一気に燃え上がった。
 それは、今までとまるで違う種類の喜びだった。
 背筋にぞくぞくとしたものが走る。わずかに残っていた恥ずかしさも、どこかへ消し飛んでしまった。
 キスで、自分の心が伝わっている。言葉じゃなくても、気持ちが伝わっている。
 頭を少し動かして上唇をやわらかく噛むと、亞里亞も負けじと下唇を甘噛みしてくる。
「んぅ、んっ……んふぅっ……」
 目を閉じた上から太陽の光が降り注ぐ。
 虹色の闇の中で、お互いの吐息がまるで花火のように飛んで弾ける。
 それが綺麗で、うれしくて、そして伝えたくて、雛子は亞里亞の頭に手を回した。もっとキスしたい。もっと近づいて、もっと気持ちを伝えたい。
 すると、雛子の心に応えるように亞里亞のほうからも手が伸びる。それは、雛子を離すまいとするようにしっかりと頭を包み込んだ。
 しかし、それでもまだ足りない。
 わざと鼻をぶつけても、頬を両手で挟んで引き寄せても、腰に手を回して胸と胸をくっつけても、それでもまだまだ足りない。今にもあふれ出そうなこの想いを、どうやったら全部伝えられるのだろうか。
 そのとき、ハッと雛子は閃いて、理解した。
 どうしてあのとき、亞里亞があんなキスをしたのか――口の中に舌を入れてきたのかを。
 不意に、雛子の頭が両手で挟まれ、押し戻される。
 亞里亞の唇がちゅるっと外れた。はぁはぁと荒い息が顔にくすぐったい。
「雛子ちゃん、重い……」
 雛子はいつの間にか亞里亞を押し倒していた。手と膝をついて四つんばいになると。亞里亞は荒い息を吐き掛けながらぐったりと横たわった。
 どこかで見たことがあると思ったら、少し前の衛と花穂だ。あのときはわからなかったが、今なら何をしていたのかよくわかる。
「でも、やっぱりキス好きなのね」
 よだれでベタベタにしながら、それでも唇の端では笑っている。急に恥ずかしさが戻ってきた。
「雛子ちゃん、初めはあんなにイヤがっていたのに」
「だ、だって……ヒナ、あんなキスしたことなかったんだもん」
「亞里亞も、最初は知らなかったのよ」
 亞里亞が、ポケットから取り出したハンカチで雛子の口をふき取る。
「じいやが教えてくれたの。これは、本当に好きな人にしてあげるキスですよ、って」
「じいやって、女の人……だよね?」
 やっとわかってくれたのね、という風に、亞里亞は顔じゅうで笑った。
「グリルパルツァーの詩も、そのときいっしょに教えてくれたの」
 亞里亞は手を止め、歌うように朗読した。


  手の上なら尊敬のキス。
  額の上なら友情のキス。
  頬の上なら満足感のキス。
  唇の上なら愛情のキス。
  閉じた目の上なら憧憬のキス。
  掌の上なら懇願のキス。
  腕と首なら欲望のキス。
  さてそのほかは、みな狂気の沙汰。


「憧憬は、あこがれてるってことで、懇願は、おねがいしますって意味……って、じいやが言ってたの」
「ふぅん。そうなんだ……」
 亞里亞は自分の口もハンカチでぬぐい、にっこりと笑った。
「それで、次はどんなキスをしてくれるの?」
 それはもう雛子の中で決まっていた。だが、それを口で言うのはひどく恥ずかしかった。
「えっと、亞里亞ちゃんは……どうしたいの?」
 亞里亞は雛子の手を取り、返事をする代わりに手のひらへちゅっと音を立てた。そして目を閉じ、眠り姫のように両手を胸の前で組んだ。
「亞里亞ちゃん……?」
 返事は返ってこなかった。かすかに笑った唇の形で、亞里亞の口元に影が差している。
 まるで人形のような亞里亞。
 だが、おとといに感じたような不気味さはない。むしろ、とても綺麗だ。
 差し込む光の中で、亞里亞は銀色に輝いている。透き通るような肌も、ゆるやかにカールした髪も、全てがきらきらと光っていた。時折ひくっと動くまつ毛の先で、光がビーズになってはじける。
 見ているこっちがくやしいぐらいに、亞里亞は綺麗だった。本当に人形だったら絶対に欲しくなってしまう。いつもそばにいる千影が、少しだけうらやましく思えた。
 頭を下げるうちに、少しずつ亞里亞の顔が影に覆われてゆく。あとしばらくで全部が自分の影に入る。
 と、まさにそのとき。
 すぐ隣を素早く通り過ぎる影があった。過ぎたと思ったら、それはべたんと大きな音を立てて廊下に落ち、激しく爪を鳴らしてじたばたと起き上がる。そして、ふたりの周囲をぐるぐると回り始めた。はぁはぁと吐く息が雛子たちを取り囲んでいる。
「ミカエル……?」
 名前を呼ばれた彼は足を滑らせながら座り、垂れ下げた舌を激しく上下させながら尻尾を振り回している。
「どうしたの? 今までどこ行ってたの?」
 ミカエルは答えず、後ろに首を回した。すると、すぐ先の階段からばたばたという足音が近づいてくる。それもふたり分。
「ヒナちゃん、どこ? どこにいるの?」
 雛子が亞里亞の上からどくのと、咲耶が階段が上り終えたのとがほぼ同時だった。
「ヒナちゃん!」
 駆け寄るなり、咲耶が力いっぱい抱き締めてきた。一瞬、何もかもが咲耶色の闇に染まる。
 きぃんという耳鳴りの外からぼそぼそと聞こえる声がある。
「あぁ、亞里亞くんもいっしょだったか。よかった。心配したよ」
「あ、姉や!」
「ダメだよ、亞里亞くん。途中で帰って来ては。これで二度目じゃないか」
「でも、先生に言いました。雛子ちゃんといっしょにプリンが食べたいの、って」
 もうひとりは千影のようだ。亞里亞が立ち上がって抱きつくのが気配でわかる。
 息苦しさに頭を出そうとすると、何を勘違いしたのか咲耶の腕が強まる。
「ダメでしょ、ヒナちゃん。ちゃんと寝てないと。風邪がひどくなったらどうするの?」
「ごめんなさい、咲耶ちゃん……」
「ううん、謝るのは私のほう。ひとりにしてごめんね」
 咲耶の手が頭をわしゃわしゃとなでる。
 いつもはすごくうれしいはずなのに、今はそんなにうれしくなかった。


 *


「もう少しちゃんと構ってあげたらどうなんだ? あの姿、見ていて不憫でならない」
「何よ、急にえらそうに。私には私なりの考えがあるの。余計な口出ししないで」
「あの子の自立を促すのは大いに結構。だが、早急に過ぎる。もっと順序を考えるべきだな」
「私だって、できることならそうしたいわよ。でも、あの子が自分でそれを望んでいるとしたら、私はどうすればいいの? あんたみたいに際限なく甘やかせっていうの? そんな安直な」
「際限はある。あの子はマイペースなだけで、別に無闇に甘やかしているわけではない。一度に詰め込もうとすると、なかなか覚えられないんだ。そういう子なんだ」
「あ、そう。じゃあ私も似たようなものね。あの子は早く大人になろうとしてるから、そのプライドを傷つけない程度に子供扱いしてるだけ。もっとそれらしくなってほしいのよ。すぐ我慢しちゃう子だから」
「だから、それがよくないんだろう? 私は、もう少し構ってあげろと――」
「うるっさいわね。そっちこそ、もう少し自立させなさいって――」
 間仕切りの向こう側から、ふたりの口ゲンカが聞こえてくる。
 間仕切りのこっち側では、ふたりが仲良く折り紙をしている。
「咲耶ちゃんたち、またケンカしてるね」
 雛子たちは、いつも千影が座っているあたりのフローリングに直接座っている。
 隣を見ると、亞里亞が折り鶴に熱中していた。千影のお手本を前に、首を回したり折り紙を回したりしている。
「ヒナたちはちゃんと仲直りできたのに」
「うん」
 耳元で聞こえた声に向き直ると、そこには亞里亞の顔があった。あっと思う間もなく唇が重なり、すぐに離れた。
「あ、亞里亞ちゃん……こんなところでダメだよぅ」
「でも、キスは好きでしょう?」
「そうだけど、でも、これはふたりのしみつなの」
「うん。ひみつ」
 亞里亞が離れたと思うと、そのずっと向こうにいる衛と目が合う。衛はぽかんと口を開けたままでこっちを見ていたが、遠くからでもわかるぐらいに顔を赤くさせた。
 そんな衛を隣の花穂が突っついて呼び戻し、ふたりはまた宿題に取り掛かる。
「ほらぁ、衛ちゃんに見つかっちゃったよ」
「じゃあ、衛ちゃんにもキスしちゃえばいいの。ふたりだけのひみつじゃなくて、さんにんのひみつ」
「でも、そんなのって……」
 雛子が答えに困っていると間仕切りがぱたんと開き、怖い顔をした千影が出てきた。亞里亞が折り鶴を手に立ち上がり、ぱたぱたと駆け寄った。
「見て見て、姉や! これ、亞里亞が折ったの」
 向き直った千影の表情がふっとゆるみ、ふたりは話をしながらそのままリビングを出て行った。
 ひとり残された雛子は、間仕切りの内側に入った。
 食卓の一番向こうには、昨日と同じように家計簿を前にした咲耶が座っている。違っていたのは、咲耶がすぐに気づいてくれたことだった。
「ごめんね、ヒナちゃん」
 顔の前でぱちんと手を合わせたと思うと、
「今日もまた遅くなりそうだから、お風呂は誰かと一緒に入ってくれる?」
「別にいいけど、でも、千影ちゃんとケンカしたらダメだよ。ヒナも亞里亞ちゃんもイヤだし、それにおにいたまだって」
「うん、まあ、私だって、好きでケンカしたいわけじゃないんだけどね。ちゃんと話してるつもりでも、いつの間にかあんな感じになっちゃうっていうか」
 食卓の上で手を組み合わせた咲耶は、はぁっとひとつため息をついた。
「じゃあ、ホントは好きなんだよね? 千影ちゃんのこと」
「嫌いじゃない、って言ったほうが正しいかな」
 咲耶はなぜか困ったような顔をする。
「でも、仲直りはしたいよね」
「うん。そりゃあまあ、そうね」
「じゃ、ヒナが仲直りのおまじない教えてあげる!」
「おまじない?」
 スリッパを鳴らしながら近づく雛子の顔を咲耶が覗き込む。
「うん。ホントはおまじないじゃないけど、おまじないなの」
 不思議な言い方に、ふふっと咲耶は笑った。
「そっか。で、やり方は?」
「えっとね……まず、目をつぶって」
「んー、こう?」
 咲耶は椅子の背中に寄り掛かり、素直に目を閉じた。
「それでね、咲耶ちゃんはずっと目をつぶったままだよ。ぜったいに開けたらダメだからね」
「でも、それだと方法がわからないじゃない」
「だいじょうぶ。ぜったいにわかるから」
 雛子はそう言い、咲耶の膝によじ登る。
「ちょっ、こら。何するの?」
「ダメだって。そのまま動かないでよ」
 はいはい、と答えた咲耶は、小さくため息した。
 雛子の目の前に、咲耶の唇がある。
 この唇から生まれた言葉に、たくさんのものをもらった。
 これからは、私がずっといてあげるから。
 この一言が雛子の幸せの始まりだった。
 ――ヒナの気持ちが、ちゃんと伝わりますように。
 雛子はたくさんの想いをこめて、咲耶に愛情のキスをした。





 Fin.