がらがら
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「お昼は土鍋のおかゆをあっためてもらって……あ、三人分ぐらい作りましたけど、遠慮しないでじゃんじゃん食べてくださいですの。それと、皮を剥いたリンゴが冷蔵庫に――」
「そんなに子供扱いしなくてもいいじゃないか」
毛布にくるまった千影がうんざりとした表情でそう言った。元よりハスキーな声が咳でひび割れている。
「こう見えても料理はそこそこできる。何なら今度作ってみせようか?」
「もう、何言ってるんですか。風邪は引き始めが肝心ですから、ここは元気な姫たちにおまかせですの。それに、これ以上悪くなったらみんなにうつっちゃってもう大変ですのよ?」
制服姿の白雪は腰に手を当てながら頬をふくらませている。千影はブラシの入っていない髪を物憂げにかき上げた。
「わかった、わかったよ。だから、そんなに怒らなくても――」
くしゅっ、と小さなくしゃみをする千影。毛布の前をかき合わせ、ずるずると鼻をすする。
「千影ちゃん、本当にわかってますの? いつも夜更かしなんかしてるから、真っ先に風邪を引くんですのよ? 夜中にごそごそしてると思ったら紅茶なんか淹れて」
「そんなことより学校はいいのかい? 遅刻してしまうよ」
と、千影は壁掛け時計を指差して促す。それを見た白雪が「いやぁん」と悲鳴を上げた。
だだっ広いリビングには千影と白雪の二人だけ。講義によっては兄が一番最後に家を出るが、今朝に限っては真っ先に飛び出していった。おかげで他の姉妹らもいつになく登校が早かった。
カバンを引っ掴んで駆け出す白雪だったが、リビングを出ざまにくるっと振り向き、
「もしかして、リンゴじゃなくてニンジンのほうがよかったですの?」
「食べたくなったら皮ごとでも食べる」
うるさそうに手を振ると、白雪はそれを合図にぱたぱたと駆けてゆく。遠ざかる足音が聞こえなくなると、少し間を置いて玄関の扉がばたんと閉まった。
千影はやれやれといった感じにかぶりを振り、石油ストーブへにじり寄った。息をしゅんしゅんと吐き出すやかんを外し、湯呑みへ注ぎ入れる。ウーロン茶だった。
全くもって迂闊だったな、と千影は熱々のお茶をすすりながら思う。風邪引きの先駆けなどみっともないにも程がある。
白雪の指摘通り、最近夜更かしが過ぎていたのは確かだった。最近は亞里亞に首っ引きで、以前は十分だった自分の時間があまり取れなくなっていた。かといって甘え盛りの亞里亞を邪険に扱うわけにもいかず、その分を睡眠時間の削減で賄うのは必然というものだった。
南向きのリビングは時間が経つにつれて暖かさを増してゆく。寒気は治まらないが、額にじんわりと汗が浮き始める。薬は飲んだし、喉の痛みは春歌が祖母から教わったという大根飴のおかげでずいぶん楽になった。とりあえず、今日一日を平静に過ごせば大丈夫そうだ。もう少し症状が悪ければ、今ごろは自分の部屋へ隔離幽閉されていたところだ。冗談でも何でもない。万が一にも蔓延しようものなら、身体の弱い鞠絵にとってはまさに致命的となる。共同生活が軌道に乗り始めた今この状況で、彼女を入院させるわけにはいかない。
それにしても、千影が風邪を引いたとわかったときの反応は実にひどかった。本気で心配したのは亞里亞や鞠絵ぐらいなもので、姉妹の大半が『千影ちゃんでも風邪引くの?』という、驚きとも呆れともつかない微妙なものだった。先の天皇よろしく、人間宣言でもしなくてはいけないのだろうか。
外は快晴。日差しはいよいよ強くなり、汗が頬を伝わり落ちる。
庭へ面したアルミサッシュが、かたん、と鳴ったのはちょうどそのときだった。
オバケのQ太郎のような格好で毛布を引き引き近づいた千影は、緩慢な動作でサッシュを引き開けた。
馴染みの顔に思わず声が出る。
「――おや、きみは」
石畳の上に行儀よく座っていたのは『白足袋』だった。千影に気づいた『白足袋』は咥えたネズミをその場へ置き、少し後ずさった。完全に仕留めた後なのか、ネズミはピクリとも動かない。
彼がこの家へ姿を見せるようになったのは、共同生活を始めて間もなくのことだった。一部の例外をのぞき、少女はネコを嫌わない。ネコもまた同じらしく、時折ふらっと顔を出す彼は賓客としてもてなされるようになった。
彼が人気を得たのには野良の割に人懐こかったせいもあるが、何よりその風貌が変わっていた。
パッと見にはただの黒ネコだが、どういうわけかつま先だけが白い。尻尾にもリングをはめたような白がひとつ見えるが、こちらは付け根にあるせいであまり目立たない。
そんなこともあって当初は『靴下』や『運動靴』といったあだ名でめいめいに呼ばれていたが、春歌の「忍び歩きしていると、まるで足袋のようにも見えますわね」という何気ない一言であっさりと決まった。
以降『白足袋』と呼ばれるようになった彼だが、どういうわけか名付け親の春歌にだけは懐こうとしない。「やっぱり、三味線引きってネコの仇なのよ」とは鈴凛の弁だが、妙に納得した面持ちの春歌を見るとあながち間違いでもなさそうだ。
対照的に千影や亞里亞とは仲がいい。放っておいても向こうから近づいてきて膝によじ登る。今や亞里亞の指定席となっている千影の膝だが、彼だけは特別だ。『白足袋』がやってくると、亞里亞は自ら降りて彼に譲る。
固まって動かない千影に焦れたのか、『白足袋』が一声鳴いて頭を下げた。
「その……まさか、お見舞いのつもりとか?」
なおぉん、と再び鳴き声。
「気持ちは嬉しいが、しかし、いくらなんでもネズミは……」
困惑し切った千影に首を傾げてみせる彼だったが、やがてのっそりと立ち上がり、悄然と歩み去った。
寂しげな後ろ姿に胸を突かれる思いの千影だったが、しかし、こればかりはどうしようもない。死体では生贄にも使えないし、そんな儀式を行うだけの体力がない。そもそも、今の千影は占いが主体で、魔術の実践は手に余る領域なのだ。
千影はネズミをそのままにからからとサッシュを閉めた。放っておいてもカラスか誰かが始末してくれるはずだ。さすがにミカエルは食べたりしないだろうが。
外気が入り込んだにも関わらず、リビングはストーブと陽光とでむせ返るほどの暑さだ。千影は周囲に誰もいないことを確かめ、つま先でストーブを消した。この場合、兄よりも春歌のほうが面倒だった。不品行を見つけようものなら例え雛子であっても容赦ない。床に直接正座させられ説教につぐ説教。『大和撫子論』の被害にあっていないのは鞠絵だけだ。
毛布を羽織り直してソファーに腰を下ろすと、急に眠気が襲い掛かってきた。心地よい陽だまり、風邪薬が効き始め、腹は八分目。加えて日ごろからの睡眠不足。惰眠を貪るには十分過ぎるほど条件が揃っている。
ばったりと倒れ込んで大きくあくびをすると、そこはもう夢の国だった。
*
お腹のあたりがもぞもぞする。ほっこりと暖かい。
ああ、きっと『白足袋』がどこからか入り込んできたのだろう。自分の腕を枕にまどろみながら、まぶしい闇の中で千影はそう思った。
スズメの囀りに混じって、ピシッ、という鋭い音が聞こえる。アルミのサッシュが熱で膨張している音だ。晩秋といえど、瞼を易々と貫き通すほどに日差しは強い。紫外線の悪影響云々について熱く語る咲耶を思い浮かべたが、今はとにかく眠かった。普段からメフィストフェレス――光を憎むもの――気取りで薄暗いところを好んでいるのだから、少しぐらいは負債を抱えるのも悪くない。そう自分に言い聞かせながら千影は寝返りを打つ。
が、できなかった。何かが毛布を引っ張って――もしくは掴んでいる。『白足袋』にしては力が強い、そう考えた千影の脳裏にとある顔が浮かび上がった。
千影は磁石のように離れまいと頑張る瞼をむりやりこじ開けた。
目の前に銀色の髪がふわふわしている。ぴょんと飛び出たほつれ毛が、光の中でゆったりとなびいていた。その背後に遠く見えるのは投げ捨てられた赤いランドセル。
「――あ、亞里亞くん?」
がらがら声で呼ばれた亞里亞は大きく一度あくびをし、千影の毛布からのそのそと這い出た。毛布の抜け殻から察するに千影のお腹へぴったりと寄り添うように寝ていたらしい。傍からはカンガルーの親子にも見えただろうか。
制服を着たままの亞里亞は女の子座りをし、さも眠そうに目元をこすっている。
「おはようございます、姉や」
「おはよう、じゃない。どうしてきみがここに――」
と、時計に目をやった千影はたちまちに表情を険しくさせる。
「まだお昼前じゃないか。学校はどうしたんだい? 今日は六限まであるはずだろう?」
千影が機嫌を損ねているらしいと察知した亞里亞はしょんぼりとうなだれる。
「でも、だって、姉やがひとりぼっちかもしれないって思ったら、亞里亞もさびしくなっちゃって」
何かを言いかけて口を開く千影だったが、ふと思いとどまってゆっくりと閉じた。
学校では人を寄せつけないようにしていると知ったら、亞里亞はどう思うだろうか。もっとも、占いを目当てに近づく級友は多いし、千影もそれが嫌なわけではない。
千影は小さくかぶりを振り、こう言った。
「それで、先生にはちゃんと言ったのかい?」
真似たように頭を左右へ振る亞里亞。千影は思わず額に手をやる。
「やれやれ、学校へ連絡しないといけないな」
そう呟き、千影は毛布の海から立ち上がる。少し眠ったおかげか朝よりも身体が軽い。毛布なしでも間に合いそうだ。
そんな千影の足元にふっと影がよぎる。サッシュの曇りガラスの向こうに小さな塊が見えた。
千影は何気ないふりを装って歩み寄り、そろそろとサッシュを開いた。
そこには案の定、『白足袋』が待っていた。誇らしげに千影を見上げるその顔には返り血の化粧が施されている。今度のお見舞いの品はスズメだった。胴体に半ば埋まった頭がありえない方向にねじ曲がっている。
「いや、だから、そういう意味じゃなくて――」
「姉や、どうしたの?」
頭を抱える背後から亞里亞の声が被さる。千影は急いでピシャリと閉めた。
「何でもない」
「でも……あっ! しろたびさん、来てるの?」
遠ざかる影に気づいた亞里亞が指で示す。千影はその前に立ちはだかり、
「気のせいだよ。何でもないったら何でもない。それより、先生に電話しないといけないからね」
と一方的に言い立てた千影は、むずかる亞里亞の手を引いてずんずん歩き出した。さすがにあのお土産を見せるわけにはいかない。夜道であの顔に出くわしたらと思うと少しぞっとする。
北向きの廊下にはほとんど陽が入らず、いつでも薄暗く湿っぽい。床を這う冷気が足元をなめ回し、千影の身を震わせた。
この家の電話は正面の大階段に置かれた一台きりだ。見た目はレトロな黒電話だが、ダイヤル部分のパネルを開くとボタンやディスプレイの類が現れる。改造を手掛けた鈴凛曰く「留守録や受信拒否はもちろん、逆探知後の無限リダイヤルまでおまかせ」とのことだが、電話そのものがあまり使われないだけに無用の長物に等しい。
千影はダイヤルを回しながら咳払いをし、声を整える。痛みはほとんどなくなったが、声はまだ枯れている。
「もしもし。こちら――」
名前と用件を言うとすぐ担任に交代した。もしもし、と返って来た声は若い女性のものだった。
「初めまして。わたくし、亞里亞ちゃんの担任の――と申しますが、あの……亞里亞ちゃんのお父様さまで?」
千影は絶句した。目の前が一瞬暗くなる。
「……いえ、亞里亞の姉ですが」
「あっ、ああ、ごめんなさい、すみません。失礼しました。お姉さまの声が低いもので、わたくしてっきり男の方かと」
「いえ、こちらこそ紛らわしくて。今、風邪をひいているもので……そう、風邪です。実は――」
亞里亞が家にいることを伝えると、担任は安堵交じりのため息を吐き出した。そのあとに背後へ何事かを呼び掛けると、人の行き交う音がざわざわと大きくなった。
「二時間目が終わったあとに亞里亞ちゃんの姿が見えなくなって、手の空いているもので方々を探したのですが……。ともあれ、無事で何よりです」
「ご迷惑をお掛けして本当に申し訳ありません。亞里亞には私のほうからよく言って聞かせますので――」
何度も頭を下げ、詫びの言葉を繰り返しながら受話器を置いた。いつの間にか額には汗が浮いていた。
「――ごめんなさい」
声のしたほうを向くと、亞里亞が伏し目がちに千影を見つめていた。悪いことをした、という自覚はあるようだ。
千影は亞里亞の目を覗き込むような感じで上体を突き出した。
「私じゃなくて、先生に謝らないとね。きみが勝手に帰ってきたせいで、先生はあちこちを探し回ったそうだよ」
「はい」と答えた亞里亞はうっすらと微笑んだ。
「今度から、ちゃんと先生に言ってから帰ってきます」
「……いや、それはちょっと違うような」
千影の頭がかくんと下がった。
*
コンロにかけた土鍋がふつふつと歌っている。蓋をずらすと、たちこめる湯気の中で白粥が煮立っていた。
千影はひとつ頷くと、蓋を戻して火を止める。味見はしない。鍋へ敷いた昆布に溶き卵。さしもの白雪も、病人用のお粥に独自の解釈を加えるほど非常識ではなかったようだ。朝は春歌のお粥だったので安心して食べられたのだが。
ダイニングを覗き込むと、リビングへ近い席に腰掛けた亞里亞が食卓に突っ伏し、お昼のバラエティー番組に見入っていた。少し退屈そうな感じで、足を交互にぶらぶらさせている。深窓の令嬢らしからぬ振るまいだが、今日はいつもと違う。風邪引きの身を案じてくれたのだから、ここは大目に見なくては。
これでお昼の支度を手伝ってくれたら、と思う千影だったが、思い直したように苦笑いを浮かべた。以前に比べれば大分手の掛からなくなってきた亞里亞だが、まだまだ他人に頼るところが大きい。中でも食事は徹底した据え膳上げ膳で、真っ先に食卓へついては皿が運ばれるのをじっと待っている。雛子でさえも手伝っているのに、だ。
しかし、よくよく考えてみれば亞里亞も雛子も十歳に満たないのだ。むしろ、亞里亞の態度のほうが年齢相応と呼べるのかもしれない。学校へ電話を入れた保護者は高校生で、その胃袋を支える食事番は中学生。普通の家庭に生まれていれば、今ごろはもっと平坦で安穏とした生活を送れていたはずだ。それが幸せなのかはさて置いて。
千影も、そして咲耶も、子供のままでいることを許されなかった。周囲の大人たちを頼れなかった以上、自分たちが大人に近づく必要があった。
「――きみは、ゆっくり大人になればいい」
そう呟き、くるりと踵を返した。
あつあつの土鍋を掴んで持って行くと、スリッパの足音で亞里亞がぴょこんと飛び起きてリモコンでテレビを切った。取り繕うように手櫛で髪をなでる姿に思わず頬が緩む。
「さ、お昼だよ」
亞里亞の対面に座り、土鍋の蓋をかぱっと開く。溜まっていた水蒸気がひとかたまりになって飛び出して行くが、天井へ辿りつく前に文字通り霧と消えた。二人で過ごすのに、このダイニングはあまりに広くて大きい。並べておいた茶碗とレンゲは、まるでおままごとのおもちゃのよう。
「亞里亞、おなかぺこぺこー」
「まだ熱いからね。慌てると火傷するよ」
取り分けたのを受け取り、揃って「いただきます」と合掌する亞里亞。レンゲの先端でお粥を混ぜていたが、やがて困惑の表情で千影にこう告げた。
「姉やぁ。これ、真っ白です」
言葉の意味を図りかねて眉を顰める千影だったが、ふとあることに思い当たった。
「もしかして、白いお粥を食べるのは初めて?」
「フランスにいたときは、トマトが入った赤いのとか、キノコが入った茶色いのとか、チーズが入った黄色いのを食べてたの」
「なるほど、リゾットか」
フランスなのにイタリア料理とは奇怪な。そう思わなくもなかったが、アリアがイタリア語源であることを考えるとそう不思議でもないような気がしてきた。
「大丈夫だよ。これはそういう食べ物なんだ。ほら、見ててごらん」
そう言うと、レンゲで一匙すくって口に運び入れた。昆布だしに薄く塩の効いたオーソドックスな味が広がる。半信半疑といった態の亞里亞はお粥をほんのちょっぴりすくい取り、毒見でもするように舌先へ乗せるが、顰めた顔をぷるぷると振って拒否のサインを出す。千影は苦笑いし、小さく肩を竦めた。
「それは困ったね。お粥が物足りないときには梅干しと相場が決まっているんだが」
妹の偏食を知りながら梅干しを山と積んだ小皿をついっと押し出す千影だったが、亞里亞は案の定、怯えたようにいやいやをしてみせる。
「亞里亞、ウメボシ嫌いです。だって、イチゴみたいに赤くて大きいのに、とっても酸っぱくって舌の上がちりちりってするの」
「ああ、それはそのまま食べるからだよ。お粥の中に混ぜ混ぜしたら、そんなには酸っぱくない。……そうだな、オレンジぐらいの酸っぱさかな」
「姉や、それホント?」
具体的な名前を出された亞里亞が過敏に反応する。千影はふふっと微笑み、論は証拠とばかりに茶碗の中へ梅干しを混ぜ込む。そして、おもむろにずるずると掻き込んだ。程よい酸味がこの上なくうまかった。
梅干し粥に熱中する姉と梅干しとを交互に見比べていた亞里亞だったが、やがて意を決したように赤い固まりを茶碗に落とし入れた。千影は手を止め、妹の様子を茶碗越しにじっと見つめる。
亞里亞は最初、ひどく難しい表情で梅干しをつついていたが、ふと何かをひらめいたようにパッと顔をほころばせると、猛然とレンゲを動かした。それはまるで、練乳掛けのイチゴを潰すように。あまりに勢いが激しいので食卓ががたがたと揺れ、陶器同士の擦れ合う音がやかましい。春歌がいなくて何よりだった。
程なくしてできあがったピンク色の粥を前に、亞里亞は満足そうな笑みを浮かべる。他方、先の読めない千影は無関心を装うのに必死だった。亞里亞の突拍子のなさは誰であっても予想がつかない。「ご自慢の占いでどうにかしなさいよ」とは咲耶の台詞だが、そんなに便利なものだったら今ごろは兄と新婚生活が送れているに違いない。
亞里亞はささげ持った茶碗ごと、くうっと一気にあおった。千影の手からぽろりとレンゲが落ちる。いくら何でもそれだけはないと決めつけていただけに、千影の衝撃も大きい。
平たく言ってはしたない。平たくなくてもはしたない。しかし、今まさに嫌いな食べ物を克服した歴史的な瞬間に立ち会っているのだ。この際、お行儀の悪さには目をつぶるべきだろうか。
さんざん迷った挙句に千影が紡ぎ出した言葉は、
「おかわり、いる?」
亞里亞は無言で茶碗を差し出した。
その後、二人は先を争うようにおかわりを繰り返し、土鍋はきれいさっぱり片付いた。梅干しが盛られていた小皿には今や種しかない。食べも食べたり、である。下手をすると一ヶ月分は食べたかもしれない。
「たくさん食べたね」
「亞里亞、もうおなかいっぱいです」
「そうか。じゃあ、リンゴは三時のおやつだな」
亞里亞は梅干しの種を口の中でからころさせながら頷く。
「兄くんもきっと喜んでくれるだろう」
と、千影はティッシュペーパーを手渡した。亞里亞はすかさず、ぺっと種を吐き出す。千影の眉が小さく痙攣した。
「……誰に教わったんだい?」
「えっと、衛ちゃんと花穂ちゃん。おにぎりに入ってたので、どっちが遠くに飛ばせるかって競争してたの。あ、でも、亞里亞はまねしたらダメだって言ってました」
「その通りだね」
千影は深々とため息をついた。
「……それを見たら兄くんは悲しむな」
きょとんとした表情で見上げる亞里亞をよそに、千影は片付けを始めた。そして、手を動かしながら首を振る。二人には悪いが、春歌くんの犠牲になってもらうより他にないな。そう考えながら。
薬を飲んでソファーに腰を下ろすと全身に倦怠感がやってくる。とはいっても、心地よいだるさだ。
「姉や、これからどうするの?」
青いワンピースに着替えた亞里亞が、機嫌をうかがうように上体を傾げながら近づいてくる。後ろ手に本を隠し持っているのに気づき、千影は大きくかぶりを振った。
「姉やは風邪引きさんなんだ。いっしょにいると、亞里亞くんにもうつってしまう」
亞里亞は口をへの字に曲げて露骨に不満を表す。
「でも、今の姉やはくしゅんくしゅんしてないし、咳がこんこんしてないし、お鼻もむずむずしてないの」
「熱があるかもしれないよ」
かわいらしいうなり声で威嚇する亞里亞。だが、そこで簡単に引き下がるほど甘くはない。
「じゃあ、亞里亞が計ってあげます」
千影はふくれっ面の亞里亞をじっと見つめていたが、やがて小さくバンザイをした。
「――わかった。その代わり、私に熱があったらひとりで遊んで……いや、先に宿題をするんだ。いいね?」
宿題という言葉に唇を尖らせる亞里亞だが、姉の言いつけには逆らえない。こっくりと頷いた。
「言っておくけど、ズルはダメだよ。計るときはちゃんと正確に、耳や口の中で――」
「耳と、口ね」
歌うように囁いた亞里亞は、そよ風を思わせるしなやかさで千影の隣に跪き、首に両手を回した。
千影が耳たぶにむず痒いものを感じたのはその直後だった。羽虫が止まっているのかと払った手に、亞里亞の髪が掛かった。
視線だけを動かして恐る恐るに見たものは、千影の耳たぶを口に含む亞里亞の姿だった。
「なっ、何を……!」
慌てて引き剥がす千影に亞里亞が怪訝な色を見せる。
「だって、耳をお口の中で計るんでしょ?」
「違う違う。そうじゃなくて、口の中に入れて――」
「だから、お口の中よね?」
亞里亞の微笑みが目の前に迫ったかと思うと、唇にやわらかいものが押し当てられた。自分の唇が奪われていると気づいたのは、それからきっかり五秒も後のことだった。たちまちに顔が熱くなる。
赤く染まる視界に、梅の香りがほんのりと甘酸っぱい。ファーストキスはレモンの味だとかミルキーはママの味だとか、そんな言葉がぐるぐると頭を駆け巡るうちに千影はばったりとあお向けに倒れた。
失神した姉をじっと見下ろす亞里亞だったが、やがて何事もなかったように毛布を被せると、自らもその中に潜り込んでぴったりと寄り添った。
窓の外には、仕留めたハトを前に、ひたすら千影の姿を待つ彼の姿があった。
Fin.