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千影は思い切りあくびをした。
あくびをしてから人の目があるということを思い出し、素早く視線を走らせる。
大丈夫、誰も見ていなかった。
思わず漏れ出た安堵のため息は、かたたん、かたたん、という単調なリズムに掻き消される。
定期的に吹き付けるクーラーの風といい、車窓を流れる風景といい、ローカル線の車内は何もかもが一定のリズムに支配されていた。
千影は目元を擦り、気だるさに誘われるままアルミの窓枠へ寄り掛かった。金属の冷たさに一瞬ハッとするが、覚醒するまでには至らない。
それにしても、レールを走る音というものはどうしてこんなにも眠気を誘うのだろう。登下校中のバスやトラムの車中でも眠くなるが、ここまでひどくはならない。
やはり、規則正しい振動がとりわけ大きく作用しているのだろうか。例えば、そう――母親の胸の鼓動。抱かれた心地よさは今でもよく覚えている。亞里亞が何かにつけて抱きついてくるのも、何となくわかるというものだ。
これに子守唄が加われば言うことはないのだが、聞こえてくるのは老婆らがけたけたと笑う声。雰囲気へ浸るにはいささか興醒めな上、背もたれがひどく硬い。母がやわらかな人だっただけに、これは大きなマイナスだ。
それにしても、と千影はかぶりを振った。自分のママっ子ぶりには我ながら呆れてしまう。何かにつけて母を連想してしまうのだから、咲耶に揶揄されるまでもない。
しかし、想いを寄せるのにはそれだけの理由があるのだ。
今にもくっついてしまいそうな瞼をこじ開け、千影はボックスシートの対面に座る妹を見た。
今日の亞里亞はピンク色だった。
着ているのは、可憐のお下がりのワンピース。フランスから送られてきたサマードレスはいかにも暑苦しそうだったので、雛子に渡されるはずのものを横取りする形で着させている。姉としては何とも肩身が狭いのだが、昔からの趣味でタンスの中はほとんど黒一色という有様。「姉やの色がいい」と言われても、こんな暑い盛りに着せていい色ではない。
最初のうちは生地の薄さやパニエを穿かないシンプルさに戸惑っていた亞里亞だが、ややもするとその快適さがすっかり気に入ったようで、今では毎日のように袖を通している。これもまた、姉としては心中複雑だ。
そんな心も知らず、流れ行く水田の緑をながめながら、床に少し足りない足を前後に揺さぶる亞里亞。編み上げのサンダルのつま先がビニールの床に擦れ、きゅっきゅっと規則正しく鳴っている。
その音に眠気がぶり返し、千影の口がひとりでに大きく開いた。
「姉や、またあくび」
指摘してくすくすと笑う声もまた眠たげだった。千影は咄嗟に、苦笑いの形へ顔を作り変える。
「いや、これは……顔の体操だよ」
「ううん、あくび。だって、ほら」
と、亞里亞は両手を突き出した。
「亞里亞、ちゃんと数えてたの」
その言葉通り、亞里亞の指は内側に折り曲げられていた。片方は既に握りこぶしになっていて、もう片方は小指だけがちょこんと立っている。
「どうも、気が緩み過ぎているらしいね」
「姉やぁ、おねむ?」
「きみは眠くならないのかい?」
亞里亞は小首を傾げ、天井に目を這わせた。
「亞里亞は……うん、まだ眠くなったらダメなの」
「まだ? 変わった言い方をするね、亞里亞くんも」
「姉やも眠くなったらダメ。亞里亞といっしょに起きてるの」
妹のわがままに対し、千影は鷹揚に頷いてみせる。
「だが、そろそろ退屈してきたんじゃないかな。何せ、窓の外はずっと同じ風景だ」
千影が窓に目を向けると、亞里亞もそれを真似して頭を曲げた。
外は山の緑が延々と続いている。数駅前までは見渡す限りの水田の中を走っていたのだが、今は緑の急斜面が車窓にほど近い。変化しているといってもずっと緑のままなのだから、見て面白いとはお世辞にも言い難い。春歌や鞠絵ならまだしも、だ。
しかし亞里亞は飽きる様子も見せず、流れる景色をひたすら目で追っている。口元をほころばせながら、小さな足をふりふり。
「楽しそうだね」
千影は思わず声を掛けていた。
呼び止められた亞里亞は向き直り、きょとんとした表情を浮かべた。
「姉やは、楽しくないの?」
そう問われて思い浮かんだのは、こうしてローカル線に乗っている理由だ。
「どうかな、よくわからない」
「亞里亞といっしょが、楽しくないの?」
亞里亞の足がぴたっと止まり、両手が太ももの上で組み合わせられる。手が小刻みに震えているのは、何も電車の振動だけが原因ではない。
「いや、そういう意味ではなくて、これから行く先のことだよ」
千影は懸命に否定した。
「初めて会う人でね、私もちょっと不安なんだ。むしろ、きみがいっしょに来てくれるのはとても心強い」
「ホントに?」
「本当だとも」
力強く肯定すると、亞里亞の足が再び振れ始めた。よっぽど嬉しいらしく、今度はハミングが加わっている。
「その先生さん、やさしい人だったらいいのにね」
千影は返事の代わりにくつくつと喉を鳴らした。
ひとしきり笑うと、
「本当に、心からそう思うよ」
自分にも聞こえぬほどの小声で呟き、懐から一枚の葉書を取り出した。
表書きは暑中見舞いで宛先は義父、裏は絡み合った二対の骸骨が荒々しくも精巧に描かれてある。大きく開かれた口の中には筆跡も露わに黒い闇が渦巻き、歪なパースでこちらに伸ばされた腕は何かを鷲掴む直前で止まっている。
この手のものに見慣れたはずの千影でさえも、最初見たときはあまりの迫力に思わず鳥肌が立った。雛子や花穂に至っては泣き出してしまうほど。
こんな代物が果たして本当に暑中見舞いなのか疑わしいところだが、義父の言葉を借りれば「実に先生らしい、素晴らしい絵」だそうだ。
今日これから訪ねるのは、義父が駆け出しの画家として活躍していた頃の師匠であり、偏屈で人間嫌いの義父がほとんど唯一敬愛している人物だ。
にも関わらず千影が名代として赴くのは、他ならぬ義父がそれを望んだからだ。
千影には最早、彼の願いを聞き届ける義務も理由もなかったし、何を言われても断るつもりでいた。しかし、手渡そうと差し出された葉書が小刻みに震えていたのを見て態度を翻した。
アルコール臭のしない義父は、本当に久しぶりだったからだ。
飲めば頭が回らず、飲まねば手が動かない。
そんな不甲斐ない姿に縁を切ったはずが、結局はこうして情けを掛けてしまう。それはやはり、幼い時分にパパと呼んでいたせいなのだろう。
差出人欄に記された住所までは、トラムとJRとローカル線とバスとを乗り継いでのちょっとした旅行。相手が相手ということもあって亞里亞は置いていくつもりだったが、葉書を前に必死で涙をこらえる姿を見せつけられては嫌と言えるはずもなかった。ただし、同行に際しては「姉やの言うことをちゃんと聞くように」と約束をしたのだが。
車内を満たす物音に新たな旋律が増えたと思ったら、亞里亞の踵が座席の下を叩いていた。
「亞里亞くん」
呼んでから亞里亞の足を注視すると、たちまちぴたりと止まった。
「とても怖い先生らしいから、礼儀正しくしていないと怒られてしまうよ」
「先生さん、じいやよりもこわい?」
「さあ、それはどうかな。でも、足をぶらぶらするのはよくないね。学校の先生に言われなかったかい?」
容赦のない指摘を受け、亞里亞の背筋がピンと伸びた。その表情は真剣そのもの。どうやら、千影の言葉に心当たりがあるらしい。
「そうそう。それが、立派な淑女になるための第一歩だよ」
千影はそう言いながら、お手本となるべく居住まいを正した。しかし、亞里亞はたまらず唇を尖らせる。
「そんなこと言う姉や、亞里亞はキライ。だって、じいやと同じこと言ってるもの」
「口うるさいママは嫌いかい?」
「ママンはうるさくなかったもん。ママンはママンで、じいやはじいや。全然違うのよ」
「そうか、それは仕方ないね……」
無碍にされた彼女の心境を思うと、もはや生返事しか出てこなかった。
列車は緩やかなカーブに差し掛かり、身体が外側に引っ張られる。千影は両手を膝の上に置き、亞里亞は片手を窓べりに這わせて、それぞれ傾斜に抗う。
車体が元に戻っても、二人はにらめっこのように動かない。レールを走る単調なリズムだけが姉妹の間に流れる。
しかし、ややもすると亞里亞が船を漕ぎ始める。千影が見ていることもあって目を擦り擦り抵抗する亞里亞だが、睡魔はそれ以上に強そうだ。かわいらしい唇がもにょもにょと動いているのは、あくびを我慢しているせいだろうか。
見るとはなしに見ているうちに、ちょっとした悪戯心が湧き上がる。
千影はこみ上げる笑いを押し殺しながら、口元に手を当ててぱたぱたとそよいだ。すると、つられるように動いた亞里亞の手が口を覆い、とびきり大きなあくびがそれに続いた。
「亞里亞くんのあくび、一回目」
わざと意地悪く響かせた声に、亞里亞がハッと我に返った。
「どうやら、亞里亞くんもおねむのようだね」
亞里亞の顔がみるみるうちに赤く染まる。
「膝枕が必要なら貸してあげるよ」
「ち、違うの。今のは姉やが――」
「だが、少しでも眠気があるなら、ここで寝ておいたほうがいい。作品を前にしてのあくびは侮辱に当たる。粗相のないようにしなくてはね」
適当に言い訳した割にはなかなか説得力がある。千影は壁に身を預け、今度は遠慮なしにあくびした。クーラーで適度に冷やされた合板がブラウス越しに気持ちいい。
「さ、遠慮することはない」
「もうっ、姉やのイジワル」
「早くしないと、先に寝てしまうよ」
目を閉じてもう一度あくびすると、眠気がぐんと増した。あと十秒もすれば完全に眠りの世界へ落ちるだろう。降りるのは終点なので、その点では気兼ねなく居眠りできる。
しかし、元よりそのつもりはなかった。
たん、と軽く床を叩く音に薄目を開けると、淡いピンク色がちらちらと動いていた。その直後、クッションが波打って、太ももの上にみっしりと重みがのしかかる。だが、頭にしては妙に重い。
目を開けて見ると、すぐ目の前に亞里亞の瞳があった。
「私は膝枕を貸してあげるつもりだったんだが」
膝の上に座った亞里亞は、わずかに頬のふくらんだ顔をぶんぶんと左右に振る。その目元に小さく光るものがあった。ちょっとやり過ぎたかもしれない。
「あくびはよくないが、泣き顔はもっとよくないね」
そう言ってハンカチを取り出す千影だが、いざ涙を拭こうという段になって亞里亞がぷいっと顔を背ける。反対から手を回しても同じだった。いつもなら我から顔を差し出し、違う意味で困らせてくれるというのに。
しかし、千影が困るのはまさにこういう場面だった。無言で拗ねられては手の出しようがない。
握ったままのハンカチをどうしたものか。迷っていると突然、身体ががくんと前にのめった。ただ腰掛けただけの亞里亞が大きくバランスを崩す。
「あっ……!」
「亞里亞くん!」
伸ばした腕がかろうじて間に合った。亞里亞からも手が伸び、期せずして抱き合う形になった。
そんな二人の外を、駅のホームがのろのろと流れている。コンクリの狭いホームは錆の浮いた鉄柵で囲われていて、少し先にはトタン貼りの待合室が見える。
風景は次第に遅くなり、車体を何度も痙攣させながら止まった。
「まったく、乱暴な運転じゃないか」
「ここ、どこ?」
抱き合ったままで亞里亞が頭を巡らせ、前髪が顎の先をくすぐる。
「私を見てもわからないよ。外を見なければ」
「うん」
そう返事はするものの、亞里亞の声は千影に向けられたまま。
千影はちょっと躊躇うと、亞里亞の頭に手を掛けてくいっと外に向けた。意外にも抵抗はなかった。
一緒に覗き見た外の世界は、日本の山あいそのものといった光景だ。駅を設置するだけあって山は少し後退しているが、それでもなお緑の壁のごとくそそり立っている。尾根と尾根の間に送電線が見えた。
窓の外をおもむろに車掌が行き過ぎる。女子高生の差し出した定期券に頷き返し、帽子を直した。他に降りる人はいない。そして、律儀に全開したドアから流れ込むのは今年一番の熱気だ。クーラーの冷気をかき消し、千影の顔をじんわりとねぶる。
「姉や、どこ?」
「ここからだと看板が見えないね。発車してくれないことには」
程なくして列車が再び動き出した。鼻掛かった車掌の声が次の停車駅をアナウンスする。亞里亞がぱちぱちと瞬きしながら、小声で駅名を繰り返した。
「あと三分の一というところかな。小一時間も掛からないと思うが」
言い終えるかしないうちに、亞里亞が無言で膝を下りる。亞里亞の温もりと入れ替えに冷風が吹き付ける。
「どうかしたかい?」
「ううん、何でもないの」
そうは言うものの、座ったと思ったら伸びをして向こうを見る仕草をしたりと妙にせわしない。
「トイレなら反対側だが」
「うん」
しかし、亞里亞の目線は千影の頭の上で固定されたままだ。遮るように腰を浮かせると、亞里亞もまた背伸びしてなおも向こうを見ようとする。他の妹たちならいざ知らず、あまり亞里亞らしくない振舞いだ。千影は思わず首を傾げた。
「誰か、知ってる人でもいたのかい?」
果たして亞里亞は、不自然に顔を強張らせて「ううん」と答える。
「そうか。しかし、気になるね」
「あ、待って――」
千影は亞里亞を振り切るように立ち上がり、振り返ってぐるりと車内を見渡した。
平日にも関わらず人影はまばらで、座席は半分ほどが空いている。
皆どういうわけかこちらに背中を向けているが、背もたれからはみ出た頭を見れば大体わかる。つやつやと光る髪は免許を持たない中高生だろうし、白髪は老人だ。皆、この路線を足代わりにしている人々だ。
そんな中で、網棚に大小一対のリュックが見えるのは夏休みならではといった光景だろうか。こちらは栗色の髪が見えている。
他にも車両の一番奥、ドア付近にもそれらしい姿が見える。壁に寄り掛かったタンクトップの少女はスケッチブックを小脇に抱えているし、その連れと思しき紺色のサマードレスを着た少女は、腰掛けた膝の上に大きなバスケットを乗せている。二人仲良く麦わら帽子を被って顔は見えないが、二人の距離を考えると友人より近しい関係かもしれない。
「もしやとは思ったが……」
四葉あたりが後をつけて来たのかと思ったら、そうでもなさそうだ。それに、四葉にバレない尾行を求めることは、ミカエルに猫の鳴き真似を仕込むようなものだ。そもそもが不可能に近い。
なおも未練がましく見回す千影の袖が不意に引っ張られる。
「ね、姉や……」
向き直ると、千影の前に立ち尽くす亞里亞の姿があった。
「あの、亞里亞ね」
亞里亞の目線はふらふらとあちこちに飛び、内股の膝と膝をしきりにすり合わせている。
「あ、亞里亞ね……お……お……」
「お……トイレ?」
「ううん、そうじゃなくて」
「一体どうしたんだい? さっきから様子が変じゃないか」
何でも言ってごらん、と続けて促すと、亞里亞はようやく決心がついたのか、一度こくんと首を振って千影を見上げた。
「亞里亞、お、お腹空いた! ……の」
「それだけ……かい?」
問い返す千影は困惑を隠そうともしない。それもそうだ。亞里亞の顔は真っ赤で、肩で大きく息をしている。あの一言の何をそんなに必死で言う必要があったのだろう。
「まあ、お弁当はあるにはあるんだが……」
ポケットから取り出した懐中時計はお昼前を指していた。ついでにさすった腹時計も少し早い感じがする。
「今朝はいつもより遅かったと思うが、もう我慢できないのかい?」
「う、うん! 亞里亞、もうお腹ぺこぺこなの」
と、亞里亞はお腹を押さえてアピールする。
「そうは言うが、私としては落ち着いた場所で食べたいね。例えば、終点の待合室とか」
「でも……」
「我慢できるね?」
顔を突き出すと、その分だけ亞里亞が下がる。
たかがお昼ぐらいでと思わなくもないが、先ほどからの不自然な態度がどうも気になる。一つや二つならともかく、立て続けに見せられてはなおさらだ。
「あの……でもね、待合室はダメ……なの」
今度は棒読みだ。ふと見ると、軽く爪先立ちして完全に顎が浮いている。
「えっと……乗らなきゃいけない、バス、は、すぐに出ちゃうから……だから、待合室は、ぜんぜんのダメダメで、バスの中は、こっちの都合が……」
「亞里亞くん……?」
訝しむ千影をよそに、亞里亞はきょとんと小首を傾げた。そして、足元を確かめるように横へ一歩踏み出し、おもむろに足元のトートバッグへ手を突っ込んだ。
「ほら、これ」
千影の鼻先に突きつけられたのは、鈴凛が勝手に作ってくれたお手製の旅のしおりだった。とはいっても、四つ折のわら半紙がその正体なのだが。外見こそは貧弱だが、出発に合わせて乗り継ぎの時刻を網羅した優れ物だ。運賃もしっかり書き込まれてあるのはいかにも鈴凛らしい。
問題の箇所は赤い丸で囲ってあったのですぐにわかった。見ると、確かにここだけ余裕がない。駅の構造にもよるが、亞里亞の足を考えると3分の乗り継ぎは少々厳しい。お昼どころか、着いた途端に走らねば間に合わないだろう。
「確かにきみの言う通りだが」
「ね? だから」
「しかし、どうしてもここで食べないといけないものかな。別にバスを一本遅らせてもいい。何時に着くとは知らせてないからね」
千影は極度のマイペース人間だ。今でこそ亞里亞の目もあって歯止めが掛かっているが、以前は平日でもお構いなしに寝坊したものだ。常に一人で過ごしていたので、誰かと待ち合わせるというシチュエーションもない。出掛ければ気の向くままに動き回り、飽きたら家に帰る。今回も行き当たりばったりのつもりで、時刻表の類には一切目を通していなかったのだ。
「でも、あんまり遅れたら先生さん、きっと怒っちゃうって思うの」
「それはまあ、その通りだが」
「だから、ね?」
「しかし、それを言うならバスの中で食べるのも大して変わりはない。姉やはそう思うんだが」
『姉や』という単語をことさらに強調した千影は、亞里亞の目をじっと覗き込む。ひくっと肩を震わせ、亞里亞はあからさまに動揺の色を見せた。
やはり何かが引っ掛かる。棒読みもさることながら、亞里亞にしては機転が利き過ぎている。
千影はもう一度背後を振り返り見た。スケッチブックの女性の姿が見えない以外、後は何も変わりない。
向き直った千影は覆いかぶさるように腰を曲げ、亞里亞の頬を両手で挟む。手元に引き寄せようとするが、なぜか足を踏ん張ってその場所から動こうとしない。千影はそのままの位置で、亞里亞の身体をまさぐり始めた。
「ね、姉やっ?」
「いや、マイクや隠しカメラが付けられてないかと思ってね」
そういえば、無関係のはずの鈴凛がどうして自ら時刻表を調べてくれたのだろう。意外におせっかい焼きなところのある彼女だが、お金にはシビアという面も忘れてはならない。要するに、鈴凛の行動にはそれなりの理由があって然るべきなのだが――
「……気のせいか」
さすがに考え過ぎだったらしい。そんな千影を、不安そうな面持ちで亞里亞が見つめている。
「姉や? どうしてそんなに、電車の中で食べるのがイヤなの?」
「嫌というより、お行儀がよくない。他に乗っている人たちの迷惑になってしまう」
「うん……」
亞里亞は口ごもり、目を床に落とす。
ようやく納得してくれたのかと思ったら、おもむろにこんなことを言いだした。
「じゃあ、電車の駅でお弁当を売ってるのはどうして? バスは売ってないのに」
もっともな意見に、千影は一瞬言葉を詰まらせた。
「いや、それは……多分、その、きっとお土産だ」
「ううん、違うの。だって、ほら」
と、亞里亞が千影の背後を指差す。その先には、こちらに背を向けたままで折り詰めを掻き込むタンクトップの女性がいた。座席は十分に空いているのに、こちらへ見せつけるかのごとく立食いしている。
「ほら。だから、電車の中で食べてもいいの」
「しかし、あれは車内で食べるためのお弁当であって――」
「じゃあ、白雪ちゃんが作ったお弁当は、お弁当じゃないの? そんなの、白雪ちゃんがかわいそう……くすん」
くすんくすんくすん。
千影がなだめる間もなく、亞里亞がぽろぽろと涙をこぼす。
すすり泣きはたちまち車内に広がり、空気を非難一色に染め替えた。うなじに視線が突き刺さり、ぴりぴりと痛む。
「い、いや、そんなことはない。白雪くんのは立派なお弁当だから、どこでも大丈夫だ。うん、間違いない」
しどろもどろで言い訳しながら、千影は亞里亞を隣に座らせる。ハンカチで涙を拭いてやりつつ、トートバッグから小さなバスケットを取り出した。今は亞里亞のご機嫌取りが最優先だ。相変わらずの自分の甘さにはため息が出る思いだが、公共の場では理詰めで地道に説き伏せることもままならない。世の母親たちの苦労が少しは理解できた気がする。
バスケットを開いた途端、横合いから亞里亞の手が割り込んだ。
「こら。手を綺麗にしてからでないと駄目じゃないか」
軽く手を叩くと、すっかり甘え切った声が返ってくる。
「だってぇ……」
横目で見た顔には、確かに微笑みが浮かんでいた。おしぼりを手渡しながら千影は内心で苦笑する。
「まったく、お行儀がよくないね。それとも、そんなにお腹が空いていたのかい?」
「ううん、そんなにお腹は空いてないけど――」
「けど?」
「けど、ひみつ」
くすくすと笑いながらおしぼりを畳み、亞里亞はアルミホイルの包みに手を伸ばす。
「私にも秘密とは気になるね。姉やに言えないことなのかな?」
「うん、姉やにだけは絶対にひみつなの」
中から出てきたのは、やたらと大きなホットサンドだった。切り分けられておらず、食パンのサイズそのままだ。よほどに具を詰め込んだのか、四隅を閉じたその真ん中はアダムスキー形のUFOを思わせるほどに膨らんでいる。
「白雪くんらしいね。豪快というか何と言うか。……ふむ、さてはこの中身が秘密とか」
「それもひみつ」
ちょっとおすまし風に言いながら取ったそれを、両手でしっかりと持つ亞里亞。期待の篭った眼差しで千影を見上げるのは、同時にパクつこうという魂胆なのだろう。
千影はふっと小さく笑ってから一つ手に取る。ちらっと隣を見ると、もう待ち切れないらしい亞里亞が足を前後に揺らせていた。
「では、白雪くんに感謝しながら」
いただきます、と二人は同時にかぶりついた。
一口、二口、三口。もごもごと全く同じタイミングで噛む。
噛むたびにしゃきしゃきしているのはタマネギで、ぱらっと崩れたのはゆで卵の黄身。今のところは至ってオーソドックスだ。
咀嚼を続けながら何が秘密なのだろうと訝しんだその時、姉妹は同時に顔を見合わせた。二人とも眉間に皺を寄せている。
「な、何だこのしょっぱさは」
「くすん……」
噛まずに飲み込み、姉妹はそれぞれに率直な感想を漏らした。
あまりの塩辛さに口の中がぼんやりとしている。塩辛いにも色々と種類はあるが、これは今までに食べた中でも特に愛想の悪い。何というか、味が平板過ぎる。味噌や漬物のように旨みがあれば、多少は塩分多めでもおいしく食べられるのだが。
「一体何を入れたんだ、白雪くんは」
歯型で切り取られたホットサンドからは分厚くスライスされたピンク色の物体が見えた。ハムかとも思ったが、それにしては食感が弱い。コンビーフでもない。ということは――
「まさかこれは」
確認のために千影はもう一口だけ食べた。噛めば噛むほどに広がる平坦な味。悪い意味で、一度食べたら忘れられない味。
これはスパムだ。間違いない。
「それにしても、どうしてこんなものを白雪くんが……?」
白雪はスパムが大嫌いのはずだ。白雪に限らず、普通の味覚を持つ者なら普通に敬遠する代物だが、料理に飛び抜けた才能を持つ彼女は飛び抜けてスパムを嫌っている。
白雪は以前、四葉に騙される形でスパムを食べたことがある。その時の騒動は今でもちょっとした語り草になっていて、「こんなにかわいくない食べ物、見たことないですの!」という名言も生まれたほどだ。
その後はお決まりの言い争いから缶詰の投げ合い合戦まで発展したのだが、それでなくても白雪と四葉の間には何かとトラブルが発生しやすい。何を食べても「おいしいデス!」とかしか言わない味覚音痴は白雪のプライドを傷つけるのに十分過ぎる上、何より揃って頑固者だ。いつだったかは、ミルクティーの淹れ方でとんだとばっちりを受けたこともあった。それに亞里亞の傍若無人な振る舞いが加わり、思い出すだに今でもやり切れない気持ちで胸がいっぱいになる。
「見た目はこんなに平らなのにね……」
自嘲めいた呟きがふと口をつき、千影は慌ててかぶりを振った。
自分の身体はさておき、これは明らかに異常事態だ。
四葉がイタズラをしたのか、白雪の味覚が狂ったのか。二人が結託したとも考えられるが、理由がまるで思いつかない。
「姉や……」
ぐずぐずと湿った声で我に返ると、亞里亞がブラウスの袖を引いていた。
「亞里亞、のどかわいちゃったの」
くすん、と一度しゃくりあげた亞里亞は、縋りつくようにぴたりと密着する。言われて、自分の喉がひりひりと焼け付いていることに気づいた。
「ああ、そういうことなら」
バスケットを漁った中からは、タオルに包まれたペットボトルが出てきた。中身は透き通った琥珀色。露出した表面には水滴がびっしりと浮かび、揺すると氷の動く手ごたえがある。
「ちょっと待って。中を確かめる」
今に限っては麺つゆというオチも考えられる。
亞里亞がこくんと首を振るのを確認し、とりあえず一口あおった。ゆっくり飲み下すと口いっぱいにベルガモットの香りが広がり、遅れてほのかな甘みがじんわりとやってくる。冷たさと相まって、渇いた喉に気持ちよく染み渡る。それでもまだ、無粋な塩っ気は消えないのだが。
「ふむ、これはいいアールグレイだね。ガムシロップも入って甘い。凍らせるのは少し外道かもしれないが、その分だけ冷たくておいしいよ」
「ほんとう?」
頷き返した千影は、食べかけのホットサンドと入れ替えにペットボトルを握らせる。
「好きなだけ飲んでいい。私は残ったのをもらうから」
大きく微笑みかける亞里亞だったが、その顔にふっと不安の色がよぎる。
「でも……姉やも、のどかわいてない?」
「大丈夫だよ。さ、冷たいうちに」
なだめるように柔らかく言うと、亞里亞の頭がこっくりと上下した。
本音を言えばもっと飲みたい。しかし、今は亞里亞の事情が最優先。年上はいつだって年下を庇うものだ。面倒だと思うこともままあるが、苦労の分だけ尊敬が返ってくるのだからそんなに不公平でもない。
しかし、一人でも持て余すことがあるのにそれが十二人となるとどうだろうか。
「兄の心、妹知らず……か」
兄の苦労ぶりを想像し、千影は思わず苦笑いした。
今日の彼は可憐といっしょに、鞠絵の通う病院へ付き添いとして出向いている。来週に予定している、泊りでの海水浴の許可を得るためだ。最近は発作を起こすようなこともなく順調そのもの。ほとんど当選確実なのだが、そこで手を抜かないのが兄の兄たる所以だ。
ちなみに今日のミカエルは留守番なので、鞠絵が診察を受けている間、可憐は兄をひとり占めできる。全くの役得といってもいい。
可憐は何を言って甘え掛かるのだろうか。とりとめのない想像を打ち破ったのは、鼻掛かった呼び声だった。
「姉やぁ……」
向き直ると、亞里亞はペットボトルを手にしたままでぐずついている。ちらっと見ると、中身は減っていないようだ。
「どうしたんだい?」
「これ、飲めないの」
亞里亞はそう言って、ペットボトルを千影に差し出した。
「飲めないって、それは普通のアイスティーだが」
「そうじゃなくて、コップ」
「コップ?」
オウム返しに、亞里亞がこくんと頷く。
「亞里亞、そんなお行儀の悪いことできないの。姉やみたいにごくごくって」
「確かに……」
生粋のお嬢さま育ちにとっては、注ぎ口から直接飲むことなど到底考えもつかないのだろう。缶から直接飲めるようになったのは最近のことだし、可能な限りはコップに注いでから口をつける。
千影は慌ててトートバッグの中を探すが、そんなに都合よくコップが紛れているはずもない。もちろん、バスケットにも。
「すまない、コップが見当たらないようだ」
肩を竦める千影に、亞里亞のいやいやが追い討ちを掛ける。
「亞里亞、のどかわいたの」
「全然我慢できないほどかい?」
左右に往復していた頭が今度は上下へ動いた。
「それは困ったな」
しかし、コップの代わりになるものは見当たらない。
合わせた両手を器に見立てて注ぎ込む、口を開けたまま上を向かせて流し込む、ボールペンの芯をストロー代わりにする、などなどあれこれ思いつきはするが、そのどれもがほとんど罰ゲーム同然だ。もっとも、四葉や鈴凛が相手なら躊躇わずにやるかもしれない。
「すまないが、今は直接飲むしかない」
機嫌を伺うように声を落とすが、それしきで態度を翻す亞里亞ではない。再びいやいやを始める妹に、ため息がこぼれ落ちた。
「どうしてもできないのかい? 今はその、非常事態だ。少しぐらいお行儀が悪くても」
「けど、じいやに叱られちゃう。マナーがなってませんって、三角おめめでいつも亞里亞のこと」
「私はじいやさんじゃないよ。それぐらいで叱ったりしないから」
「でも……」
心もち顔を伏せた亞里亞の顔は、どことなく恨めし気に見える。
「姉やはさっき、亞里亞のことお行儀がよくないって」
「それとこれとは話が違うよ」
「違わなくないもん。同じだもん。姉やはじいやと同じ……きっと、亞里亞のことが嫌いになったのね」
そしてまた、くすんくすん。
どうしたものかと千影が手をこまねく間に、車掌が次の停車駅を告げながら通り抜けて行く。見咎められはしなかったが、やはり心臓に良くない。
「では、姉やはどうすればいいんだい? 教えてくれないと、私もきみといっしょに泣いてしまうよ」
これはほとんど本音だった。金枝篇にもソロモンの鍵にも、甘えたがりの妹のあやし方は載っていない。
「じゃあ、姉やはじいやと同じことを、亞里亞にして」
「同じこと?」
亞里亞は涙を拭きながら小さく頷いた。
「じいやはね、亞里亞が病気でずっと寝てたときに、お口で水を飲ませてくれたの」
「お口って、いや、それはその、まさか……」
口の中が急に酸っぱくなった。嫌な予感しかしない。
そんな胸のうちを見透かしたように、亞里亞がくすっと笑った。
「うん、口うつし」
今までの泣きべそが嘘のような満面の笑み。
千影は自分の顔から血の気が引くのがわかった。
「そ、それは駄目だ。他の事なら何でもいいが、それだけは駄目だ」
墓穴を掘り進めたような気もするが、今さら埋め戻しはできない。
「どうして? おやすみのキスはよくて、お口のキスがダメなのはどうして?」
「それはその……前にも言ったと思うが、お口とお口のキスはとても大切なものなんだ。フランスはどうなのかわからないが、初めてのキスは好きな人にあげるものと日本では決まっていて――」
「姉やはやっぱり、亞里亞が嫌いなのね……」
途端に亞里亞がめそめそと鼻を鳴らす。
「いや、その、どうしてそうなる?」
「だって、姉やったらあのとき、急に寝ちゃったんだもん」
「あれはその、亞里亞くんが急に……してくるから」
立ち消えになる言葉と反対に、顔からは火が出そうになる。
それも当たり前のことだ。風邪引きで朦朧としていたとはいえ、どさくさ紛れにファーストキスを失ってしまったのだから。
千影の始めてを奪った張本人は、さも当然という顔でじっと千影を見上げている。
「姉やは亞里亞のこと、好き?」
「も、もちろん」
姉の即答に満足したのか、亞里亞の顔に再び笑みが浮かんだ。
「よかったぁ」
戸惑う千影を尻目に亞里亞が膝へよじのぼる。横向きに座ったと思うと、肩を抱かれるような格好で自ら千影の腕に納まった。
「じゃあ、姉やのお口で亞里亞にお水を飲ませてね」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「ダメ。だって亞里亞は、のどかわいちゃったの」
一方的にまくしたてると、亞里亞はくすくす笑いながらそっと目を閉じた。
合わせた両手を胸の間に置き、その姿はまるで眠り姫のよう。それを抱きかかえる自分は、さながら王子さまといったところか。
「そんな柄でもないのに……」
ひとり言に亞里亞が眉を顰め、慌てて「何でもない」と付け加えた。
今でこそ当たり前のように亞里亞を受け入れているが、かつての自分からは全く想像もつかない。
以前は誰も寄せ付けようとしなかった。自分の外見――赤い髪に青い瞳――が他人に与える印象は嫌というほど把握していたし、他人と付き合ったり仲良くする必然性も理由も、何一つとして感じなかった。
心を許せば許すほど、身を預ければ預けるほど、その人を失った時の痛みが激しいことをよく知っていたからだ。
列車が大きなカーブに差し掛かり、太陽がゆっくりと向きを変える。鋭く差し込んだ陽光が亞里亞の顔だけを照らした。
真夏の太陽の下では金髪も銀髪も白く輝き、幼い頃の記憶とほとんど変わりない。きらきらと輝く髪と、それらが生み出す幾筋もの細い影。
母はもうこの世にいないが、母を同じくする妹はこの腕の中にいる。
長いまつげに母の面影を見出し、千影は亞里亞を抱く手に力を込めた。最初の頃は膝の上に乗られるだけでも辛かったのに、今では抱き上げることも容易い。
「姉や、まだぁ?」
待ち切れなくなったのか、薄目を開けた亞里亞が身をよじりながら様子を窺う。
サファイア色をした瞳を見つめながら、千影はふと思う。母だったら、ここでどうするのだろうか。
いや、考えるまでもない。母ならきっと、仕方のない子ねと笑いながら願いを叶えてあげるのだろう。
そう確信すると、動揺もいくらか治まった。
「その代わり、一回だけだよ」
周囲を見回して誰も見ていないことを確認すると、ペットボトルを傾けアイスティーを一口含んだ。塩気と緊張とですっかり乾いた口に、アイスティーの冷たさがひどく沁みる。
少しずつぬるくなっていくのを感じながら、被さるようにして顔を近づける。千影の生み出す影が亞里亞の顔を黒く染め、やがて全てを覆い隠した。
亞里亞は何もかもがやわらかい。声も、性格も、もちろん身体も。
しかし、最もやわらかいのは唇だ。
触れ合う唇と唇は同じぐらいの熱さ。どこからが亞里亞で、どこまでが自分なのか。その判別さえも定かでないほどにやわらかく、亞里亞の唇は千影を受け入れた。
「んっ……」
こくん、こくんと鳴る喉がやけに大きく聞こえる。あっという間に口の中が空になった。
唇を離しざまに交わしたのは、安堵の吐息か未練のため息か。吐く息はすっかり冷たくなり、火照った頬を気持ちよくなでた。
いつの間にか絡んでいた腕を外して完全に身を起こすと、亞里亞の顔は再び陽光の中に沈む。
「これで、満足しただろう?」
緊張で千影の喉は渇き切り、飛び出たのはかすれた引き攣り声だ。自分の動揺ぶりを思い知らされ、羞恥心が頭をもたげる。
「ダメ、もう一回」
無情にも言い放つ亞里亞は、まぶしそうに目を細めている。
「一回だけって言ったはずだよ、私は」
「でも、亞里亞ののどはまだかわいてるの」
確かに、ペットボトルはまだまだ重い。これしきの水分で癒せるほどこの渇きは優しくない。
「だから姉や、もう一回して?」
「いや、しかし……」
亞里亞に胸元を掴まれながら、千影は口ごもる。
キスそのものよりも、こうして前例を与えてしまうことのほうが怖い。私生活の大部分を明け渡した上で、さらに身体を求められたのではさすがにたまったものではない。妹が相手だからといって、全てを捧げ尽くさねばならない道理はないはずだ。
もちろん、亞里亞はかわいい。ともすれば『怖い』だの『根暗』だのと言われがちな自分に、ここまで無防備に接してくれるのは亞里亞かミカエルぐらいなものだ。つい甘やかしてしまうのも当然の成り行きだ、と甘やかし過ぎをなじられる度に自分へ言い訳している千影だった。
「姉やぁ……ねぇ、もう一回だけ?」
「だから、一回だけの約束だと」
のらりくらりと逃げているうち、けたたましいブレーキ音がして列車の速度が緩まる。しばらくして完全に止まった窓の外は、一駅前とあまり変わり映えのしない光景だった。
車掌が駅名を告げ、続いて対向列車の通過待ちをアナウンスする。停車時間はおよそ五分。それを耳にした千影の脳裏に、ハッと閃くものがあった。
「すまないが、少し待っててくれ」
と、千影は亞里亞の縛めを引き剥がしに掛かる。
「どうしたの?」
「缶ジュースを買ってくる」
「どうして? 亞里亞はお口からでもいいのに」
亞里亞の眉が不機嫌そうに歪んだ。
「きみがよくても、姉やはよくないんだ」
千影はキッパリと言い放つ。
「それに、今の亞里亞くんは喉が渇いているのであって、口うつしだの何だのは関係がないはず……いや、関係がない。全く、全然、ちっとも、これっぽっちも関係ない」
そして亞里亞の目を覗き込み、さらに念を押した。
「それで合っているね、亞里亞くん」
「……はい」
ひどく聞き分けがいいのは、自分が必死の形相で迫っているせいに違いない。姉やが『怒ると怖い』ことは、亞里亞もよく見知っている。それでも亞里亞は、丸く膨らませた頬と尖らせた唇とで不満の色をあからさまにしているのだが。
そんな亞里亞の頭をなだめるように撫で、千影はすっくと立ち上がった。
ドアへ近づくほどに不快感が増す。外は猛烈な熱気で埋め尽くされ、陽炎が揺らめいている。
試しに頭だけを突っ込んでみるが、たちまちかあっと全身が熱くなった。乗り降りはあらかた済んだと見えて、屋根のない吹きさらしのホームに人影は全くない。車掌も中に引っ込んでいるようだ。
千影はもう一度左右を確認してホームに降り立った。
澱んで肌にまとわりつく熱気を掻き分けるように、小走りで無人の改札を通り抜ける。ほんの十数メートル進んだだけなのに、額には汗がびっしりと浮かぶ。列車はかなり山奥へ分け入ったはずだが、今年一番の暑さは伊達ではないらしい。
駅前もホームと同様に人影がなかった。食料品店がぽつんと一軒あるのみで、あとは自転車置き場のトタン屋根が並んでいる程度。自動販売機も回転が悪いと見えて、転がり出てきたオレンジジュースの缶は火傷しそうなほどによく冷えていた。
缶を額に押し当てながら、千影はふと考える。
亞里亞くんは、どうしてあんなにも私に触れたがるのだろう。
認めたくはないが、お世辞にもあまりいい姉とはいえない。
甘やかし足りないのだとしたら、咲耶や春歌に見咎められ責められる理由がわからないし、厳しく接した反動というわけでもない。怒るときはなるべく理詰めで、きちんと亞里亞に納得させた上で叱っている。その点は鈴凛が反面教師だ。
咲耶に劣るのは仕方ないとしても、本当の姉としてそれなりに頑張っているつもりなのだが。
「でも、どうして唇なんだ……?」
かすかに残る亞里亞の痕跡を指でなぞりながら、千影はぽつりと呟く。
風呂も寝床も共にして、裸体も寝顔も曝け出して、それでもなお、亞里亞が自分に求めているものは何だろう。
千影はかぶりを振りながらホームに足を向けた。考えたところで答えが出るわけもないし、どうしても知りたければ本人に直接聞くしかない。それにくよくよと考え過ぎだ。
車内へ足を踏み入れた途端に眩暈を覚え、ふらふらと壁に寄り掛かる。軽い熱射病だろうか。目の前が真っ暗だ。
何度も瞬きしながら息を整えるうち、徐々に明るさが戻ってくる。薄ぼんやりと曖昧な世界に浮かんでいるのは淡いピンク色だ。きっと、亞里亞のワンピースだろう。
「待たせたね、亞里亞く――」
向き直った千影は、思わず絶句した。
そこに座っていたのは亞里亞――いや、亞里亞とそっくりの少女だった。
自分と同じ、青い色をした目に、縦にゆるくロールした銀色の髪。そして、ピンクのワンピース。どこをどう見ても亞里亞だ。こんなに特徴的な風貌が他人の空似であるはずがない。
しかし、亞里亞ではなかった。
なぜならその少女は、両手で捧げ持ったペットボトルへ直に口をつけ、はしたなくもごくごくと音を立てているからだ。
呆然と立ち尽くす千影の姿にようやく少女が気づいたらしい。目を真ん丸く見開きながら、ペットボトルをゆっくりと下ろす。
「姉や……?」
ガラスのように繊細で細い声。間違いない、亞里亞の声だ。
だが、理性でそう結論付けても感情がそれを認めようとしない。
この子が本当に亞里亞だとすれば、嘘をついて自分を騙したことになる。そんなことはありえない。そこまでして口移しをせがむ理由がわからないし、何より、亞里亞が嘘をつくはずがない。
「姉や、どうしてそんなにこわいお顔してるの?」
しかし、聞けば聞くほどよく似た声だ。亞里亞であって亞里亞でないとすれば、さしずめドッペルゲンガーといったところか。自分以外の姿を取るなどとは聞いたこともないが、亞里亞が嘘をつくことに比べればよっぽど現実味がある。
千影は空いた手で胸元を探るが、手ごたえのなさに小さく呻いた。そういえば、ロザリオはトートバッグの中に放り込んだまま。何かにつけて亞里亞が抱きついてくるので、危なくて首から下げておけないのだ。
あと、手持ちで武器になるものといえば缶ジュースぐらいなもの。呪術的に何の役にも立たない。
ならば、徒手空拳でも立ち向かうしか。
千影は決意し、摺り足でじりっと一歩を踏み出した。
一歩、また一歩。近づくほどに、少女の顔が恐怖で歪んでいく。
対する千影の眉間もずきずきと痛み始める。瞼に力を込めねば押し負けてしまう。古今東西、視線には魔力が宿るものと云われているからだ。
少女の顔はいよいよ引き攣り、目には大粒の涙。なまじ亞里亞に似ているだけに少し心が痛む。彼女が魔物ならともかく、本物の亞里亞だとしたら――
ふと疑念に駆られたその刹那、
「姉や……姉やがおかしくなっちゃった!」
そう叫んで少女は滑り降り、一目散に奥へと駆け出した。千影は呆気に取られ、後ろ姿をただ見送るしかなかった。
と、その表情が急に引き締まる。例の二人組の少女らの様子がおかしい。駆け寄る亞里亞に対していち早く反応し、下向きにした手をひらひらと振っているではないか。あっちへ行けと追い返しているようだ。
しかし亞里亞はそれを手招きと勘違いしたらしく、迷うことなく二人組の懐へ飛び込んだ。二人はしゃがみ込んで亞里亞と目線を合わせたようだが、麦わら帽子は被ったままで、ここからでは何をしているのか見えない。
「あ、亞里亞くん。他人に迷惑を掛けては――」
言い差して、千影ははたと気づいた。
あの二人、露骨に怪しい。
普通の帽子ならともかく、かさばる麦わら帽を車内で脱がない道理はない。理由があるとすれば、こちらに顔を知られたくないからだ。
千影は一度頷き、のしのしと歩き出す。疑惑は確信に変わった。亞里亞があの少女らを気にしていたのも、不自然な喋りかたをしていたのも、スケッチブックの使い道も、つまりはそういうことだ。加えて、亞里亞は極度に人見知りする子なのだ。早くに気付かなかった自分が恥ずかしくてたまらない。
怒りに満ちた足音は、やがて彼女らの耳に入る。顔を伏せたままで向き直り、じりじりと後退を始めた。
「な、何かご用ですの?」
と、サマードレスの少女。鼻をつまんで声を作っているようだが、元々が特徴的なキンキン声なのでまるで意味がない。
「ええと、あー、ほら、お姉ちゃんはこっち!」
と、亞里亞を押し出すタンクトップの少女。よくよく見れば二の腕は白いままで、ほとんど日焼けしていない。このところは図書館とラボに篭りっぱなしだと、本人の口から直接聞いたことがある。
もう、ため息しか出てこなかった。
千影はスケッチブックを奪い取り、二人の頭を思い切り叩いた。乾いた音と共に麦わら帽子が吹き飛んだ後には、頭を抱えてうずくまる白雪と鈴凛の姿があった。
肩で息をする千影の足元にはらりと落ちる一ページ。そこには太字のサインペンでこう書かれてあった。
『お腹空いた』
目にした瞬間、千影を襲ったのは途方もない虚脱感だった。泣けばいいのか笑えばいいのか、それさえもわからない。
「これは一体、どういう了見なんだ?」
「どういう了見って言われても、ねぇ?」
「ですの」
鈴凛と白雪は顔を見合わせ、互いに頷き合う。
深いため息と共に、再び千影の手が閃いた。
「ひ、姫のリボンが皺だらけになってしまいますのっ」
「んもう、ゴーグルの上からってすっごく痛いんだからね?」
「私の知ったことではないね」
毛繕いよろしく自分の頭を直すことに余念のない二人は、とても反省している風に見えない。
「それより、理由を聞かせてもらおうか。どうして亞里亞くんを巻き込んで、こんなドッキリ紛いを」
鈴凛と白雪はまたも顔を見合わせた。一方の亞里亞は、少し離れた場所から心配そうな面持ちで成り行きを見守っている。
「亞里亞くんも亞里亞くんだ。どうして私に何も言わなかったんだい? きみがこんなのに従う必要は一切なかったんだから」
腰に手を当てた千影は、姉妹中一番の長身を生かして存分に睥睨した。
と、自分を除く三人が一斉に顔を上げる。
「あらあら。それってもしかして、私も入ってるわけ?」
笑いを含んだ声が背後から投げ掛けられた。急にうなじの辺りがピリピリする。
「随分な言い方じゃない。私たちはただ、亞里亞ちゃんを助けてあげただけなのに」
千影は思わず歯噛みした。よりにもよって、彼女が一枚噛んでいたなんて。
「それは、どういう意味だ」
「聞こえなかった? 言葉通りの意味なんだけど」
「悪ふざけは大概にしてもらいたいね」
「ふぅん、お姉さんに何て口の聞き方かしらね。お兄様が聞いたらきっと悲しむわ」
千影は身を起こし、ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、今一番顔を合わせたくない人間だった。
「ま、詳しい話はちゃんとしたお弁当を食べながらゆっくりと、ね」
咲耶がランチボックスを掲げて見せ、にんまりと笑った。その隣では、ステンレスの水筒を抱えた雛子がうんうんと首を振っている。
「ね、ね、千影ちゃん。おなかいっぱい食べたら、イライラもモヤモヤもきっとどこかに飛んで行っちゃうよ」
「……そうあって欲しいものだね」
急に喉の渇きがぶり返す。千影は唾を飲み込み、何度目かになるため息をどっと吐き出した。
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