がたがた
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列車は再び山間へ入り、緑が窓のすぐ近くを走っている。
相変わらずの単調な光景。そして、鉄路の奏でる単調なメロディー。
外へ目を向けた千影はだらしなく窓辺に寄り掛かり、それらとリズムを合わせるように黙々と咀嚼を続けていた。
咲耶の言う『ちゃんとしたお弁当』も、これまたホットサンドだった。ただし、中に挟まっていたのはスパムの代わりにコンビーフ。皆があっという間に平らげたところをみると、ハズレはなかったらしい。
要するに、何もかもが筋書き通りだったということだ。
口の中身を飲み下すのと、シートのクッションが軋むのとがほとんど同時だった。間髪入れず、アイスティーで満たされたプラカップが横合いから差し出される。
千影は黙ったまま受け取り、一気にあおって空になったコップを手の中に戻す。するとたちまち手が引っ込み、入れ替わりにホットサンドが突き出された。
「そんなに食べられないよ」
やんわり押し返すと一旦は引っ込んでくれるが、それもほんのしばらくの間だ。
「いい加減にしないか、亞里亞くん」
隣を見ないまま強く言うと、再び差し出されていた手がしゅんと萎れて崩れ落ちる。クッションの動く感触で、亞里亞が少し距離を置いたのがわかった。
亞里亞の気持ちもわからなくない。しかし、そのおかげで思わぬ恥をかかされたことを思うと、なかなか素直になれない。
「何そんなに拗ねてるのよ。大人気ない」
対面に座った咲耶が、組んだ片足のつま先で千影の脛を突付く。
「別に拗ねてなどいない」
図星を突かれたあまり、動揺が声に出てしまう。負けじとつま先で突付き返した。
「あのね、世間一般ではそれを拗ねてるって言うの。まったく、子供なのは胸だけじゃないのね」
「余計なお世話だ」
やれやれとばかりにため息を吐くと、それを境目に咲耶が口を閉ざした。咲耶の隣に腰掛けた雛子が、こちらの様子をちらちらと窺っている。
「ね、ね、ここ見てよ、ほら。んもう、決定的な瞬間。今回のベストショットだと思わない?」
「いやーん、亞里亞ちゃんってばちゃっかりおませさん! 千影ちゃんの背中にちゃーんと腕を回してますの」
他方、嬌声を上げるのは鈴凛と白雪の二人組だ。通路を挟んだ向かい側に並んで座り、その足元には網棚で見かけたリュックサックが鎮座している。中からはコードが延び、その先にあるのは鈴凛のノートパソコン。
鈴凛の姿を確認したときからその疑惑はあった。しかし、こうして目の前で編集までされるとさすがにいたたまれない。口を出す気力さえも起きないほどだ。
はしゃぐ二人を尻目に、千影は正面の敵へ毒づいた。
「大体、どうしてこういうことになったんだ。きみたちは関係ないだろう」
「関係なくなんかないって。それに、そもそもはあんたのせい」
咲耶が人差し指を突きつける。その指が指し示すものが何であるか、千影は十分に理解していた。
「キ、キスしてあげないことがそんなに悪いのか?」
ほとんど逆切れ同然の千影を、まあまあとなだめる咲耶。
「でも、それが原因で亞里亞ちゃんが泣きついてきたのは事実よ。ねぇ、ヒナちゃん?」
咲耶へもたれ掛かる雛子が勢いよく頷いた。
「あのね、亞里亞ちゃんはね、千影ちゃんがいつまでたってもキスしてくれないから、それでずーっとさびしかったの。だって、亞里亞ちゃんは千影ちゃんのことがだいだいだーいすきで、それを教えたかったからお口にキスしたのに。でも、千影ちゃんはわかってくれなくって……そうだよね、亞里亞ちゃん?」
返事の代わりに、くすん、と鼻をすする音が隣から聞こえてきた。
「別に減るもんじゃないんだから、キスぐらいケチらないの。それにほら、よく言うじゃない。目には目を、歯には歯を、キスにはキスをって」
「言わない。絶対に言わない」
バッサリ切り捨てたと思うや、すかさず外野から声が飛んでくる。
「頭固いなぁ、千影ちゃん。アタシの場合は、チェキには逆チェキを……かな」
「姫は、投げられたら投げ返せ! ですの」
白雪はむふーっと鼻息が荒い。
「いくら亞里亞ちゃんのためでも、あんな可愛くないのを姫のお料理に使うなんて……」
「まあまあまあまあ、そのおかげで作戦は成功したんだしさ。我慢してよ。ああ、でも、花穂ちゃんも侮れないよね」
「そうそう、それですの。姫はてっきり鈴凛ちゃんが作戦を考えたって思ってたけど」
「実はそれが違ったのよねー。まあ、あの子はあの子で花穂ちゃんで衛ちゃんの貞操をつけ狙ってるしさ、隠し球の多さもまあ納得できるかな」
「でも、貞操だなんてちょっと大げさすぎないかしら」
「そんなことないって。二人きりになれるチャンスだよーって茶化しただけなのに、花穂ちゃん目がマジになったもん。あれは間違いなく狩人の目つきね」
「それじゃあ今ごろはきっと、ラブラブハンター花穂ちゃんが衛ちゃんのハートを射抜いてお料理しているところなのね。むふん」
「一本のそうめんを両側から食べてたりとかしてるかも」
「でも、おそうめんじゃ柔らかすぎますの。こんなことなら、冷製パスタにすればよかったかしら」
「いい加減にしないか、二人とも」
千影は声を荒げた。
「黙らないと、ノートパソコンを窓から投げ捨てる」
「これってアニキからプレゼントされたヤツなのに、千影ちゃんってそういうこと言うの? アニキが聞いたら何て言うかなぁ。きっと悲しむと思うよ?」
兄を持ち出されては引き下がるしかない。タヌキめ、と吐き捨てるのが精一杯だった。
その呟きに咲耶がニヤリと笑う。
「それにしても、今回の亞里亞ちゃんは結構なタヌキぶりだったわよねぇ。涙の使い方なんて見習いたいぐらい。ねぇ、亞里亞ちゃん。今度、私にも教えてくれないかな?」
「タヌキはダメだよ、咲耶ちゃん。亞里亞ちゃんはね、タヌキさんじゃなくてウサギさん。だって、カチカチ山で火がついてボウボウになっちゃうのはタヌキさんのほうでしょ?」
見上げる雛子の顔は真剣そのものだ。咲耶の手が、そんな雛子の頭をやんわりとなでる。
「ごめんごめん、そうだったわね。タヌキは鈴凛ちゃんだけで十分よね」
「ちょっと、咲耶ちゃんまでタヌキ呼ばわり?」
「だって、鈴凛ちゃんのお財布の中はいつだってカチカチ山ですの」
「白雪ちゃんに言われたくないなぁ、それ。こだわりすぎて、いっつも予算オーバーしてるじゃない」
「んまっ、姫の予算オーバーはにいさまやみんなのためですのよ? 鈴凛ちゃんのは自分のため。全然違いますの」
「はいはい、家計の達人に言われちゃお手上げお手上げ」
だらんと両手を上げる鈴凛に、千影と亞里亞を除いた三人が笑いさざめく。
亞里亞はさっきから一言も喋っていない。自分の行いを恥じているのか、姉の怒りを恐れているのか、はたまた姉の意地悪な態度に意固地になっているのか。どちらにしてもそろそろ不安になってきた。
だが、どうやって助け舟を出せばいいのか千影にはまるで見当もつかない。咲耶のようにすんなりと目線を下げられるほど器用ではないのだ。
「ヒナちゃん、ちょっとおねむ?」
咲耶の声に顔を上げると、雛子がうつらうつらと船を漕いでいた。ハッと飛び起きた雛子が慌てて目をこする。
「ううん、ヒナは平気だもん」
「無理しちゃダメよ。終点まで時間があるから、今のうちに少し寝ちゃいなさい」
「でも――」
何かを言いかけた口がふわぁと大きく開く。
「ほら、そんなに大きなあくびしちゃって」
咲耶が組んだ足を戻して雛子の肩を抱き寄せた。雛子は逆らわず、そのままころんと横になる。何度か不規則にまばたきするうち、たちまち眠りの世界へ落ちて行った。寝顔にはうっすらと笑みが浮かび、いかにも幸せそうだ。
と、お尻の下でクッションの動く感触がした。横目でちらりと見ると、同じく横目遣いの亞里亞と一瞬目が合う。合ったと思うとすぐに視線を外して目を閉じ、かくんと頭を垂れる。ほんのわずかに開いた目は、こちらの様子を窺っているせいか。
どう対処したものかと迷い、千影はぽりぽりと顎を掻いた。
今の亞里亞が何を求めているのか、それぐらいはわかる。しかし、どういう流れで願いを叶えてあげればいいのか、それがわからないのだ。
「亞里亞ちゃんも眠い?」
そんな停滞を破ったのは咲耶のやさしい声だった。
亞里亞が勢いよく頭を上げ、小さく頷く。
「千影、何ぼさっとしてるの」
一転して千影に向けられた視線と声は鋭く尖っている。
「それぐらい気づいてあげなさいよ」
「わかっている。言われるまでもない」
足を戻した途端、亞里亞がすぐさま倒れ掛かってきた。クッションが申し訳程度に弾み、太もも同士の谷間へ亞里亞の頭が横向きに収まる。
「まさか、それで終わりじゃないでしょうね」
「私に指図するな」
言いながら亞里亞の頭に触れると、ぴくっとかすかに震えるのがわかった。安堵のため息が膝をほんのりと熱くさせる。プラチナブロンドを指で梳かすうちに、吐息は規則正しい寝息へと変化していった。
千影はそのまま、亞里亞の頭をなで続けた。
咲耶もまた、無言で雛子の寝顔に目を落としている。
二人の間に沈黙が横たわる。
妙に静かだと思ったら、鈴凛と白雪の二人も眠っているらしい。見れば、互いに寄り掛かる格好だ。四葉が居合わせたら、何と言って邪魔をするのだろうか。
四葉も能天気でいて、その実かなりのやきもち焼きだ。花穂と衛の関係に似ていなくもないが、決定的に違うのはやきもちを焼かれる方の態度だろうか。怒るべきときには怒るし、時には実力行使もある。殴り合いとまではいかないが、罵詈雑言を飛ばし合いながら取っ組み合う姿は、見ていてうらやましくなることさえある。無論、行為そのものではなく、二人の関係に対して。
激しく角突き合ったかと思えば、一転してべたべたといちゃつく。姉妹というよりは、むしろ兄弟に近いかもしれない。とかく、女同士のいざこざはとかく遺恨を残しやすいものだ――例えば、自分と咲耶のように。
亞里亞はどうだろうか。
最終的に自分が折れてしまう場合がほとんどで、そこまで傷口を広げたことはない。敢えて対立する要素もないし、年齢差もそうだ。加えて、亞里亞は世間知らずのお嬢さまで、周囲の人間が教えて導かねばならない。それも、できるだけやさしく。
嫌われないように、疎まれないようにと振る舞うのは辛い。そのボーダーがわからなければなおさらだ。何しろ、亞里亞とはまともな喧嘩ひとつしたことがないのだ。
それも全ては、亞里亞が本当の妹だからだ。出会ってから一年も経っていない、そして、母の遺してくれた忘れ形見。
だから、怖い。
もしも、自分の感情的な一言でこの関係が壊れたとしたら……? その可能性へ触れるにつれ、千影の心は萎縮してしまう。本心を押し隠し、当たり障りのない言葉でその場を誤魔化してしまうのだ。
その反面、嫌っているはずの咲耶相手なら存分に本音をぶちまけることができる。皮肉としか言いようがない。
「どうしたの? そんな辛気臭い顔して」
胸の裡を見抜いたかと思うタイミングで声が掛かった。びくっと反射的に顔を上げると、咲耶がこちらを真っ向から見据えていた。
「ま、あんたの場合はいつだって不機嫌そうな顔してるから、大して珍しくもないんだけどね」
「ちょっと考え事を、ね」
千影はつと視線を逸らせた。
「どうせ、さっきのキスのことでしょ」
「いや、別に」
「ふぅん、どうかしらね。キスがそんなにショックだったんだ?」
「どの口がそれを言うんだ?」
千影は唇の端を吊り上げた。
「きみの方こそ、雛子くんに奪われて残念だったね。おまけにあんな大きな悲鳴で――」
「だって、仕方ないでしょ! い、いきなりだったんだからっ」
咲耶は顔を赤らめ、大げさな身振りで反論する。
「大体あんなの一体誰が予想できるっていうの? ヒナちゃんがおまじないしてくれるって言うから、それで目を閉じて……そしたらいきなりよ、いきなり! おまけに舌まで――」
「いいから、もう少し落ち着くべきだ。スカートが脱げてしまう」
雛子の頭は今にもずり落ちそうで、しかも、スカートをしっかりと掴んでいる。このままなら『ちょっとした大惨事』は確実だ。
じっとりとねめつけながら、咲耶は雛子を抱え直す。
「あー、もう。あんたのせいよ。そうやって変な言い掛かりつけるから」
「相変わらず冗談のきついことだな。最初に絡んできたのはきみの方じゃないか」
「それはこっちの台詞。そもそもは千影が原因じゃないの。フランス生まれなんだから、キスぐらい大目に見なさいよ」
「亞里亞くんはそうでも、私は違う。それにここは日本だ。フランスじゃない。……似たような文句で四葉くんを脅したのは、さて、どこの誰だったかな?」
「でも、ああでも言わないと可憐ちゃんが切れる寸前だったし……って、傍観者のくせに口だけは一丁前ね。権利を主張する前に義務を果たしたらどう?」
と、咲耶が軽く顎を上げる。見下すような目つきを、千影は鼻で笑ってあしらった。
「掃除当番ならちゃんとやっている。何なら、男子トイレもやっておこうか」
「ったく、相変わらず食えないヤツ」
忌々しげに吐き捨てると、咲耶は腕組みしながら背もたれに寄り掛かった。千影も姉に倣って身体を後ろに預ける。
それが一時休戦の狼煙となった。列車が駅に止まり、車掌が軍使のごとく脇を行き過ぎる。
「そういえば、何こんなことで言い争ってるのかしら」
動き出すのと同時に、ぽつりと咲耶が零した。
「私たちの対立は、今や大きなマイナスでしかないからな」
「何だ、ちゃんとわかってるじゃないの」
からかうような口ぶりとは裏腹に、亞里亞へ向けた目はいかにもやさしげだった。千影は、そうだな、と返すに止め、雛子の寝顔を見つめる。見つめて、頬を緩ませた。
「だが、どうして唇なんだろうな」
「何よいきなり」
千影は口を閉ざしたまま、目線で雛子を指し示した。つられて覗き込む咲耶だが、
「あらあら、ヒナちゃんたら」
くすくすと笑いながら目を細める。
「まったくもう、何だかんだでしっかり見せ付けてくれるから」
雛子は空いた方の親指をしっかりとくわえ込んでいた。それでもまだ物足りないのか、もごもごと口を動かしている。
「それも私たちのせいにするつもりだね」
「ご名答」
咲耶は、雛子の額に掛かった前髪をそっと払いのけた。
「甘え足りないんじゃないのか、雛子くんは」
「甘やかし過ぎの誰かさんには言われたくないけど、私もそう思う」
「だったら――」
どうして、と言い掛ける千影を咲耶の目が制する。
「この子、すぐに我慢するから」
弱々しく告げたと思うと、その目がふっと閉じられた。
「特に、亞里亞ちゃんのいるところはね。さっきも見てたでしょ?」
「普段は仲良しでも、亞里亞くんには負けたくないということか。まるで誰かのようだな」
「妹は姉の背中を見て育つ、ってところかしら。あんまりいいお手本とは言えないけど」
「ああ」
二人は同時に頷いた。
それとタイミングを合わせたように、列車が大きく揺れる。
咲耶はふっと息を抜き、ため息を混じらせながら言う。
「ヒナちゃんのキスって、案外そのせいかも。私たちが仲良くしないから、そのペナルティー」
「ペナルティーとは、いさかか内省的に過ぎるようだが。第一、雛子くんが悲しむ」
「あんたなんかに情けを掛けられるなんて、私も堕ちたものね」
ふん、とわざとらしく鼻を鳴らす咲耶。対する千影は、すまし顔で肩を竦めるに留めた。
「その心配はない。元より、きみを庇うつもりはないさ」
「はいはい。私が嫌いなのはわかったから、減らず口もその辺にしときなさいって。またディープキスされちゃうじゃないの」
「ちょっと待て。それはどういう因果関係なんだ」
「呆れた。自分で言ってて気づかないなんて。そんなの、寂しいからに決まってるからじゃない。あの時だって、仲直りのおまじないって触れ込みだったし」
「しかし、そんなに仲が悪く見えるものだろうか。あの程度の口論なら、四葉くんと鈴凛くんはどうなるんだ」
「まあ、本当のところはわからないけどね。ヒナちゃんはヒナちゃんなりに色々と考えてるみたいだから」
と、咲耶は自分の唇をそっとなぞった。
「亞里亞ちゃんだってそうよ? いつまでも甘えん坊さんだと思ってたら、今に手痛いしっぺ返しが……って、それは体験済みか」
「人の妹を煽っておいて、よくそんな台詞が言えたものだな」
「だって不公平じゃない!」
吐き捨てた咲耶の顔に瞬間、怒りの色が浮かぶ。そのわずかな変化を見逃す千影ではなかった。
「どういう意味だ」
少し顔を伏せ、上目で睨みつける。
「あー、えっと、ごめん。それ、私の勘違い」
しかし、そんな浮ついた言葉で引き下がれるはずがない。
引き攣った愛想笑いで粘る咲耶だったが、やがて自分を納得させるように小さく何度も頷くと、頭を掻きながらぼそっと呟いた。
「うん、まあ、覚えてなくても仕方ないか。あの状況じゃ」
「だから何がだ。勿体ぶるぐらいなら最初から言うな」
「いやいや、たまには焦らしプレイもいいでしょ」
と、咲耶はすっかりいつもの調子で片手をひらひら振っている。
「悪ふざけも大概にしてもらいたい」
「やっぱり、本当に覚えてないんだ」
咲耶がふっと真顔に戻った。
「悔しくて、ずっと忘れないでいたのに」
「待ってくれ。私には何が何やら」
戸惑う千影に人差し指を振る咲耶。その先端は再び千影の唇を指していた。
「あんたがお兄様のファーストキスの相手」
一瞬、時が止まった。
「そ、それは一体……どういうことだ?」
千影は思わず頭を抱え込んだ。
素早く記憶を洗うが、それらしき出来事は浮かんでこない。眠りこけた兄を相手にあと5センチまで近づいたことはあるが、それ以上は距離が狭まらなかった。もしかすると、その場面を目撃されていたのかもしれない。だが、未遂は未遂だ。
手が自然に胸を押さえていた。動揺のあまり、心臓が飛び出てしまいそうだ。
「きっと……多分、何かの間違いだ。身に全く覚えが、ない」
「じゃあ、いつかのクリスマスパーティー、覚えてる? 十年以上前の、ずっと小さい時の」
「それはまだ、私たちが三人だけだった頃か?」
「そう、その頃。私と千影とお兄様の三人。パーティーの時は千影のパパとママもいっしょだったけど」
「ああ、それなら……」
その刹那、蝋燭へ火が点るようにふっと蘇る光景があった。
今は酒瓶だらけで足の踏み場もない父のアトリエ。三人が折り紙で飾ったその中心には、どこから切り出してきたのか本物のモミの木が立っていた。安っぽい電飾はなく、明かりは蝋燭の炎だけ。誰か動くたびに光が揺らめき、ツリーの先端でちかちかと大きな星が瞬く。
「そういえば、ツリーの星を取り付けたのは兄くんだったかな。マ……母が抱きかかえていて、兄くんはとても楽しそうだった」
「違う違う、それ私だから。お兄様がいつもみたいに身を引いて、千影と二人でじゃんけんになって。負けた千影がすっごい不機嫌そうな顔してたから、はっきりと覚えてる」
「そう、だったか」
咲耶の言を信じるならば、自分が不機嫌そうな顔をしていたのは、母を取られたと焼きもちを焼いたせいかもしれない。
楽しい思い出は何度も手に取るうちに磨耗し、角が取れ、美しい輝きと共に大事に仕舞い込まれる。その際に人為的な加工が施されていたとしても何ら不思議はない。自分に痛みをもたらす棘が咲耶の笑顔だったという、それだけのことだ。
「やっぱり全然覚えてないじゃない。前世だの何だのって、いつも言ってるくせに」
「そんなことはない。これでも記憶力には自信があるほうだ」
咲耶が訝しげに眉を上げ、顔を寄せた。
「じゃあ、ケーキの話はどう?」
「どうせ、図柄でも当てさせるつもりなんだろう」
と、千影は腕組みする。
「忘れるわけがない。あっという間にキリストの生誕図が描かれたんだからな」
「そうそう。それも、チョコペンシルで。さすがはプロの絵描きさん」
「ああ。今思い返しても、義父があんな芸を隠していたとは思わなかったさ。普通はブッシュ・ド・ノエルのところを、クリームを塗ったスポンジケーキがキャンバスの代わりとは」
咲耶はそれに頷いて返し、ふと遠くを見る目つきになる。
「案外、こっそりと練習していたのかも。今思い出しても、すごく楽しそうに描いてたし」
そうだな、と千影は生返事した。
義理の父親の思い出を腹違いの姉に言われるのは、とても奇妙な感じだ。今はもう尊敬の念を捨てているだけに、混乱に拍車が掛かる。胸の奥が疼く。
嫉妬心でもなければ自尊心でもない。不思議な感情だ。
「しかし、きみは泣きべそをかいていたな。絵を崩すのが勿体ないと」
「ちょっと、自分のこと棚上げする気? 千影だって半べそだったくせに」
「半べそと泣きべそなら、半べその方が50%マシだ」
「バッカみたい。そういうのを五十歩百歩って言うのよ。ちゃんと覚えときなさい」
「言われるまでもないさ」
顔を見合わせ、二人は笑った。
何か、不思議な感覚だ。昔は一方的に言われる側で、咲耶との会話はほとんど成立しなかったといってもいい。兄を間に挟んでようやく意思の疎通ができるぐらい、当時は極度な引っ込み思案だった。今となっては笑い話だが、咲耶のあまりにはっきりとした物言いに、どこか異世界からやってきたかと思ったほど。二人の間はそれぐらいに隔たりがあったのだ。
それが今では、こうして対等以上に渡り合える。気軽に本音をぶつけ合える。
もっと違う出会い方をしていれば、もっと仲良くできたのかもしれない。小さな誤解が、大きな誤解を招き寄せずに済んだのかもしれない。
こうして笑い合っていても、兄を巡る宿敵であることに変わりはないのだ。
「ところでその、キ、キスの話だが……」
「ああ、それね」
急にどもる千影をニヤニヤと見つめる咲耶。
「で、ケーキから後のことって覚えてる?」
「無論だ。……取り合いにならないよう最初にケーキを切り分けて、それからは母の手料理だ。ローストチキンに多分フォアグラのパテ、チーズのたくさん入ったサラダ。グラスにはグレープタイザーのホワイト」
「話を振った方が言うのも何だけど、よくそこまで覚えてるわね」
咲耶が半ば呆れた調子で首を振った。
「記憶力には自信がある」
「あらそう。でも、あいにくと残念賞。実は、あんたが飲んだのはシャンパンもどきじゃなくて本物のシャンパン」
「そんなバカな!」
その途端、亞里亞と雛子が同時に寝返りを打った。二人の姉は妹が転げ落ちないように姿勢を直す。
そのまま目を覚ますかに思えた二人だが、亞里亞の寝息は途切れる気配を見せない。雛子も同じらしく、咲耶のお腹に顔を埋める格好で動きが止まった。
「千影、声大き過ぎ」
「す、すまない。しかし、あんな時期にアルコールを口にしたとは思えない」
取り繕うように千影は咳払いした。
「でも、それから後のことは覚えてないでしょ」
「まあ、言われてみるとその通りだが……」
確かに、以降の出来事は記憶にない。気がつくとベッドに一人きりで、パーティーが夢の中で開かれたのかと疑ったほどだ。
眉を顰めて考え込む千影に、咲耶が笑い掛ける。
「あー、ほら、千影のパパって昔からお酒好きでしょ? あの夜も私が見ててびっくりするぐらい飲んでたし、酔っ払ってごっちゃになっちゃったみたい。千影もお兄様も、差し出されたのを素直に飲んじゃって」
「兄くんもかい?」
「で、先にあんたが――」
と咲耶は、くるくる回した人差し指を床に向けた。
「まったく、どうしようもない父親だ」
千影は額に手を当て、がっくりとうな垂れた。
「幼児にアルコールを勧めるなんて」
「事故よ、事故。絶対に事故! そうじゃないと、私が納得できないもの」
咲耶が声を張り上げ、ついでに腕を振り上げた。
「だってその後、すっかり酔っ払ったお兄様が寝てるあんたのこと見て、『王子さまがキスしたら目が覚めるかも』って言って」
その瞬間、かあっと頭に血が昇る。あまりに急激な変化で耳鳴りがした。
「あ、兄くんが……王子さま……」
「止める間もなかったわよ。膝をついたと思ったら、そのまま覆い被さって」
「覆い被さって……」
「それも私の目の前で。頬やおでこじゃなくて唇よ、唇」
「く、唇……」
最早、熱いのは顔ばかりではない。羞恥心に責め苛まれた心臓は、全身に灼熱を送り届ける。
よもや、そんなハプニングで大切なものを交し合うなんて。記憶のひとかけらも残ってないことが心底悔やまれる。どうせなら、ちゃんとした形で、心を通い合わせた上でして欲しかった。
「しかし、きみの見間違い……ということもあるし、それより前に、兄くんが、ファ、ファーストキスを失っていた可能性も――」
「ああ、もう! むかつく! むかつくわ! 今思い出しても超絶むかつく!」
咲耶の手が振り下ろされ、丸まったアルミホイルが千影の胸にこつんと命中する。
「よりにもよって、どうしてあんたなのよ! そんなのズルいじゃない」
咲耶はなおもヒステリックに叫んだ。
「わ、私に言われても困る。文句なら兄くんに」
「言えるわけないじゃない。お兄様ったらその後すぐに潰れちゃって、何にも覚えてないんだから。私も酔った倒れたりして待ってたのに」
「いや、それは残念というか、ご愁傷様というか」
咲耶が再びアルミホイルの玉をぶん投げる。今度はコントロールが悪く、亞里亞の額にぶつかった。
「気持ちはわかるが、八つ当たりはやめてくれ。危ないじゃないか」
「あんたなんかに慰められても嬉しくない」
平静を取り戻しつつある千影とは対照的に、咲耶はヒートアップする一方だ。投げられる物を探して、もぞもぞと手が動いている。
「大体、千影が悪いのよ。シャンパンなんて間違えて飲むから」
「そんなに言うなら、きみも間違えて飲めばよかったんだ。それで、私ときみとの二択になったはず」
「私、お酒の臭いって嫌い」
吐き捨てるように咲耶が言った。
「タバコもそう。鳥肌が立つわ、あの臭い」
それは千影にとって、全くの初耳だった。今までにそれらしい言動は見られなかったし、いつぞやの『鈴凛パチンコ屋事件』の際も、いつも以上に怒鳴ったということはなかった。
しかし、信じないわけにはいかない。
咲耶は、憎々しげな表情で床の一点をじっと見つめている。
「何と言っていいのかわからないが……兄くんが、両方ともやらない人間でよかった」
「……そうね」
ぽつりと呟くと、咲耶はすっかり疲れ切った様子で背もたれに身を投げ出した。
「兄くんはもう成人しているのに、そんな気配さえも見せないということは、きっと咲耶くんを気遣っているんだろう」
「だと、いいわね」
咲耶の返事はいつになく素直だった。
「お兄様は変わらないわ、ずっと。昔の方がちょっと大胆だったから、そこは変わって欲しいかも。でも、お兄様はお兄様でいてほしい」
「ずっと兄妹のまま?」
「わからない」
咲耶が力なくかぶりを振る。
「私はお兄様と結ばれる。お兄様と幸せになる。でも、これ以上大人にならないでって思う自分もいる」
「ああ」
そのジレンマは、千影の実感としてよく理解できた。
幼い頃から散々に言われ続けてきた、『兄妹は結婚できない』という事実。しかし、『本当の兄妹ではない』可能性があることも、また事実なのだ。今は兄妹でも、時が経って真実が明らかになれば兄妹ではなくなるかもしれない。誰もが口にはしないけれど、誰もがそう思っている。それもまた事実だ。
その一方で、時間の経過は兄との別離を意味する。今はこうして一緒に暮らせていても、やがては見ず知らずの新しい家族を迎えるのだろう。
できれば、そんな光景は見たくない。来て欲しくない。
しかし、自分たち妹のために自らの幸せを捨てる彼の姿も、同じぐらい見たくない。
「きみは、今が一番いいのかい?」
「そう……うん。多分、そうかもしれない。このままなら、お兄様は誰のものにもならない。でも、誰かだけのものになる可能性も残っている。じれったいけど、今までずっとそうだったから」
「兄くんはモノじゃない」
「またそんな揚げ足取りして」
咲耶がいつものように唇の端を吊り上げて笑った。
「でも、そういう千影は昔に帰りたいって思ってるんでしょ? 何せ、すっごいママっ子だもんねぇ」
「な、何を根拠にそんなことを。母は、関係ない」
図星を突かれた動揺が口調に出る。
「本当にそう? 少なくとも、あの時のお兄様は千影のものだったし。それにやさしいママとパパがいて、他にどんな幸せがあるの?」
「それは……」
千影は思わず口篭った。
顔を伏せて目を閉じると、瞼の裏にあの光景が蘇る。とてもとても幸せなひととき。楽しかった思い出は、そのほとんどが母と共にある。
赤毛に碧眼という容貌故に孤立しがちな千影を、励まし、慈しんでくれたのは母だった。辛いことがあっても母が一緒なら乗り越えられた。髪の毛は金色でも同じ青い目同士、とてもよくわかりあえた。
千影にとって、母こそが世界の全てだった。
――もし、戻れるものなら。
そう思うことは何度もあった。母が失踪してからの十年あまりは、千影という名の通り、幾重にも重なった影の中で生きていた。唯一の希望は、輝ける過去を共に過ごした兄の存在だった。
兄くんさえ私のものになれば、また光の世界へ出て行けるかもしれない。
しかし、兄はみんなの兄だった。誰かひとりのものにならない人だった。
だから、それだけに想いが募る。
「私は――」
そのとき、膝の上の亞里亞がわずかに身じろいだ。小さな手が這い回り、スカート越しに膝頭を掴む。千影を引き止めんと食い込む爪先に、全身からどっと汗が吹き出た。心臓が高鳴っている。
身体は痛くはない。だが、心がずきずきと痛む。
膝の上でこんなにも確かに存在している妹を、ほんの一瞬でも完全に忘れ去ってしまった。亞里亞はそれを、無意識のうちに感じ取ったのだろう。寝顔は苦悶に歪み、眉間には縦皺さえ浮かんでいる。
千影は黙って亞里亞の頭を撫でた。
「私には、亞里亞くんがいる。昔あの場所に、亞里亞くんはいなかった。もし、亞里亞くんを連れていけるとしたら、昔を選ぶかもしれない」
亞里亞が母の失踪した先――フランスの旧家――で生まれたという事実は、千影にとって残酷極まりないものだった。千影が母恋しさに泣いていたその裏側で、亞里亞は母の胸に抱かれていたのだから。最初は見捨てられたのかとも思ったほどだ。
「でも、連れていけないでしょ」
「だから、今を選ぶさ。それに、どう足掻いたって過去には戻れない。今を生きる以外の選択肢はないからな」
千影が母と築いた思い出の中に亞里亞の姿はなく、亞里亞が母と築いた思い出の中に千影の姿はない。
母を喪って、姉妹は初めて出会った。母が二度と帰って来ない今、二人と十人と一人とで、生きて行かねばならない。
気が付くと、亞里亞の手が膝から離れていた。白くやわらかな頬に、ほんのりと笑みが浮かんでいる。
その様子をじっと見つめる咲耶の瞳。
「――千影のことだから、昔がいいって言うんじゃないかって思ってた」
顔を上げ、咲耶は真正面から千影を捉える。
「まあ、そんな寝ぼけたこと言った時には、こいつをお見舞いしてたけどね」
と、咲耶が五円玉をひょいと投げてよこした。
「意外にケチだな。私はそんなに安いのか?」
「十円以上だと、床に落ちた時に鈴凛ちゃんが飛び起きちゃうし」
「なるほど」
二人は顔を見合わせ、肩を揺すって笑った。
「ま、冗談なんだけどね。わかってると思うけど」
「ならば、実際にやってみるのも悪くないと思う」
「まだ早くない? 終点までもうちょっとあったような――」
ちょうどそのタイミングでアナウンスが入った。間もなく終点に到着することを告げ、ノイズと共に放送が切れた。
「これは、誰かがやれと言っているようなものだな」
そう話を振ると、咲耶は半笑いで応えた。
「奇遇ね。私もそう思ったところ」
「そうか。なら、やってみようか」
千影は咲耶に五円を投げて返し、自分の財布から十円玉を取り出した。
「あんなこと言っといて、意外にケチね」
「人のケチにケチをつけるな。相手が相手だけに、リスクは最小限に留めておきたい」
「そういえば、あんたと鈴凛ちゃんって結構仲いいよね。オカルトとメカじゃ、全然合わないと思うんだけど」
「彼女は賢いからな。話していても面白い」
「へぇー。じゃあ、バカとは口きかないってわけ?」
「心配するな。少なくともきみは馬鹿じゃない」
交わす言葉は辛辣でも、不思議とリラックスできる。お互いの間に横たわるものはともかく、彼女に対しては言葉を選ぶ必要がない。これが長年の付き合いというものだろうか。
「いくぞ」
親指で弾いた十円玉は放物線を描きながら縦向きに落ちた。鈴凛はまだ起きない。
十円は鈴凛のつま先をかすめるように転がり、反対側の壁にぶつかって倒れる。澄んだ金属音が千影たちにも聞こえた。
その瞬間、鈴凛がバネ仕掛けのおもちゃのように飛び起きた。その肩に寄り掛かって寝ていた白雪がばったりと倒れる。
鈴凛は転がっている十円玉をぼんやりと見つめていたが、きっかり三秒経ったところで素早く拾い上げ、何食わぬ顔で自分のポケットに突っ込んだ。
成り行きを見守っていた二人は、思わず顔を見合わせる。
「ありがとう、鈴凛くん。それは私の十円なんだが」
そう主張する千影に眠たげな目を向けていた鈴凛だが、
「三秒ルール」
「は?」
「三秒以内ならセーフ。越えたらアウト。落として三秒過ぎたから、千影ちゃんがアウト。だから、三秒ルール」
ぶっきらぼうに言い捨てると、白雪の向かい側に腰を下ろし、こちら側にお尻を向ける格好でそのまま横になった。
「こらこら。そこ、タヌキ寝入りしないの」
「だってぇ、今日の準備で昨日頑張ったからすっごく眠いんだもん」
「もう終点なのよ。誰かさんの荷物が一番面倒なんだから、そろそろ準備しなさい」
「やだ。咲耶ちゃん持ってって」
ただでさえ眠たげな声が、眠たさ三倍増しで返って来る。
目を吊り上げた咲耶が五円玉を投げつけ、見事命中させた。が、当たった場所がまずかった。お尻の皮下脂肪に阻まれ、あっさりと弾き返される。もちろん、この程度で起きる鈴凛ではない。
「まったく、仕方ない子ねぇ」
咲耶がそう呟きながら、千影に向けて手を差し出す。最初は怪訝な顔で応えた千影だが、すぐにその意図を察して財布を開いた。
「大きいヤツか?」
「もちろん。大物を確実に釣ろうと思ったら、それなりのエサじゃないと」
「後でちゃんと返すように」
「はいはい、わかってる」
渡した五百円玉はすぐに咲耶の手を離れ、鈍い音を立てて足元に落ちた。すかさず鈴凛が跳ね起き、うつろな目のまま、のろのろと近寄ってくる。
それから三秒後。伸ばした鈴凛の手の上に、千影と咲耶の足が重なった。
「おはよう、鈴凛くん」
「お目覚め?」
ぎりっ、とつま先に力を込める二人。
「はい、お目覚めました」
鈴凛がひきつり笑顔で答えた。
「んもう、何そのコンビネーション。仲悪いのって偽装だったりしない? もしかしてデキてるとか」
「何バカなこと言ってるのよ。いいからさっさと準備しなさい。ほら、白雪ちゃんも起きて。着いたらすぐ移動。時間ないんだから」
咲耶が手を叩くと、それを合図に鈴凛と白雪が動き出した。雛子も少し遅れて、大きく伸びをしながら目覚める。
「おはよ、ヒナちゃん。もうちょっとで着くから、降りる準備してね」
「うんっ!」
雛子が元気よくシートから飛び降り、鈴凛と白雪がテキパキと荷物をまとめる。
列車は既に速度を緩め、車内は降り支度を始める乗客たちでざわついている。不意に車体が傾き、バランスを崩した雛子が咲耶の胸に飛び込んだ。
車窓の外はいつの間にか開けていた。線路が大きな弧を描きつつ、遥か遠くまで続いている。駅舎らしい建物が豆粒ぐらいのサイズで見えた。
それが少しずつ大きくなるにつれて、進化樹形図のように線路が枝分かれし始める。
――私たちはどこへ辿り着くのだろう。
千影はふと思った。
ただ座っていただけなのに、こうして違う場所へ運ばれて来た。それは、普段の生活も同じではないだろうか。
目を覚まし、顔を洗い、ご飯を食べ、勉強し、遊び、本を読み、そして眠る。
それを繰り返す毎日。何も変わらない、変えていないはずなのに、確実に時間だけは過ぎ去る。そして気が付くと、全然違う場所に立たされているのだ。
最初は一人の兄と二人の妹だった。それが今では十二人からなる姉妹。ずっと妹のままでいるはずが、今や姉になってしまった。
――私はこの先どうなるのだろう。
次第に近づくホームを見ながら、千影は心の中で呟いた。
「あっれー? 何たそがれてるのかな、千影姉やは」
突然、鈴凛の顔が目の前に割り込んだ。膝立ちの鈴凛は後ろ手に何かを隠し、ニヤニヤと笑っている。
「ところでモノは相談なんですけど」
「どうせ、碌でもない話なんだろう?」
「まあまあ、そういうこと言わないでさ」
うろんな目を向ける千影へお構いなしに、鈴凛はじりっとにじり寄る。
「んで、話っていうのはこれから行く先の先生なんだけど、実はその先生のサインってネットオークションで結構いい値段がついてたみたい。作品も作品だし、マニア垂涎のアイテムっぽいらしくて」
「ならば、自分で頼めばいい」
「だ、だって、初対面でいきなりサインだなんて失礼に当たるじゃない。ここは面識のある人を間に置かないと。それに、千影ちゃんの顔を立てないとマズいでしょ?」
「いや、その理屈はおかしい」
にべもなく断る千影だが、意外にも鈴凛は余裕の笑顔を浮かべている。次の行動が何となく予想できた。
「あー、そんなこと言っちゃっていいのかな?」
と鈴凛は、背中に隠したノートパソコンを広げて見せた。千影の顔がたちまち灼熱化する。
そこに映っていたのは、言うまでもなく例の口移しの場面だ。お互いがお互いの背中に手を回し、残った腕を取り合っている。上半身だけなら舞踏会の最中のようだ。こんな格好で唇を交わしたのかと思うと、違う意味で恥ずかしい。
「結構いい出来になったから、アニキに見てもらおうかなーって。もちろん、どうしてもって言うんなら取り止めにしてあげてもいいよ?」
「それがきみの狙いか……」
すっかり乾いた声に、千影は一度咳払いした。
「もっちろん。せっかくの千載一遇&一攫千金のチャンスを逃す理由はないでしょ。そのためにあの子置いてきたんだから」
「なるほど、見敵必殺というわけか。しかし、四葉くんさえいればこんなことをせずとも――」
言い掛けて、千影は口をつぐんだ。
そして、思い直す。親しい者同士がキスをして、何をそんなに恥ずかしがる必要があるのだろう。男と女、男同士ならともかく、姉と妹なら十分にスキンシップの範疇だ。多少、親密過ぎるきらいはあるが。
それに、咲耶の言葉を信じるなら初めてに拘る必要もない。
開き直ってしまえば、どうということはなかった。
「――いや、見せたければ見せるがいいさ。私たちの仲良しぶりをね」
それに合わせ、膝の上の亞里亞がもぞもぞと動いた。
慌てたのは鈴凛だった。
「えっ? ちょ、ちょっと、何でそうなるわけ? だって、アニキがガッカリするかもしれないのに、それでも見られちゃっていいの?」
「その程度で落胆する兄くんなら、こちらからお断りさ。キスは情交のサインなどではない。私の兄くんなら、それぐらいは理解していて当然……残念だったね」
「そ、そんなぁ……」
がっくりと落ちる鈴凛の肩を白雪が叩く。
「そんなことより、もう到着するですの。ささ、早く準備して」
窓の外をのろのろと自動販売機と渡り階段が通り過ぎる。鈴凛はため息ひとつ残し、ノートパソコンを仕舞いに戻った。
「じゃ、鈴凛ちゃんはダッシュでバス捉まえて。白雪ちゃんは荷物持ちで、ヒナちゃんはそのお手伝い。いい、わかった?」
仕切る咲耶に、三人がそれぞれ返事した。
列車は何度か身を揺すりながら停止し、勢いよくドアが開く。鈴凛が頭の麦わら帽子を押さえながら真っ先に飛び降り、その後にリュックを担いだ白雪と雛子が続いた。他の乗客もめいめいに外へ出る。
「やっぱ、どこ来ても暑いわね。下界より少しマシかもって期待してたんだけど」
入り込む熱気に咲耶が顔を顰めた。
「さて、ぼちぼち行くとしましょうか」
「ちょっと、待ってくれ」
立ち上がって出口に向かう咲耶を、座ったままの千影が引き止めた。
咲耶は向き直り、千影と亞里亞を交互に見た。急に照明が落ち、咲耶の顔に影が差す。
「何? ぐずぐずしてると置いてくわよ」
「いや、その……さっきは、あ、ありがとう」
咲耶が一瞬、息を飲んだのがわかった。ややあって、ふん、とわざとらしく鼻を鳴らす。
「珍しいじゃない、あんたがお礼を言うなんて。こんな真夏に雪でも降らせるつもり?」
皮肉めいた言い方に、ついカチンときてしまう。
「きみの方こそ、どういう風の吹き回しなんだ。敵に塩を送るような真似をして」
「勘違いしないで。別に、千影のためにあんなこと言ったわけじゃないから」
咲耶は相変わらずこちらを向いている。しかし、見ているのは亞里亞の方だ。
当の亞里亞はといえば、未だに千影の膝でぐっすりと眠っている。目覚める様子さえ見せない。
「では、私以外の誰かのためということか」
「そう、要するに亞里亞ちゃんのためってことよ」
「どうして――」
「どうして? だって、ああでも言わないとずっと気にし続けてたでしょ? あんたが悩むのはいいけど、そのせいで亞里亞ちゃんが苦しむのよ。悪いことをしたから、嫌われるかもしれないって」
千影の声が詰まった。それは、今の自分も少なからず抱えている感情だからだ。
「余計なお世話だ。きみは自分のことだけ考えろ」
「私もそう思った。たった今ね」
売り言葉に買い言葉とはこのことだ。
二人は目を逸らし、互いの様子を窺うように口を閉ざす。
気まずい沈黙を断ち切ったのは千影のため息だった。
「きみは、私が調子付くとは思わなかったのか。あのような事を打ち明けて」
「あれ、信じてるの?」
「……まさか、騙したのか?」
腰を浮かし掛ける千影だが、膝の亞里亞が重石になり、背筋がわずかに伸びただけだった。
「そんなわけないじゃない。あれは本当にあった話。といっても、覚えてるのは私一人だけどね」
「義父がいる……ああ、そうか。酔っていたんだな」
「ま、そのおかげで、あの晩は千影のママを独り占めできたんだけどね」
千影はもぞもぞと座り直した。
「それに、あんたに塩なんて送ったつもりないから。昔は昔、今は今よ。あんな子供の頃の話なんて関係ない。だって、肝心のお兄様が覚えてないんだから。もし覚えていたとしても、これからの私が記憶を塗り替えてあげればいい。それだけよ」
腕組みをしながら千影を見下ろす咲耶。
それはまるで、宣戦布告のようだった。
千影は一度頷き、真っ向から咲耶を見返した。
「わかった」
たった一言返すと、おもむろに咲耶が微笑んだ。皮肉でも憐憫でもない、本当に心から楽しげな笑顔だった。
「そうこなきゃね。だって、今までの千影じゃ張り合いがないんだもの。競い合ってこそ、美しさは磨かれるのに」
と、咲耶は組んだ腕をぐいっと引き上げる。質感豊かにひしゃげる物体を目の当たりにし、千影は眉を顰めた。
「元よりきみは私の眼中になかった。それだけだ」
「へぇ、負け惜しみ? だいたい、昔に拘ってるからいつまでも成長しないのよ。ママっ子のちかちゃん?」
言いながら、咲耶が人差し指で突付く真似をする。
「言ってくれるな。きみの方こそ私のママに、いや、母に拘るじゃないか。人の親を取ろうなどとは、手癖が悪いにも程がある」
「だって、私にママはいないから」
「何を言っている? そんな話は聞いたことが――」
凍てつくような視線が千影の口を閉ざした。
「私にママなんていない。いるのは母親よ」
咲耶はそう言い切り、踵を返した。
「だから、忘れられないの。あの日のこと。とても悔しいけど、でも、すごく楽しかったから」
「咲耶くん、きみは……」
千影の言葉を払い除けるように咲耶が頭を振る。鼻をすする音がした。
「人の心配するより、自分のことを考えたらどう?」
「えっ?」
「亞里亞ちゃん、ちゃんと起こして来てよ。おんぶや抱っこじゃダメだからね」
千影に反駁する暇も与えず、咲耶はツインテールを揺らせながらドアの向こうに消えた。
「どういうことだ……?」
思わず自問する千影だが、当然答えが出るはずもない。それに、今は亞里亞を起こすことが先だ。
千影は亞里亞の肩を揺さぶった。
「亞里亞くん、もう終点だよ。きみが起きないと置いて行かれてしまう」
だが、亞里亞はぴくりとも動かない。一瞬、ありえない出来事を想像して総毛立たせるが、すうすうと規則正しい寝息に胸を撫で下ろす。よほどに眠りが深いのだろう。
しかし、咲耶とあんなに口論しておいて、それでも目覚めないというのはいくら昼寝好きでもおかしい。薬でも盛られたか、さもなくば――
「まさか、ね……」
千影はかざした右手を、亞里亞の鼻先すれすれで横切らせた。すると、素早く走った影に亞里亞の眉がきゅっと狭まる。少し怪しい。
「おや、亞里亞くんの鼻に蚊が」
棒読みっぽくなったが、亞里亞の耳にはしっかり届いたらしい。亞里亞の鼻はぴくぴくと引き攣り、瞼の下で目が動くのがわかった。
かなり怪しい。というより、ほとんど黒に近い。千影はがっくりとうな垂れた。
「先の件といい、きみのタヌキぶりには本当に驚かされるよ。これも咲耶くんの差し金なのかい?」
独り言のはずなのに、なぜか亞里亞の頭が小刻みに揺れる。どうやら否定しているらしい。
「わかった、わかったよ。いつからタヌキ寝入りしていたのかは知らないが、元はといえば、私に原因があるようなものだからね」
そう言って頭を撫でると、あからさまに安堵のため息を漏らす亞里亞。千影は苦笑し、すぐ真顔に戻る。
「不安がらせてすまない。勘の鋭い亞里亞くんのことだ。私がママのことでわだかまりを持っていると、ずっと前から気づいていたんだろう? その点、私は駄目な姉やだ。きみが気づいていることに、ずっと気づかなかったんだからね」
それは、キスをせがんできた時点で気づかなければならないことだった。
気持ち良さを生み出すのはいつだって口だ。食べたり飲んだりしてお腹いっぱいになること。言葉もそうだ。いっしょに笑って楽しくなるのも、褒めたり褒められたりして嬉しくなるのも。
そんな、とても大切なものを自らの意思で与える。
百万遍繰り返した愛の言葉に、たった一回のキスは勝るのだ。
「鈍い姉やですまない、亞里亞くん。……しかし、罪には罰を与えねば」
罰、という単語に、亞里亞の肩がびくっと揺れた。
「私が普段、そういうことをしないのは知っているだろう? いつも言葉だけできみを叱るこの私が、だよ。それだけ、今回のきみの罪は重い。私だけじゃない、きみの我が侭にみんなを巻き込んだんだからね」
亞里亞はいよいよタヌキ寝入りを捨て、恐怖に震える手足を胸元へ抱え込む。何しろ、たった今まで口喧嘩していたのだ。その矛先が向けられたと勘違いしてもおかしくない。
しかし、言葉だけなら何とでも言える。本当に伝えたいことは、言葉以外の何かで示さねばならない。
「そう。私は今、とても怒っているんだ。こんな簡単なことに気づかなかった自分に。そして、それを気づかせてくれたきみに。だから私は、きみのことをとても、とても――」
千影は亞里亞の耳を両手で塞ぎ、続く囁きをそっと零した。
そして、唇からその響きが消えないうちに、やさしいキスをした。
Fin.