きらきら 読み物TOP

サイトTOP

 1


 おひさまあかいろ、ちかのいろ。
 おそらのあおは、ふたりのいろ。
 きらきらきんいろ、ママのいろ。
 ……それじゃあ、ぎんいろは?


 *


「お番茶を淹れますけど、皆さんは?」
 春歌の呼びかけに、リビングでめいめいにくつろいでいた皆が一斉に手を上げた。片隅にソファーに腰掛けていた千影は新聞から目を離し、周囲に倣った。千影の膝枕で横になっていた亞里亞も姉を見習って手を伸ばす。
「千影ちゃんって確か、普段はお紅茶では?」
 千影の挙手を怪訝そうな顔の春歌が見咎めた。
「ちょっとした気まぐれ、とでもいいたいところだが、サバの味噌煮の後に紅茶というのはどうかと思ってね」
「ええ、まあ、それはそうですわね」
 納得した風に何度も頷く春歌だったが、その視線は手を上げたままの亞里亞へと注がれている。春歌の疑問はもっともだった。
「番茶に砂糖やミルクは入れられないんだよ。それでもいいのかい?」
 千影の問い掛けに頭を向ける亞里亞だったが、やや眠たげな答えはいつも通りだった。
「亞里亞は、姉やといっしょがいいの」
「だ、そうだ。亞里亞くんの分もよろしく頼む」
 承知しましたわ、と微笑んだ春歌が優雅に首を伸ばして人数を確かめる。
「あら、そういえば誰か足りないような……」
「あ、可憐ちゃんと雛子ちゃんじゃないかなぁ。さっき出て行ったの見たけど」
 フローリングに這いつくばった衛が、背中を反らせながら答えた。その腰にちょこんと乗っかった花穂が首を傾げる。
「お洋服を上げるとか下げるとか、そんなこと言ってたの聞いたよ?」
「そうそう。なんかそんなこと言ってたよね、花穂ちゃん」
「うん、そうだったよね。衛ちゃん」
 ねー、と顔を見合わせる二人。そんないちゃつきっぷりを羨ましげに見ていた四葉が鈴凛に這い寄るも、振り向きざまのデコピンをカウンターに食らって敢えなく沈んだ。
「もう、どうしてそんなにイジワルするデスか」
「いきなりアタシの後ろに回るからよ」
 と、すまし顔で語る鈴凛に対し、
「それじゃあ、前からならいいんデスね」
 ごろんと前に回って鈴凛の前へ転がり、反動をつけて飛び掛る四葉。
「あああ暑い! 暑いってば、このバカよつ!」
「ああっ、四葉のことバカって言った!」
「なによ、バカをバカって言って悪いの?」
「悪いに決まってマス! だって、バカは最初にバカって言ったほうがバカだもん」
「アンタねぇ、よくもぬけぬけと」
 そして予定通りに開演するドツキ漫才もどき。最初のうちは仲裁するものもいたが、ただのじゃれ合いとわかった今では特別な関心を払うこともない。一応は目を向けるも、すぐそれぞれの世界に戻ってゆく。
 やれやれと首を振って読みかけの新聞に目を落とす千影だったが、スカートを引っ張る亞里亞の手に再び呼び戻される。
「姉や、あれやって」
 亞里亞の指差す先には、タイトなロングスカートを太ももギリギリまでめくりながら、四葉へコブラツイストを掛ける鈴凛の姿があった。むっちりと白い太ももはもちろんのこと、場所が悪ければ下着まで見えてしまいかねない。幸か不幸か、兄は風呂に入っていてこの場にいなかった。
「ヘビさんにょろにょろ、亞里亞にもしてほしいの」
「見ちゃダメだ」
 千影はため息混じりで、手にした新聞を亞里亞の顔へ被せた。
「姉やぁ、どうして?」
「とにかく、見ちゃダメだ。立派なレディになりたければね」
 新聞を払いのけようとジタバタする亞里亞を、千影はそっと抱き寄せる。亞里亞は不満そうにかわいらしいうなり声をあげていたが、やがて少しずつ弱まっていった。
 やれやれと胸をなで下ろしたそのとき、廊下のほうからぱたぱたという軽い足音が響いてきた。
「じゃーん! 今日のヒナはね、ピンク色なの!」
 雛子はリビングに入ってくるなり両手を広げてくるりと回る。それに合わせ、ピンク地に白のフリルをあしらったワンピースがふわりと踊った。一同の視線を集めた雛子は、ちょっとたじろいだ風に背後を顧みた。
「あら? みんな、どうしたんですか?」
 間もなくひょっこりと顔を覗かせたのは、雛子と同じくピンク色のワンピースを着た可憐だった。腕には今の雛子と似たデザインの服を何枚か掛けている。
「いや、別に――」
「鈴凛ちゃんが四葉のことをバカって言ったデス」
 千影を遮る四葉に鋭い一瞥を送る可憐だったが、すぐ笑顔に戻ると雛子の肩をそっと前に押し出した。
「雛子ちゃんってフリルのお洋服が好きだから、可憐が昔に着ていたのをお直ししてみたんです」
「まあ、それは自分で?」
 給仕の手を止め、するすると歩み寄る春歌に可憐が頬を染める。
「お直しっていっても、ほつれているところとかを少し縫っただけですから。ほとんどそのままのお下がりです」
「そんな、謙遜なんてなさらないでください。最近は何でも他人任せで、自分でできることすらもやろうとなさらない方ばかりです。可憐ちゃんはもっと胸を張るべきですわ」
「は、はぁ……」
 いつになく強い剣幕の春歌に、さしもの可憐も気圧され気味だ。
「あのね、他にも、可憐ちゃんからいっぱいお下がりもらったの」
 雛子が可憐の腕から抜き取った服を誇らしげに床へ広げる。何人かがその周りに集まり、雛子は笑顔を一層深めた。

 亞里亞が動き出すものと思って腕を解く千影だったが、その気遣いとは裏腹に亞里亞は千影にしがみついたまま。どこか遠くを見るような目を雛子へ注いでいる。
 千影はそんな妹の様子を訝しく思ったが、とりあえずは何も言わなかった。代わりに妹の頭をゆるゆるとなでる。
「雛子ちゃん、ピンク色。いつも黄色なのに」
 亞里亞がぽつんと漏らす。
「そうだね。ピンク色は可憐くんの色だからね」
「うん」
 こっくりと頷き、亞里亞はそっと笑いかける。
「それじゃあ、姉やは何色?」
「私かい? 私は、そうだな……」
 少し考えたのち、千影はこう答えた。
「黒、かな」
「黒?」
 オウムのように返す亞里亞の顔が左右に振れ、やがて悲しげに沈む。
「亞里亞は、そう思わないの。亞里亞は――」
 と、亞里亞が千影の額へ向けて手を差し伸べた。千影はその手を取り、やんわりと下ろす。
 それだけで亞里亞には十分だった。亞里亞は、くすん、と鼻をすすり、ころんと寝転がって背中を向けた。どこか寂しげな後ろ姿に千影の心がちくりと痛んだ。
 赤い色に対する想いは複雑だ。自分の髪の色。母から受け継いだ大切な色。
 しかし、黒や茶色ばかりが群れ集う中で赤はあまりに異端過ぎた。赤い色のおかげで、何度辛酸を舐めさせられてきたか知れない。今思い返してみても、あの頃の記憶は悔し泣きする自分の姿が多くを占めている。
 だが、大好きな母を恨んだことはなかった。ただ、母がいないことが寂しく、悔しかった。金色の髪をなびかせるその姿を目にすれば、きっと誰もが羨ましがるはず。
 それなのに母はいなかった。
「――あのね、ヒナの星座はしし座でしょ。しし座はライオンさんのことで、ライオンさんは黄色だから、ライオンさんでしし座のヒナは、黄色なの」
 へぇー、という相槌が大きな身振り手振りの雛子を取り囲む。
「それじゃあ、可憐ちゃんがピンク色なのはどうして?」
「お誕生日が9月の23日で、ええっと、星座は――」
「おとめ座です」
 顔を見合わせる衛と花穂に可憐が割って入る。視線が集まったところで、可憐が得意げに語り出す。
「可憐がピンク色を好きなのは別におとめ座のせいじゃなくて、お兄ちゃんに言われたからなんです。小さい頃に、今雛子ちゃんが着ているワンピースでお兄ちゃんに会って、『可憐ちゃんはピンク色が似合うね』って、頭をなでてくれたの」
 と、両手を胸の前で組み、感極まったという風に空を仰ぐ可憐。
「あー、浸ってるところ悪いんだけど」
 四の字固めへ移行していた鈴凛が手を上げた。言葉とは違い、悪びれた様子は微塵もない。
「アタシ、緑が似合うねってアニキに言われたことあるよ」
「四葉は、ユニオンジャックのブルーとレッドとホワイトがチャーミングだよって」
「姫は紫色ですの。頭のリボンも本当は黒じゃなくて、すっごく濃い紫」
「わたくしは桜色の友禅を。でも、どうせでしたら肌襦袢の桜色を褒めてくだされば……ああっ、兄君さまっ! そんな、いけませんわ。皆さんがわたくしたちを見ていますのに――」
 次々と挙手する姉妹たちに可憐は落胆の色を隠せず、ついにはその場にへたり込んでしまった。傍らで春歌が腰をくねらせているだけに、その落ち込みようが一際目立つ。隣にしゃがみ込んだ雛子が可憐の顔を覗き見た。
「可憐ちゃん、だいじょうぶ?」
「可憐とお兄ちゃんと、二人だけの思い出だと思ってたのに。……お兄ちゃん、ひどいです」
「そう、まったくひどいわよねぇ」
 少し演技の入った声が不意に響いた。
「もっと怒っちゃっていいわよ、可憐ちゃん。純真純情な可憐ちゃんのハートを弄ぶんですもの。それにしても、お兄様もなかなかどうして隅に置けないわね。奥手だとばかり思ったのに」
 そう言って、あぐらをかきながら足の爪を磨いていた咲耶が小さく肩をすくめて見せた。
「咲耶ちゃんは平気なんですか? お兄ちゃんに、みんなと同じようなこと言われるのって」
「私? 悪いけど、私はみんなと違うから」
 唇の端を歪めて、咲耶は悪戯っぽく笑う。
「お兄様に会おうってときに、いつも同じ服じゃ飽きられてしまうでしょ? だから、毎回必ず違う格好で臨むのよ。さすがに服の数には限りがあるから、そこはコーディネートでカバー。着こなしは重要な武器よ。既成概念ってものを植えつけないようにしなきゃ、ね?」
 熱っぽく語る咲耶の口ぶりに、いまいち要領を得ないといった風の小学生組。だが、それより年かさの妹らには何か思うところがあったらしい。その表情は一様に複雑だ。――なるほど、そういうわけか。いつもは無闇にくちばしを挟もうとするくせに。
「何よ千影。ニヤニヤ笑ったりなんかして気持ち悪いじゃない」
「いや、別に。どうせ咲耶くんのことだから、既製品で安易に済ませてるだけじゃないかと、ふと思ってね」
 春歌へそう呼びかけると、彼女は千影の意を察したかのように咲耶へ向き直った。二人にじっと射竦められた咲耶はギクリと肩を震わせる。
「し、失礼ね。裁縫ぐらいできるわよ。ねぇ、ヒナちゃん。昔、手提げバッグを作ってあげたでしょ?」
「えーっと、クマさんのアップリケがすぐに取れちゃった、あのバッグ?」
 悪意のない雛子の証言にくすくす笑いが広がった。
「墓穴だな」
 千影の冷静な指摘に咲耶の声が上擦る。
「それじゃあ、千影はどうなのよ。そんなに偉ぶってるんだから、さぞやお上手なことなんでしょうね?」
「上手かどうかはわからないが、儀式に使うマントの類は自分で縫ったな。あれはそう売っているものじゃないからね」
 あっさりと切り返された咲耶は悔しげに千影を睨んでいたが、やがてぷいっと顔を背けた。
 額を拭い、勝利の余韻に浸っていた千影だったが、その前にひどく神妙な顔もちの春歌が歩み寄り、ぺこりと頭を下げた。
「――千影ちゃん、今まで誤解していてごめんなさい」
「はぁ」
「わたくし、千影ちゃんもてっきり最近の若い方と同じとばかり」
 私よりも年下じゃないか、という台詞を飲み込み、千影はとりあえず頷いた。と、春歌が千影の両手をしっかと掴み上げた。
「今度、わたくしに洋裁を教えていただけませんか。そのお返しに、わたくしが和裁を教えて差し上げますから」
「いや、それはしかし、他人に教えるほどの腕では――」
「謙遜なさらないでください!」
 春歌が一際大きく手を振る。
「お互いの短所をお互いの長所で補い、そして助け合う。ああ、これぞ麗しき姉妹愛ですわ」
 春歌は身を反らせながら目を閉じ、ふるふると頭を左右に振る。
 ただでさえ芝居じみた振る舞いが多いというのに、今日の春歌はいつにも増してアクション過剰だ。日本に生まれていれば、宝塚も夢ではないに違いない。
 それはともかく、春歌の誤解を解かないことにはちょっと面倒だ。――彼女が真実を知ったら、どんなリアクションを返すのだろう。自分の身の丈よりも長いマントを縫ってしまい、裾を踏みつけて転んだ拍子に破れてしまったなどとは口が裂けても言えない。
 口をぽかんと開けて姉たちのやり取りを眺めていた亞里亞だったが、ふと何かを思い立ったかのように春歌の袖を引いた。
「あのね。姉やは、ウサギさんなの」
「ウサギさん?」
 問い返す春歌へ嬉しそうに微笑む亞里亞。
「だから、姉やのお部屋は、姉やの作ったウサギさんでいっぱいです」
「そ、それは当然だ。黒魔術の生贄には欠かせない」
 慌てて取り繕うが、早口でまくし立てたこともあって俄かに雲行きが怪しくなる。
「それでね、ウサギさんの姉やは、いつもウサギさんが後ろにくっついたパン――」
 千影は両手で亞里亞の口を塞いだ。腕の中でもぞもぞと身じろぎする亞里亞を無視し、ぎこちない笑顔を浮かべる。
「――何でもない」
「パンが……どうかされたのですか?」
「何でもないったら何でもない」
 しかし、きょとんと首を傾げる春歌の背後では、皆が顔を寄せ合ってひそひそと話していた。パンナコッタ? パンクラチオン? といった的外れな単語が切れ切れに聞こえてくる。視界の端にニヤニヤ笑いを浮かべる咲耶が見えた。
 と、その顔が急に真顔へ戻り、
「それにしても、よく昔の服なんて持ってきたわね。私なんて今着る分だけで精一杯だったのに」
 咲耶が矛先を変えると、会話の流れはたちまちに元へ戻った。
「そういえば、引越しのときの可憐ちゃんってすっごい荷物だったよね。アタシも工作機械とか手当たりしだいに持ち込んだんだけど、もしかして同じぐらいあるんじゃない?」
「そんな。鈴凛ちゃんほどたくさんじゃないです。ほんのトラック一台分でしたから」
「ほんの一台って、十分すぎデスよ」
「船便でコンテナ丸ごと一個を運ばせるような人に言われたくありません」
 可憐の反論に口を開きかける四葉だったが、鈴凛が素早く組み伏せて床に転がされた。鈴凛の目配せを受けて可憐が頷き返す。
「本当はもっとたくさんあったんですけど、ママに止められてしまって」
「でも、可憐ちゃんの家ってそんなに遠くないんだから、こんなにいっぱい持ち込むことないでしょ?」
「それはわかってます。だけど――」
 問い詰める咲耶に可憐が顔を俯かせる。
「可憐、あの家にはもう帰らないんです。パパにもママにも会いません。ずっとここでお兄ちゃんと一緒に暮らすって、可憐はそう決めたんです」
 リビングが水を打ったように静まり返った。
 可憐の気持ちは、痛いほどによくわかった。自分だけではない。他の皆にも等しく理解できたことだろう。
 自分はなぜここにいるのか。親の庇護を、住み慣れた環境を捨ててまでここに集う理由とは何か。それはもちろん――
「違うわよ、可憐ちゃん」
 鋭い声に顔を上げると、目を細めた咲耶がひたっと可憐を見据えていた。手の下で横たわる亞里亞が背中を丸めて縮まる。
「お兄ちゃんと一緒、じゃなくて、みんなと一緒」
 一瞬、可憐の瞳が燃え盛る炎のように輝いた。皆、息を押し殺して事の成り行きを見守っている。誰かが大きく鼻をすすった。
 息苦しささえも覚える二人の睨み合いは、廊下をゆるゆると近づいてくる足音によって中断された。
「あっ、女たらしのお兄様!」
 咲耶が戸口を指差して叫ぶと、何事かと立ち竦んだ兄の周囲に皆が殺到した。
「お兄ちゃん! 可憐、お兄ちゃんにどうしても訊きたいことがあります!」
「にいさまは姫のリボンのどこが好きですの? 色? それとも大きさ?」
「ひどいよ、あにぃ。タンクトップが似合うよって言うから、ボクの背中が日焼けでパンダみたくなってるんだよ」
 こうも一斉に問い詰められたのでは、さすがの兄も逃げるより他にない。
 兄を囲む甲高い声が徐々に遠ざかり、後には三人が残された。千影と亞里亞と、そして咲耶。
「さすがは黒幕。扇動はお手の物だな」
「別に。大したことないわ」
 立ち上がり、つまらなさそうに鼻を鳴らす咲耶だったが、亞里亞の近くに腰を下ろすとぼそりと呟いた。
「それにしても、可憐ちゃんがあそこまで強烈だとはね。昔からそういう傾向はあったけど、ここに来てからは異常よ」
「きっと怖いんだろうね。可憐くんは」
「どういうこと?」
「兄くんとひとつ屋根の下に暮らせる。ここまではいい。だが、私たち姉妹というライバルも同居だ。今までは兄くんと一対一、会う機会は少なくとも会っている間は確実に独占できた」
「なーるほど。自分の目の前でお兄様が奪われるんじゃないかって、そう思ってるわけね。ずいぶんとたくましい想像力ですこと」
「きみに彼女をどうこう言う資格があるとは思えないがね」
「何を寝ぼけてるんだか。アンタのことを言ってるのよ、この頭でっかちのネクラ女」
「言霊の扱いには気をつけるべきだね。口先ばかりのペテン女」
 売り言葉に買い言葉とばかりに罵りあう二人。そんな二人の間に亞里亞が割って入る。
「姉やのこと、いじめないで」
 亞里亞は咲耶からかばうような感じに、千影の胸へ抱きついた。肩越しに咲耶を見つめる顔には怯えの色が浮かんでいる。千影と咲耶にとっては日常茶飯事でも、亞里亞には驚天動地も同然だったのだ。
 そんな亞里亞に頭をぼりぼりと掻く咲耶
「何か悔しいわね。ほんの半月前まで、立場が逆だったのに」
 千影は何も言わなかった。以前の自分なら鼻で笑っていたことだろう。だが、今の自分には咲耶の気持ちが痛いほどよく理解できた。
 むずかる亞里亞をなだめようと手を伸ばす咲耶だったが、亞里亞は千影の胸に顔を押しつけるばかり。
「本格的に嫌われたみたいね」
「きみには雛子くんがいるだろう?」
 その問いに、咲耶は黙ってかぶりを振った。無言のままで顔を俯かせていた咲耶は、ふと思い立ったように明るい声で亞里亞に呼び掛けた。
「ねぇ、亞里亞ちゃん。私のお下がり、欲しくない?」
「お下がり?」
「うん、お下がり。本当は雛子ちゃんに譲るつもりだったけど、今は可憐ちゃんので間に合ってると思うし。亞里亞ちゃんさえよければ、次のお休みの日に取りに行くけど、どうする?」
 口を開きかける千影を咲耶の手が制する。千影の腕に抱かれた亞里亞は下からすくい上げるように、姉たちの顔を交互に眺めた。首を傾げて考える素振りを見せた亞里亞はやがて、おずおずと望みを口にした。
「亞里亞が欲しいのは、姉やのお下がりなの」
「私の?」
 予想外の成り行きに千影の声が裏返る。
「ふぅん。そういえばそうよね。よくよく考えてみれば、千影のほうがいいに決まってるか」
 わずかに眉を歪めた咲耶の口調はひどく平坦で、それが逆に彼女の感情を浮き彫りにしていた。
「しかし、つまならい服ばかりだ。かわいらしいフリルなんてついてない」
「ちょっと、ウソついてどうするの。昔、思いっきりフリフリのブラウス着てたじゃない。見てるこっちが恥ずかしいぐらいの」
「恥ずかしいって、そう思っていたのか? きみは」
「そうね。私はちょっと御免かな」
 咲耶の感想は率直を極めている。思い出を汚された気分になり、千影は思わず眉を顰めた。
「――あれは、母が私のためにと用意してくれたものだ。咲耶くんにどうこう言われたくない」
 沈黙が不意に訪れた。遠くから聞こえる皆のざわめきと、亞里亞の身じろぐ音がこの場を支配した。
 咲耶がくるりと背中を向け、
「ごめん」
 かすれた声でそう漏らした。
「いいさ、別に。もう残ってはいなだろうし、よしんば残っていたとしても今の亞里亞くんには小さすぎる」
 ため息混じりに吐き出して俯くと、こちらをじっと見上げる亞里亞と視線が合った。青い瞳が不安げに何度も瞬いている。
 どうしたものかと戸惑う千影へ、急に咲耶が向き直った。
「じゃあ、あれは? あれなら残ってるでしょ?」
「ちょっと待て。何を言ってるんだ?」
「そうそう、私としたことがあれを忘れてるなんてね。私もすっかりボケちゃったかなぁ。せっかくだからお兄様に介護してもらわないと」
「だから何を言ってるんだ、きみは」
 突然に話を振られて苛立つ千影に対し、悪戯めいた笑みを浮かべた咲耶は上機嫌そのものだ。
「千影の誕生日にいつも届くっていう、あのドレスよ。もちろん、残してあるわよね?」





 Next