きらきら back

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 よく見知った道だというのに、千影の足取りは重かった。これ以上先に進みたくない。行きたくない。あの家に戻ったところで、今さら何になるというのだろう。もう帰らないと決めたはずなのに。
 だが、小学生の頃にはよく通った道だ。まるで自動操縦装置のように足が覚えていた。操縦者がコントロールできるのは速度だけ。ゆっくりゆっくりと生まれ育った家に近づいてゆく。
 通う方向が変わったので、この道を通るのは中学へ進級して以来だ。いや、少し前にも通っただろうか。帰る、という一事さえなければ、懐かしさのあまりに寄り道しているところだ。
 左手の細い路地を道なりに歩くと銭湯の前に出る。積み上げたドラム缶から重油の臭いが漏れ出し、そこの前を通るときは鼻をつまんで一気に駆け抜けたものだ。
 その途中を右手へ逸れれば大きな空き地に突き当たる。雑草が生い茂る原っぱが長らく続いたが、中学へ上がったその年にマンションが建った。
 そこを横切ってW字状の坂道を下った先にあるのはトラムの廃駅。ホームの向こうには公園がある。思い出の公園だ。
 母に連れられ、兄と会い、咲耶と会い、そして母が消えた。悲しい思い出のある公園だ。
 千影は奥歯を噛み締めながらかぶりを振った。そうしないと今にも涙が出てきそうだった。
 そう、だからここへ来るのは嫌だったのだ。近づけば必ず思い出させる。とても辛いことを。
 それにしても咲耶のやつ、と千影は心の中で口汚く罵った。これも元はといえば咲耶のおかげだ。よくもまあ、引っ掻き回すだけ回してくれた。
 咲耶の思いつきは、姉たちの想像以上に亞里亞の心を捉えてしまったらしい。それからの亞里亞は、事あるごとに千影の服へ執着するようになった。
 例えば脱衣場。先に上がったと思ったら、脱ぎ捨てたブラウスとスカートを纏った亞里亞が鏡の前でくるくると踊っていた。おかげでもう一度お風呂へ入らせることになり、順番を待っていた皆から大ブーイングで迎えられた。
 例えば物干し場。洗濯物を取り込みに行くと自分の分だけが見当たらず、勝手に張り込みを開始した四葉が犯人の亞里亞を捕らえた。亞里亞の部屋に溜め置かれた洗濯物はしわくちゃで、再び洗濯機へ放り込む羽目になった。
 これをフェティシズムの現れと見るのはたやすい。愛する人を構成する一部を身につけることによって、より身近に感じられる。一体感を得られる。千影自身も兄の髪の毛を大事にしまい込んでいるのだ。兄の頭から直接抜いた、それも白髪となればそうそう手に入るものではない。無論、他の姉妹らには秘密だ。亞里亞にも秘密だ。
 しかし亞里亞のそれは、フェティシズムとはまた違うような気がしてならない。もっとプリミティブな――そう、ピアノ弾きのライナスが毛布を手放せないでいるような、そんな感じ。あるいは、外で泊まった後に潜り込んだ自分のベッドだろうか。布団にも枕にも自分の匂いが染みついている。スプリングにガタが来ていても、それに勝る安眠の材料はない。
 知らぬ間に千影の口からため息が漏れ出る。全く、咲耶は本当に余計なことを言ってくれた。
 お下がりを譲ること自体に何ら異論はない。むしろ歓迎だ。袖を通さないままで捨て置かれたあのドレスにしても、亞里亞ならきっとよく似合うことだろう。同じ母が見立ててくれたのだ。間違いはない。
 だから、お下がりそのものに問題はなかった。問題は生家へ取りに帰るという、その一点に尽きた。
 千影の視界の端にちらりと動くものが見えたのはそのときだった。
 何だろうと足を止めて見ているうち、数匹の黒い子ネコたちが道端の茂みから頭を覗かせた。生後二ヶ月ぐらいだろうか。よちよち歩きができるほどの大きさで、ガラス玉のような眼がきらきらと輝いていた。対岸から聞こえる鳴き声は母親のものらしく、子ネコたちは押し合いへし合いしつつ、我先とばかりに道を渡ってゆく。
 それを見つめる千影の顔に笑みが浮かぶ。ネコを嫌う人間はイコール、糞害かアレルギーに悩まされる人間だ。千影はそのどちらでもない。ウサギほどではないが、やはり千影もネコを好いていた。
 小さな冒険を見届けた千影は再び歩を進める。母ネコの声がまだ聞こえるが、あれはきっと子供たちを誉めているのだろう。柄にもないリリカルな想像に千影は苦笑した。と、その足元に小さな影が横切りかけ、そして、ぺしゃっと潰れた。
 それは黒い子ネコだった。だが、先ほどの数匹よりは一回り小さい。子ネコは千影のつま先に座り込み、にぃにぃと鳴いている。子供とはいえ、俊敏さが売りのネコが人のつま先で転ぶなどあまり考えられない。よほどに鈍なのか、さもなくば育ちが悪いのか。
 千影は途方に暮れた。手を差し伸べたいのはやまやまだが、それは大自然の摂理に反している。今は愛玩動物に成り下がったとはいえ、外に住み暮らす彼らは十分に野生を残している。安易な手助けは好ましくない、ような気がする。――こんなとき、あの人だったらどうするのだろうか。
 千影がまごまごしている間に母ネコが悠然と進み出て、鳴き叫ぶ末っ子をくわえて連れてゆく。
「――あ」
 千影の声に母ネコが振り返った。視線が交わり、動きが止まる。
 母ネコはみすぼらしかった。目やにがびっしりとこびりついた顔は汚れ、乳房は地面へ届こうかというほどに長く伸びている。かつては艶やかに輝いていたであろう毛並み色褪せている。どこにでもいる野良ネコだ。
 しかし千影には、彼女の姿が美しくも気高く見えた。母親だけが持ちうる威厳を、確かに見た。
 母ネコは呆然と立ち尽したままの千影に興味を失ったらしく、足早に去っていった。
 千影はしばらくの間、彼女の消えた茂みを見つめていた。


 郵便受けからあふれ出た新聞で義父の不在がわかり、千影はほっと胸をなで下ろす。
 いつになく気弱な自分に自嘲めいた笑みを浮かべる千影だったが、実のところ、義父とは顔を合わせたくなかったのだ。
 そう、これも思えば妙な話だ。十年以上も前に実の親子でないとわかっていたのに、わかったその後も親子の体裁を取り続けていたのだ。
 自分の立っている足場がどういう状況なのか、それを知るには他の場所から見るより他にない。離れて暮らして、初めて気がついた。自分たちの姿に。
 それだけに、今ここで顔を合わせてもどう接すればいいのか見当がつかない。とはいっても、既に冷え切っていた間柄だ。気まずい空気がさらに気まずくなるだけのこと。しかし、避けるに越したはない。
 千影は酒ばかり喰らって絵を描こうとしない義父を嫌っていたし、義父は義父で、憎しみをむき出しにした冷ややかな視線で責め苛む千影を避けていた。
 最愛の人を失った義父の無念さはわからなくもない。三人家族だった頃の二人は、幼い千影の目にもまばゆく映るほどだった。イーゼルを挟んで楽しげに言葉を交わす二人。
 あの頃の義父は輝いていた。陽光を受けてきらめく母を太陽とするならば、投げ掛けられる光に表情を変える義父は地球だった。
 そして千影は二人の間を行きつ戻りつし、ぐるぐると回る月だった。あるときは義父の遣う変幻自在の筆に驚き、またあるときは母の膝へ座ってモデル気取りで微笑み、そしてまたあるときは――
 陽の恵みを失った地球は永久の闇に閉ざされた。酒瓶を大事そうに抱えながら徘徊する義父の姿に、新進気鋭の画家としてもてはやされた面影はない。
 玄関の扉を開けると、重く澱んだ空気が千影目掛けて殺到した。
 一歩踏み込んだ途端、鼻を突くかび臭さに顔を顰める。しばらく見ない間に一段と荒廃が進んだらしい。廊下にはうっすらと埃が積もっている。
 自宅とアトリエを兼ねた家は無駄に広い。自分の部屋へ行くにも、扉が立ち並ぶ廊下を何度も折れ曲がらねばならないほど。加えて築数十年の古さということもあり、床板がひどくうるさい。元は、同じく画家だった祖父――義父の父――の持ち物だったらしいのだが。
 自分の部屋は出て行ったそのときのままだった。とはいっても大体は持ち出したので、十畳を超える大部屋はひどく殺風景に映る。残っているのは三本の書棚と、それにぎっしり詰まった本。読まなくなったものを置いていったのだが、いずれは手元に引き取らねばならない。
 千影はぐるりと部屋じゅうを見渡し、踵を返して立ち去った。ここにないのはわかっている。引越しの際に全てさらったのだ。あるとすれば、恐らくは彼の部屋だ。今日が留守で何よりだった。
 アトリエの窓にはカーテンが厚く張り巡らされ、ひどく薄暗い。ふと見上げた切妻の高天井には塗り込めたような闇。カーテンの隙間から差し込む光が、散乱した空き瓶の輪郭を浮き上がらせていた。壁際に立ち並ぶイーゼルはまるで墓標のようにも見え、千影の心に陰をもたらす。
 千影は何かを振り払うように勢いよくカーテンを広げ、家捜しを始めた。
 押入れには埃が厚く積もり、わずかな身じろぎだけでもうもうと舞い上がる。くしゃみと戦いながら荷物をひとつひとつあらためてゆく千影だが、それは全て徒労に終わった。残るは押入れの上の戸棚だ。ジャンプして覗き込むと、それっぽいビニールの包みがある。千影は手近な箱で作った足場によじ登り、戸棚へ手を突っ込んだ。
 その指先に触れたのはビニールではなく、開いた紙箱の縁だった。もう少し指を伸ばすと、今度は巻いた紙にぶつかる。やや厚みがあるので賞状の類を連想したが、その割には表面がざらついている。これは何だろうか。
 好奇心をそそられた千影は足場の上で爪先立ちし、さらに背を伸ばした。指が巻いた内側をなぞる。と、不意の湿った感触に腕がびくりと震えた。
 その刹那、千影の身体がふわっと宙に浮く。
 大きく傾いだ天井を、巻いた画用紙が横切った。


 *


 かたん、かたん、かたん。
 千影の歩みに合わせて、赤いランドセルがリズミカルに鳴る。
「どうして、あんなことをしたんだ?」
 不意に男の声が頭上から降り注いだ。
 千影は繋がれた手を握り返し、その人を仰ぎ見た。
 よく見知った顔が少し困った風に眉を寄せ、千影を見つめていた。伸び放題だった無精ヒゲはきれいに剃り落とし、アルコールとテレピン油の代わりに香水の匂いを薄く纏っている。
 口を閉ざしたままの千影に苦笑いを浮かべると、前へ向き直り、ふと真顔に戻った。千影もつられて前を向く。
 行く手の水たまりを避けようとした千影は、何気なく水面を覗き込んだ。アスファルトの灰色が透けて見える、青い空と白い雲。そして、水鏡から見返していたのは黒髪の少女だった。
「パパのことは別にいいんだ。何しろ、本当のことだからな。『パパのおしごとはよっぱらいです』――うん、いや、まったくもってその通りだ。千影はきっと、いい小説家になれるな」
 俯いたままで歩く千影の耳に、義父のため息が届いた。
「なあ、千影。どうしてあんなことをしたんだ? 先生も不思議がっていたぞ。いつもおとなしい千影ちゃんが、って」
「だって、みんながちかのことをウソつきっていうから」
 千影は地面を見つめながら答えた。気配で義父が見つめているのがわかる。
「ママのおえかきしてて、それで、ちかはちゃんとママの絵をかいたのに、みんながウソだっていうから」
「それで、みんなの絵にいたずら書きしたんだな」
「ちがうもん! いたずらなんかじゃないもん!」
 千影は手を振りほどき、キッと睨み上げた。義父は呆然と立ち竦んでいる。
「ちか、ウソつきじゃないもん。ちかはほんとうのママをかいたのに、きいろで髪をかいたら、みんながそんなのおかしいっていうの。黒い髪なのに、金色の髪のママはヘンだって」
「千影……」
「おんなじようちえんのあっくんとまいちゃんがちかの髪がほんとうは赤いっていってくれたけど、でも、みんなしんじてくれないの。ウソつきだっていってちかのママを黒くしちゃうから、だからちかは、みんなのママをきいろくしたの」
 義父の膝が、何かに打ち据えられたかのようにがっくりと折れた。そして、千影を抱き寄せる。
「すまない……よかれと思ってやったことが、そんな――」
 それは途中から鼻声になっていた。義父は大きく一度、鼻をすする。
「パパは怖かったんだ。ママの残してくれた千影を、つらい目に合わせたくなかったんだ。ママのせいで……パパの大好きなママのせいで、千影がいじめられるんじゃないかって、それが怖かった。パパは」
「じゃあ、ママをよんで!」
 千影は突き飛ばすようにして義父の腕から逃れた。
「ママがいたらしんじてもらえたのに! ママの髪が金色だって、ちかは、ほんとうのママの絵をかいたって。みんなにウソつきっていわれないのに。ママが……ママがいてくれたら、ちかは……」
 振り絞るように叫ぶ千影の視界がぐにゃりとぼやけた。こみ上げる新たな悲しみが涙へと形を変え、頬を伝わり落ちる。
「ちか、ママにあいたい。ママに、あいたいよぅ……」
「パパも、ママにあいたいよ。三人で、またいっしょに暮らせたら……」
 義父が再び手を差し伸べ、千影の頭をかき寄せる。千影は逆らわなかった。
 黒い髪をもみくちゃにされながら、最後に義父の手に触れたのはいつだったろうと思い、それでまた少し悲しくなって、千影は泣いた。


 *


 再び天井が見えた。
 その奥に潜む暗闇に夕暮れの橙色が差し掛かっている。
 また夢を見ていたらしい。
 千影は声もなく笑った。こんなことばかりだ。まったく、最近の私はどうにかしている。
 床を何気なく這わせた左手に、巻いた画用紙が触れた。その正体を確かめようとした千影は、自分が誰かの膝枕で横たわっていることに気づいた。そして、小さくやわらかな手が自分の右手に絡められていることも。
 耳をすませると安らかな寝息が聞こえた。千影は、膝枕の主を起こさぬよう、そっと頭をもたげる。が、その途端に走る後頭部の鈍痛に小さく声を上げた。
「……あ、姉や?」
 眠たげな声が覆い被さる。
「姉や、大丈夫? 痛くない?」
 その後に、小川のせせらぎにも似た衣擦れが続く。上下逆さまになった亞里亞の顔が見えた。縦に巻いた銀髪の先端が千影の瞼をくすぐる。
 無言のままの姉に、亞里亞がふっと表情を曇らせた。
「……姉や?」
「それより、どうしてきみがここに?」
 ようやく亞里亞が笑った。
「咲耶ちゃんが、姉やのおうちを教えてくれたの。それで、衛ちゃんのマウンテンなんとかの後ろに乗って、風みたいにぴゅーって」
「そうじゃなくて、ここへ来た理由を――」
 向き直ろうと頭を起こしかける千影だったが、ずきんと走る痛みに顔を顰める。
「じっとしてて」
 亞里亞はそう言うと、千影の額に手を押し当てて自分の太ももへぎゅっと押し込んだ。気のせいか、ごわついた感じがする。
「ダメだよ。姉やの頭は重いだろう?」
「ううん、いいの。いつも姉やばかりだから、今は亞里亞の番ね」
 千影は何かを言おうと口を開きかけ、すぐに閉じた。そして、大きく一度息を吐き出す。
「――わかった。じゃあ、お願いするよ」
「でも、それだけだとぜんぜん足りないから、あとで髪も編んであげます」
「髪?」
 頭に手をやると、知らぬ間にシニヨンがほどけていた。編み癖のついた髪がゆるやかに波打っている。
 そういえば、私はどうしたのだろう。
 足場によじのぼって戸棚を探ったところまでは覚えている。カールした紙に触れて、その内側に驚いて、身体が浮いたような感じになって……。加えて、この後頭部の痛み。
「私は倒れていたんだね、亞里亞くん。」
「姉や、床の上でずっと眠ってました。亞里亞が何回呼んでも起きないから、もしかして、ずっと眠ったままかもしれないって。そう思ったら、亞里亞はすごくこわくなったの」
 千影を握る手にぐっと力が篭る。
「だけど、よかった。姉やが起きてくれて」
 くすん、と亞里亞が鼻をすすった。
「だけど、どうして来ようと思ったんだい? 私が気を失っていたなんて、きみにわかるはずないのに」
「ううん。亞里亞は、何となくわかったの。急に姉やのことが心配になって、いつもは甘い白雪ちゃんのチョコレートブラウニーもぜんぜん甘くなくなっちゃったから、それで衛ちゃんに大急ぎで連れてきてもらったの」
 いかにも亞里亞らしい言い回しに千影は苦笑する。
「そうか。まずは衛くんにお礼を言わないとな」
「でも、今おねむなの」
 亞里亞の指差すほうを見ると、壁にもたれかかったままで眠る衛の姿があった。彼女をここまで追い込むとは、よほどに急いできたのだろう。
 その手前には、戸棚からばら撒かれたとおぼしきものたちが夕暮れ色の中に散乱していた。プラスチックの名札、図工の時間に作った貯金箱、ソプラノリコーダー、父の日の作文。そして、母の日のお絵かき。内側にクレヨンがべったりと塗られているのがここからでもわかる。
 それらは全て、千影が捨てたはずのものたちだった。
 千影は亞里亞の縛めからやさしく逃れ、上体をゆっくりと起こした。ずきずきと疼く頭を押さえながら首を巡らせた千影は、亞里亞の服装に思わず我が目を疑った。
「その格好、一体どうしたんだい?」
 小首を傾げてぱちぱちと瞬く亞里亞。やがて、その顔が悲しそうに歪む。
「似合ってない?」
「いや、そうじゃなくて……しかし、それではほとんど四葉くんだな」
「ドレスのままだと自転車に乗れないから、咲耶ちゃんからみんなのお下がりをもらったの」
 亞里亞の言うとおり、それは皆の寄せ集めだった。デニムのパンツは恐らく四葉のもので、若草色をしたマオカラーのブラウスは鈴凛以外にない。その上から羽織ったショート丈のトレンチ風コートは咲耶のお下がりだろうか。後ろ前にかぶった野球帽だけが妙に浮いて見えるが、これは後から衛が手渡したのかもしれない。それでも、年齢の割に大柄な亞里亞だけに、いつもよりぐっと大人びて見える。今なら四葉と互角か、それ以上だろうか。
 上下へ舐めるように動く姉の視線に、亞里亞は「似合う?」と不安そうに繰り返した。
「帽子を取れば、かな」
 亞里亞の反応は早かった。普段からは想像もつかない速さで野球帽を取り、手ぐしで髪を整える。眉根を寄せているところをみると、どうやら自分でも気に入っていなかったものらしい。
「おいで」
 千影が手招くと笑顔を浮かべた亞里亞がにじり寄り、くるりと背中を向けた。
「ブラシがないから、今は姉やの手で我慢してくれ」
「うん」
 結局、いつも通りになってしまった。
 そう思いながら動かす手が、不意に赤く染まった。太陽がまた一段と沈み、夕日が横合いからなぎ払うように入り込んでくる。千影の目に入るもの全てが赤い。
 亞里亞の髪に目を落とした千影は、その変貌ぶりにハッと息を飲んだ。
 銀髪が赤い夕日を受け、金色に輝いていた。……義父が見たら何というだろうか。母の色を写した少女のことを。
「――ありがとう」
「えっ、なあに?」
 千影のひそかな呟きが亞里亞の耳に止まった。
 何でもない。そう言おうとした千影は思いとどまったようにかぶりを振り、ひとつひとつ確かめるように言葉を紡ぎ出す。
「きみが……亞里亞くんが、ここにいてくれて、それがとてもうれしいんだ。だから――」
「亞里亞もうれしいです。姉やがいてくれて、とっても」
 亞里亞が肩越しに振り返った。
「亞里亞は姉やの妹だから、姉やがいなかったら亞里亞もいなかったの。だから亞里亞は、姉やがいてくれてとってもうれしいです」
 そう言って、亞里亞ははにかむように笑った。
「亞里亞の近くにいてくれて、ありがとう。姉や」
 千影はいきなり亞里亞の頭を手挟み、前を向かせた。そして、無言で髪を梳いた。梳きながら鼻をすすった。ひとりだったときに比べて、涙をこらえるのが下手になった。そう思った。
「謝らないといけないな。私は」
「あやまる?」
「ああ。きみにウソをついていたからね」
「ウソ?」
 千影は夕日に目を細め、こう言った。
「本当はやっぱり、姉やは赤い色なんだ。赤い色が好きなんだ」
 それを受けて亞里亞がくすくすと笑う。
「ほら、亞里亞の言ったとおりでしょ?」
 千影はそれに答えず、亞里亞の髪に顔を埋めた。
 バラの香りに混じって、ほのかにお日さまの匂いがした。





 Fin.