各々が誰かと喋りながら摂る夕食を、一人無言でゆっくりと噛んで食べる。
昨日とは違って、円形の食卓には穴が一つ空いていた。視線を走らせ居並ぶ顔を確かめていくと、衛の姿が見当たらない。おそらくは部活動が長引いているのだろう。今日は陸上部の衛だったが、日によってはチアリーディングの花穂や薙刀の春歌であったりする。
世間一般の常識から考えれば、ほぼ毎日、十三人もの大人数が揃う事自体がどうにかしている。休日ならばともかく、学校という制約のある平日でもスケジュールを算段して食卓に集まる。これは全て、兄の存在によるところが大きい。
その兄の様子を、箸を動かしながらそっと窺う。
今日、彼の両隣に座っているのは亞里亞と雛子だ。箸を握り締めながら大きな身振りと手振りで話をする雛子と、話が途切れたタイミングを見計らって兄の袖を引く亞里亞に挟まれ、兄の食事はほとんど進んでいない。もっとも、誰が座っても兄を会話に責めしてしまうことに変わりはないのだが。
やがて食事も終わり、手を合わせてから箸を置く。今日の食事当番である春歌は、食後に緑茶を淹れるのを日課としているが、差し出されようとする茶碗をあらかじめ手で制するのも、また自分の日課となっている。やかんに残った湯を沸かし直して紅茶を作ると、キャンディポットから白雪お手製のミント味ピーナッツタフィーを二つ取り出し、いつもの場所へと座る。
そこはリビングの中でもとりわけ視線が届きにくい。リビングとダイニングを区切る引き戸がそこへ畳み込まれ、加えて書棚がその一角を覆い隠す。その場所に設えた椅子へ座って初めてわかるのだが、こちら側から眺める分にそれらは全く支障とならない。
蘭の花にも似た祁門の香りを胸いっぱいに吸い込んでから一口啜り、タフィーを口にする。ミントとピーナッツの香りを楽しみながら、リビングで銘々にくつろぐ姉妹たちの姿をそれとなく見つめる。
今の生活を始めてから、ずっとこのようにして定点観測を続けている。
当初はこれからの自分の立ち振る舞いを決めるため、何となく行っていたのだが、姉妹間の微妙な関係が次第に浮き彫りとなるにつれて次第に面白くなり、ついには日課となってしまった。
一番わかりやすいところでは、互いに距離を置こうとする白雪と春歌がそうだ。厨房を舞台として毎日のように争っているのだから、敵愾心を抱くのも当然といえる。微かに得意げな顔をした春歌がちらちらと視線を送る先には、眉を顰めながらティーカップの縁を小突く白雪の姿がある。明日の夜には、また一風変わった料理が白雪によって振舞われることだろう。
この二人は割に良好な、微笑ましい敵対関係だが、可憐と四葉に関してはそうも行かない。一度、目に見える形でトラブルを起こしているだけに、周囲が気を使いすぎるきらいがあるのかもしれない。いや、それ以前に二人の性格が問題だった。
可憐は過剰なまでに神経質で、四葉は呆れるほどに無神経。可憐が、また四葉に兄との思い出を汚されるのではないかと邪険な態度を取れば、どうして可憐に冷たくあしらわれるのか理解できない四葉は、遠慮無しに可憐のテリトリーへ侵入し、それを見た可憐は――という具合に。不穏な空気を察知した咲耶と鈴凛は、何気ない風を装って言葉巧みに二人を引き離す。二人の陰の働きがなければ今頃どうなっていたことだろうか。
二杯目を淹れようとキッチンに立ったちょうどその時、息せき切って衛が帰って来た。腹がくちくなってソファーでまどろんでいた花穂が勢い良く飛び起き、いそいそと衛の食事の支度を手伝う。
そういえばと、ふと思った。この二人はいつも一緒にいるような気がする。ともすれば、運動が得意な子は下手な子を見下す傾向にあるが、衛にはそういった陰湿さが全く見当たらない。一方の花穂も、自分の要領の悪さを気に病んで必要以上に卑屈になることもない。花穂は活発な衛を慕い、衛は花穂のひたむきさに惹かれる。一見して対照的な二人だが、よくよく見ると実にうまくはまっているコンビだ。
コンビといえば、ここ最近、咲耶と鈴凛の組み合わせをよく見掛けるようになった。いや、正確にはあの地震の日以来だろうか。およそ共通項の見当たらない二人だけに、いささか腑に落ちない点もあるのだが。しかし、あの時風呂場で何が起きたのやら。
それと同時に、以前から鈴凛と親しかった四葉が、所在なさげにうろつく姿を多く見掛けるようにもなった。同居以前からメールのやり取りをしていた間柄なだけに、四葉の心中は察するに余りある。万事に屈託の無い四葉だが、ああ見えて実はかなり繊細なのかもしれない。露骨に咲耶を避ける態度と共に、今後のいい観測目標だ。
咲耶の肩越しにファッション雑誌を覗き込む鈴凛。そんな二人へ未練がましく視線を送る四葉。そして、部屋の隅からそれを見つめる自分。己が観察の対象になっているとも知らず、皆は思い思いに振舞う。胸の奥が少し痛い。
二杯目の紅茶を飲み終える頃、部屋の片隅で寝そべっていたミカエル――鞠絵の飼っているゴールデンレトリバー――が不意に身を起こし、戸口の前で座り込む。それから間も無くして床の軋む音が聞こえ、パジャマ姿の兄が扉を開ける。皆はミカエルの動きで兄が来るのを察知しているので、その時には全員の視線が濡れた髪をタオルで拭く彼に注がれている。
最初のうちは妹たちの出迎えにひどく狼狽していた兄だったが、毎日のように繰り返されるので今はもう慣れてしまったらしい。困惑の色を表情に出す兄などそうそう目にする機会はないので、正直な話、少し残念に感じてしまう。我ながら悪い妹だ。
皆の意識が一箇所に集中したところで、入浴する順番を話し合いに入る。元がホテルなので男性用のバスルームはあるにはあるが、男性が兄一人しかいないので甚だ効率が悪い。そこで、この家の主人(本人は否定しているが)たる兄が一番風呂を使いその後に皆が入る、という決まりになった。
順番に、とはいっても一人一人がバラバラに入るわけではない。バスルームのキャパシティーを越えないよう、おおよその時間帯を決めておく程度のものだ。年少の亞里亞と雛子を誰が入れるのか決めた後は、それぞれの予定を擦り合わせつつ談合を進める。以前はこちらへ話が振られることもあったが、同じ答えを返し続けたので今では半ば蚊帳の外となっている。
話が終わったらしく、先に入る何人かが連れ立って部屋を出、残った者は兄を取り囲む。このままここに留まり、あの手この手で兄の気を引こうと努力する姉妹の姿を観察するのもそれほど悪くはない。が、一人で居ると兄に声を掛けられてしまいかねないので、早々に退散を決め込む。兄に声を掛けられるのはとても嬉しい。しかし、大勢の中で喋ると、自分の低い声が場の空気を冷やしてしまいそうで、それが怖い。
空になったカップを流しへ運び、兄を一瞥してからキッチン脇の扉をくぐる。
私室は自分一人だけ三階を選んだので実に静かなものだ。時折、皆の笑い声が潮騒のように聞こえてくるが、この静寂を打ち破るほどの力はない。ページをめくる音のみが、この空気を支配する。
再び下へ降りる合図は、階下のざわめき具合を参考にする。互いに部屋を行き交う足音、ドアを開閉する音が一段落するのを確認して、ようやく部屋を出る。
一人きりの入浴を済ませて、すっかり人気の消えたリビングへと足を向ける。特に何事もなければ皆の話し責めから解放された兄がいて、床に新聞を広げている。兄の邪魔をしないように、キッチン側の扉からそっと入る。
湯呑みを手に舐め回すようにして目を通す様は、普通ならば年寄り臭く見えてしまうものだが、全くそういう感じを与えない点が兄の兄たる所以だろうか。いや、そういう風に見えてしまうのは、幼い頃の記憶のフィルターが影響しているせいかもしれない。
あれは小学校に入る前のことだろうか。兄が新聞のあちこちを指差して、習ったばかりの漢字の読みを諳んじて見せたことがあった。それまでは聞き手に徹することの多かった兄がいきなり自分の能力をひけらかすようなことをしたのでそれが印象深く、今でもよく覚えている。思えば、後にも先にも兄がそういった言動を取った場面を見たためしがない。つまりはそれだけ、我を忘れるほどに嬉しかったのだろうか。
今もあの時と同様に、兄の横顔を見つめている。熱心に新聞を読むその姿は昔と何ら変わりも無い。知らず知らず、唇から忍び笑いがこぼれ出る。
と、兄がおもむろに顔を上げてこちらを見、手招きをする。今の笑い声でこちらに気付いたらしい。迂闊もいいところだ。一体、何のために気配を消していたのやら。
観念して兄の元へ行く。やや間を置いて座るが、何か言いたげな目でこちらを見るので、少しだけにじり寄る。
同居を始めてから今まで以上につれない態度を示すので不安だ、と兄は言う。何か不満でもあるのかい? との問いには、首を横へ振って答えた。これ以上一緒に居るといたずらに兄を悲しませるだけになるので、オカルトの専門用語で煙に巻き、足早に部屋へと戻った。
兄が嫌いなわけがない。嫌いではないからこそ、敢えて距離を置いている。本当は他の姉妹たちみたいに、もっと傍へ近付いて、もっと一緒に居て、もっとたくさん話がしたい。子どもの頃のように手で髪をすいてもらいたい。撫でてもらいたい。抱き締めてもらいたい。
ベッドに腰掛け、手近な本をぐっと抱え込んで感情の高ぶりを抑え込む。
窓の外にはカーテン越しに綺麗な丸い月。満月の夜は、精神に大きな影響を及ぼすという。
沈静効果のある青い香を、古ぼけた鏡台から取り出して火を点ける。立ち昇る花の香りを、時間を使って浴びる。
ベッドへ横たわり、月明かりの中で揺らぐ煙を見つめている内に、いつしか眠りへと誘われる。
千影の夜は、いつもこのように更けて行く。
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