千影にはそれが夢だとわかっていた。
夢だとわかっていても、抵抗せずにはいられなかった。
ここへ越してから、千影は毎晩同じ夢を見るようになった。
夢の中での千影はいつも幼い姿だった。初めて兄と会った時の、小学校へ上がる前ぐらいの年齢だろうか。お気に入りだった、フリル付きの白いワンピースを着ている。
始まりは常に一定で、窓が小さく薄暗い部屋から再生される。
ぐるりと部屋を見回すと、そこかしこに無機物のウサギが佇んでいる。大小さまざまな置物、テーブルクロス、ティーカップ、飾りスプーン、ハンカチ、シーツ。壁には、ウサギのレリーフで飾られた額縁。中に納まっている絵画にもウサギがいる。千影はそれらを一つ一つ手に取り、すぐ元の場所へと戻す。千をも越えるウサギの、そのどれもが千影の興味を引かない。
首が痛くなるほど見回して、いい加減ウサギたちの値踏みに飽きた頃、大きな音を立てて扉が勢い良く開かれる。戸口から差し込む強烈な光で室内は満たされ、部屋全体が小さく揺らいだ気がした。目を細めて扉の方を見ると、小脇に大きな何かを抱えた人影が手招きをしていた。千影はそれが何なのか知っている。誰なのか知っている。迷わずに駆け出した。
夢の中での兄は、いつも大人の姿をしている。今の兄より少しだけ身長が高い。顔立ちはどんなだろうと視線を上へ向けても、逆光がひどくて何も見えない。顔がわからなくとも、それでも兄は兄だとわかる。
息せき切らした千影の前へ、兄が脇に抱えた包みをそっと置く。遠目にはわからなかったが、それは千影の背丈ほどの大きさがある。紺色のリボンを解き、ウサギ柄の包装紙を丁寧に剥がしていくと、中から白いウサギのぬいぐるみが顔を出した。この瞬間は何度繰り返しても、その都度嬉しさがこみ上げる。
その途端、部屋中のウサギたちが一斉に動き出した。鳴き声はおろか足音一つも立てずに、押し合いへし合いしつつ窓から逃げ出す。以前に何度か、好奇心からウサギを捕えようと試みたことがあった。しかし、どれだけ手を伸ばしても綿毛一本かすりはしなかったので、今は彼らが逃げるに任せている。
その代わりに、目の前のぬいぐるみをじっと見入る。今の彼(もしくは彼女)と違い、毛色は雪のように白く、その手触りはどこまでも柔らかだ。思わず、めいぐるみに頬ずりをする。包装紙のインク臭に混じって、微かに兄の匂いがした。
そんな千影を見て、兄は笑いながら手を伸ばす。『さあ、行こうか』。
兄のその言葉で千影は我に帰る。ここだ、いつもここでしくじってしまう。今日は。今日こそは。
必死の思いで兄の手を取った。離すまいと、力一杯握り締める。
それを見た兄は小さく頷き、真っ白な世界を歩き出した。千影も共に歩き出そうとして、ふと、傍らのぬいぐるみの存在を思い出す。兄くんからもらったたいせつなプレゼント。いっしょにつれて行きたいけど、そのためには兄くんの手をはなさないといけない。でも、手をつないだままだとこの子はおきざりになってしまう。ここへもどってこられるかわからないから、おいたままではだめ。どうしよう、あにくんとうさぎさん。どっちもだいじ。でも、えらばなきゃ。どうしよう。あにくんもうさぎさんもだいじ。えらばなきゃいけないのにえらべない。どうしよう、どうしようどうしようどうしよう。
交互に両者を何度も見た。答えは出そうにもない。千影の主観では10秒近く経過していたが、兄が歩き出す気配は無い。夢の中での出来事なので、まだ両方と手を繋いでいられる。
このままでいられればいいのに。そう思った刹那、再び時が動き出した。いきなりだったので、千影は大きくバランスを崩してその場に転ぶ。兄の右手から千影の左手がするりと抜けた。
苦痛に歪んだ顔を上げて、兄の姿を探した。3秒と時間は経っていないのに、兄はもう遠かった。そして兄の隣には、自分と同じぐらいの背丈の人影があった。あらゆる所が光に覆われているのでシルエットしか見えないが、その人影は二つ括りの髪をしているように思えた。
ぬいぐるみを抱え、あわてて走り出した。大人でも手を焼きそうな大きさは、今の千影にとって足枷以外の何物でもない。足を取られて何度も転びそうになる上、綿もこれだけまとまると相当に重い。にもかかわらず、それを置き去りにしようとは思わなかった。身軽になれば、あるいは追い付けるかもしれない。しかし、兄からの贈り物をなおざりにするなど、千影には考えも及ばなかった。
走っても走っても、兄との距離は縮まなかった。こちらを振り向こうともしない兄の様子に胸が潰されそうになる。喉の奥がちりちりと痛い。それは酷使している肺の悲鳴か、あるいはこみ上げてくる涙の仕業か。
袖で目元を拭ってから叫んだ。まって、あにくん。ちかはそのこじゃない。ちかはここにいるよ!
全く聞こえていないらしく、兄は千影に気付いた素振りを見せない。あにくん、ちかをおいていかないで。あにくん! あにくんあにくんあにくん!
叫びながら走ったので立ち眩みが千影を襲う。身体の自由が戻った時には地面に突っ伏していた。右の肘が痛むので、ぼんやりとした頭をそちらへ向けた。擦り傷が赤い花に見えた。痛みと、白一色の世界に反旗を翻すような色彩とで、退行気味だった意識が戻る。跳ねる心臓をなだめながら深呼吸をし、ゆっくりと立ち上がった。
兄の影は遥か彼方にある。この体で追っても捕まえられるかどうか。今まではここで諦めてしまい、そう決意した途端に夢から覚めてしまった。ならば無理を承知でこのまま追うのはどうだろうか。
ばたばたと騒がしかった胸も落ちついてきた。体のあちこちが痛むが、どうせ夢の中での出来事だ。心の持ち方次第でどうにでもなるはず。
ぬいぐるみを抱え直し、再び走りだそうと一歩踏み出したまさにその時、空に異変が起こった。鞭を打つような音と共に、空一面へ亀裂が走った。中天を境に二つへと割れた空は、千影を目掛けてのしかかる。
千影は兄のいた方へ手を伸ばした。
――助けて、兄くん。
一際大きな音が轟き、暗闇が世界を覆った。
最初に千影の目へ飛び込んだのは、天井へ突き出された自分の右手だった。
大きく息を吐き出し、ベッドに手を投げ出した。
呼吸を整えながら目を閉じ、夢の中での出来事を反芻する。結局いつものように流されてしまったが、最後に少しだけ変化の兆しを見て取れたのは大きな収穫だ。あの場面を何度もイメージしておけば、明日以降に役立つかもしれない。寝起きの薄ぼんやりとした頭でそんなことを考えているうち、ある事に気が付く。
千影はおもむろに上体を起こした。寝汗で貼り付いた夜着を直しながら、部屋を見回す。自分の正面から順に左へ。部屋の扉、オカルト関連で埋め尽くされた書棚。更に左の壁面へ視線が動き、赤いビロードが敷かれた小机。紫檀製のそれは、主に占い専用として使われている。そこから窓際へ向かって、ハイチェスト、ローチェスト、そして小机同様に紫檀で作られた鏡台が並ぶ。
千影は思わず口元へ手を遣った。鏡台の脚が片方折れ、床に倒れている。引出しの中身が周囲に飛び散っていた。鏡が割れていないのが不幸中の幸いだろうか。
夢で聞いた轟音の正体に目星が付いたので、再び布団へ潜り込んだ。ぜんまい式の柱時計は、日の出直後の時刻を示していた。ベッドを出るにはまだ早い。それに、あのまま放置しておいても困るのは自分だけだ。皆から離れているので誰かに見られる心配もないし、見られたからといって別段どうということもない。
寝返りを打つと、目の端にほの白い影が映った。首を回してそちらを向き、黒いプラスチックの瞳と見つめ合った。兄から渡されて十年余りが過ぎたぬいぐるみのウサギは、至る箇所に傷やほつれがあり、満身創痍と言っても差し支えのない有り様だ。あの雪のように白かった毛色は、長年に渡る日焼けで多少黄ばんで見える。
千影はぬいぐるみを抱き寄せ、その体に顔を埋めた。自分の匂いと太陽の匂いが鼻腔をくすぐる。しかし、兄の匂いが全然しないことが急に悲しく思えてきて、少しだけ涙が出た。
どれだけそうしていただろうか。
さっきより部屋が明るくなった気配を感じて目を開けた。時計の長針が左へ90度動いていた。しばらく寝入っていたらしい。
東向きの部屋なので時刻の割には明るい。ベッドを抜け出て部屋の片付けをするには少し早く、三度寝を決め込むには若干遅い。
ウサギの耳を弄びながら、これからどうしたものかを決めあぐねていると、どこからか言い争う声が聞こえてきた。体を起こして聞き耳を立てた。声の主たちは早朝であることを考慮しているのか、声をひそめつつ口論している。一人は独特のイントネーションから四葉だとわかった。もう一人は、やや聞き取りにくい声質から鞠絵が連想されるが、その温和な性格からして四葉と仲違いするとはとても思えない。
言い争う声が一段と大きくなった。その声は足音を伴なって次第に近付いてきた。この階の住人は一人しかいない。となれば、口論の内容と自分との間に何らかの相関関係があるとしか思えなくなる。現に、会話の端々へ自分を呼ぶ声が混じっているではないか。寝起き直後の倦怠感で少々怪しげな頭をぬいぐるみに乗せ、そんなことをぼんやりと考えた。
果たして、二人分の足音は千影の部屋の前で止まる。双方共に相変わらず声はひそめたままで、四葉の喧嘩相手がどうにもわからない。わかったところで何かあるわけでもないが、自分が口論の種とされているのかもしれないので、やはり気にはなる。さりとて、自ら仲裁に入るような真似はしたくない。姉妹たちへのちょっとした愛想や気遣いが出来ないからこうして離れているのに、どうして自分から近付く必要があるのか。それに、ややもすれば咲耶なり鈴凛なりが引き取ってくれるだろう。
結局、好奇心よりも心の平穏を選んだ千影は三度寝を敢行すべく、布団を頭から引っ被った。私は何も見ていないし聞いてもいない。
しかし、真鍮製のドアノブと鍵穴から響く耳障りなノイズで、千影はすぐ飛び起きることになる。四葉の探偵としての能力は眉唾ものだが、その性格から察するに、鍵を再起不能に追い込む可能性は極めて高い。
ベッドから飛び出て扉へ向かいかけて、ふと足が止まった。僅かとはいえ涙を流した顔は、きっと酷いことになっているだろう。鏡で確かめたかったが、肝心の鏡台が倒れたままだ。扉からの騒音は千影を急かすかの如く、更にボルテージを高めつつある。諦めるより他ない。せめてもの身だしなみをと、手櫛で軽く髪を整えた。
千影はドアノブを掴んで引き開けた。扉に寄り掛かりながら破壊活動にいそしんでいた四葉が、素っ頓狂な悲鳴と一緒に倒れ込んできた。
「あーん、もう。千影ちゃん、イキナリ開けるなんてひどいデス」
千影の足元へ跳ね飛んだヘアピンに手を伸ばしてもがく四葉を、腕組みした千影は冷やかな風体を装って見つめた。
「四葉くん、朝からずいぶんと元気がいいんだね」
「ハイ、四葉はいつでも元気いっぱいいっぱいなの!」
皮肉のつもりで言ったのだが、全く伝わっていない。咲耶ならばともかく、四葉に変化球は通用しないようだ。ならば直球を投げてみるしかない。
「そうかい? なら、ちょうどいい。これからソロモンの悪魔、アンドロマリウスを召喚するから彼の相手をしてくれないか? そうそう、彼は罪を犯した人間が大好きでね、今の四葉くんなら、向こうもきっと満足してくれると思うんだ」
千影の他愛無いハッタリを真に受けたのか、みるみるうちに四葉の顔が青くなる。
「み、み、未遂デスよ未遂。だから罪とか罰だって、そっ、そんなに重くなんかゼンゼンありまセン!」
最近、咲耶を抜いて姉妹の中で最長身となった千影を、それも地べたから見上げているものだから、四葉には大きく写ったらしい。
加えて千影の切れ長の目だ。愛想の無い普段の態度と合わさって、千影の周囲に近寄り難い空気を生み出している。いくら無神経な四葉であっても、これは容易に打ち破れない。
四葉は手をバタバタと動かし、うつ伏せた体を蛇のようにくねらせながら後ずさりした。
「四葉ちゃんが『上からスゴイ物音がしましたデス! これは大事件の予感がぷんぷんと匂ってくるデス!』って部屋を飛び出したから、それで注意したのに全然聞いてくれなくって」
頭を抱えて震える四葉の後に、呆れ顔の少女が立っていた。
「誰かと思ったら、まさか可憐くんだったとはね」
身だしなみを整えてしまうには早い時刻だというのに、可憐はしっかりと着替えを済ませていた。胸元にリボンをあしらったチェック柄のワンピース。髪にもきちんと櫛が入り、左右に一房づつの三つ編みが揺れている。対称的に四葉はオレンジ色のパジャマのままで、寝癖で髪の毛が四方八方へと飛んでいる。
「可憐ちゃんってばひどいんデス。もしかしたら、千影ちゃんがベッドから落っこちて大ケガしてるかもしれないのに、四葉へイジワルして通せんぼするの」
「またそんなこと言って。四葉ちゃんの目的は千影ちゃんの部屋を調べることなんでしょう?」
そんな可憐の言葉を裏付けるかのように、四葉は再び前進を試みていた。千影が進路を塞ぐ形で立ち位置を変えると、小さなうなり声を立ててその場で止まった。
「千影ちゃんも可憐ちゃんもケチんぼデス。見ても減るものじゃないんデスから、少しぐらい見せてくれてもイイと思いマス」
「だからって、可憐がお兄ちゃんに出そうとしてた手紙を、それもあんな大声で音読するなんて……」
「あー、えーっと、そうデスね。アレはちょっと四葉が悪かったデス。四葉もあんなことされたら、恥ずかしくてハリネズミになってしまいそうデス。だから、今度からはモクドクでチェキするデス」
「もう! 可憐が言いたいのはそういうことじゃありません。盗み読みを止めてもらいたいだけなの」
「ぬ、盗み読みなんてシッケイデス。こまめなチェキは名探偵として当然の心がけデス」
反省の色を微塵も見せない四葉の態度に、思わず可憐の語気が強まる。
「千影ちゃん。千影ちゃんからも何か言ってください」
「わ、私かい?」
千影には全く予想もできなかった可憐の言葉だった。まさか矛先が自分に向けられるなんて。頃合いを見計らって扉を閉め、フェードアウトしようと考えていたのに。
「まあ、その、さっきの物音は、鏡台の脚が折れて倒れてしまった際のものだと思うんだが」
内心の動揺を出さないことに集中したため、頓珍漢な答えをしてしまった。自分のうかつさに、自然とため息が漏れる。
「鏡台が? 大切にしていたんでしょう? 千影ちゃん、かわいそう……」
可憐は目を伏せて、ふるふると首を振った。千影のため息を壊れた鏡台によるものと解釈したらしい。咲耶ほどではないが、可憐も身なりには相当気を使う。それだけに、身につまされるものがあったのだろう。
一方の四葉はといえば、
「うーむむ、ひょっとして四葉にウソついてたりしてまセンか? 四葉の推理によれば、あれは千影ちゃんが寝ぼけてベッドから落っこちた時の音だったのデス」
胸元に手を入れてまさぐり、虫眼鏡を取り出した。
「名探偵四葉ちゃんの前に真実は一つ! なのデス」
うずくまった姿勢のまま、右手の虫眼鏡を頭上に掲げる四葉。
「千影ちゃんが悲しんでいるって時に、何バカなことを言ってるの! とにかく、それを渡しなさい」
「あー、あー、だめデスよ、これは絶対に絶対に渡せまセン。なぜなら虫眼鏡は名探偵の仕事道具なのデス」
「そんなものがあるから四葉ちゃんは余計な事を考えて、それでみんなが迷惑するんです」
可憐のその言葉を合図に争奪戦が始まった。二人は大きく手を振り回し、場所を入れ替え、パタパタとスリッパを鳴らしながら踊る。
千影には可憐と四葉の姿が猫のように見えた。リズミカルに飛び跳ねる髪は、優雅に打ち払われる尻尾を連想させる。
ともかく、このまま見ていても埒があかないのは確かだ。それに、妥協も譲歩も知らないこの二人を放置してはおけない。少女同士の他愛ない争いとはいえ何が起こるかはわからないし、何かがあってからでは遅い。ここは可憐の部屋ではないのでいつぞやのように刃物を振り回されることはないが、他の妹たち、そして兄の目に入る可能性が高い。兄の姿があればたちどころに争いは止む。しかしそれでは、互いの不満を押さえ込む格好となってしまう。いわゆる、臭いものには蓋、というやつだ。蓋が乗っている間はいいが、何かの拍子に外れてしまった時が恐ろしい。臭いは元から絶たねば。だが、どうやって?
依然として猫のじゃれあいは続いていた。これだけの騒ぎだ、階下の住人にも伝わっているはずだが、特に誰かが動き出す気配も感じられない。そろそろ咲耶なり鈴凛なりが仲裁に来てもいい頃ではないだろうか。
交渉人がなかなかやって来ない理由を考えているうち、ふと嫌な考えに突き当たった。もしかして、咲耶がこの二人をけしかけたのではないだろうか、と。
千影は慌てて首を振った。火消しが火種を煽る道理は無い。千影と咲耶。お互いに快く思っていないのは事実だが、宣戦布告をするにしても周囲を巻き込まないだけの分別はある。
いつの間にか二匹の猫は動きを止め、睨み合いに移っていた。
「ふっふーん、この四葉ちゃんの動きについてこられないとは、まだまだ甘いデスね、可憐ちゃん」
額にうっすらと汗をにじませた四葉が軽口を叩く。
対する可憐は無言のままだ。息が上がり、口を開くどころではないらしい。その代わり、目を細めて鋭い視線を四葉に送った。
「二人とも、それで気は済んだのかい」
千影の方を一瞬見やった二人だったが、すぐに睨み合いを再開した。
「可憐ちゃんがイジワルするからイケナイんデス。四葉はちっとも悪くありマセン」
と、そっぽを向いて腕組みをする四葉に、
「しかし、可憐くんが言うことももっともだと思うが。手紙はともかく、タンスまで漁るのは行き過ぎではないかな」
「そうです。自称名探偵が泥棒さんみたいな真似をするなんて。いくら姉妹の間柄でも、やっていい事と悪い事があります」
得たりとばかりに可憐が追撃する。
「まあ、可憐くんも可憐くんだ。注意するにしても、もう少し違う言い方があるんじゃないかな。それでは四葉くんが意地を張るばかりだ」
「もう、千影ちゃんは一体どっちの味方なんですか? 可憐を助けてくれるんじゃないんですか?」
「そうデス、千影ちゃんは可憐ちゃんの味方をするのデスか? ショウザフラッグ千影ちゃん、なのよっ!」
二人の矛先が千影へ向けられた。その剣幕に半歩下がってしまう。
「どうしてそこで私に振って――」
目まぐるしい展開に、千影の頭は半ばパニック寸前だった。静寂と静謐を好む千影にとって、これは拷問にも等しい。大声で怒鳴り散らして二人を追い払えればどんなに楽なことだろうか。
しかし、ここは冷静に、スマートに切り抜けなくてはいけない。大きな声を出したり、あるいは感情的に受け答えてしまっては、今までに築き上げた自分のイメージが崩れてしまう。ここは努めて冷静にならなくては。
千影は大きく深呼吸した。
「私はどちらの味方をするつもりもない。ただ、自分の考えを述べるだけだよ。可憐くんには可憐くんの、四葉くんには四葉くんの、そして私には私の主義や主張がある」
そこで一旦言葉を切り、念を押すかのようにして二人の顔を交互に見た。
「だけど、自分の意志を曲げないのと力づくで押し通すのとは違う。相手を立てて自分が譲歩したとしても、自分の主義主張は変わらないはずだ。違わないかい?」
千影の指摘に、可憐はあっと小さく声を上げて顔を俯かせた。急にしおらしくなった可憐の様子に戸惑い、四葉がきょとんとした表情を浮かべた。
「とは言うものの、四葉くんが疑うのも無理はないからね。証拠を見せようじゃないか」
四葉の反応は早かった。
「ほッ、本当なのデスか千影ちゃん! 四葉にお部屋をチェキさせてくれるのデスか?」
「ああ、本当だ。ただし、入り口から覗き見る程度に、だけど」
「ううん、それでも全然オッケー、ノープロブレムなのデス!」
と、四葉はその場でくるくると回った。
そんな四葉を横目に見ながら可憐が、千影にそっと近寄り囁き掛けた。
「いいんですか? 千影ちゃん。ちょっと甘やかし過ぎかなって、可憐は思いますけど」
「いいんだよ。窓を破られてしまってからでは遅いからね。そう、可憐くんは他人の部屋を見たいとは思わないのかい?」
四葉に口やかましく注意した手前もあってか、遠慮がちに可憐は口を開く。
「えっ? あの、それはその、やっぱり気になります。特に千影ちゃんって、普段何をしているのかわからないから」
千影は可憐にうなずいて見せると、四葉を手招きした。
「戸口から見るだけだ」
そう言って、鏡台が見える程度にまで扉を開いた。
おそるおそるといった様で首を差し入れる二人を見て、千影はベッドのぬいぐるみの存在を思い出した。さり気無い振りを装い、立ち位置をずらして対応する。
「鏡台って、あれのことですね。本当、脚が折れてて」
「クフフゥ、これが千影ちゃんのお部屋デスか。むむっ、アヤしげなフインキがただよってくるデス」
「四葉ちゃん、それを言うなら雰囲気、です。フ、ン、イ、キ」
「そ、そうだったのデスか? フンイキ、フインキ、フンイキ……でも、LとRの発音ほど重要ではありマセンね」
「だめよ、日本語は正しく使わなきゃ。今度、可憐がちゃんと教えてあげます」
「だったら、可憐ちゃんには四葉の英語レッスンを受けてもらいマス。これでLとRはパーフェクトなのデス」
その後も可憐と四葉の会話は途切れることなく続いた。四葉の発言に可憐が指摘を入れるという形ではあったが、先ほどまで仲違いしていたとは思えないほどに睦まじい姿だった。
千影はそんな二人の姿に、自分と咲耶の関係を重ね合わせていた。幼少の頃、思い焦がれていた兄と共に現われた咲耶。自分と兄との仲に割り込む咲耶。いつも兄の向こうに見える咲耶。私の、私の兄くんなのに――
柱時計の鐘の音が、思索の世界から千影を引き戻した。
「いけない、もうこんな時間なの!」可憐が大きな声でうろたえる。「どうしよう、お兄ちゃん、もう起きちゃってる」
可憐は心底慌てた様子で駆け出していった。
「もしかして、まだあれを続けているのかい?」
「そうデス、毎日毎日ずーっとデス。おかげで、いつまでたっても兄チャマの寝顔がチェキできないのデス」
リビングでの定点観察が千影の日課ならば、目覚めた兄にフェイスタオルを手渡すのが可憐の日課だ。
引越しの翌日の朝。筋肉痛に痛む体で扉を開けると、タオルを手にした可憐が普段着で立っていたので、兄は腰を抜かさんばかりに驚いたらしい。それが一日限りのイベントではなく、翌朝も、その翌朝も、そのまた翌朝もと続くので止めるようにと兄は言ったが、可憐は頑として首を縦に振らなかった。部屋に入るわけではないので咲耶もケチの付けようが無い。
「四葉、千影ちゃんがうらやましいデス。千影ちゃんなら、水晶玉に手をかざしてムニャムニャってすれば兄チャマの寝顔がチェキできるのに」
「さて、それはどうだろうね」と、適当にはぐらかしておいて「四葉くん、そろそろ終わりにしてもいいかな」
四葉の肩に手を置いて促した。
あからさまに不満の色を見せる四葉だったが、ある程度は満足したのか素直に従った。
「もっともっとチェキしたいけど、今日はこのぐらいにしておきマス。おいしいケーキは最後に残しておくと楽しいのデス。えっと、あの、それで、千影ちゃんにちょっとお願いがありマス」
千影には四葉のお願いの内容が想像できたが、黙ってうなずいた。
「また、千影ちゃんのお部屋をチェキさせてくだサイ。今みたいに、ドアからでもかまいマセンから」
「ああ、わかったよ。また今度に、ね」
「そうデスか、やっぱりダメなのデスね、ってホントにホントにオッケーなのデスか! キャッホー、千影ちゃんスキスキ大スキ!」
まくし立てるように言うと、四葉は千影に勢い良く抱き付いた。そうして千影の夜着に頬ずりすると、呆気に取られたままの千影を残し、飛び跳ねながら廊下の奥へと消えていった。
千影は扉を後ろ手に閉めて、その場にへたり込んだ。夢の内容といい、可憐と四葉の襲撃といい、これは何かの前触れだろうか。
タロットで今日一日を占うことを思い付き、立ち上がり掛けてまた座った。
千影の体から異音が大きく響いた。
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