くんくん−3
 ツイていない日は、本当に何をやってもツイていないものである。
 それは朝の一騒動に始まり、不穏気な一日をタロットで占おうとしてカードの端で指を切り、今までになかった失敗に気を取られてコーヒーをこぼし、慌てて後始末をすれば花穂と正面衝突、千影にまとわり付いて半べそで悔やむ花穂をなだめながら登校すると弁当を忘れたことに気が付く始末。
 特に千影のように神経質な人間は、僅かでも軌道が逸れるとその修正が難しい。一つの出来事にこだわり過ぎるあまり、次への対応がどうしても後手後手となってしまうのだ。しかも、止せばいいのに自分のペースへ戻そうと無理をして、ますます傷口を広げてしまう。蟻地獄に落ちた蟻が脱出しようと足掻き、足元を崩しては更に穴へとはまり込むようなものだ。
 度重なるアクシデントによる疲労で千影の顔は蝋のように白く染まり、そして仏頂面で眉間に皺を寄せるものだから、昼休みには千影の周囲に緩衝地帯が形成されていた。普段の千影ならばいい人払いができたと歓迎するのだろうが、今日に限ってはあからさまに自分を避ける周囲に千影の神経が苛立つばかりだった。
 授業が終わるとクラス委員の制止を振り切り、さっさと教室を後にした。背後から自分を呼ぶ声が聞こえたが全て無視した。一刻も早く自分の部屋に戻りたかった。何人たりとも犯す事のできない、自分一人の聖域へ。
 飛ぶようにして帰宅し、自室へ戻る前にちらとリビングを覗き込んだ。
 今日は休講だったらしい兄が、亞里亞と雛子の相手をしていた。相手、とはいっても特に何をするわけでもなく、ただ話し相手になっているだけのようだ。亞里亞も雛子も初等部の中学年となり、昔のように絵本を読み聞かせて満足する年ではなくなった。二人一緒に兄の膝へ座ることもできない。兄の膝はこれ以上に広くはならないが、二人は今が育ち盛りだ。
 亞里亞が雛子より一年上なのだが、その体つきには一回り近い差がある。雛子も年齢の割には大きい印象を受けるものの、年相応の範疇には入らないこともない。対して亞里亞は、明らかに平均を上回っている。実際に亞里亞のクラスを見たわけではないが、銀色に輝く髪も手伝い、クラスの中では一際浮き上がった存在なのだろう。事実、抜群の歌唱力を持つ亞里亞は、週に何回か高等部の合唱部の練習へ参加しているという。
 そんな亞里亞は、雛子と一緒にいるとどちらが姉だかわからなくなってしまう。かつて同居していた咲耶に感化され、多少大人びた言動をする雛子と対比するからでもあるし、亞里亞がまだ日本での暮らしに馴染んでいないからでもある。しかし、亞里亞がフランスの生家で我侭いっぱいに育てられたことによる影響は否めない。
 雛子の問い掛けに、スローモーな動きで亞里亞が応える。首を傾げ終えるのに、きっかり五秒を費やした。千影はそれを見届けてから大階段へ足を向けた。
 踊り場のステンドグラスが千影を虹色に染める。
 階段を昇り切ったちょうどその時、兄と雛子の笑い声が耳に届いた。奥のキッチンにいたらしい白雪の声も混じっている。亞里亞の声は聞き取れない。千影は、常に茫洋とした亞里亞の顔を思い浮かべた。
 表情もそうだが、感情の変化にも乏しい。自分からは動こうとせず、誰かに言われて初めて意志の表示をする。フリルの付いた豪奢な服を好み、その姿は常に人形を連想させる。
 しかし、ひとたび亞里亞が歌い手となれば、その全てが別人になる。歌のトーンと同調して万華鏡のように表情を変え、その瞳には全てを見通すかのような強い光が宿る。そして何よりも、亞里亞の歌には彼女自身の感情が折り込まれている。兄に誉められて嬉しい時の歌は皆を笑顔にさせ、自室に篭り、すすり泣きと共に漏れ聞こえる望郷の歌は、聞く者全てに涙を流させた。
 恐らく亞里亞は、音楽を司る神に愛されているのだろう。言葉ではなく歌によって己の感情を表す。努力だけで身に付けられる才能ではない。そして、その天賦の才と引き換えに、言葉を紡ぎ出す術を削がれてしまったに違いない。
 アリア。独唱曲。
 亞里亞の二親は何を思ってそのような名を与えたのだろうか、と千影は思った。
 しかしそれを言えば、「千影」という名もあまり一般的とは言えない。あるいは「千景」でもよさそうなものを、何故「千影」にしたのか。影、などというネガティブな文字を使う理由がどこにあったのか。
 兄と十二人の妹たちは、全員が同一の男女から生まれたわけではない。姉妹間で統一性を欠いた瞳や髪の色が、何よりもそれを物語っている。
 とはいえ、仮にも姉妹という間柄なのだから、割合はともかくとして同じ遺伝子を持っているのは確かなはずだ。ただ、親についての話題が姉妹間の会話へ登ることはまずあり得ない。
 思春期を迎える年頃になれば、男と女というものが否応にでも見えてくる。自分の見知っている親の姿と他の誰かが語った親の姿が同じであったならば、そこから導き出される答えは自ずと限られる。そして、異父姉妹ないし異母姉妹と確定したところで、より親密になれる保証などもない。心身共に大きく変化するこの時期の少女に、男女の仲を“そういうものだ”と割り切れるだけの精神的なゆとりがあるとは考え難い。
 取り止めの無い思考ですっかり足が重くなった。
 のろのろと三階へたどり着くと、鈴凛が部屋の前で座り込んでいた。千影の体に疲労がどっと押し寄せる。
 鈴凛を押し退けようか、他に独りになれる場所を探そうか。どうしたものか決めあぐねている間に鈴凛が千影に気付き、読んでいた文庫本を傍らに置いて大きく手を振った。
「おかえり、千影ちゃん」
「いつから、どうしてここにいる」
 棘棘しい言葉に、他ならぬ千影自身が驚いた。露骨に感情が出ている。
「今日は電器店の特売に行きたくて、それで学校休んじゃったからさぁ。お昼食べてから、かな」
 気分を害した風でもなく、伸びをしながら鈴凛が答えた。
「よく兄くんが許したものだな」
「んー、そうね。あんまりいい顔はしなかったけど、学校は皆勤賞狙いでもないし」
 と、悪びれた様子もない。
「で、用件は――」
「あ、そうそう。これ」と言って、鈴凛はポケットから何かを取り出し、千影の手に押し付ける。「刺さりっぱなしだったよ」
 外出時に追加で掛けておく南京錠の鍵だった。慌てて上着をまさぐるが、確かに無い。朝のドタバタで錠から抜き忘れたものらしい。
「それで、昼からここに?」
「まあ、そんなところかな。このままにしておいたら四葉ちゃんがいたずらしそうだし」
「そうか。それは、すまない」
 自分の間抜けさと鈴凛の思い掛けない気配りが、千影の顔を僅かに赤く染める。軽く咳払いをして、
「だが、これだけのためにいたのではないんだろう?」
「あー、そうそうそう。鏡台の脚が折れちゃったんだって?」
 千影が首の上下で肯定すると、
「今朝ね、可憐ちゃんが『千影ちゃんの大切な鏡台が壊れてしまったんです。お願い鈴凛ちゃん、鏡台を直してあげて欲しいの』って凄い剣幕で言うから、それで」
 自分の胸元に両手を添えた鈴凛が答えた。
「可憐くんの声真似、なかなか上手いじゃないか」
「そうかな? 今始めてやってみたんだけど」
 鈴凛は初めくすくす笑っていたが、やや呆れ気味な口調で、
「でもさぁ、アタシって機械触るのが得意なだけで別に大工ってわけじゃないし、合板の安物ならまだしもアンティークなんでしょ? だから出来ないって言おうとしたんだけど、可憐ちゃんの目が真剣そのものだから断り切れなくって。まあ、それでここにいるんだけど」
「まあ、可憐くんらしいといえば可憐くんらしいが。しかし、災難だったね」
「ううん、いいのいいの。千影ちゃんも大変だったんでしょ。アタシが爆睡してなければ二人を止められたんだし」
「いや、気にすることはないさ。おかげできみたちの苦労がわかったよ」
「あー、もう。無理しない無理しない」鈴凛は肘で千影を小突く真似をしながら、「朝ご飯、いつもより多く食べてたでしょ。普段はおかわりなんてしないのに、今朝に限って二回も席立ってたから」
 千影は何ともいえない、微妙な笑みを鈴凛へ返した。観察していたつもりが逆に観察されていた。その事実が、千影の顔をさらに赤らめさせる。
「で、どうしようか。一応、可憐ちゃんの顔を立てて、見るだけは見……?」
 鈴凛が千影の異変に気付き、口ごもった。
「大丈夫? 顔、すごく赤いんだけど。熱とか無い?」鈴凛はそう言いながら自分の手を千影の額へ当てた。「んー、ちょっと熱っぽいかな」
 今日は本当によくわからない日だ。強固な壁を張り巡らせていたつもりだったが、こうも簡単に破られるなんて。
「少し、馴れ馴れしすぎやしないかい」
 苛立ちが十分に含まれた千影の反応を受けて、鈴凛がぱっと体を離した。
「ご、ごめん。千影ちゃん、こういうの嫌いなんだよね」
「そういうわけではないが――」
 先ほどまでの勢いを失い、力なく肩を落とす鈴凛を見ていると、胸の奥がちくちくと痛む。
「すまない。今日は色々とあり過ぎて、それで疲れているんだ」
「うん、そうだよね。ホントごめんね、全然気が付かなくってさ」
 と、頭を掻く鈴凛。「じゃあ、鏡台は今度でいい?」
 千影は即座にうなずいた。
「わかった、廊下の端にでも出しておく」
「なぁんだ、部屋へ入れてくれるんじゃないんだ」
「そんなに気になるものかい」
 その答えに、鈴凛がやれやれといった風にため息をつく。
「千影ちゃん、それ本気で言ってる? いっつも鍵掛けっぱなしで南京錠のオマケ付き。それで気にならないわけないじゃない」
 南京錠に目を向けながら続けた。
「ホルマリン漬けの標本とか山羊の頭とか、そんな得体の知れないのが一杯じゃないかって皆で噂し合うぐらいだよ」
 千影は苦笑を顔に貼り付かせて、「まあ、否定はしないでおく。何なら、可憐くんか四葉くんに聞いてみるといい」
「そんな言い方されたら、もっと気になるのになぁ」
 これで可憐ちゃんへの義理も果たしたから、と最後に言い残して鈴凛は去っていった。
 階段の軋む音が聞こえなくなると、千影は鍵を開けてぬるりと中へ滑り込んだ。教科書とノートで一杯になった鞄をベッドへ投げ出し、自分もその傍へ腰を下ろす。
 東向きの部屋は、千影の心を写し出したかのように薄暗い。
 四葉といい鈴凛といい、なぜ自ら進んで他人に関わりたがるのだろうか。
 ――ネクラ。
 幼稚園の頃。どうやってみんなの中へ入ればいいのかわからず、遠巻きにうろついている千影をある一人が指差してそう言った。
 最初はただの伝言ゲームだった。
 初めの一人からその友達へ、そこから更に大人たちへと繋がっていくに従って千影のイメージは他者によって形作られていき、千影は最終的にそれを受け入れてしまった。
 植え付けられたイメージを払拭しようと抗ってみたこともあった。しかし、全てが千影にとって悪い方向へと働いてしまった。
 内気で人見知りする性格では弁明の機会がなかなか回って来ず、「千影」の名はレッテル貼りを容易にさせた。加えて、日本人離れした赤黒い髪が拍車を掛けた。
 アルビノはただ白いというだけで仲間から虐げられる。他に何ら変わりはないというのに。
 色そのものが悪いのではない。皆とは違うから悪いのだ。そして、目立つもの、異質なもの、つまり自分たちと違うものは排除しようとする。子どもの世界ではそれが特に顕著だ。
 千影はベッドから腰を上げ、鏡台の前に跪く。
 前脚が一本、中途半端に折れていた。書棚から最近読まなくなった本を取り出し、脚の代わりに鏡台へ噛ませる。
 ふと顔を上げると、鏡の中の自分がこちらを睨んでいた。今日はずっとこんな顔でいたのかと思うと、急に腹が立ってきた。鏡を叩き壊してやりたい気持ちをねじ伏せ、散乱した引き出しの中身を集め始める。
 おしゃれには気を使う年頃の千影だが、同い年の咲耶に比べて鏡台の占有物は驚くほど少ない。むしろ咲耶が多すぎるのかもしれないが、その大半が香で占められているのは奇妙と言わざるを得ない。
 壊れた香の選別をしているうちに、千影は見覚えのないペンダントトップを見つけ出した。
 ダイヤとカメオを贅沢にちりばめた金色の小瓶。5cmにも満たない大きさとはうらはらに、手の上でずっしりと重い。どうも本物の金で作られているようだ。軽く揺すってみると、中で液体が動いているらしき手応えがある。
 好奇心を赴くままに小瓶の蓋をねじり上げた。継ぎ目を封じていた蝋がパラパラとこぼれ落ちる。鼻に小瓶を持っていくと、微かに何かの匂いがした。悪くはない。むしろいい匂いだ。
 中身の正体を確かめぬままに、手首の内側へ一滴垂らして塗り付けた。体温によって揮発した香気が、千影の鼻をふわりとくすぐる。
 それはバラの甘い香りだった。
 長く放置され随分とひなびてはいるが、紛れもなく母の匂いだった。千影の脳裏にかつての母の姿がよみがえる。
 子ども心にも少女趣味とわかるフリル付きの洋服。千影に本を読み聞かせようと、母がページをめくるたびにフリルのひだが揺れ、その隙間からバラの香りがこぼれ出た。
 千影が持ち込んだクローゼットには、フリルで飾られたその手の服が何着も眠っている。母が無理に着せようとしたので、こういった服はあまり好きではない。恐らくは一度も袖を通すことなく、ただ埃を積もらせるだけとなるだろう。
 最後に母の姿を見たのは五歳の誕生日。目の前に山と積まれたプレゼントは、もしかして手向けのつもりであったのかもしれない。
 母の身に何があったのかは知らない。何度となく義父を問い詰めたが頑として口を割らなかったので、そのうちにどうでもよくなってしまった。
 あれから千影が誕生日を迎えるたびに、差出人不明のプレゼントが届く。フリル付きの上下を毎年欠かさず、それも千影の成長に合わせて贈る人間など、一人しか思い当たらない。
 真実を知る機会はまだ残されている。生きていてさえいれば、今はそれでいい。
 千影は、いつまでも手首をさすり続けていた。


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