室内を満たす朝日に誘われるまま、千影は目を開けた。
何事もない目覚め。いつもと同じ目覚め。
昨日の夜は特に何かあったわけではなく、普段通りに過ごせた。食後の紅茶をたしなみ、リビングの隅に陣取り、そして入浴は一番最後。日中のようなスラップスティックはもううんざりだ。
夢を見た記憶は無いが、それだけ疲れていたということなのだろう。現に時計の短針は、普段目覚める際の位置よりもかなり進んでいる。今日が土曜日で命拾いをした。
着替えを済ませて髪を結い上げようとし、その時始めて鏡台が無いことに気が付いた。鈴凛に言われるまま、昨日の間に廊下へ出しておいたのだ。あとは手鏡しか見当たらない。廊下で髪を梳かそうかとも考えたが、その姿を想像するとあまりに滑稽なので止めた。だからといって鏡台を再び部屋へ戻すのもどうにかしている。
千影は結局、立て掛けた手鏡の前で屈伸運動をしながら、髪をポニーテールに仕立て上げた。頭の動きにつられて動く毛先が鬱陶しいが、シニヨンにできないのでは仕方がない。手のひら程度の鏡で髪を纏めあげるのはことのほか難しいのだ。
部屋を出ようとして、つま先がかさりと何かに触れた。慌てて足を退けると、そこには扉の隙間から差し込まれた和紙があった。縦に四つ折りされたそれには毛筆で今朝の献立が記されていた。必要以上に和を強調した振舞い。中を見なくとも、それが春歌によるものだとすぐにわかる。珍しく寝坊した千影のために、わざわざ書き置いたらしい。
千影はそれを丁寧に折り畳んで懐へ収め、部屋を後にした。
「うーん。やっぱアタシには無理ね、これ」
横倒しにした鏡台の元の場所に折れた脚をあてがいながら、鈴凛が首を横に振った。
千影はその声に振り返り、窓から差し込む光で目を細めた。
「そうか。まあ、駄目なら駄目でいい」
「技術的には可能なんだけど、継ぎ目の処理とか失敗できないからそれが怖くって」
千影のあまりに素っ気無い答えに機嫌を損ねたのか、鈴凛の口調はやや不満げだった。
逆光の中で鈴凛の表情は見えず、千影からは廊下の床板にあぐらをかくシルエットしか判別できない。
「いや、そこまで気に止めなくてもいいってことだよ。そう重要なものでもないから」
「でも、これって紫檀だよね。結構古いし、飾り彫りも丁寧だし。前に誰かが使ってたんでしょ? お母さんとか、お祖母さんとか」
鈴凛は鏡の縁をなぞっている。
「あったのを適当に持ってきただけだ。由来は知らない」
その言葉に偽りはない。母が使っていた部屋へ置き去りにされていたのを持ち出したのだ。当初は義父に断りを入れるつもりだったが、長年使われていない場所であるにも関わらず埃一つ無く磨き上げられた鏡台の姿は、千影にとある企みを思い付かせた。
千影は鏡台を無断で運び出すことにした。今回の同居話について未だに何も言ってこない義父が、どういう反応をするのか知りたかったのだ。妻を思いながら、恐らくは毎日のように手入れをしていたのだろう。それを千影は奪おうというのだ。自分の大切にしていたもの、妻の遺したもの。義父は口汚く罵るだろうか、それともみっともなく泣いて叫ぶだろうか。手を上げるのであればそれでもいい。どんな形でもいいから、とにかく義父から答えを引き出したかった。
だが、千影の目論見通りにはいかなかった。酒で赤らんだ顔を覗かせただけで、やはり義父の口が開くことはなかった。あるいは、最初から千影に持たせるつもりだったのかもしれないが、ついにはそれすらもわからず終いだった。
「むしろ私が知りたいぐらいだね。本当は誰の持ち物なのか」
自分へ言い聞かせるかのように千影はそっと言葉を紡ぎ出した。
「なぁに? 何か言った?」
「なんでもない。それよりも――」
千影は目を細めて、つと顔を背けた。
「きみの方を見ていると眩しいんだ。こっちへ来ないか」
千影のその言葉に、影法師がゆらっと立ち上がった。
千影が腕組みをして壁にもたれ掛かり、鈴凛がどすっと音を立ててその隣に腰を下ろす。
「そんなに信用ないのかな、アタシって」
「ある分野においては信用できると思う」
「もう、なによそれ」
鈴凛はぷうっと頬を膨らませた。
「ずるいよ千影ちゃん。アタシたちのことは部屋の隅からじぃっと観察してるのに、自分のことになると途端に秘密主義になるんだから」
「私なんかを知ったところで、大して面白くもないさ。きみにはもっと他に知るべきことがあるはずだ」
「自律型アンドロイドの制作者としましては、さらなる人間らしさを求めるためにも、あらゆるタイプの人を知る必要がありましてね」
「なるほど。では、差し当たって私は貴重なサンプルというわけか」
「キツいなあ、千影ちゃん」
と、体育座りした膝に顎を乗せる鈴凛。
「でも、やっぱり知りたいよ。千影ちゃんのこと」
「随分と熱心だな。新聞のネタにでもするつもりかい?」
「あ、それいいね。家族新聞って、一度やってみたかったんだ」
なかなかの名案、とばかりに鈴凛は大きくうなずいた。
「そうか。まあ、頑張ってくれ。四葉くんをどう使いこなすかがポイントだろうな」
至極もっともな千影の忠告に小さく鈴凛が笑った。と、すぐに真顔へ戻る。
「ねぇ、アタシたちって家族でしょ。それなのに、お互いの事を全然知らないなんておかしいって思うの」
「家族」
自分を上目遣いで見据える鈴凛に少し戸惑いを覚えながら、千影はぽつりとつぶやいた。
家族という名のまぼろし。
手に入れようとしても、手に入れられなかったもの。母は姿を消し、義父は背を向けた。
思えばずっとそれを望んでいたのに、いざ家族が増えてみればこの体たらくだ。果たして、自分は本当に家族を求めていたのだろうか。兄とは暮らしたい、けれど新たに増えた妹たちとは距離を置きたい。こんなにも自分は不実な人間だったろうか。
……違う、そうではない。これは、姉妹の存在を教えてくれなかった周囲が悪いのだ。私が原因ではない。私は悪くない。誰だって、いきなり姉妹が増えれば戸惑うのが道理ではないか。そう、私は悪くない――
「ならば、どうして今になって家族が増える? それをなぜ私たちに隠す必要がある? あるいは知ってはいけない間柄だったとでもいうのか? 海外で暮らしていた三人、知らせるならばもっと昔でもよかったはず」
「それは、そうかもしれないけど……」
口篭もる鈴凛を尻目に、千影の舌鋒は鋭さを増す。
「そもそも、姉妹である私たちがなぜバラバラに育てられたのか。きみもそれを疑問に思って何度も訊いたはずだ。いや、きみや私だけではないか。皆、同じ疑問を抱いているのだろうな。そして訳もわからぬまま、お互いに姉妹と決めつけられて今へ至る。……結局、私たちの生まれについては何も明らかにされていないではないか。ただ一つ確かなことといえば――」
さらに続けて言おうと息を吸い込んだが、その直後に千影の口から漏れ出たのは大きな吐息だった。鈴凛に八つ当たりしたところで何の意味もない。彼女も自分と同じく、大人の事情という名の風に翻弄されるがままの木の葉だ。
鈴凛は頬を膝に埋めたまま身じろぎ一つしない。
拒絶するかのような鈴凛の姿は、謝罪の言葉を発しようとした千影の口を閉じさせるのに十分な効果をあげた。
それっきり、二人の間には沈黙が横たわった。
重苦しい静寂を破ったのは、小さな衣擦れの音とひどくのんびりした間隔の足音だった。
人の気配に千影が頭を回すと、そこには小首を傾げた亞里亞が立っていた。裾にフリルをあしらった薄い水色のワンピースは、亞里亞の姿を陽だまりに同化させていた。
「どうしたの、亞里亞ちゃん」
千影が対応に迷っている間に鈴凛が先手を切った。
「亞里亞、姉やを探してるの」
「姉や?」
千影と鈴凛は思わず顔を見合わせた。亞里亞は兄のことを“兄や”と呼んでいるからだ。
「アニキだったら自分の部屋にでもいるんじゃないかな」
亞里亞はぶんぶんと首を振った。
「ううん、違うの。亞里亞が探しているのは、兄やじゃなくて姉やです」
細くて小さな、しかし、よく通る声で亞里亞はそう告げた。
呆気に取られている二人を尻目に、亞里亞がゆるゆると歩み寄った。
まずは鈴凛の前で止まり、鼻をひくひくと動かした。
しばらくして、
「鈴凛ちゃんは、亞里亞の姉やじゃないです」
と、ひどく悲しそうな表情を見せた。
続いて千影の前へ立ち、先ほどと同様に鼻を動かす。鈴凛の時よりも時間が長い。その間、千影も鈴凛もどう対応していいのかわからず、ただ成り行きを見守るほかなかった。
亞里亞の手が千影の袖に触れた。亞里亞の白い指がシャツの袖をためらいがちに歩き回る。千影は助けを求めるかのように鈴凛を見やったが、肩をすくめるジャスチャーが返ってきただけだった。千影は仕方無く、おずおずと自らの腕を差し出した。
亞里亞はそうっと千影の手を取り、自分の顔を近付ける。このまま手の甲にキスでもしそうな格好だ。まるで映画かドラマを連想させる光景に、千影の胸は心なしか高まった。
一方の亞里亞といえば、いつも通りの茫洋とした表情で千影の手首に鼻を沿わせている。亞里亞にとっては特に感慨をもたらす動作ではなさそうだ。日本と欧米ではキスに対する解釈が違うので、それも手伝っているのかもしれない。ましてや上流階級の育ちともなれば普通の日本人の想像が及ぶところではない。亞里亞もフランスに住んでいた頃は、こうやってキスをしたり、あるいはキスをされたりしていたのだろう。そして、パーティの席上でドレスの裾を持ち上げつつ優雅に会釈――。
その名の指し示す通り、日の当たらない場所をくぐり抜けてきた千影には、日の光の下を何のてらいもなく歩める亞里亞がなにやら全く別の生き物のように思われ始めた。
自分が異端なのか、亞里亞が異端なのか。自虐的な自問自答に思わず唇の端が歪んだ。
千影は自分に視線が注がれるのを感じ、面を上げた。
空色をした亞里亞の瞳が、千影の目の前で輝いていた。その眩しさに、千影は思わず喉を上下させた。
亞里亞は幾度かまばたきをし、にっこりと大きな笑みを浮かべてこう言った。
「千影ちゃんが、亞里亞の姉やです」
千影に問い返す猶予も与えず、亞里亞は千影の胸へ目掛けて飛びついた。
「なっ、何を根拠に――」
「姉や、亞里亞の姉や……」
亞里亞はうわ言のように呼び続ける。千影は亞里亞を引き離そうと身をよじるが、そのか細い腕からは想像もできないほどの力で抱きすくめられていてはそれも叶わない。先ほどから少々息苦しいのだが、これは亞里亞のせいだろうか。
「鈴凛くん、その、どうにかしてくれないか」
心底弱った風な表情で助けを求めた。
「いや、どうにかって言われてもね……」
鈴凛も困り顔だ。
「何か……ほら、亞里亞くんの気を惹くものがあるだろう?」
「あ、だったらアニキを呼んでくればいいよね」
「ちょっと、待っ……」
一時的に亞里亞の気を逸らすための方便を考えて欲しかったのだが、鈴凛は額面通りに受け止めたらしい。小走りに駆け出していく彼女の後ろ姿を捕まえようと自然に手が伸びる。いつもは他人を遠ざけてばかりなのに、今に限っては誰かが近くにいて欲しい。そして、この気紛れな妖精を御する術を教えてほしい。
全く、自分はなんと都合のいい人間なのだろうか。
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