千影は湯呑みの番茶を一口すすり、ほうっと息を吐き出した。
「大丈夫。泣き疲れてぐっすり眠ってる」
鈴凛が足音を忍ばせながらリビングから戻ってきた。
千影は鈴凛に頷いてみせ、「そうか」と返事をした。
「まあ、大体の話はわかったわ」
千影は声のした方へ向き直った。食卓を挟んだ対面には腕組みをした咲耶が座っている。
「で、アンタに何か心当たりはないの?」
「それはこちらの台詞だな。きみの方にこそ、何か心当たりがあるのでは?」
咲耶はむっとした表情で千影を見返した。
「まさか、私がけしかけたとでも思ってるんじゃないでしょうね」
「そのまさかさ。きみならやりかねない。動機も十分だ」
千影のその言葉にたまりかねたのか、咲耶はだんと椅子を蹴って立ち上がった。
「アンタね、言うに事欠いて犯人呼ばわり? 誰がアンタを助けたと思ってるのよ?」
「咲耶ちゃん、声大きいってば。今、亞里亞ちゃん起こしちゃマズいでしょ」
鈴凛が人差し指を唇へ当てる。
鈴凛にたしなめられた咲耶は、渋々といった態で腰を下ろした。わざと大きく立てた鼻息で、怒りが収まっていないことをアピールしている。
咲耶が怒るのも無理はない。亞里亞にしがみつかれて途方に暮れていた千影を救ったのは他ならぬ咲耶だったのだ。タイミング悪く、兄は衛のサイクリングに付き合って外出した直後だった。普段から亞里亞の面倒を見慣れている咲耶とはいえ、『姉やが消えてしまう』と泣きじゃくって手を離そうとしない彼女を説き伏せるのには相当な時間を要した。もっとも、説き伏せたというよりは泣き疲れて朦朧とし始めたところをどうにかなだめすかした、としたほうがより正確なのだが。
「千影ちゃんもそう喧嘩腰にならないでよ。別に決め付けるわけじゃないけど今も千影ちゃんの椅子で寝てるし、やっぱり千影ちゃんに何か関係してるとしか思えないよ」
亞里亞はリビングで千影の定位置に腰掛けて眠っている。最初はソファーへ寝かせられた亞里亞だったが、どうしたものか目を離した隙に動いたらしい。肘掛けにもたれかかって寝息を立てる亞里亞を動かすわけにはいかず、これ以上の騒ぎを起こさせないためにもそっとしておくより他になかった。
「そう言われても、わからないものはわからないとしか答えようがないな。それに亞里亞くんの奇行なら今に始まったことではないだろう」
「奇行って、もうちょっと言葉を選びなさいよ。毒舌が売りだか何だか知らないけど、それはいくらなんでも言い過ぎじゃないの」
千影はすうっと目を細め、
「それもそうだな。配慮が足りなかった。きみを前にすると何故か口汚くなってしまう。全く、不思議なものだな」
「あら、奇遇ね。私もアンタと話してると気分が悪くなって仕方ないわ。どうしてかしらね」
咲耶も負けじとばかりに顎を軽く上げ、見下すかのような視線を千影へ投げつけた。
鈴凛は椅子を後前にし、背もたれに頭を乗せるような格好でちょんと腰掛けた。ちょうど二人の中間あたりだ。
「二人が仲良しなのはわかったからさ」
鈴凛のその言葉に二人が同じ反応を見せた。睨まれて首をすくめた鈴凛は「もうちょっと建設的な話にしない?」と小声で囁いた。
「建設的ねぇ」
咲耶が中空に目を向け、湯呑みに口をつけた。
「千影が素直に受け入れればいいのよ。それで万事解決」
「だから冤罪だと。中世の魔女裁判みたいなことはやめてくれないか」
千影は不機嫌さを隠そうともしない。
「アンタの証言は自己保身に走り過ぎ。そりゃ、裁判官の心証も悪くなるわ」
「きみが私を裁くのかい。悪い冗談だ、ちっとも笑えないね」
「お褒めに預かりまして恐縮です、ってそんなわけないじゃないの」
咲耶は背もたれに身を投げ出して頭を掻く。「これは第三者の証言が必要、って感じかしら」
「それには同意する」千影は相槌を打ち、鈴凛の方を見た。
「え、アタシ?」
自分に話が振られると思っていなかった鈴凛は、バネ仕掛けのおもちゃのように勢い良く上体を起こした。
「証言っていっても困るんだけど。千影ちゃんので大体は合ってるから。ただ――」
「ただ?」
咲耶が先を促す。
「ただ、亞里亞ちゃんがしきりに匂いを気にしてたような」
それを聞いて、千影の脳裏にふとよぎるものがあった。
鏡台から転げ出た、あのバラの香水だ。そんなに強い匂いを振り撒いたつもりはなかったが、自分の座っていた箇所、特に手首の触れたあたりならば香りが残っていてもおかしくはない。
千影は自分の手首に鼻を近付けた。微かにバラの香りがするような、そんな気がした。昨夜はちゃんと入浴を済ませたので、香水程度の匂いなら落ちているはずなのだが。
千影の行動を見とがめた咲耶が、にやりと笑って何度もうなずいた。
「なるほど、心当たりはある、というわけね」
バカなことをした、と千影は悔やんだが、もう言い逃れはできそうにない。不承不承「そうだ」と答えた。
「まあ、言われてみればそうだったわね。何のおまじないかと思ってたけど」
「だが、あくまでそれは一つの可能性に過ぎない。風呂には入ったから、昨日つけていた香水は落ちている」
「香水? ああ、あれね。懐かしい匂いがしたなぁって思ってたけど」
咲耶は目を閉じてつぶやく。
「昔、千影の家へ遊びに行った時、だったかな。あの香りって、そう、確か千影の――」
「やめろ」
低く鋭い声で千影が制した。
「やめろ。それ以上は言うな」
千影はもう一度だけ繰り返した。
しばらくの間、二人の長姉は無言で睨み合った。亞里亞の寝息のみがリビングの空気を震わせた。
「わかった、やめる」
ややあって、咲耶が小さく両手を挙げて宣言した。
椅子を引いて控えめに成り行きを見守っていた鈴凛が、やれやれといった感じで額に手を当てた。
「で、どうするの。続ける?」
「ああ、もういいわよ。千影も自爆してくれたことだし」
「何としてでも私に押し付けたいようだね」
「はいはいはいはい、二人ともその辺にしてよね」
鈴凛が間に割って入る。
「一番のお姉さんたちがそんな調子でどうするの。んもう、どこかのBBSよりも性質悪いじゃない」
「だって千影が」
「それは咲耶くんが」
同時に抗議の声を上げる二人。
「もういい。ここはアタシが仕切るから、二人はちょっと黙ってて」
有無をも言わさぬ鈴凛の強い口調に、千影も咲耶も顔を見合わせて口をつぐむより他なかった。
「まあ、とにかく、今一番怪しい要素といえば千影ちゃんの香水なわけで」
千影からすれば、相も変わらず旗色がよろしくない。形勢を取り戻すには、とにかく何でもいいので自分の言い分を展開する必要があるのだが、割り込もうにも鈴凛の視線が千影を牽制している。今はおとなしく耐えるしかない。
「でも、今の時点では特に匂いもしないから、一概にそうだとは言えないんだけどね。だからといって、他にそれらしい原因は見当たらないし」
と、鈴凛は人差し指をぐるぐる回しながら天井を見つめる。咲耶が番茶を一気にあおり、二度三度とうなずいた。
「そうなるとやっぱり香水よね。その匂いこそが亞里亞ちゃんの行動の謎を解く鍵、ってアタシは推理したんだけど」
鈴凛が「推理」という単語を口にするかしないかのタイミングで、何者かの忍び笑いがどこからともなく聞こえてきた。
「誰? 春歌ちゃん、じゃないよね」
「呼びましたか?」
咲耶の問い掛けに、厨房で夕食の支度に入っていた春歌がカウンターテーブルの陰から顔を覗かせた。
「わたくしはてっきりそちらの三人の誰かかと」
「亞里亞くん、でもないな」
千影は腰を浮かせ、眠っているはずの亞里亞を覗き見た。小さな肩が規則正しく上下している。
「じゃあ、一体誰なの。この声って」
不安そうに周囲を見回す鈴凛。
とその時。
「まさかの時の名探偵四葉ちゃん、ただいま参上なのデス!」
威勢のいい決め台詞と共に、廊下側の壁を割り開いた四葉が食堂へ乱入してきた。
「推理とくれば、この四葉にオマカセなのデス。むむっ、ビックリした顔の千影ちゃんをチェキ!」
喜色満面の四葉は懐から虫眼鏡を取り出して、部屋中をぐるっと見回した。そんな四葉とは対照的に、厨房の春歌を含む面々は白けきった表情を浮かべていた。一通り回ると、さすがの四葉もこの場を支配する微妙な空気に気付いたらしい。
「もしかして四葉、ゼンゼンお呼びじゃなかったデスか?」
「もしかしても何もないわよ。大体何なの、その格好は」
咲耶は四葉を指差した。
「何って言われても、呼ばれて飛び出てくるときには赤いマントに赤い羽根帽子と決まっているのデス。イギリスにいた時にテレビで見まシタ」
それだけはない。上から下まで、四葉の衣装は全て赤で統一されている。
「まあ、それは別にいいわ」と面倒臭そうに咲耶。「人の趣味にまで干渉するほど暇じゃないし。で、どうやって入ってきたの? もしも壁を壊したんだったら、お兄様に言いつけておこづかい減らしてもらうから」
「それはまったくノープロブレムなのデス。ここをこう、っと」
四葉は壁をとん、と叩いて再び亀裂を生じさせる。
「ええと、デン……デンデン、ドン……デンドン……ええっと、あ、そうデス。ドンデンガエシになってマス」
「どんでん返し、なのですか?」
目を輝かせた春歌が、割烹着を揉みしだきながら駆け寄ってきた。
「これが本物のどんでん返し。あぁ、素敵ですわ。このカラクリがあれば、万が一にも兄君さまの身に何かあったとき迅速に対処できますわ。そして兄君さまの身をお守りした暁には、ワタクシの手を兄君さまが取って……」
春歌は目を閉じ、うっとりとした顔で妄想に身を委ねた。ただ妄想に浸るだけならば問題は無いのだが、春歌の場合はそれが身体の動きとなって表に出てしまう。
優雅に身体をくねらせる春歌を横目に見ながら、千影はふと思い浮かんだ疑問を口にした。
「それにしても、これを四葉くん一人で作り上げたとは考えにくいのだが。それとも、最初からこういう仕掛けが施されていたのかい」
「んーっと、これはデスね――」
「だ、だめ、四葉ちゃん」
慌てた動作で鈴凛の両手が四葉の口を塞いだ。愛想笑いを貼りつかせた鈴凛は激しく抵抗する四葉を引きずって、そのまま壁の向こうへ消えていった。
「これも兄くんへ報告するのかい」
「当然よ。おこづかいを減らされるか、さもなくば自分で後始末するかの二つに一つ」
現金とを天秤に吊るされてしまっては、鈴凛に選択の余地などあろうはずもない。大方、四葉に乗せられ軽い気持ちで手を貸したのだろうが、その授業料は少し高くついたようだ。
「まあ、塞いでしまわれるのですか。ワタクシとしましては少し残念ですわ」
春歌が悲しそうな顔を見せた。
ややピントのずれた春歌に対して咲耶が唇を尖らせる。
「何言ってるのよ。ついうっかりお兄様がそこに寄りかかって、それで怪我でもしてしまったらどうするの?」
「あら、そうですわね。兄君さまの身に何かがあってからでは遅いですものね」
納得した面持ちで相槌を打ちながら、春歌は厨房の奥へと消えていった。
傍からみれば実に間抜けな会話だが、当の本人たちが至極本気なだけ余計に可笑しい。
「薄気味悪いわね、薄ら笑いなんかして」
言われて初めて、自分が微かに笑いを浮かべていたことに気付いた。この数日というもの、感情を表に出し過ぎているきらいがある。千影にとってあまりいい傾向ではない。
「さて、進行役もいなくなっちゃったことだし、これで終わりにしましょ」
咲耶は空になった湯呑みを脇にどけて立ち上がろうとする。
「ちょっと待ってくれ。それで、亞里亞くんはどうするんだ」
「どうするって、それはアンタが考えなさいよ。元々はアンタと亞里亞ちゃんの問題でしょ」
取りすがるような千影の物言いに、咲耶が冷たく突き放す。
「それはそうだが、しかし」
千影はすっかりぬるくなった湯呑みを両手で包み込んだ。
「アンタってホント往生際悪すぎね。椅子にふんぞり返ってばかりじゃなくて、たまには自分の力で何とかしなさいよ」
「ずいぶんと簡単に言ってくれるな……」
咲耶からすれば、この一件はちょっとしたアクシデントのようなものだろう。誰それが口論したとか食事に遅れたとか。その程度のものでも、人付合いが苦手な千影からすればかなりの負担となる。ましてや、今の状況は“ちょっとした”と呼べるものでもない。
バラの香りが亞里亞に姉やと呼ばせたのだとしても、それを実姉妹の証明とするにはあまりに弱い。バラを使った香水は極めてポピュラーなうえ、フランスはバラの生産・消費においては世界でも有数の国だ。当然、他国人よりもバラに触れる機会は多い。千影の振り撒いた香りがフランスを思い出させ、亞里亞に姉やと呼ばせたのかもしれないのだ。
ただ、仮にそうであったとしても亞里亞を納得させるまでにはかなり苦しむことになりそうだ。一口にバラの香りとは言っても、その香りの種類は品種によって違う。一般的に香水の原料として使われるのは香り豊かなダマスク種がほとんどで、それ以外はローズティーやアロマテラピーに用いられるか、さもなくば鑑賞用として人々の目を楽しませるかだ。千影の記憶が正しければ、あの香水に使われているのはガリカ種のバラで、“カーディナル・ドゥ・リシュリュー(リシュリュー枢機卿)”と名付けられた自分のお気に入りを母が無理に頼み込んで作らせた代物らしいのだが。
湯呑みを手にしたまま黙りこくる千影を見かねたのか、咲耶がするすると近寄った。千影の肩へ手を置き、先ほどまでの棘棘しさが嘘のような口調でこう言った
「何も千影一人に押し付けようってわけじゃないのよ。亞里亞ちゃんがアンタのことを姉やって呼んでる以上、私たちにはどうすることもできないから。血縁云々とかを表へ出さないようにうまく収めたいけど、それこそ外野がくちばしを挟めるような問題じゃないし」
「わかっているさ」
教え諭すような咲耶の言い方が気に障り、ついぶっきらぼうに返してしまう。
「そう、ならいいけど」と気にした風でもない咲耶。上体を曲げて千影の目を覗き込み、さらに続けて「もし、一人で無理そうだったらちゃんと言いなさいよ。アンタ、自分だけで何でも背負い込もうとするから」
千影は咲耶の手を払い除けた。好き好んで一人を貫いているのではない。周囲の人間を当てにできなかったから、嫌でも孤独を選ばざるを得なかっただけだ。
咲耶は腰に手を当て、わざとらしく鼻を鳴らした。
「言っとくけど、悲劇のヒロインはアンタ一人だけじゃないのよ」
咲耶はそう言い捨て、湯呑みを手にキッチンへ去っていった。
咲耶の姿が見えなくなったのを確認してから、千影は食卓へ突っ伏して大きく息を吐いた。そのまま首をねじって亞里亞のいるリビングの方を向いた。
今まで姉らしいことを何一つとしてこなかっただけに、どういう態度で亞里亞へ接すればいいものか今からひどく悩ましい。自然に眉根が狭まるのも無理はない。
頭の後ろから咲耶と春歌の笑い声が届いた。
普段ならば気にも止めない千影なのだが、今に限ってはただ苛立ちが増すばかりだった。
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