千影がタロットに触れない日はない。
そのほとんどが自分の部屋に閉じ篭っている時なのだが、美しいカード捌きになるよう気を使う。誰も見ていなくとも美しく決まればやはり気分がいい。捌き具合がいい時には、心なしか占いの結果も良い方向へ出ている気がする。誰かを前にして占った際の反応も上々だ。常にポーカーフェイスを装う千影だが、日頃の練習の成果を発揮して相手が驚いたり感心したりする様を目にすると、心の中でガッツポーズを取ってしまうほどに嬉しい。最近では気分転換と称して手品の教則本の内容を試すほどだ。
そういうこともあって、千影は自分が器用な人間に分類されるものと思っていた。
「そんなに無理されなくても」
左隣の鞠絵が顔を寄せて囁いた。
「いや、これも訓練の一つと思えば」
「訓練、ですか」
鞠絵は、左手でぎこちなく箸を握り、酢豚のピーマン相手に悪戦苦闘する千影をまじまじと見つめた。
「でも、お食事で訓練というのはちょっとどうかと思いますけど」
遠慮がちに言う鞠絵に向けて、千影は自分の右手を軽く掲げて見せる。
鞠絵は目を見開いて「まあ」と声を上げた。亞里亞の左手が千影の右手首をしっかりと掴まえていたのだ。急に千影が動いたので、フォークを口にくわえたままの亞里亞はきょとんとした表情を見せている。
「ご覧の有り様でね」
手を降ろしながら千影が愚痴った。
「まさか、犬食いをするわけにもいかないだろう」
鞠絵の足元で丸まっていた金色の毛玉が、犬、という単語に反応して動いた。
「ミカエル、あなたのことじゃないのよ」
主人の言葉を理解したらしいミカエルは、ふて腐れた様子で大きく横になった。
「でしたら、仕方がありませんわね。リハビリでもそういう内容のものがあるそうですし」
そう言って鞠絵は微笑んだ。
彼女とは対照的に、たちまち千影の表情が渋くなる。しかめっ面の原因は、苦労の末に口中へ放り込んだピーマンの苦みだけではない。
当事者二人を除く十一人が十一人、左手で箸を使う千影を見とがめようともしない。最初は怪訝そうな顔で首を傾げるものの、千影の右腕が亞里亞に絡めとられているのを目にすると納得のいった表情で食事を再開するのだ。それだけ、亞里亞のエキセントリックな行動が常習化しているということなのだろう。何しろ、一番の常識人である鞠絵でさえも「仕方がない」の一言で済ませてしまうのだから。
千影の食事はほとんど減っていない。唯一、ほうれん草の味噌汁だけが皆と同じ減り方をしていた。お椀を持つのは左腕の仕事なので、つい楽な方へと手が伸びてしまう。
椀の底にこびりついたほうれん草は無視して豚肉へ挑む。平坦なピーマンに比べれば難易度も低く、いざとなれば箸を突き刺せばいい。もっとも、箸遣いのマナーを無視するのであれば最初からそうしている。兄の面前でそんな恥ずかしい真似ができるはずもない。
慎重に箸を操り、三度目の正直で肉の塊を摘みあげた。慣れない作業で震える手をなだめながらそのまま口へ運ぶ。もう少しでゴールへたどり着こうかというその時。
「姉や」
亞里亞が右腕をがくんと引っ張った。
千影があっと声を出す間も無く、肉は箸をすり抜けてテーブルの下へと消えていった。
「姉や、姉や」
なおも亞里亞は呼び続ける。
千影は肉塊への未練を絶ち切って、亞里亞の方へ向き直った。よほどに恐ろしい形相だったのか、千影と目の合った亞里亞は肩をひくっと縮ませた。
「姉やは、姉や?」
亞里亞は上目遣いに、恐る恐るといった風で千影へ尋ねた。
「まあ、きみがそう言うのであれば、きっと私は姉やなのだろうな」
千影はしきりに鼻を鳴らすミカエルが気になって、半ば上の空で応えた。
それを耳にした亞里亞は顔をほころばせて「姉やは亞里亞の姉やだから、これ、あげます」と酢豚の皿をそっと千影の方へ押し出した。
「ふむ、きみにニンジンが食べられたとはね」
ピーマンだけが残された皿を見た千影は意外そうな表情を作った。
亞里亞の偏食家ぶりは凄まじく、甘味以外は極度に嫌う。ただでさえ嫌われ者扱いのニンジン、ピーマン、タマネギが揃った今日の献立は、亞里亞にとってかなり酷だったはずだ。現に、千影たちの対面に座っている花穂は二切れのニンジンを相手ににらめっこをしている。
「亞里亞はウサギさんが好きなの。ウサギさんはニンジンが好き。だから、亞里亞はニンジンが好きなの。姉やは、ウサギさん好き?」
「あ、ああ。私も好きだよ」
部屋に押しかけられる前にあのウサギのぬいぐるみを隠しておかないと。千影はそうひとりごちた。
「それで、これ……」
小さくもう一度、亞里亞が皿を押し出した。声こそ弱々しいが、上目遣いで千影を見据えるさまには強い意志が感じられる。よく火の通ったタマネギは許せても、頑なに味を変えないピーマンはどうしても嫌なようだ。
「わかった。きみが左手を離してくれたら食べてあげよう」
「それはダメなの。亞里亞が手を離したら、姉や、いなくなっちゃう」
千影は小さく嘆息した。“いないいないばあ”をして泣き笑いする年齢でもないというのに。予想していた反応とはいえ、どうしてここまで自分に固執するのかがわからないのでは手の打ちようもない。
それに、あれだけ兄や兄やと叫んでいた亞里亞が急に矛先を向けてきたことも気になる。底意地の悪い考え方だが、兄やの代用品として自分を、姉やを求めているとも考えられるのだ。
「大丈夫、私は消えてなくなったりしないから。約束するよ」
千影の言葉にも亞里亞はただ首を振るばかりだ。
「亞里亞くんはフルーツが好きなのだろう? だったら、私の分のパイナップルをあげよう。それでもダメかい」
「パイナップル、春歌ちゃんにお願いしてたくさんにしてもらったから、もう食べたくないの」
亞里亞は首を横に振る。
「姉やは、どうして亞里亞にいじわるするの? 亞里亞は姉やが好きなのに、姉やは亞里亞のこと嫌いなの?」
「ああ、いや、そうじゃない。その、亞里亞くんが手を離してくれないと私の食事が進まないんだ」
潤みかかった亞里亞の瞳に動揺してか、千影の声は少し上ずっていた。
「食事が進まないの? どうして?」
目を大きく見開いて何度も瞬きをする亞里亞。
「きみが掴んでいるのは私の右手だ。箸を持つほうの――」と言いさし、亞里亞の右手を確認して訂正する。「きみがフォークを持っているほうの手だ」
「じゃあ、姉やの左手だったらいいの?」
千影は思わず微笑んだ。
「それでもかまわないが、今度はきみの右手がふさがってしまうよ」
千影の言葉に亞里亞は自分の両手を交互に見た。
「もうわかっただろう。さ、そろそろ手を離してくれないかな。このままだと、きみの姉やはお腹がぺこぺこで病気になってしまうよ」
なおも亞里亞は、自分の手をまじまじと観察していた。首を傾げて何事かを考えている様子だったが、不意に顔を上げた。
「だったら、亞里亞が姉やに食べさせてあげます」
そう言うや否や、亞里亞は手にしたフォークを千影の皿へ突き立てた。肉の刺さったフォークをそのまま千影の口元へと差し出して微笑む。
「はい、姉や。あーんしてください」
千影は目の前へ突き出された肉塊を凝視した。鼻をくすぐる匂いに心が揺れる。普段ならば断固として拒絶しているところだが、空っぽな胃袋は千影から精神力を奪い去っていた。あんかけの甘酸っぱい香りに誘われるかのように、一度は千影の口が開きかける。
「せっかくだが遠慮しておく。自分で食べる」
千影は自分へ向けられている視線を感じ取り、寸前で首を振って押しとどまった。
一人や二人の視線ではない。自意識過剰すぎるのかもしれないが、全員に見つめられているように感じられる。振り返って確認したくともそうあからさまではやはり躊躇われる。千影はただ硬直するばかりだった。
みるみるうちに亞里亞が顔を曇らせる。肩で大きく鼻をすすりながら、
「やっぱり、姉やは亞里亞のこと嫌い?」
「いや、そうじゃないんだよ。その、つまり、私は亞里亞くんよりも年上だから、手伝ってもらわなくても大丈夫なんだ。それにきみもまだ食事が終わってないだろう? 私に構わないで自分のを先に済ませるといい」
傷付けないようにと遠回しに断わったつもりだが、彼女にとってはやや距離が開き過ぎたようだ。
「亞里亞、姉やに嫌われちゃった。どうしよう……」
亞里亞が肩を震わせながら涙をこぼした。
千影へ向けられている視線の色が変わる。先ほどまでとは違い、明らかに鋭く、そして冷たい。その中に兄も混じっているのかと思うと、千影は急にいたたまれなくなった。
もはや千影に選択の余地はなかった。
恥や外聞といった感情は脇に置いた。大口を開けて肉を頬張りながら、ハンカチで亞里亞の涙を拭い取る。
泣き虫なお姫さまに笑顔が戻ってからあとの事は千影の記憶にない。自分のプライドを保つために『泣く子と地頭には勝てぬ』という言葉を頭の中で繰り返し唱えるだけで精一杯だったのだ。
料理の味もまるで覚えていない。何かの行をこなすかのように、淡々と亞里亞の世話を受け続けた。
苦行から解き放たれた千影がふとテーブルの下を覗き込むと、ミカエルが一心不乱に床の一隅を舐めていた。
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