「じゅーく、にじゅう、にじゅいち、にじゅに――」
舌足らず気味な亞里亞の声が浴室に響き渡る。
指折り数えている亞里亞の姿を、千影はちらっと横目で見た。白熱球の光を受けて金色に輝く亞里亞の髪が、水面いっぱいに広がっている。
千影はずり落ちそうになった頭のタオルを締め直した。千影の洗髪は二日に一度。今日は髪を洗う日ではないので濡れてもらっては困る。長い髪はとにかく手入れが面倒なのだ。洗うにしても乾かすにしても一筋縄ではいかないし、かといってそこで手を抜くと枝毛の原因ともなる。
十二人の半分までが背中へ届く髪の持ち主なので、兄の見ていないリビングでは必ず誰かが枝毛の処理をしているといっても過言ではない。無論、千影もその一人に入る。髪をシニヨンに結っていることもあって、他の姉妹以上に毛先が目立ってしまう。些末なことだとは思っているが、自分だけ放置しておいたのを兄に指摘でもされてはそれこそ目も当てられない。
「よんじゅろく、よんじゅなな、よんじゅはち――」
亞里亞の指が折られるたびに、腕の微かな動きが波紋となって水面を走っていく。つられるように亞里亞の髪が水中でしなった。
もともとが光を受けて輝く髪色なので、霧状の蒸気が光をかく乱する浴室ではより輝きが増して見えた。千影は思わず目を細める。
後光が射しているかのよう、とまではいかないが、それでも普段の彼女とは少し違って感じられた。
しかし、そう他人事のようにも構えてはいられない。今、この浴室には千影と亞里亞が二人っきり。亞里亞の一切合財は全て千影の肩へのしかかってくるのだ。
亞里亞の母国、フランスでの暮らしぶりを見知っている千影ではない。それでも、普段のお姫さまぶりを見ていればおおよその想像はできようというものだ。その場に両手を広げたまま立っているだけで自動的に着替えが完了する、そんな生活だったのだろう。
銀糸を思わせる亞里亞の髪も、恐らくは周囲の苦心の賜物に違いない。亞里亞の性格を考慮するとなおのことだ。メイドたちの苦労は果たしてどれほどのものだったのか。
そこまで考えが及ぶと千影は急に頭痛を覚えた。今ここにお付きのメイドはいない。いるのは自分だけだ。
兄のことを兄やと呼んでいるからといって、姉のことを姉やと呼ぶとは限らない。豪邸暮らしの亞里亞の身近にいる女性といえば、その大半以上がメイドであるといってもいいだろう。そしてメイドたちは例外なく亞里亞よりも年上だ。
姉として認められただけでも胃が痛いというのに、万が一メイドとして認知されてしまった日にはどうすればいいのか。亞里亞がどういう意味を込めて自分を姉やと呼んだのか。それを確かめないことには気が休まりそうにもない。リラックスできるはずのバスタイムで疲労が増えるなんて、全くどうにかしている。
「ななじゅさん、ななじゅし、ななじゅご――」
澱みの無い亞里亞の声を聞きながら、千影は肩を揉みほぐした。
千影の両手首には腕輪状の模様が赤く浮かんでいる。亞里亞の仕業だ。
自分が服を脱ぐ時にも千影を離そうとはしなかった。右の袖から腕を抜く時には左手で千影を捕え、掴む手を入れ換えてから左半分を脱ぐ、といった具合に。千影が脱ぐ時にも手を離さない徹底ぶりで、結果的に軽い鬱血の痕を作らされた。
腕(かいな)の縛めより解き放たれたのは、互いに一糸纏わぬ姿となってからだ。このままの姿では逃げられないと理解しているのだろう。ただ、念には念を入れということなのか、自分の脱衣と着替えを千影のそれに混ぜ込んで、簡単に着替えができないようにしたのだ。いざ風呂場へというタイミングだったので、さしもの千影にも止めようがなかった。
千影にとっての救いは亞里亞に悪意がないらしい、ということだ。千影を困らせようとしているのであれば、ここまで能動的になりはしないはずだ。
ごく限られた手段――すすり泣きや緩やかな身振りなど――で意志表示を行ってきた亞里亞が、自らの意思で千影を繋ぎ止めようとした。これらを都合良く解釈するならば、少なくともメイドに接する態度ではないといえる。メイドが相手であれば、自らの立場を利用してもっと理不尽な要求を突き付けるものだ。
それに、物理的な被害を被っているとはいえ亞里亞の望みはごく些細なものだ。確かに亞里亞の自己表現方法には多少行き過ぎた感があるものの、年齢や生い立ちを引き合いに出すとそれらも大した問題ではなくなってしまう。どう足掻いても千影には具合の悪い風向きだった。
こうして考え込んでいても埒があかない。彼女が何を考えて自分に執着しているのか、それは直接本人に聞いて確かめるしかないのだ。千影はまるで要領を得ない今までのやり取りを思い出し、今度は眉間に痛みを感じた。自動的に両の親指が眉間を押さえ付ける。
取り止めの無い千影の思考は、不意の水音によって中断させられた。
額へ飛んだ水しぶきに驚いて顔を上げると、亞里亞が湯船を出ようとしているところだった。そのまま亞里亞はぺたぺたと足音をさせて椅子に座り、シャワーを使い出した。割に手馴れている風で千影を顧ようともしない。
一度は立ち上がりかけた千影だったが、ぎこちなさを残しつつも一人でシャワーを浴びるその姿に再び腰を落ちつけた。何もかもの面倒を見なくてはいけないのかと憂鬱になりかけていたが、どうやら杞憂で済みそうだ。咲耶なり春歌なりが教えたのだろうか。ともあれ、手が掛からないに越したはない。
千影は所在なさげに腕を動かし、水の抵抗を弄んだ。
五分ほどそうしていただろうか。何かが落ちたような乾いた音が千影の耳へ飛び込んできた。湯気の向こうに目を凝らすと、亞里亞の左手がでたらめに振り回されていた。千影はやれやれと心の中で軽く悪態をついて湯から出た。
ひたひたという千影の足音に、亞里亞が泡だらけの頭をこちらへ向けた。その反動で小さなシャボン玉がいくつか宙を舞う。
目を固く閉じたその顔には、白い泡が一面に塗りたくられていた。唇の上縁にも泡が流れ落ちていて、口の開けない亞里亞は小さなうなり声をあげるばかり。
「今流すから、目はそのままで」
泡の固まりがこくんと上下するのを確認した千影は、蛇口へ手を伸ばした。
右手のシャワーヘッドを振るたびに亞里亞の銀髪が露わになっていく。あっという間に頭の泡が消え去った。
今度は顔を洗い流そうと蛇口をひねる千影だったが、直接シャワーを当てるのはどうかと考えてしまい手が止まった。千影はしばらく逡巡すると、自分の頭に巻いたタオルを解いて二つに畳み、亞里亞の顔をそっと拭った。
「さ、もう大丈夫だ」
千影の声を合図に亞里亞が目を開いた。まだ気になるところがあるのか、しきりに目をこすっている。見かねた千影がタオルを差し出すと、おずおずと受け取って顔をタオルに埋めた。
「一人でできないのなら、最初からそう言えばいいものを……」
気持ち良さそうにタオルへ頬ずりしていた亞里亞の動きがぴたっと止まる。顔全体を覆ったタオルの隙間から様子を窺うようにして、亞里亞が千影を見上げた。
「いや、そういう意味ではなくて、その、私は姉やだから、かな」
八の字に曲げられた亞里亞の眉毛を目にして、千影は取り繕うかのようにぼそぼそと喋った。
「姉や、大好き……」
「そ、そうか」
亞里亞の視線に耐えかねた千影は、つい目を逸らしてしまう。何とはなしに気恥ずかしいのだ。特に好意を抱かれるようなことはしていないという意識もさることながら、やはり裸体を晒しているというのが大きい。
咲耶のように自分の身体へ絶対の信頼を持っている人間であれば、妹の視線ぐらいは気にも止めないだろう。むしろ時と場合によっては誇示さえしかねない。
事実咲耶は、身体のラインを強調した服を殊更に好んで着る。なるべく露出を減らそうと考える千影とは対照的だ。咲耶にとっては自分を飾り立てるための一要素にすぎないのだろうが、千影にとっては己を守る鎧と同等の価値がある。鋭角的なデザインのものを無意識のうちに選んでしまうあたりに千影の性格が出ている。
「湯冷めするといけないから」と、千影は浴槽を指差した。「戻ろうか」
「はい、姉や」
素直な亞里亞の態度に、千影は内心胸をなでおろした。依然としてタオルを握り締めたままなのが気になるが、今は湯船へ誘導するほうが先決だ。
「姉や?」
湯の中へ身を投げ出し、一息ついたタイミングで亞里亞が口を開いた。
千影がそれに応えるように振り向くと「亞里亞のこと、見捨てないでね」と、消え入りそうな声で亞里亞が言った。
聞き馴染みのあるフレーズに、千影は苦笑しながら何度となくうなずいた。
「まさか。見捨てたりはしないさ」
「本当?」
「本当だよ」
納得し切れていないのか、亞里亞の表情にはやや警戒の色が浮かんでいる。
「じゃあ、どうすれば信じてくれるんだい」
亞里亞は小首を傾げてしばらく考えた後に、すうっと小指を差し出した。
「指きり、してくれる?」
千影は微笑みながら、自分の小指を亞里亞に絡める。
「これでいいかな」
「うん、姉や」
上下に三回動かして互いの指が別れる。亞里亞の顔がいくらか和らいだ。
「それにしても、きみの口から『見捨てる』なんて言葉が出てくるとは思わなかったよ」
「亞里亞、変なの?」
「いや、変というわけでもないが、きみのイメージからはちょっと離れているような気がしてね」
「亞里亞が使っちゃダメな言葉なの?」
そういうわけでもない、と千影は言いかけ、ふとそこでとある疑問が浮かび上がった。
「もしかして、意味を知らずに使っているとか」
少し間を置いて、亞里亞が小さく縦に首を振った。
「花穂ちゃんが失敗したときに、いつも『見捨てないで』って言ってるの。だから、亞里亞も失敗しちゃったから『見捨てないで』って言ったのよ」
「ああ、そういうことか。なるほど、ね」
亞里亞の言う『失敗』とは、先の泡まみれなシャンプーのことを指しているのだろう。
「あれは失敗のうちにも入らないさ。気にする事はないよ」
「でも……」
亞里亞が再び表情を曇らせる。
「でも、そうしないと姉やに嫌われちゃうって思ったから」
「最初は誰だって失敗するものさ。まずは自分にできることから、少しづつやっていけばいい」
亞里亞が見せる“姉やに嫌われる”ことへの異常な怯えぶりに戸惑いながら千影が慰めた。
「じゃあ、昨日まではどうしていたんだい? 誰かに……そう、例えば咲耶くんあたりに手伝ってもらっていたとか」
やや俯き加減の亞里亞がこくんとうなずく。
「なるほど、今日からいきなりというわけか」
もう一度亞里亞がうなずく。
「そうか。一人でやったのが初めてなら、それは仕方が――」
「ダメなの。今すぐにできるようにならないと、ダメなの」
顔を上げ、強い口調で亞里亞が遮った。
「亞里亞、姉やに見てもらいたかったから」
「見てもらいたかったって、何を」
「さっきね、お食事の時にピーマン食べられなかったから、姉やは亞里亞のことを『子どもみたい』って、きっと思ってるの。だから一人でシャンプーして、亞里亞が全然子どもじゃないところを見てもらいたかったの」
私もまだ子どもの範疇に入るのだけどね、と言いたいのを押さえて、千影はかぶりを振った。
「なら、もっと早くから練習できたんじゃないかと私は思うね」
「それは、その……亞里亞、忘れていたから」
悪びれた様子もない亞里亞の説明に、千影の唇が微かに緩んだ。
「あ、でもね、違うの。姉やのバラの匂いをかいだら、すぐに思い出したの」
千影の疑念を察知したのか、亞里亞は慌てて付け加えた。
「亞里亞、ママンに言われたの。自分のことは自分でできるようにならないと姉やに笑われますよ、って。だから――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
千影は手で亞里亞を制した。そのまま一つ深呼吸をする。心臓が大きく高鳴り、左胸のふくらみを中心に波紋が広がっている。
彼女は今、何と言っただろうか。ママンに言われた? 姉やに笑われる?
「今の話は、本当なのかい?」
「本当?」
千影の問いの意味が理解できないのか、亞里亞はオウムのように尋ね返した。
「きみのママンの話だ。きみに姉やがいる、と話したんだね」
「うん。亞里亞には姉やがいるって」
千影の喉が無意識のうちに上下へ動いた。室内は水蒸気で満ち溢れているというのに、口の中は痛みを感じるほどに乾燥しきっていた。
もう一度、千影は大きく深呼吸した。長らく探し求めていた真実がすぐ目の前にあるのかもしれないと思うと、期待と不安とが入り混じった感情で胸がいっぱいになる。ただの深呼吸ごときでは楽になれそうもない。
果たして、亞里亞の口からは何が飛び出すのだろうか。亞里亞のママンと自分の母が同一人物であるという確証が得られればそれで十分だ。後は何とでもなる。亞里亞は自分を慕ってくれているので多少は無理も効く。いざとなれば亞里亞のママンへ、母へ直接コンタクトを取ることも不可能ではないはずだ。
「それで」
かすれてひどい声だったので千影は咳払いをした。「それで、きみのママンは何と」
「亞里亞に姉やがいる、って」
「いや、そうではなくて」
千影は自分の苛立ちを押さえるかのように、ほつれて鬱陶しい前髪を撫で付けた。
「何か、他に言わなかったのかい? 姉やの名前とか、見た目とか」
亞里亞は十秒ほど視線を宙にさまよわせ、やがてゆっくりと首を横に振った。
「亞里亞のママン、亞里亞に姉やがいるってだけで、他には何も言わなかったの」
「そう、か……」
千影は急に湯が冷えたかのような錯覚を覚えた。背中を丸めて口元までを湯へ沈める。
しばらくそうしているうちに、散り散りとなっていた思考が再び形を取り戻す。
「亞里亞くん。私の……いや、姉やのお願いだ。聞いてくれるね?」
「うん!」
これで先の失敗の穴を埋められると知った亞里亞の声は喜色にあふれていた。千影は胸に小さな痛みを感じた。私はこの子を利用しようとしている。信頼を裏切ろうとしている。
同時に咲耶の顔が思い浮かんだ。これが知れたらどんな顔で私を罵るだろうか。
「きみのママンに」
息が苦しくなり、一度言葉を区切る。
「連絡を取りたいんだ。手紙でも電話でも、なんでもいい。姉やのお願い、聞いてくれるね?」
その瞬間、亞里亞の表情が凍り付いた。ややもすると亞里亞の顔に笑みが戻ったものの、その笑みはどこかよそよそしく、固かった。
「お手紙なら……」
囁くように亞里亞が言った。千影を正面から見据えるその目は闇夜を思わせる深さだった。
「姉やは、地面の下へお手紙を届けられますか?」
千影の額に汗が浮かぶ。伝わり落ちた水滴は目に入り、瞼を降ろさせた。
「亞里亞のママンはね、長い長い旅に出たの。黒い箱の中で眠ったまま、土の中へ」
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