くんくん−8
 亞里亞の発した言葉は千影の頭蓋を激しく揺さぶった。
 千影は軽い耳鳴りを覚えてこめかみに手を添えた。指先から伝わってくる温もりを十分に受け止めて、ゆっくりと瞼を開く。
「そう、か」
 何度も喉を往復させ、ごく微かなつぶやきをやっとの思いで吐き出した。
「亡くなっていたとはね……」
 千影の心にどっと失意が押し寄せた。その波に抗えなくなった千影は風呂縁に力無く寄り掛かる。
 手にしたはずの糸がふっつりと切れてしまった。真実へと通ずる道しるべだったのに。この先、自分が生い立ちを知る術はあるのだろうか。
「姉や」
 すがり付くかのような亞里亞の視線が千影の顔を容赦なくねぶった。頬に突き刺さるような痛みを覚え、千影は思わず顔を逸らせた。
「姉や」
 亞里亞が言いながら、湯をかき分けてにじり寄る。
「亞里亞、ママンに会いたいです。ママンとお話がしたいです」
「それは……」
 横目に亞里亞を見ながら、千影は口篭もった。
「ママンに『帰ってきて』ってお願いのお手紙を書いて、地面の下へ埋めました。たくさんたくさん、何度も何度もお手紙を出したけど、お返事がまだ返ってこないの。だから、いつもご本を読んでいる姉やならママンにお手紙を届ける方法を知ってるかもって、亞里亞は思いました」
 ベタベタとまとわりつくかのような視線とは裏腹に、亞里亞の声はどこまでも落ち着き払っていた。冷静というよりも、むしろ諦念の色が濃い声。口調も普段よりは幾らか大人びているように感じられる。
「亞里亞は、本当のことが知りたいです。みんな、亞里亞が何か言う前に『亞里亞のママンは長い旅へ出たんだよ』って、そう言うだけなの。行き先を聞いてもみんな教えてくれないの。だから、もしも、地面の下へお手紙を出す方法を姉やが知らなかったら……」
 亞里亞の声はだんだんに小さくなっていき、やがて途切れた。
「もし、私が知らなかったとしたら?」
 千影が訊き返しても、口を貝のように閉ざした亞里亞は首を横に振るばかりだった。
 亞里亞のその態度は、何かを口にすることを憚っているかのようだ。
 では、その“何か”とは何か。あるいは、もう既に感付いているのかもしれない。自分の母親が死出の旅へ出たことを。
 さりとて『死』という事実を包み隠さず伝えるにはどうしても躊躇いがある。亞里亞の今までを見る限り、色々な意味でリスクが大きすぎる。真実が持つ痛みに耐えられずに泣き叫ぶことを前提としなくてはいけない。
 問題はそれだけでない。そもそも『死』という概念を亞里亞が正しく理解しているか、それすらも怪しいのだ。
 死と眠りは一見して区別がつかない。亞里亞にタナトスとヒュプノスの兄弟を見分けられるだけの知識があるだろうか。
 考え込んでいるうちに、いつの間にか目を閉じていたようだ。瞼に力が入り過ぎたらしく、眉間が凝り固まって痛み出した。
 誠意ある嘘か残酷な誠か。どちらを選ぶにしても、決断は千影の手に委ねられてしまったのだ。瞳で帳を下ろしていれば現実から逃れられるものの、それはただの時間稼ぎにしかならない。目をつぶったまま、目を逸らせたままでは歩けないのだ。
 千影は再び瞼を開いた。亞里亞はタオルを両の手で握り締め、自分の手元をじっと見つめている。まるで千影に祈りを捧げているかのようだ。
 亞里亞のその姿に千影の心は決まった。
「わかったよ。では、本当のことを言おうか」
 顔を伏せたままの亞里亞が小さくうなずいた。
「きみの言った通り、私はいつも本を読んで色々なことを知っている。例えば、星の動きから人の運命を見る方法、人の運気を操る方法、他にもたくさんある。だが、その中にはきみの望んでいるもの、地面の下へ旅だった人に手紙を届ける方法というものはないんだ」
 亞里亞の喉がひくっと震えた。
「ない、の?」
「亞里亞くんには残念だが」
 千影の宣告を聞いた亞里亞は、そう、と静かに呟いた。てっきり彼女が泣き叫ぶものと身構えていた千影は肩透かしを食らった格好となった。思わず亞里亞の顔を覗き込むも、彼女の濡れて垂れ下がった前髪が千影の目線をさえぎる。
「それで、亞里亞のママンはいつ戻ってくるの?」
 相変わらず穏やかな声の亞里亞。
「戻る? いや、それは……」
 亞里亞の次が読めない千影は一瞬言葉に詰まった。怖気付きそうな心を無理に奮い立たせながら切り出した。
「きみのママンは、もう戻って来られないんだ」
「どうしてなの、姉や? 地球はまぁるいから、歩き続けていれば必ず戻ってこられるって聞いたの」
「亞里亞くんのママンが向った先は冥府という場所だ。そして、冥府へ一度足を踏み入れた者はもう二度と戻ることができない。オルフェウスでも、つまり神様であってもそれは不可能なんだ」
 それを耳にした亞里亞はすっくと湯の中から立ち上がった。
「それじゃあ、亞里亞がママンに会いに行くの」
 飛び散る水飛沫に千影は目を細め、首をゆっくりと横に振った。
「冥府は死者しか入ることを許されていない。きみはまだ、生きているよ」
「シシャ? シシャって?」
「死んでいる人間、という意味だ」
「――死んでいる。ママンが? 亞里亞の、ママンが?」
 千影は亞里亞の凝視を真っ向から受け止めた。
「そう。きみのママンは、もう死んでしまったんだ」
 一言一言を確かめるかのようにして千影は告げた。
 亞里亞は最初、目を大きく見開いて幾度も瞬いた。やがてその表情に影が差し入り、左右へふらふら揺れ動いたかと思うと千影に覆い被さってきた。千影に枝垂れかかる亞里亞の身体が波を起こした。
「だ、大丈夫かい」
 溢れ出た湯が床を叩き終えるのを見計らって、千影が恐る恐る尋ねた。
「ありがとう、姉や」
「あ、ありがとうって。私は、そんな」
 ぴったりと密着した亞里亞の柔肌に千影は動揺を隠せなかった。胸の二つのふくらみが亞里亞の身体に挟まれ、ひしゃげているがわかる。不快ではない。肌を通して伝わる温もりに、むしろ心地良くさえ感じられる。
 動悸も治まると、千影の手は知らぬうちに亞里亞の頭を撫でていた。
 千影の肩に頬を預けた亞里亞は、さも気持ち良さそうに鼻を鳴らした。
「大丈夫かい? 亞里亞くん」
 再度の問いに亞里亞は、はい、と囁いた。
「姉や、ありがとうなの」
 千影は苦笑いしながら、
「髪を撫でるぐらいならお安いご用というもの――」
「ううん、違うの。頭をなでなでされるのも嬉しいけれど、亞里亞が嬉しかったのは……」
 割り込んだはいいものの、亞里亞の声は次第に力を失っていき、ふっと途切れた。
「きみのママンのことかい?」
 水面に目を落としたまま、亞里亞はうなずいてみせた。
「私はてっきり憎まれるものと思っていたんだけどね」
「そんなことありません。だって、姉やは亞里亞の姉やだから」
 亞里亞はそこで言葉を区切り、ゆっくりと千影の腕をすり抜けた。
「本当のことを教えてくれて、亞里亞、とっても嬉しかったの」
 静謐をたたえて微笑む亞里亞を、千影はまじまじと見つめた。
「では、きみは知っていたのか」
 亞里亞はかぶりを振った。
「亞里亞、何となくわかってました。ママンにはもう会えないって。でも、亞里亞のまわりの人たちは、亞里亞に本当のことを教えてくれなかったの。亞里亞、嫌われちゃったのかな……」
 表情を曇らせる亞里亞に、
「それは違うよ。みんな、きみのことを心配してわざとそういう言い方をしただけさ」
「本当に?」
「ああ。私もきっと同じことを言ったと思うね。だから、心配することはないよ」
 それを聞いた亞里亞はくすくすと笑いながら再び千影に飛び付いた。不意打ちに驚く千影を見上げて「姉や、大好き」と囁いた。まんざらでもない千影は赤面しながらも頬を緩めた。
 二人はしばらくそうしていたが、不意に亞里亞がつぶやいた。
「姉やは悲しくないの?」
「悲しいよ。例え誰であれ、人が死んでしまうのは」
 千影は怪訝そうな亞里亞の表情を認めながら言葉を続けた。
「きみのママンは私の母も同然だからね。本当の親ではないけれど、とても悲しいことだよ」
「違う、違うの。姉やのママンはね、亞里亞のママンです。同じなの」
 千影を抱き締める亞里亞の腕に力が込められた。胸のふくらみが押し潰されて痛い。
「きみがママンを失って辛いのはよくわかる。だけど、きみのママンが亡くなってしまった今では、もう確かめようがないんだ」
「でも……」
 先ほどとは逆に、今度は千影が亞里亞の腕から逃れた。意外にも亞里亞は抵抗を見せなかった。
「髪の色だってこんなにも違うんだ。きみが嘘をついているとは言わないが、そう簡単には信じられないな」
 言い終えた千影は、少し言葉がきつかったかもしれない、と反省した。たった今、母親を喪った少女へ掛ける台詞にしてはあまりに冷酷すぎる。
 千影の仕打ちに対して、亞里亞は気丈にも涙を見せなかった。
「姉……千影ちゃん。亞里亞のお話、聞いてください」
 憂いを帯びた亞里亞の声。千影は黙ってうなずいた。
「ママンと千影ちゃんは、匂いが同じだったの」
「あの香水のことかい」
「はい。同じ匂いでした」
 そう告げて、亞里亞はうっすらと微笑んだ。
 他にはないのかい、という千影の問いには、首を傾げるだけの亞里亞。
「匂い、とだけ言われてもね」千影は高く結わえ上げた髪を直しながら疑問を口にする。「バラの香水はポピュラーな上に、フランスは世界でも有数のバラ消費国だったはずだ。多分、皆からバラの匂いが漂っていたと思うんだが、どうかな」
 眉をひそめた亞里亞はしばらく天井を仰ぎ見た。視線を戻して、
「はい、じいやもバラの香水をつけてました」
「じいや?」
「じいやはね、おヒゲのじいやじゃなくて、スカートをはいている方のじいやです」
「スカートのじいや……」
 千影の脳裏に浮かんだのは、タータン姿のスコットランド人男性が甲斐甲斐しく亞里亞の世話をしている場面だった。あまりにナンセンスなイメージを、千影は激しく頭を振って追い出した。
「その、じいやとかいう人も香水を使っているのだから、バラの匂いだけできみのママンと私とを結び付けるのは難しいと思うんだが」
「でも、亞里亞には同じ匂いだってわかります。絶対に、絶対に同じ匂いなの」
「しかし、そうは言われても私はきみのママンに会ったことは無いんだ。同じだと言われても確かめようがない。何か他に……そう、香水の名前などは知らないかな」
 今度は自分の手元に目をやって過去を掘り返していた亞里亞だったが、やがて悲しそうに首を横へ振った。
「亞里亞、香水の名前、覚えてません」
 今にも消え入りそうな声でそう言い、くすん、と鼻をすすった。
「そう、か。まあ、よほどに興味がなければ覚えているものでもないからね」
 これで亞里亞の言質を取ることができた。この先、姉やと呼ばれることもない。
 厄介事から逃れられたことで、張り詰めていた緊張の糸も緩んだ。と同時に、寂しさを覚えている自分がいることに、千影は気付いた。例えるならば、ミルクを与えた迷い猫を見失った時のような。
 未だかつて、こんなにも慕われたことはなかった。そして、これから先にも。本当は姉やと呼ばれて嬉しかったのではないだろうか。千影は密かに自問した。
「――あの、千影ちゃん?」
 遠慮がちな亞里亞の声が、千影を黙考の世界から連れ戻した。
「香水の名前じゃなくてバラのお名前じゃ、ダメ?」
 千影の心臓が大きく脈打った。疑惑が頭をもたげる。
「別にかまわないが、何故よりにもよってバラの名前などを」
 努めて冷静に尋ねたつもりだったが、動揺が言葉の端々へ出ている。微細な心の動きに気付くような亞里亞でもないとは思うが、やはりいい気はしない。
「ママンがね、亞里亞にお話してくれたの。香水に使っているバラのお名前のお話」
「もしかして、そのバラには人の名前が付けられてはなかったかい」
「千影ちゃん、すごいです。どうしてわかったの?」
 亞里亞の問い掛けに対し、千影は薄い笑みで応えるに留めた。疑惑が確信へと少しづつ変化していく。
「とってもキレイな紫色のバラだけど、とっても悪い人のお名前がついてるの。亞里亞だったら、もっと違うお名前を考えてあげるのに」
 千影は勝手に開こうとする口を両の手で覆った。このまま亞里亞に喋らせようとする自分と、亞里亞を押し留めようとする自分が激しくせめぎ合っている。多分、いやきっと、想像している通りのことを亞里亞は語るのだろう。彼女を黙らせてしまえば今までと同じく、母は生死不明なままだ。
 亞里亞に引導を渡したつもりが逆に渡されるなんて。
「――リシュリュー枢機卿、だね。カーディナル・ドゥ・リシュリュー」
 亞里亞は初め、目をまん丸く見開いていたが、それはやがて満面の笑みへと昇華した。
 母を同じくする妹の唇は、更に真実を紡ぎ出した。
「それでね、リシュリューって人はとっても悪いおじさんだから、暗い牢屋の中にお姫様を閉じ込めちゃうの。だけど、ダルタニャンが助けに来てくれるからお姫様は大丈夫なの。だからママンは、悪い人の匂いをつけてダルタニャンに自分の居場所を教えてるの、って言ってました。――千影ちゃんも、あの香水でダルタニャンを待ってたの?」
 亞里亞は怪訝そうな顔をいつものように傾げ、程なくして微笑みを見せた。
「あ、千影ちゃんのダルタニャンは兄やなのね。でもそうしたら、千影ちゃんに兄やを取られちゃうから――」
「私のダルタニャンは、亞里亞くんだよ」
「え、なあに?」
 あまりに低くて小さい声だったので、亞里亞の耳には届かなかったらしい。
 言い直そうとした千影は、水滴が連なって水面を叩く音を聞いた。
「千影ちゃん、泣いてるの?」
 言われてはっと顔を上げた。一連の動きで、たたん、と二度目の水琴が鳴った。
 目の前の亞里亞が歪んで見えた。こちらを覗き込んでいることがかろうじてわかる。自分の顔がみるみる紅潮していくのが感じられた。人前で涙を見せたことなんてないのに。そう考えると急に恥ずかしくなり、ますます涙が溢れ出た。
 これ以上泣きっ面を見られまいと慌てて顔を隠しても、なお千影の涙は止まらなかった。
 湯船から立ち上がった亞里亞が千影の頭をかき抱いて髪を撫でて慰めても、それでも千影の涙は止まらなかった。
 そのうちに亞里亞も悲しくなって一緒に泣き始めた。
 今改めて母に別れを告げた姉妹の嗚咽が、湯気の中へと溶け出していった。


   *


 ふと気が付くと、そこは夢の中だった。
 いつもの夢の中。幼い頃の自分と、きれいなフリルがお気に入りの白いワンピース。
 部屋じゅうを埋め尽くすウサギたちをぼんやりと眺めているうちに、誰かの靴音がこつこつと近付いてきた。何度も聞いた音だ。いつもの兄の足音。安らぎをもたらしてくれる音。しかし、同時に悲しく感じられるのはなぜだろう。ようやく戻ってこられたというのに。
 やがて、まばゆい光を伴なった兄が扉を開けた。その様を半ば醒めた気持ちで見つめていた。
 兄が抱えていたのは見慣れたいつもの包装紙ではなかった。光沢を抑えた銀紙に青い幅広のリボン。大きさは同じぐらいだろうか。
 いつもならば包みを置くだけで終わりなのに、今日の兄は少し違っていた。うやうやしい手つきで、慎重にリボンを解いていく。いつもなら我先にと逃げ出すウサギたちも、興味津々といった風にこちらを見ていた。
 銀紙の下から現れたのは、これまた銀色の毛をしたウサギだった。わずかに身じろぐだけでウサギの輪郭を縁取る光がさざめく。
 身体を伸ばしたり縮めたりして遊んでいるうちに、今までの不快感もどこかへ消えてしまった。上機嫌のまま、銀色のウサギに抱き付いた。毛並みを楽しもうと頬をすり寄せた、その時。
「姉や……」
 聞き覚えのある声に慌てて飛び退る。
 しかし、飛んだ先には床が無かった。どこまでも暗い、無限の奈落が口を開けて待っていた。
 穴から身を乗り出したウサギたちに見送られながら、ひたすらに堕ち続けていく――


 千影の目にまず飛び込んできたのは、朝日に照らされながら床の上を舞う埃だった。
 ベッドから転げ落ちるなどという失態は、十数年に及ぶ千影の人生の中でも初めてのことだ。苦痛を訴える筋肉をそろそろと動かしてあお向けになる。痛みが和らぐまで深呼吸を繰り返した。
 腰を叩きながら千影は立ち上がった。
 ベッドの上には亞里亞が小さな寝息を立てている。その腕には、千影が兄から贈られた、あのぬいぐるみが収まっていた。ウサギののど元に顔を埋め、小さな鼻をひくひくとうごめかしている。
 それを見ても、千影の胸には不思議と何の感情も湧いてこなかった。昨日までの自分であれば恐らくは激怒していただろう。
 それよりも、亞里亞がどうやってこの部屋に入ってきたのかが千影の気を引いた。四葉ならばともかく、亞里亞が鍵を破るはずもないのだ。自分の行動を記憶から手繰り寄せ、そこからはじき出された箇所――ドアノブを見やる。案の定、鍵穴に挿さったままだった。これならばミカエルでも入って来られる。改めて鍵を掛けた。
 昨夜はあれからばたばたとしていたので、注意力が散漫になっていてもおかしくはない。赤く泣き腫らした瞼を見られないようにと、亞里亞をリビングに届けた後すぐさま部屋へと引き上げてきたのだ。ベッドへ倒れ込んだ千影の耳には何も聞こえなかった。亞里亞には口裏を合わせるよう指示をしておいた。『シャンプーが目に入って泣いた』という言い訳が通用するのかどうか。そんなことを考えたところまでは覚えている。普段ならば部屋に入ってすぐに鍵を掛けるものを、昨夜はそれほどまでに余裕がなかったらしい。
 布が擦れる音で千影は振り返った。亞里亞が目覚めたのかと思いきや、ただ寝返りを打っただけのようだ。時計の針は目覚めるにやや早い位置を指している。
 千影は足を忍ばせて近寄り、布団を掛け直してやった。肌寒さで眉をひそめていた寝顔が微笑みへ変わっていく。あまりに敏感な反応に千影も思わず苦笑してしまう。
 こうして眠っている時ならば面倒でもなんでもない。そっと見守ってやればいいだけだ。問題は亞里亞が目覚めてからのことだ。今日からどういう生活が始まるのか見当もつかない。
 千影は母と紡ぐはずだった思い出を亞里亞に求め、亞里亞は失ってしまった母の温もりを千影に求める。
 しかし、まずさし当たっては、勝手に部屋へ入らないように亞里亞へ言い聞かせなくてはならない。
 誰かの言い争う声が千影の耳に入ったのはちょうどその時だった。
 ベッドから転げ落ちた際の音を聞きつけたのだろうか。となれば声の主は例の二人、可憐と四葉だ。亞里亞よりも先にこの二人をどうにかしなくては。
 廊下の軋みが壁の向こうで止まった。
 千影は鍵を解き放って、扉を開く。一日の始まりを告げる光――曙光を背に受けて。


Fin.
戻る
サイトのトップへ