Lapped chocolat on the lap
 起き抜けにタンスの角へ足の小指をぶつけ、激痛に身体を曲げて悶えた。ツンと鼻の奥がむず痒くなる。
 こみ上げてくる涙を何気なく飲みこむと、あまりの塩辛さにのどが激しく焼き付き、床にひざをついて咳き込んだ
 久しぶりの涙の味に、僕は少しばかり面食らった。
 こんなにも痛いなんて。
 あの子の痛みはどれぐらいだったろうか。



 あれはずいぶんと昔の話。
 何年前だったか、僕が三歳か四歳ぐらいの頃。


 僕と同い年ぐらいの女の子だった。
 いつも同じ格好をしていて、黒い別珍のよそいきっぽいワンピース。そして、左手にはチョコレートの黄色い箱。普通の板チョコではなく、小さなピースの中にフルーツペーストが詰め込まれているやつだ。黄色い箱の中にはそれが一ダース入っていて、女の子が身じろぎするたびにカタカタと箱が鳴ったのを覚えている。
 ちょっと恥ずかしい話、僕が黒服の女の子に興味を抱くようになったのはそのチョコレートが原因だ。
 誤解されると困るのだが、別に食い意地が張っていたというわけではない。母が買ってくるチョコレートはいつも一緒、女の子と同じ黄色い箱のそれで、僕には馴染みが深かったというだけの話。
 どういうわけか、その女の子を見かけたのは僕が一人で公園に行った時だけだった。チョコレートの箱をひざの上にきちんと置いて、ベンチに一人ぼっち。午前中の公園はベビーカーを引いた親子連れがほとんどで、その中にあって僕と彼女は少しばかり浮いていたに違いない。
 彼女の足は所在なさげにぶらぶらしていたが、顔はまっすぐに親子連れを向いていた。視線の先には母親に見守られながら遊ぶ子どもたちの姿があって、母親に抱きついたり、逆に抱きしめられたりするたびに、女の子は幾度も目をまばたかせた。
 やがて、のどが頻繁に上下しだしたかと思うと、彼女はもどかしげにチョコレートの箱をこじ開け、一粒を取って口に押しこんだ。
 そうなると彼女はもう止まらなかった。顎を動かさず、口中でチョコレートを溶かしては少しづつ飲み下し、完全に無くなる前に次の一粒を継ぎ足す。
 機械を思わせるような動作で一ダースのチョコレートはたちまちに消えた。空き箱をくしゃくしゃにした彼女はひざを抱えてベンチにうずくまった。
 彼女はいつもそうだった。
 子どもと母親たちを羨ましそうに眺めてはチョコレートを食べ、無くなると抱え込んだひざの中に顔を埋めて肩を震わせた。チョコレートを持っていない日には、ベンチにずっとそのままでいた。
 あの頃の僕は、チョコレートを一箱全部食べられる彼女がとても羨ましかった。だから、声を押し殺して泣いている彼女を見ても特には何も感じなかった。全部食べてしまって、それが悲しくて泣いてるんだろうとばかり。
 だけど、今の僕にはわかる。いや、わかってしまった。上等なよそいきを着て公園に一人。手にはチョコレート。これ以上、記憶の糸をたぐり寄せるまでもない。
 彼女の周囲で何が起こったのか、それはわからない。名前もわからない。声すらも聞いたことがない。でも、僕にはわかる。きっとそれはとても悲しいことだったはず。
 ゆるやかにのどを滑り降りるチョコレートは、全てを包みこむほどに甘い。しかし、全てが通り過ぎた途端に一転して辛く焼けつく。こみ上げる涙を飲み干した時のように。



 椅子の上で片ひざを抱えながらぼんやりしていると、フォークに刺さったトリュフチョコレートが目の前へ突き出された。
「亞里亞のショコラだけど、兄やにもあげるの」
 亞里亞はそう言って、さらにフォークを突き出した。
「兄や?」
 反応の薄い僕が不安になったのか、亞里亞は小首を傾げて僕の顔を覗きこんだ。
 そんな亞里亞に押される格好で僕が口を開くと、つられるようにして亞里亞の口も開いた。
 僕は笑いながら亞里亞の手を取ると、フォークの先端を亞里亞の口元へ持っていき、そのまま押し入れた。僕の動作に戸惑いの表情を浮かべていた亞里亞だったが、自分の口が開いていたことに気付いて頬を赤く染めた。
 ばつの悪そうな顔で口をもごもごさせる亞里亞をなで、身振りで自分のひざを示した。亞里亞はトリュフの乗ったトレイを手にしたままで背中を向け、僕のひざによじ登る。亞里亞の腰に手を回すと僕へ身体を預け、鼻歌混じりで残りのトリュフをついばみ始めた。
 嬉しそうな亞里亞を見ていると僕も嬉しくなる。チョコレートは寂しさを覆い隠すためのものではない。涙の味がするチョコレートはあまりに悲し過ぎる。
 そういえば、ここへ来た当初の亞里亞も彼女と似た食べ方をしていた。窓の外を眺めては、山のようなチョコレートを一人きりで際限無く。『兄やといっしょなら寂しくなんかないです』と強がっていてもフランスと日本では相当に違うし、お付きのメイドもいない。ましてや十歳そこそこの女の子。ホームシックに罹らないほうがどうにかしている。
 ただ、今はもう乱暴な食べ方はしない。他の妹たちとも仲良くできているし、何よりも僕がいる。寂しさはフォークの先ほどもない。
 あの後、一ヶ月ほどで彼女の姿は消えてしまい、その行方を知ることはできなかった。
 願わくば、彼女に兄か姉がいてほしいと思う。あるいは、悲しいときや寂しいときに寄り添ってくれる誰かが。
 亞里亞といつまで一緒にいられるかはわからない。別れは必ずやってくる。
 ただ、その時まではこうして寄り添っていよう。寂しさや悲しさは僕や皆で分かち合おう。それでもチョコレートの後味で泣いてしまったそのときには、僕が涙を拭いてあげればいい。


 トリュフを刺そうとした亞里亞のフォークが逸れ、僕の腕に突き刺さる。僕はまた泣いた。

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