Aria in mirror
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「鏡は、どうして右と左だけが反対なの?」
「難しい質問だね。もしかすると、自分の右手で自分の左手を捕まえるため、かもしれないね……」
*
目覚めた亞里亞の目に飛び込んできたのは、自分の顔だった。
でも、鏡じゃない。鏡なら右と左だけ逆なのに、いま見ている自分の顔は、
膝の上で眠っているときのようにちょうど真横になっている。……そうじゃなくて、本当に膝の上で眠っている。
なぜなら、座っているお尻が頭のせいで痛いから。
そこで亞里亞は、何かがおかしいことに気づいた。寝ているのも亞里亞で、それを見ているのも亞里亞。
でも、亞里亞が見えているということは、それを見ている亞里亞は亞里亞じゃないかもしれない。
「亞里亞――」
唇から流れ出た声に、思わず口をふさいだ。風邪を引いたときのように低くがらがらしている。
姉やの声みたい、と亞里亞は思った。そういえば、この白くて大きな手も姉やに似ている。
着ている黒い服も、両側に見える赤い髪の毛も、まるで亞里亞が姉やに変身したみたい。
「もしかして、本当に……?」
姉やの口ぶりを真似してつぶやいた亞里亞は、もぞもぞと自分の胸をまさぐった。ふにゃっと少しだけ埋まる指の先に硬い骨がある。感触そのものは覚えているが、何かが違う。それに、胸が縛りつけられていてすごく息苦しい。
亞里亞がその縛めを外そうとじたばたしていると、膝まくらで眠るもうひとりの亞里亞がぱちっと目を覚ました。
「あなたは、だぁれ? 亞里亞は亞里亞だけど、あなたも亞里亞なの?」
姉やの声でそう聞いても、もうひとりの亞里亞は眠そうにあくびをするだけで何も言おうとしない。
ちょうどそのとき、咲耶ちゃんが目の前を通りすぎようとした。
「咲耶ちゃん」
呼ばれた咲耶ちゃんは、すごくびっくりした顔で振り向いた。
「ちゃん付けだなんて、一体どういう風の吹き回し?」
「あのね、咲耶ちゃん。亞里亞が、ふたりになっちゃったの」
「何バカなこと言ってるのよ。あんたは千影でしょ? どこをどう見たら亞里亞ちゃんになるの」
「でも、おひざにいるのも亞里亞だけど、いま咲耶ちゃんとおしゃべりしてるのも亞里亞なの」
そう言うと、咲耶ちゃんは腕組みをして難しそうな顔になった。
「――もしかして、アレ? 心と身体が入れ替わっちゃったーとかいうヤツ」
「よくわからないけど、きっとそうなの」
「ということは、こっちが千影ね。……っと、大丈夫? ふりふりドレスでカルチャーショックでも起こしてるの?」
姉やかもしれないもうひとりの亞里亞は、亞里亞たちのことをかわりばんこに見ると、突然起きあがって咲耶ちゃんの足にしがみついた。
「違うの。亞里亞は亞里亞で、姉やは姉やなの」
今度は、咲耶ちゃんが亞里亞たちをかわりばんこに見る番だった。
「ちょっ、どういうこと……?」
「あのね、今日はエイプリルフールでしょ?」
もうひとりの亞里亞が亞里亞を見て、くすくすと笑った。
「だから、今日の姉やは亞里亞のマネしてて、みんなをびっくりさせてるの」
「なーんだ、そういうことなの。でも、あんまりびっくりさせないでよ。一瞬、本気で入れ替わっちゃったのかと思ったわ」
「ち、違うの――」
亞里亞が違うと言おうとしたのに、
「さすがは姉やね。よく似てるじゃない」
咲耶ちゃんは小さく手を振りながら、向こうへ行ってしまった。
「亞里亞は姉やじゃないのに」
「でも、今だけは姉やね」
もうひとりの亞里亞が亞里亞の膝から降りてそう言った。座っている亞里亞と目の位置が変わらない。鏡に映ったみたいな、もうひとりの亞里亞。
「違うの。亞里亞は、亞里亞なの」
「違わない。姉やの身体だから、今は姉や。亞里亞の身体に入っている亞里亞が、本当の亞里亞」
もうひとりの亞里亞は、いつも亞里亞がやっているようにくるりと回って、ドレスの裾をはためかせた。白いフリルがふわっと踊り、きらきらと光る。
「ほら、キレイでしょ? こんなことができるのは亞里亞だけ。姉やに、こんなことができる?」
「亞里亞だって……」
亞里亞は立ち上がるが、いつもと違う感覚にぐらりとよろめいた。台の上へよじ登ったように、目の位置が高い。それに、長いスカートが足に巻きついてとても歩きにくい。
「亞里亞ちゃーん」
今度は雛子ちゃんだ。手をぶんぶん振りながら走ってくる。
「雛子ちゃん」
ふたりの亞里亞の声が重なった。雛子がやはりびっくりした顔をする。
「どうしたの、亞里亞ちゃん? お歌の練習?」
「雛子ちゃん、あのね――」
「今ね、姉やは亞里亞のマネしてるの。だって、今日はエイプリルフールでしょ」
もうひとりの亞里亞の説明に、雛子は縦に首を振って納得した。
「でも、千影ちゃん、亞里亞ちゃんのモノマネ、すっごく似てるよね。やっぱり、ホントのおねえちゃんなんだね」
「それで、何のご用?」
「あ、あのねっ。おにいたまが、ご本読んでくれるって」
そう言って、雛子ちゃんが手を差し出した。亞里亞が取るよりも早く、もうひとりの亞里亞が雛子ちゃんの手を取った。途中で止まった亞里亞の手を見て、雛子ちゃんが変な顔をした。
「千影ちゃんも、おにいたまにご本読んでもらいたいの?」
「でも、亞里亞のマネしてても姉やだから」
ふたりは顔を見合わせてうなずくと、向こうで手を振っている兄やのところへ走り出した。兄やの周りには、可憐ちゃんや花穂ちゃんがいる。姉や以外のみんながいる。
「亞里亞は、亞里亞なのに……」
ここは姉やがいつも座る場所。姉やは、いつもここからみんなのことを見ている。亞里亞がいないときはひとりで。
ここから見るみんなはとても楽しそうだ。もうひとりの亞里亞が雛子ちゃんといっしょに、兄やの膝に乗っている。とてもとても楽しそうだ。姉やがいないのに、とても楽しそうだ。
亞里亞は急に悲しくなった。姉やの身体に入っているだけで、こんなにさびしくなるなんて。今は亞里亞だけど、いつもの姉やはずっとこんな気持ちでいるのだ。そのことが、また悲しかった。
サイドテーブルには紅茶と本が置いてある。
紅茶に口をつけてみると、とても苦くて飲みこめない。ハンカチに少しずつ染みこませて戻した。
本をめくってみると、とても重くてすぐに閉じてしまう。文字ばかり並んでて絵が一枚もない。
「――どう? わかった?」
振り向くと、そこにはもうひとりの亞里亞がいた。
「姉やのこと、わかった?」
「亞里亞は……」
「もう、わかったよね?」
もうひとりの亞里亞は、亞里亞へ向かって左手をそっと差し出した。
亞里亞は、くすん、と鼻をすすり、もう一度聞いた。
「あなたは、だぁれ?」
「亞里亞は、亞里亞よ」
亞里亞は右手を差し伸べ、もうひとりの左手に触れた。
その途端、もうひとりの亞里亞の手が溶けかかったアイスクリームのようにやわらかくなり、いっしょに亞里亞も溶けて落ちた。
*
目覚めた亞里亞の目に飛び込んできたのは、姉やの顔だった。
「目が覚めたようだね……」
ちょっとだけ笑いながら、亞里亞のことを見つめている。
「姉やは、姉や……?」
「おかしなことを言うね。何か、怖い夢でも見たのかい」
夢、という言葉に起きあがると、亞里亞はいつもの亞里亞だった。フリルでいっぱいの青いドレス、くるくると縦に巻いた銀色の髪。
笑い声がしたのでそのほうを見ると、兄やの周りにみんながいた。いないのは亞里亞と姉や。遠くから見ても、みんな楽しそうだ。
すべり降りた亞里亞は、姉やの手を引っ張ってソファーから立ちあがらせる。
「どうしたんだい? そんなに引かなくても――」
「姉や、こっちに来て!」
姉やの手を引き、亞里亞はみんなのもとへ近づく。ふたりに気がついたみんながいっせいに振り返った。
亞里亞はびっくりした顔の兄やのところに行くと、隣へ姉やを座らせて兄やのほうに押し倒した。兄やの膝の上に姉やの頭が乗る。姉やの顔が髪の毛と同じぐらいに赤くなった。
それを見て、亞里亞は満足そうに微笑んだ。