みしみし
顔の位置はそのままに、眼球だけをぐるりと動かした。
目の奥がずっしりと重い。鈍痛が一拍子遅れて目の動きをトレースする。
視線を大きく左右に振ると今度は頭まで痛みだした。思わず顔をしかめて目頭を押さえる。細かな作業を日課としているので肩凝りには慣れ親しんでいるが、今夜のそれは特に酷い。
鈴凛はスチール製のドアをゆっくりと引き開けた。
身体の脇を温風が勢い良くすり抜けていく。室内の暖まった空気が廊下へと逃げ出しているのだ。
鈴凛がラボの代わりとして使っているボイラー室は結構な広さを持っている。それでも六時間近く外気を遮断していれば、逃げ場を失った放射熱が篭ってそれなりに室温も上がる。
「それにしても」
風の匂いを嗅ぎながら、鈴凛がぼそりと呟く。
「お風呂に入っておけばよかったな」
汗の匂いと少女特有の体臭とが混じり合った室内の空気は、何とも言えない臭いを発していた。
鈴凛が自らを評する際に一番の長所として挙げる要項は“高い集中力”だ。一度完全に入りこんでしまえば、何者にも邪魔されることなく自分の作業に没頭できる。その他大勢には退屈極まりない学校行事、集会や式典といった類のものも、鈴凛にとっては格好の思考時間となりえる。
いつのことだったか、あまりに没入し過ぎたおかげで兄と二人きりで出掛けるチャンスを逃がしたこともあった。兄が言うには『壊れそうなぐらいにドアを叩いた』らしいのだが、鈴凛の記憶には全く残っていない。こういう時には千影や亞里亞が羨ましく思えてしまう。あの二人が一緒になって創り出す空気はなかなかに犯しがたい。向こう側から遠ざくように仕向けられれば、周囲の変化を察知しつつも没頭できる環境が自ずと生まれてくるものだ。
廊下に出た鈴凛は静かにドアを閉めた。
室内からの暖気が途絶えると意外に寒く、思わず一度身震いをした。
初夏とはいえ、日付が変わる時刻ともなればそれなりに冷え込む。加えてこの石造りの洋館だ。廊下の壁からもじわじわと冷気が染み出している。
今の鈴凛は、素肌にTシャツ一枚、それにバミューダパンツという格好だ。気が散ってしまうのでブラジャーは着けていない。何となく息苦しく感じてしまうのだ。咲耶曰く『形が悪くなるから、お風呂の時とお兄さまのベッドに潜り込む時以外は外しちゃダメ』とのことなのだが。
鈴凛はドアノブに手を掛けたままで少し考えたが、やがて首を振って廊下を歩き出した。キッチンへ行き、コーヒーで一息入れるだけの話だ。外へ出るわけでもない。
木貼りの廊下を行く鈴凛の歩みは遅い。春歌が毎日のように雑巾を掛けている廊下はさほどに軋まず、むしろ鈴凛の身体の方が軋みをあげていた。
今夜の鈴凛は、辞書と首っ引きで海外の論文に挑んでいた。ロボット工学の第一人者がつい先日に公表したばかりのもので、メカ鈴凛の改良で壁にぶつかっていた鈴凛には光明も同然だった。
原文は英語でまだ日本語には訳されていない。当初は四葉の助けを借りることも考えたが、結局は自力で訳することにした。専門用語の多さもさることながら、賑やかしい四葉の性格では却って翻訳作業の邪魔になると判断したのだ。四葉とは皆で同居する前から付き合いがあるだけに、知られてしまっては機嫌を損ねてしまいかねない。出来るだけ早くに終わらせる必要がある。そんな焦りと次第に解き明かされていく論文の内容とが、鈴凛を普段以上のオーバーワークに駆り立てていた。
努力の甲斐あって、どうにかゴールが見え始めてきた。もう一頑張りすれば今夜中にはケリがつきそうだ。
鈴凛は足を止めて首をぐるりと一周させた。ゴキンゴキン、という鈍い連続音が骨を通じて耳に入った。
苦笑いを浮かべた鈴凛は、次に腰を勢い良くひねった。みしっという嫌な音に混ざって、首と同じように関節が鈍く鳴った。
今度は両手を壁に付けて大きくねじった。肩から指先にかけてのあらゆる関節が一斉に鳴り響いた。何本かを束ねた割り箸なり鉛筆なりを同時に折ったかのような音が、深夜の廊下を走り抜けていった。
鈴凛が大きく伸びをして歩を進めようとしたちょうどその時、廊下の先、キッチンの方で物音がした。
鈴凛は伸びの格好のまま動きを止め、聞き耳を立てる。
フローリングが軋む音と囁き声、微かに衣擦れらしき音も聞こえてくる。どうも一人ではなさそうだ。恐らくは二人。泥棒か何かの類であればキッチンへと忍び込んだりはしないはず。となれば、千影が呼び出した何者かという可能性もあるが、それはあまりにも非現実的だ。
鈴凛は足音を立てないように注意しながらそろそろと近付く。今の鈴凛では忍び歩きさえも相当に辛いのだが、そんなことを言っていられる状況ではない。
玄関前の大階段を横切り、リビングの戸口脇に身体を貼り付ける。電灯は点いておらず、その代わりに下弦の月が室内をほの白く照らしていた。今は物音も聞こえない。
鈴凛は部屋の中へ頭を半分ほど差し入れた。リビングとダイニングに人影は見えない。ただ、何者かの気配は確かに感じられる。恐らくはカウンターの向こう側、キッチンの奥に潜んでいるのだろう。
もう少し奥を覗こうとして鈴凛が重心を動かした途端、足元の床板が悲鳴を上げた。一瞬にして鈴凛の血が凍りつく。鈴凛は慌てて飛び退ろうとし、そこでまた床が鳴った。自分の迂闊さに思わず心の中で舌打ちをする。
床の軋む音に驚いたのは向こうも同じらしい。小さな悲鳴と、それをなだめるかのような囁き声が中から漏れ聞こえた。
鈴凛はその場に座り込み、ついでに胸を撫で下した。毎日耳にする、聞き覚えのある声。この二人なら、真夜中のキッチンに忍び込む理由も想像がつく。
そう一人ごちてから鈴凛はすっと立ち上がり、ためらい無くリビングへ踏み込んだ。あまりに露骨なこちらの行動に怯えたのか、キッチンの二人ともが小さく悲鳴をあげた。
「別にコソコソする必要は無いんだけどな」
鈴凛は苦笑しながら電灯のスイッチを入れた。
明暗が反転し、一際大きな悲鳴が部屋に木霊した。
鈴凛が厨房で見たものは、冷蔵庫の前でへたり込んですすり泣く花穂と、彼女をかばうようにして座り込むも、目を赤く腫らしてしきりに鼻を鳴らす衛の姿だった。
「あの、ボクが悪いんだ。花穂ちゃんと一緒にベッドに入ってからずっとお腹が鳴りっぱなしで、だから、もっと晩ご飯をたくさん食べておかなくちゃいけなかったのに――」
「ううん、違うの。花穂がいけないの。花穂がね、衛ちゃんに食べるものを取りに行こうって誘ったの」
「違うよ、ボクが――」
「花穂が――」
「はいはい、もうわかったって。別に怒ってるわけじゃないんだから」
電子レンジへ牛乳入りのマグカップを二つ押し込みながら、呆れた調子で鈴凛が言った。
「本当? 花穂のこと、叱らない?」と、しおれた様子の花穂。
「当たり前じゃない、たかがこれしきのことで。でも、真っ暗闇でごそごそやってたから心臓には悪かったかもね。電気点ければよかったのに」
「だけど、本当はよくないことだから、やっぱり……」
頭を掻きながら衛がぼそぼそと喋った。
「花穂のママね、『夜中に飲んだり食べたりしちゃいけません』って言って、すっごく厳しかったの」
「ああ、それはそうね。夜中に食べたら太りやすいって知ってる? 寝る2時間前からは飲み食い禁止がダイエットの絶対原則」
「え? そうなの?」
衛が大きく目を見開く。
「うーん、だったらボクは夜食が欲しいなぁ。最近、全然筋肉が付かなくなって困ってるんだ。今度、白雪ちゃんにお願いしてみようかな」
衛がパジャマの上着をまくり上げて腹を見せた。半ばうっとりとした表情の花穂が、衛の腹筋の凹凸を薄くなぞった。ローティーンには似つかわしくない筋肉の隆起は、日々のトレーニングの賜物なのだろう。
「いや、その、筋肉じゃなくて脂肪の話よ? もっとも、衛ちゃんの身体ならそう簡単に脂肪は付かないと思うけど。でも、花穂ちゃんの場合は――」
今にも泣き出しそうな花穂を見た鈴凛は慌てて、
「えーっと、まあ、二人とも普段から運動してるし。毎日でもなければ大丈夫じゃないかな」
「本当に?」
おそるおそるといった態で、花穂は鈴凛を見上げた。
「本当よ。大丈夫大丈夫。それでも、普段から気を付けるに越したはないんだけどね」
ちょうどその時、電子レンジのアラームが鳴った。
「こういう時にはホットミルクが一番。寝る前の牛乳は身体にいいのよ。カルシウムの吸収効率が高いって話だし」
そう言いながら、鈴凛は二人の前にマグカップを置いた。
衛が何かに気付いたらしく、犬のように鼻を鳴らす。
「これ、なんだか甘い匂いがする」
と呟いて、カップから立ち昇る湯気を吸い込んだ。
「バニラエッセンス。あくまで匂いだけね。普通の牛乳ばかり飲んでたら飽きちゃうでしょ」
花穂と衛は互いに顔を見合わせ、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう、鈴凛ちゃん」
向き直り、改まって礼を言う花穂に、鈴凛は照れ臭そうな様子で軽く手を振って応えた。
「これぐらい別にいいのよ。っと、それはそうとアタシも目的を果たさないと」
鈴凛は自分の名前ラベルが貼られた引出しを開けた。インスタントコーヒーの瓶を取り出し、小匙で二杯ほどカップに移す。電気ポットの湯を注ぐとたちまちに香ばしい香りが広がった。
鈴凛の好きな匂いだが、キッチンを預かる白雪と春歌には受けが悪い。白雪は『ニセモノの匂いですの』と言い、春歌は『日本人はお茶に限ります』といった具合に。
食糧事情を巡っては何かと意地を張り合う白雪と春歌だが、その二人が理由は違っても意見を一致させているだけに鈴凛には形勢が不利だ。おかげで表には出しておけず、個人用の食料保管スペースに置くより他ない。ただ、隠れインスタント派は鈴凛の他にもいるらしく、少し油断するとすぐに無くなってしまう。
「あれ、鈴凛ちゃんはまだ起きてるつもりなの?」
ミルクの薄膜で口を白く染めた衛が顔を上げた。
「うん、もうちょっと起きているつもり。寝てしまうと調子も戻っちゃうから、ノってる時に進めておかないとね」
そう返しながら、鈴凛は手で口を拭く真似をした。すぐに衛が気付いて口元を手の甲でこすった。やや遅れて花穂もそれに倣った。
衛はミルクを一気に飲み干して、
「ボクもそういうのってあるよ。一度うまく出来たらその時の動きを何度も繰り返して、身体で覚えるんだ。あとで同じことをやろうとしてもなかなかうまくいかないんだよね」
「花穂もそうなの。でも、花穂ってへたっぴだから、うまく出来たときのを真似しようとしても全然だめなの」
鈴凛はコーヒーを一口すすった。
「でも、がむしゃらにやればいいってものでもないと思うけどな、アタシは」
その言葉に花穂がひくっと肩を震わせた。
「花穂ちゃんは一生懸命に頑張ってるのに、そんな言い方ってないよ。鈴凛ちゃん」
衛が勢い良く立ち上がった。困惑の色を隠せない花穂が、衛のパジャマを引っぱった。
「ま、衛ちゃん。花穂は別にいいの。鈴凛ちゃんの言うとおりだから」
「だめだよ花穂ちゃん。いくらお姉ちゃんでも言っていいことと悪いことがあるんだから」
「でも……」
「言わなきゃいけない時にはちゃんと言わなきゃ……花穂ちゃんにはボクがいるんだから、勇気を出して。ね?」
「衛ちゃん……」
鈴凛は小さく咳払いをした。
「……あのさ、勝手に話進めないでくれる?」
手に手を取り、互いに見つめ合っていた二人が鈴凛の方へ向き直った。
「アタシが言いたかったのは、回数だけを増やせばいいってものじゃない、ってこと。“下手な鉄砲数撃ちゃ当たる”なんてよく言うけど、どうせだったら一発で仕留めたほうが安上がりでしょ」
「ごめん、よくわからない……」衛が首を小さくすくめてみせた。「時間はお金で買えないって話?」
鈴凛は腕組みをし、シンクの前をゆっくりと往復し始めた。
「衛ちゃんはさ、何かスポーツで上手くなりたいって思った時にどうしてる? 自分より上手な人の動きとかを参考にしたり」
衛は大きくうなずいた。
「そう、アタシが言いたいのはまさにそれなのよ。パズルゲームとかだったら手当たり次第にトライ&エラーで正解を見つけられるけど、人間の身体はそうもいかないのよね。メカ鈴凛をいじってると本当にそう思うもの。歩く動作を一つとっても、パーツとプログラムの調整次第で結果が全然変わってくるし。それでも、見当を付けて片っ端から試していけば意外にどうにかなるものよね……」
そこまでを口にして、鈴凛はふと我に帰った。
「あれ? アタシって何を話していたんだっけ」
鈴凛は足を止め、数分前の自らの言動を反芻し始めた。
ようやくに一通りを思い出した頃、鈴凛の背後で、ゴン、という鈍い音がした。
鈴凛が振り向くと、テーブルに突っ伏した衛が小さな寝息を立てていた。隣の花穂はうつらうつらと船を漕いでいて今にも沈没してしまいそうだ。
「花穂ちゃん衛ちゃん、ここで寝たらだめだよ。さ、起きて」
花穂は鈴凛の声に反応してぼんやりとした視線を向けてきたが、衛の方は完全に寝入ってしまったらしい。鈴凛が肩を揺さぶってもまるで反応がない。鈴凛は思わずため息をついた。
「花穂ちゃん、自分で部屋に戻れる? アタシは衛ちゃんを連れていくから」
花穂が目をこすりながら返事をした。
「うん、花穂は大丈夫だよ」小さくあくびをして、「花穂も衛ちゃんを運ぶの、手伝う」
「いい、いいって。これはアタシ一人でOKだから、花穂ちゃんは早く寝なさい。明日も朝練があるんでしょ」
椅子から立ち上がった花穂は、しばらくの時間ゆらゆらと立ちすくんでいた。やがて、鈴凛に「おやすみなさい」と頭を下げると、おぼつかない足取りでキッチンを後にした。
鈴凛は密かに安堵した。花穂には悪いのだが、彼女に手伝ってもらうと事態が悪い方向へと進んでしまいかねない。それに、強制終了してしまったメカ鈴凛の移動などでこの手の作業は慣れている。優に100kgを超えるメカ鈴凛に比べれば、この程度は何ということもない。
鈴凛は衛の傍へ屈み込み、彼女の腕を取って自分の首へ巻きつけた。
自分の腕を衛の脇へ通そうした時、ある物の感触に思わず手を離した。
鈴凛は一呼吸置いて、ためらいがちに衛の背中をそっと撫でた。
「……ブラ、してるんだ」
理由もなく鈴凛の顔が赤くなった。姉妹なのだからブラジャーに触れた程度で照れることもない。ただ、普段の役回りが役回りなだけに『男の子』というフィルターが無意識の内に働いているのかもしれない。
とはいえ、衛をこのままにはしておけない。ざわつく胸を押さえ、再び衛を抱き起こした。
規則正しい寝息が鈴凛の頬をくすぐる。間近に見るその顔は、普段よりも凛々しく感じられた。
中性的な風貌にも関わらず、衛の身体からは少女の甘酸っぱい匂いが漂ってくる。そのギャップを意識する度に鈴凛の動悸が早くなった。花穂が衛の傍にいたがるのも、何となく理解できるような気がした。
廊下へ出た鈴凛の頭上で地響きがした。
Fin.
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