結びの園
 最初に目に止まったのは黒い鳥が羽ばたく模様だった。茶褐色の空に翼を広げたままで静止するカラス。
 天井ってこんなに低かったかしら。病室にしては少し汚れているし、それにどこか懐かしいような――。
 目覚めてすぐのせいか、視界の端はうっすらとぼやけて頼りない。首を巡らせてみると、対面の壁には造り付けの木製ロッカーがあった。小学校などでよく見られるものだ。……小学校? ここは一体。
 鞠絵は目をこすろうと顔を手をやって、そこで初めて自分が眼鏡を掛けたまま眠っていたことに気付いた。
 しかも、フローリングの床へ直に横たわっている。おかげで体の節々が痛い。救いはほど良い陽気だろうか。日影の中にいても寒気を感じることもなく、かといって汗をかくほどの暑さでもない。ただ、日なたに突っ込んでいるつま先だけは別だ。紺色の靴下が熱を集め、容赦なく肌を焼き付ける。目が覚めたのは恐らくこのせいに違いない。
 それにしても、どうして自分はこんなところで眠っていたのだろうか。
 おもむろに顔を上げると、日の差す方の壁一面が白く光り輝いていた。
 いや、壁ではない。目を凝らすとおぼろげにアルミサッシの枠が見える。つまり、いま目にしているのは外の光景なのだ。
 壁一面に溢れる光。外はどうなっているのだろうか。
 鞠絵は窓の外を想像しながら、しばし茫然と見入っていた。
 外で雪でも降っているのかしら。けど、冬にしては暖か過ぎる。それなら、花か何かなのかしら? 例えば満開の桜とか。
 鞠絵の疑問に応えるかの如く、不意に風が凪いだ。ざわざわとさざめく音に合わせて光の壁が揺らぎを見せる。
 鞠絵は起こした半身を再び横たえた。
 ここからでは花のひとひらの形が見えないが、微妙な光の変化によって落ちていく様子は何となくわかる。宙を切り裂くように散り急ぐもの、右へ左へふらふらと寄り道を繰り返すもの。そして、風に煽られては見知らぬ遠くへ流されるもの。
 同じ木から生まれたひとひらなのに、散り際はこんなにも違う。それはまるで――。
 ふと、鞠絵の心に翳が差した。
 それはまるで、私とみんなのよう。同じ姉妹なのに私だけがこんなにも違う。兄上様のお家へ遊びにも行けない。学校の帰りにご一緒することもできない。どうして私だけなの。どうして私一人だけが病気なの。どうして私だけが、みんなと離れて入院しなくてはいけないの?
 入院という耳馴染みの単語に、鞠絵はハッと身を固くした。
 完全に忘れていた。ここがどこなのか、まだわからないでいるというのに。それに、いつも隣にいるはずのミカエルの姿がない。
 もしかしたらここは天国ではないだろうか。
 暖かで、とても心地良い。外は光に満ちて、花が咲き乱れる。そして私はここに一人。他には誰もいない。ミカエルもいない。そして、兄上様も。
 鞠絵はゆっくりとその場に伏した。胸の奥がずきずきと痛む。いつもの発作ではない。でも、胸が痛い。
 やはり、ここは天国ではない。全ての苦悩から解放されるのが天国だとするならば、この胸の痛みは何なのだろう。
 一人はもう嫌。私もみんなと一緒がいい。例え、その時間がみんなより短くても。
「あら、もう起きてたのね」
「誰!」
 突然の声に驚き、鞠絵は反射的に問い返した。
 光の壁の中に黒い小さな染みが現れたかと思うと、それはたちまちに人間を形作る。影の頭部からは二本の尻尾が垂れ下がっていた。
「咲耶ちゃん……?」
「どうしたの、そんなに怖い顔なんかして。今日は鞠絵ちゃんの誕生日なんだから。ほら、もっと楽しそうな顔する。せっかくのお花見が台無しよ」
 楽しげに弾む声を伴い、咲耶が光の壁から抜け出て来た。
「風邪引いたらいけないって持ってきたんだけど、無駄になっちゃったね」
 咲耶が手にしたブランケットを軽くはたくと、幾ひらもの桜がはらはらと舞い降りた。
 鞠絵は急に顔が赤くなるのを感じた。ほんの少し前まで嫉妬にも似た感情を抱いていただけに、咲耶の気遣いが嬉しくも恥ずかしかった。
「あの、ごめんなさい。咲耶ちゃん」
「いいのいいの、気にしない。この陽気なら逆に邪魔になってたかもしれないし」
 どこまでも屈託のない咲耶に、鞠絵の心はきゅっと締めつけられた。逆光であることも加わり、彼女の顔を正視できない。思わず額へ手をかざした。
「それにしてもすごい咲き方。お天気がいいのもあると思うけど、やっぱり今日で最後だって知ってるのかな」
 奇妙な言い方の咲耶に、鞠絵は思わず疑問を投げ掛けた。
「今日が最後って、それはどういう――」
「あ、鞠絵ちゃん、髪の毛。三つ編みが解けてる」
 咲耶の指摘に鞠絵は慌てて頭に手をやった。言われた通り、確かに編み込みが解けている。
「どうしましょう。髪を止めていたリボンも見当たりませんし」
 床に手を這わせながら鞠絵が言う。
「じゃあ、私に任せてくれる? 三つ編みぐらいなら私にもできるから」
「いえ、そんな。私、このままでもいいですから」
「何言ってるの。昔、可憐ちゃんと一緒に住んでたときには私が編んであげたのよ。これぐらいどうってことないんだから」
 一緒に住んでいた、という言葉がバラの棘のように突き刺さる。半ば意地になって鞠絵は言う。
「あの、そういう意味ではなくて、別に三つ編みでなくても――」
「あ、忘れてた。鏡がないじゃない。……ええと、ごめん。ちょっと探してくるね」
 鞠絵の言葉を勢いよく遮った咲耶は、奥の戸口から薄暗い廊下へと小走りに出て行った。
 またしても鞠絵は一人取り残される。
 鞠絵はため息をつくと、所在なさげに部屋を見回した。
 先に目に止まったロッカーの上には緑のフェルト地が一面に貼られてある。ところどころに長方形の痕が残っているのを見ると、どうやら掲示板か何かのようだ。
 ふと後を振り返るとそこには黒板があった。立ち上がって後ずさりながらに見渡すと、黒板いっぱいに下手くそな字で『ごそつえんおめでとう』と書かれてある。
 じっと見つめるうち、鞠絵の胸にじわじわとこみ上げてくるものがあった。
 何だろうこの感じは。昔、これとよく似た光景を目にした記憶がある。卒園式なら誰にでも経験があるから、懐かしさを覚えるのは当然の話だ。が、それにしては既視感が強い。
 いや、デジャヴの類ではない。断言できる。昔、私はここにいたことがある。
「ごめんね、待たせて。こんなのしかなかったけど、まあ、鏡には違いないし」
 戻ってきた咲耶の腕には長方形の鏡が納まっていた。手鏡という大きさではない。まるでバスルームのそれを外したかのようなサイズだ。
「あの、それは一体どこから」
 鞠絵が素朴な疑問を口にする。
「これ? 洗面所から外してあったのを持ってきただけよ。ここ、明日で取り壊しになるから」
 鏡を壁へ立て掛けながら咲耶が言った。
「取り壊し……?」
「そう、取り壊し」
 咲耶はおうむ返しに応えた。そして、部屋をぐるりと見渡しながら、
「だから、この園舎も庭の桜も今日で最後。道路になっちゃうんだって、ここを壊したあと。桜も移植させるだけの体力がないから、切り倒しておしまい。仕方ないってわかってるつもりだけど、やっぱり寂しいよね。……って、鞠絵ちゃんもこの話は知ってるはずじゃないの?」
 今日で最後。その言葉に鞠絵の足元が微かに揺らいだ。だが、鞠絵はすんでのところで踏み止まり、無理矢理に笑顔を作ってみせる。
「え? あ、それはその、ちょっと寝ぼけてしまいまして……」
 つられて咲耶もくすりと笑った。
「さあ、そこに座って。そろそろ始めましょ」
 促されるままに鞠絵は腰を下ろす。咲耶はどこからともなく櫛を取り出すと、鞠絵の黒髪にそっと挿し入れた。
 手際良く梳いていく咲耶の手捌きは実に慣れたものだ。自分も長髪なだけにそれがよくわかる。肩越しに写る咲耶の真剣な表情に、鞠絵はしばらく見惚れていた。
「鞠絵ちゃんの髪、やっぱり綺麗ね。典型的な日本髪で羨ましい。ほら、私のは少し茶色掛かってるから」
「そんな。私のはただ太陽に当たっていないだけですから。咲耶ちゃんのほうが、ずっと健康的で羨ましい……」
 鏡の咲耶は無言で苦笑を浮かべ、そのまま髪を梳き続ける。鞠絵は少々バツの悪い思いをしながらも咲耶の手に身を委ねた。
「私ね、本当は三つ編みにしたいって思ってたの」
 咲耶が唐突に口を開いた。
「え?」
「ほら、三つ編みって時間が掛かるでしょう。私のママは忙しくて『三つ編みにして』なんてとても言えなかったし、逆に可憐ちゃんの三つ編み作らなきゃいけなかったから。このツインテールだって、小さい時にも自分一人でできたからそれで始めただけ。だから、本当は鞠絵ちゃんが羨ましかったの。鞠絵ちゃんはいつ見ても三つ編みで、毎朝ママにしてもらってるんだなって考えたら」
 鞠絵は何と声を掛ければいいのかわからなかった。咲耶ちゃんが私を羨ましいだなんて、そんな。
 鞠絵が躊躇っている間に、背中の三つ編みはすっかり出来上がっていた。
「どうして、今になってそんなことを言うんですか」
 鞠絵の問いに咲耶は視線を落とした。
「……そうよね、やっぱり突然過ぎるよね」
 ぼそりと低い声で呟く咲耶。
「あのね。昔、ここにいたの。私」
「ここにって、この幼稚園にですか?」
 咲耶は黙って首を縦に振る。
「そんなことって。だけど、私もここにいて……でも私、咲耶ちゃんがいたなんて全然……」
 突然、咲耶が背中に枝垂れかかった。花の匂いがふわりと立ち昇る。
「ごめん……ごめんなさい、鞠絵ちゃん。あの頃から私、鞠絵ちゃんのこと、妹だって知ってたのに……」
「咲耶ちゃん……」
 鞠絵は咲耶の腕を取り、両手でそっとつつんだ。
「私、鞠絵ちゃんがすごく羨ましかったの。いつも三つ編みにしてて、ママに大切にしてもらってるんだって、そんな鞠絵ちゃんがとても、すごく羨ましくて……。私、嫉妬してたの。妹だから仲良くしてあげなさいって言われてたのに、それなのに私、ずっと何もしないで……」
 背中から咲耶の震えが伝わってくる。
「咲耶ちゃん。そんなに自分を責めないでください。嫉妬してるのは、その、私も同じですから」
「同じなんかじゃないわ。私のほうがずっと――」
「いいえ、同じです。咲耶ちゃんが兄上様と二人だけでお見舞いに来たり、私の目の前で兄上様の腕に絡みついたり、そんな日の夜はとても不愉快でした。そのせいで熱を出したこともあるんですよ。だから、私も咲耶ちゃんと同じなんです」
 咲耶が身を離し、困惑気味に口を開いた。
「そんな、同じなわけないじゃない。私のせいで熱まで出して」
「いいえ、同じです! 同じなんです」
 急に声を荒げた鞠絵に、咲耶はびくっと全身を震わせた。
「同じ、ということにしてください。私一人だけがみんなと違うなんて、もうそういうのは……嫌なんです」
「鞠絵ちゃん……」
 咲耶が鞠絵を背中からやさしく抱き締めた。
「……そうね。そうよね。私たち、十二人の姉妹だものね」
 鞠絵の耳元で咲耶が囁くように言った。
「ええ、私たちは十二人で一緒です」
 だけど、兄上様は一人だけ。心の中でそう付け足した。
 と、咲耶が何かに気付いた風に顔を上げた。
 兄の呼ぶ声が遠くから聞こえてくる。
「いっけない。私って、鞠絵ちゃんを呼びに来たんだっけ」
 咲耶は慌てて立ち上がり、鞠絵へ向けて手を差し出した。
「さあ、行きましょ。主役が来なきゃごちそうもおあずけのまま。きっとみんな待ちくたびれてるわ」
「……はい」

 外は花曇。桜の吹雪くその向こうにはみんなが待っていた。
 手を振る兄を見つけ、鞠絵は駆け出した。


Fin.
戻る
サイトのトップへ