ぽたぽた−2
 赤、黄色、茶色。
 まだらに染まった白い大きなテーブルクロスが、これまた大きな浴槽の中をたゆたっていた。
「なんでこうなるのかなぁ」
 ため息をつきながら、エプロン姿の咲耶は浴槽へ手を浸した。
「人の話、最後まで聞かないからだと思うけど」
 鈴凛が両手一杯の衣類を抱えながらバスルームに入ってきた。バスルーム、とはいっても広さは十畳近くあり、四人程度なら余裕で一緒に入れる。部屋の奥、浴槽がおさまっている壁面全体がガラス張りとなっていて、昼下がりの太陽が目にまぶしい。
「先に相手を教えてくれれば、真っ先に言ってたのに」
「四葉ちゃんはまだいいのよ、チェキとチョキって似てるから予想はできたんだし。でも、春歌ちゃんまでチョキを出すとは思わなかったわ」
 咲耶はため息混じりにそう言って、コスモス色の爪を見た。
「ゴム手袋って、ムレるからあんまり好きじゃないんだけど」
「でも、せっかくお金掛けてキレイにしたんでしょ? それぐらい我慢しなきゃ勿体ないって」
 どこまでも実利を重視した鈴凛の物言いに、咲耶は思わず苦笑する。
 鈴凛が、抱えた衣類を床に投げ出しながら言った。
「それにしても、みんな地震ぐらいでパニくりすぎじゃないかな。雛子ちゃんや亞里亞ちゃんはともかく、アニキまで一緒に泡食ってたなんてね」
「あ、今の言葉、お兄様に告げ口しちゃうわよ」
「わっ、わっ、今のそれちょっとタンマ」
 鈴凛が慌てて手を振った。
「お兄様が聞いたらきっと悲しむと思うわ。『12人全員がケガもなくて無事だったのに、鈴凛だけはひどい事を言う。こんな妹がいるなんて、兄としてはとても残念だよ』って」
 頬へ手を当てながら鈴凛に横目を使った咲耶は、鈴凛の肩が小刻みに震えていることに気が付いた。
「違う」
 低く、ぼそりと鈴凛が吐き出した。
「違う、そうじゃない!」
 咲耶が問い直す間もなく、鈴凛が声を荒げた。その声がわんわんと浴室内を木霊する。
「アニキはそんなこと言わない! お財布の紐は固いしケチでシブチンだけど、絶対に、絶対にアニキはそんなこと言わないの!」
 ほんの軽い冗談のつもりだったが、鈴凛の思わぬ反応に咲耶は思わず一歩後ずさった。
 咲耶の“お兄様”は、鈴凛の“アニキ”でもある。咲耶たち十二人姉妹は、同じ一人の兄を頂いていた。
 姉妹、とはいっても一つ屋根の下で暮らすようになったのはほんの一月ほど前。それ以前はお互いに離れての暮らしで、海外在住の三人に至ってはその存在さえも知らない状態が長年続いていた。
 咲耶が『十三人全員で一緒に住もう』と兄から聞かされ、まず頭に思い浮かんだことといえば、どうやって他の十一人を出し抜くか、だった。何しろ、兄に恋慕しているのは咲耶だけでない。年少の雛子や亞里亞はともかくとしても、思春期真っ只中の姉妹全員が兄に熱を上げているのだ。中でも咲耶と同い年で、幼少時から面識のある千影は最大のライバルだ。雪の降る中を、兄を真ん中に千影と三人で手を繋いで歩く光景は、咲耶にとって最も古い記憶として焼き付いている。
 それでもなお咲耶が同居話に賛成したのは、姉妹の中でも競り勝つ自信と目算があったからだ。私がお兄様を一番よく理解している。私がお兄様と一番長く一緒に過ごしている。だから、同居を始めて間もない頃、深夜のダイニングで力なくうつむくお兄様を見て、自分がこれから為すべき役割を知ることができたのではないか。
 標準的な核家族でも何らかのいさかいとは無縁でいられない。それが十三人ではなおさらの話だ。生まれてよりの家族ならばまだいいが、離れ離れに暮らしていたものだからまずは生活習慣が違うし、重要なのは兄の存在があって初めて姉妹が一つの家族として成立しているという事実だ。いつだったか、白雪と春歌が味噌汁の出汁の取り方で一悶着起こしているし、可憐が大事にしまい込んでいた兄との手紙を四葉が何気なく“チェキ”してしまったことで、危うく刃傷沙汰に発展しそうになったこともある。
 厄介なのはそのどちらも、兄への想いが招いたトラブルだということだ。兄が仲裁へ入れば、嫌われまいとして即座に争いを止めるのは確実だが、それはあくまで対処療法にすぎないし、そうやって少しずつ積もっていく不満や憤りが共同生活を蝕んでいくのは目に見えている。兄の苦悩は、まさしくそこにあった。
 以来咲耶は、他の妹たちと意識的に関わろうとしている。多少ウザがられても、邪険にされても、咲耶は一向に構わなかった。全ては他ならぬ“お兄様”のためだから。
「そりゃ、時々無茶なことやってアタシのこと怒ったりするけど、でも、その後は笑ってくれて、だから、だからアニキは――」
「はいはいはい、そんなにムキにならない。冗談よ、冗談」
「でも、冗談でも、アタシのアニキは、そんな……」
 鈴凛はそこで息を飲んだ。すると、それを合図としたかのようにぽたぽたと涙がこぼれ落ちた。
 予想もしなかった鈴凛の涙に狼狽を隠し切れない咲耶だったが、泣くまいとして必死に身を震わせる鈴凛の姿に、思わず手が伸びた。鈴凛は身体を強張らせて拒絶の意志を示していたが、やがて咲耶の胸に抱き寄せられた。
 咲耶の目には、すすり泣く鈴凛が昔の自分と重なって見えていた。
 あれは何年前だったか。そう、咲耶が小学4年か5年の頃、数ヶ月ぶりにやってきた“お兄ちゃんの日”と、義父の親戚の葬儀が重なったことがあった。“お兄ちゃんの日”の日時が決まった夜には隣家から電話が掛かってくるほどの大変なはしゃぎようで、小遣いで買った年不相応なハイティーン誌を手垢が付くまで読み耽ったり、着て行く洋服を半月も前から悩んでみたりと、当時の咲耶にはクリスマスや正月以上の一大イベントだった。それを、会ったこともなければ名前さえも知らない赤の他人が壊そうとしたのだ。咲耶は恥も外聞もかなぐり捨てさんざん泣いて叫んで暴れて抵抗したものの、結局は無理矢理に黒いワンピースを着せられてしまった。
 咲耶がはっきりと記憶しているのはそこまでで、あと覚えていることといえば、黒い服を着た大人たちの中でいつまでも泣いている自分と、ちょうど今の鈴凛のように誰かの肩に寄り掛かっている自分だった。
 しかし、と咲耶は思う。あの時、私を抱き止めていたのは誰だったのかしら。義父にしては身体が小さかったし、第一あの人はそんなことをする人間じゃない。となれば、あとはお兄様ぐらいしか思い付かないけど、いくらなんでもそれは都合が良すぎるわね。案外、お兄様を求める気持ちが幻を生み出したのかも。
「ねえ、お兄様のこと、好き?」
 間抜けた問いだと思ったが、咲耶は確かめずにいられなかった。
「うん、好き。アニキのこと、大好き」
 ややあって鈴凛が答えた。吐く息が肩に当たって熱い。
「そう、そうよね。だって、姉妹だものね」
 咲耶は、鈴凛の髪を撫でながら囁いた。
 咲耶から見ると、妹たちの中でもとりわけて離れた位置にいるのが鈴凛だ。別段、仲違いをしているわけではないのだが、“流行のファッション”と“機械いじり”とではあまりに接点がなさ過ぎるので、自分から話し掛けることもなかった。それに、彼女たち十二姉妹はあくまで兄を中心とした、例えるなら車軸とスポークのような関係なので、姉妹間の繋がりはそれほど深くない。衛と花穂のように、必ず入浴を共にするほどの仲良しもいるのだが、基本的には兄の向こう側に他の姉妹の存在が垣間見える、といった感じだろうか。
 それだけに先ほどの鈴凛は、彼女の気質を知らない咲耶からすれば不意打ちにも近い。ヒステリックな反応そのものは事あるごとに取り乱す可憐で慣れてはいても、(お金が絡まなければ)理知的な鈴凛と、良くも悪くもひたすらに一途な可憐とでは大分に違うし、よもやこの二人が同じような反応を示すとは誰にも予測できないだろう。
 しかし、おかげでより近くに鈴凛を感じることができた。それは同時に、兄を巡る強力なライバルがまた一人現われたことにもなるが、だからといって憎らしさを感じたわけでもない。
 むしろ、咲耶は嬉しかった。
 “生めよ増やせよ”という時代が終わってからすでに半世紀以上。海外在住の3人を含めて13人もの兄妹が一組の夫婦から生まれたとは考え難いし、現に千影とは双子でもないのに同じ学年だ。自分と千影、そして兄や妹たちと本当はどのような関係なのか、周りの人間に何度と無く聞いた咲耶だったが、誰も口を開こうとはしなかった。
 ともかく、この姉妹にあっては血の繋がりなど何の意味も持ちえない。それだけに、こうして全く違う個性の中に全く同じ一面を見たということは、他の何よりも“血縁”の証明となりえる。
「嘘でも、アニキを悪く言わないでよ」
 くぐもった鈴凛の声で咲耶は我に返った。咲耶は鈴凛から手を離し、鈴凛は咲耶からそっと離れた。
「ごめん、冗談でもちょっと言い過ぎちゃったよね。うん、あー、でも、固いのは財布だけじゃなくて頭もそうよね」湿った空気を吹き飛ばそうと、努めておどけた調子で言った。「兄妹なんだから、一緒のベッドで寝たってちっともおかしくないのに。ねえ?」
「咲耶ちゃん、それちょっと違うってば」
 ようやく鈴凛に笑顔が戻った。つられて咲耶も笑う。
「うん、まあ、それはそれとして、と」 
 咲耶は浴槽の縁に腰を下ろし、湯船のテーブルクロスを引き上げながら言った。
「私が言うのも何だけど、確かにみんな慌て過ぎかもね。どうやったらこんなに大きく染まるのかしら」
「んー、それはほら、食事時だったからじゃないの?」
「だからって、コーヒーとケチャップとソースを同時にこぼすとはねぇ」指先で染みをこすりながら咲耶。「そう簡単に落ちそうもないわよ、これ」
「思ってたより被害が多くてアニキが頭を抱えてたから、頑張って奇麗にするしかないよ。それ、大きいから結構な値段だったらしいし」
「あとは……食器類がほとんど全滅だったかしら? 十三人分揃えないとダメっていうのが辛いわね」
「でも、十三人いれば片付けなんかもすぐに終わ……らないか。亞里亞ちゃんと雛子ちゃんは勘定に入れられないし、鞠絵ちゃんにはあまり無理させられないからね。それに――」
「家が大きいっていうのも考え物ね」鈴凛に付け加えて咲耶が言った。
「ほんと、『この家がいい』って一番声が大きかった人に責任問い詰めなきゃ」
 鈴凛が目を細めて咲耶を見るが、当の本人は意に介した様子もない。
「だったら『大きいからラボに使える場所がたくさん取れる』って言ってた人にも連帯責任」
「う……」
 咲耶の鮮やかなカウンターが決まった。
「それを言い出したらキリがないわよ。って、鈴凛ちゃんは洗濯機の修理してなかったっけ」
「んー、それが大元からダメになっててさぁ……」左の手のひらを上へ向けながら答えた。生まれて十年余。中古の身体で一日四回転の重労働。そこへ作り付けの悪かった棚の直撃を受けたのだからひとたまりもない。
「結果として安物買いの銭失い、ね……。で、新しい洗濯機はどうするの?」
「それはアニキにおまかせ。ホントはアタシが行きたいところだけど、これがあるからね」と、傍らの衣類の山を指差した。
「もしかして、これも手洗いで?」
「配達してもらわなきゃいけないから、最速でも明日のお昼ごろになるし。それまで放っておけないでしょ」
「メカ鈴凛ちゃんに運ばせるとか、そういう手はダメ?」
「あのさぁ、咲耶ちゃん。アタシのようにかわいらしくてキュートな女の子が洗濯機担いで歩いていたら、どう思う? 警察のご厄介になっちゃうかもよ」
「あ、そっか。確かに不自然ね。……じゃあ、肉襦袢でも着せてみるとか」
「ますますもってダメ。だいたい、今メカりんには力仕事全般を任せてるんだから。っていうか、そんなにお洗濯ってイヤ?」
「当たり前じゃない! 何で私が千影なんかの下着を、それも手で洗わなきゃいけないわけ?」
 鈴凛は思わず頭を抱えた。
「じゃあ、千影ちゃんのはアタシが洗うから。それならいいでしょ?」
 咲耶は視線を宙にさまよわせながら、
「うん、まあ、それならいいわ」
「OKOK。なら、ちゃっちゃと片付けちゃいますか」
 そう言いながら、鈴凛はプラスチックのタライに水を張る。
 咲耶もあまり気乗りしない様子で、のろのろと腕をまくった。
「で、どっちを先にするの。大物からやっちゃう?」
「どうしようかな、先に洗濯物を済ませた方がいいかなって思うんだけど。ほら、洗剤つけたまま浴槽に放り込めば少しは洗剤が節約できるし、すすぎもまとめて出来るから水道代も浮いて一石二鳥にならないかな?」
「へぇー、さすがは鈴凛ちゃんね。いい主婦になれるわ」
 腰まで届く長い二つ括りの髪をシャツの内側へ入れながら、咲耶はうなずいた。その形状からツインテールとも呼ばれる咲耶の髪は、彼女のトレードマークともなっている。素肌に直接触れる髪の毛は実に不愉快だが、油断するとすぐに痛んでしまう毛先を思えば大した事ではない。
 素材別に衣類を分けていた鈴凛が、首を傾げながら口を開いた。
「前から思っていたんだけど、千影ちゃんのパンツってどれ? 洗濯当番で干す時でも、それらしいのは見当たらないし。このズロース……は、亞里亞ちゃんのだよね」
「千影ってああ見えてもセンス悪いっていうか、まあ、何かこだわり持ってるみたいだし」
 咲耶はやれやれといった風に首を振りながら、一枚の布切れをつまみあげた。
 それを見て鈴凛は眉をひそめる。
「ホントに、これ? 花穂ちゃんのじゃなくて?」
「外面と全然違うから普通はわからないわね。……そういえば、昔から好きだったっけ。会う度にいつもぬいぐるみ抱いてたし」
 咲耶の指には、ウサギのバックプリントがぶら下がっていた。



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