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 1 Marie-Go-Round



 ぼくたちはひとつだった。
 ひとつのかたまりだった。
 なにをするにもずっといっしょで、ひとつになってもぞもぞしたり、ぐるぐるしたり、ごろごろしたり。ママがきたときもぼくたちはいっしょだった。ひとつになったままでやわらかいおなかにはなをうめて、いっしょうけんめいにおっぱいをのんでいた。そして、おなかがいっぱいになると、ぼくたちはまたひとつになってねむった。
 ぼくたちはひとつのかたまりだった。
 だけどいま、ぼくはひとりになっている。
 さっきまでぼくといっしょだったはずのみんなのにおいがしない。やさしいママのにおいもしない。ちょっとまでいっしょだったのに。
「――そんなに怖がらなくてもいい」
 とつぜんこえがしたので、ぼくはこわくなってぺたんとおしりをついた。
 ぼくのにおいしかしない。だから、ぼくのほかにだれもいない。でも、こえだけはきこえる。すごく、こわい。
「そうか、きみたちは鼻で見るんだったね。すまない」
 そんなこえのあと、ぼくのまえからふしぎなにおいがふわふわしてきた。ママのおっぱいににてるけど、でもすこしちがう。はながちくちくする。
 ぼくにみえたのは、きらきらしてて、もやもやしたものだった。うえにながいから、これはきっとニンゲンだ。ママがおしえてくれた。ぼくたちがひざをまげてねころんでいいのは、ニンゲンのまえだけだって。
 だからぼくはひざをまげて、おなかをゆかにつけた。
「いい子だ」
 ニンゲンがきらきらした。
「さすが、私が見込んだだけのことはある。期待通りだ」
 ママがぼくたちをよぶときみたいな、やわらかいこえ。とてもうれしそう。だけど、どうしてうれしいんだろう。ぼくがひざをまげたから?
「それもある。だが何よりも、私たちに対する好奇心が重要なんだ。そうでなければこの役目は勤まらない」
 やくめ。やくめって、なんだろうか。
 ニンゲンがもっときらきらした。
「もっと知りたくはないかい? 人間のことを。私のことを。そして、きみが仕えるべき主人のことを。なぜ私がきみを呼んだのかということを」
 ニンゲンのきらきらがめにいたくて、ぼくはからだをおりまげてあたまをかくした。それでもきらきらは、ぼくのなかをぐるぐるとまわる。しっぽのさきがぱちぱちする。
 ママ、こわいよ! 助けて、ママ!
 すると、ぼくのうしろからママのおおきなにおいがしてきた。みんなのにおいもする。ぼくはうれしくなって、しっぽをぶんぶんさせた。
 すると、ニンゲンのきらきらがぱっときえた。
「……そうか、きみでも駄目だったか」
 いまにもきえてしまいそうなにおい。ぼくはおっぱいをのみすぎたときみたいになって、おなかをぎゅっとゆかにおしつけた。
「驚かせて悪かったね。さあ、もうママのところへおかえり。きみの兄弟が待っているよ」
 ニンゲンが『きょうだい』っていうと、そのニンゲンのもやもやがあったかくなったので、ぼくはとてもへんなきもちになった。
 きょうだいって、なんだろう。
 そうかんがえると、ニンゲンはちょっとのあいだ、しゃべらなかった。
「同じママから生まれた子供のことさ。だけど、そうじゃないときもある」
 ぼくはニンゲンにむかってあるいていた。ママや『きょうだい』よりも、ニンゲンのいう『きょうだい』のことがしりたかった。
「気になるかい?」
 そんなこえがしたとおもったらニンゲンがきえて、ちがうニンゲンがまえにでてきた。すごくいいにおいがする。ママみたいなにおい。ママみたいなニンゲン。
 でも、やっぱりはながちくちくする。ううん、ちくちくじゃなくて、むずむず。つめたいゆかみたいにひかってみえる。
「彼女のそばにいてあげるんだ。これからずっと、命のある限り」
 さっきのニンゲンのこえがした。
「彼女には兄弟がいる。だが、きみたちと同じように、やがては引き離されてしま……きみは、その兄……代わりとなって彼女を守……あげ……」
 ぼくが、きょうだい?
「あの……わたしと兄……ひとつの……結ばれた……」
 ニンゲンのこえが、ねむくなるみたいにどんどんちいさくなる。
「寂しい……わかる……から、もう一度……巡る……寂しい……ひとり……ああ、私は……」
 ママみたいなニンゲンがどんどんちかくなる。
 ぼくはさっきのニンゲンをさがそうとしてふりかえった。でも、ふりかえれなかった。あしのしたがふわふわしてる。
 ぼくのまわりがニンゲンのにおいでいっぱいになる。ママとはちがう、でも、すごくいいにおい。


   *


「千影ちゃん、大丈夫?」
 子犬を抱え上げた鞠絵は姉の異変に思わず声を掛けた。
 崩した正座のままで茫洋とした表情を宙に向ける千影。半分だけ開かれた目はうつろで生気がない。
 どうしたものかと鞠絵が迷っているうち、薄く開いた唇が小さく動きだした。まるで誰かに語り掛けるように。
「えっ? どうしたの?」
 鞠絵が聞き返すと、千影は全身をぴくりと一度震わせてぎくしゃくと向き直った。不安げな鞠絵の眼差しをぼんやりと受け止める千影だったが、突然ハッと我に帰った風に瞬きした。
「――あ。うん、平気。少し……めまいがしただけ。鞠絵くんのほうこそ、身体は大丈夫?」
「うん、まだまだ元気。だって、今日はすごく調子がいいの」
 そう微笑んでみせると、千影もつられてうっすらと笑った。そのどこか儚げな笑顔に、鞠絵は一瞬どきりとする。
 切れ長の目に青い瞳、雪を思わせる白い肌。そのくせ、髪の毛は燃えるように赤いのだ。同じ色白でも垂れ目で黒髪の鞠絵は、この見目麗しい姉と一緒にいるだけで胸がどきどきしてしまう。彼女が帰ったすぐ後に脈を計ると先生がびっくりしてしまうぐらい。
 こんなにきれいな人が自分の姉で、それもたった二歳しか違わないなんて。
 それに、中学生とは思えないほどに物知りだ。色々なおまじないに占い、そして魔法の言葉。悩みを聞いてくれた後に必ず囁いてくれる魔法の言葉。何てことはない、ただの励ましの言葉なのに、彼女がそれを口にするだけでとても暖かく感じられる。
 あと二年たったら。
 二年たって今の姉の年齢に追いついたら、そのときは素敵な女の子になっているだろうか。千影ちゃんみたいになっているだろうか。
「どうしたの? わたしの顔に、何かついてる?」
 いつの間にか姉の顔に見入っていたらしい。少し顔が赤くなったのか、鞠絵を見つめたままの千影が微笑んだ。
「握ったままだと、その子が窒息してしまうよ」
 鞠絵は、あっ、と小さく叫び、子犬を慌てて膝の上に置いた。子犬はしばらくもぞもぞとしていたが、ふんふんと鼻を鳴らし、背中を丸めて動かなくなった。
「どうする? この子にする?」
 言いながら千影が鞠絵の顔を覗き込んだ。
 鞠絵は顔を上げ、少し離れた場所で横たわっているゴールデンレトリバーの母子を眺めた。近眼が進行しつつある鞠絵は、この場所から母と子を見分けることができない。それはほとんど黄金色の塊に見えた。
 鞠絵はすがるような目つきで姉を顧みた。千影が苦笑を浮かべる。
「飼うのはきみだよ。わたしじゃない」
「でも、千影ちゃんが選んだほうが――」
 絶対に正しい。鞠絵はそう思った。この姉の言うことに間違いはない。
「しかし」
 千影が弱々しくかぶりを振った。
「きみが選ばないと意味がないよ。だって、これからのきみを守ってくれるガーディアンになるんだからね」
「ガーディアン?」
 千影の大げさな言葉に、鞠絵は思わずくすくすと笑う。
「な、何も笑うことはないじゃないか」
 千影が頬を膨らませる。なかなかお目にかかれない表情に鞠絵はさらに笑った。
「ごめんなさい、笑ったりして。でも、千影ちゃんがあんまり真面目な顔で言うから」
「わたしはウソはつかない」
 と、仏頂面で抗議する千影。
 事実、千影は嘘はつかなかった。
 例えば、兄が見舞いに来る日を言い当てたり、一週間後の天気をずばり予言したり。お見舞いは兄と組んでいるのかもしれないが、天気はその辺の予報よりもずっと正確だった。おかげで外出の許可はいつも晴れに合わせて取ることができた。そうと知らない兄は、会うたびに青空を背負って現れる鞠絵を晴れ女と思い込んでいるとか。
 鞠絵はあらためて犬の親子を見やった。やはり、見分けがつかない。
 そのとき、膝の上で何かがもぞりと動いた。
 ハッと頭を下げると、さっき拾い上げた子犬が膝の上にきちんと座っていた。賢そうな黒い瞳が、こっちを見て! と言わんばかりにひたっと向けられている。鞠絵は誘われるように両手を伸ばした。
「そういえばこの子……」
「なに?」
「ううん、何でも」
 鞠絵は首を振った。さっき、この子犬がまっすぐに駆け寄ってきてくれたような気がしたのだ。隣の千影は目に入らないという風に、重たげな太い足でよちよちと。
 もしかしたら自分を選んでくれたのかも。
 そう思う気持ちは確かにあったが、生来の控えめな性格がその感情を抑え込んだ。加えて、長い療養生活が悲観的な思考回路に輪を掛けていた。――みんなに迷惑を掛けているわたしに、そんな思い上がりは許されない。大好きな兄上様に会えるだけで、それだけで幸せと思わないと。
 そんな鞠絵に犬を飼うことを薦めたのは、他ならぬ兄だった。主人になって、少しでも自主性を養ってもらおうという心積もりらしい。
 犬に限らず、何かの主人になるということは、常に決断を迫られ続けるということだ。食事ひとつを取ってしても、エサの種類から量、与える時間、回数に至るまで、全てが飼い主の裁量次第。この子犬の将来は、何もかもが鞠絵の胸先三寸で決められるのだ。
 そして今まさに、鞠絵の最初の決断が迫られていた。この中から選ぶのか、選ばないのか。選ぶとしたらどの子を選ぶのか。
 そんな鞠絵の様子を、千影は固唾を呑んで見守る。
「――わたし、この子にします」
 鞠絵はからからに乾いた声でそう告げ、子犬を捧げるように持ち上げた。瞬間的に色々な感情が胸に押し寄せ、何度も唾を飲み込んで息を整える。
 無事に大役を果たした妹へ、千影はやさしく微笑みかけた。
「さあ、次は名前を決めないとね」
 その言葉に鞠絵が千影を上目に見た。
「千影ちゃんだったら、どんな名前にしますか?」
「ミカエル」
 即答した千影はふふっと笑い、
「私が飼うとしたらだよ。前からそう思っていたんだ」
「でも、ちょっと大げさなような。だって、大天使さまの名前でしょう?」
「ガーディアンになってもらうには、それにふさわしい名前が必要さ。ポチやジョンでは弱すぎるよ」
「じゃあ、神話や伝説の英雄は? ギルガメッシュとかジークフリードとか」
 千影は考え込む素振りを見せたが、すぐに口を開いた。
「英雄の最後というものは、得てして悲惨なものだよ。あまり縁起がいいとはいえないな。その点、天使は不滅の存在だ。きっと最後まで守ってくれる」
 千影はあくまでも守護者に拘っているらしい。淡白で知られる姉が見せた意外な頑なさに、鞠絵は心動かされた。
「千影ちゃんがそこまで言うなら、ミカエルにします」
 いたずら心混じりでそう告げたのだが、千影は大きくひとつ頷いただけだった。
「あの、本当にミカエルにしちゃっても――」
「飼うのはきみじゃないか。きみがそれでいいと思ったら、それでいいんだよ」
 と、千影は鞠絵の肩に手を置いた。鞠絵は頷き返し、金色の子犬を見た。
「ミカエル、これからよろしくね」
 主人の挨拶に、小さな天使は大きなあくびで応えた。





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