2 地を這う天使
暗闇の中にカチャカチャと床を叩く音が聞こえる。
続いて耳に届くのは金具が鳴る音と扉の軋む音。
目を半分開いて時計を見た。起きるにはまだ早い。
寝返りを打って見やった扉はわずかな隙間があった。いつも通りだ。何の心配もない。あの子が守ってくれるもの。
ベッドに横たわる彼女は大きく一つため息をつき、再び眠りの世界へと落ちていった。
*
ぼくはいま、草むらの中を一人で歩いている。
朝つゆがぼくの鼻にぶつかって気持ちいい。今日は暑くなりそうだから、いまのうちに冷たくなっておきたい。
だけどぼくの毛は長いから、どれだけ朝露をくっつけたってあんまり冷たくならないんだ。本当はご主人さまと一緒に歩きたいけど、ご主人さまを濡らしてしまうわけにはいかない。だから、いまだけは一人で歩く。
いつもの場所に着くと、ぼくは鼻を鳴らしてじっくり匂いを嗅いだ。ぼく以外に誰も来てないことを確認してマーキングを重ねる。残るは二つ。
ご主人さまもそうらしいけど、みんなはぼくが縄張りを守るために朝の散歩をしてるって、そう思ってるみたい。確かにぼくらにとって縄張りは大切なものだけど、ぼくとしては一応、敵の侵入を防いでいるつもりなんだ。
こうして毎朝見て回って、他のヤツらがご主人さまに近付こうとしていないかを調べる。ご主人さまが起きているときはずっとそばにいなきゃいけないからね。さすがに雨や雪の日は長い毛もぐっしょり濡れてつらいけど、でも、これもご主人さまのため。
そう、ぼくのつとめはご主人さまを守ること。だからぼくは『しゅごてんし』の名前をもらったんだ。
ミカエル。それがぼくの名前。
それにしてもここの庭は本当に広い。角から角まで力いっぱい走ると、途中でイヤになってしまうぐらいだ。朝ご飯もまだ食べてないから、ときどきは休みたいって思うこともある。もちろん、本当に休んだことはないけどね。
本当のミカエルには翼が生えているって、前にご主人さまが言っていた。翼があったら朝の見回りもきっと楽だと思う。でも、ぼくに生えるとしたらどんなのだろう? ハトやカラスぐらいの大きさじゃ、ぼくの体は重すぎる。じゃ、トンビぐらいだろうか。それでもまだ小さいかも。
「ミカエル、ご飯ですよ」
ご主人さまの声がどこからともなく聞こえてきた。
ぼくは慌てて走り出した。変なこと考えてたせいでまだ見回りは終わってないけど、でもしょうがない。ぼくはずっとご主人さまのそばにいなきゃだめなんだ。
マットで足をごしごしこすってから家の中に入ると、たくさんの匂いがぼくの鼻をくすぐった。ご主人さまのものと、あとは……十二人。うん、全員そろっている。
そう、ぼくは匂いで『見る』んだ。ご主人さまたちは目で『見る』から、暗いところでは何も見えなくなるらしい。前に『ていでん』とかいうのがあって明かりが消えたことがあったけど、その時のご主人さまたちの怖がり方といったらなかった。ご主人さまをなぐさめようと手を舐めたら、もっと怖がらせてしまって……。
「おはよう、ミカエル」
ご主人さまがぼくの前にしゃがんで頭をなでてくれる。ご主人さまの手はとても気持ちいい。見回りの疲れもどこかへ消えてしまうぐらいだ。
それが終わると今度はぼくの番。ご主人さまの手の匂いを慎重に嗅ぐ。体の調子は? どこか痛いところは?
……うん、何ともない。大丈夫。
なでられたお返しに、ぼくはご主人さまの手をひと舐めする。これは、ぼくとご主人さまの日課。
こうやって毎日確かめておかないと、時々わからなくなってしまう。
なぜなら、ご主人さまの匂いはほかのみんなと比べてとても弱いんだ。
ぼくと二人だけのときならいいけど、こうしてたくさんの中にいるとき、ご主人さまは他のみんなに隠れて見えなくなってしまう。
例えば、頭から二本の尻尾を生やしている『さくやちゃん』って人は、いつも変わったお花の匂いをさせている。
この人の匂いは時々、鼻が痛くなるぐらいに強くなるからぼくはあんまり好きじゃないけど、ご主人さまは違うみたい。ご主人さまが『びょういん』に入っていたときも、この『さくやちゃん』は何度も会いに来てた。だから、きっとそのせいだと思う。『さくやちゃん』と話しているときのご主人さまからは、とても嬉しそうな匂いがしてたから。
でも、問題はその後。『さくやちゃん』が帰ったあと、ご主人さまからはあの人の匂いしかしないんだ。『さくやちゃん』だけじゃない。長い服を着た『せんせい』が来ると、鼻の奥がむずむずするような匂い。『かんごふさん』って女の人たちは『せんせい』と『さくやちゃん』が半分ずつ。
どうしてご主人さまの匂いだけが弱いのか、それはぼくにわからない。もしかしたら、ご主人さまの体が弱いことと関係があるのかもしれないけど。
「さあ、ごはんですよ。いっぱい食べてね」
今日のご主人さまはいつもより匂いが強い。きっと『あにうえさま』の隣でごはんを食べているからだと思う。
ご主人さまにとって『あにうえさま』はとても大切な人らしい。
そう、ぼくにはすぐわかるんだ。
だって、匂いが全然違うんだもの。いまはそんなでもないけど、二人だけで会おうとする前はぼくの胸もざわざわするような匂いで、お話したり、並んで歩いてるときはちょっと眠くなっちゃう匂い。でも、お別れの時間が近付いてくると、ご主人さまからはすごく辛い匂いがする。……ぼくがママにさよならを言ったときみたいな、そんな感じ。
『あにうえさま』は目でご主人さまを見てるから、ご主人さまが悲しんでいることにちっとも気が付かない。
だからぼくは、わざと『あにうえさま』の足元に寝転がったり、シャツの袖を噛んで引っ張るんだ。少しでも長く、ご主人さまといられますようにって。
だけど、ぼくはいつもご主人さまに怒られてしまう。
怖い顔してるけど、ぼくには匂いでわかる。
ぼくは間違ってない。
今日の朝はみんなのんびりしてる。『がっこう』へ行かなくてもいい日だからだ。
ご主人さまもほかの人たちとお皿を洗ったり、洋服を干したりしてる。もちろん、ぼくはずっとご主人さまの隣にいる。何もお手伝いできないのがちょっとイヤだけど、ご主人さまのそばにいるのがぼくのつとめ。
それも一通り終わってご主人さまが休んでいたら、
「ねえねえ、鞠絵ちゃん。ご本読んで」
……来た。『ひなこちゃん』だ。正直いって、ぼくはこの『ひなこちゃん』が嫌いだ。
「ええ、いいですよ。今日はお天気がいいから、お外で読みましょうか」
ああ、ご主人さまがぼくのように鼻で『見る』人だったら、いまのぼくの気持ちをわかってもらえるのに。
『ひなこちゃん』はすぐにぼくの耳や尻尾を引っ張ったり、背中に乗ろうとする。前には一度、ヒゲを抜かれたことだってあるんだ。まったく、たまったものじゃない。ヒゲはぼくのいのちなのに。『ひなこちゃん』がご主人さまの妹じゃなかったら、おもいっきり吠えててるところだ。
ご主人さまたちの後を追って出ると、外はすっかり暑くなっていた。影に入っていればそんなでもないけど、光の中は長い毛のせいでとても辛い。ご主人さまみたく毛皮を脱げたらいいのにって、これからの季節はいつも思う。
ご主人さまは大きな木の根元に座って本を広げた。そして『ひなこちゃん』がご主人さまの膝の上に座る。
ぼくが『ひなこちゃん』を嫌いなのはこのせいだ。
ぼくだってご主人さまの膝の上に座りたいんだ。そして、いつもまでもなでられていたい。きっと、とっても気持ちいいんだと思う。
だけど、ぼくにそんなことできるはずがない。なぜって、それはぼくの体が大きくて重いからだ。体の弱いご主人さまにぼくが乗ったらどうなると思う? ……ぼくのつとめはご主人さまを守ること。だからガマンしなきゃ。
それなのに『ひなこちゃん』は、ご主人さまが何も言わないのをいいことにいつもこうやって座るんだ。ご主人さまは平気な顔してるけど、やっぱりぼくには匂いでわかる。今日はいつもより暑いからそれもぼくには不安だ。
「そのむかし、ある所に一人の若者が住んでいました」
ご主人さまのお話が始まった。
何を話しているのかわかるけど、ぼくに話の意味はわからない。でも、こうして木陰に寝そべりながら聴くのは好きだ。とても気持ちいい。
これで風が吹いてくれると最高なんだけど……。
「王様は家来に言いました。この愚か者を追い払えと」
すっかり眠りこけていたぼくの鼻に、危険を知らせる匂いが飛びこんで来た。ぼくは慌てて跳ね起きた。
これはご主人さまが倒れる前の匂いだ。
それなのに、当のご主人さまに気付いた様子はない。空気は熱くどんよりしている。このままじゃ大変なことになってしまう。まずはご主人さまを動かさなきゃ……!
ぼくは、何も知らずに座り続けている『ひなこちゃん』の服を力いっぱい引いた。
「何してるの。ミカエル、おやめなさい!」
ぼくを叱る声がぼくの体を引っぱたく。
ご主人さまは自分の体の変化にまだ気付いてない。だめだよ、こんなところにいたら。もう『びょういん』に住むのはイヤなんでしょ!
ぼくは家に向っておもいっきり吠えた。自分で言うのもなんだけど、ぼくは無駄に吠えない犬なんだ。だから、きっと誰かがわかってくれるはず。
ぼくを叱ろうと立ち上がったご主人さまが一歩踏み出したとたん、くたくたと崩れ落ちた。
ああ、ぼくが本当のミカエルだったらいいのに。どうしてぼくには翼がないんだろう。翼はないけど、ぼくも『しゅごてんし』なんだ。
ぼくは一生懸命に吠え続けた。
夜を三回迎えると、ご主人さまはもう元通りになった。
あの後、ぼくの声に気付いた『あにうえさま』がすぐ『せんせい』を呼んだので、大したことにならなかったらしい。
ぼくはみんなにいっぱいなでられた。とくに『ひなこちゃん』にはたくさん。もちろんご主人さまにも。
でも、これぐらいはあたりまえなんだ。
ぼくの名前はミカエル。『しゅごてんし』のように、ご主人さまを守るのがぼくのつとめ。
*
「ねえねえ、鞠絵ちゃん。ご本読んで」
「ええ、いいわよ。今日はお天気がいいから、お外で読みましょうか」
どことなく不安げな面持ちのミカエルが鞠絵の後をつき従う。鞠絵は振り返りながら微笑んだ。私の守護天使。何があっても私を守ってくれる。
鞠絵はいつもの木陰に腰を下ろし、本を広げた。なぜか雛子が隣に座る。
「いつもヒナばかりだから、今日はミカエルのばんね」
「そうね」鞠絵は雛子に微笑み返した。
「こっちにいらっしゃい、ミカエル」
手で膝を示すが、ミカエルは一向に動こうとしない。
もう一度声を掛けると、ミカエルは躊躇う素振りを見せながら歩み寄り、頭だけをそっと鞠絵の膝へ乗せた。
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