3 伏したケモノ
横殴りの雨が窓を叩きつける。
病室から見下ろす下界に人影はなく、世界は滲んだ灰色に染まっていた。
まるで、今の自分の心を映したかのよう。
鞠絵は心の中でそうひとりごち、窓ガラスの曇りを手のひらでぬぐった。やはり、外に人影はない。
「兄上様、今日もいらっしゃらないのかしら」
小さく呟く鞠絵の背後で、かちりと陶器の合わさる音がした。
「そう焦ることはない。少し、余裕を持とうじゃないか」
低い声に振り向くと、椅子に腰掛けた千影がティーカップに口をつけたところだった。
「それに、こうも雨足が強くては動きたくても動けないというものさ。……しかし、梅雨にしてはいやに強いね。風情も何もあったものではないよ」
「こんな雨ぐらい、兄上様だったら」
「兄くんも大変だな」
言いながら千影がテーブルにカップを置いた。「こうも買い被られては身体が持たないだろうに」
「わかっています。でも、私にとっては」
「白馬に乗って現れるには最悪のコンディションだよ、今日は」
「千影ちゃん」
苛立たしげな鞠絵の声が薄暗い病室に響いた。高原の療養所らしく草花をあしらった壁紙も、今はどこかよそよそしい。
鞠絵は自分の振る舞いに気づいて顔を俯かせた。
「――ごめんなさい」
「いや、別にいい。私のほうこそ口が過ぎた。すまない」
鞠絵はかすかに首を振り、時計を見た。
兄との約束の時間はとっくに過ぎている。今日こそは来てくれるはず。
千影も手持ち無沙汰気味に商売道具のタロットを弄んでいる。大学生活の傍らで本格的に始めた占いが評判を呼び、卒業した今では占星術師を生業としている。
千影の対面に座ろうとしたそのとき、車のエンジン音が雨音に混じって聞こえた。鞠絵は飛び跳ねるような勢いで窓へ貼りつく。
玄関のポーチにはタクシーが横付けされていた。鞠絵は胸を押さえながらドアが開くのを待つ。
しかし、鞠絵の期待は無残にも打ち砕かれる。タクシーからは誰も出て来ず、代わりに小さな男の子とその母親らしき女性がいそいそと乗り込んだ。母親は花束を大事そうに抱えている。
失望と羨望に沈む鞠絵の肩を、いつの間にか寄り添っていた千影がそっと抱きかかえる。鞠絵は姉に導かれるまま手近な椅子へ腰を下ろした。
「兄上様は、今日もいらっしゃらないつもりかしら」
千影はゆるゆるとかぶりを振り、鞠絵の隣に座った。
「悪いことは口にするものじゃないさ。言霊はきみが思う以上に強い」
「でも、先月も先々月も、その前の月だって兄上様は」
「兄くんにだって事情はあるよ。よくは知らないが、最近は弁護士と頻繁に会っているらしい。おそらく、あのときの後始末が残っているんだろうね」
「あのとき、って?」
「以前の、同居生活」
ぼそりと言うと、千影はカップを取って唇を湿らせた。
「きみにだってわかるだろう? あの広大な敷地に家屋敷。借りるにしたって相当な額が必要だったろうね」
夢のような共同生活は唐突に終わりを迎え、兄と姉妹たちは再び離れ離れになった。
これを機にと独立した者、夢を追い求めて海の向こうに旅立った者、親元に帰り以前の暮らしに立ち返った者。そして鞠絵は、再び籠の中へと閉じ込められた。別離の精神的なショックが原因で、小康状態を保っていた病状が急激に悪化したのだ。
鞠絵は目を落とし、自分の手を見つめた。
日に当たらず、力仕事もせず、ただ白くて滑らかなだけの手。この手が最後に兄の身体へ触れたのは、どれだけ前のことだったか。いつも、ミカエルの頭をなでてあげるばかりで――
鞠絵はふと思い出したかのようにミカエルの姿を探した。
彼は部屋の片隅で丸まっていた。こちらに向けた背中はゆったりと規則正しく上下している。
鞠絵の視線に気づいたらしく軽く頭をもたげたミカエルだったが、つまらなさそうに一度鼻を鳴らすと再び頭を沈めた。
もしかして、兄上様に妬いているのかしら。
兄のことに話が及ぶと、ミカエルは決まって部屋の隅へ蹲り、背中を向ける。尻尾をだらんと下げ、何度も振り返りしながらとぼとぼと歩いてゆくさまは、まるでふて腐れているかのようだった。いや、事実ふて腐れていた。
ひとしきり話が終わってもしばらくは聞き分けが悪く、なかなか言うことに従おうとしないのだ。普段が以心伝心の間柄だけにそのギャップは大きい。
そんなミカエルもそろそろいい年だ。黄金の毛並みもところどころで色が薄れ始め、最近は動きも鈍い。公園で首輪から解き放っても足元に寝そべるばかりで、自ら走ろうとはしなくなった。
かわいそうに、と鞠絵は思う。わたくしに飼われたばかりに、こんな薄暗いところへ閉じ込められて。陽の光の下でこそ、金色の毛並みは美しく輝くのに。それに、本当なら孫が生まれていてもおかしくはない年齢。
同じ犬の女の子とは知り合えず、知っているのは人間の女の子ばかり。
この子は本当に幸せなのかしら。例えどれだけ絆が強くても、人と犬とでは――
やるせない思いが鞠絵にその言葉を吐き出させた。
「兄上様は、きっとわたくしのことが嫌いなのです」
自分は見捨てられたのかもしれない。以前から胸に抱いていた疑念。
「鞠絵くん」
千影が眉を顰めた。
「そんなことをいうものじゃない」
「でも、それならどうして」
「会わないのと、会いたくて会えないのとは全く違う。兄くんだって忙しいんだ。わかってあげてほしい」
「それぐらい、わかっています。でも、だからこそ、私は兄上様に会いたいのです!」
鞠絵は、だん、とテーブルに手をついた。手付かずだった鞠絵の紅茶がその反動でこぼれ、ソーサーを濡らす。
「そんなわがままを言うものではないよ。兄くんに会えなくて寂しい思いをしているのはきみだけじゃない」
「わがままですって」
鞠絵は自嘲的な笑みを唇の端に浮かべた。
「所詮わたくしは籠の中の鳥です。自由な千影ちゃんにわたくしの気持ちなんてわかりません。千影ちゃんはいつでも兄上様に会いに行けるから、だからそんなことが言えるんです」
千影はむっつりと押し黙ったまま、組んだ両手をテーブルに投げ置いた。
「兄上様は、わたくしのことが嫌いなんです」
そう繰り返す鞠絵に、千影がゆるゆるとかぶりを振る。
「どうしてそんなことを。私に言わせれば、きみが最も兄くんに好かれているというのに」
「わたくしのこと、バカにしてるんですか!」
鞠絵は椅子を蹴って立ち上がった。
「そんな見え見えの慰めなんていりません。会いに来て下さらない兄上様がどうしてわたくしなんかを」
「慰めでもなければ嘘でもない」
「いいえ、嘘よ」
鞠絵はキッと千影を睨んだ。睨みながら、未だかつてここまで姉に反駁した例がないことに気づいた。その事実に、鞠絵の心が一瞬ぐらつく。
しかし、鞠絵の激情はそれをも上回った。
「それならどうして、兄上様はわたくしに触れてくれないのですか。他の子には平気で腕を貸しているのに、わたくしとは距離を置くばかりで何もしてくれない。お見舞いに来られたときだって、離れた場所に座ってそわわそわしていて、目も合わそうとしないんです。きっと、兄上様を動かしているのは義務感だけに決まってます」
言い終わるかしないうちに突然、閃光が走った。視界が真っ白に染まって何も見えなくなる。
と次の瞬間、世界は暗転し、轟音が空気を震わせる。
そんな中、千影の肩も震えていた。雷鳴に怯えているわけではない。
「――やれやれ。兄くんも本当に罪作りな人だ」
おかしくてたまらないといった風に千影の口元が歪んでいる。
「何を笑ってるんですか」
「だってそうじゃないか。兄くんが鈍感なのは知っていたけど、まさかそこまでシャイだったなんてね」
「千影ちゃん、何言ってるの?」
鞠絵は困惑しつつ、肩で笑い続ける姉を見つめた。ミカエルもさりげなく頭を上げ、こちらの様子を窺っている。
ひとしきり笑った千影は急に真顔へ戻り、鞠絵をひたっと見つめ返した。鞠絵は思わず腰を下ろす。
「わからないのかい?」
「……ええ」
不承不承に頷くと、千影はあらぬ方を見て「そうか」と呟いた。
「きみは綾小路くんを覚えているかい?」
「綾小路くんって、可憐ちゃんに付き纏っていた、あの綾小路くん?」
「付き纏っていた、か。可憐くんの立場からみればそうなるんだろうね」
千影は自らの言葉に納得するように何度も頷いた。
「あの年頃の男の子なんて単純なものでね。好きな女の子には何かとちょっかいを出したがるものさ。自分という存在をその子にアピールするために」
「まさか、兄上様がそうだと言いたいんですか」
「それに近い」
きっぱりと言い切る千影。が、続いて紡ぎ出された言葉はひどく弱々しかった。
「好きになればなるほど見ているのが辛くなる。苦しくなる。時には壊してしまいたいと思うことすらも。兄くんきっとそうだと思うんだ。兄妹は決して結ばれてはならない。しかし、心の奥底ではそれを願っている。とてもじゃないが、顔はまともに見られないだろうね」
予想だにしなかった千影の言葉に鞠絵の心は大きく揺さぶられた。
兄上様が、わたくしを……?
言われてみると、確かに心当たりはある。二人きりになると急に上擦る声。まるで落ち着きのない目。視線を感じて振り返ると、慌てて顔を背けることもあった。あのときは確か、パジャマが汗で貼り付いていたような。
「でも、それは……都合が良すぎます。千影ちゃんの、ただの妄想です」
鞠絵は首を左右に小さく振った。
「それなら兄くんに何もかも打ち明けてごらん。もしかすると、きみの想いに応えてくれるかもしれない」
「そんなこと……無理です。できるわけ、ありません」
鞠絵はさらに首を振る。
ゆらりと立ち上がった千影が音もなく擦り寄ってくる。
「それじゃあ、こういう方法はどうだろう」
神妙な面持ちで千影の耳打ちに聞き入る鞠絵だったが、話が進むにつれて顔色がたちまちに変化してゆく。
「そ、そんなの、絶対に無理です。ダメに決まってます。できるわけありません」
「だけど、どこかでやらねば永遠にこのままだ。生殺しの状態が続く。それでもいいのかい? 結ばれない両想いほど悲しいものはない」
「でも……」
「大丈夫、私がついているから。きっとうまく行くよ。それとも、この私が信じられないのかい?」
鞠絵は即座にかぶりを振った。
元より嘘をつくような千影ではなかった。それに今の自分があるのも、すべてはこの姉のおかげなのだ。
あの日、ミカエルが傍にいなければ命はなかったかもしれない。そのミカエルと引き合わせてくれたのは他ならぬ千影だ。
「でも、千影ちゃん。ひとつだけ」
「何?」
「千影ちゃんはどうしてわたくしなんかに、こんなにも?」
「そう自分を卑下するものではないよ」
「教えて。どうしてなの」
二人はしばらく見つめ合った。
遠雷が不規則にごろごろと鳴り響く。止んでいた雨が再び降り始め、窓を叩きつけ始めた。
「――似ているからだよ」
「えっ?」
千影は視線を外し、そっと呟いた。
「耐え忍ぶということが」
*
兄が薄灰色の病室を見回しながら感想を漏らす。
「本当にミカエルがいないんだね」
声こそは鞠絵に向けられているが、視線は微妙に外されている。わかっていてもやはり悲しい。
「ひとりで寂しくない?」
「やっぱり、寂しいです。あの子とはずっといっしょでしたから。でも、今は違います。ミカエルの代わりに兄上様が来てくださるなんて」
鞠絵が頬を染めると、兄は苦笑いを浮かべながらティーカップを口に運んだ。備え付けのミニキッチンへ歩み寄った鞠絵は、そんな兄の様子を肩越しに窺い見る。
「お茶のおかわり、いかがですか?」
そうだね、と頷いてカップを差し出そうとする兄だったが、
「いや、それぐらい自分でやるよ。病人にそんなことさせちゃいけないからね」
「いいえ、これはわたくしが」
鞠絵はどきりとしながら首を横に振った。
「こうして、兄上様のお世話をすることこそが今のわたくしの望み。今日は本当に久しぶりですから、それぐらいは許してください。……それとも、わがままな妹はお嫌いですか?」
「まさか」
今度は兄が首を振る番だった。
「滅相もない。僕はただ、鞠絵の身体が心配で。この検査入院の結果次第で鞠絵の今後が決まるんだ。無理はさせられないよ」
「まあっ」
鞠絵は両手を腰に当て、わざとらしく怒ってみせた。
「お給仕で倒れるほど、わたくしは弱くありません。兄上様はかわいい妹の言うことも信じられないのですか」
「そうは言ってないよ。僕はただ――」
「ただ?」
「……いや、何でもない」
と、兄は力なくかぶりを振る。その顔に悔恨の表情がよぎったのを、鞠絵は見逃さなかった。
今のところは順調のようだ。
薄く焚き染めた香に加え、兄の紅茶に入れた薬が効き始めている。千影曰く『言霊の力を増大させる』とのことだが、どうやらその言葉に偽りはなさそうだ。
最初は半信半疑だった。薬を盛って自分の言葉を届かせようなどとは、あまりに荒唐無稽に思われたのだ。しかも、良心の呵責につけ込んだ上で、罪悪感を動力として意のままに操ろうというのだから、ほとんどペテンに近い。
それでも鞠絵は、最終的に千影の案を飲んだ。
条件は整っていた。
一週間にも及ぶ検査入院。療養所とは違い、大学病院にミカエルは連れ込めない。加えて、兄の住む街からはほど近く、毎日通うのにもそう時間は掛からない。
『ここにいる間、兄上様がミカエルの代わりになってくださいませんか?』
果たして、兄は二つ返事で了承した。
何を思って返事をしたのだろう。今日この日が来るまでの間、鞠絵はひたすら自問自答し続けた。哀れみから生まれ出た気まぐれなのか、それとも千影の言うように、もっと別の何かが彼の背中を押したのだろうか。
「――鞠絵?」
ハッと顔を上げると、すぐ後ろに兄の気配があった。兄の指先が肩に触れるのを感じ、鞠絵はびくりと振り返った。兄が慌てて手を引っ込める。
「兄上様?」
「い、いや、鞠絵がぼうっとしてたから、それで、大丈夫なのかと思って」
兄の視線が忙しなく動く。
「やっぱり僕がやるよ。鞠絵にはとても、すまないと思っているんだ。今まで、ずっと」
「いいえ」
迷いを振り切るように、鞠絵がきっぱりと言う。
「本当に悪いと思っているのでしたら、わたくしのわがままを叶えてください。それが何よりの……罪ほろぼし」
「罪ほろぼし……」
ぼんやりと繰り返す兄の手を取ると、鞠絵は大きな背中を押し出して椅子へと導いた。兄は逆らわなかった。
「今、おかわりを用意しますから」
「――あ、ああ」
遅れて届いた返事にひとり頷くと、手慣れた動作で紅茶を淹れ直す。いつもより濃い目に淹れてカップに注ぐと、その上でハトロン紙の包みを解いた。白い粉がさらさらと密やかな音を立ててこぼれ落ち、琥珀色に紛れて消えた。
「さあ、兄上様」
持ち上げ、差し出す腕がかすかに震えた。
兄は何の疑いもなく、妹の出したそれを一気に飲み干す。鞠絵の胸がちくりと痛んだ。
「いつものもそうだけど、今日のは特においしいね」
とろんとした目で兄が薄く微笑んだ。薬がバレたのかと思い、鞠絵は一瞬どきりとする。
「今日のリーフはちょっと特別なんです」
鞠絵は踵を返して、立方体の黒い缶を手にした。
「千影ちゃんにいただいたんです。今日のは」
「千影……ああ、そうか。二人は仲良しなんだったね。いつも一緒にいるから、少し妬けてしまうよ」
「あ、兄上様……」
思いもよらぬ言葉で鞠絵は動揺し、その拍子に缶の切り口で手を滑らせた。人差し指にぷつっと痛みが走ったかと思うと、先端に赤いビーズ玉が浮かび上がる。
「鞠絵!」
兄がテーブルを押しのけ、慌てて駆け寄る。がちゃがちゃと食器が鳴った。
「ああ、何てことだ。僕が……僕のせいで、こんな」
兄は鞠絵の手を取って膝をつき、何の躊躇いもなく傷口に唇を這わせた。
「あっ、兄上様、何を……」
鞠絵は身をよじって離そうとするが、兄の縛めは強い。腕を引いて抱き寄せ、指を口に含む兄。
指先を這い回る生暖かい感触と自分の前に兄が跪いているという状況に、うなじの毛が逆立った。
「どうして、どうしてこんなことをなさるのですか」
羞恥心と快感に声を上擦らせながら鞠絵はいやいやをした。
ふと兄の動きが止まり、口から指を引き出した。下から掬い上げるような視線が鞠絵の顔を捉えた。
「どうしてって……今の僕は、ミカエルだ。ミカエルなら、きっとこうすると思う」
「そんな、兄上様」
「ちがう」
兄がゆっくりと首を振る。
「僕は、ミカエル」
そう宣言すると、兄は再び自分の作業に没頭し始めた。ぴちゃっ、ぴちゃっという水音が虚ろに響く。現実感がなく、まるで映画か何かを見ているかのよう。
だけど、と鞠絵は思い直した。これは紛れもない現実。あれほどに焦がれていた兄の温もりを確かに感じている。
「兄上様」
舌先は止まらない。
鞠絵はしばらく迷った末、おずおずとこう呼び掛けた。
「ミカエル」
兄の身体がぴくんと震えた。瞬きを忘れた黒い瞳が鞠絵をひたっと見据える。
「ミカエル、おすわり」
すると兄はもぞもぞと身じろぎし、お尻をペタンと床に下ろした。
「お手」
右手を持ち上げる。
「おかわり」
右手を下ろし、左手を上げる。
「伏せ」
上体を前へ倒し、お腹を床にくっつける。
まさに犬の仕草だった。
あの兄上様が、自分の意のままに動く。あれだけ言葉を連ねても来てくださらなかった兄上様が、今はたったの一言で。
千影が言うには、薬の効果が切れると同時にその期間の記憶も失われるという。つまり、今なら何でもできるということだ。あるいは、胸に秘めた思いを遂げることだって容易い――千影はこうも言った。
鞠絵は兄の頭の側に膝をつき、頭をなでた。犬はぐるぐると喉を鳴らして喜びを伝える。
「ミカエルは、わたくしのこと……好き?」
答えはない。首をわずかに傾げた彼は、不思議そうな目でただ見つめ返すばかり。
その端正な顔立ちがみるみるうちに歪んだ。
「こんなの、わたくし」
鞠絵は身体を折り、兄の首へすがりついた。
「わたくしはただ、兄上様に……」
伝わり落ちる涙の跡に犬の舌が蠢いた。
*
カレンダーの日付の部分に大きく丸を描く。今日で七個目だった。
「今日でお別れね、ミカエル」
うっそりと呟く背後でじゃりっと鎖が鳴った。
振り返る鞠絵の目に、行儀よくおすわりしている犬が映る。大きな身体を窮屈そうに縮め、首輪と鎖に繋がれた人面の犬。
いけないことだとはよくわかっていた。罪悪感に苛まれ、まんじりともしない夜もあった。
しかし、兄を繋ぎ止め、自分に従わせる快感には抗えなかった。ずっとずっと望んでいたもの。それが目の前にある。『おあずけ』なんて、できるはずがない。
「これぐらいのわがまま、許されるわよね」
ベッドに腰掛けながら、そうひとりごちた。相槌の代わりにスプリングの軋みが返ってくる。
「だって、今までずっと我慢してきたんですもの。ねえ、ミカエル」
千影も同じようなことを言った。きみは兄くんと過ごせる時間を預け入れてきた。この一週間はその利息だ、と。
だが、赦しを得てもなお、自己嫌悪の感情はとめどなく湧き上がる。とてもいけないことをしている。なのに、それを止められない。誘惑に勝てない。それはまるで、口寂しさに次々とチョコレートへ手を伸ばす亞里亞のように。
鞠絵はひとつため息を吐くと、震えるつま先を兄の喉元へ突きつけた。そのまま足を持ち上げると、剃りたての顎に触れてひどくむず痒い。たまらずつま先を引くと、今度は兄の鼻面が迫ってきた。すんすんと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ兄は、目を細めながら指の間に舌を差し入れる。
「んっ、ふうっ」
熱く湿った感触に鞠絵は思わず吐息を漏らす。ミカエルのそれとは全く違う。兄に舐められているという背徳感が、鞠絵にさらなる感情の昂ぶりをもたらす。
「あ、兄上様。わたくしは、兄上様と、もっと……」
扇情的に歪む声を受けて兄の舌先が勢いづいた。鞠絵はシーツを鷲掴んで激情を押し殺そうとする。
欲望に限りはない。もうつま先だけでは満足できなかった。灼熱で身体の奥底を抉って欲しいという気持ちが日増しに高まってゆく。
「だけど、今のあなたは……」
鞠絵は意思の力を総動員し、つま先を引き戻した。追う兄は首輪と鎖に阻まれて苦悶の表情を浮かべる。首を伸ばし、縛めから逃れようと懸命にもがく兄だったが、ベッドの脚に結わえつけられた鎖はびくともしない。
自力ではどうしようもないと悟った彼は、ようやく抵抗を止めた。それでも視線はなお、鞠絵のつま先に未練がましく注がれている。
手を使わない兄の姿に、鞠絵はようやく絶望した。
今の彼はただのケモノでしかない。自然の摂理という仕掛けに沿って動くカラクリ人形でしかない。
それは最初から理解していたことだった。これ以上、自分の心は騙せなかった。限界だった。
「兄上様……」
鞠絵はシーツに顔を埋め、嗚咽を漏らす。
「兄上様はどうしてわたくしの兄上様なのですか。兄上様が兄上様でなければ、わたくしは、今を限りの命でもかまいません。このまま願いが叶わずに生き続けるぐらいなら、いっそのこと――」
「それはダメだ」
聞き覚えのある低い声に身体を起こそうとする鞠絵だったが、背後からがっちりと抱きすくめられて身動きもままならない。広くて厚い胸板。筋肉が撚り合わさった腕。ごつごつと硬く大きな手。そして、汗の臭い。皮と鉄の臭い。――これは、まさか、そんな。
「兄上、様?」
胴に回されていた腕がするりと離れ、鞠絵はやんわりとベッドに寝かされた。すうっと人の離れる気配を感じ、慌てて寝返りを打つ。
そこにあったのはいとしい人の顔だった。背中が照明を遮り、逆光でよく見えない。だが、それでも兄だとわかった。兄以外の誰でもなかった。
無言で見つめ合う兄妹の間をそよ風が吹き抜ける。
「兄上様、どうして……」
蚊の鳴くような声で問い掛ける鞠絵に、兄は小さくかぶりを振って応えた。
「僕はずっと夢を見ていたよ」
「夢?」
「ああ。夢の中で、僕はミカエルになっていた」
鞠絵は思わず息を飲んだ。
「ミカエルになった僕は、とても幸せだった。大好きなご主人様に遊んでもらえて、言うことに従うと褒めてもらえて、指を舐めると喜んでもらえて」
兄はそこで言葉を切った。
「本当に嬉しかった。幸せだったんだ。なぜなら、それこそが僕の願いだったから」
鞠絵は喉から飛び出しかかる言葉を抑えようと、両手で口を塞いだ。
「僕はミカエルが羨ましかった。鈍感な人間の身体では鞠絵を守ってあげられないし、何よりもずっと傍にいられる」
「そんな。兄上様はわたくしの兄上様であるというだけで、それだけで――」
「さっきと言っていることが逆だよ」
影に覆われた顔から笑みが伝わる。
「夢の中で霧が晴れた。そうしたら、僕はここにいた」
再び風がそよぐ。横目に壁を見ると、閉まっていたはずの窓が開け放たれていた。ばさっと羽ばたく音がして、黒い影が飛び立った。
「鞠絵がそこまで思い詰めていたなんて、僕は気づかなかった。いや、本当は気づかないふりをしていただけかもしれない」
「でも、どうして今まで」
「怖かったんだ」
「えっ?」
兄はそれに答えず、ゆっくりと覆い被さってくる。
「鞠絵は自分の気持ちを打ち明けてくれた。だから今度は、僕がそれに応える番だ」
しなやかに動く指がパジャマのボタンに掛かる。鞠絵はとっさに兄の手首を掴んで押し戻す。
「ダ、ダメです、兄上様。わたくしたちは兄妹なのに」
「違う」
厳しい声とは裏腹に、兄の眼差しはやわらかだった。
「今の僕は、ミカエルだ」
「――ミカエル?」
「そう、ミカエル」
彼は大きくひとつ頷く。
「犬に人の法は当てはまらない。だから、鞠絵……」
鞠絵は返事の代わりに彼の頬をなでさすり、そこから手を下ろして首輪に触れた。恍惚の表情を浮かべ、そのまま引き寄せる。
「いらっしゃい、ミカエル」
そのとき急に吹き込んだ風で、彼の背中越しにカーテンが大きくはためいた。
まるで天使の羽みたいと、鞠絵は思った。
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