回帰圏
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4 Always Returning
「ミカエル!」
するどくてきれいな声のあとにボールがふわっと飛ぶ。ぼくは急いで追いかけた。
ぼくの足音がにぶい。身体がおもい。
昔のぼくだったら、ボールが浮いている間に取ることができた。走る速さなら誰にも負けなかった。
だけど、今はちがう。
今のぼくはご主人さまよりもずっと遅い。頑張って走ってるのに、足が痛くてぜんぜん進まない。なさけない話だけど、本当は歩くのだってつらいんだ。できれば、ずっと寝そべっていたい。ご主人さまの足元で転がっていたい。
でも、それはダメだ。なぜなら、ぼくは『しゅごてんし』だからだ。
守れなくなった『しゅごてんし』は『しゅごてんし』じゃなくなってしまう。ぼくは歩き続けないといけない。もし、ぼくが歩けなくなったら、そのときは……そのときは、どうなるんだろう? ちょっとでも考えるだけで、真冬の散歩のときのみたいに身体がぶるぶる震える。
ご主人さまの匂いがしみついたボールを見つけだすと、しばらく見つからないふりをして一息つく。
これで今日も大丈夫だ。ぼくはまだ、『しゅごてんし』でいられる。
*
それでも散歩は楽しい。
歩くのは苦しいけど、『あにうえさま』に邪魔されずにすむのは散歩のときだけ。だから、楽しい。なぜなら、ご主人さまがぼくだけを見てくれるから。
ご主人さまの足がぴたっと止まって、ぼくを振り返った。気がつくとリードがまっすぐに伸びていた。ご主人さまの匂いがあんなにも遠い。
ぼくがご主人さまの隣につくと、ご主人さまは頭をなでてくれた。そして、リードを外してからまた歩き出した。今度はゆっくりと、ぼくと同じぐらいの速さで。
昔からそうだけど、ご主人さまはとてもやさしい。誰にでもやさしい。ぼくはそれがとてもうれしい。みんなに教えてあげたくて、大声で吠えたくなるぐらいに。
だけど、それがときどき苦しくなる。誰にでもやさしくて、ぼくにもやさしい。ぼくはそれがうれしいのに、それが少し悲しい。だって、ぼくはご主人さまを守らなきゃいけないのに、今のぼくはご主人さまに守られてるから。ご主人さまの前を歩いて危ないヤツを防ぐ。それが本当のぼくだ。
それなら今のぼくは何だろうか。これじゃあ、アイツらと同じだ。目玉だけ立派なチワワ、短足のダックスフントに、顔のつぶれたパグ。あんなちびっちゃい身体で自分のご主人さまが守れるわけがない。アイツらは何を考えてるんだろうか。何を思って生きてるんだろうか。
そんなアイツらにもご主人さまはやさしい。頭をなでて、背中をなでて、そして膝にのせる。そのときのぼくはいつもそっぽを向いてる。そんなご主人さま、ぼくは見たくない。
やさしいご主人さまは好きだけど、でも、本当は、できれば、ぼくにだけやさしくしてほしい。アイツらは甘えるばかりで何もしてない。ぼくのほうがずっとずっと役に立ってる。だってぼくは『しゅごてんし』だから。アイツらとぼくは違う。『あにうえさま』とも違う。
ご主人さまを守れるのは、ぼくだけだ。
ぼくの足音しかしなくなったので頭を上げると、またぼくとご主人さまが離れていた。首をかしげてぼくを見るご主人さま。道路を渡ろうとしたこどもが、ぼくたちの間をばたばたと走っていった。
「もう疲れちゃった? そろそろ休憩しましょうか」
そう呼んでくれたご主人さまからとても楽しそうな匂いが流れてくる。ぼくも楽しい。別にぼくとの散歩が特別ってわけでもないらしい。なぜなら、最近のご主人さまはいつも楽しそうだから。
だけど、いつからだろうか。ご主人さまはとても……いや、すごく変わった気がする。
少し大きくなって見えるけど、もしかしたらぼくが小さくなっただけかもしれない。
『あにうえさま』と匂いが混ざってきたような感じもするけど、それはふたりがいつもいっしょにいるせいだ。何があったのかはわからないけど、ご主人さまが楽しければそれでいいと思う。
でも本当はさびしい。ぼくがずっと守ってきたんだ。だから、ぼくのことだけを見てほしい。ぼくをほめてほしい。わがままだってわかっているけど、役たたずだってわかってるけど、それでもぼくをほめてほしい。
ぼくはもう、昔のぼくじゃない。
なのに、今のご主人さまはとても幸せみたいだ。それはつまり、ぼくがいなくてもいいということなんだろうか。ぼくじゃ、ご主人さまは幸せにできなかった。ご主人さまを幸せにしたのは『あにうえさま』だ。
ああ、ぼくの頭がぐるぐるする。ひとりで尻尾を追いかけたときみたいだ。うれしいのか悲しいのかわからない。ぼくが本当に『しゅごてんし』なのかどうかわからない。
わからないわからないぜんぜんわからない。ぼくはあとどれだけ回れば答えがわかるんだろう?
「ミカエル、どうしたの? 早くこっちに――」
ぶぉぉぉおん、という遠吠えがご主人さまの声を消した。トラックの鳴き声だ。おどろいた顔のご主人さまが横を向いている。今の元気なご主人さまだったら何てことない。ぼくよりもずっと早く歩けるんだから。
それなのに、ご主人さまは動こうとしない。違う、そうじゃなくて、動けないみたいだ。口を手でおさえて、膝をついてしまった。トラックの鳴き声がまた聞こえた。背中の毛がちくちくするような匂いが『せんぷうき』のようにご主人さまから流れてくる。トラックが大声で鳴いた。ご主人さまはまだ動けない。ぼくは走った。
足が取れそうで、のどが痛くて、だけど、そんなのはどうでもいい。もしご主人さまに何かあったら、ぼくはどうすればいいのかわからなくなってしまう。そして、守れなくなった『しゅごてんし』は、どこかへいかなくちゃいけなくなる。ここにいられなくなる。そんなの、ぼくはいやだ。ぼくはご主人さまとずっといっしょにいたい!
そう思うと、なぜか身体じゅうに力がわいてきた。足が動く。痛いのもどこかに消えた。地面をけるごとにご主人さまが近づいてくる。あと少し。もう少し――
どん、という重い音にぼくはびっくりして、思わず目を閉じた。身体がふわりと浮きあがる感じがする。おかしい、ぼくは地面を走っていたはずなのに。
そう思って目を開けると、ぼくの足もとには何もなかった。ご主人さまのおどろいた顔が目のまえにある。
ああ、ぼくは空を飛んでいた。ぼくは本当の『しゅごてんし』になったんだ。見て、ご主人さま! ぼくに翼が生えたんだ。何があっても、ぼくが守ってあげるから!
それなのに、ぼくはご主人さまからどんどんはなれていく。翼があれば、これぐらいは何てことないのに。ぼくはいっしょうけんめい羽ばたこうとした。だけど、やっぱり動かない。どうしてだろうか。
遠くなっていくご主人さまの匂いのなかに、ぼくは血の匂いを感じた。翼が生えたときのかと思ったら、それは下のほうからただよってくる。ぼくは空を飛んでいるはずなのに。
そう思った瞬間、ぼくの身体は地面に叩きつけられ、ボールみたいにごろごろと転がっていた。トラックの遠吠えが頭の近くを通りすぎる。
「ミカエル、ミカエル!」
ご主人さまが大声で叫んでる。ああ、よかった。ぼくはちゃんと守れたみたいだ。
ご主人さまにほめてもらおうと、ぼくは立ちあがった。なのに、立ちあがれなかった。ばたんと横に倒れたぼくは自分の足を見た。
ぼくの足は、骨つきの肉みたいになっていた。
「ミカエルっ!」
涙の匂いがぼくの鼻をむずむずさせる。
ご主人さまはどうして泣いているのだろうか。どうしてよろこんでくれないのだろうか。
*
ケージに閉じこめられてて外は見えないけど、今夜はきっと満月にちがいない。
遠吠えがしたい。したくてしたくてたまらない。ぼくのとなりのケージのヤツも同じらしい。さっきからずっと吠えている。うらやましい。
それに引きかえ、ぼくはもう吠えられなくなってしまった。のどには細い管が入ってて、口は外からおさえられてる。足にも白い布がぐるぐる巻かれてる。ぼくはただ、身体が痛いのをがまんして寝てるだけだ。もう歩けない。おしっこにもいけない。とてもなさけない気分で、ぼくの胸は苦しい。
それより苦しいのは、ご主人さまがずっと泣いてることだ。
せっかく幸せになったご主人さまを、ぼくが幸せじゃなくしてしまった。
だけど、いまのぼくは幸せだ。ご主人さまを守れたから。でも、守られたご主人さまは幸せじゃない。ということは、ぼくが幸せじゃなくなれば、ご主人さまは幸せになる。ぼくの幸せじゃないことは、ご主人さまと離れ離れになること。それなのにご主人さまはずっとぼくのそばにいてくれる。毎日病院にきてくれる。うれしいけど、ご主人さまは泣いている。
ぼくはまた、わからなくなった。身体が痛いから頭がぼんやりする。
鳥の羽ばたきが聞こえてきたのは、ちょうどそんなときだ。この音には聞き覚えがある。カラスのヤツだ。
アイツらは動かなくなったぼくたちを喰らう。前に見たことがある。何羽もよってたかってくちばしでつっついて、そこからは白い骨が見えた。……ああ、そうか。動けなくなったぼくを喰いにきたんだ。
「恩人を食べたりはしないさ」
突然ぼくの頭の中に、おんなのにんげんの声がひびいた。
ぼくは頭だけをあげて、匂いを嗅いだ。鼻に突きささるような薬の匂いばかりで、にんげんはぜんぜん見えない。
「そうか、きみたちは嗅覚で見るんだったね。驚かせてすまない」
羽ばたきのあとにまた声がすると、もやもやとした影が目に見えた。やっぱり匂いはしない。誰なのか知りたいけど、声がでなくちゃ聞きたくても聞けない。
すると、ぼくの考えを読んだみたいにまた声がした。
「声は出さなくてもいいよ。あのときのように頭の中で話してごらん」
「――あのとき?」
「そう、あのときだ。……久しぶりだね、ミカエル」
ケージの外におんなのひとの顔があった。見覚えのあるひと。ご主人さまの大切なひと。でも、このひとからは何の匂いもしない。
「あなたは、だれ?」
「私は千影。きみのご主人さまの、家族だ」
「それは知ってる。でも、あなたはちがう。匂いがしないから」
「無駄に力を使いたくはないんでね。そこまでは再現しないんだ」
目でよく見ると、そのひとの身体はガラスのようにすきとおっていた。こわくなったぼくは、身体をもぞもぞさせて奥にひっこもうとした。
「そう怯えることはない。私はきみに、お礼がしたくて来たんだ。それとも、ご褒美、としたほうがきみにはわかりやすいかな」
「それは、ご主人さまに言われて?」
おんなのひとがくすくす笑った。
「きみは本当によく頑張ってくれた。感謝している。これで私は、もう一度あの人と結ばれることができる。きみのおかげだよ、ミカエル」
楽しそうな声が切れると、こんどは苦しそうな声になった。
「ここだけで何度もやり直したよ。他の子らは自分の欲望に正直だったのに、あの子だけは頑なだった。私がどんなに手を回しても、決して首を縦に振ろうとはしなかった。彼女の忍耐強さは、まるでもう一人の自分を見ているみたいでね。そう、だからこそ私は、なんとしても二人を結びつけねばならなかった。あの子の秘めたる願いを成就させねばならなかった。……もう一度言おう。全てはきみのおかげだ。ありがとう」
「ぜんぜんわからないよ。どうしてあなたはぼくにお礼を言うの? ぼくはご主人さまを守っただけで、あなたには何もしてない」
「いいや、そんなことはないさ。私はきみからたくさんのものを受け取ったよ。きみの知らないうちにね。あの中からきみを見出すことができたのは、まさに僥倖というべきかな」
そう言うと、また羽ばたく音がした。
「今宵は待ちに待った満月、完璧な円環を戴く夜だ。私があの人の元へ帰る前に、きみにはお礼をせねばならない。さあ、きみの望みを言うがいい。この私が願いを叶えてあげよう」
ねがい。
病院にいたときのご主人さまはいつもおねがいしていた。病気がなおりますように。『あにうえさま』といっしょになれますように。膝をついて、ベッドに手をおいて、窓から空を見あげて。『かみさま、おねがいします』って言っていた。
「あなたは、かみさまですか?」
「――さて、何を言うのかと思ったら」
「だって、あなたはねがいを聞いてくれるっていうから。ご主人さまはかみさまにおねがいして、そのとおりになった。もしも、ぼくのおねがいを本当に聞いてくれるんだったら、あなたはきっとかみさまだと思うんだ」
おんなのひとがゆっくりと首をふった。
「私はその神さまに罰せられたんだ。約束を破ってね」
「じゃあ、あなたは何?」
「神さまの反対側さ」
「はんたいって?」
「影だよ。悪魔と呼ぶ輩もいる」
「あくまの、かみさま?」
「私にはわからないよ。ケモノに神はいない。なのに、どうしてきみは神に祈るか」
そのひとの声がとても小さくなった。
「私たちにも神はいない。神が本当にいたとしたら、愛し合っているもの同士を兄妹に据えたりはしない。それは、あまりにもむごい仕打ちだ」
そして、ぼくを見た。
「――さあ、どんなわがままでもいい。きみの願いを」
ぼくの願いはたったひとつだけ。それは昔からかわらない。
ぼくはかみさまにおねがいした。
「ぼくは、ご主人さまとずっといっしょにいたい」
かみさまはぼくのことをじっと見ていた。あんまりじっと見ているので、もしかしたら怒らせてしまったのかもしれないと思って、ぼくはこわくなった。
ぼくが『ごめんなさい』って言おうとしたそのとき。
「ずっと一緒にいたいんだね?」
かみさまの声にぼくはうなずいた。
「いっしょにいたい。いっしょに遊んで、お散歩して、お昼寝したい。いっぱい、たくさんなでてもらいたい」
「わかった。きみの願いを叶えてあげよう。あの子が死ぬまで、ずっとそばにいられる身体をきみに」
「死ぬまで……」
ぼくは考えた。動かなくなったご主人さまの身体に、カラスがむらがっているのを。白くてやわらかい肌から、もっと白い骨が見えているところを。
「――ずっとずっと先の話だよ」
「でも、そんなのはイヤだ。どうせならぼくは、大好きなご主人さまの匂いにつつまれて死にたい」
ぼくがわがままを言うと、かみさまはちょっとむずかしい顔になった。
「わかった。ならば、違う器を用意しよう」
かちっと何かが外れる音がして、ぼくのまわりが突然真っ暗になった。光も匂いもなくなった。びっくりして立ち上がろうとした足もなかった。尻尾もなかった。
本当に何もなくなった。
「さようなら、ミカエル」
だれかのこえがみみもとでした。
そのうちに、こうしてかんがえている、ぼくのいしきさえも、なくなっていって――
「――また、来世」
それが、ぼくがさいごにきいたことばだった。
*
お祝いの品だというので鞠絵は最初、ケーキか何かだろう思い込んでいた。
しかし、変わり者の姉がそんな普通の品をよこすはずがないのだ。案の定、千影が携えてきたのは小動物を運ぶキャリーケースだった。乗客はかなりご不満のようで、先ほどからがたがたと暴れている。
「さあ、何だと思う?」
いつになく楽しげな千影の問いに、鞠絵は苦笑を貼り付けた顔を左右へ振った。
「勿体つけないで、早く教えて欲しいな」
鞠絵の隣に寄り添う兄が先を促す。正確には彼はもう鞠絵の兄ではないのだが、まだお互いに兄妹の意識が抜け切っていない。
「兄くんはせっかちだね。そんなだから、鞠絵くんが大変なことになる」
「はは、まったくその通りだな。面目ない」
「もう、千影ちゃんたら。これは、わたくし自身が望んだことですから、後悔なんてしてません。こうして兄上様と一緒になれるなんて、幸せ過ぎて怖いぐらい」
幸せ、という言葉を口にするたび、鞠絵の心がずきんと痛む。自分の幸せが、自分に幸せを与えてくれた存在の犠牲の上に成り立っていることを、鞠絵はよく知っていた。
ふと目を伏せる鞠絵の姿に、兄が膝を詰める。
「あれは仕方がなかったんだ、鞠絵。きみはもう、自分ひとりだけの身体じゃない。寝たきりのあの子を世話できるはずがないだろう」
「それは、わかっています。わたくしも納得したことですから」
鞠絵はもう一度かぶりを振り、吹っ切れたような表情で千影に呼び掛けた。
「千影ちゃん。さあ、早く種明かし」
「ああ、わかった」
鷹揚に頷くと、千影はケースの扉を開けた。と、茶色い毛玉が稲妻のように走り出て、鞠絵の膝にぴょんと飛び乗った。
「……子猫?」
「かわいいだろう? 虎模様のはずなんだが、その子は色に差が出なくて茶色一色。あぶれていたのを貰い受けてきたんだ」
鞠絵は外から手を回すようにして、子猫を掴み上げた。
千影の言葉通り、短い体毛にはかすかな縞模様が見えたがどちらも同じ茶色でほとんど区別がつかない。好奇の視線を投げ掛けられているにも関わらず、子猫は鞠絵の手の中でおとなしくしている。
「あれっ、この子」
肩越しに覗き込んだ兄が素っ頓狂な声を上げる。
「変な尻尾の振り方するなぁ。嬉しそうに左右へぶんぶん振って、これじゃあまるで――」
「犬のような」
千影が素早く後を継いだ。兄が薄く笑う。
「だとしたら、この子は鞠絵に一目ぼれということかな」
兄は鞠絵から子猫を受け取ろうとするが、その言葉を裏付けるように大暴れした。引っ掻き傷を見る間に増やす彼を見かねてか、千影が子猫をたぐり寄せる。一転して静まり返る子猫に兄は唇を尖らせた。
「焼餅を焼くには早すぎやしないかい、兄くん。まったく、こうも嫉妬深い亭主では鞠絵くんも大変だな」
「あら、ちょうどいい予行演習かも。この子が生まれたら、今よりももっとひどくなりそうだから」
と鞠絵は、すっかり大きくなった自分の腹をさすった。
ミカエルと入れ替わりに授かった子供。あのとき、ミカエルが身を挺して守ってくれたからこそ、今の幸せがある。
むず痒い感触に目を落とすと、子猫がスカートに爪を立てて膝へよじ登ろうとしていた。
「なあに? 膝の上がいいの?」
鞠絵がそう問い掛けると、子猫は尻尾を左右に大きく振って応えた。お腹がつっかえて苦しそうな鞠絵を見て、千影が子猫を首筋を掴んで引っ張り上げた。子猫は値踏みするかのようにうろうろと歩き回っては頬を擦りつけ、やがてころんと丸まった。
茶色い毛玉の重みに、鞠絵は懐かしさを感じていた。
「――あの子は、ミカエルは今、幸せでしょうか。引き取られていった先で、幸せに暮らしているでしょうか」
「ああ、もちろんだとも」
千影は目を細め、子猫の狭い額に指を這わせる。
「ミカエルは今、とても幸せだよ」
賛同するかのように、子猫が大きくあくびをした。
Fin.