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「――――」
誰かに呼ばれたような気がして、亞里亞ちゃんはぱっちりと目を開けました。
目をこすりながら起き上がると、亞里亞ちゃんのほかに雛子ちゃんや花穂ちゃんや衛ちゃんがカーペットに寝転がっています。
ここは亞里亞ちゃんのお部屋でした。
真ん中のテーブルにはノートが広がっていて、それを見た亞里亞ちゃんは、宿題をやっている途中でみんなでお昼寝をしてしまったことに気がつきました。部屋は薄暗く、電気はまだ点いていません。開きっぱなしになった窓からは熱くもなければ寒くもない風が入ってきて、レースのカーテンをそよそよと動かしています。
「……?」
やっぱり誰かに呼ばれたような気がしました。
白雪ちゃんの「ごはんですのー!」と呼ぶ声かと思いましたが、亞里亞ちゃんが今までに聞いたどんな声とも違います。セミの鳴き声でもありません。
亞里亞ちゃんはとても気になってしまって、その声のした方向へ――窓ぎわに立って外を見ました。
空は紫色から紺色に変身している途中でした。
八月が始まったころは空がまだ紫色なときに「ごはんですのー!」という声がしましたが、今日はまだ聞こえてきません。太陽の出ている時間がだんだん短くなっているみたいです。
兄やと姉やとみんなで暮らしているこの家は、とても広いお庭とたくさんの背の高い木に囲まれています。
今は二階にいるので、葉っぱがこんもりと生い茂っているのがよく見えました。風が吹くたびにざわざわと葉っぱがこすれて、まるでみんなでおしゃべりしているみたいです。
もしかしたら、葉っぱさんの声が聞こえたのかも。
そんなことを思いながら木立がざわめくのを見ていたら――
「……あっ!」
枝と枝の間で何か白いものがうろうろと動いています。
もっとよく観察しようと窓から身を乗り出しますが、木立はずっと遠くにあってあまりよく見えません。その代わり、白いものの少し上に青い風船が浮かんでいるのがわかりました。どこに鬼がいるのかを確かめるように、頭のほうがひょこひょことかくれんぼしています。
「……風船?」
亞里亞ちゃんが最初に思ったのは、ハチミツの大好きな黄色いクマさんのお話でした。クマさんは木の高いところにあるハチの巣からハチミツを取ろうと、風船を体にくくりつけてぷかぷかと浮かんだことがあったのです。
でも、今見えているのは白い色をしていて、それに大きさも違うみたいです。クマさんは風船より大きな体をしていたのに、あの白いのはそうじゃないからです。
亞里亞ちゃんは目をこすって、もっとよくそれを見つめました。白くてふわふわしたものに見えるそれは、さっきから同じところをうろうろし続けています。その動きかたは、亞里亞ちゃんのよく知っているある生き物に似ているような気がします。
「もしかしたら、ウサギさんかな……?」
口に出して言うと、だんだんそんな気がしてきました。実は「鳥さんかもしれない」と思い始めていた亞里亞ちゃんですが、今ではもうウサギさんにしか見えません。だいたい、鳥さんならいつでも好きに空を飛べるはずです。それなのにじっとしているということは、やっぱりウサギさんで間違いないのです。
いつもは地面の上にいるウサギさんですが、きっと風船を使って木に登ろうと思ったのでしょう。そして、ひとりで下りられなくなったのかもしれません。少し前の四葉ちゃんのように。
「ウサギさん、助けてあげなきゃ」
亞里亞ちゃんは思わず窓から手を伸ばしますが、もちろん届くはずがありません。
こうしている間にも空はだんだん暗くなり、クレヨンを塗り重ねたみたいな濃い青色の中に一番星が光って見えます。ウサギさんも風船もどっちもぼんやりしてきて、いよいよ姿が見にくくなってきました。急がないとウサギさんが真っ暗な中に取り残されてしまいます。
「亞里亞、どうしたらいいの……?」
必死になって考えをめぐらせますが、亞里亞ちゃんの心は風船のようにゆれるばかりでうまくいきません。
自分だけではもうどうしようもなくなって、そこで、亞里亞ちゃんは姉やに頼ることを思いつきました。物知りな姉やなら、きっといい方法を教えてくれるはずです。
そう思いながら振り向くのと、お部屋の明かりがパッと点くのとが同時でした。
「あっ……!」
目の前の何もかも真っ白になって、亞里亞ちゃんはその場にぺたんと座り込んでしまいました。
「亞里亞ちゃん、大丈夫?」
咲耶ちゃんの声と足音が近づいてきて助け起こしてくれます。
「ごめんね、亞里亞ちゃん。部屋が暗くて、亞里亞ちゃんが起きてるって見えなかったの」
「ううん、亞里亞は平気」
そう言って何度も目をこすりますが、白くてぼんやりとしたものはなかなか落ちてくれません。亞里亞ちゃんの目は青い色をしていて、暗いところでもよく見える代わりにまぶしい光はとても苦手なのです。いつもは点ける前に声を掛けてもらっていますが、それでもときどきこういうことが起こってしまいます。
「ん……咲耶ちゃん……?」
お部屋が明るくなったせいでしょうか。ようやく雛子ちゃんたちが起きてきました。まだ眠いらしくて、それぞれ目をこすったりあくびをしたり伸びをしたりしています。それが終わるとあたりを見回し、外が暗いのを見て三人ともびっくりしました。
「ええっ、もうこんな時間なの?」
「花穂、お腹ぺこぺこだよ」
「あっ、ヒナもヒナも」
すると咲耶ちゃんが笑いながら言いました。
「心配しなくてももうすぐお夕飯よ。お兄様も他のみんなも下に降りてるから」
お兄様、という言葉で雛子ちゃんたちはいっせいに髪や洋服を直し始めました。さっきまで寝転がっていたので、髪のさきっぽが曲がっていたり、洋服のえりが折れたりしています。みんな、兄やのことが大好きなので少しでもよく見られたいのです。
それなのに、亞里亞ちゃんはずっと窓の外を見ていました。銀色の髪はほっぺたに貼りついて、水色のブラウスもくしゃくしゃになっていましたが、今の亞里亞ちゃんには自分のことなんてどうでもよかったのです。
亞里亞ちゃんはふだんからぼんやりしていることが多いのですが、みんな、さすがにおかしいと思い始めたようです。
花穂ちゃんが隣にぺたんと座って、亞里亞ちゃんの見ている先を目で追いかけます。
「どうしたの? 外に何かいるの?」
「あのね、向こうの木の上にウサギさんがいるの」
「ええっ? どこどこ?」
駆け寄ってきた衛ちゃんが窓の外に顔を出しました。雛子ちゃんと咲耶ちゃんも手を止めて、すっかり暗くなった外に顔を向けます。
「青い風船で飛んできて、枝にひっかかってるの。早く下ろしてあげないとかわいそう」
亞里亞ちゃん以外の四人は眉を寄せたり目を細めたり顔を前や後ろに動かしたりしていましたが、やがて悲しそうな顔を亞里亞ちゃんのほうに向けました。
「真っ暗で、花穂にはなんにも見えないよ」
「うん、ボクも。目はいいはずなんだけどなぁ」
「きっと、夢でも見てたのね」
咲耶ちゃんがなぐさめるみたいに頭をなでてくれますが、でも、ぼんやりとでも亞里亞ちゃんの目には確かに見えているのです。
「ほら、あそこ。白いウサギさんが枝につかまっていて、その上に風船が浮かんでいるの」
亞里亞ちゃんは、ウサギさんの耳のようにぴんと腕を伸ばしてみんなに教えてあげます。しかし、みんなの目は亞里亞ちゃんと違って暗いところは苦手なのです。
「亞里亞ちゃん、それってやっぱり夢だよ」
雛子ちゃんが腰に手を当てながら言いました。
「だって、ウサギさんは木に登ったりなんかしないんだもん」
それがなんだかとてもいじわるに聞こえてしまい、亞里亞ちゃんもつい言い返してしまいます。
「でも、木に登りたいって思ったらどうするの?」
「ミカエルは木登りしないよ」
「だって、ミカエルはウサギさんじゃなくてゴールデンレトリバーなの」
「ミカエルは、ゴール……えっと、そういう種類のイヌで、イヌは木に登らないから、だからミカエルも木登りしないもん」
「だけど、ミカエルはときどき兄やに登るの」
「あれはおにいたまが遊んであげてるだけ。だって、鞠絵ちゃんには登ったりしないでしょ」
「でも、兄やが遊んでくれなくなったらどうするの?」
「おにいたまは絶対にそんなことしないよ。おにいたまはヒナだけじゃなくて、みんなにやさしいもん。ね、咲耶ちゃんもそう思うでしょ?」
雛子ちゃんに聞かれた咲耶ちゃんは、いつもの半分ぐらいの笑顔で「そうね」とだけ言いました。雛子ちゃんがまた亞里亞ちゃんのほうを向きます。
「ほらね。だから、亞里亞ちゃんよりヒナのほうが正しいんだよ」
雛子ちゃんは亞里亞ちゃんより学年が一つ下なので、亞里亞ちゃんの妹になります。年が一番近いのでいつもはとてもなかよしですが、ときどき今のようにちょっといじわるになってしまいます。
どうしてなのかわからなくて姉やに聞いてみたことがありましたが、そのときの姉やは腕組みをしてからこう言いました。
「それはきっと、亞里亞くんのことが羨ましいからだと思うね」
「どうして?」
亞里亞ちゃんが目をぱちくりさせると、姉やが笑いながら頭をなでてくれました。
「きみは色々なところがみんなと違っているからね」
「ちがっていると、うらやましいの?」
「だって、違っているとよく目立つじゃないか。誰が見ても亞里亞くんだとすぐにわかる」
「雛子ちゃんは、目立っているほうがいいの?」
すると、姉やは少し考えてから答えました。
「雛子くんは、小さい頃の咲耶くんにそっくりでね。だから、兄くんに間違われたくないんだと思うよ」
「ふぅん」
そのときは何となくお返事をした亞里亞ちゃんでしたが、時間がたってゆくうちにだんだんわからなくなってきました。
前に見せてもらった咲耶ちゃんのアルバムには、雛子ちゃんにそっくりな子がたくさん写っていました。姉やの言うとおり、髪を結ぶ高さが違うだけで今の雛子ちゃんと昔の咲耶ちゃんはとてもよく似ています。
でも、亞里亞ちゃんと千影姉やはそうではありません。
髪の色は、姉やは燃えるような赤い色をしていて、雪みたいな銀色の亞里亞ちゃんとは正反対。髪のくせも違います。同じ結びかたをしても、姉やはまっすぐに下りるのに亞里亞ちゃんはくるくると巻いてしまいます。それに、姉やのアルバムには小さな姉やしかいなくて、亞里亞ちゃんはどこにも写っていないのです。
まったく同じなのは、サファイヤみたいに青い目の色だけ。
だから本当は、亞里亞ちゃんは雛子ちゃんがうらやましいのです。
茶色の髪と目をした雛子ちゃん。日本に住んでいる人の髪はみんな暗い色をしているので、雛子ちゃんは衛ちゃんや花穂ちゃんにも、兄やにも似ています。
でも、亞里亞ちゃんはそうではありません。亞里亞ちゃんの銀色の髪は誰にも似ていないのです。雛子ちゃんにも、兄やにも、姉やにも。
「……くすん」
思い出した亞里亞ちゃんはだんだん悲しくなってきて、お部屋を飛び出してしまいました。みんなが亞里亞ちゃんを呼び止めようと声をかけましたが、亞里亞ちゃんにはもう何も聞こえません。今は姉やにさえわかってもらえればいいのです。同じ色の目をした姉やなら見えるはず。夢なんかじゃないと、きっとわかってくれるはず。
姉やはすぐに見つかりました。
リビングのソファーに鈴凛ちゃんと鞠絵ちゃんと座っていて、いっしょうけんめいお話し合いしています。真ん中のテーブルに何冊も本を積み上げて、何か難しいお話をしているみたいです。鞠絵ちゃんの足元に寝そべったミカエルが大きなあくびをしました。
「姉や!」
亞里亞ちゃんは腕組みをしていた姉やの手を取って、ソファーから立たせます。いきなりの亞里亞ちゃんに姉やはすっかり驚いてしまったようです。
「あ、亞里亞くん?」
「はやくはやく」
急にばたばたし始めたので、遊んでもらえると思ったミカエルが二人のまわりをぐるぐると回ります。亞里亞ちゃんはそのまま、ミカエルといっしょに姉やを窓ぎわに連れて行きました。
「一体どうしたんだい?」
「姉や、あのね――」
ウサギさんを指差そうとした亞里亞ちゃんは、さっきまでと違う様子に動きが止まってしまいました。
外はもう、すっかり夜になっていたのです。
それに、リビングはとても明るくて亞里亞ちゃんの目には強すぎます。窓の外は何もかもがまっくらな夜の色に染まり、どこからが空でどこからが木なのかぜんぜんわかりません。
「……どうしたんだい?」
急に静かになった亞里亞ちゃんの顔を、姉やが心配そうにのぞきこみます。
「あのね、亞里亞ね……」
亞里亞ちゃんは迷いました。木の上にウサギさんがいると教えにきたのに、見えなくなってしまってはどうすることもできません。見えないものをどうやって信じてもらえばいいのでしょう。
やさしい姉やはいつでも亞里亞ちゃんの味方をしてくれます。だから、雛子ちゃんのように「夢を見たんだよ」なんて言わないはずです。亞里亞ちゃんがあそこにいると言えば、ウサギさんが見えなくてもきっと信じてくれるでしょう。
でも、雛子ちゃんの言うとおりに夢を見ていたとしたら、亞里亞ちゃんだけではなく、姉やまでうそつきになってしまうのです。
亞里亞ちゃんはちらっと振り返って、鈴凛ちゃんと鞠絵ちゃんがこちらを見ているのを確かめました。そして、姉やの顔を見上げてこう言いました。
「――亞里亞、夢を見たの」
「夢?」
姉やはしばらく亞里亞ちゃんの顔を見つめてから窓の外に顔を向けました。
姉やの横顔はママンにそっくりで、とてもきれいです。でも、光が後ろから当たっているせいで今のお顔は少しだけ怖く見えました。
「ごめんなさい、姉や」
すると、姉やはおどろいた顔になって亞里亞ちゃんに向きなおりました。何かを言おうとして口を開いた姉やでしたが、「ごはんですのー!」という白雪ちゃんの声で結局それっきりになってしまいました。
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