螺旋の誘い サイトTOP

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Lovin' You  66  67  68  69  70  71  72  73  74


0813
 6 - Lovin' You - 9


 夜が明けてからまだ時間は経っておらず、廊下には薄青の帳が下りている。
 吐く息は白い。ただでさえ寒い時期だというのに、こうも人里を離れてはなおさらだ。冷気が骨にまで染み入るようだ。
 にも関わらず、千影の額にはじっとりと汗が浮かんでいた。溶けた鉛を飲んだように胃の奥底が重い。
 亞里亞の部屋へ近づくにつれて不快感が増大してゆく。
 亞里亞を元に戻さなくては、という心理的な負担だけが原因ではない。この廊下の行く手に威圧感が確かに存在している。人智を超えた存在のみが発する気配だ。それは呼吸に合わせて蠢動している、力強くもおぞましい気。
 だがこれも、亞里亞の位相のひとつに過ぎないのだ。その事実が、千影の気持ちをさらに打ちのめしていた。
 先ほどまで浮かべていた笑みは既に消え、代わりに緊張感が貼りついていた。瞼の裏がびくびくと痙攣する。横目で隣の姉を窺うが、こちらは普段と変化がないように見えた。
「大丈夫ですか?」
 結が体調を気遣うように、千影の手へ指を絡めてきた。千影はぎこちない笑みを向け、軽く握り返した。彼女の手に包まれていると気持ちが和らぐのがわかる。このままなら何も怖れるものはない。
 だが、そんな千影の願いとは裏腹に、姉はするりと指を抜いてしまう。
 無意識に後を追おうと手を伸ばしたそのとき、
「おはよ、千影ちゃん」
 横合いから投げられた場違いに明るい声に振り向くと、下へ続く階段の踊り場に鈴凛がいた。アルミの脚立によじ登り、手は小さな何かを弄んでいた。
 鈴凛がふと目を細めてこちらを見る。視線の先は千影の手だった。いつも亞里亞がそうしているように、千影はメイドの袖口を掴んでいたのだ。
 慌てて振り解いた千影は何食わぬ顔で、
「そんなところで何をしているんだい?」
 と、先手を打った。
「ああ、これね。カメラの撤去だけど」
 天井の縁を覗き見ながら応え、ひとつ頷いてから脚立を飛び降りた。どぉん、と周囲に轟く軋みに結の眉がぴくりと跳ね上げる。
「この屋敷を壊すおつもりですか、鈴凛さま」
「もう滅茶苦茶に壊れてるわ、じいやさん」
 思わず顔を見合わせる二人に、鈴凛がポケットから取り出した何かを投げつけた。千影が手を伸ばして取ったそれは、件のCCDカメラだった。手の上で転がすが、一見した限りではどこも異常がないように見える。
「これのどこが――」
 呟く千影に対し、結が視線でカメラのレンズ部分に注意を促した。示された場所を見るとそれは鈴凛の言葉通り、ひびが縦横に走って完全に砕けていた。
 鈴凛が階段を上りながら説明する。
「この階段は違うけど、亞里亞ちゃんが通ったとおぼしきルートに設置したのは全部そんな感じ。ちょっと信じらんないわ。レンズだけ綺麗に割るなんて、まったくとんでもない芸当ね。近くの窓ガラスは全然無事なのに」
 鈴凛の言葉に千影の身が固くなる。彼女はどこまで知っているのだろうか。助けを求めるように傍らの姉を見ると、何度か小さく頷いて応えた。
 そんな二人の仕草に、隣へ歩み寄った鈴凛が怪訝そうな顔をした。が、それも一瞬のことだ。
「一応、話はじいやさんから聞いてる。正直びっくりしたし、アタシの知識と照らし合わせても未だにちょっと信じられないんだけど、カメラで撮った映像を見る限りはそうも言ってられないみたいね」
 鈴凛は腕組みしながら淡々と語った。
「意外に冷静なんだね。きみの落ち着きようを見ていると」
「だって、じたばたしても始まらないじゃない。起きてしまったことを今さらどうこうできるわけでもなし。むしろ、これからが肝心よ。ね、千影姉や?」
 励ますように、鈴凛は千影の肩へぽんと手を置いた。鈴凛の視線が自分にまっすぐ向けられているのを感じ、千影はいつになく狼狽した。普段通りの仏頂面を装うが、どうしても顔が引き攣ってしまう。
「四葉さまはご一緒ではないのですか?」
 結がそんな二人へ割り込むように口を挟んだ。
「四葉ちゃんには向こう側のカメラを外してもらってるけど、それが何か?」
「いえ、亞里亞さまのお部屋へ無闇に近づいているのではないかと、それが心配で」
「うーん、いくら四葉ちゃんでもそこまで鈍感じゃないと思うけど。――それにしても嫌な気配ね。さっきから眉間がズキズキするわ」
 鈴凛は顔を顰め、立てた人差し指で眉間をぐるぐると揉みほぐした。鈴凛の手の重みが離れ、千影は密かに安堵した。そんな妹の様子を横目でそっと窺う姉。妹は素早く二回瞬きをして、姉に自分の気持ちを伝えた。
「――何か変ね、さっきから」
 鈴凛が二人を交互に見やる。さすがに勘が鋭い。
「じいやさんが隠し事してたと思ったら、今度は二人がグルだったりするわけ? 冗談じゃないわよ」
 眉を吊り上げた鈴凛は、ややヒステリックな口調で詰め寄る。
「ええ、そうです」
 どう切り抜けようかと考える間もなく、結がさらりと答えた。
「亞里亞さまをどうお救いしようかと、今まで二人で話し合っていたのです」
「ふぅん」
 意外なことを聞いた、という風に鈴凛は眉を開いた。不審に満ちていた表情がたちまち緩む。
「なぁんだ、そういうことなの。へぇ、よかったじゃない。だったら安心ね、うん。よかったよかった」
 鈴凛は大いに納得したらしく、さらに繰り返し頷いてみせた。
「そういうことなら、アタシもやり易くなるわね。いや、ホントによかった」
 懐からメモ帳を取り出した鈴凛は指先を舐めながらページをめくり、じいやにすり寄った。
「それであの、ちょおっとコレでご相談が」
 と、鈴凛は親指と人差し指で輪を作った。用向きを察したメイドの表情が、冷徹な家宰のそれにさっと変わる。
「できれば、壊れた分のカメラを弁償してもらいたいなーなんて思ってたりするんだけど。あと、手間賃とか経費諸々もご負担いただけると、アタシとしても心置きなく旅立てるというか、まあ、その――」
「しかし、このカメラは四葉さまのものと伺っておりますが」
「だって、あの子に任せたら言い値で頷いてしまうじゃない。だから、ここはアタシが代理というわけで」
 千影は誰にも聞こえぬよう、小さくため息した。
 鈴凛は彼女を甘く見過ぎている。電器店の店員相手のように、口先三寸でどうにかなる手合いではないのだ。
「――まあ、何ですかこれは。この品番でしたらこんなには高くありませんよ。この単価でしたらもう二つはグレードが上です」
 鈴凛にメモ帳を見せられた結が声を荒げる。予想外の反応に驚いたのは鈴凛だった。
「ええっ、そんなぁ! どうしてそんなこと知ってるの?」
 悪びれずに言いのける鈴凛の額を結が軽く小突く。
「この件に際しては、数社の警備会社に見積もりをもらったりと以前から検討を重ねてきたのです。もちろん、この手のカメラもカタログを取り寄せて目を通しております」
 言いながら姉はにっこりと微笑んだ。だが、その目は笑っていない。
「さぁ、お話を続けましょうか。鈴凛さま?」
 後ずさりする鈴凛の襟首を掴むと、姉は鈴凛の背中を抱きかかえるようにして引き寄せた。
「あら、いやですわ。この項目を算出した根拠はどこですか? 詳細を明らかにしていただかないと、こちらとしてもお支払いはできません」
「いや、あの、でも、経費は経費でしょ? そんなに細かく書いても」
 メイドが大きくゆっくり、見せつけるように首を横へ振った。
「そんなだから、あなたさまはいつもお金に困るのです。よろしいですか鈴凛さま。そもそもですね……」
 姉は奪い取ったペンを走らせ、鈴凛に何事かを囁く。最初は不服そうに頷く鈴凛だったが、次第に真剣味を帯び始める。
 専門用語の飛び交う会話について行けず、千影はひとり蚊帳の外にぽつんと置かれた。所在なげに頭を掻くと、ため息が口をついて出た。
 千影は目の前の危機から顔を背けた二人を取り残し、亞里亞の部屋へと通ずる廊下へ足を踏み入れた。
 館の正面に面しているだけあって幅は広く、奥行きも長い。中心を挟んで扉と窓とが等間隔に配置されている。
 ぎいっ、ぎいっ。
 静まり返った廊下に千影の足音だけが響く。半歩後ろには誰もいない。
 心細さを意識しないように、足元だけを見つめて機械的に足を動かす。血のように赤い絨毯が平衡感覚に揺さぶりを掛ける。視界にぶれが感じられるのは、何も絨毯の色ばかりが原因ではない。歩を進めるにつれて次第に大きくなってゆくプレッシャー。それは見えない壁のようにそそり立ち、千影の行く手を阻んだ。
 それでも千影は前へ進もうとした。もう迷わない。ここで立ち止まるわけにはいかない。亞里亞をこの腕に抱いてあげるまでは。
 しかし、千影の歩調は弱かった。千影を跳ね除けようとする力に加え、目覚めてから何も食べていない。牛丼を食べ損ねたおかげで空腹感もひとしおだ。血をすすって気を紛らわせることも考えたが、鈴凛や四葉に見られるわけにはいかない。何より、あの鱗は亞里亞の力の現れなのだ。
 倦怠感に抗えなくなった千影は、とうとう膝をがくりと折った。床を叩く音が意外に大きく響いた。
 突然、ぴぃんと耳鳴りがした。昨夜のそれとは違って絹を裂くような悲鳴にも聞こえ、どこか弱々しい。
 ふと気がつくと、先ほどまで立ちはだかっていた威圧感の塊が消えていた。いや、完全に消えたわけではない。ひどく小さく、弱くなっている。気ままにひとり遊びしていた猫が人間の視線に気づいた途端、ぴたっと動きを止めてやり過ごそうとする。そんな感じがした。
 立ち上がって廊下の向こうを見た千影は、少し離れた絨毯に這いつくばる人影を見た。千影は反射的に身構える。
 だが、それは四葉だった。こすりつけんばかりに絨毯へ顔を寄せ、手にしたルーペを覗き込むさまはまるで犬のようだ。四つんばいになり、何かの痕跡を追ってじりじりと前進している。四葉は、亞里亞の部屋を軸とした対極に位置している。どうやら、目指す場所は同じらしい。
 立ち止まった千影がぼんやりと見ているうち、四葉は見えない尻尾を振り振り着実に目標へと近づいている。千影も負けじとばかりに再び歩き出した。
 プレッシャーが失せたこともあって、驚くほどすんなりと亞里亞の部屋の前に着いた。重々しい木の扉は固く閉ざされている。つい十時間ほど前までは何事もなかったのに、今は違う。蟻すらも入り込めない隙間からは、微弱ながらも禍々しい気が静かに漏れ出ている。
 黙然とたたずむ千影の足元に、いきなり四葉が飛び込んできた。不意打ちに驚く千影だったが、四葉はそれ以上に驚いたらしい。「おおぅ!」などと奇声をあげながら、ぐるんと後ろ向きに転がった。
「むむっ! この美少女探偵四葉ちゃんの先回りをするとは何者デスか?」
 と、片膝を立てた状態でルーペをかざし見る四葉。緊迫感の欠片もない四葉に、千影は苦笑いするしかなかった。
「四葉くん。私だ」
「へっ? ワタシダさんデスか? うーん、四葉のお友達にはそんな名前の人はいませんデスね」
 四葉は片目を閉じたまま、ルーペ越しに千影を見つめている。
「そうじゃなくて、私は千影だ」
「むむぅ、ワタシダさんからは千影ちゃんの声がしマスね。うーん、謎は深まる一方デス」
 業を煮やした千影はつかつかと歩み寄り、四葉の手からルーペをひったくった。四葉は驚きに口を開け、ぱちくりと瞬きする。
「あれ、どうして千影ちゃんがここにいるデスか? たしか、今まで四葉とお話してたのはワタシダさんのはずなのに」
「それは本気で言っているのか?」
 千影は奪ったルーペの柄で四葉の頭を小突いた。
「ホンキもホンキ、四葉はいつでもホンキなのデス」
 幼さの残る顔で渋面を作る四葉だったが、すぐさま眉を顰めて千影に顔を寄せる。
「それよりも大変なのデス。四葉は、ウサギ小屋から続いていた血痕を追ってここまで来たのデスが、その血痕がこの部屋の前で途切れていマス。つまり、犯人はこの部屋にいるのデス。しかし、心配はご無用。この美少女探偵四葉ちゃんに解決できない事件はないのデス!」
 と、得意げな顔で扉を指差す四葉だったが、やがて何かに気づいたように表情を曇らせる。
「って、ここは亞里亞ちゃんのお部屋デスよね。ということは、亞里亞ちゃんが犯人によって人質に取られているということなのかな。えっと、ええっと……こっ、これは大変デス! 早くしないと亞里亞ちゃんの命が危険で危ない――」
 四葉の口が突然、背後から忍び寄った鈴凛の手によって塞がれた。いいタイミングでの登場に思わず頷く千影に、鈴凛が呆れ顔で応えた。
「まったく、人の話なんてぜんぜん聞いてないんだから。何が人質立て篭もり事件よこのバカ」
「ふぉんなふぉふぉいっふぇないふぇふ」
 四葉はもごもごと抗議の声をあげるが、体格で上回る鈴凛に羽交い絞められたのではまるっきり道化だった。張り詰めていた緊張の糸が緩み、つられて口元も緩んだ。
「――ですが、あながち出鱈目というわけでもありません」
 さらにその背後には結の姿があった。彼女は声を落として続ける。
「今の亞里亞さまが、皆さまの知っておられる亞里亞さまとは限らないのですから」
 メイドを除く三人は一様に重々しく頷いた。四葉もいつになく真剣な面持ちで目を伏せている。
 その四葉が鈴凛の腕をすり抜けた。
「でも、やっぱり信じられないデス。亞里亞ちゃんがメリュジーヌだったなんて」
 イギリス生まれの四葉には馴染みの深い話だけに、彼女の衝撃も大きいようだ。
「殺されたウサギさんは二羽。真っ赤な絨毯についた血痕はここが終点デス。そして何より、ムービーという証拠が残ってマス」
 四葉らしからぬ薄暗い声が淡々と事実を告げる。華奢な肩がふるふると揺れ、亜麻色の髪がゆるやかに踊った。
「――四葉、こんなことならチェキするんじゃありませんデシタ。いつもは全然外れてるダメチェキなのに、今日はちっとも違うの」
 鼻声でぐずり始める四葉を鈴凛がそっと抱きとめ、頭をくしゃくしゃとなでた。仲睦まじいこの姿もしばらく見納めなのかと思い、切なさが千影の身体を押し包んだ。
「きみのおかげで気分が少し楽になったよ。ありがとう」
 言いながら千影も、四葉の頭をそっとなでた。
「よかったわね、誉められて。四葉ちゃんでも役に立つことがあるのね」
「んもう、そういう言い方はあんまりデス」
「あらそう? アタシは事実を述べたまでよ」
 そう言って鼻をそびやかせた鈴凛の懐からは、先のメモ帳が顔を覗かせていた。千影の心に彼女らしからぬ悪戯心が頭をもたげ、それに誘われるままにメモ帳を引き抜いた。
「ああっ! ちょっと何するの!」
 ひどく狼狽する鈴凛に、四葉が正面からがっぷり四つに組み付いた。
「さあ、ワトソンくん。ここはこの名探偵におまかせするデス。怪盗ダイヤ、いざ尋常に勝負しなさい」
「ちょっ、や、やめてよ。プライバシーの侵害よ」
 体格差では勝負にならない二人だが、四葉が頑張っているらしく今のところは互角だ。
「うん、よくやった四葉くん。きみには後で、何か豪華な粗品をあげよう」
 どこかで見た言い回しを口にした千影は、わめく鈴凛を尻目にメモ帳をめくった。
「見ないで! 見ないでったら、もう」
 ペンの挟まっていたページがパッと開く。どうやら先の談合の跡地らしい。鈴凛の黒いボールペン書きはほんのわずかで、そのほとんどは赤書きの修正や注釈だった。鈴凛が自信を持って記したとおぼしき金額は容赦なく打ち消され、その下には半分以下にまで目減りした額が赤で書かれてあった。 
「なるほど、これが事実というわけだね」
「だから見ないでって言ったのに……」
 鈴凛ががっくりと肩を落とした。そんな鈴凛の頭に、勝ち誇ったような声が覆い被さる。
「こんなザルで私と戦おうなど、十年はおろか百年早過ぎます。私に言わせれば大甘も大甘ですね。お砂糖四つの亞里亞さまのミルクティーより……」
 結の声がふと途切れた。
 耳に痛いほどの沈黙が訪れ、この場を支配した。
 一時の逃避で浮付いて気分がたちどころに冷えてゆく。誰も目を合わそうとしなかった。口を開くことさえも恐れている。
「――だけど、これは事実だ」
 千影が重々しく沈黙を破った。三対の目がいっせいに千影を捉える。
「言われなくてもわかってるわよ、そんなこと」
 鈴凛は苛立ちを隠そうともしない。眉を吊り上げて一座を睥睨するその顔に、後悔の色がふっと混じった。そんな鈴凛の片腕を、四葉が自分の胸へと抱え込む。
 結が大きくため息をした。
「とにかく、一度この目で確かめないことには始まりません」
「そうだね」
 千影はやんわりと頷く。
「私たちの誰もが、メリュジーヌとなった亞里亞くんを見たことがない」
 一同を見回して確認を取る千影。
「ということは、まだそうと決まったわけじゃないのデスね」
「いや、その可能性はないな。ほぼ間違いないと見ていい」
 千影は四葉の希望の芽を容赦無く摘み取った。
 その言葉で不安に駆られた四葉が、掴んだ鈴凛の腕をぐっと引き込む。鈴凛は眉を顰めた。
「どうしてそうと断言できるの。やっぱり、本当の姉妹だから?」
 四葉の感情が移ったらしく、鈴凛の声はどこか頼りない。
 千影の手は無意識のうちにベルトポーチを探っていた。ここに入っている瑠璃色の鱗は何よりの物的証拠だ。この亞里亞の落し物を見れば、もはや信じる以外に道はない。逃げ道がなくなってしまうのだ。
 返答に迷った挙句、千影は扉へもたれかかった。千影の体重を受け止めた扉がみしりと鳴った。
「――姉や?」
 その扉の向こうから弱々しく響く声。
 それに続くのは、何かを引きずるような重く鈍い音。ずるり、ずるりとおぞましく這い回るそれは、千影たちの首筋を遠慮無しになで回す。
「姉や、そこにいるの? 姉や?」
 千影を呼ぶ声には、地の底から発せられたような深い響きを伴っている。千影は二歩三歩と下がりながら問いを発した。
「きみは、亞里亞くんなのか?」
「ああ、姉や……」
 ひっそりと蹲っていた気配がもぞりと動き出すのがわかる。存在感が一挙に膨れ上がる。
 襲い来る波に、誰かが喉を鳴らす音が聞こえた。
「私のことがわかるかい? 亞里亞くん」
「はい、わかります。亞里亞の大好きな姉や」
 千影は安堵のため息を漏らした。心は亞里亞のままだ。それならばひとまずは安心できる。あとは、変身を解いてさえしまえれば――
 顎に手を当ててふと考え込む千影の脇を、素早く通り抜ける影があった。
「亞里亞さま!」
 エプロンドレスの裾をなびかせ、メイドが両の拳を振り上げて扉を叩く。
「どうか顔をお見せください、亞里亞さま! このじいやめに、どうか、亞里亞さまのお顔を!」
 メイドは叫びながらドアノブをまさぐった。だが、真鍮色の握りはビクともしない。開かないのを見て取ったメイドは扉から身体を浮かせ、反動をつけながら肩から体当たりし始めた。
「亞里亞さま、どうか、この……私に、お願いですから、どうか……」
 メイドの叫びには次第にすすり泣きが混じってゆく。咽びながら、喘ぎながら、メイドは髪を振り乱し、何度も肩を打ちつけた。
 しかし、女の身で一枚扉に立ち向かうなど無謀の極みだった。最後に一度大きく叩きつけ、そのままずるずるとへたり込んだ。それでもなおメイドは、震える拳で何度も扉を打ち据えた。
「姉や、何してるの。やめて。姉や、そんなことしないで!」
「ああ、亞里亞さま。亞里亞さま亞里亞さま亞里亞さま――」
「やめて!」
 耳をつんざくような一喝と同時に、怒りを孕んだ気が部屋の中から放出される。
 扉の隙間から凄まじい突風が噴出し、扉の前にいた千影とメイドの足元をさらった。体がふわりと宙に浮く感覚に千影は恐慌を来たした。どんなに強い台風だってこんなにはならないはずだ。必死で抵抗し、体の向きを入れ替えた千影の目の前に廊下の壁が迫る。もはや為す術もなかった。
 千影は目を閉じて、そのときを待った。
 だが、千影を受け止めたのは漆喰塗りの冷たい壁ではなかった。
 熱く湿った感触に恐る恐る目を開けると、そこには苦痛に歪んだ鈴凛の顔があった。鈴凛が、千影と壁の間に割り込んでいたのだ。
「大丈夫かい、鈴凛くん?」
「何のこれしき、どうってことないわ。そっちこそ、怪我はない?」
 笑顔を浮かべて軽口を叩く鈴凛だが、身じろぎをすると少し顔を顰めた。
 ふと隣を見ると、四葉が結の体に押し潰されていた。お互いに中途半端な姿勢だったらしく、四葉の顔は豊満な胸の谷間に挟まれている。二人とも何とも言い難い、微妙な表情を浮かべている。
「亞里亞くん、どうしてこんなことをするんだ」
 千影は背後を顧みた。
「だって姉や、壊そうとしました。そんなことをしてもダメです、姉や。そこは開かないの。だって、亞里亞が閉めたから」
 深い憂いを帯びた声が一同の耳を打つ。
「いや、そうじゃない。今のは――」
「私です!」
 四葉を引き剥がした結が後を引き継いだ。
「私です。私の仕業なのです。ですから、千影さまは悪くありません。罰するのでしたら、どうかこの私めを」
 その場に跪き、激しくかぶりを振ってメイドは抗弁する。その勢いで高く結い上げた髪が解け、艶やかな黒髪がはらりと流れ落ちた。
 しかし、そんなメイドの必死の訴えも、幼い主人の耳には届いていないらしい。
「――姉や、どうしたの? 早く続きを言って」
「いや、きみのほうこそどうしたんだい? 今の、じいやさんの声が聞こえただろう?」
「――じいや?」
 奇妙な沈黙があった。
「そこにいるのは、姉やだけでしょう?」
 四人の視線が交錯した。
「違う、みんながいる。亞里亞くんを迎えに来たんだ」
「そうよ、亞里亞ちゃん。鈴凛よ」
「四葉もいるデスよ。さあ、早くみんなでブレックファーストにしましょう。四葉、もうお腹ペコペコデス」
 再びの沈黙。
 不意に部屋の中から何かがのた打ち回る音がした。人外の気が振り子のように揺れ動く。
「ダメ、わからない……。姉やだけなの」
「亞里亞くん!」
「姉やだけ……姉やだけなの。亞里亞には、姉やだけなの」
 当惑して立ち尽くす千影の耳に嗚咽が忍び込んだ。
 メイドが泣いていた。両手と黒髪で顔を覆い隠しながら、咽び泣いていた。
「どうしてそんなことを言うんだ。じいやさんはきみのことをずっと思って――」
「でも、今はダメ。姉やじゃないと、この身体、でも、亞里亞のじゃないの。だから、同じ、姉やなら」
 苦しげな亞里亞の声が切れ切れに響いた。その中に、床を重く踏み鳴らす音が何度も混じる。それは、発作の苦痛に耐えかねて床を転げ回っているように千影には思えた。
 千影は悄然と立ち尽くす。
「なぜ、私だけなんだ」
「だって姉や、亞里亞と、同じ、ママ」
 その声が不意にかき消えた。
「亞里亞さま」
 メイドの呟きに返事はなかった。
 代わりに中から返ってきたのは、ケモノに似た唸り声だった。
 ぐるぐる、ぐるぐると、低く轟く音。それは、無力感に苛まれる姉たちの間をゆっくりと、威圧するように歩き回る。
 やがて、その唸りは少しずつ大きさを増していった。愛玩動物から巨獣のそれへと、吹きつける圧力も加速度的に上昇する。立っているのが辛い。負けまいと自分の肩を抱く胸元に、一筋の脂汗が滑り降りた。
 突然、亞里亞の声が裏返った。低く濁った唸りが高く澄んだ叫びへと。細かく震える空気に、廊下のガラス窓が一斉にざわめいた。亞里亞の歌声は天への階段を一足飛びに駆け上がる。
 殴られたような衝撃が何度も頭蓋に走った。視界が見る間に歪む。昨晩の歌声と同じだ。しかし、その強さは桁違いだ。何しろ扉一枚しか隔てていない。耳を塞ごうと動かした手が止まり、膝ががっくりと折れた。
「駄目だ、亞里亞くん。やめてくれ!」
 必死の叫びも歌声に遮られ、自分の耳にも届かない。
「亞里亞くん、やめるんだ! このままでは、きみのことを憎んで――」
 歌が止んだ。余韻が耳の奥で木霊した。
 廊下は姉たちの喘ぐ声で満たされた。
「――耳栓、持ってくればよかったデスね」
「無駄よ、きっと。これは溶接して塞いだって無理ね」
 鈴凛が目元をぬぐいながら、力なく笑った。つられて千影も笑うが、
「姉や……姉や、ごめんなさい」
 ふと届いた声でさっと真顔に変わる。
 怪訝そうに口を開こうとする四葉を鈴凛の手が制した。
「もうしないから、亞里亞のこと、嫌いにならないで」
「怖いときは誰だってそうなるさ。大丈夫、姉やは怒らないよ。それよりも、姉やに顔を見せてごらん。そうしたら、怖い気持ちだってどこかに飛んで行ってしまうよ」
「でも、亞里亞はもう、亞里亞じゃないから。今の亞里亞を見たら姉やはきっと、亞里亞を嫌いになります。だから、ダメなの。姉やは、入ってきちゃダメ」
 あくまで強弁を貫く亞里亞に対し、千影は最後の手段を取ることにした。胸元のマスターキーを手繰り寄せ、その輝きを見つめる千影。
 だが、横合いから割り込んだ結の手がそれを奪い取った。キッと非難の眼差しを向ける千影に、結が扉のある箇所を指差した。
 真新しく輝くドアノブ。だが、その下には何もなかった。あるはずの鍵穴が見当たらない。
「こんなこともあろうかと取り替えておいたのですが、まさか、こんなことになるなんて」
 申し訳なさそうな結の注釈に千影は愕然とした。これも、亞里亞の力の為せる技だというのか。すがるような姉の目が頬に痛い。
 手が使えないなら、口で動かすしかない。
「――亞里亞くん、姉やの話をよく聞いて欲しい」
 千影は腹を括り、よろよろと立ち上がった。
「きみの気持ちはよくわかるよ。だけど姉やは、わがままな亞里亞くんは嫌いだ。それなら、ここを開けたほうがよくないかな? 今のきみを見たら、姉やは亞里亞くんのことを嫌いになるかもしれない。だけど、嫌いにならないかもしれない。さあ、よく考えてごらん。閉じ篭ったままなら、私は必ず嫌いになってしまうんだよ」
 沈黙が再び舞い降りた。
 稚拙な恫喝だが、千影に嫌われることを何より恐れる亞里亞には効果てきめんのはずだ。少なくとも、今の千影が亞里亞の立場であれば大いに迷ったことだろう。
 千影は我知らず、目を閉じていた。そしてゆっくりと歩み寄り、上体を傾げて扉に額をこすりつける。嘆きの壁に向かって願いを囁くラビのように、千影も心の中で祈りを捧げていた。この扉が開きますように。この壁が崩れますように、と。
 どれだけの時間が経っただろうか。
 何の前触れもなくカツンと乾いた音がし、ドアノブがひとりでに回った。扉に体重を預けていた千影は、開く扉に合わせて思わずつんのめった。大きくバランスを崩してよろめく千影の腕を結がしっかりと抱き止めた。
「あ、ありがとう」
 そう言って振り返った千影が見たのは、目を見開き、硬く強張った姉の顔だった。千影は部屋の中へ頭を戻した。
 一面に刺繍が縫い込まれたカーテンは全て下ろされ、ひどく薄暗い。厚ぼったい布地の隙間から朝日がかすかに差し込んでいる程度で、明かりらしい明かりはなかった。明かりは点いていない。それ以前に、電球は全部叩き割られてあった。
 千影は意を決し、一歩踏み込んだ。
 ほのかなバラの香りの中に、ごくわずかな血の臭いが混じっている。予想に反し、獣臭の類は感じ取れない。
「亞里亞くん?」
 闇に慣れた千影の目にも亞里亞の姿は映らない。彼女の気配は確かにある。しかし、ごく弱い。かくれんぼの鬼に見つかるまいと息を押し殺しているような、そんな感じ。
「どこにいるんだい? 姉やに顔を見せてごらん」
 周囲をゆっくりと見回した千影は、部屋の惨状に思わず眉を顰めた。
 ウォークインクローゼットからは衣類が全部引き出され、その大半はズタズタに引き裂かれている。柱時計のオルゴール盤が大きくひしゃげている。時針は夜明け前で止まっていた。
 結がよろめきながら進み出た。
「ああ、そうです。いつもそうです。こうなのです。立ち入った私が見るのは、こんな有り様なのです。ですが、これは……」
 結はそれっきり絶句した。再び嗚咽を漏らし始める彼女を鈴凛が隣に立って支えた。
 しかし、壊れているのはそればかりではなかった。
 千影の目についた調度品は、必ずそのどこかが歪んでいた。奇妙にねじ曲がったもの、真っ二つに折れたもの、叩き壊されたもの。そのどれもが、直接的な暴力によるものだった。
 しかし、カーテンだけは無事だった。見覚えのない柄だと思ったら、その所々に裂いた衣服が貼りついている。光を避けているのだろうか。
 ずるり。
 何かの這う音がした。千影はすかさず音のしたほうを――ベッドを見た。
 そこもまた、蹂躙された爪痕が生々しく残されている。引き裂かれ、破られた寝具には、赤黒い染みがべったりとついていた。
 千影は、亞里亞の味わった恐怖が手に取るように理解できた。
 いや、千影のみならず、ここにいる姉たちならわかってあげられたことだろう。自分の意思とは関わりなく、自分の身体が変容してゆく様を。そして、自分が自分でなくなってしまうのではないかという恐れを。たとえそれが、大人になるための通過儀礼だと理解していても。
 そして亞里亞は抱えていた恐怖を解き放ち、その身に映したのだ。脈々と受け継がれた二重螺旋に乗せて。
 ベッドの陰で何かが動いた。赤いふたつの光が音もなくすうっとせり上がる。
 闇に浮かぶ赤い瞳が、千影をひたと見据える。
「わかるでしょう、姉や。亞里亞はもう、亞里亞じゃないの」
 深い悲しみに彩られた声が千影の耳に届く。
「いや、きみは亞里亞くんだ。亞里亞くんでなかったとしたら、この私と話しているのは誰なんだい? 私を姉やと呼ぶのは世界でただひとり、亞里亞くんだけだ」
「本当に、そう思う?」
「ああ、本当だ」
 千影は力強く頷いた。
 それを合図に、赤い光が滑らかに横へ動いた。天蓋を支える支柱から亞里亞が顔を覗かせる。と、その顔がぐんぐんと上昇した。千影の背丈よりもベッドの天蓋よりも高く、今や天井を突かんばかりに。
 遥かな高みから姉たちを見下ろした亞里亞は、一度だけ身をよじった。何かを重く引きずる音を立てながら、ベッドの陰から床を這うものが飛び出た。わずかに射し込む朝日に鱗を青く輝かせるそれは、紛れもなく大蛇の胴体だった。
 亞里亞がついに全身を露わにした。
 袖を通したままのナイトドレスは、赤黒い血痕が胸元を大きく染め抜いていた。袖が赤いのは、血に濡れた口元をはしたなくぬぐったせいだろうか。
 白いフリルで飾られた裾の下からは、いつもなら小さなつま先が見えているはずだ。
 しかし、今は違う。その下から続いているのは、とぐろを巻いて横たわる大蛇の胴なのだ。
 亞里亞が肩を震わせると、それに同期して瑠璃色の鱗がさざめいた。
「姉やにだけは、知られたくなかったの。亞里亞の、こんな身体」
 頭上高くに位置する妹の顔が悲しみに歪んだ。
「だって、喉がすごく渇くのよ。何を飲んでもダメ、ミルクティーでもダメなの。そして、亞里亞の体がすごく寒くなって、体の震えが止まらなくって。だけどそれは、亞里亞が何も食べなかったからかも」
 千影が何かを言い出すよりも早く、亞里亞が続ける。
「でもね、何日か食べなくても亞里亞は平気でした。前はじいやに叱られるぐらいにショコラとかいっぱい食べてたけど、今は違うの。亞里亞は亞里亞のままでいたいから、大人になりたくないって思ってたから、だからこんな体になったのね。きっと」
「だけど、昨日のディナーは」
「だって、食べなかったら姉やが心配するでしょう? それにあのお肉、牛さんの血がいっぱいですごくおいしかったの。アイスに掛かったキャラメルソースみたいで」
 そう言いながらうっとりと目を閉じる彼女は本当に自分の妹なのだろうかと、千影はふと思った。生肉から滴った血は、やはり血の味しかしなかった。
「姉や、知ってる? ウサギさんの血ってニンジンの味がするのよ。すごく甘くて、おいしいの。グラッセみたいなべたべたした甘さじゃなくて、ソルベみたいな味。食べてるニンジンだって、亞里亞が食べてるのと同じムノウヤクって種類で、あれを、亞里亞が、毎日――」
 亞里亞は小刻みに震える肩をそっと抱き締めた。その亞里亞の部分だけが後ろに下がり、小さくなる。
「だから、ダメなの。血がおいしいなんて、そんなの亞里亞じゃないです。亞里亞がまだ亞里亞だったときは血を見るのも嫌いだったのに、今の亞里亞はぜんぜん平気なの。だから、ダメ。時々じいやに飲ませてもらってたけど、でも、だけど、このままだといつかガマンできなくなって、みんなのこと、姉やのこと」
 ふるふるとかぶりを振る亞里亞。銀色の髪が細い光の中で細やかに輝いた。
「それでも、きみは亞里亞くんだよ。姉やのこと気遣ってくれるきみは、間違いなく亞里亞くんだ」
「本当に? 本当にそう思うの?」
 心の迷いを映したように、蛇の胴体が左右にうねる。
「これはもう、亞里亞の体じゃないのよ。セーラー服も着られない。お部屋だって、こんなにめちゃくちゃにできるのに」
「でも、いつかは元に戻るんだろう? 先月や先々月がそうだったじゃないか。ならば、きっと大丈夫だ」
 言いながら、千影は無力感を味わっていた。事実を伝えているというのに、何を語っても気休めにしかならないのだ。
 この圧倒的な存在感を前にしては、いかなる言葉をもってしても太刀打ちできないのだろうか。
「ダメよ、それはダメ。だって、また同じことになってしまうもの。そしてみんなを困らせてしまいます。こんな悪い子、姉やは嫌いになっちゃうから」
 思考が同じ箇所を行ったり来たりしている。まるで老人の繰言のように際限がない。
「嫌いになんか、なるわけがないさ」
「違うわ。亞里亞はもう、亞里亞じゃないもの」
 亞里亞はそう言うと、赤く輝く目を千影に差し向けた。その光が千影の視界の中で次第に大きくなってゆく。夜汽車のヘッドライトが近づいてくるように、ぐんぐんと。
 これが彼女の邪眼だと気づいたときにはもう遅かった。
 一撃で千影の心に穴が穿たれ、そこから質量を伴った暗黒が次から次へと押し寄せる。やがて、その重さに耐えられなくなった底がいきなり抜け落ちた。深奥へ、奈落へと千影は落ちてゆく。
 自分の手のひらをも覆い隠す真の闇の中。その眼下に、赤い点がひとつ光った。ほんのりと弱く、頼りなげに。
 だが、近づくにつれてその光が少しずつ幅を広げる。ややもすると、完全にふたつに分かれた。一対の赤い光。これは、誰かの目だ。そう思って周囲を見回した千影は、思いがけない光景に息を飲んだ。
 無数の赤い目が千影を取り囲んでいる。禍々しい色に照らされた牙や鱗の類が見える。千影は今、魔物たちの只中を落ちているのだ。
 千影は絶望に身を竦めた。それでも何かにつかまろうと手を伸ばすが、何の手ごたえもない。そこにあるのは闇だった。
 最初に点った光が次第に近づいてくる。奈落の終端は近い。ふと見ると、無数の赤い目たちは落下地点から同心円状に広がっていた。なるほど、この最も強い光の持ち主がこの場を支配しているらしい。いわば、魔王か。
 その魔王の目は、いよいよ千影の目前へと迫る。赤い光に映し出されているのは、白くて華奢な顎だった。それがゆっくりと開く。新たな深淵へと誘うように。
 千影に許されたのは、ただ目を閉じることだけだった。
 次の瞬間千影を襲ったのは、ガクンと体が受け止められる衝撃と、全身を刺し貫く痛みだった。首筋が熱い。何かがぎりぎりと食い込んでいた。苦痛がそこから放たれているのがわかる。手を動かして確かめようにも、肝心の腕に力が入らない。
 瞼を開いた千影が見たものは、緩やかに波打つプラチナブロンドだった。誰かが、千影の喉元に喰らいついていた。牙で抉られた肉からにじみ出た鮮血が、胸の谷間を伝わり落ちる。
 千影に噛みついた者は体を揺すり、さらに血を絞り取ろうとした。肉を押し分けて進む牙が骨にまで達した。
 喉が食い破られるのは時間の問題だった。だが、千影に抵抗の意思は生じなかった。千影はこの髪の持ち主を知っていた。血の生臭ささに入り混じる、このバラの香りを知っていた。
 果たして、千影の体が大きく揺さぶられた。繊維が引きちぎれる耳障りな音がし、千影はぼろのように投げ捨てられる。
 食い破られた喉からどくどくと血が吹き出た。慌てて手で塞ごうとするが、突っ張った四肢はぎくしゃくとするばかりで呼吸すらままならない。激痛と酸欠が暗黒の世界を赤く染めた。
 千影は死を覚悟した。
 その赤い世界に一際目立つ人影があった。一面の赤にも関わらず、彼女の髪は銀色のままだった。
「――これが、今の亞里亞です」
 その声を合図に幻覚が消えた。
 ふと我に帰った千影は、仰向けに横たわっていた。三人が千影を覗き込んでいるが、視界はまだ赤いままだ。苦痛からは解放されても苦痛がもらたした変調までは消えない。心臓が早鐘のように鳴り響き、吐く息がうるさい。
「千影ちゃん、だいじょう――」
 視界の端に掛かる鈴凛の顔が恐怖に歪んだ。隣の四葉の目も驚きに見開かれている。
「目が、赤いデス」
「目が?」
 結が頷いた。
「ええ。今の、亞里亞さまのように」
 彼女はさほど驚いていないようだが、それでも少し緊張した面持ちをしている。
 と、その三人が一方へじりじりと動き出す。ふと逆を見ると、亞里亞が胴をくねらせながらにじり寄ってくるところだった。
 だが、その目は青かった。赤い闇の中に、ふたつの青い瞳が輝いていた。亞里亞がびくっと、一息で大きく後ろへ下がる。
「どうしたの、その目。姉やの、すごく青いです。今の亞里亞が鏡で見たときと同じ」
 亞里亞が鱗をきらめかせながら尻尾を振り回した。壁や床をやたらに叩きのめし、砕けた木片が宙を舞った。
「もしかして、姉やは亞里亞と同じなの? ……ああっ、そうなのね。亞里亞は姉やとおそろいなのね!」
 歌うように亞里亞が言い、尻尾の振りがさらに大きくなる。尻尾はベッドの上をなぎ払って支柱をへし折り、轟音と共に天蓋が落ちた。
「おんなじ、おんなじ、亞里亞は姉やとおんなじ! 姉やと亞里亞は同じなの!」
 亞里亞の歓喜の叫びは無軌道な力の奔流となって猛威をふるう。
 上体をのけ反らせては戻し、髪を鞭のように振るう。それは独立した生き物のように伸びてうねり、部屋のそこかしこを穿った。
「のわっ、わわわ」
 足元に穴を開けられた四葉は尻餅をつき、そのままずりずりと後退する。その後を追うように蛇が牙を剥いた。だん、だん、だんと等間隔に穴が穿たれる。
 四葉が部屋の外へ追いやられると次は結と鈴凛の番だった。白蛇の攻撃はまったく容赦ない。その証拠に、二人の頬や二の腕には幾筋もの切り傷が浮かんでいた。
 二人きりになったところで、亞里亞は千影を取り囲むように胴を蠢かせた。千影が邪眼の衝撃から立ち上がる頃には、彼女を中心に描かれた魔方陣が青く輝いていた。
 円陣の先端が、喜色も露わに自らの終端を抱える。
「姉やは、亞里亞と同じなのね」
 円がじりじりと狭められる。亞里亞は千影を迎えるように両腕を広げた。
「姉やがいっしょなら亞里亞は怖くないの。だから、姉や? 亞里亞といっしょに、こっちへ……」
 千影は差し伸べられる腕をぼんやりと見つめた。
 亞里亞と同じ。それは、亞里亞の邪眼が見せた悪夢を再現することなのだろうか。それとも亞里亞と同じく、新たな身体を得ることなのだろうか。
 赤くて白い顔が目の前に迫る。桜色の唇が引き絞られ、ゆっくりと開いた。綺麗に揃った歯並びの中に鋭く光る犬歯が見えた。千影は魅入られたようにただじっと見ているだけだった。
 今まさに喉元へ噛みつこうとしたその瞬間、亞里亞の上体がパッと離れる。
「――違う! 姉やはそんなのじゃないの」
 澱んだ空気へ凛と響く声に千影は正気を取り戻した。
「違う、違うの。だって、姉やの目は亞里亞みたいに光ったりしないもの。だから違う、姉やじゃない。姉やじゃないの!」
 亞里亞は両腕で頭を抱え、激しく揺さぶった。髪が悶え苦しむように空中をふらふらとさまよう。
 ひとしきり悶えた亞里亞は尻尾を一度床に叩きつけ、上体を大きく持ち上げた。
「だあれ? 姉やじゃない、あなたはだあれ?」
 威圧的に見下ろし、問いを発する亞里亞。千影の後ろで後ずさる複数の足音が聞こえた。
 だが、千影には理解できない。どうしてそんなに怖がる必要があるのだろう。ここにいるのは分不相応な力を得たがために苦しむ妹ではないのか。
 立ち込める赤の中に青い瞳がか細く光る。千影はその中に怯えの色を見て取った。
 青く輝く螺旋の玉座に亞里亞はひとりきりだった。侍るものも仕えるものも、誰もいない。それは自分の居場所を求めてさすらう、流浪の王国だった。千影の目の前に、いたいけな暴君がひとり儚く佇んでいる。
 ――私と同じだ。
 内なる力に振り回され、力の正体に怯え、力のもたらす定めに嘆くさまは、まるで昔の自分を見ているよう。
「ねえ、だあれ? 姉やのかたちをした人。あなたは一体だれなの?」
 悲痛な亞里亞の叫び。
 千影の奥底で蠢くものがあった。だが、ゆるゆるとかぶりを振って自分の意思を示すと、すぐにおとなしくなった。
 千影の心にもう迷いはなかった。あの子は、私だ。閉じた円環から救えるのも、私だ。
「――私は私。私は千影。私はちかでも影でもない」
 視界が元の色彩に戻った。
 千影は微笑みながら告げる。
「私は千影。きみの、亞里亞くんの姉やだよ」
 しかし、亞里亞は笑わなかった。
「違う! そんなのウソよ!」
 亞里亞の金切り声が空気を震わせた。
「それじゃあ姉やは、どうしてあのとき約束してくれなかったの? 亞里亞と一緒にいてくれるって、どうして約束してくれなかったの? あのときの亞里亞、すごく悲しかったのよ。亞里亞はもう、亞里亞じゃなくなったって、そう思ったのよ。だから、亞里亞はもう亞里亞じゃないの」
 亞里亞は左腕を肩の高さに持ち上げ、そのまますうっと手を後ろへ送った。一張りのカーテンがスローモーションでめくれ上がったかと思うと、ばん、という炸裂音と共に窓枠が外へ弾け飛んだ。数瞬後、下のほうからガラスの砕け散る音がした。
 一時の激情から覚めた亞里亞は一度瞬きをし、うっすらと微笑んだ。
「そして、亞里亞じゃないわたしは……メリュジーヌ」
 静かにそう告げる亞里亞の顔は、悲壮感すら漂って見える。あどけない丸みを持った顔なだけになお痛々しく感じられた。
「――今までありがとう、千影ちゃん」
 亞里亞の上体が滑らかに遠のく。
「待って、そんな呼び方――」
「ううん、いいの。わたしはもう亞里亞じゃないから、千影ちゃんは姉やじゃないの」
「そんな……そんなことは!」
 駆け寄ろうと動き出す千影に向かって、亞里亞は右腕を大きく振るった。その途端、千影の足が床に縫い止められる。何が起きたのかと足元を見ると、千影の影に何本もの針が突き刺さっていた。亞里亞の手から何本もの髪の毛がはらりと落ちる。 「ダメです、千影ちゃん。これはわたしの定めなの。愛を失ったメリュジーヌは、みんなの目の前で消えなければいけないのよ」
「違う、亞里亞くん。それは千年前の話だ。メリュジーヌの運命だ。きみはメリュジーヌなんかじゃない。きみは――亞里亞くんは、私の妹なのに」
 必死の呼び掛けにも亞里亞は虚ろな眼差しを向けるばかりで聞く耳を持たない。
 亞里亞は尻尾を翻し、葬列のごとき重々しさで壁際に近寄る。千影は亞里亞の意思をはっきりと悟った。
「いけません、亞里亞さま! どうか、どうかこちらへお戻りください」
 結が全身を搾り出すようにして叫ぶ。
「亞里亞さま、どうか!」
「ありがとう、あなたも。――ジュスティーヌ」
 やさしく、いたわるような声。ねぎらいの言葉にどっと膝をつく音がした。
「今、やっと思い出したの、あなたの名前。ずっと忘れていてごめんなさい。だけど、あの頃のわたしには難しい名前だったから。――ごめんなさい。今までごめんなさい。わたし、とても悪い子でした」
 ジュスティーヌ――結は言葉もなく、ただ首を振り続けている。千影の足はまだ縫い止められたままだ。
「でも、それも今日で終わりです」
 亞里亞は窓が嵌っていた大穴の縁に手を置いた。
「わたしはお空へ、ママンの待っている場所へ行きます。ずっとずっと、わたしは考えていたの。これ以上、千影ちゃんに嫌われないようにって。わたしがいなくなれば嫌いになれないでしょう? ――だから、これでお別れです」
 天使を思わせる笑顔がそう告げた。
 緩んだ眦(まなじり)から真珠色の粒がひとつ、ふたつとこぼれ落ちた。
「さようなら、千影ちゃん――」
「待って! 行かないで!」
 甲高い、亞里亞に似た声が千影の喉から飛び出た。
 今まさに投げようとしていた身体が寸前で止まる。亞里亞は驚きの表情のまま、ゆっくりと顔を戻した。
「行かないで、亞里亞。私のそばにずっと、きみがいて欲しいんだ」
「でも、わたしは」
「怖かったんだ、私は。きみに嫌われるのが。そして、きみを失うのが」
 千影の赤裸々なで摯な告白に、亞里亞はじっと耳を傾ける。
「だから私は、ずっときみのことを騙してたんだ。私の力のこと、この目のことを。きみに知られたら、きっと嫌われるって」
 ハッと小さく息を飲む音がした。
「それが、本当の私なんだ。私がきみが思っているほどいい姉やじゃない。ずるくて、怖がりで、ぜんぜん駄目な姉やだ。でも、きみがいてくれないとダメなんだ。嫌なんだ。だって私は、きみが、亞里亞のことが」
 千影は、ここへきて心が挫けそうになっている自分を認識した。
 本当のことを言うのは怖い。自分の気持ちを伝えるのは怖い。なぜなら、今これから言おうとしている言葉は紛れもなく、呪いの言葉なのだから。人と人とを繋ぎ止め、結び付ける縛めの言葉。それは――
「好きなんだ。私は、きみが好き」
 今まで秘めていた想いがどっとあふれ出す。胸が熱くなる。
 千影は自らの想いに誘われるまま、両腕を広げた。
「だから、ここにおいで。亞里亞」
 慈愛の微笑みが千影の顔に浮かぶ。同時に何かの折れる音がした。縫い止められていたはずの足が動く。
 千影は心の求めるままに歩をひとつ進めた。
「イヤっ! 来ないで! わたし、違うの。わたしはもう亞里亞じゃないの。千影ちゃんに好かれる理由なんて、もうないの」
 両手を胸元で合わせ、銀色の髪を振り乱しながら亞里亞が叫んだ。
「それは違うよ」
 千影はまた一歩を進める。
「私は千影だ。きみのことを好きなのが私だ。赤い目をしていたときも、その気持ちに変わりはなかった。もちろん今だってそうさ。だって、私は千影なんだから」
 自分の想いをひとつ口に出して伝えるたびに、その想いがひとつ強まってゆく。
「さあ、教えてくれないか。きみは誰なんだい? こんなにも私の心を悩ませ、そして私を想って悩むきみはいったい誰なんだい?」
「わたし、でも……わたしは」
 揺れる心を映したかのように赤い瞳が激しく明滅する。やがて、その光がふっと沈んだ。
「わたし……わたしはあなたのことが好き。あなたの腕に抱かれるだけで、わたしは幸せになるの。あなたの声を聴くだけで、わたしの心は満たされるの。だからわたし、わたしは……」
 亞里亞の瞼がそっと押し開かれる。瞳は青かった。再び涙があふれ出す。
「あの、千影ちゃん」
 可憐な唇が小さく動く。
「あなたのこと、姉やって呼んでもいいですか?」
 千影はなぜか口をつぐむ。
「――イヤだ」
「え?」
 思い掛けない反応に、亞里亞の目が驚愕の色を浮かべる。
 そんな妹に、千影は満面の笑みを浮かべた。
「一回だけじゃイヤだよ。これからもずっと、姉やって呼んでくれないと」
「――姉や」
 おずおずと呼び掛ける亞里亞に、千影は大きく頷いてみせた。
「ああっ、姉や……」
 亞里亞は感極まったように全身をわななかせた。
「姉や、わたし、亞里亞です。あなたの妹の、亞里亞です」
 亞里亞の上体が宙を走った。
 その両腕が千影の首に絡みついたかと思うと、青い蛇の胴が遅れて続き、千影の体へゆるやかに巻きついた。
 二人は声もなく見つめ合った。お互いが何かを言おうとした刹那、突き動かされるように、どちらからともなく口づけを交わした。
 突然吹き込んだ大風がカーテンを翻し、朝日が絡み合う二人を照らした。
 その途端、亞里亞の胴体からか細い白煙が幾筋も立ち上がる。瑠璃色の色彩が尻尾の先端から失われ、ぼろぼろと崩壊してゆく。
 腰にまで達した灰色が大きく剥がれ落ち、その中から二本の足が姿を現した。
 絡み合うふたりを前にメイドがひとり、いつまでもすすり泣いていた。





 Fin.





 Epilogue