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天地が逆さになった窓からは、煌煌とした月明かりが差し込んでいた。
わずかな欠けもない満月は窓枠の外。これ以上に身体を反らせると椅子の背もたれが壊れてしまう。おまけに背骨はみしみしと軋みを上げている。今日もよく働いた。
ぽんと弾みをつけながら上体を戻した。一瞬、視界がぐにゃりと歪む。
目の前のギネスビールの缶に手を伸ばしかけて、止めた。ついさっき飲み干したばかりだ……と思う。ほんの数分前なのに記憶が曖昧なのは酔っている証拠だ。試しに揺すってみたが、やはり中は空だ。
軽く舌打ちしてゴミ箱へ投げ入れるもわずかに狙いが外れ、またも舌打ちをする。
深くため息をつき、渋々と目の前の帳面へ向った。
私の幸せって何だろう。主のわがままをうまくいなして一日を終えたこと? 帳尻合わせの必要がない帳簿を眺めること? それとも、自分へのご褒美として一日の終わりをビールで締めること?
ふっと寂しく笑い、引出しの中から写真スタンドを取り出した。三人だけで写った写真はこれ一枚きりだ。カメラのシャッターを切る役目はいつも自分。あの時、あの人が言い出さなければこの写真は生まれなかった。主従がただ並んでいるだけの写真。だが、自分にとってはかけがえのない大切な一枚。これから先、こうして同じフレームに納まることがあるのだろうか。そう思うと、ひどく切ない気持ちに苛まれる。
頭を振って寂寥感を追い出した。――私の幸せは主の笑顔を見ること。そのためには自分を殺してでも。
もう少し飲みたい気分だが、あまりに空き缶を増やして余計な詮索をされるのも面白くない。ただでさえ買い出しには苦労しているのだ。送り迎えのついでに一ケースを買うのが関の山で、それすらもいくつかの店をローテーションで回り、顔を覚えられるのを防いでいるのだ。こちらの人員構成が明らかになっている以上、出入りの業者から買うわけにもいかない。この屋敷でビールを嗜むのは自分ぐらいなのだ。
ワインは料理に使う機会があるのでまた話が違ってくる。フランスではいくつかの葡萄畑を所有していることもあって登場回数の多いワインだが、どういうわけかあまり馴染めず、すぐに悪酔いしてしまう。できればあまり飲みたくはないのだが、どうしてもアルコールが欲しいというときには厨房の使い残しを拝借することもある。本当にどうしても、というときにだが。
前髪を掻き上げながら何気なく置時計へ目をやると、既に午前の一時半を回っていた。不意に寒気を覚え、カーディガンを羽織った。十一月ともなるとさすがに冷え込んでくる。
最近では、何をどうやってもこんな時間になってしまう。あまりいい傾向ではないし、近頃とみに睡眠不足が堪えるようになってきた。疲れが抜けにくいというのもあるが、何よりも目の下のくまが厄介だ。ファンデーションの厚塗りに自分の年齢を自覚する、あの瞬間が辛い。
これというのも全ては人手不足が原因なのだ。本来は亞里亞付きのメイドであるにも関わらず、他に適任者がいないという理由でフランスの本邸から一切を任されている身としては、亞里亞の世話以上に出納の管理も重要な仕事だ。
ただそれも、数ヶ月前まではもう少しまともだったのだ。――つまり、同僚が寿退職するまでは。
同僚というよりも、年齢的に後輩と呼んだほうが適切だろう。割にいいところのお嬢様で、短大を卒業後に花嫁修行の一環として門を叩いてきた。それが五年前の話。
ずっと上げ膳据え膳の生活を送っていたせいで最初はまるで使い物にならず、一から教え込むのに相当苦労した記憶がある。決して悪い子ではなかったのだが、十代の頃から叩き上げでメイドを勤め上げてきた自分と比べてしまい、ある種のやり切れなさを感じることはままあった。
最近になってやっと一人前の働きになったので、このまま長続きしないものかと密かに期待していた、そんな矢先の縁談だった。花嫁修行云々は彼女を雇い入れる際に聞かされていただけに無理に引き止めることもできず、黙って見送るよりほかなかった。
目の前のコルクボードには彼女からの招待葉書が貼ってある。『出席』を丸で囲ってはあるが、それを投函することなく式の当日を迎えてしまった。彼女が辞めてしまったことで、自分を含めた三人だけでこの屋敷を支えていかねばならないのだ。住み込みで働くシェフと家政婦の老夫婦、そして同じく住み込みの自分。平日の日中に屋敷を抜け出す時間などあろうはずもない。
ハネムーンの土産を届けにきた彼女は、メイド時代とまるで別人のように変貌していた。ふっくらと肉付きのいい頬もそうだが、何よりも身にまとった雰囲気からして違う。
何が彼女をそうさせたのだろうか。彼女の態度の端々には、奉仕されることに慣れ切った人間のそれが垣間見えた。ひっそりと清楚に咲いていた百合の花が、見るも華やかな薔薇へ変身したようなものだ。結婚とはそこまで人を変えるものなのだろうか。五年もの歳月がこうもあっさりと塗り替えられてしまうとは。
ふと思い立って、自分の年齢を電卓に叩き出してみた。そこから勤続年数をマイナスする。イコールを押すと、そこには二桁の数字が浮かび上がった。幼い主人の年齢よりも大きい。
その主も、春が来れば中学校へ進学する。もうそんな歳なのだ。いい加減少しは楽ができるだろうとの希望を胸に働いているが、問題はまだまだ山積みだ。
近場に本邸のお眼鏡にかなう学校が見つかったのはいいとしても、亞里亞を一体どうやって通わせるか。今の学校でも車を飛ばして片道一時間半は掛かっている。中学はそれよりも遠いのだ。かといって、付属の寮へ入れるにはあまりに不安要素が大き過ぎる。誰も見知らぬ中に一人で入っていけるほど亞里亞は強くない。学校の近くへ新たに家を借りるという手もあるが、それこそ人が足りない。その間、誰がこの屋敷を管理すればいいのだろう。それにつけても彼女の結婚退職が痛い。
目覚まし時計のアラームが二時を告げた。そろそろ寝なければ。明日も朝は早い。
電気スタンドのスイッチを切って立ち上がった途端、誰かのすすり泣きが聞こえた気がした。
おかしい。そんなはずはない。この部屋は屋敷の最奥にある。どんなに泣いてわめいても聞こえるはずがないのに。ということは――。
廊下を確かめようと扉に向って歩こうとするが、どういうわけか四肢に全く力が入らない。視界がぐにゃりと歪み、その場に崩れ落ちた。
「まさか、たったのビール一本でこんなに酔うなんて……」
全く異質な自分の声に驚き、反射的に頭をもたげた。ヘリウムガスでも吸ったときのようなけたたましい声。耳の中でわんわんと響いている。
加えて頭が割れるように痛む。二日酔いだろうか。いや、それにしては早過ぎる。何かが変だ。おかしい。
何気なく目に入った帳簿の数字が罫線の上でラインダンスを踊っている。2が鎌首をもたげる。8が転がって∞になる。6と9が互いに巴投げを掛けあっている。1の先端が自分を手招いている。呼ばれたらすぐに行かなくては。それがメイドというもの……。
瞼が急速に重くなり、やがて糸の切れた人形のようにカーペットへ倒れ伏した。
*
暗闇の中から誰かのすすり泣く声がする。
くすんくすん。
こんな泣き方をするのは亞里亞さまと決まっている。今度は一体何をなさったのだろうか。
「じいや……じいや、起きて……」
袖を引っ張られる感触にじいやは反射的に上体を起こした。
ぼんやりとした頭のまま、素早く辺りを見回す。部屋は電気が点いたままだが外は暗い。時計の針は午前四時を示していた。おねしょで目覚めるにしては早過ぎる。
「亞里亞さま、どうかなさいましたか」
訝しみつつ亞里亞の顔を見たじいやは一瞬言葉を失う。口の周りが血で赤く染まっていたのだ。
「どこもケガなんてしてないのに、血がいっぱい出てきて……でも、お腹が痛いです。亞里亞、このまま死んじゃうの?」
口だけではない。亞里亞のナイトドレスの下腹部にも赤いまだら模様が見える。
慌てて裾をめくり上げると、亞里亞の内ももを伝わって血が滴り落ちていた。見ている間にも足元からは緋色が滲み出していく。床の血痕はドアの外へ点々と続き、恐らくは廊下にも並んでいるはずだ。
「大丈夫。大丈夫ですよ、亞里亞さま」
じいやは膝立ちになって亞里亞を抱き寄せた。薄桃色のカーディガンに血の色がべったりと移る。
「じいや……」
肩を震わせ、何度もしゃくりあげてはすすり泣く亞里亞だったが、じいやの抱擁を受けるうちに落ちつきを取り戻す。じいやは頃合いを見計らってこう切り出した。
「いいですか亞里亞さま。このじいやの言うこと、よくお聞きください。これは亞里亞さまが少し大人になった証なのです」
「大人……」
亞里亞は大きく目を見開いてじいやを見た。
「ですから、何も怖がることはありません。亞里亞さまが大きくなられる上で、必ず通り抜けねばならない道なのです」
「大人……亞里亞、大人になっちゃうの?」
虚ろな目で問い掛ける亞里亞にじいやは一瞬ぎょっとする。
生まれて間も無くより仕えている主人だが、未だに理解しきれていない行動も多い。例えば今がそうだ。茫然自失といった態で意味ありげに呟いては、焦点の定まらない瞳を宙にさまよわせる。多くの場合は額面通りの言葉なのだが、時に予想のはるか斜め上を行くこともある。それだけにじいやは気が抜けない。『一度に考えつく量が多過ぎてオーバーヒートしている』とは誰の言葉だったろうか。
じいやは亞里亞の頬を両手で包み込み、額を寄せて亞里亞の目をじっと覗き込んだ。
「いいえ、今すぐにというわけではありません。今夜のはあくまで予兆――つまり、これから大人の体になりますよ、というお知らせなのです」
努めて優しげな口調で説明するも亞里亞に納得した様子は見られない。それどころかたちまちに顔を歪ませ、大粒の涙をぽろぽろとこぼし始める。
「いや……亞里亞、怖い……」
亞里亞は嗚咽混じりに言うなり、自分の顔をじいやの肩に押し付けた。
じいやは亞里亞の背中を優しく撫でながら、ため息混じりで時計の秒針を見つめた。
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