2 - Primogeniture - 2
「……と、こういった有り様でして」
じいやが一通り説明し終えると、ソファーに並んで座った姉妹らは一様にため息をついた。
「なるほど、確かにそれは不可解だね」
腕組みをした千影は、ソファーにもたれながら形のいい眉を顰める。
「しかもそれは、満月の夜に必ず起こる猟奇的な事件」
メモを取る鈴凛は、ボールペンを走らせながら唸り声をあげる。
「むむぅ、これは……マイセンのようデスね」
ルーペを構えた四葉は隣の鈴凛のティーカップを覗き込んでいる。
「あうちっ!」
鈴凛が四葉の頭に目掛けてメモ帖の角を振り下ろした。
「もう、何するデスか。さっきから四葉は叩かれてばかりデス」
「じいやさんの話聞いてなかったの? これはもう、立派にシリアスな事件よ。アンタも一応は探偵なんだから少しは役に立つ推理をしなさいよね」
と、鈴凛が目を吊り上げながら四葉の耳元に怒鳴る。
「うぅ、そんなに大声出さなくても聞こえてマスよ」
四葉が遠慮がちにぶつぶつと抗議した。
千影は腰を浮かせて隣の喧騒から距離を置き、じいやの説明を頭の中で反芻した。
確かにそれはシリアスで、シリアル(連続的)な事件だった。
亞里亞が裏庭で飼っているウサギが、夜間に何者かによって殺されたというのだ。死因は失血による衰弱死らしく、首筋には噛まれた跡が残っていた。他にはこれといった傷はなく、他に荒らされた形跡もない。
それだけならばこの土地柄、山に棲む動物の仕業と決め付けることもできる。
だがじいや曰く、四足の獣を犯人と断定するには不可解な部分があるという。その最たるものが、被害が三ヶ月前から一ヶ月おきに、一羽ずつ起きているという点だ。
確かにこれは奇妙だ。千影は一人頷く。
ウサギを襲うとすれば野犬かキツネぐらいなものだろう。だがそれでは、周期的にやってくる理由の説明ができない。一度味を占めたら日を置かずにやってくるのが動物というものだろう。一度に一羽というのも解せない。
かといって人間を犯人とするには殺害方法が異常だ。果たして人間にウサギが噛み殺せるものだろうか。
動物と人間、その両方の特質を兼ね備えた存在ならばあるいは。例えば、狼男のような魔物とか。
千影は思わず鼻で笑った。それはいくら何でも発想が飛躍し過ぎだ。もっと情報が揃えば、自ずと犯人は絞られてくるはず。
そんな千影の思索の隣では、鈴凛と四葉の論争が果てしなく続いていた。
「――デスから、四葉の最終的な推理によると、犯人はここにいない誰か……ズバリ、亞里亞ちゃんデスね」
四葉はそう言い放ち、立てた親指を下に向けた。
部屋に冷たい空気が流れる。階下からはピアノの伴奏に混じって、亞里亞の歌声が切れ切れに聞こえてきた。
「四葉ちゃん、ちょっと」
引き攣った笑顔の鈴凛が四葉の奥襟を掴み、そのまま立ち上がる。
「な、何デスか鈴凛ちゃん? 四葉、何も悪いことしてないデスよ」
「あらそう。一応、悪いことをしたって認識はあるのね」
鈴凛はやれやれとばかりに首を横に振る。
「ほら、とにかくちょっとこっちに来なさいって。ね? コミュニケーション、コミュニケーション。言葉じゃなくて体で語り合いましょ。ほら、立った立った」
「あの、その、だからデスね、ほんのちょっとしたジョークだってっててて。鈴凛ちゃん痛い、痛いデスってば!」
鈴凛は喚く四葉を無視して容赦無く引っ張り上げる。そんな鈴凛の執拗さに負けたのか、四葉は唸りながらのろのろと立ち上がった。
「ごめんね、千影ちゃん。少し席外すから」
「ああ……まあ、ほどほどに」
鈴凛は大股で、四葉は襟を掴まれたまま後ろ向きで、部屋を後にする。
扉が閉まった途端、二人の言い争う声と床を踏み鳴らす音が壁の向こうから伝わってきた。
残された二人は何とはなしに扉を見ていたが、やがてどちらからともなく顔を見合わせた。
「騒々しくてすまない。春には大学生になるというのに、あれでは先が思いやられるな」
千影は首を振りながらカップを手にした。
「そうですか?」
じいやも千影に倣ってカップを取った。
「私から見れば、鈴凛さまも四葉さまも年相応ですよ。だって今はまだ高校生ですもの。これから少しずつ大人になられるのでしょうね。それに……」
じいやが千影に向けて意味ありげな視線を送る。
「それに?」
「上に立派なお姉さんがいますものね。こんなに頼り甲斐のあるお姉さんがいれば、安心して子供を続けられるでしょうし」
「……誉められているのか貶されているのか、判断に迷うところだね」
千影は不満げに眉を寄せながら紅茶を口にした。
じいやはそんな千影の様子を見つめていたが、
「――ところで」
顔を寄せて千影に訊ねた。
「あのお二人に何かあったのですか?」
「いや、いつもの言い争いを少々」
「そうですか」じいやは首を傾げる。「四葉さまは相変わらずなのですが、鈴凛さまのご様子がいつもと少し違うような気がしまして。情緒不安定といいますか、落ち着きに欠けておられるといいますか」
「ふむ……」
言われてみれば今日の鈴凛は妙に感情的だ。いつもなら軽く受け流すところを、真っ向から受け止めては律儀に返している。自ら四葉のペースに巻き込まれているようなものだ。
「で、それが何か?」
訝しげに千影が問い返す。
「いえ、ちょっと気になったもので。何でもありません」
「わかった。では、そろそろ本題に入ろうか」
千影はカップをかちゃりと置く。
「つまり、私に犯人を探せと言うんだね」
千影の答えに、じいやは大きく一度頷いた。
「他ならぬ千影さまにこのようなことをお願いするのは筋違いというものでしょうが、事が事だけに頼れる方が他にいないのです」
「警察はダメなのかい」
千影は素朴な疑問をぶつけた。
「たかがウサギ数羽のために、こんな山奥まで出張ると思われますか」
苦笑混じりにじいやが言う。
「それもそうか。彼らもそんなに暇ではないだろうし」千影は腕組みをした。「噛み殺されて死んだ。むしろ、野犬の類なら春歌くんの領域だと思うが」
「ええ、野犬ならば春歌さまの領域でしょうね」
「……野犬ならば?」
じいやは返事をする代わりに紅茶を一口すすった。
千影の中にふと、じいやに対する疑念が芽生えた。この人は自分に何をさせようというのだろう。
しかし、表にはそれを出さず、
「私の領域といえばオカルトの知識と占いぐらいのものだが」
と、腰のホルダーからタロットカードの入ったケースを取り出して見せた。いつでもどこでも占いができるよう、千影は肌身離さずタロットを持ち歩いている。携帯電話を忘れることはあってもタロットを忘れた例はない。
「荒事は期待しないでほしい。カード投げが関の山だね」
「はい、存じております」
カップをソーサーに乗せる音が冷たく響いた。
「これをごらんください」
じいやはエプロンドレスのポケットから封筒を取り出し、応接テーブルの上をつっと滑らせた。
「先月の事件の際にいくつか撮っておいたものです」
「写真? どうしてそれを先に出さな――」
封筒から写真の束を抜き取った千影は、そこに写っている光景に言葉を失った。
コンクリートの土間にぐったりと横たわるウサギの亡骸。こうしていざ目の当たりにすると、やはり相当にショッキングだ。
千影は思わず口元を押さえる。
「これは、ひどい……」
ウサギに並々ならぬ愛着を持っている千影にとって、それは見るに耐えがたい姿だった。
千影はウサギが好きである。愛しているとまではいかないが、彼らへ注ぐ愛情は並ではない。大学生になった今でも、自室のベッドでは大きなウサギのぬいぐるみを抱えながら眠っている。幼少よりの習慣というのもあるが、本物をそばに置けない代償としても機能していた。
彼らを飼ってみたいとは常々思っているし、また飼える環境にもある。荒れ放題に荒れた裏庭は彼らにとってまさに天国のようなものだろう。地中に巣穴を作る彼らは室内で飼うべき動物ではない。狭苦しい檻に閉じ込めるよりも、自然に近い環境でのびのびと過ごさせてやるほうがいいに決まっている。
ただ、彼らに幸せを与えるにはそれなりの代償が必要となる。この屋敷のウサギたちが小屋に囲われているのは、秩序に支配された庭園に混沌をもたらしてしまうせいに他ならない。もっとも、彼らにしてみればそれこそいい迷惑というものだ。日々の糧を自らの足で探し、口にしているだけというのに。
千影が小さい頃よく読んだ本にピーターラビットがある。
千影は青いカーディガンを羽織ったピーターが好きだった。だから、ピーターの姿を見るなり追い回すマクレガーさんが嫌いだった。『ピーターのたべたニンジンはちかが買ってあげるのに』とぷりぷり怒りながら、そして、ピーターがマクレガーさんに捕まってミートパイの具になりませんようにとはらはらしながら、千影はページをめくったものである。
だからこそ、千影はウサギが飼えなかった。
理性では生あるものには必ず死が訪れると認識できていても、感情がそれを受け入れるとは限らない。
心の中で占める割合が大きくなればなるほど、それを失ったときの空洞も大きさを増してゆく。ならば、失わないためにはどうすればいいか。
そう、手に入れようとしないことだ。自分の手中に無いものをどうやって無くせるというのか。会うは別れの始め。だから、会わなければ別れは永遠にやってこない。
だが、千影は出会ってしまった。写真に写る、無残な姿の彼(彼女)と。
面識はなくても、彼らへの思い入れの深さが千影の心に悲しさを呼び込む。見なければよかった。本気で後悔した。
それでも千影は、こみ上げるものを必死で抑えながら写真を観察し始めた。目を逸らしていても何の解決にもならない。それに、このまま放置すれば新たな犠牲者を生み出してしまう。それだけは何としても避けなくては。いたいけなウサギのためにも、亞里亞のためにも。
千影は一枚、また一枚と写真をめくってゆく。
ウサギの亡骸が写っていたのは最初の数枚だけだ。それぞれ違う角度から全身を撮ってある。
ここで千影はあることに気付いた。首筋に噛み傷らしき斑点が赤く浮き出ている他は、純白の毛皮に染みの一つも見当たらないのだ。
「――妙だな」
千影の呟きにじいやが顔を上げた。
「彼らに抵抗した痕跡がない」
顔を寄せるじいやに、千影は写真を指差して説明する。
「彼らがいかにか弱いとはいえ、窮鼠猫を噛むという言葉もある。何の抵抗も見せずにみすみすと殺されるものだろうか」
「はあ」
「だって、毛並みが綺麗すぎると思わないかい? それに引っ掻き傷の一つもないなんて。彼らはどうやって犯人の手の内に納まったのだろうね」
「そういえば、そうですね……」
じいやが眉間に皺を寄せて写真に見入る。
か弱い、とは形容してみたが、実際は見た目ほどに柔くない。金網に囲われていても、彼らの野生は健在なのだ。
黒魔術の生贄としてウサギは大変にポピュラーな存在だ。千影に生贄を殺めた経験は無いが、実際にウサギを贄として殺したことのある人から体験談を聞いたことがある。曰く、自分が殺されようとしていることを敏感に察知して逃げ場――つまりは巣穴――を探そうとするので、まずは頭に布を被せて視界を遮るのだという。すると逃げ場を見失ったウサギは抵抗を止めてしまうので、そこでようやく殺せるという。
それらに照らし合わせてみると、この死体がいかに奇妙なのかがわかる。首筋には噛み傷があるにも関わらず、暴れた様子は一切見られない。となると、考えられるケースは二つだ。危険を察知する暇もなく殺されたか、そもそも危険を察知できなかったか、だ。
前者はウサギの聴覚を考慮に入れると脆くも崩れ去る。あの長い耳は飾りではない。野生のウサギたちは危険が迫った際に後足を大きく踏み鳴らすスタンピングという行為をするが、彼らはその足音を数キロ先からでも聞き取ることができるのだ。おまけに耳の可動範囲は360度。全方位の物音に対して即座に反応できる。
そんな彼らに気取られるなく接近しようと思えば空を飛ぶ以外になく、そして鳥たちに牙はない。ついばむことはできても噛むことはできないのだ。
あり得るとすれば後者だ。人間ならば彼らに警戒心を与えることもない。たやすく抱き上げられる上に、そこから噛み付くのも容易だ。
「今気付いたのですが」
じいやの視線が千影を捉える。
「この子、ずいぶんと安らかな顔をしているような」再び写真に目をやる。「まるで眠っているみたい。よほどに楽な逝き方をしたのでしょうか」
「楽な逝き方だって?」
じいやの奇妙な感想に千影は眉を歪めた。
「千影さまはどう思われますか」
「それは」
千影は足を組ながら、「彼らに尋ねてみないとわからないな」
ぞんざいな千影の返答に、じいやは「それもそうですね」と顔を離した。
千影は残る写真をパラパラとめくった。
実況検分を意識しているのか、ウサギ小屋周辺は細部に至るまでのべつまくなしに撮られてある。今より一月前、つまりは一月の下旬ということもあり、小屋の周囲はいくらかの積雪が見られる。コンクリートの基礎が隠れているということは10センチ程度だ。足跡ははっきりと残る。
外を写したものだけを揃えた千影は、写真の積雪部分を重点的に観察した。
案の定というべきか、動物の足跡は一つも見られない。代わりに点在しているのが人間の靴跡だ。とはいっても、かかとの細い女性の靴跡が一種類だけ。つまりはこの写真を撮影したじいやのものということになる。
無意識のうちに千影はため息をついていた。皆目見当もつかない。手掛かりがあるようでいてその実、何もないのだ。
千影はふと、ある可能性を見出していた。が、それを口にするのはさすがに憚れた。この一件、全てはじいやの狂言ではないだろうか。そうでもなければ説明できないことが多過ぎる。
「――そんなバカな」
と、愛しい兄の口癖を真似る千影。
「あの、どんなにバカげたことでもいいんです。少しでも可能性があるようでしたら、どうぞおっしゃってみてください。何が突破口になるやもしれませんので」
その呟きを耳にしたじいやは、真剣な面持ちで千影に迫った。
その迫力に気圧されるように千影は上体を引いた。言えるわけがない。『あなたが犯人ではありませんか?』などとは。
「本当にどんなことでもいいんです、千影さま。結果はともあれ、色々と予想を立ててみないことには」
「そうは言っても、本当に何もわからないんだ。わからないことをわからないまま、適当に口にはしたくない。それは四葉くんのやり方だ」
妹を盾に千影は防戦する。きっと今ごろはくしゃみを二回していることだろう。
「でしたら、今わかっていることだけでも挙げてみられてはいかがでしょう。要点を整理すれば、そこで新たに見えてくることもあるでしょうし」
なおもじいやは食い下がる。その熱心さに千影もそろそろうんざりしてきた。
「しかし」
「本当に何でもいいんですよ。どんなに突飛な仮説や疑問でも。例えば――」
じいやはすうっと目を細めた。
「『じいやさん、あなたが犯人ではありませんか?』とか」
ガシャッとけたたましい音がして千影のティーカップが倒れた。見る間に琥珀色の液体がテーブルじゅうに広がり、カーペットに滴り落ちる。
「す、すまない。私としたことが」
千影は膝をさすりながら謝った。驚いた拍子にテーブルへ足をぶつけたのだ。
失態と動揺とで心臓が大きく高鳴っている。まるで、自分の考えを見透かされたかのようだ。
「まあまあまあ。千影さまったら、本当にもう」
子供をあやすかのような口調のじいやが、てきぱきとテーブルを片付ける。その手際の良さは千影に手を出させる暇を与えないほどだ。さすがは本職と、千影は膝の痛みも忘れて感心した。
じいやは紅茶で濡れた写真にぬぐいを掛けて千影に手渡す。
「これは千影さまにお預けしますので」
「ああ、ありがとう」
流れるような一連の仕草に目を奪われながら、半ば自動的に受け取る千影。
「それで、さっきのは……?」
千影にしては珍しく、上目遣いで訊ねた。
「もう、千影さまったら。いやですわ」
笑顔を浮かべたじいやは、片手を前後にひらひらと振る。「そんなの冗談に決まっているでしょう。第一、私が犯人だとしても犯行に理由がありませんわ。亞里亞さまを悲しませても何の得にもなりませんし。むしろ、亞里亞をなだめるのに時間を取られて忙しくなるばかりで」
思わず千影の顔が赤くなった。そうだ、彼女にはウサギを殺す理由などない。自らの意思で仕事を増やすメイドがどこにいるだろうか。
「――それで、ウサギ小屋は今どういう具合なのかな」
照れ隠しも兼ねて、千影は違う方向に話を振った。
「至って平穏ですよ。今朝も亞里亞さまがエサやりをされまして。亞里亞さまったらキャベツの切れ端を口に咥えられて、そのままウサギに食べさせるんですよ」
千影はその様子を想像し、口元をほころばせる。何とも微笑ましい光景だ。白い顔と顔を近付け、互いに口をもそもそとさせる。
「いいな。私もやってみたい」
「いいえ、よくありません。エサやりに時間をお掛けになるせいでいつも遅刻寸前です。もう少し朝が早ければよろしいのですが、亞里亞さまときたら毎朝毎朝ぐずってばかりで。本当にもう、困ってしまいます」
何気ない一言が何倍にもなって返ってきた。千影はまあまあと手振りでなだめる。
「だったら亞里亞くんの部屋で飼えばいいのではないかな。彼らには少し辛い環境だが」
「他人事だと思ってらっしゃいますね、千影さま」
じいやが不満げに眉根を寄せる。
「そうでもないさ。室内に入れておけば、少なくとも外からの敵を防ぐことができる。これ以上被害を出すのは、色々な意味で好ましくないと思うが」
千影は根本的な疑問を投げつけた。満月の夜に一羽が殺されると知りながらどうして外へ置いたままなのか。これではまるで路肩脇の無人販売だ。――私はあなたたちの良心を信じています。いつでも襲える環境ですけど、どうか可愛がってくださいね。
最初の一羽は仕方ないにしても、その後の二羽は防げたかもしれない。彼らをむごたらしく殺める犯人に良心などあろうはずもないというのに。
じいやは何度か目をしばたたかせ、ゆっくりと首を横にふった。
「なぜだ?」
「抜け毛とか糞とか、お掃除が大変でしょう? それに、家具にしろ何にしろ手当たり次第に齧られてしまいます」
千影は探るような目付きでじいやを窺い見た。
「ケージに入れておけば被害は防げるはずだ」
「それではあの子たちが可哀想ですよ。あのウサギ小屋でも狭いというのに、それより狭いケージの中へ入れてしまうなんてあんまりです。――ウサギがお好きな千影さまでしたらそれがどういうことなのか、わかっていただけますよね?」
膝の上に肘を立てて両手を組み、無意識のうちに口元を隠した。
気に食わない。いらいらする。
じいやの言うことはもっともだ。だが、もっとも過ぎるがためにどうにも胡散臭い。同意を求めるような口調も微妙に神経を逆撫でする。まるで、暗に口裏合わせを求めているかのようだ。……しかし、何の口裏を合わせるというのだろう。
彼女は何かを隠している。それは間違いない。
「しかし、一晩ぐらいは問題ない」
そう言いながら千影ははたと気付く。
「――満月の夜だ、今夜は。あなたは彼らが殺されると知りながら、それでも何の手も打たないというのか」
「ですが、いいチャンスではありませんか。千影さま」
じいやは平然と言い放つ。
千影は大きく息を吸い込み、こみ上げる怒りとともに吐き出した。
「それは本気で言っているのか?」
これにはもう、呆れるより他にない。よりにもよってあの子たちをおとりに使おうなどとは。
「千影さまのおっしゃりたいことはよくわかります」
千影が落ち付いた頃合いを見計らい、じいやが静かに口を開いた。
「しかし、今はまだ犯人の姿すらも目撃されていないのです。千影さまはその写真から得られる手掛かりだけで犯人が捕まるとお思いですか」
「いや」
首を振って短く否定した。
「でしたら、今夜を千載一遇のチャンスとするしかありません」
千影は目を伏せて黙り込む。
じいやはそんな千影をじっと見つめていた。
「わかった」
千影はひとつ頷いた。
「いいだろう。彼らを危険に晒すのは不本意だが、それしか方法がないな」
「そうですか。ご理解いただけたようで何よりです」
喜色を隠そうともせずに頭を下げるじいや。千影は鼻を鳴らして、その決定に不本意であることを表わす。
「では、これを千影さまにお預けします」
じいやは首に掛かった細い鎖の先を胸元から手繰り寄せた。
「鍵?」
じいやが取り出して見せたのは鈍色に光る一本の鍵だった。
「ええ、マスターキーです」
うなじに手を回しながら、「これで、この屋敷ほぼ全ての扉を開けることができます。この一件に関しては、どうか千影さまのご自由になさってください」
外し終えた鍵を握り締めると、じいやはその手を千影に向けてそっと差し出した。千影はその下に手を広げて受け止めようとする。が、いくら待っても鍵は落ちて来ない。
怪訝そうに見返す千影に、
「そのかわり、ひとつお願いがあります」
「何なりと」
半ば捨て鉢気味に千影が答えた。
「亞里亞さまが初潮を迎えられた件はご存知ですよね」
「ああ。あなたにメールで教えてもらった――」
言いかけて、千影はふと口篭もった。
「まさか」思わず額に手を当てる。「私に教えろと」
じいやはわざとらしくため息すると、
「私が何度ご説明申し上げても亞里亞さまは上の空で」
「まったく、仕方がないな。亞里亞くんも亞里亞くんだが、あなたもあなただ。じいやさん」
「は。面目次第もございません」
と、じいやは頭を下げる。
「それで、ご返事のほうは」
「わかっているさ」
千影は背中をソファーに預ける。
「言っておくが、私はあくまで亞里亞くんのためを思って引き受けるんだ。あなたのためじゃない」
恐縮です、と俯きながらじいやは手を開けた。ちりちりという音を伴い、千影の掌に鍵が滑り込む。
「おわかりとは思いますが、鈴凛さまと四葉さまにはくれぐれもお渡しすることのないよう――」
と、壁際の電話からけたたましい呼出音が鳴った。
じいやはパタパタと駆け出して受話器を取り、二言三言交わす。
「申し訳ありません、亞里亞さまの歌のレッスンが終わりましたようなので」
「見送りだね」
ええ、とじいやは首肯する。
「私のほうはそんなに慌てなくてもいい。急いては事を仕損じるからね」
やや皮肉めいた千影の言葉に、じいやは声もなく笑う。
「お茶のおかわりはよろしいですか。ついでに持って参りますが」
「そうだな、せっかくだからお願いしようか。あまり飲まないうちにこぼしてしまったからね」
ほんの少し、場の空気が緩む。
今はこのまま終わってくれればいいのだが。千影は内心でそう願った。厄介事はもうたくさんだ。
「ええ。それでは失礼します」
と、腰を折り曲げるじいやの動きがおもむろに止まった。
「――千影さま。もうひとつだけ、よろしいでしょうか」
千影は返事をしなかった。
図々しいメイドに呆れたのではない。じいやの口調に只ならぬものを感じたのだ。迷いに迷った末でようやく絞り出した、そんな声。
「初潮の直後数ヶ月というものはなかなか周期が安定しないものですが、千影さまはいかがでしたか?」
「は?」
奇妙な問いに千影はぽかんと口を開けた。この人はいきなり何を言い出すのだろうか。
「どういうわけか、亞里亞さまには規則正しく訪れるのです。終わりこそはバラバラですが」
千影の顔を見ずにじいやは続ける。
憂いを帯びたその顔に、突如として千影の胸が騒ぎ出す。――ひどく嫌な予感がする。これから先を聞いてはならない。ダメだ。耳を貸してはダメだ。聞いてはダメだ。
「――亞里亞お嬢さまは、満月と同期されています」
じいやがゆっくりと告げた。
「それは、どういう意味だ」
千影はゆらりと立ち上がり、じいやに一歩近付く。
「どういう意味なんだ。亞里亞くんが満月にシンクロしているだって? 満月の夜にはウサギが殺されている。……いや、そんなバカな。ただの偶然だ。偶然の一致だ」
じいやに向けたはずの問い掛けは、次第に自分のそれへと変化してゆく。
顔面も蒼白に視線をさまよわせる千影に、じいやの冷徹な追い討ちが加わる。
「亞里亞さまの初潮と最初の事件は同じ夜に起こっております。以降も同様に」
メイドは自らの言葉の効き目を確かめるかのように、そこで区切る。
「そう、亞里亞さまが血を流される夜に、彼らの血もまた流れるのです」
経文を唱えるがごとく、低く地を這って響くじいやの声。
「そんな、ありえない!」
千影は拳をわななかせながら叫んだ。
「あなたは私に、あの子を疑えというのか」
表情を変えずに、しかし、眦(まなじり)には怒りと困惑を滲ませながら千影は彼女を睨む。
じいやは俯き加減の顔を上げ、真っ向から千影の視線を受け止めた。その目には何の感情も浮かんでいない。ただ、うつろに見返しているだけだ。
「――しかし、千影さま」
ややあって、じいやが静かに語り掛けた。
「私は事実を申し上げたまでです」
「嘘だ」
千影は即座に切り捨てる。
「あなたさまの亞里亞さまへのお気持ちは、このじいやもよく存じております。ですが、過度の愛情は目を曇らせてしまうだけで、結果として真実から遠ざかることになります」
まるで幼子へ言い聞かせるかのようなじいやの口調。いつもなら軽く受け流したであろう千影も、感情を昂ぶらせた今はそんな余裕などなかった。
それでも、荒ぶる心を必死に抑えながら千影は反論する。
「じいやさん、あなたにあの子への愛情はないのか? あなたにとって、亞里亞くんのお守はただの仕事かもしれない。だが、母を亡くしたあの子にとってはあなたこそが母親の代わりだ。誰が何と言おうと」
千影は一度深呼吸した。亞里亞の母親は同時に千影の母親でもある。
「百歩譲ってあなたの言う事実とやらが本当だとしても、亞里亞くんを疑うのは筋違いではないのか。あの子にそんなことができるわけがない。今、私たちがやらねばならないことといえば、あの子へ降り掛かる災いを身をもって防ぐことだ」
そこで言葉を区切ると、千影はふたたび深呼吸する。
「私は、間違っていると思うか」
ぼそりと吐き出した言葉に、じいやは首を横へ振ってみせた。
「ならばこの話をするのは止めよう。あなたは何も言わなかった。そして、私は何も聞かなかった。あなたを失業させたくはない」
それは千影なりの気遣いのつもりだった。メイドが主人を疑うなど、あってはならないことなのだ。千影はじいやの主人ではないし、この屋敷に彼女の上役はいない。それでも、どこからか話が漏れないとも限らないのだ。
「――怖いのですか?」
微かな嘲りを含んでいるように、千影には聞こえた。
「何だって?」
「本当のことをお知りになるのが、そんなに怖いのですか」
何しろ千影には、実の姉妹と名乗る亞里亞を無下に扱ったという前科がある。「怖い」と返せばプライドに傷がつき、「怖くない」と言えば嘘になる。
千影は怒気も露わに唇を噛み締めた。
「私もできれば信じたいのです。そして、信じたくはないのです」
無言のまま、千影は目の前の女性を睨んだ。
「ですが、事実から目を背けるわけにはいきません」
「まだ、言うのか」
千影は大きく息を吸う。胸の内に潜む、怒りの火種を吹き消そうと。
しかし、千影の思惑とは裏腹に炎はその強さを増した。それはもう、灯火(ともしび)ではなかった。吹けば消える蝋燭の炎ではなかった。
もう一度大きく息を吸う。視界の端が朱に染まる。ぱちぱちと音を立てて爆ぜるのは、炭に埋もれて今にも消えかかっていたはずの燠火(おきび)だ。
もう一度吸う。赤々と色付く火床から炎がゆらりと立ち昇る。
もう一度。ごうっと火柱が上がる。
「私にあの子を」
酸素を求めるついでに言葉を吐き出す。
「疑えというのか?」
自らの生み出した業火に心を焦がしながら、千影は凄惨な笑みを浮かべた。
あの子を守るのはこの私だ。あの子なくして今の私はいない。何人たりとも、あの子に罪を背負わせることは許さない。この私が、許さない。
「はい」
あくまで涼やかなアルト。
「たとえどなたであっても、事実は覆せません」
きっぱりとじいやが言い切った。
窓から差し込んだ陽光が千影を照らし、赤毛を燃え上がらせた。目に入るもの全てが赤い。中でも一際鮮やかなのは正面にゆらめく女の影。
千影の耳元で囁き声がする。――やれ。やってしまえ。あの時と同じに、小うるさい犬を懲らしめてやれ。
しかし、わずかに残った理性が抗う。それだけはダメだ。使ってはいけない。この秘密を知られたら亞里亞にはもう会えなくなるというのに。
「……何を言うんだ」
千影は唇の端を歪め、声を出さずに言う。
「そのための、この力じゃないか」
そうだ、邪魔者を薙ぎ倒すための力だ。私とあの子の間に立ち塞がる者は全て――倒せ。
衝動のおもむくまま、己の内なる螺旋に沿って力が束ねられ、身体を駆け上がってゆく。滞りは、六年のブランクは一切ない。ふつふつと湧き上がる力の奔流に千影は確信を深めた。
千影の異変に気付いているのかいないのか、じいやは静かに千影を見つめているだけだ。だが、いつ踵を返すとも限らない。急がねば。
千影はわずかに上体を逸らせ、右足を半歩引いて軽い半身になる。
身体の内より力を引き出そうとする際には、ある一定のステップを踏まなければならない。例えばそれは、ストレッチをこなしながら闘争本能に火を灯すアスリートのように身体と精神を連動させる行為。
もちろん、必ずではない。だが、未分化でかつ混沌たる力ゆえに、秩序をもって制しなければたちまちに逃げ失せてしまう。古今東西、魔術妖術の類に呪文や儀式が欠かせないのはそのためだ。不確かで曖昧なものを扱おうとするためには、それを固定化し認識するために何かしらを確定させておく必要がある。指を向ければ雷光を放ち、手を払えば炎が生ずる。
そして、千影にとってはこの立ち居振舞いこそがそうだった。
顎を小さく上げて目を閉じる。
そして、頭を戻すと同時に瞼を上げて『放った』。
千影の視線はあやまたず、彼女の瞳に突き刺さる。
――これでいい。
思い描いた通り、じいやはたたらを踏みながら二歩三歩と下がる。
内心で千影は勝ち誇った。これを受けて無事だった者は今まで誰もいない。
だが。
彼女はかろうじてその場に踏み止まった。ぶんぶんと頭を振っているのは、意識をはっきりとさせるためだろうか。
呼吸こそ多少乱れてはいるが、その顔立ちには何の変化も見られない。苦悶も憤怒もなく、ただ穏やかな表情で立ち尽くしている。
静寂がこの場を支配した。二人は彫像のように動かない。
廊下の軋みが近付いてきたかと思うと勢い良く扉が開き、鈴凛と四葉の二人がどやどやと入ってきた。
「ごっめーん、遅くなっちゃってさ――」
陽気な声の鈴凛が、千影の顔を見るなりびくっと足を止めた。その肩に四葉がぶつかる。
「あうちっ。……んもう、どうして急に立ち止まるデスか」
四葉が赤く腫れた額をさすりながら、棒立ちの千影と鈴凛を交互に見やる。
先に動いたのは鈴凛だった。
「――別に、何でもないよ」
振り向きざまに四葉へ言い訳すると素早く後へ回り込み、四葉を前へ押し出した。
「んー、変な鈴凛ちゃん」
四葉は押されるままに大股で歩み寄り、千影の対面へ腰掛けた。鈴凛も四葉の隣に座るが、ソファーの端に位置取って千影からは距離を置く。
千影は目を閉じ、眉間を揉みほぐしながら腰を下ろした。
ふとじいやのいた方を見ると、そこに人影はなかった。
「どうかしたデスか?」
四葉が屈託のない顔で訊ねる。
「いや、何でもないよ」
視線を戻しながら千影が答えた。
「それより、ちょっとこれを見てくれ」
と、応接テーブルの上に写真の束を滑らせて、
「どう思う?」
二人は顔を見合わせた。
千影は二人が写真を見ている間、じいやと交わした会話の中から差し当たりのないものを選んで付け加えた。
満月うんぬんの話はひとまず伏せることにした。
説明の合間、千影は深呼吸を繰り返した。今はなにも起こらない。あれほどの激昂が嘘のように、心は静まり返っている。
「ナルホド、だいたいわかりマシタ」
四葉がしきりに額を気にしながら言った。
「で、何がわかったのかな」
大して期待もせずに千影が訊く。
「ハイ、とっても難しい事件ということが」
「ああ、そう」
腑抜けた返事の千影に、
「もう、少しはマジメに聞いてクダサイ!」
四葉は、ばん、と一枚の写真をテーブルに叩き付けた。ティーセットがその衝撃でがたがたと揺れた。
「ここを見てクダサイ」
と、四葉は写真の一点を指差す。ウサギ小屋の入口付近を外から写したものだ。四葉の示す先には、女物のブーツの足跡が周辺をうろついている。
「これはじいやさんの足跡だろう」
「違うの。そこじゃなくて、もっと広い範囲で見るデス」
四葉のアドバイスに従うも、千影には何も見えてこない。
「まさか、私をからかっているわけではないだろうね」
「クフフゥ、敗北宣言デスか? もう、仕方がないデスね」
と、勝ち誇った口調の四葉。
「ほら、この辺デスよ。タイヤの跡のようなものが見えマセンか」
千影は言われるままに渋々と目を向けた。
「これは、確かに……」
じいやの足跡に覆い隠されたような感じで、雪が帯状に踏まれた痕跡がある。四葉の言うように車のタイヤかとも思ったが、それにしては溝の模様がなく、幅が広い。人間の胴体ぐらいはあるだろうか。
四葉は腕組みをしながら得意げに、
「ふふん、どうデスか? 四葉だってちゃんと考えてるんデスよ」
「ああ、よく見つけてくれた。危うく見逃すところだったよ」
写真から目も上げずに千影が誉める。
「えへへ、千影ちゃんに誉められたデス」
とびきりの笑顔で四葉は体をくねらせた。
「――しかし、一体これは何の跡だろうね」
「え? タイヤじゃないの?」
千影の呟きに四葉がにゅうっと顔を伸ばす。
「タイヤにしては幅があり過ぎる」
「うーん、なるほどチェキほど。この大きさだとトラックのタイヤになりマスね」
四葉は首をひねった。
「それに、これは四輪車などではないな」
「どうしてそんなコトが言えるのデスか、千影ちゃん」
疑問を口にしながら、今度は反対側に首を傾げた。
千影はベルト状の跡に指を這わせ、
「追って行くとわかる。これは一本が連続しているだけだ。四輪や二輪ではこうもいかない」
四葉はトレードマークともいうべきルーペを懐から取り出すと、上体を覆い被せるような格好で写真を覗いた。
その姿を見て千影はふと思った。彼女がルーペを活用している場面を見るのはこれが始めてのような気がする、と。
「でも、二本ありマスね。あー、ナルホド。入っていくのと、出ていくのと」
納得したように頷く四葉だったが、すぐに眉を顰める。
「ということは……あれ? タイヤじゃないとすると、これは一体何なのデスか?」
千影は頭を抱え、がっくりと肩を落とした。
「頼むよ四葉くん。私たちはそれを考えているんじゃないか」
「あーっと、そうデシタそうデシタ」
四葉は自分の頭をかわいらしく小突き、隣へ顔を向けた。
「ねえ、鈴凛ちゃんはどう思うデスか」
「え、アタシ?」
ぼんやりと窓の外を眺めていた鈴凛は、四葉に脇腹を突付かれ慌てて向き直る。件の写真を手渡されると、ふんふんと鼻を鳴らしながら観察に没頭した。
千影は目線を舐めるように動かす鈴凛を見ながら、彼女が先ほどから会話に加わっていなかったことに気付いた。
「ねえ」
鈴凛がおもむろに顔を上げる。「いいニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちを先に聞きたい?」
「いいニュース!」
はいっと、元気に四葉が手を上げた。小学生なら先生から花丸が貰えていたに違いない。
「じゃ、いいニュースから」
と、鈴凛はテーブルに写真を投げ置いた。
「まあ、いいニュースっていうか、アタシがチェキった結果なんだけど」
二人の顔を交互に見やる鈴凛。自分に注意を向けたところで、
「ここ、よく見て。あんまり沈んでないでしょ」
鈴凛が写真の上に指先で丸を描く。よくよく見ると彼女の指摘通りだ。ほんの申しわけ程度にしか沈んでいない。
「それが、どうかしたデスか」
「軽いのよ」
「軽い?」
「そう、軽いの。幅の割に」
鈴凛が苛立たしげに説明する。
「掛かる圧力と接地する面積が反比例するってのはわかるでしょ。同じ力だったら、パーよりも――」
鈴凛は開いた手のひらを四葉の頬へ押し付けた。四葉の顔が歪む。
「チョキのほうが痛い」
今度は指を二本出して四葉に突き立てた。四葉の顔がさらに歪む。
「どう、これでわかる? この幅のタイヤだったら、それ自体の重みでもっと沈んでるはずね。サーカスの玉乗りみたいに人なんて乗ろうものなら、もっとめり込んでるはずだし」
鈴凛はちらりと四葉を見た。
「どうしてそこで四葉を見るデスか」
「んー、別に。いかにも四葉ちゃんが考え付きそうな安直さだったから」
さしもの四葉もこれには頬を膨らませた。
「じゃあ、次。悪いニュース」
鈴凛は反動をつけて、どさりとソファーに身を投げ出した。
今度は千影が手を上げる。
「私が当ててみせようか」
頷いて、鈴凛は先を促す。
「結局は謎が深まったばかりで、依然としてその正体は皆目見当もつかない。そうだろう?」
「ご名答」
鈴凛は気だるげに太ももをぺちぺちと叩き、拍手の代わりとした。なぜか四葉が真似をして叩いた。
「この跡、最初はそりの類を疑ったんだが」
「うん、それはアタシも考えた」
二人は互いに顔を見合わせた。
「そりに何かを載せて、小屋へ運んだとは考えられないだろうか」
千影の指摘に鈴凛が片眉を動かした。
「でも、それだったら抱き上げて運べばいいじゃない。そりを使ったとしても、こうして雪にめり込まない程度の重さなら普通に運べるでしょ」
「そう、その点がどうにもよくわからないね」
千影は苛立たしげに髪を掻きあげた。
「ということは」
四葉がルーペを持ったままで手を上げた。
「もしかして、じいやさんが犯人だったりするのデスか?」
その額に鈴凛のデコピンが炸裂した。四葉の手から転げ落ちたルーペが陽光にきらりと光った。
「バカ。じいやさんを疑ってどうするのよ。あの人が犯人なわけないじゃない」
やや早口に鈴凛が責めた。
鈴凛は千影を正面から捉え、
「ねえ、千影ちゃんもそう思うでしょ。じいやさんは犯人じゃないって」
その表情に刹那、不安の色が走ったのを千影は見逃さなかった。
「大丈夫。あの人は犯人じゃない」
多分、と心の中で付け加えた。
相変わらず空気の読めない四葉は二人の顔を交互に見やり、やがて取り縋るように鈴凛の袖を引く。
「ねえ、何の話?」
「大人の話」
「鈴凛ちゃんはまだ大人じゃないデスよ」
「あら、誰がアタシの話って言った? じいやさんは立派な大人なんだから大人の話でしょ」
軽く小手先であしらわれた四葉は不満そうに唸り声をあげる。
「とにかく、そりの線は消えそうだな」
「あー、ちょっとまってクダサイ」
四葉が人差し指を立てる。
「そりに乗った人が、こう、端っこを持って」と、真似をしながら、「前にぴょんぴょん跳ぶというのはどうデスか」
「うん、なかなかおもしろいね。しかし」千影は写真を指差す。「それだともっと凹凸が出ると思うが」
四葉が再度唸り、
「それじゃあ、一体これは何なのデスか!」
たまりかねたように四葉が叫んだ。残る二人はやれやれとばかりに同じタイミングで肩を竦めた。
「だから、さっきからずっとそれを考えてるんだってば」
鈴凛はどこからかペンを取り出し、指先で器用に回し始めた。
「逆に、だ」写真をこつこつと叩く千影。「この跡を作りうる条件から求めたほうがいいかもしれないな」
「なるほど、逆算ね」
腕組みをした鈴凛はソファーの背もたれに頭を乗せ、天井をじっと見つめる。ややあって、
「そうなると大蛇ぐらいしか思いつかないのよね」
「大蛇だって?」
千影の脳裏にふと浮かんだのは、先ほど自らが思い描いた螺旋だった。
「大蛇に限らなくて、いわゆる蛇全般ね。こういう帯状の痕跡を残し、かつ移動の際の接地面積が広くて荷重を思いっきり分散できる生き物といえば――」
「それ! それデスよ!」両手をがばっと広げる四葉。「うーん、鈴凛ちゃんはやっぱり天才デスね」
四葉は鈴凛の手を取って大きくぶんぶんと上下に振る。
「これで犯人も特定できマシタね。あとは、この名探偵たる四葉ちゃんにおまかせするデス」
手を振り回されながら鈴凛がため息をつく。
「探偵が推理を他人任せにしてどうするのよ。それに、アタシは可能性を口にしただけ。蛇が犯人なわけないじゃない」
「それに蛇は爬虫類。冷血動物だ」
間髪を入れずに千影が続ける。
「彼らが冬眠から目覚めるのはまだ先の話だな。ましてや雪の積もる時期ではね」
「それにさ、こんなに太い蛇が日本にいると思う? アマゾンに棲むアナコンダとかだったら話は別だけど」
「ああ。かといって、ツチノコにそこまでの太さを期待するのは酷というものだろうな」
容赦の無い集中砲火に、四葉はたちまち涙目になる。このままでは部屋の片隅にしゃがみ込んで『の』の字でも書きだしそうだ。
「あー、はいはい。何もそこまで落ち込むことないじゃない。四葉にしては珍しくいい線いってるんだから」
鈴凛は四葉の肩に手を置くと、そのままやんわりと自分の膝に引き込んだ。鈴凛の膝枕に四葉はえへへと相好を崩す。
「ほんと、子供なんだから」
そう呟きながら四葉の頭を撫でる鈴凛の目には安堵の色が浮かんでいた。
「しかし、きみたちはいつもそれだな」
「いつも?」
千影を見返す鈴凛の目にふと陰が差す。まばたきひとつせずに凝視していたかと思うと、不意に顔を背け、
「――うん、そうだね。今まではね。これから先、どうなるかわからないけど」
「そうか。きみは留学するんだったね」
鈴凛はそれに答えず、ひたすら四葉を撫で続けるのみだった。
静けさが破られたのはそのときだった。
壁の向こう、階段のある方向からじいやの叫びがしたかと思うと、軽やかに廊下を駆け抜ける足音がした。
「姉や!」
ばん、と勢い良く扉を開けたのは、青いワンピース姿の亞里亞だった。千影の姿を認めるなり、まっしぐらに駆け寄ってくる。
慌てたのは千影だ。こんなごちゃついた場所に飛び込まれて無事に済むはずがない。
「だめだ、亞里亞くん――」
「姉やぁっ!」
制止しようと立ち上がりかけた千影に、水泳のスタートを思わせるフォームで飛び込む亞里亞。
両腕を広げてかろうじて受け止めはしたものの、上体を預けていたソファーの手すりが二人の荷重を受けてぽきりと折れた。二人はそのままもんどりうって倒れ込む。
窓縁で囀っていた小鳥たちが一斉に飛び立つ。
苦悶の表情を浮かべる千影に、
「姉や、亞里亞と会えて嬉しくないの?」
と、馬乗りになった亞里亞が怪訝そうな顔を傾げる。
「あー、ナイスタッチダウン?」
ぼりぼりと頭を掻く鈴凛。四葉がここぞとばかりに力説する。
「違いマスよ、鈴凛ちゃん。亞里亞ちゃんはフランスだから、こういうときはナイスタックル」
「あ、そうか。アメフトとラグビーは別だったよね。えーっと、ナイスタックル」
ようやく追い付いたじいやが部屋を見るなり、大きなため息をついた。
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