螺旋の誘い 最新分へ

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 3 - Impart - 1


「あー」
 千影は空気の渦の中心へ向けて声を発し続ける。
 十畳もある脱衣室には千影だけ。一緒に入っていた亞里亞は先に上がらせた。
 体を洗いながら色々と語って聞かせたが、果たしてどれほど理解してくれただろうか。自分の体が変わろうとしていることを、彼女はどれだけ自覚できているのだろうか。
 千影は天井を見上げ、ふうっと息を吐き出した。
 すっかりとのぼせた体に扇風機の風が気持ちいい。打った腰が鈍く痛むが、これは十分に許容範囲だ。もう慣れている。
 もう少し涼もうと籐の椅子ごと前に出る。と、体に巻き付けたバスタオルがひらりと煽られ、千影は慌てて胸元をつかんだ。
 千影は額に貼りついた前髪を掻き上げ、ぐずぐずと湿っている頭を風の中心へ向けた。
 不思議なものだ。扇風機を前にすると条件反射のようについ声を出してしまう。口を広げたり窄めたり。ヨーヨーのように声色が伸び縮みする。
 加えて宇宙人の声真似だ。実際には誰一人として聞いたことがないのに、その間抜けた声を誰もが宇宙人と言う。一人が始めると皆が一斉にやりだすのもお約束だ。雛子が扇風機に張り付くと花穂や衛が先を争うように顔を突き出す。まるで親に餌をねだる雛鳥たちのように。
 千影は頭を上げ、
「わーれーわーれーはー」
 途中まで言いかけて止めた。
 誰にも気兼ねする必要はないのだが、何となく憚られた。どこで誰が聞いていないとも限らない。特に四葉だ。今も鈴凛と一緒に動いているはずだが油断はできない。
 四葉をうまく操ろうと思えば、何よりもこちらがボロを出さないことが重要だ。動くものを見ると何にでも手を出す、まるで子犬のような彼女だ。こちらが意図した方向へ動いてもらうには相当の注意力と忍耐力が必要となる。
「うちゅーじーんーだー」
 向こうでは宇宙人の声真似はやらないらしい。
 当初はぽかんと口を開けながらに見ていた帰国子女組だったが、四葉も春歌もすぐに順応した。四葉は皆に混じって大声で、春歌は人目を忍んでこっそりと。さすがの大和撫子も好奇心にはかなわなかったらしい。
 だが、そんな中にあっても亞里亞だけは決してやろうとしなかったのだ。他の姉妹たちが扇風機で遊んでいる様子をじっと見つめているだけで、千影が促しても首を横に振るばかり。今思い返すとひどく奇妙な光景だったが、何か彼女なりのこだわりでもあったのだろうか。
「――宇宙人、か」
 つま先でスイッチを押して首振りにし、千影はそうひとりごちた。
 千影はおもむろに立ち上がると、鏡の前に立ってバスタオルをばさりと払い除けた。
 多少痩せぎすだが均整の取れたプロポーション。脇腹には肋骨の描く陰影がうっすらと浮かぶ。日頃から露出を抑えていることもあり、肌の白さは陶磁器を連想させる。
 赤い前髪から垣間見える瞳の青が、鏡の中をゆらゆらと泳いだ。
「私は……我々は、何なのだろうな」
 肌の色も髪の色も瞳の色も、全ては母から由来するもの。千影はそう信じて疑わない。
 本当の父を知ろうと思ったことはない。母が行方不明になってからの義父は人間的に破綻し切っていた。それでも、見知らぬ実の父親よりはずっと父親らしかった。
 千影が追い求めていたのは母だった。思い出しうる最も古い記憶の中に、わずかに残る面影。
 この体が母から授かったものだと思えば、全てが受け入れられる気がした。――そう、この忌まわしい『力』すらも。
 最初に自分の『力』に気付いたのは十二歳の誕生日を迎える直前、ちょうど八年前のことだった。
 学校からの帰り道にその野良犬はふらりと現われた。
 千影はその白い雑種をよく見知っていた。給食で食べ残したパンを与えるうちに仲良くなり、家に帰るまでの道を一緒に歩いたりもしていた。それまでに鳴き声すらも聞いたことがなく、千影は何かの病気を疑ったほど。それぐらいに優しげで可愛らしい雄犬だった。
 いつもなら頭をなでたりして適当に遊んであげていたところだが、その日の千影は帰路を急いでいた。じゃあね、と手を振って脇を通り抜けようとした途端に彼が豹変した。千影のスカートに噛み付いたのだ。
 普段と違う彼の様子に千影はひどく戸惑った。なだめて落ちつかせようにも、触ろうとすれば唸り声をあげる。牙はがっちりと噛み合わされ、このまま引っ張ればスカートを犠牲にするしかない。だが、それはできない相談だった。せめて誰かが通り掛れば――。
 千影の焦りと恐怖とが最高潮に達した刹那、それは起こった。
 視線が交錯したと思うや、彼は甲高い一声を残して一目散に逃げ去ったのだ。
 初めはその犬の天敵か何かが来たのだろうと思い、特に気にも止めなかった。だがあくる日、ばったりと出くわしたときの怯え方が昨日の異常を物語っていた。尻尾は後足の間へ力なく垂れ下がり、耳は極限までべったりと伏せられ、そのどちらもまるで切り取られたかのよう。無造作に近寄いた千影と目が合うや脱兎のごとく逃げ出し、ついには町からも姿を消してしまった。
 その二日を通して、千影は特に何をしたわけでもない、ただ、目を見ただけだった。
 次の日曜日、隣県の駅に降り立つ千影の姿があった。自分で立てた仮説を実証しようと考えたのだ。
 地元でやろうとしなかったのは、万が一の事態を怖れてのことだった。千影の赤毛はあまりに目立ち過ぎる。何か事が起きても、騒ぎが県境を越えることはないと踏んだのだ。
 よそいきの服を着て、手には家庭科の時間に作った手提げ袋。これなら玄関や庭先を覗き見ても怪しまれることはない。親戚の家へ遊びに来て道へ迷ったのだろうと勘違いしてくれるはず。こういう点で千影は恐ろしく狡猾だった。
 千影は手頃な大きさの犬を見つけ次第、片っ端から目を覗き込んだ。あるときは大きく見開いて、またあるときは糸のように細く。
 しかし、何度繰り返してもどの犬を試しても結果は同じだった。親しげに尻尾を振るか怪しんで吠え立てるかのどちらかで、異変らしいことは何も起こらなかったのだ。
 二度目の異変は、がっくりとうなだれながらに家路へ着こうとしたそのときだった。
 いつの間にか彼のテリトリーを侵略していたのだろう、真っ黒な大型犬が柵の隙間から顔を突き出して千影のブラウスに噛み付いたのだ。よほどに機嫌を損ねていたのか、千影が手提げ袋を振り回して叩いても離そうとはしない。
 ずっと歩き通しで疲労の極地にあった千影は苛立ちを募らせ、怒りの眼差しで黒犬を『見た』。
 その一睨みは劇的だった。
 彼は、ぎゃん、と魂消たような悲鳴と共に後へ飛び退った。小屋の陰に隠れて尻尾を丸め込む黒い塊を見下ろしながら、千影は悦びに身を震わせた。
 それは、千影が絶対的な『力』を得た瞬間だった。
 その後はどこをどう歩いて帰ったものか何一つとして覚えていない。覚えているのは体の奥底からふつふつと湧き上がる高揚感。その夜はついに一睡もできなかった。
 千影が自らの『力』の名を知ったのは、それから数日後の学校の図書室。ギリシア神話、バジリスクの項にそれはあった。
 見たものに災いをもたらす魔性の眼――邪眼。
 卒業式を終えて中学が始まるまでの間、千影は邪眼を自らのものとすることに夢中になった。
 とにかく休日が待ち遠しかった。怒りや恐怖といった負の感情が鍵とわかったのはいいが、使おうとするたびに感情を最大まで昂ぶらせる必要性があるのはあまりに効率が悪い。いつでもどこでも使えるようにする。それが千影の狙いだった。
 真面目に取り組んだ甲斐あって、春休みが終わる頃にはほぼ自分の思い通りに使えるようになっていた。秘密の露見を怖れるあまり、電車での移動圏は二時間にまで拡大していた。ようやく手中に収めた力だ。わずかな労を惜しんで失いたくはなかった。
 使う前の下準備――力の制御方法や構え方――を自己流ながら確立させたのもこのときだ。
 ただし、これらは全て犬を相手にした場合で、人間を相手にはまだ試したことがなかった。自分の力がどこまで通用するのか。もしも、人間に効かなかったとしたら。その時の千影には次の一歩を踏み出す勇気がなかった。せっかく得た自信を崩したくはなかった。
 しかし、その機会は意外にも早くやってきた。中学へ入って間も無く、生徒指導の教師に赤毛を咎められたのだ。
 母がハーフだった、と説明する千影を無視し、教師はタバコの煙を吹き掛けながらこう言い放った。
『親が外人だか何人だか何だか知らないが、どうせ男絡みの蒸発なんだろう。親が親なら娘も娘だな』
 母を侮辱された千影に何ら躊躇いはなかった。
 千影は今でも思い出す。恐怖に歪み切ったあの顔を。
 ほんの数瞬前まで自分を蔑み、見下していた凡人の心を微塵に打ち砕くのは本当に気持ちが良かった。その頃密かに覚えた自慰行為の比ではない。自分がただの人を超え、唯一の存在になった瞬間。今まで疎まれてきたのは母がいないせいでも、この髪の色でもない。自分が特別だからだ。特別な自分に嫉妬しているからだ。
 千影は有頂天になった。
 何かあればすぐに邪眼を向け、苦痛を与えた。ある者は真っ青な顔で千影の足元にひれ伏し、またある者は腰を抜かして失禁した。
 千影は喜びの絶頂にあった。
 物理的に何の危害も与えられなかったが、それが結果として千影に幸いした。人々は異変の中心にいた千影を疑うも、どれだけ調べたところで証拠は出て来ない。出て来るはずもない。
 千影はますます疎まれるようになった。
 噂が見えない壁を築き、クラスでは孤立した。教師ですらも千影を避けた。
 それでも、千影は有頂天のままだった。
 邪魔者は追い払えばいい。そのための力だ、何を悲しむ必要がある? 孤独に苛まれたところで、この力を友とすればいいだけの話だ。いや、あの人だけは――兄くんだけは。私と兄くんの間を邪魔するあいつ――咲耶も、これさえあれば。
 だが、昂ぶる千影の心に冷水を浴びせたのは他ならぬ咲耶だった。
 当時の千影と咲耶の関係は最悪に近かった。今でこそ日曜には連れ立って出かけるほどの間柄だが、その頃は本当に些細なこと――兄の隣に座った回数や手を取った回数など――でしょっちゅういがみ合っていた。無論、兄の前で争うほど愚かな二人ではない。
 発端は咲耶の抜け駆けだった。咲耶が姉妹間で取り交わされていた約束を破り、アポなしで兄の家に直接押し掛けたのだ。これには温厚で知られる鞠絵ですらも声を荒げるほどで、千影に至っては怒髪天を突かんばかりに怒り狂った。
 同い年ということで、千影と咲耶は何かにつけてよく比較される。当然、お互いに意識する。千影は何としても咲耶に仕返しをしてやりたかった。後腐れのない方法。自分の仕業と気付かれない方法。
 そして千影は閃いた。邪眼がある、と。
 折りしも数日後に、兄妹全員で集うクリスマスパーティーが予定されていた。気合は十分。あとは必殺の一撃を咲耶にお見舞いするのみ。お膳立てはすっかりと整っていた。
 三々五々に集う姉妹たち。最後に兄と、その腕にしがみつく咲耶の姿。咲耶は千影を認め、ちらと一瞥を送った。侮蔑と嘲りを含んだその眼差しに千影は怒りを爆発させた。
 千影の力が解放されるや否や咲耶は白目を剥いて失神し、その場にどっと崩れ落ちた。今までで最大の威力。もちろん千影を疑う者はいない。
 これでいい。これで兄くんは私のもの。――浅はかにも、そのときの千影の心は喜びに満ちあふれていたのだ。
 だが時間が経つにつれ、歓喜に震えていた体が恐怖で震えるようになった。
 咲耶の意識が回復するまで兄が付きっきりで看病したという事実も、千影に動揺をもたらした。しかし、それだけではない。
 千影が怖れたのは、邪眼の存在が兄に知られることだった。意識が戻った咲耶は兄に何と言うだろうか。『あの子に睨まれた途端、目の前が真っ暗になったの』。千影の周囲で起きている異変は兄の耳にも入っている。兄が疑いの眼差しを向けるのは時間の問題だ。そうなれば全てが終わる。兄の視線から逃れるか、さもなくば兄に『視線』を向けるか。
 千影に選択の余地はなかった。
『何があっても僕は千影ちゃんの味方だよ』
 やさしく手を取って励ましてくれた愛しい人に、憎しみの眼差しを向けることなどできるはずもなかった。その夜、千影は泣きながら荷物をまとめた。兄にもう会えないのならここにいる必要はない。このとき千影は、初めて自分の『力』を呪った。血を呪った。
 が、結局は千影の杞憂に終わった。咲耶の失神は寝不足による貧血と診断され、咲耶本人も前夜はなかなか寝付けなかったと告白したのだ。
 千影はその日を境に邪眼を使うのをやめた。
 異変の起こらなくなった千影の周囲には人が戻り、また千影自身も努めてその他大勢の中に紛れようとした。しかし、『力』への誘惑がなかったわけでもない。どこか心の奥底では『その他大勢』を蔑む気持ちがあった。
 今の千影を支えているのが亞里亞なら、亞里亞に出会う前の千影は邪眼によって支えられていたも同然だ。
 『力』を怖れ、『力』の露見を怖れ、他人の眼差しを怖れるあまりに築いた壁を乗り越えて来たのは亞里亞が始めてだった。そして、千影に怖れを抱かなかったのも亞里亞だけだった。
 その亞里亞に疑惑の視線を向けさせようとしたじいやを敵視するのは当然の行いだった。
 人間相手に邪眼を使って逸らされたのは彼女が初めてだった。
 だが、彼女に特別な才能があるとも思えない。ただのメイドだ。やはり、ブランクが長過ぎたのだろう。
 急に寒気を感じた千影は、バスタオルを拾い上げて再び体に巻き付ける。
 ふと鏡の中の自分と目が合い、千影は思わず顔を近付けた。
 淡いブルーに縁取られた虹彩。
 色素の少ない瞳は強い日差しに弱く、千影はいつでも影の中にいた。名は体を表わすとはよく言ったものだ。
 おかげでほんの少しでも月明かりがあれば、電気を点けずとも平気で歩く事ができる。皆で一緒に暮らしていた頃は、そのせいで他の妹たちに悲鳴を上げさせたこともよくあった。驚かなかったのは亜麻色の瞳を持つ四葉と、千影と同じ瞳を持つ亞里亞だけだ。
 亞里亞とは時々、夜の散歩に出た。網膜に突き刺さる水銀灯の光を一緒に避けて歩いたことが、今ではとても懐かしい。――この子と私は同じ景色を共有している。それが千影にはとても嬉しかった。
 だが、それだけに亞里亞が心配でならない。
 亞里亞と血の繋がりを感じるたびに心配が募る。髪の色素は薄く、瞳の色は同じ。ならば『力』とて。
 『力』に目覚めたあの日、自分は血の臭いを漂わせていた。あれは下校途中のアクシデント。思えば、あの犬はしきりに鼻を鳴らしていた。
 ふと、じいやの言葉が脳裏に蘇る。
「――違う」
 千影は激しくかぶりを振った。
 髪に残った水気が千影の顔をしとどに濡らす。
 かたかたと震える自分の体を両手で抱き締め、
「そんなこと、あってはいけない。あの子が私のようになっては――」
 かたん。
 密やかな背後の音に千影は振り返った。
「誰だ!」
 千影は咄嗟に身構えた。
 扉の細い隙間から覗き見る者がいる。鋭い視線を注ぐうち、やがてゆっくりと隙間が広がってゆく。
「……り、鈴凛」
 自ら名乗った人影は引き攣った笑顔を貼り付かせながらも、つかつかと入り込んできた。
 千影は手の甲で額の水滴をぬぐいながら肩をなで下ろす。
「何だ、驚かさないでくれ」
「驚いたのはこっちのほうよ。ドアノブに手を掛けたと思ったらいきなり怒鳴られるんだから。ホント、びっくりした」
 鈴凛はぶつぶつと小言を口にしながら、手にした着替えをばさりと投げ置いた。
「はい、これ。CCDカメラの設置箇所。千影ちゃんが言い出しっぺなんだからちゃんと確認しといてよね」
 鈴凛は千影から顔を背けたまま、四つに折り畳んだ紙を突き出した。千影はそれを受け取ると、籐の椅子に腰掛けて開き見た。
 方眼紙に黒のサインペンで屋敷の見取り図が大雑把に書かれ、ところどころにコーン状の図形が赤で記されている。どうやらこれがカメラの視界らしい。
「ヘアピンぐらいのサイズのだけど一晩ならバッテリーは十分に持つし、暗視能力もそこそこ。無線で映像が飛ばせるから、リアルタイムでの監視もOKね。混線しないようにセットするの大変だったんだから。それにしても、四葉ちゃんがこんなにカメラ持ってるなんて全然気付かなかったわ。でも、アタシの持ってきたのと合わせて結構な数になったから、だいたいの位置はカバーできてると思うよ」
 鈴凛は衣服を次々と脱ぎ捨てながら一人で喋り続ける。
「ちょっと待ってくれ」
 配置図に目を落としたまま、千影が呼び止めた。
「何? アタシ、これからお風呂だから後にしてほしいんだけど」
 見ればわかるでしょ、とばかりにつっけんどんに言い放ち、鈴凛はTシャツを脱ぐ。無造作に投げ捨てたゴーグルが鈍い音を立ててごろりととぐろを巻いた。
「だめだ。配置に納得できない場所がある」
 顔を上げた千影は妹の肉感的な下着姿に一瞬目を逸らすが、やがて思い直し、椅子を蹴って歩み寄る。
「鈴凛くん」
 鈴凛の瞼は不規則に小さく痙攣し、うなじから二の腕へと降りる曲線は明らかに強張って見える。
「鈴凛くん」
 おぼつかない手つきでブラのホックを外そうとする鈴凛の手首を、千影がぐいっと掴んだ。
「邪魔しないでよ」
 鈴凛はさすがに表情を険しくし、声を荒げた。
「鈴凛くん、私の話を聞くんだ。いいね?」
 千影は間近に顔を寄せて早口に告げる。それでも鈴凛は千影を見ようともしない。
「いやよ。やるべきことはやったんだから後は自由にさせて」
「カメラでの監視はそもそも私の発案だ。ここは私に従え」
 冷やかな声で命じる千影にも口先だけは怯むことなく、鈴凛は真っ向から反論する。
「設置したのはアタシよ。素人は口を出さないでくれる? 少ない台数でカバーできるようにちゃんと考えてあるんだから。角度とか」
 千影は掴んだままの鈴凛の手首を軽く捻り上げた。鈴凛の顔が苦痛と怒りに歪み、ようやく千影を睨みつけた。が、目が合ったと思うやすぐに顔を背ける。
「離してよっ。このままじゃ何もできないじゃない」
 千影は無言のまま鼻を鳴らし、手首の縛めを解いた。鈴凛は握られて赤くなった箇所をしきりにさする。
 その間に、千影は鈴凛の正面へゆらりと立った。その動きの意図を察してか、鈴凛が眉間に皺を寄せる。
「――で、何が気に食わないの? アタシの態度? それとも、胸の大きさ?」
 グラビアアイドルがよくやるように、腕を組んだ鈴凛は重量感のある胸を下からぐいっと押し上げた。腕の動きに合わせ、二つのドームが重々しく変形する。
 鈴凛は姉妹の中でもとりわけ肉付きがいい。元より骨太な体格をしていることに加え、普段からメカ鈴凛などの重量物を取り扱ってこともあり、適度に付いた筋肉が一見して中性的な鈴凛の魅力を増している。その恵まれた体はあけすけな物言いとあいまって、異性のみならず同性からも人気が高い。一時は彼女を『お姉さま』と慕う同級生もいたほどだ。
 同性受けするという面では千影も同様だが、鈴凛とはそのベクトルがいささか違う。男女の比率にあまり差のない鈴凛に対し、千影は圧倒的に同性が多かった。鈴凛に求められているのが気風のいい姉御だとすれば、千影に求められているのは宝塚の男役だ。奇抜なファッションセンスがその傾向を一層に際立たせる。
 兄以外の男性に言い寄られたところで嬉しくもないのだが、胸の大きさに拘る男性が多いという事実は千影を密かに悩ませている。愛しい兄もそんな連中と同じではないのかと思うと、やり切れなさばかりが募る。
 何しろ、千影の胸は平均と比較してもささやかなものだ。高校を卒業するまでの間、ずっとジュニアブラを着用していたほど。千影としては、胸のサイズなどといった通俗的なテーマに対して無関心を装うための偽装だったのだが、どれだけ騙せていたかは定かでない。ともかく、じいやに見咎められなければずっとそのままだった可能性はある。
 千影は内心で歯噛みして苛立ちを募らせるが、鈴凛の口元が固く引き絞られていることに気付き、すぐに冷静さを取り戻した。
「私は四葉くんと違う。場の空気をわきまえない冗談は嫌いだ」
 八つ当たりにも近い憤りを全身から迸らせた。
「やっぱダメだったか。四葉ちゃんならすぐ乗ってくれるのにね」
 鈴凛は力なく笑い、わざとらしい仕草で肩を竦めてみせた。支えを失った胸がゆさりと落ち、千影の神経を逆撫でた。
「それで、千影ちゃんはどうしたいわけ?」
 鈴凛がショートボブを掻き上げながら千影に訊いた。
「では、単刀直入に言おう」
 図面を鈴凛の目の前に突き出し、千影が一息に問い質した。
「なぜ亞里亞くんの部屋にカメラが仕掛けてある」
 鈴凛は千影をじっと見据え、一歩も退かない。
「それじゃ逆に訊くけど、どうして亞里亞ちゃんの部屋に仕掛けちゃだめなのかしら?」
 二人は瞬きも忘れ、しばし睨み合った。
 先に目を逸らしたのは千影だった。
「――亞里亞くんが犯人のはずはない。そんなところに仕掛けるより、もっと別の場所にしたほうがいい」
 千影の変調を敏感に悟った鈴凛がここぞとばかりに反撃へ出る。
「まるで犯人がわかったような言い方ね、それって。だったらさ、アタシにも教えてくれない? そしたら考えてあげてもいいから」
 今までとは逆に、鈴凛は千影から視線を離そうとしない。
「それは……できない」
「できない?」
 千影の返事に鈴凛が眉を吊り上げる。
「嘘ね」
 鈴凛が鋭く叩きつける。「言えない、の間違いでしょ?」
 千影はキッと睨み返した。が、それによって、自分の嘘を図らずも曝け出したことになる。
 数瞬後、自らの失態に気付いた千影は歯噛みをし、羞恥に頬を染めた。
「しかし、どうしてそんなことを……」
 千影は顔を伏せて、問いを繰り返した。
 無表情に千影を見やる鈴凛だったが、やがて小さくため息をつき、
「取り付けたのは亞里亞ちゃんの部屋だけじゃないの。まあさんたちの部屋にも仕掛けさせてもらったわ。もちろん、承諾を得てね」
 千影の手から図面を手繰り、上の離れの一画を指した。
「それと、じいやさんがアタシたちと同じ部屋で寝たいって言ってた。二階の奥のゲストルームね」
 今度は母屋の二階を指差した。亞里亞の部屋とウサギ小屋のちょうど中間のあたりだ。
「一緒に不寝番をやってくれるってさ。もちろん、アタシたちはOKしたけど。でも、千影ちゃんがノーって言えばやめるって」
 千影は顔を上げた。鈴凛と目が合いそうになり、顔を背けて壁紙の模様を見た。
「あの人がそんなことを言ったのか。しかし、どうして」
「それは、千影ちゃんのほうが知ってるんじゃないの」
 鈴凛の腕は彫像のようにがっしりと組まれている。身長は千影が一回りほど上回っているが、肩幅は鈴凛のほうがやや広い。今の鈴凛は体格もあいまってひどく威圧的に感じられる。
「んで、どうするの? 後は千影ちゃん次第なんだけど」
 首を少し傾げ、顎を向ける鈴凛。千影は無意識のうちに上体を心持ち退かせ、間を置いた。
 じいやの動きが気になるだけにこれは渡りに船というものだ。あるいはじいやのほうも何かを目論んでいるのかもしれない。自らの潔白を証明してみせるためか、あるいは千影を目の届く範囲内に置くためか。どちらにしても悪い話ではない。
 千影は大きく頷いた。
「わかった。こちらとしても望むところだ。人手は多いに限るし、それに――」
「じいやさんが何を考えてるかわかるから?」
 ふっと口元を歪めた千影は、
「きみは何か勘違いしているようだな」
 腕組みをして鈴凛に対抗した。
「そうね。アタシも自分の勘違いだったらって思う」
 答える鈴凛の顔色にふと憂いが混ざる。眉根を少し寄せると、
「さっき、じいやさんと何を話してたの?」
「きみたちに話した通りのことだ」
「それも嘘ね」
 鈴凛は一刀に切り捨てた。
「どこで得た根拠がその台詞を言わせるんだ」
 一歩詰め寄る千影に、
「知りたい?」
 鈴凛が頭を後に反らせ、挑戦的に問い掛ける。
「いや、いい」千影はかぶりを振る。「言わずとも結構だ。四葉くんのように下らないこじつけを展開されてはかなわないからな」
「そんなこと言って、本当は怖いんでしょ?」
 千影は瞬間的に大きく息を吸い込むが、怒鳴るのだけはかろうじて踏み止まった。一度に酸素を取り込み過ぎて瞬間目がくらむ。
「つい先ほどまで私の視線に怯えていたのはどこの誰だったかな?」
「それ、本気で言ってる? 今、このアタシと目を合わそうとしないのはどこの誰よ?」
 ぴたん、と水滴の落ちる音が浴室で響いた。
「――私を挑発して何を引き出すつもりなんだ。きみは」
 呼気を吐き出しながら千影は目を伏せる。
「さぁて、千影ちゃんは何だと思う?」
 幾度となく繰り返される問い返し。さしもの千影もそろそろ我慢の限界だった。
「いい加減にするんだ。きみはさっきから、私の質問に質問で返してばかりだ。ふざけるのも大概にして欲しい」
 千影は努めて静かに反駁した。
 だが、鈴凛は意に介する様子もない。腕はがっきと組まれたままで、千影を拒んでいる。
 千影は籐の椅子を足で引き寄せ、腰を下ろした。体重の掛かった椅子がみしりと軋む。
「わっからないかなぁ」
 鈴凛が皮肉めいた口調でからかう。
「アタシ、千影ちゃんの真似をしてるだけなんだけど」
「私の真似だって?」
「そ、千影ちゃんの真似」
 鈴凛は腕を頭の後に組み替えると、そのままゆっくりと壁にもたれかかった。
「ずるいよ、千影ちゃんって。質問に質問で返して、それだけで話を進めてる。自分のカードは温存しておいてさ、相手してるアタシたちのばかり場に出させてる。そんなの、フェアじゃないよ」
 と、鈴凛は俯き、
「アタシたちを騙すのって、そんなに楽しい?」
 最後は小声で呟いた。
「騙すなんて、そんな人聞きの悪い」
 自分でも心当たりがあるだけに、千影の抗議も弱々しかった。
「これは、癖みたいなものなんだ」
「癖?」
「そう、癖だ」
 千影はぼんやりと繰り返した。
「タロットをやっていると自然にそうなるものさ。タロット占いはカードに与えられた意味が全てじゃない。あれは問題を解決するための糸口に過ぎないんだ。相手の望む答えを引き出すためのね」
「誘導尋問ってやつ?」
「うん、いいね。その答えは」
 千影は女教師のように誉めた。
「他に質問は」
 鈴凛が肘から先だけを挙げた。
「本当にそれだけが理由なの?」
 太ももに両の肘をついた千影は背中を丸め、口元を手で覆った。
「それを知って何とするね、鈴凛くん」
 今度は老教師のようにしわがれた声で尋ねる。
「別に何も。知りたいって思ったから聞いただけ」
「その答えは、あまりよくないね」
「それはどうも。出来の悪い妹で悪うござんしたね」
 鈴凛はそっぽを向いて拗ねた風に言う。千影も顔を反対に逸らせた。
 顔は互いにあらぬ方を向きながらも、視線だけはこっそりと互いの様子を窺い見ている。
「――知られたくないことがたくさんあるからね、私は」
 おもむろに放たれた千影の告白に、鈴凛がうろんな目をした。
「でも、それって――」
「ああ、寂しいよ。とてもね」
 あっさりと千影は認めた。
「私は怖いのさ。真実を知ることがね」
 自嘲めいた笑みを浮かべる千影。「だからこそ、私は皆を知る必要があるんだ」
「敵を知り己を知れば百戦危うからず、って言うけど」
「まあ、そんなところだ」
 千影はやけ気味に小さくバンザイをし、ニヤリと笑う。
「皆がきみぐらいに賢ければいいのにな」
 鈴凛はぎこちない笑みを浮かべて首を横に振った。
「でも、おかげでやっとわかった」
 言いながら、鈴凛は片足をぶらぶらとさせる。
「昔、みんなと一緒に住んでた頃だけど」
「ああ」
 千影は相槌を打ちながら、何気なく鈴凛のつま先を追った。
「千影ちゃんってそうやって座りながらさ、アタシたちのことじっと見てたよね。それも、全然目立たないリビングの隅っこから」
 少し気まずそうに千影は頭を掻いた。
「――そうか、きみは気付いていたのか」
 鈴凛の指摘通り、他の姉妹たちの観察を趣味としていた時期が千影にはあった。その頃は亞里亞がまだ『妹』ではなく、千影は姉妹の中にあっても孤独を貫いていた。
 それだけに、まずは自分の役割を見定める必要があったのだ。この集団の中で自分は何をすればいいのか、何をしなくてはいけないのか。そして、どうすれば兄を己の手中にできるのか。当時の千影にとって、全てはチェスの駒でしかなかった。
「そりゃあ、普通は気付くって。だって、何やってても背中にピリピリ来てたもん。おかげでアタシは自分の部屋に篭りっきりよ」
 数年越しの苦情に千影が苦笑いする。
「それは大方、きみが敏感過ぎたんだろう」
「まさかぁ。みんな知ってたよ。気付いてなかったのは四葉ちゃんと花穂ちゃんぐらいよ」
「……そうなのか?」
 そう答える千影の声にはかすかな動揺が混じっている。
「あんなに鋭い視線を向けられたんじゃ、気付かないほうがどうにかしてるって」
「では、わざと気付かないふりをしていたとか」
 物憂げに千影が訊く。鈴凛は口の端だけで笑うと、
「別に共謀してたってわけじゃないよ。あの頃って暮らし始めたばかりで、お互いに腹の探り合いで忙しかったからね」
「つまり私は、取るに足らない存在だったということか」
 千影が仏頂面を作る。「しかし、それはそれで気分が悪い」
 鈴凛は、まあまあ、という風に手のひらを上下させると、
「でも、咲耶ちゃんは結構気にしてたかな。気持ち悪い、ってしょっちゅう」
「気持ち悪いだって?」
 鈴凛は大儀そうに、重く頷いた。
「――目よ」
 その呟きに千影は総毛立った。心臓がぎこちなく収縮し、脈が一気に高まる。
「千影ちゃんの目。氷のように冷たくて鋭い視線。蛇みたいって、咲耶ちゃんが言ってた」
 千影は内心の動揺を悟られぬよう、すっと目を細めた。
「それだけかい。彼女が言ってたのは」
「何よ、それ」
 変なことを訊く、という表情で鈴凛は千影を見た。
「いや、ちょっと気になったことがあってね」
 千影は何気ない振りを装って話を逸らせた。
「それにしても、私の視線というものはそんなにもいやらしいのかね」
 ため息混じりに言ったので、それは老婆のようにも聞こえた。
「ん、昔はね。けっこう嫌だったけど。今は普通に優しいっていうか、まあ、普通にクールな目付きってやつかな。もちろん、亞里亞ちゃんを見てるときは別。いわゆる『アフター姉や』は伊達じゃないのね」
「何だい、それは」
 奇妙な言い回しに千影はうすら笑いで応える。
「亞里亞ちゃんの姉やになる前と後のことよ。千影ちゃん自身は気付いてないかもしれないけど、本当に全然違うの。視線だってそう。何度でも繰り返すけど、昔はホントにキツイ目してた。今にもざっくり突き刺さりそうなぐらい。本気で睨んだら心臓マヒ起こさせてたかも」
 千影の動揺が椅子をみしりと鳴らした。冷や汗がうなじを伝わり落ちる。なんだって彼女はこんなにも鋭いのだろうか。
「――さっきのことだけどさ」
 低く沈んだ鈴凛の声色が千影の耳を打つ。
「さっきの、アタシたちが戻ってきたときの千影ちゃんの目」
 鈴凛は両のこめかみを片手で挟んだ。まるで、千影と目を合わすまいとするかのように。
「昔の目、してた。心を串刺しにしそうな、あの目」
 うめくように言うと、鈴凛は壁に背をつけたままでずるずると腰を落とした。
「そんな目になるなんて、きっと何かあったんだって思ったの。ついさっきまでは何ともなかったのに、アタシたちが席を外してたほんのちょっとの間で昔に戻ってた。だから、じいやさんと何かあったんだって」
 鈴凛が引き攣るように喉を鳴らす。その音がやけに大きく聞こえた。
「でも、今は何ともないじゃないか」
 はっきりと言い切ったつもりの千影は、自分の声がひどく小さく、頼りないことに驚いた。とても、驚いた。
「気のせいだ。何もないよ」
「気休めはやめてよ!」
 鈴凛が激昂しざまに勢いよく立つ。
「そうやっていつも誤魔化してばかりじゃない。ふざけないでよ! アタシのこと、アタシたちのこと、何だと思ってるのよ! 姉妹でしょ? 家族なんでしょ? 我一人関せずなんて、そんな昔みたいなこと、もうしないでよ!」
 よほどに激しているのか、鈴凛は駄々っ子のように何度も足を踏み鳴らした。どことなく四葉に似た仕草だと千影は思った。ビニル貼りの床が、ばちん、ばちん、と鈍い打撃音を発する。
「落ちついて。きみらしくもない」
 立ち上がり、伸ばされた千影の手を、「触らないで!」と鈴凛は弾き飛ばした。
「きみらしくもない? ふざけないでよ。知った風な口聞かないでよ! アタシの気持ちなんてちっとも理解してないくせに。理解しようともしないくせに」
 鈴凛は飲み込んだ涙でむせ、咳をした。
「アタシ、嫌だからね? みんながまたバラバラになるなんて、そんなの絶対に嫌だからね。そんなの、ジジ一人だけで終わりにしたいんだから。お互いにいがみ合って、罵り合って、ケンカもして、それでやっと家族になれたのよ。血の繋がりとかそんなの全然関係無しに、知り合いとか義理の姉妹とかそんなちゃっちいのじゃなくて、本当の、本物の家族になったんだよ?」
 だん! と両手を壁に叩きつける鈴凛。そのまま上半身を突き出し、憤怒の表情を千影に向けた。
 が、その顔がすぐに下を向いた。
「それなのに千影ちゃん、隠し事してる。嘘ついてる」
 震える声で鈴凛は言った。
 千影は否定しなかった。
「家族だからこそ、隠さなきゃいけないこともある。無用な不安を与えたくないんだ、私は」
 代わりに半分嘘をついた。
 千影は鈴凛の肩にそっと手を置いた。鈴凛の震えが腕を通して伝わってくる。
 肩の重みで言葉を封じられたように口を閉ざす鈴凛だったが、それを振り解くや千影をキッと睨みつける。
「千影ちゃんの言うことはわかる。わかるけど、それってアタシたちのこと全然信用してないってことじゃない。やっぱりそんなのって悲しいよ。亞里亞ちゃんと千影ちゃんが信じ合ってるみたいに、アタシのことも信じてくれないの?」
 千影を凝視していた鈴凛の瞳がたちまちに潤んだかと思うと、とめどなく涙が溢れ出た。
「アタシ、千影ちゃんのこと信じてもいいの? アメリカから帰って来たらみんなバラバラでもう会えなくなってたなんて、そんなの嫌だよ? だから、はっきり言ってよ。約束してよ。全然、何もないって。大丈夫、だって……」
 千影は崩れ落ちる妹の体を抱き止め、その場にゆっくりと座らせた。
 筋肉質な鈴凛の二の腕に、千影は少し戸惑う。そういえば、彼女をこうして抱き止めるのは初めてなのだ。いつもは亞里亞の柔らかな体ばかりで。
 鈴凛は千影の腕の中で嗚咽を漏らし続ける。
 慰めようと手を伸ばす千影だったが、亞里亞と同じ方法でいいのかと少し迷う。が、他に思いつくはずもなく、結局はいつものやり方を選んだ。
 後頭部をなでる千影の手にびくりと全身を揺らす鈴凛だったが、ようやく一心地ついたのか、千影の胸にそっと体重を預けた。
 亞里亞と同じ仕草をする鈴凛に、千影はふっと口元を緩める。
 鈴凛がもっとなでろと言わんばかりに頭をぐりぐりと押しつけた。
 千影は請われるまま、ひたすらなで続けた。請われるというよりは、脅されたとしたほうが正しいだろうか。ちょっとでも手を休めると頭をぐりぐり。そんなことが幾度も繰り返された。
「まだ続けなきゃいけないのかい?」
 作業に倦んだ千影が遠慮がちに訊いた。
「まだよ、まだ」
 非情な鈴凛の声が即座に飛ぶ。
「いい加減にしてほしいな。亞里亞くんでもこんなにねだったりはしないぞ」
「立場が違うわよ。亞里亞ちゃんはいつも姉やにしてもらってるじゃない」
 鈴凛は鼻を一度すすった。
「だって、こんなときにでもないとなでてもらえないの。かわいそうでしょ? アタシって。いっつも四葉ちゃんをなでてばかりでさ」
「それなら、きみが手を出さなければいい。たまには根比べでもしてみるんだね。あるいは交換条件を出してみるとか」
 はぁ、とため息が聞こえ、バスタオル越しに千影の胸元が熱く湿る。
「やれるものならとっくの昔にやってるわよ。いつもベタベタつきまとうくせに、アタシが留学に行くって決めた途端に口もきいてくれなくなって挙句の果てに一週間も家出しちゃうし」
 と鈴凛は、嫌なものを思い出したという風に唸り声をあげた。
「ホント、あのバカよつと来た日にはもう! どこうろついてたのかと思ったら花穂ちゃんの家に転がり込んだっていうじゃないの。アタシ、ケーキ買ってお詫びに行ったんだから。一週間分の食費にもならないけど、少しだけお金も包んだし」
「きみもかなりの苦労性だね」
 手を止め、千影はしみじみと言った。すかさず鈴凛がぐりぐりと催促する。
「思うに、きみは少し考え過ぎではないのかな。自ら苦労を背負い込んでいるというか」
 そういえば似たようなことを誰かから言われた気がする。
「私が言うのも何だが、きみはもう少し子供らしくしたらどうだろうか」
 ふと、千影の視界が小刻みに揺れ始めた。地震? ……いや、違う。鈴凛だ。鈴凛の体が震えている。
「――ねぇ、千影ちゃんって」
 地の底から轟くような低い声。千影は危険を察知して腰を浮かしかけた。
「正真証明のバカでしょ!」
 がばっと身を起こし、額をくっつけんばかりに顔を寄せた。
「アタシは大人なんかじゃない、まだ十分に子供よ! 子供にこれ以上子供になれっていうの? アンタ、バカでしょ? アタシに紙おむつでも着けてよちよち歩きでもしろっていうの? ……いいわよ。やって見せるわよ。あんなクソみたいな、アタシたちをただの金蔓としか思ってない連中と同じにされるぐらいなら、そのほうがずうっと、百万倍もマシよ!」
 鈴凛は一気に怒鳴り散らす。千影の顔に唾が乱れ飛んだ。
 面と向ってバカと罵られたのは本当に久しぶりだ。前回は咲耶が相手だったろうか。あのときは取っ組み合いのケンカにまで発展したが、今は不思議と怒りの感情が湧かない。
 鈴凛の憤りにとても共感できるからだ。
 何事もなかったかのように平然と顔を拭く千影の姿に、鈴凛がハッと我に帰った。怒りの紅潮が羞恥の紅潮で上書きされたと思うや、すぐに青くなり、再び赤くなる。
「――子供だから、家族を失うのがいやなのよ」
 ようやくそれだけを言うと女の子座りのまま、もぞもぞと背中を向けた。
 手を差し出しかけて、千影は今度こそ本当に迷った。
 こんなに喜怒哀楽の激しい彼女は今までに見たことがない。激しい怒りに狂うさまはク・ホリンを死に追いやったメイヴ女王のようでもあるし、悲しみにうち暮れるようすは死を嘆き叫ぶバンシーのようにも思えた。どちらへ転ぶかまったくわからない。今の鈴凛は四葉以上に扱いにくい。
 それでも、半端な慰めが火に油を注ぐようなものとはわかる。このまま黙って立ち去れば、少なくとも彼女の自尊心を傷つけずに済む。
「ねえ、何か言ってよ」
 千影の心を読んだかのように、鈴凛が決断を促す。
 ただし、その声は蚊の鳴くほどにか細かった。ショートボブの髪から覗く耳はほんのりと赤く色付いたまま。ここまで恥ずかしがるぐらいなら我慢すればいいのに。千影はそう思った。
「それは違うぞ、とかさぁ。何でもいいの。言ってよ、千影ちゃんが今思ってること。そうじゃないと、アタシの怒鳴り損じゃない」
「それが、私に罵声を浴びせた目的なのか」
 鈴凛は背を向けたまま、
「千影ちゃんがそう思ったのなら、そういうことにしといてよ」
 恥ずかしいんだから、と小さく付け加えた。
「わかった。じゃあ、話そうか」
 まるで体育館の裏だな、と千影は思った。互いに頬を赤く染め、もじもじとしてばかりの少年と少女。本題へ入る前に、どちらが先に言うの言わないので一悶着を起こし、肝心の本題が有耶無耶になってしまう。そんな感じだ。もっとも、そういう場面を実際に見たためしはないのだが。
「やはり、きみはもう少し子供らしくしたほうがいいな」
「何よ、もう一回バカって言われたいの?」
 そう言い放ち、不機嫌そうに鼻を鳴らす鈴凛。手を出したら最後、がぶりと噛みつかれそうだ。
「まあ、言いたければいくらでも言うがいいさ。子供はそこまで考えない。よしんば考えたとしても口にはしない。子供がどれだけ叫んだところで、大人は聞いてもくれないからね。だから、子供は何も言わない。言えば小賢しいと疎まれるだけだから」
 千影は淡々と語った。
「だから、きみはもう大人だよ。無論、本当の大人ではないけどね。過渡期だよ」
「千影ちゃんだってそうでしょ。まだ十代なんだから。だったら、アタシと同じよ。大人と子供のあいだ。『子人』じゃ締まらないから、『大供』かな」
 壁に向ったままでひとりごちる鈴凛の背中が、いつもより一回り小さく見えた。
 大人になるのはそれほど難しくない。ただ、時間が流れるのを待てばいいだけだ。
 だが、自ら大人になるのはとても難しい。ある日突然に『自分は大人だ』と叫んでみたところで即座に大人になれるわけでもない。それでは裸の王さまだ。周囲に大人だと認めさせるには、それなりの手順や証が必要なのだ。王さまには戴冠式と王冠が欠かせないように。
 しかし、成人式をもって自分は大人だと自覚できる人間がどれだけいるのだろうか。参加した側も参加させた側も、誰一人として思ってはいない。期待してもいない。
 それは千影の実感だった。
 咲耶と一緒に出席したのはつい先月のことだ。本当はあまり気乗りしなかったのだが、振袖一式を携えたじいやに玄関のベルを鳴らされた以上、出ないわけにはいかなかった。嫌なら追い返せばいい、とは咲耶の言だったが。
 それでも、咲耶も思うところは同じだったらしい。式が始まるまでの時間を二人は並んで座り、何をするでもなくただぼんやりと色彩の洪水を見つめていた。旧友との再会を喜ぶ嬌声がそこかしこから聞こえたが、二人はそのいずれにも加わらなかった。
 千影には咲耶の気持ちがよくわかった。激しく憎しみ合ったほどに近い間柄だ。痛いほどによくわかった。
 表情こそ穏やかだったが、咲耶はきっと腹を立てていたのだろう。同窓会気取りの新成人たちに。ぬるみきった会場の空気に。来賓の間延びした挨拶に。そして何よりも、華やかな振袖につられてのこのことやってきた自分に。咲耶は全てに対して怒っていた。
 彼女の憤りは千影にもよく理解できた。今さらのように『私たちの仲間入りをしたんだよ』と祝福されたところで嬉しいはずがない。
 困ったときに助けてくれるのが大人のはずだった。
 だが、大人は助けてくれなかった。大人は自分たちの都合でチェスの駒のように自分たちを動かす。ならば、自分たちの都合で動いてやろう。それが、子供たちだけで暮らしたあの数年間だった。姉妹たちにとって、大人とは頼るべき存在ではなかったのだ。
 しかし、彼らを軽蔑する一方で彼らへの仲間入りを密かに期待していた咲耶と千影はまだまだ子供だったともいえるし、皮肉にも成人式という場でそれを思い知らされたのだ。
「……難しいね」
「何が? 呼び方?」
 鈴凛はわずかに首を回した。
「いや、何でもないよ」
 千影は片膝を立てて抱え、顎を置いた。
「またそうやってアタシを煙に巻くんだから」
 鈴凛が完全に首を巡らせ、千影を見た。
 鈴凛の顔を見た途端、千影は口元を押さえてそっぽを向いた。こみ上げてくる笑いを必死に押さえ込む。顔面の筋肉を引き攣らせる千影に、鈴凛がきょとんとした顔を作る。
「ねえ、どしたの? アタシの顔に何かついてるとか」
 千影は横目でちらっと鈴凛を見て激しく頷いた。もちろん、口は塞いだままだ。少しでも隙間を作ろうものなら笑いが飛び出してしまうに違いない。
 意味がわからないとばかりに口を開けているせいで、鈴凛の顔はますますおかしく見える。――両の拳を当てていたのか目の周りだけが赤く染まり、まるでタヌキのよう。襟足までの短い髪が内側に緩くカールしているせいで顔が丸く見え、より一層タヌキに見える。笑ってはいけないと思えば思うほどに笑いがこみ上げる。
 千影は上体を折ってよじりながら、背後の鏡を指差した。
 半信半疑といった風に膝で立ち、鏡を覗き込む鈴凛。その仕草が後ろ足で立ったタヌキに見え、腹を抱えながら床を叩く千影。
 素っ頓狂な叫びと爆発的な笑いが同時に起こった。
「ああっ! 何よこれ!」
 鈴凛は目の周りを激しく擦るが、よほどに強く押さえ込まれていたらしく顔の赤みは増す一方。他方の千影はくすくすと笑いながらタヌキタヌキと連呼していた。
「そっ、それ以上は、今はやめるんだね。しばらくは、タ、タヌキでいるといいよ」
 と、千影は上体を折り曲げてさらに笑う。
「悪かったわね。どうせアタシはお尻のでかいタヌキ体形ですよっ!」
 頬を膨らませた鈴凛はもっとタヌキになった。
 千影の笑いは続く。
 不機嫌そうに口をヘの字に曲げた鈴凛はまだまだタヌキだった。
 千影の笑いは終わらない。
 明らかに異常な姉に眉を顰める鈴凛はやっとタヌキではなくなった。
 程なくして、千影が目元を拭いながら上半身を戻す。
「すまない、鈴凛くん。あまりに似合っていたもので、つい」
 鈴凛がやけくそ気味に「ぽーん」と鳴いた。
「まったく、そこまで笑うことないでしょ」
 にやにや笑いをうっすらと貼りつけたままの千影に対し、鈴凛は声色だけで怒った。鏡をちらちらと見て、表情をコントロールしている。
「だから、謝ったじゃないか」
 時間が経ったので赤みは引きつつあるが、それでもまだうっすらとタヌキ模様が見える。千影は思い出しざまに小さく吹き出した。
「だーかーらー。笑わないでって言ってるじゃないの」
「わかった、わかったよ。もう笑わないからそんなに怒らないでくれ」
 千影は鈴凛の目尻が汚れているのを見ると、傍らのハンドタオルを手繰り寄せた。
「それ以上怒るとせっかくのかわいい顔が台無しだよ。ほら、顔を出してごらん」
 と、タオルを絡めた指先を差し出した。
 たちまち鈴凛の顔が耳まで赤く染まる。
「こら、アタシをまだタヌキ扱いするつもり?」
「そうじゃないよ。ただ、本当にそう思っただけなんだ」
 千影は眉根を下げて弁解した。
 千影ちゃんの嘘つき、と唇を尖らせる鈴凛に対し、
「亞里亞くんはよく泣く子だからね。それでつい、いつものように」
「ふぅん。それも癖なわけ?」
 鈴凛はぺたりと座ったまま、ずりずりと膝を詰めた。
「ああ。それも癖だ」
「でも、アタシは亞里亞ちゃんじゃない」
 少し呆れたように、鈴凛が腰へ手を当てた。
「私にとってはどちらも同じ妹さ」
 千影は口元を曲げ、穏やかに返した。
「そんなに歳離れてないでしょ。アタシは亞里亞ちゃんほど子供じゃない」
 その言葉に千影がくくっと喉を鳴らした。たちまち鈴凛の表情が険しくなる。
「しつっこいわよ、千影ちゃん。いい加減にしないと――」
「それはこっちの台詞さ。だっておかしいじゃないか。さっきは自分が子供だと主張しおいて、今は子供扱いするなときた。私はどっちの鈴凛くんを信じればいいのかな?」
 あっ、と一声発し、鈴凛は羞恥に赤く染まった顔を俯かせた。
「――千影ちゃんだって、まだ子供のくせに」
 悔しげに鈴凛が吐き捨てた。
「否定はしない」
 さらりと言い、千影は鈴凛の顎を掴んで持ち上げる。
「妹の顔を拭きたくて仕方のない私は、多分どうしようもなくわがままな子供なんだろうな」
 嬉々としてそう告げる千影に対し、鈴凛は眉を顰めて「変態!」と罵った。にも関わらず、千影の腕を振り解こうともしない。
「まったくもう。アタシは亞里亞ちゃんじゃないったら」
 鈴凛はぶるっと身を振るわせ、まるで観念したかのように目を閉じた。
「そうやってお姉ちゃんぶってさ。気持ち悪いじゃない、昔はだれにも干渉しなかったくせに。今になっておせっかい焼きたがるなんて、絶対どこか変よ」
「だからって変態呼ばわりすることないだろう」
 さすがに機嫌を損ねて声を荒げる千影。
「変態だから変態って呼んであげたのよ、千影姉や。そんなに嬉しそうにタオルを握るなんて変態そのもの。本当のことを言って何が悪いの?」
 鈴凛も負けじと言い返す。
 さらに反論しようと口を開きかける千影だったが、ふと口をつぐんで鈴凛の顎から手を離した。
 不思議そうに見つめる鈴凛に、
「そこまで言われては引き下がるしかないな」
 ふと寂しげに笑った。
 鈴凛はふうっとため息をついた。仕方ないといった風に目を閉じる。
「ほら」
 顎をぐいっと突き出した。
「ほら、拭かせてあげるから。変態姉や」
「でも、子供扱いはいやなんだろう? きみは」
 戸惑い気味に千影が言う。
「まあ、それはそうだけどね」
 鈴凛が頬を掻きながら、
「そんなに残念そうな顔してたら、こっちが悪者みたいじゃないの」
「まさか、顔に出ていたなんてね」
 憮然として千影は呟いた。
「残念ながらそれはもう思いっきり」一息に言い、鈴凛はニヤリと笑う。「そこまで残念がるなんて、よっぽど拭き掃除が好きなのねぇ」
「掃除じゃないさ。強いて言うなれば、つまり、その――」
「亞里亞ちゃんでしょ?」
 ズバリと言い当てられ、千影は思わず喉を詰まらせる。
 どう切り抜けたものかと言葉を探す千影を尻目に、
「早くやったら? アタシの気が変わらないうちにさ」
 と、鈴凛は再び目を閉じて催促した。千影は頭を振り振り手を伸ばす。
「容赦ないね。私を責めるのがそんなに楽しいのかい」
 鈴凛の鼻梁に沿って千影は指を動かした。鈴凛は気持ちよさげに鼻を鳴らす。
「それはお互いさまでしょ。アタシを泣かせた代償は重いからね。謝罪はいらないけど、賠償はしてもらうから」
「――おっと、手が滑った」
 どさくさに紛れて睫毛をピッと抜いた。千影は涙を流して痛がる鈴凛の目元を拭う。
「おやおや。これじゃあ、拭いても拭いても終わりがないね」
 鈴凛はくすくす笑いながら「マッチポンプよ」と抗議した。
「でも、何だってこれなの?」
 と、鈴凛は顔を拭くジェスチャーをする。
「さあ、どうしてだろうね」
「またそうやってとぼける」
 不満そうにふうっと息を吐く鈴凛。もごもごとタオルが動いた。
 しかし、実のところは千影にもよくわからなかった。どうしてこんなことに拘るのだろう。自分の手とタオルで隠れた鈴凛の顔を見ながら、ぼんやりと考えた。
「――笑顔、かな」
「え?」
 千影の独り言を、鈴凛は聞き逃さなかった。
「でも、最初は面倒で仕方なかったんだ」
 タオルを鈴凛の頭に回して緩く目隠しし、千影は続けた。
「放っておくと自分の体面が悪くなるからと、それで始めただけだ。きみたちにあれこれ言われるよりはマシだと思ってね。でも、亞里亞くんは笑ってくれた。ありがとうって、言ってくれたんだ。私の本音も知らずに」
 目隠しをされたまま神妙に聞き入る鈴凛は、セロひきのゴーシュに登場する子ダヌキのようにも見える。荒ぶるゴーシュの演奏を前にぼんやりと佇む子ダヌキ。いつものようにゴーグルをつけていたら、きっと丸い耳に見えたことだだろう。
「多分それで、癖になったのかもしれない。そういうシチュエーションとはあまり縁がなかったからね。誰かにお礼を言われたことも少なかった。きっと、それが嬉しかったのだろうな、私は。みんなには大したことないんだろうが。……ああ、おたふく風邪やはしかのようなものかもしれないね。何せ、歳をとってのことだから症状が重い」
 普段なら恥ずかしくて口にできない言葉も、視線を遮ってあるというだけで楽に言える。千影は自分が饒舌になっていると感じた。
「で、のろけは終わり? 千影姉や」
 反論は面倒なので、千影は「ああ」と生返事をした。
「確かにまあ、動機は不純だけど。でもいいじゃない、そういうの。ちゃんとお姉ちゃんしてるんだし」
「……そういう、ものだろうか」
 自信のなさが如実に声へ出ている。
「そういうものよ、きっと。嘘から出た真って言葉もあるんだから」
「だが、もしも、何かの拍子で亞里亞くんに知られたらと思うと、私は――」
「何を今さら。自業自得でしょ」
 ぴしゃりと鈴凛が遮る。「それまではずっと自分本位だったんだから」
「否定はしない」
 千影は諦めたように断言し、ゆるゆるとかぶりを振った。
「でもね」
 鈴凛の唇が引き絞られる。
「わかってると思うけど、みんなだって似たようなものよ。どうやったらアニキに気に入ってもらえるか、特別扱いしてもらえるか。みんな似たようなこと考えてた。周りの人間をどう使うかってね。今だってそうよ。アタシと四葉ちゃんはまさにそう。ギブアンドテイクの非情な間柄」
「きみと四葉くんがギブアンドテイクね」
 解せない、という表情の千影に「そ」とだけ答える鈴凛。
「しかし、私が見る限りでは鈴凛くんが一方的に搾取されているようだが」
「そうとしか見えなかったら、それは千影ちゃんが節穴さんってことよ」
 朗らかに鈴凛が言う。
「だが、今日これまでを見ていても迷惑を被っているのはきみのほうだろう」
「見た目はね、うん、そうよ。だけど、千影ちゃんだって同じじゃない。あんな過激な愛情表現、アタシだったらほっぺたをぐりぐりねじり上げてるところね。絶対」
 そのさまを想像し、千影は頬をさすった。思い出したかように腰の打撲の痕が疼き始める。
「そうは見えないかもしれないけど、アタシは四葉ちゃんからいろんなものを貰ってる」
 そう語る妹の唇はきゅっと引き絞られ、口調はいつになく強い。顔の上半分が隠れているせいで感情が読めず、千影は沈黙した。
 鈴凛は目隠しの結び目に手を掛けるが、まだ外そうとはしない。
「千影ちゃんだってそうじゃない。見てると大変そうだけど、でも楽しそうに見えるよ。千影姉やって。辛いことばかりだったら、とっくの間に逃げてるでしょ? 千影ちゃんは。昔からそうだったもの」
 鈴凛の口元に浮かぶ微笑みに、千影はふと眩暈を感じた。これは、妹が姉に喋る調子ではない。むしろ逆だ。まるで鈴凛が年上になったかのよう。
 鈴凛がずっとずっと先へ行ってしまったような、そんな気がした。
「だから、じいやさんも同じだと思うよ。あの人のこと、もう少しわかってあげたら?」
 ふわりと言い、鈴凛は目隠しを解いた。よし、と膝を叩いたと思うや、
「タヌキ汁になってくる」
 すっくと立ち上がり、大股で浴室に歩き出そうとする。
「まだ話は――」
 終わっていない、と膝立ちで手を伸ばす千影だったが、鈴凛の投げ捨てたタオルに足を取られ、その場にばったりと倒れた。
「鈴凛くん、話はまだ終わってない」
 床に這いつくばって見上げる千影の視線を、鈴凛はふふんと鼻で笑って一蹴した。
「ぽんぽーん。アタシはタヌキだから、人間の言葉はわからないんだぽーん」
 アニメのようなきゃらきゃらした声色でからかうと、鈴凛は下着に手を掛けた。慌てて千影は目を逸らす。
「尻尾が生えていれば、掴んで引きずり倒してやるのに」
 心底悔しげな千影に対し、全裸となった鈴凛が、
「抜いた跡ならあるけど、見る?」
 首を傾げ、自分のお尻をぱぁんと叩いた。
 数瞬後、千影の顔が真っ赤に染まる。
「げ、下品な……」
 それだけを吐き出し、鈴凛から顔を背けた。千影の狼狽ぶりに鈴凛がニヤニヤと笑う。
「ホント、千影ちゃんってからかい甲斐があるなぁ。いつも四葉ちゃんが相手だったし。ま、たまにはこういうのも悪くないね」
 満面の笑みで千影を見下ろす鈴凛に、先ほどまでの暗さは微塵も感じられない。今までのはうそ泣きだったのかと疑いたくもなる。
「外見のみならず中身までもタヌキだね、きみは」
 と、魔女のように左手で十字を切る。だが、何も知らない鈴凛がそれで怯むはずもない。
「そういう千影ちゃんはキツネね。それも、とびっきりずる賢いやつ」
 悪戯っぽく言う鈴凛だったが、ふと何かを思い出したかのように千影を凝視すると、
「あのブドウは酸っぱいって、いつまでも言ってればいいのよ」
 冷やかな声で鋭く言い放ち、脱いだ下着を丸めて千影に投げ付けた。千影が顔から払い除けたときには、ガラス戸がピシャリと音を立てて閉まっていた。
 千影は床に頬杖をつき、曇りガラスの向こうの人影が遠ざかってゆくのをぼんやりと眺めた。
 風呂へ入ったばかりだというのに、千影は早くも疲れを感じていた。頬杖がぐらりと揺れ、頭の重みであっさりと崩れる。そのまま床に突っ伏した。ビニル張りの床が冷たい。
 あの子は何を怒っていたのだろう。
 思いつくままに頭の中で挙げてみるが、心当たりが多過ぎて何もわからない。
 顔へ掛かった前髪に息を吹き掛ける。赤毛がふわりと舞い上がったかと思うと、ゆるやかに着地した。それを繰り返す。
 一人遊びに飽き始めた頃、千影の視界に何か光るものが見えた。戸棚の足の下に鈍く光る青い物体。
 千影は床に伏せたままでにじり寄り、手にした鈴凛のブラを振るって戸棚の下を払い出した。からからと乾いた音を立てて、瑠璃色の小片が滑り出る。
 最初はプラスチックの欠片にも見えた。光沢のある紺色で不透明。だが、顔を動かすとわずかに色彩が変化する。青から青緑、再び青を経て青紫へ。無機物とは考えにくい。何より形が特徴的だ。卵によく似たゆるやかな楕円形で、左右の縁がわずかにしなって内側に緩く反っている。大きさも小さめの卵ほどはある。
 千影はそっと手を伸ばし、指先で何回か突付いた。何も起こらないことを確認すると、恭しく手に取って顔へ近付けた。
 その途端、千影は総毛立った。全身からいやな汗がどっと吹き出る。
 それは紛れもなく鱗だった。
 しかし、千影は首を振ってそれを否定する。鱗にしてはあまりに大きい。爬虫類はおろか、恐竜にだってこれほど立派な鱗を持つものはいないはず。
 だとすれば、これは一体何なのだろうか。鱗以外の何かを考えてみたが、形といい質感といい鱗以外の何物でもない。
 それにしてもこの手触りはどうだろう。しっとりとした触感は手のひらにひたっと吸い付くかのようだが、ベタつきなどは感じない。しばらく手にしていると鱗との一体感すらも覚えるほど。それはつまり、馴染んでいる、ということだ。
 千影は魅せられたかのように表面をなで回し続けた。千影の周囲が薄暗くなったのはちょうどそのときだ。
「千影ちゃん、それって……」
 囁くような声に、千影は驚いて身を起こした。
 四葉だった。
 膝をがくがくとわななかせ、震える指先はそれでもしっかりと千影を指している。
「四葉くん、待ってくれ。まずは私に説明させてほしい」
 四葉は引き攣った顔を振って千影を拒む。その視線は千影の手に注がれていた。
「そんな、信じられないデス。だって、それは……」
 四葉の喉がこくっと鳴らされる。その音が、やけに大きく響いた。
「千影ちゃんが下着泥棒してるなんて!」
「……はぁ?」
 四葉は呆けたままの千影につかつかと歩み寄ると、その手から鈴凛のブラジャーをひったくった。
「鈴凛ちゃんのブラを盗んでいいのは怪盗クローバーだけなのデス!」
 ブラジャーのストラップに指を掛けて、四葉はぐるぐると回す。そして、積年の恨みとばかりに「えいっ」と千影を蹴飛ばした。四葉が本気ではなかったので、千影はわざとらしく大仰に倒れてみせた。
「ふふん、今日のところはこれで勘弁してあげマス。次からは許さないデスよ?」
 腕を組み、仁王立ちで見下ろす妹。
「これじゃあ、私はお宮だな」
 芝居掛かった調子で、千影は弱々しくかぶりを振る。四葉がぽんと手を鳴らした。
「ということは、四葉がカンキチなのデスね」
「違う、貫一だ。カ・ン・イ・チ」
「おう、そうデシタそうデシタ。国語の授業で習った記憶はありマスけど、ずいぶん前なのでちょっぴり忘れてマシタよ」
「ちょっぴりどころではないような気もするが」
 千影は頬を掻いた。「まあ、いいか。では、題名は覚えているかな」
 問い掛けながら千影は、瑠璃色の鱗をそっと懐に忍び込ませた。四葉は天井を見上げてうんうん唸っている。
「うーん、ゴールデン・デーモンってタイトルだったような」
「惜しいね。英語ではそうなるかな」
「あ、わかりマシタ!」
 四葉は右手の人差し指を千影へ突き出し、左手を腰に当ててポーズをつける。
「ズバリ、『金色ベガ』デスね?」
 数秒の間を置き、風呂場から洗面器の落ちる音が甲高く響いた。 「……夜叉だよ、『金色夜叉』。まったく、どうやったらそんな間違いをするんだか」
 千影はがっくりと肩を落とした。「まさかと思うけど、わざとやってるんじゃないだろうね」
 えへへ、と愛想笑いを浮かべる四葉に、千影は一瞥をくれる。その一方で自分の胸元を押さえた。
 鱗の冷やかな感触が確かにある。





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