3 - Impart - 2
「亞里亞さま、扉をお開けください。本当におひとりで大丈夫なのですか?」
「じいやは入っちゃダメなの。今日は、亞里亞が姉やのお着替えを手伝ってあげます」
この問答を壁越しに何度繰り返しただろうか。
扉の向こうでは足音が同じ箇所をぐるぐると回っている。たかが着替えぐらいで、と千影は内心でため息をついた。
一方、部屋の中でも、亞里亞が千影の周囲をぐるぐる回っていた。足音と共に衣擦れがさやさやと聞こえる。
その亞里亞は既に着替えを終えていた。
とはいってもフランス人形を思わせるいつものそれではなく、シルクの光沢も艶やかな濃紺のフォーマルドレスだ。プリーツもたっぷりなスカートは相変わらずだが、上はノースリーブで胸元もぎりぎりまで下がっている。髪の毛は二つに分けて大きくゆったりと編み込み、肩で折り返しては頭の高い位置にバレッタ止め。先端から飛び出した髪は二手に枝垂れ、亞里亞が歩くたびにぴょこぴょこと揺れ動く。まるでウサギの耳のようだ。
「亞里亞くん、もういいんじゃないかな」
「んー」
亞里亞は立てた人差し指を唇に当て、首を傾げる。ウサギの耳がぴょこんとお辞儀をした。
「まだ、ダメなの。姉や、脇を見せてください」
言われるままに千影は腕を上げた。亞里亞がその下へ入り込み、ワインレッドの布地を軽くつまみ上げた。亞里亞が動くたびに髪の先端が二の腕をくすぐる。
まだ納得できないのか、亞里亞が再びぐるぐると回り出した。千影はポーズを保ったまま、視線で亞里亞を追った。
眉を気難しげに美しく顰める亞里亞は普段よりぐっと大人びて見える。今なら高校生と偽っても疑われることはないはずだ。むしろ正直に年齢を告げたほうが驚くに違いない。
何しろ、亞里亞の身長は同学年の中でもずば抜けて高いのだ。白雪はもちろん花穂や可憐はとうに追い越し、今や鈴凛と肩を並べるほど。長身の千影と比べても頭半分しか差がないのだ。
「まだダメなのかな。亞里亞くん」
「ごめんなさい。もうちょっと、待ってて」
千影はこみ上げるあくびを慎重に噛み殺した。亞里亞に見られようものなら、彼女のせっかくの気遣いを踏みにじってしまうことになる。
とはいえ、たかがドレス一着を着るにしては時間を掛け過ぎているのも事実だ。
ドレスとはいっても、亞里亞が着ているものとはまた違う。長身で細身の千影に合う、シャープなシルエットを特徴としたAラインのドレスだ。
フォーマルでのディナーは当初から折り込み済みだったらしい。これを期に多少なりとも経験を積ませておこうという親心? なのだろうか。
そして、お着替えをどうぞと千影以下三人が通されたのがこのクローゼットだった。しかしクローゼットとはいうものの、高級マンションなどでよく見られる埋め込み式のそれとは規模が違う。二十畳もある大部屋が丸々ひとつだ。見渡す限りのドレスの森に、ここは一体どこの貸衣装屋かと三人は口をあんぐりさせたものである。これなら四葉はおろか、姉妹全員が飛び入りで来ようとも問題はない。
鈴凛と四葉のドレス選びは滞りなく行われ、着付けもすぐに終わった。万事につけてシノワズリ(中国趣味)な鈴凛も、今日はじいやの薦めもあってスカートの大きく広がったプリンセスラインを選んだ。四葉も鈴凛に倣ったのは言うまでもない。
ここまでは順調に運んだのだが、いざ千影の番となってからがまた大変だった。
千影の選んだデザインのことごとくを、子供らしさを十分に発揮させた亞里亞が却下したのだ。
亞里亞の好みはフリルのたくさん付いたボリュームのあるタイプで、千影が目星を付けたシンプルでスレンダーなものとはまるで正反対。お互いの選んだドレスをお互いに拒否し合うという事態が三十分も続くに至り、じいやが折衷案として差し出したのが今のドレスだ。これにしても千影はあまり気に入らなかった。上はホルターネックで背中がざっくりと大胆に開いており、まるで金太郎の腹掛けのよう。
そして、いざ着替えようという段になってまたも亞里亞がゴネだしたのだ。
「亞里亞さま、本当におひとりでよろしいのですか?」
「もう、じいやは黙ってて。姉やのお着替えは亞里亞がしてあげるの」
ぐるぐると回る足を止め、亞里亞は声を張り上げる。
亞里亞が機嫌を損ねるのも無理はない。ほとんど着替えは終わっているのだ。もっとも、シンプルで簡素なデザインなだけに、一人でも着ることが可能なのだが。人手を借りたいと思うのは背中のファスナーを上げるときだけだ。それすらもほとんど手間ではない。ほんのちょっと手を動かすだけでいいのだから。
にも関わらず、亞里亞は何かが気に入らないらしい。千影を四方八方から観察し、ホルターネックのストラップやバンドを摘み上げてはちょこちょこと動かしている。その仕草が何かに似ていると気づいたら、ふと障子の桟に指を這わせる小姑の姿が思い浮かんだ。
「亞里亞くん、もうこれで大丈夫だよ。歩いている間にどうしても少しは崩れてしまうんだから」
亞里亞を傷付けないよう、千影は慎重に言葉を選んだ。
だが、亞里亞から返事は返ってこない。千影を軸に回りながら不満げに唸る声は、ミツバチの羽音のようにも聞こえる。
「亞里亞くん」
焦れた千影が首を後へ巡らそうとするが、
「ダメ! 姉や、動かないで」
いつになく鋭い亞里亞の声が飛び、真横を向いた状態で千影は止まった。
「ねえ、何がそんなに不満なんだい。私の目にはおかしいところなんて写らないんだが」
視界の端に亞里亞を捉えながら千影が異議を唱えた。
「よく、わからないけど」
亞里亞は眉根を寄せながら、
「どこかがおかしいの」
つつっと、背中のドレスの縁に指を添わせる。
「そうか、どこかがおかしいのか」
亞里亞の動きに気を取られ、千影は生返事をした。
それにしても、亞里亞の視線がむず痒くて仕方がない。何せ、背中がほとんど露出しているのだ。胸と違って自分で見る機会も少ないので、他人の視線に曝け出すというのはどうにも気恥ずかしい。変なところにほくろが無いだろうか、とか、そういうことばかりに気を取られてしまう。これが水着であれば、心持ちもおのずと違ってくるのだが。
ドレスの生地は腰のくびれの上端までしかなく、迂闊に前屈みになろうものなら下着が見えそうな錯覚に陥るほどだ。その下着にしてもコルセット状のものを着けているので、余計に違和感が増す。
それにしても、用意されたサイズがぴったりなのには驚いた。最近のスリーサイズは誰にも教えたことがないというのに。もしかすると、渡り廊下での抱擁が採寸の代わりだったのかもしれない。だとすればなおのこと、彼女は侮れない。
「わからないのなら、一度じいやさんに見てもらったらどうだい?」
下着が見えているのではという強迫観念と戦いながら、千影は何気なく提案した。
衣擦れが急に止まる。
「どうして、そんなこと言うの?」
まるで咎めるような口調の亞里亞に、千影は振り返った。
「どうしてって……」
その途端に亞里亞と目が合い、千影は少したじろいだ。ドレスから飛び出た白い肩が亞里亞を寒々しく見せる。
「姉や、どうして?」
亞里亞は千影を見つめたまま、問いを繰り返した。
「だって、見てもらうだけなら別にいいと思わないかい? 手を出すのは亞里亞くんが――」
「違うの。そうじゃなくて」
ふと、口をつぐむ亞里亞。
その体がぐらりと大きく揺れたかと思うと、千影の胸に倒れ込んだ。ほのかなシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。
「こら、せっかくのドレスに皺ができてしまうじゃないか」
どうせいつもの気紛れだろうと、千影は軽口を叩いた。
だが、亞里亞の様子がおかしい。両腕がぐったりと垂れ下がり、目には生気がない。
「大丈夫かい?」
亞里亞は少し蒼ざめた顔で頷く。プラチナブロンドが顔色の悪さを強調させた。
貧血でも起こしたのだろうか。あるいはぐるぐると回り過ぎて目を回しただけかもしれないし、できればそのほうがいい。
「姉や……」
夢でも見ているような、ぼんやりとした声で亞里亞が呼ぶ。千影の腰にするりと亞里亞の両腕が回った。
「今は少し、このままで……」
亞里亞は目を閉じ、千影の肩に耳を押し付けた。泣いてはいない。密かに千影は安堵した。
千影は無言で、亞里亞の背中に手を回した。と、驚いて反射的に手を引っ込める。顔色に違わないこの冷やかさは何だろうか。あるいはドレスの青が印象通りに作用しているかのような。
「寒くはないかい?」
亞里亞は目を閉じたまま、動かない。
千影は妹の背中へ再び手をやり、力強くさすり始めた。
「――聞こえないのね」
「え?」
亞里亞の密やかな呟きに、千影は耳をそばだてた。
「姉やの胸の音、ここからだと聞こえないのね」
うっすらと瞼を開け、亞里亞は焦点の定まらない目を姉の胸元へ落とす。
「少し前は亞里亞の頭がもっと低いところにあって、姉やのやわらかいおっぱいの向こうから、どっくんどっくんって聞こえてきたの」
亞里亞はゆるく膝を曲げて、頭を下にずらした。
「ほら。姉やの胸の音、ちゃんと聞こえてきます」
「そんな、子供みたいなこと」
胸の感触と亞里亞の振舞いに戸惑いを隠しきれず、千影は呟いた。
「でも、今はこうなの」
膝を戻した亞里亞は、千影の肩に頭を預け直す。
「固い骨の上からだと、何も聞こえてきません」
亞里亞は目を伏せた。
「だけど、これからはもっと大きくなるよ。私ぐらいにね」
千影の冷静な指摘に、亞里亞が抗議の眼差しを向けた。千影はなだめるように笑うと、
「そのかわり、すぐにキスができるようになるよ。頬と頬がくっつくだろうから」
亞里亞は頬をつけたままで小さくいやいやをした。へそを曲げてしまったようだ。
「キスは嫌いじゃないだろう?」
言いながら千影は、亞里亞の顎を指先でくすぐった。亞里亞は身をよじって逃れようとするが、千影がしっかりと抱き止めているせいでそれもままならない。
「ほら、悪い子はくすぐりの刑だぞ」
「やっ、いやぁ」
絶え間ない千影の責めで、亞里亞の頬に血色が戻る。
「姉やぁ……亞里亞、いい子にするから、もう止めてぇ……」
亞里亞が目の端に涙を溜めながら、息も絶え絶えに訴えた。
「本当に?」
「うん」
「お返事はそうじゃないだろう?」
「……はい」
千影は「よし」と頷くや、すっと指を引いた。笑い過ぎた亞里亞が軽く咳込む。
「ごめんごめん、ちょっとやり過ぎてしまったね」
背中をさする千影だが、亞里亞は健気にも姉へ微笑んでみせた。いたたまれなくなった千影は思わず顔を背ける。
窓の外には濃紺のグラデーションが見えた。もうじき完全に日が暮れる。
「――姉や、あのね」
ひそひそ声の亞里亞が千影のドレスを小さく引いた。
千影が視線を向けると亞里亞も見返して口を開きかけたが、なかなか喋ろうとしない。何度もまばたきをしたかと思うと、目を固く閉じたままで十秒もそうしている。その一方で、微妙に足を動かしてもいる。自分たちの立ち位置が次第に扉から遠ざかっていることに千影は気付いた。
「亞里亞くん――」
「ううん、何でもないの」
千影の言葉を制し、亞里亞がきっぱりと言った。あまりに強い口調だったので、千影はそれ以上問い返せなかった。
それからまもなく、寄り添いながら部屋を出た姉妹が見たものは、壁際に体育座りしながらうたた寝するメイドの姿だった。
*
きらびやかなシャンデリアがドレスを纏った各々に光のシャワーを浴びせる。日はとっぷりと暮れ、漆黒がガラス窓を一面に染めていた。
食器の奏でる音と他愛もないおしゃべりとがこの食堂に満ちている。
最初は馴れない格好とテーブルマナーに苦戦しながら無言で手を動かす姉たちだったが、次々と運ばれてくる皿がその口を少しずつ滑らかにさせていった。
鈴凛が口火を切り、四葉が茶々を入れ、千影が指摘をし、亞里亞がくすくすと笑う。
千影はしばし憂鬱を忘れ、食事と会話を存分に堪能した。ドレスの腰回りがきつく感じられるのは、何もフランス料理のフルコースだけが原因ではない。
「うーん、し・あ・わ・せ。フォークで突き刺せるお肉なんて本当に久しぶりだもんねぇ」
切り分けたフィレステーキを目の前にかざす鈴凛の頬はだらしなく緩みきっていた。その頭上にはいつものゴーグルではなく、銀のティアラが輝いている。品に欠けた振舞いだが、濃緑のドレスを纏った鈴凛はそれなりにらしく見える。
「馬子にも衣装、か」
千影はステーキを切り分ける手を止め、くくっと喉を鳴らした。
笑いで揺れる千影の肘に、こつんとぶつかる亞里亞の肘。
二人は体をほぼ密着する格好で並んで座っている。椅子の背もたれは重ならんばかりに近付き、ドレスの裾は渾然一体でどれが誰のものだかわからないほどだ。
この位置なら亞里亞は千影の陰に入り込んで、じいやには見えないはずだ。
約束を交わしたわけではない。ただ何とはなしに、椅子を近付け合っただけだ。千影が亞里亞をかばうように。亞里亞が千影の庇護を受けるように。
壁際に控えるメイドの姿が視界の端に写る。この位置からでは表情を読むこともできない。
「姉や、それってどういう意味?」
亞里亞がわずかに体を倒す。お互いのドレス地が触れ合い、囁くような衣擦れが聞こえた。
千影も少しだけ上体を傾げて亞里亞を迎えた。
「ああ、それはね」
と、声をひそめる千影。
「どんな人でも、それなりの衣装を着ればそれなりに見えるって意味さ」
「じゃあ、鈴凛ちゃんはそれなり?」
「ドレスがそれなりだったらね」
千影の言葉に、亞里亞は口元をほころばせる。
「でも、あのドレスはそれなりじゃないと思うの。よくわからないけど、きっと立派なドレス。じいやに訊かないとわからないけど」
亞里亞は背中を軽く反らせながら、姉の肩越しに向こうを覗き見ようとした。
が、千影は妹の視線を遮るように身じろぎする。
まじまじと千影を見つめる亞里亞だったが、やがてにこりと笑って小さく頷いた。
千影も満足げに笑みを浮かべ、再び料理へ取り掛かった。
こつん。
亞里亞が鈴を鳴らすような声で笑い、
「亞里亞たち、くっつきすぎちゃった?」
「そうかもしれないが、きみがそれを言うのは確か……」
「五回目です」
すかさす亞里亞が答える。
「そうだったね。では、肘がぶつかった回数は」
「二十三回目なの。そのあと姉やは、もう少し離れようか? って言うのよ」
千影はわずかに肩を竦め、
「やれやれ、私の台詞を取られてしまったな」
すまし顔で天を仰いでみせた。
「しかし、一応は訊いておこうか。……もう少し離れたほうがいいのかな?」
「……姉や、言い方を変えるなんてズルいです」
ぷうっと頬をふくらませる亞里亞。
「亞里亞はイジワルな姉や、嫌いなの」
亞里亞は目を閉じてつんと顎をそびやかす。と思いきや、上体をゆっくりと傾げて千影の肩にしだれ掛かった。
二人は目を合わせ、また笑った。
以前は文字通りの重荷でしかなかったのに、肩へ掛かる亞里亞の重みが今はとても心地良い。心が満たされる、とはこういうことを指すのだろうか。
しかし、満たされたのは心ばかりではない。体のほうも十分に満ち足りていた。ナイフを捌く手も、今は亀の歩みのように遅い。
フランス料理のフルコースともなるとさすがに皿の数が多い。一皿一皿がちんまりとしているのでどうしても侮りがちなのだが、時間を掛けてゆっくりと食べるため、だんだんと胃袋に重くのしかかってくる。亞里亞がスローテンポな一因はこれにあるのかもしれないと、千影はふと思った。
最後に残るはデザート。別腹に期待したいところだ。
斜め向いの四葉がナイフを光らせながら、亞里亞のしどけない姿を咎めた。ウイッグで補ったポニーテールが黄緑のドレスの上を滑った。
「亞里亞ちゃん、それはマナーがなってないデスよ」
四葉が言い終わる前に、亞里亞はぴょこんと弾みをつけて元の姿勢に戻った。
「何のことですか、四葉ちゃん?」
つんと澄ました顔で亞里亞はうそぶいた。目を白黒とさせる四葉に、千影は口元を押さえた。
「えー、そんなぁ! だって、さっきまで千影ちゃんの肩に寄り掛かってたじゃないデスか」
「さっき? さっきって、いつのことなの?」
倣岸さを存分に出した亞里亞の物言いはマンガか何かを見ているかのよう。
亞里亞が千影を横目で見たかと思うと、小さくウインクしてみせた。
「むぅ、さっきはさっきなのデスよ。千影ちゃんの肩にこうやって――」
四葉は隣の鈴凛へ目掛けて体を倒した。
「あっ、ちょっ、こら! アタシのお肉取る気?」
目の前のご馳走に集中していた鈴凛には完全に不意打ちだったらしい。フォークの柄でこつんと四葉を叩く。四葉は渋々と姿勢を立て直した。
「ほら、四葉ちゃんのほうがずっとマナーが悪いです。ね、姉や?」
笑顔で仰ぎ見る亞里亞に、
「……きみもなかなか侮れないな」
ため息混じりで千影が応えた。
「それにしても、亞里亞くんにこんなことを言わせるなんてね。四葉くんには是非とも責任を取ってもらいたいところだ」
「じゃあ、亞里亞ちゃんにテーブルマナーをしつけてもらうのはどう?」
すかさず鈴凛が口をはさむ。
「えー、鈴凛ちゃんまでそんなこと言うデスか」
ついに孤立無援となった四葉は眉を吊り上げ、地団駄を踏んだ。テーブルの下でドレスの裾が乱れ、食器がかたかたと身じろぎする。
壁際からひとつ、こほん、と咳払いが届いたのはそのときだった。四葉はぎくりと動きを止め、おそるおそると声のしたほうを見る。
その様子に、残る三人は顔を見合わせて苦笑した。
「――そうやって、また四葉のことバカにして」
振り返った四葉は涙目で一同を睨むなり、疾風のような速さで鈴凛の皿にフォークを突き立てた。厚さが三センチもある牛フィレ肉は、四葉の狼藉を易々と受け入れた。
「そっちがその気なら、四葉はこうしてやるのデス!」
鈴凛が止める間も無く、四葉は自らの口に肉片をねじ込んだ。
「あっ、アタシのステーキ……」
茫然とした表情で皿と四葉とを交互に見やる鈴凛。一方の四葉はあらぬ方向を向き、そしらぬ顔で顎を動かしている。
「返しなさい! か・え・し・な・さ・い・よ!」
鈴凛は必死の形相で四葉の肩を掴み、前後に大きく揺さぶった。壁際からため息が聞こえた。
袖を引かれる感触に千影は横を向いた。
「姉や、あれでも馬子に衣装なの?」
真剣な顔で姉に訊ねる亞里亞。
「あれは……うん、どうかな。私にもちょっとわからないな」
言いながら千影は口元を押さえ、肩だけで笑った。
とはいえ、このままにはしておけない。ちゃぶ台を囲んでいるのとはわけが違うのだ。
「鈴凛くん。私のでよかったら」
千影は半分を残した自分の皿をそっと差し出した。
四葉の首を締め上げていた鈴凛の手がぱっと離れた。途端に四葉がぜいぜいと咳込む。
「えっ? ……でも、いいの?」
鈴凛は戸惑いを隠せない。千影とステーキとを交互に見つめた。
「それは私の台詞さ。食べかけでよかったら構わない。私は次のデザートが待ち遠しくてね」
喉を押さえ、千影は自分が満腹であることをアピールする。デザートという言葉に亞里亞がうんうんと頷いた。
「……えっと、それじゃあ」
鈴凛はナイフを握った手で赤らんだ頬を掻く。「遠慮なくもらっちゃうね。ありがと、千影ちゃん」
そう言うや否や、鈴凛は最も大きな一片をフォークで突き刺し、豪快に口の中へ放り込んだ。無論、四葉への牽制も忘れない。肘を外に突き出して四葉の動きを阻んでいる。
四葉が唇をへの字に曲げて、
「鈴凛ちゃんのほうがずっとずっとマナーが悪いデスよ。どうして四葉ばかりこうなるデスか」
今にも泣きそうな声を出した。さしもの鈴凛もバツの悪そうな顔をする。
「ほら、そんな顔しないの。アタシの一切れあげるから」
犬じゃないんだから、と千影は思わず心の中で突っ込みを入れる。が、
「えへへ、いっただっきマース」
四葉はたちまちに相好を崩し、突き出されたフォークにかぶりついた。
あんぐりとする千影を見て、亞里亞が無邪気に微笑んだ。そして、ふっと表情を緩める。
「――ずっとこのままだったら、いいのにね」
しんみりとした妹の口ぶりに、姉たちの手がふと止まった。
千影は皆で同居していた頃の食卓を思い出していた。十三人がひとつのテーブルを囲んでいたあの頃だ。喧騒と、時には怒号の入り混じる騒々しい食卓。
全員が再び集う機会はあっても、あの日はもう戻ってこない。不意に目頭が熱くなった。
鈴凛と四葉の目もどこか遠くを見ていた。
三人の無言にいたたまれなくなったのか、亞里亞が気恥ずかしげに目を伏せる。そして、「何でもないです」と小さく首を振った。
「そうよね。ずっとこのままだったらね」
と、鈴凛はテーブルに目を落とした。四葉が間髪入れず、
「とか何とか言って、鈴凛ちゃんのお目当てはズバリ、おいしいお肉デスね」
またも開かれようとする戦端に、亞里亞が柔らかな眼差しを向けた。
「それにしても、きみたちはやたらとお肉にこだわるね。親元で暮らしている鈴凛くんがそこまで困窮するとは思えないんだが」
「ああ、それね」
千影の疑問に対し、鈴凛がナイフを左右に振って答えた。
「実はアタシの食費って独立してるのよ。つまり、倹約すればするほど研究資金が増えるってわけ。だから、こういうお肉って本当に久しぶり」
ちょんちょんとナイフの先でステーキを突付く。
「で、肉が食べたくなったら牛丼並盛の一択。もちろん持ち帰りでね。卵はスーパーで特売のを買って入れてるから」
「あ、四葉はツユダクにシチミをいっぱい入れるのが好きデスね。卵はソフトボイルドを二個デス」
「探偵はハードボイルドと決まっているんじゃないのかな、普通は」
小説の定石を持ち出す千影に鈴凛が頷いた。
「そうそう、普通はハードボイルドだってのに。おかげで、茹でに失敗したやつばかり冷蔵庫に溜まるのよね。ソフトが好きなら素直に生卵を落とせばいいのに」
「あんなにぐちゃぐちゃしたの、四葉は好きじゃないデス」
「その割にはつゆだくが好きだってんだからホントにわからないわね。アンタとは付き合い長いけど」
「むぅ、何をおっしゃるラビット関根。秘密のひとつやふたつやみっつを持っていてこその名探偵デスよ。そうでなかったら、ホームズはライヘンバッハの滝壷でモリアーティー教授と一緒に死んでいたのデス。生きて帰ってこれたのには、ホームズに秘密の能力があったからに違いありマセン」
「ああ、あれって読者からのリクエストが多いから復活しただけでしょ。続、続続、新続って続いたのは……」
「あ、それは知ってマス。ズバリ、『金色夜叉』デスね」
「へぇ、四葉ちゃんにしてはよく知ってるじゃない」
「……うーん、なんだか誉められた気がしないデスよ」
二人のやり取りに耳を傾けながら、千影はミネラルウォーターのグラスに口をつけた。
じいやにはワインを薦められたが即座に断った。理由は色々とあるが、亞里亞に酒臭い息を向けたくないという気持ちが何よりも強い。
グラス越しに鈴凛を見つめる千影に、興味津々といった面持ちで亞里亞が顔を寄せた。
「姉や、訊いてもいい?」
「ああ、『金色夜叉』の方だね」
先手を打ったつもりの千影だったが、亞里亞が首を振って否定したので少しだけがっかりした。
「そっちじゃなくて、ギュウドンのほう」
「牛丼だって?」
思わず声を張り上げた千影に皆の視線が集まった。
「何? どうしたの?」
と鈴凛は、興味津々といった態で身を乗り出した。
「いや、亞里亞くんが――」
「亞里亞、まだギュウドンを食べたことがないです」
目を輝かせながら、亞里亞は姉たちを見回した。
「ねえ、ギュウドンってどんなお味なの? おいしいの?」
「亞里亞ちゃんはまだ食べたことがないデスか?」
予想だにしなかった問いに面食らいながら、四葉が首を傾げた。
「んー、カレーライスとかハッシュドビーフは知ってマスよね」
「当たり前でしょ。みんなで暮らしてたときに食べたじゃないの。ね、亞里亞ちゃん?」
亞里亞は頷いて鈴凛に同意した。
「そういえば牛丼は出なかったな。親子丼なら食べた記憶はあるが」
回想しつつ千影は唇だけで笑った。それにしても、自分たちは何を真剣に語っているのだろう。
「確かにそうデシタよね。牛丼は何か、お外で食べるってイメージがありマス」
「そうそう。すき焼き丼なら残りの具で何度か作って食べたけど、牛丼を単品でっていうのは無かったかなぁ。白雪ちゃんに内緒で勝手にお肉使って怒られたりもしたけど」
その光景を思い出したのか、亞里亞が口元を押さえながら小さく喉を鳴らした。
「ああ、スキヤキデスよ、スキヤキ。あれのお肉をライスに乗せたのが牛丼デス。ホントはちょっと違いマスけど、だいたいそんな感じ」
「スキヤキのお肉……」
亞里亞は歌うように繰り返した。何度もまばたきをし、視線がふわふわと辺りを漂う。
「ごめんなさい。亞里亞、よく覚えてないの」
がっくりと肩を落とす亞里亞の姿に慌てたのは四葉だ。ばたばたと手を振って、
「あ、亞里亞ちゃんが謝ることじゃないデスよ。悪いのは、ええと……鈴凛ちゃん」
いきなり矛先を向けられ、鈴凛はたちまち目を吊り上げる。
「ちょっと、それどういう意味よ」
「だって、先にスキヤキの話を出したのは鈴凛ちゃんでしょ?」
「それとこれとは話が別よ。アタシはアンタのその軽薄なところに怒ってるわけ」
「よりにもよって四葉をケーハク扱いするデスか? ……で、ケーハクって何?」
「軽くて薄っぺら」
と、鈴凛は自分の頭を指差した。
「四葉ちゃんのここがね」
「ど、どうして四葉の頭なの? 軽くて薄っぺらなのは千影ちゃんの胸デスよ」
あけすけな物言いに、ずきん、と千影の胸が痛んだ。動揺を悟られないよう、必死で表情をコントロールする。
自覚しているだけに、なおのこと衝撃が強い。勝ち誇ったかのような四葉の顔が憎らしく見えた。
「でも、姉や」
亞里亞が心配そうに千影の目をのぞき見る。
「亞里亞は千影ちゃんの胸、かわいくって好き」
励ますかのように千影の手を取った。
「……ありがとう」
複雑に入り乱れた感情の中から、それだけをようやく紡ぎ出した。
「それにしても。まったく肉肉肉とやかましいことだ」
そう愚痴った千影はあることを思い出し、亞里亞を見た。
「そういえば、昔は牛肉が食べられなかったんだね。亞里亞くんは」
「牛さんのお肉、臭いがイヤだったの」
亞里亞は恥ずかしそうにもじもじとする。
「でも、今はちゃんと食べられます」
「そうか。では、ピーマンはどうかな」
「ピーマンは……」
顔を俯かせ、亞里亞は口篭もる。両の手はスカートの上で組み合わされ、指先がフリルを弄っている。
その仕草のいとおしさに千影はにこりと笑顔を見せた。亞里亞の頭をなでながら、
「大丈夫。大人になればきっと食べられるようになるさ」
千影の励ましに亞里亞がびくっと身を震わせた。まぶたがひくひくと動揺している。
「どうかしたのかい? 気分でも悪い? もしかして、いつもより食べ過ぎたとか」
千影は矢継ぎ早に問い掛けながら、亞里亞の額へ手を当てた。
「ううん、何でもないです。大丈夫よ、姉や」
心持ち青い顔を微笑ませる亞里亞。どこか痛々しげに見えるその笑みに千影の心が疼いた。
「そうか。きみがそう言うなら別に――」
千影の声が尻すぼみに消えた。
ふと視界に入った亞里亞の皿に、千影は目を見張った。
――これは何だ?
「ねえ、どうしたの? 姉や」
今度は亞里亞が心配する番だった。
「いや、何でもないよ。大丈夫だ」
千影はぎこちない笑みを作って弁明した。
何気ないふりを装って再び覗き込む。やはり、見間違いではない。
皿の上がひどく赤い。
だが、ソースの色ではない。その赤は、肉の切り口からじっとりと滲み出ていた。
「姉や? ……あ、鈴凛ちゃんにお肉あげちゃったから、お腹が空いてるのね」
千影の視線に気付き、亞里亞は声を弾ませた。フォークで一片を突き刺し、千影の口元へと運んだ。
「はい、姉や。あーんしてください」
千影はフォークの先を凝視した。
肉全体が赤い。表面の焼き色もほんの申しわけ程度で、とにかく赤い。切り口はさらに赤かった。
普通のサーロインならレアもいいだろう。だが、この厚みではほとんど生だ。まるでマグロの赤身のようにも見える。
ぽたりと肉汁が滴り落ち、白いテーブルクロスに花を咲かせた。
窓ガラスに写るじいやの目がちかっと光った気がした。
「姉や」
亞里亞の声が焦れたものに変わる。
千影は意を決して口を開いた。
「どう、おいしい?」
口中に生臭さが広がる。
千影は精一杯の笑顔を作り、亞里亞に頷いてみせた。
Next →