螺旋の誘い 最新分へ

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 4 - Re-act - 1


「ああ、もう。肩こったよー」
 どたばたとドレスを脱ぎ捨てた鈴凛がベッドにばったりと倒れ込んだ。豪奢なドレスの下はいつも通りの質素な下着で、そのギャップが少しおかしい。
「せっかくだからって着てみたけど、やっぱりアタシはいつものチャイナがいいなぁ」
 枕に顔を埋めた鈴凛の声はくぐもって聞き取りにくい。
 衝立を挟んだ対面のベッドで着替える千影は、ふと手を止めて耳をそばだてた。
 ドレスから上半身だけを抜いた四葉が額に汗しながら、鈴凛のベッドに隣のそれをぐいぐいと押し込む。
「そうかなぁ? 四葉はこのドレスの方が楽デスね。鈴凛ちゃんのお洋服ってスタンドカラーばっかりだから、前に借りたときは首が回せなくて大変デシタよ」
 ごん、と鈍い音がして、二つのシングルベッドがダブルベッドに変化した。鈴凛が何か言いたげに頭を上げると、四葉がびくりと動きを止めた。
「バカね。そんなの慣れよ、慣れ。チャイナの立て襟の方が背筋がのびるでしょ。だいたい肩こりなんてのは姿勢の悪さが原因なんだから」
 ベッドについて何も言われなかったので、四葉が猫口の笑みを作る。どうやら四葉のプランは承認されたらしい。
 四人部屋のゲストルームは二台並べたベッドが対面に配置されている。他の部屋とは違って内装は現代風だが、それでもちょっとしたホテルのスィート並の設えだ。ユニットバスとトイレまでが設えられたこのゲストルームは他にも二部屋あり、兄妹全員が押し掛けても十分対応できる。
 白いブラウスにのろのろと袖を通しながら、千影はちらりと横を見た。
 鈴凛と四葉がさも当然のように並んだ二つを占拠してしまったので、必然的にじいやが千影の隣となる。日中の出来事さえなければ歓迎するところだが、今はどんな顔をして寝ればいいのかわからない。
 他にも気になる点は多い。食事のときには意識的に忘れようと心掛けていただけに、その反動が大きくのしかかる。
 加えて、今日はウサギのぬいぐるみを連れて来なかった。一年365日、枕元にはいつもあれが一緒だというのに。しかも、その枕さえも違う。果たして、今日はうまく寝られるのだろうか。
 憂鬱な気分が千影にため息を吐き出させた。
「千影ちゃん、何をタソガレてるデスか?」
 衝立から顔を覗かせた四葉が千影の顔をまじまじと見つめている。不意を突かれた千影はびくりと全身を震わせるが、かろうじて平静を保ってみせた。
「私のことはどうでもいい。そんなことより早く着替えたらどうだい? 下着のままでは風邪をひくよ」
 四葉のあられもない姿に千影の眉が跳ね上がる。
「あ、それはノープロブレム。四葉はバカだから風邪をひかないのデスよ」
 ちちち、と人差し指を横に振る四葉。あまりに自信たっぷりな態度に千影は声も出ない。
「四葉ちゃん、そこのバック持って来てよ」
 ベッドに身を投げ出したままの鈴凛が指を差すと、四葉がたたっと駆け出した。
「ヘイ、パスッ!」
 四葉は手にした旅行カバンを振り向きざまに反動をつけて投げ飛ばした。カバンは見事に鈴凛の腕の中へすっぽりと収まる。
 鈴凛は口笛を吹いてから、
「じゃ、こっちからもいくよ」
 と、カバンから着替えを出し、矢継ぎ早に四葉へ投げ付けた。ばさっ、ばさっと鳥の羽ばたきにも似た音が宙を裂く。
 鈴凛の投げ方は割に乱暴で、四葉は右へ左へと忙しい。鈴凛の口元に薄笑いが浮かんでいるところを見ると、どうやらわざとやっているようだ。なるほど、確かに四葉は犬っぽい。今にも尻尾が生えてきそうだ。
「さすが、と誉めるべきなのかな。ここは」
 四葉の早着替えを横目に見ながら、千影もグレーのロングスカートに足を通した。
 じいやから預かったマスターキーは首に掛け、タロットのカードケースを兼ねたベルトを回し、いつもより一つ外側で締める。さすがに少し食べ過ぎた。
 一方の鈴凛は下着姿のまま、シャツを手にぼんやりとしている。呆けた顔を天井に向けていたかと思うとシャツを投げ捨て、座卓の前にどっかりとあぐらをかいた。ノートパソコンのモニターを開くや、凄まじいスピードでキーボードを叩き始める。
「鈴凛くん、きみも先に着替えたらどうだい?」
 たまりかねた千影が声を掛けたが、鈴凛はうるさそうな顔をするだけだった。
「こういうときはそっとしておいたほうがいいデスよ。邪魔すると本気で怒りマスから」
 ユニオンジャック柄のTシャツにキュロットパンツ姿の四葉が忍び寄り、千影にそっと耳打ちする。他ならぬ四葉の言葉に千影は黙って頷くしかなかった。
 ノートパソコンの側面にはカードが差し込まれ、アンテナがピンと伸びていた。赤と緑のパイロットランプが不規則に瞬く。
 しかめっ面の鈴凛が奏でるタイピング音のみが部屋に響き渡る。千影と四葉はただなんとなく、鈴凛の指先を追っていた。
 不意に「ふわあ」と間抜けた声をあげて四葉があくびをした。
「おや、もうおねむの時間かい?」
 沈黙を持て余し気味だった千影がここぞとばかりにからかう。
「ん、お腹いっぱいに食べマシタから」
 あくびを噛み殺す四葉だったが、我慢しきれなくなったのか再び「ふわあ」と口を開く。
「まあ、そうだね。あれだけ食べれば満腹にもなるさ」
 千影はいつにも増してゆるやかなテンポで呟いた。
 その緩慢さを保ったまま、千影は衝立にだらしなくもたれ掛かる。体重を受けて全体がみしりと鳴った。四葉も千影を真似て、隣の衝立に寄り掛かった。
「亞里亞ちゃんが自慢するだけあって、デザートがとってもおいしかったデスね。あのぷるんぷるんのブラマンジェにはスコットランド人もびっくりデスよ」
「何だい、それは?」
 四葉は返事の代わりに三度目のあくびをする。
 ふふっと笑った千影は、
「ミニキッチンにポットとインスタントコーヒーがあったと思う。眠気覚ましに飲んでごらん」
「んー」
 片足をぶらぶらさせ、四葉は少し考え込む素振りを見せる。キュロットパンツの隙間からスパッツの黒がちらりと見えた。
「そういえばきみは紅茶党だったかな」
「イギリス生まれでもコーヒーぐらいは飲みマスよ」
 四葉は少し拗ねた風に言った。
「イギリス人だから紅茶が好き、ドイツ人だからビールが好き、なんて考え方はあまり好きじゃないデス。だって、一人あたりの紅茶の消費量はアイルランドが一番で、ビールの消費量はチェコが一番なんデスよ。ファーストインプレッションだけでその人のことはゼンゼンわかりマセン。四葉だけじゃなくて、みんなそうデスよ」
 鈴凛を見つめる四葉の眼差しはいつになく真剣だ。大人びて見える妹の横顔に千影はつと目を伏せた。
「それは悪かった。さすがは名探偵だね」
 千影は四葉の前髪を掻き上げて、親愛の情を示した。
「もう、そうやってまた四葉を子供扱いして」
 口でこそ怒ってはいるが、その目尻は嬉しそうに垂れ下がっていた。
 調子に乗った千影は手を動かし続ける。
「悪かった。許してくれ」
「四葉は亞里亞ちゃんじゃないデス」
「だが、きみも私の妹には変わりないさ」
「そんなこと言っても、鈴凛ちゃんに手を出そうとしたのは許しマセンからね」
「あれは誤解だよ。私には亞里亞くんだけで十分さ」
 話を打ち切るように、千影はぽんぽんと四葉の頭を叩いた。四葉は軽く唇を突き出してみせたが、特に何かを仕返すでもなかった。
 二人はまた無言で並び、鈴凛を見つめた。
「――でも千影ちゃんは、亞里亞ちゃんだけがいればそれでいいの?」
「え?」
 唐突な独り言に向き直ると、そこに四葉の姿は無かった。
「千影ちゃんはブラックデシタよね」
 いつの間に動いたのか、戸口の向こうから四葉の声が飛んできた。
「ああ、ブラックで頼む」
 千影は衝立を脇によけ、自分のベッドにどさりと身を投げ出した。
 首をもたげると鈴凛の姿が見える。一心不乱にモニターへ向かう横顔が凛々しい。まさに名は体を表わすといったところだろうか。
 頭を戻してぼんやりと天井を眺めるうち、ぷうんと香ばしい匂いが漂い始める。千影はコーヒーの苦味を想像し、思わず唾を飲み込んだ。
 口の中にはまだ鉄錆の味が残っている。
 あれは確かに生の肉だった。
 ほんのわずかに焼き色が付いていたが、レアやベリーレアといった生焼けレベルではない。
 牛肉の臭みが苦手だったはずの亞里亞が、よりにもよって生肉を口にしていた。これは亞里亞ひとりの問題ではない。料理をこしらえたシェフ、それに給仕係のじいや。この二人の手を経なければ食卓には登らないのだ。例え亞里亞自身が望んだとしても、生の肉を食事に出したりするものだろうか。
「おまたせデス、千影ちゃん」
 お盆を手にした四葉が千影を上から覗き込む。ゆらゆらと不安定なお盆に千影は急いで飛び起きた。
 千影は「ありがとう」とカップを受け取り、熱いコーヒーを一口すする。
 四葉はお盆を抱えたままでそうっと鈴凛に歩み寄り、慎重な手つきでお盆ごとテーブルに置いた。二つあるうちの自分の分を取り、早足に千影の隣へ舞い戻る。
「あちちっ」
 座りながら四葉が舌を出す。口元が猫のように曲がっている四葉だが、その外見に違わぬ猫舌の持ち主だ。行動様式は明らかに犬なのだが。
「うー、氷入れてくるデス」
 思わず千影が目を剥く。四葉は立ち上がり、忙しなく簡易キッチンへ向った。がらがらと氷を空ける音に鈴凛の眉が動いた。
 程なくして、カップに息を吹き掛けながら四葉が戻ってきた。
「いつも飲んでいる割に適温を間違えるとはね」
「千影ちゃんの分を作るので頭がいっぱいだったの」
 そう言い訳しながら四葉が千影の隣に腰を下ろす。カップの中で、ぱちん、と氷の割れる音がした。
「でも、よく私の好みを覚えていたね」
「そりゃあもう、みんなの好きなものちゃんとチェキしてマスよ」
 と、四葉は胸元から手帳を取り出した。
「勉強のお夜食から下着の色まで、この四葉ちゃんに何でもおまかせデス」
「ウサギのバックプリントはもう穿いてない。訂正しておくといい」
 Tシャツのどこに手帳をしまっていたのだろうと訝しみながら千影が口を開いた。
 四葉が真面目くさった顔で敬礼をし、
「はいっ、了解したでありマス」
 こくんこくんと一息にコーヒーを飲み干すと、素早く手帳を開いて書き込みを始めた。
「それにしても」四葉がページをめくる。「千影ちゃんと亞里亞ちゃんは姉妹なのに、好みが全然違うデスね。前からミステリーだと思ってマシタけど」
「姉妹って、私ときみもそうじゃないか」
「あー、ええっと、そういう意味じゃなくって」
 四葉はペンのお尻を栗色の髪に差し込んで掻き回す。
「血縁って意味かな?」
「そう、それデスよ」
 にやりと笑って、ペン先を千影に向ける四葉。
「本物の姉妹なのに、千影ちゃんはブラックで、亞里亞ちゃんはスィート。全然まったく正反対デス」
 四葉はメモ帳の角をペンで叩きながら首を倒した。
「きみの言わんとしていることはわかるが、しかし、それは安易に過ぎやしないかな。双子ならまだしも、普通の兄弟姉妹なら違っていて当たり前だ。増してや、長らく離れていたのではね」
 千影はカップに口をつけた。
「血の繋がりなんて大して関係ないさ。まるで似ていない親兄弟やよく似ている赤の他人なんていくらでもいるじゃないか。そうだろう?」
 自分へ言い聞かせるように、千影はゆっくりと語った。
「でも、それだと似ている親兄弟の立場がないデスよ」
「絆の太さは、似ている似ていないの問題じゃないよ」
 四葉がカップを両手で包み、窓の外に目をやった。
「本当に、そう思うデスか?」
 ふっと沈み込んだ四葉の声色に、千影は違和感を覚えた。あまりに彼女らしくない。
「――何かあったのかい?」
 四葉はそれに答えず、カップに溶け残った氷を一気にあおった。そのまま膝を抱えると、千影へ背を向けるようにしてベッドに倒れ込んだ。
「やっぱり、何かあったんだね」
 返事の代わりに氷を噛み砕く音が響いた。
 千影は立ち上がり、衝立を引いて鈴凛の姿を遮った。鈴凛は相変わらず下着姿のままでキーボードを叩いている。
「さ、これでどうかな。話すだけでも話してごらん。もっとも、私がきみの力になれるかどうかはわからないが」
 覆い被さって耳元で囁く千影に、四葉は目を大きく見開いた。緊張しているのか、首から鎖骨にかけての筋肉のラインがくっきりと浮かび上がっている。
「千影ちゃんがそんなこと言うなんて、少し変デス」
 今にも消え入りそうな四葉の声。
「それはひどいな。私だって一応はきみの姉だ。妹の心配はして当たり前さ」
 そう言いながらも、千影は自分の心の動きに少し驚いていた。以前の自分であれば、決してこんな真似はしなかったはず。むしろ、邪険に扱っていたほどだ。
「それなら、四葉も鈴凛ちゃんより半月だけお姉ちゃんデス。それなのに、みんなおかしいって言うの。絶対に逆だって」
 四葉がさらに膝を抱え込んで丸くなった。カップが四葉の手から離れ、ごとん、とカーペットに落ちた。
「言いたい人には言わせておけばいい。それに、年上だからって必ずしも年下の面倒を見るものとは限らないさ。亞里亞くんと雛子くんがそうだろう?」
「それは、亞里亞ちゃんがすごいのんびりやさんだから」
 一緒にされて面白くないのか、拗ねた声で四葉が抗議する。
 千影は四葉の隣に腰を下ろした。ベッドが揺れ、四葉の体がゆらゆらと泳いだ。
「じゃあ、四葉はこの先、どうすればいいデスか? お姉ちゃんなのに、妹みたいにって言われ続けるの?」
「ちょっと待ってくれ」
 千影は四葉の顔を覗き込んだ。
「どうしてそんなに序列に拘るんだい? きみはそういったものから一番遠いとばかり思っていたんだが」
「……う、ぅんっ」
 四葉は返事とも唸りともつかない声を発する。
「最初は……うん、千影ちゃんの言う通り、デス。四葉はみんなのことが知りたいだけで、お姉ちゃんとか妹とか、そんなのは全然気にしませんデシタ。でも、今は――」
「違うんだね」
 四葉の身じろぎに合わせてベッドのスプリングが軋んだ。
「四葉は鈴凛ちゃんのことが好きなの。だから、ずっと一緒にいたいデス」
 四葉の台詞を聞き終えた途端、かあっと千影の頭に血が登った。
 千影でさえ、亞里亞に好きと直接言ってあげたことはない。もう十分に伝わっていることをわざわざ言葉に出す必要はないと公言している千影だが、実のところは単に照れ臭いだけだ。口を動かすぐらいなら手を動かすほうが遥かに気楽だ。
 ――しかし、これはまるで愛の告白じゃないか。
 当の四葉もそう思ったらしい。
 いい終えるや否や、四葉はがばりと身を起こして千影の胸元を掴んだ。
「じゃなくて、ええと、鈴凛ちゃんへの好きって気持ちは、兄チャマへの好きとはまったく全然違う……でもなくって、とにかく別なんデス! でも、好きってことには変わりないから……」
 千影は照れ隠しも兼ねてふふっと笑い、
「わかっているさ」
 と、頬を赤く染めた四葉の頭に手を伸ばす。四葉はたちまち唇を尖らせる。
「またそうやって子供扱いして」
「鈴凛くんに同じことされても怒らないくせに」
「それは、鈴凛ちゃんが特別だから……」
 四葉の紅潮が一段と強まる。それでも千影の手は振り払おうとはしない。
「ああ。私にとっても亞里亞くんは特別だよ」
「違うの。そうじゃなくて」
 四葉がかぶりを振った。「鈴凛ちゃんはみんなにとっても特別なの」
 シリアスな表情に戸惑いを隠しきれない千影は、思わず手を引いた。
「四葉と鈴凛ちゃんは、小さい頃からお互いに知ってたの。最初のうちは姉妹じゃないただのお友達で、普通に遊んだりしてマシタ。名探偵ごっこのときは四葉が探偵で、鈴凛ちゃんが助手の役」
 千影の肩越しに四葉は遠くを見つめた。そして、目を伏せる。
「でも、今はもう、そんなことできないケド、あのときは毎日がずっとハロウィンみたいで、すっごく楽しかった」
 言葉とは裏腹に、四葉は唇を噛み締めて俯いた。
「あの頃は鈴凛ちゃんが特別だって思いませんデシタ。普通のメールやEメールでやり取りしてたときも、そんなこと全然わからなくて。だから、十年ぶりに会った時に四葉はすごく驚きマシタ。昔から機械好きだって知ってマシタけど、自分そっくりのメカ鈴凛を作ってたなんてちっとも思わなかったの。学校の行き帰りだって、黒いスーツを着た男の人たちに待ち伏せされてたり――」
「待ってくれ。それは初耳だぞ」
 千影が声を荒げると、衝立の向こうからガンと何かを叩く音がした。
 声をひそめた千影は、
「そんな話、今まで聞いたこともない」
 四葉が不安げな面持ちを見せ、小さく鼻をすすった。
「みんなが心配するから、鈴凛ちゃんが誰にも言うなって」
 口の軽い四葉をずっと今まで黙らせていたとは、よほどの手を使ったのだろう。
「で、その黒服の男たちは?」
「鈴凛ちゃんに名刺出してマシタ。鈴凛ちゃんはすぐに捨ててマシタけど」
「ああ、スカウトか……」
 確かに、鈴凛ほどの実力の持ち主なら引く手数多というものだ。未だ女子高生の身空で自律歩行型アンドロイドを製作し、加えて美人揃いと名高い十二人姉妹の中のひとり。戦力としてもさることながら、広告塔としての価値も十分に高い。これで目を付けないほうがどうにかしている。
 衛の元にもスポーツ有名校のコーチが何度か挨拶に来ているが、それとはまた次元の違う話だ。
「このときね、四葉は思ったの。鈴凛ちゃんは特別なんだって。四葉とは全然違うんだって……」
 四葉の肩が小刻みに震え始めた。何度も喉を鳴らして必死に涙をこらえている。
「だかっ、だからぁ、四葉、怖くて、いつか、離れて、四葉のこと、置いて……」
 四葉はしゃくりあげながら右腕を乱雑に動かし、目元をこすった。
「だから、四葉は、本当の姉妹に、なりたいの。半月しか、離れてないから、絶対に本当の姉妹じゃ、ないけど、千影ちゃんと、亞里亞ちゃんみたいに、鈴凛ちゃんとなりたいの。四葉が、半月だけお姉ちゃんで、鈴凛ちゃんが半月だけ、妹で。そうなりたいのに、でも、全然なれないの」
 ひたすらに声を押し殺しているのは鈴凛への気遣いなのだろうか。
 四葉はきつく目を閉じ、抱えた膝の中に顔をぎゅっと押しつけた。肩が痙攣するたびに、髪の毛がふわふわと揺れ動く。
 千影は冷えたカップを両手で包み、妹が落ちつくのを待った。
「でも、血の繋がりだけが本当の姉妹じゃないよ」
 頃合いを見計らって、千影はそっと囁く。四葉が少しだけ顔を上げ、また膝の中へ戻った。
「だけど四葉は、絶対に切れない絆が欲しいデス。紙に書いたのとかそんなのじゃなくて、もっともっと強くて、確かなのが」
 四葉は鼻をひとつすすり、頭を小さくもたげて千影を見た。
「本当の姉妹だったら、何があってもきっと離れないデスよね? どんなときになっても、ずっと一緒でいられマスよね?」
 そう四葉の半眼はひどく虚ろで、正面の千影は目に入っていない。
 その空虚な瞳が千影をひたっと捉えた。
「千影ちゃんは――」
「物理的に繋がっていたとしても、心で繋がっていなくては意味がない。逆もまた然りだ。血縁は、関係ない。お互いに好意を抱き合っていれば、それが何よりも確かな絆だ」
 千影は咄嗟に四葉を遮っていた。普段が明朗快活極まりないだけに、焦点の定まらない目がひどく薄気味悪く感じられた。
「でも、千影ちゃんは」
 四葉の頭が左右にぐらぐらとぶれ始める。
「千影ちゃんは亞里亞ちゃんと血が繋がってなかったら、亞里亞ちゃんのこと、好きになってマシタか?」
 その一言が千影の胸を打った。
 ――断じてそんなことはない。
 言い返そうとしたが、声は出なかった。
 千影が返事に詰まる間に、四葉はあお向けでベッドに倒れた。羽毛の布団にさざなみが走った。
「ごめーん、お待たせ」
 鈴凛が白のカンフーシャツに腕を通しながら、衝立の陰から半身を出している。
「どしたの、千影ちゃん」
 言いながら鈴凛は、姉の顔をまじまじと見つめた。
「――もしかして、怒ってるとか?」
 千影は自分が険しい顔をしていたことに気づき、慌てて笑顔を作った。
「いや、何でもない。四葉くんと話していただけさ」
「ふーん、そう? もしかして、また何か言われたとか」
 千影の胸の内に気付く様子もなく、鈴凛がすたすたと歩み寄る。下は未だにショーツ一枚だ。
「まあ、言われたというか、言ったというか」
「そうなんだ。ま、この子のことだから何となくは想像できるけどね」
 返答に迷う千影とは対照的に、鈴凛の口ぶりには屈託がない。脱衣場での確執は微塵もなかった。
 鈴凛は四葉へ目を移し、
「何だ、もう寝ちゃってる」
 と、目尻を下げながら言った。
 千影もつられて隣を見ると、四葉は背中を丸めて横向きに転がっていた。Tシャツのユニオンジャックが規則正しく波打っていた。
「あ、ごめん。ここ、千影ちゃんのベッドだよね」
 四葉の妹の気遣いに、千影はうっすらと笑いかけた。
「いいさ、このまま寝かせておこう。どのみち、不寝番があるからね」
「わかった」
 鈴凛は短く答え、腕を組む。「それより、ちょっとこっち来てくれる?」
 鈴凛が目線で促すままに千影はそろっと腰を上げた。その反動でベッドが軋むが、四葉に目覚めた様子はない。すっかり寝入っているようだ。
 座卓の前で鈴凛の生足が止まった。
「これ、CCDカメラの映像。リアルタイムの中継画像ね」
 仁王立ちに腕を組んだまま顎をしゃくり、ノートパソコンのディスプレイを指し示す。むっちりと白い太ももが液晶の輝きを受けてまだらに染まった。
「それはいいが、早く何かを穿いてくれ。目のやり場に困る」
「わかってる。いまから穿くとこ」
 腰を下ろす千影の背中へ目掛けて鈴凛の声が被さった。背後でごそごそという強張った音が続いた。
 千影は手にしたままのコーヒーカップを置き、ディスプレイに目をやった。
 分割されたウィンドウには、廊下や部屋の光景がほの暗く写し出されていた。そのほとんどに動きのない中で、一際目立つウィンドウがあった。
 亞里亞とじいやが写っている。今まさに、亞里亞の部屋を中継しているのだ。
 両手をカカシのように広げて立つ亞里亞の周りを、甲斐甲斐しく手を動かしながらじいやが歩いている。どうやらこちらも着替えの最中らしい。
「あれから触ってないから」
 その声に振り向くと、唇を固く引き絞った鈴凛が黒のカンフーパンツに足を通しているところだった。
「千影ちゃんがどうしても嫌なら外してきてもいい。だけど、アタシは何もしないから。邪魔もしないし、手助けも一切しない」
 固い口調で鈴凛が宣言した。カンフーパンツの裾を膝下まで折り返している。
「それは、最大限の譲歩と受け取ってもいいのかな」
 千影の問いに、鈴凛はそっぽを向いたままで重々しく頷いた。
 画面の二人は相変わらずだ。
 亞里亞がじいやを呼び止め、じいやが亞里亞に応えて動く。それの繰り返し。ぜんまいをたっぷりと巻いたオルゴール人形のように、澱みも滞りもない。
 鈴凛が千影の頭越しに画面を見た。
「特におかしいところなんてないじゃない」
 鈴凛の指摘通り、目の前で繰り広げられているのは普段と何ら変わりのない光景だ。
 画質が荒くて表情までは読めないが、じいやに対して亞里亞が格段に怯えているということもなく、じいやも特に不審な振舞いを見せていない。もっとも、彼女は監視カメラの存在を知っているのだが。
 それを差し引いたにしても、これはあまりに普通過ぎる。
「この二人を見てる感じだと、今夜は何事もなく終わりそうな気がするね」
 鈴凛が率直な感想を漏らした。
「もしかしたらあの事件、じいやさんのハッタリだったりして。普通に呼んだら体面が悪いから、あんな写真をでっち上げたりなんかしてさ。じゃないと納得のできないことばかりでしょ」
「……ああ」
 半ば上の空で、千影は鷹揚に頷いた。
 鈴凛がそう思うのも無理はない。
 何しろ、今の二人はまったく正常な主従そのものなのだ。メイドは幼い主人によく仕え、主人はメイドにその身を委ねている。
 しかしその一方で、今日いままでに発露された感情の一切が見当たらないというのは少し不自然にも感じられる。あの恫喝にも似たじいやの警告が芝居だったでもいうのだろうか。――いや、あれは間違いなく本気だった。そうでなければ邪眼を放つまでには至らなかったはずだ。
 そして何よりも、亞里亞にそこまでの演技力があるとは思えないのだ。
「そうだったら、どんなにいいだろうね」
 ディスプレイから目を離さずにぼそりと呟く千影の肩に、鈴凛がぱぁんと手を置いた。
「きっとそうよ。そうに決まってるって」
 本当にそうだったら、と心から思う。
 だが、鈴凛は知らない。脱衣場で見つけた巨大な鱗。そして、嬉々として生肉を食べた亞里亞のことを。
 画面の中に少しだけ変化が見えた。
 着替えを終えた亞里亞が鏡台の前に座り、じいやが髪を梳かしていた。亞里亞は気持ちがいいのか、猫を思わせる仕草でブラシを持つじいやの手に頬をすり寄せている。これもいつもと同じだ。昔は自分がじいやの代わりに頬ずりされていたというのに。
 それを思い出した途端、千影の心にある感情が生まれた。
 ――私はこの完璧な主従の邪魔をしているだけではないだろうか。ほら、私がいなくてもこの子はとても楽しそうじゃないか。あんなにも肩を揺らして、笑っている。さっきはあれだけじいやさんに怯えていたというのに。どうして、あの人にまでそんな笑顔を見せるんだい?
 千影は自分が嫉妬していることに気づき、ひどく動揺した。
 二人を見ないようにウィンドウを閉じようとする千影だったが、元より慣れない操作で画面の矢印は右往左往するばかりだ。見かねた鈴凛が千影の隣から割り込み、キーボードを何回か叩いてウィンドウをタスクバーへ収納した。
「さすがだね」
 千影は思わず感嘆の声を上げた。
「さっきからずっとキーボードを叩いていたのも、これらを動かすためなのかい」
「まさか。そこまで暇じゃないって」
 鈴凛は両の眉毛を上げて、小さく横に首を振る。
「まあ何て言うか、ちょっとしたメモね。アタシって頭悪いから、思い浮かんだことはすぐに書き止めないと忘れちゃうの」
「過度の謙遜は嫌味でしかないね」
 それは聞き飽きた、とでもいう風に、鈴凛は鼻息で返事をした。
「で、どうするの」
 鈴凛が千影の目を覗き込んで言う。
「きみはどうしたいんだい」
 千影は相槌のつもりで何気なく返した。
「もう、またそんなこと言って」
 目を吊り上げた鈴凛が千影の鼻をつまんだ。
「アタシは千影ちゃんの意見を聞いてるの。今さら何のつもり?」
「何のつもりと言われても――」
 鈴凛が手に力を入れた。たちまち鼻の奥がツンとする。
「いきなり問われても困る。わからないものはわからないんだ」
 怒鳴ったつもりだったが、鼻を塞がれているせいでひどく間抜けた声が飛び出た。
 鈴凛がニヤニヤと笑いながら手を離す。
「わからないなら正直にそう言えばいいじゃない。それとも、負けを認めるみたいでイヤだとか?」
 言い訳しようと口を開きかける千影だったが、鈴凛が両手を構えるのを見て思いとどまった。千影はしばらく考えた挙句、「そうだ」と肯定した。
 鈴凛がかぶりを振りながら、
「たかがその程度、そこまで考え込まなくてもいいじゃない。余計なお世話だけど、今の自分の姿をちゃんと認識しておかないと何度でも同じ過ちを繰り返すわよ。一体何が間違っているのか。それがわからない限り、未来はない」
 と、千影を指先で撃つ真似をした。
「その言葉、重みがあるな」
「過去の失敗がそう言わせてるのよ」
 鈴凛はにべもない。
「それで、どうするの」
「わからない」
 今度は即答した。
「わからないって、外すつもりじゃなかったの?」
 鈴凛は座卓を指先でこつこつ叩く。
「今は違う。次第にこのままでもいいような気がしてきたよ」
「へぇー、さっきはあれだけゴネてたのにね。一体どういう心境の変化?」
 千影はディスプレイを見た。いくつも広がったウィンドウの中に、ウサギ小屋を写したものがあった。もう眠っているのか、月明かりに白い体毛が浮かぶばかりでぴくりとも動かない。
「わからないな」
 鈴凛もつられて画面に目をやった。
「――アタシもそのほうがいいと思う」
 怪訝な顔で見返す千影に対し、「カメラのこと」と付け加えた。
「どうせ何事も起こりっこないんだし、こんな時間になったら亞里亞ちゃんに見つからずに外すのも面倒でしょ」
 なぜかそわそわと落ち着きのない妹に、千影は片方の眉を吊り上げた。
 鈴凛は二人の醸し出す日常にすっかり心奪われてしまったらしい。それまでは、迫り来る非日常に対してあれこれと策を練っていたというのに。ミイラ取りが、いや、吸血鬼処刑人が吸血鬼になってしまった。
 その妹とは対照的に、あの一幕によってさらに疑念を深めたのが千影だ。かすかに頭をもたげた違和感が、持ち前の冷静さを取り戻させた格好だ。
 不意に鉄錆の味が口中に蘇る。
 鈴凛が何を思ったのか、キーボードを叩いてウィンドウを再び引っ張り出した。
 現在の演目はベッドメイキングだ。
 今この時間にベッドを設えるとは、千影たちのおかげなのだろう。こんな遅くにずれ込んだのが珍しいのか、椅子にちょこんと腰掛けた亞里亞が何度もじいやを呼び止め、その都度じいやが振り返っている。
 鑑賞中の鈴凛は、無声映画の出来のよさに満足そうな微笑みを浮かべている。
「ほらほら、見てよ。亞里亞ちゃんがじいやさんのスカート引っ張ってる。あー、あんなに強く引っ張ってさ。このままだと、もしかしたら脱げ――」
 千影は無言でディスプレイを折り伏せた。
「ちょっと、何するの!」
 鈴凛が小鼻にしわを寄せて唸る。
「覗き見はよくない」
 千影は真面目くさった顔でそっぽを向いた。
「れっきとした監視よ。これは」
「それならもっとらしくするべきだね。笑顔で監視などさまにもならない。これでは四葉くんと一緒じゃないか」
 衝立の向こうから、へくしっと聞こえた。
「わかった。ごめん」
 これ以上正論を展開されてはかなわないと、鈴凛はあっさりと非を認めた。
 それでも鈴凛は、未練たらしく横目でちらちらとノートパソコンを見ている。
「――この二人がそんなに気になるのかい? 鈴凛くんは」
 千影へ向き直った顔に期待の色がわずかに混じるが、千影は「亞里亞くんが寝てからだ」とわざわざ釘を刺した。鈴凛は失望を隠そうともしない。
「すっかり四葉くんに毒されたようだね」
 ここぞとばかりに嫌みったらしく決めつけた。
「そりゃあ、あれだけベタベタされれば誰だって染まるわよ。だいたい千影ちゃんだってそうじゃない。昔は亞里亞ちゃんが何をしても全然素っ気無かったくせに、今はちょっと寄り掛かられただけでニヤニヤしちゃってさ」
「それとこれとは話が違う」
 鈴凛の十倍返しを一言でいなす千影。一瞬鼻白んだものの、その程度で矛を収める鈴凛ではなかった。
「全然違わないわよ。そんなこと言うけど千影ちゃんだって最近は――」
「わかった、わかったよ。私がそういうことに抵抗がなくなったのは事実だ。間違いない」
 このまま喋らせておくと長引くのは確実なので、負けるが勝ちとばかりに千影は認めた。
「多分、おやすみのキスを毎晩せがまれたせいもあるんだろうな。あの恥ずかしさに比べれば、抱きつかれるなんて訳ないさ」
「あー、うん。それはまあ、そうかもね」
 なぜかしどろもどろに答える鈴凛を、千影がうろんな目で見た。
「――なるほど」
 一人合点した千影は唇の端を美しく曲げた。
「今でも毎晩ねだられるとは、なかなか大変だね」
「わ、悪かったわね。ほっといてよ」
 鈴凛の頬がたちまち赤く染まる。
 千影は「まあまあ」となだめ、
「やはり、挨拶の仕方からして違うからね。仕方ないさ。何しろ、握手とキスでは大違いだ」
「そういえばそうね。春歌ちゃんはそんなでもないけど、四葉ちゃんと亞里亞ちゃんは完全に別格だからね。何のためらいもなく距離を詰めてくるし」
 鈴凛はあらぬ方を見ながら大きく鼻で息をした。そこで何かを思い出したらしく、遠くを見ながら語り出した。
「いつだったかな。二人で電気街に行ったときのことだけど、そこでお昼を食べることにして牛丼屋へ入ったの。ピークを過ぎた頃でも半分埋まってて、それで人の少ない場所を探してたんだけど、あの子ったら二人分のスペース見つけたらすぐに座っちゃって『鈴凛ちゃん、こっちデス』って、手まで振ってアタシのこと呼ぶのよ。まったく、恥ずかしいったらなかったわ。普通は両隣に人のいないところを選ぶのに、わざわざ混んでるほうを選んじゃってさ。あのときは文字通りに肩身の狭い思いをしたっけね」
 憤懣やるかたないといった口調で、しかし、どことなく楽しげに鈴凛は愚痴をこぼした。
「それは国民性云々というより、むしろ四葉くんの性格に要因がありそうだな」
「ま、普通はやっぱりそうよね」
 と、鈴凛はだらしなく挙手した。
「ともあれ、あの子たちが個人的な領域を容易く越えてくるのは事実だ。それを鈍感と形容すべきかどうかは少々迷うところだが」
 四葉の場合は公も私ものべつまくなしだ。何か――大半の場合は兄だが、時として犬猫の類にまで対象が拡大する――の追跡に夢中になるあまり、よそ様の敷地へ踏み込んでは地主や家主にしょっちゅう怒られている。
 しかも性質が悪いことに、当の四葉自身は自分がなぜ怒られるのかまるで理解していないのだ。誰にでも他人に足を踏み込まれたくないエリアがあるんだよ、と教え諭しても、四葉は『鈴凛ちゃんとならずっと一緒でもノープロブレムなのデス』とピントのずれた答えをよこすばかり。
「そこんとこ、亞里亞ちゃんにも言い聞かせたほうがよくない? そうじゃないと、誰にでもついて行きそうな感じがする」
 鈴凛はなおも、横目にちらちらとノートパソコンを眺めた。
「それはきみにも同じことが言えるな」
 その視線を遮るように、千影がパソコンの前へ上体を乗り出した
「亞里亞くんは私の言いつけをちゃんと聞くが、果たして四葉くんはどうだろうね」
 鈴凛は真顔でもう片方の手も挙げた。どうやらお手上げという意味らしい。
「一度痛い目でも見ればいいのよ」
 あまり穏やかではない物言いに千影が苦笑した。
「そういえば、トラブルへ巻き込まれる割には何事も起きてないね。四葉くんの身には」  上体を戻しざまに、何気なく疑問を口にした。
「巻き込まれる、じゃなくて、巻き込む」
 鈴凛はどっかりとあぐらをかき、太ももに片肘をついた。
「名は体を表わすって本当ね。あの子、すごい幸運の星に生まれついてるもの」
「羨ましいのかい?」
 なぜか悔しげな鈴凛の声に、千影は問わずにいられなかった。
 鈴凛は肘をついたほうの手に顎を乗せる。
「別に、そんなんじゃないよ」
 子供っぽくぷいっと顔を背けた鈴凛は、向きもそのままに千影をすがめ見た。
「今、アタシのことガキっぽいって思ったでしょ」
 図星を指された千影は、得意の謎めいた愛想笑いで誤魔化した。だが、鈴凛にはそれも折り込み済みだったらしい。
「いいのいいの、わかってるって。アタシもそう思ってるから。才能ならまだしも、天性に嫉妬しても意味ないって自覚してるのにね」
「才能も天性も似たようなものだろう」
 急に眠気を覚え始めた千影は、やや投げやりに呟いた。鈴凛が即座に手をひらひらと振る。
「違う違う、全然違う。ぶっちゃけて言えば、才能は後天的で天性は先天的。伸ばそうとしても伸びるものじゃないでしょ、強運なんて」
「強運ね」
 繰り返す千影に、鈴凛が頷き返した。
「あの子がいると、何もかもがうまく行くの。今までずっと壁にぶち当たってたところも、あっさりと切り抜けられたりしてね」
「しかし、邪魔もするだろう? 四葉くんは」
「そうね。あんまり度が過ぎると怒鳴りつけたりもするけど、でも、全体の進捗状況に比べれば全然大したことなんてない」
 鈴凛は空いたほうの手で、カーペットの上に何かを描き始めた。
「いつだったかは本当にすごかった。ジジの友達だった人から錆びてボロボロになったオート三輪を譲ってもらって腕試し代わりにレストアしてたんだけど、初体験なのにやる事なす事が全部大当たり。たった一日でエンジン吹かすところまでいっちゃってさ。あのときの気持ち、千影ちゃんにわかってもらえるかなぁ。全能感っていうの? アタシには敵なんてないのよ、ってぐらいにハイになっちゃって」
 千影は思わず大きく目を見開いた。が、すぐさま目を閉じてひとつ頷くと、そのまま無言を貫いた。
「でもね」
 ため息をついた鈴凛はぼりぼりと頭を掻いた。
「それも、四葉ちゃんがいたときだけ。アタシ一人だと全然捗らなくなっちゃってさ。できることはできるんだけど、分相応のことしかできなかったの」
「だが、それでもレストアはできたのだろう? よくはわからないが、大したものじゃないか。そこいらの凡愚どもにできることではないね」
 手放しで誉める千影に、鈴凛はへへっと照れ笑いを見せた。
「ともかく、その一件でアタシと四葉ちゃんは一心同体少女隊になったわけ。アタシはあの子のチェキに付き合うかわり、ラボで一緒に缶詰になってもらう」
 そう語る鈴凛の声は、先細りに弱くなってゆく。
「アタシは親しき仲にもギブアンドテイクのつもりでいるけど、あの子はどうなのかなって、時々思うの。あんな性格してるけど内面はけっこう繊細、っていうか、自分が繊細なのを誤魔化すためにわざとあんな振舞いしてる部分もあるし。もしかしたら、子供のころからの腐れ縁繋がりで本当はとっくに愛想つかされてるのかもって。もちろん、アタシはそんなことない……と思うけど」
「しかし、嫌いではないんだろう? あの子のこと」
「そりゃそうよ。好きじゃなかったら一緒のベッドで寝たりしないし」
 まるっきり相思相愛じゃないか、と千影は内心で肩を竦めた。まったく、見せつけてくれる。
「だったら、それでいいだろう? そこまで思い詰める必要はないさ」
 せっかくだから、とキューピットの役を演じたつもりの千影は、ダメ押しとばかりにもう一手を打った。
「もう少し素直になったらどうかな。言うべきことはちゃんと言っておかないと、移り気な四葉くんのことだからアメリカに渡っている間に愛想をつかされるかもしれないね。それに、姉妹間なら兄くんへの義理立ても必要ないだろうし」
 千影はほんの冗談のつもりでけしかけたのだが、鈴凛には何やら心に思うことがあったらしい。しばらく黙りこくったかと思うと、ひどく深刻めかした口ぶりで言葉を押し出した。
「そういえば……うん、そうよね。いつも四葉ちゃんからのアプローチに甘えてばかりで、アタシのほうからは何も言ってない。やっぱり、ちゃんと言わなきゃダメよね」
「いや、それは意思の疎通が十分な証拠さ。四葉くんも、きみのその辺の性格は十分理解していると思う」
 妙な雲行きになるのを感じ、千影は慌てて執り成した。この際、前言を翻す形になったのは仕方がない。完全に骨折りだ。
 はたして鈴凛は、衝立のほうを見て「それもそうね」とひとりごちた。
「アタシが留学へ行くのだって、そもそもは四葉ちゃんが言い出しっぺなんだし」
「ちょっと待ってくれ」
 千影は口を挟んだ。
「さっきと話が合わないな。四葉くんは確か、きみの留学に反対していたのだろう?」
「あー、ごめん。それ、ホントは逆なんだ。ごめんね、ウソついて」
 鈴凛は顔の前でぱちんと両手を合わせた。
「ずっと躊躇ってたアタシの背中を押してくれたのは四葉ちゃん。家出はアタシの決断を促すためだって、あの子がそう言ったの。今は大後悔してるらしいけどね」
 その声は明朗そのものだったが、それは無理をした明るさのようにも感じられた。
「まさしく、内助の功だね」
 四葉の気持ちを聞かされたばかりの千影は、彼女に成り代わってそう告げた。かわいい子には旅をさせよとはよく言うが、通信手段の発達した現代にあっても親しい存在を海の向こうへ送り出すことなど、そうそうできることではない。
 その傍らで千影はこうも考えた。――あの子が自らの才能を伸ばす機会を得たとき、私は笑顔でその場所に送り出すことができるだろうか。私のエゴが、あの子の枷になりはしないだろうか。
 奇妙な千影の言い回しに少し怪訝な顔をしながらも、
「披露宴にはちゃんと来てよね。招待状出すから。もちろん、亞里亞ちゃんと一緒よ」
 片や鈴凛は危険球ギリギリに返した。
 正座からそのまま後に体を倒した千影はその光景を思い浮かべ、どちらがタキシードを着るのだろうなどと考え始めた。衛と花穂の二人なら十分にありえる。衛は今でも一人称がボクのままで、髪の短さも相変わらずだ。同じ筋肉質の体でも鈴凛のそれとはまた違って、無駄の少ない引き締まった体をしている。細身ですらりとした立ち姿にタキシードはさぞや映えることだろう。
 とりとめのない妄想にあくびが誘発される。
「アタシの分のコーヒー、飲む?」
 鈴凛があぐらのままで手を伸ばし、座卓のカップを引き寄せた。「ずいぶんぬるくなってるけど」
 千影は目尻に浮かんだ涙を指先で拭う。
「せっかく四葉くんが入れてくれたのに、きみはいいのかい?」
「いいのよ、別に。まだそんなに眠くないし」
 弾みをつけて上体を戻した千影の手にコーヒーカップが押しつけられた。カップは人肌程度にまで冷めていた。千影は目線で礼を送り、一気にコーヒーをあおった。
 最初はかすかに甘く、苦い液体だった。それがややもすると甘味が爆発的に増し、舌先にはじゃりじゃりとした質感が感じられた。
 せっかくの好意を吐き出すわけにもいかず、必死の思いで飲み下した千影は鈴凛に迫った。
「なっ、何だこれは!」
 ねっとりとした甘味が糸を引いているような気がして、千影は慌てて口を拭う。
「何って、コーヒーだけど」
「それはわかる。そうじゃなくて、この甘さだ」
 底に溶け残った砂糖を見せつける千影に対し、つんと顎をもたげて平然と答える鈴凛。
「だって、頭脳労働の疲労回復には糖分が一番でしょ。常識よ」
「いや、だからってこの量はあまりに非常識ではないのかい? これでは亞里亞くんといい勝負だ」
 ロイヤルミルクティー一杯に対し、山盛り四杯の砂糖が亞里亞の標準だ。
 例によって何度となく『おすそわけ』を貰ったのだが、その底無しの甘さに千影が毎回閉口したのはいうまでもない。しかも、この大甘ミルクティーをお供にケーキやショコラを口にするというのだから、見ているだけでも胸焼けものだ。事実千影は、お茶の時間に亞里亞の手元を見ないようにしている。
「それに、普通はシュークリームじゃないのか。勉強疲れの類には」
「はぁ? 何で?」
 鈴凛が呆れとも嘲りともつかない声を出す。
「いや、何だったかな、そういうマンガを見たことがある。勉強していてシュークリーム分が足りないとか何とか」
「あー、アタシも聞いたことあるな、そのフレーズ。確か、何とか大王ってタイトルだったような気がする。それも、最初の一文字が『あ』で始まってたはず」
「頭文字が『あ』の大王か」
 千影は思いつく限りの人名を頭の中に羅列した。何度もふるいに掛け、少しずつ対象を絞り込んでゆく。
 とある名前を見出した千影は、手のひらにもう片方の拳をぽんと打ちつけた。
「アンゴルモア大王」
 二人は顔を見合わせ、そのまま沈黙した。
「違うな」
「違うね」
 同時にかぶりを振った。
「でも、普通はアレクサンドロス大王じゃない? ま、それはそれで千影ちゃんらしいけど」
「アルフレッド大王かとも思ったんだが、さすがにマイナーだからね」
 得意分野なだけに千影は少し気取って言う。オカルトと西洋史は見た目以上に密接な関係にあるのだ。
「一応訊くけど、誰よそれ」
「九世紀ごろのウェセックスの王で、デーン人の侵攻からイングランドを守り抜いた偉大なる英雄。映画にもなっているらしい」
「ふぅん、人文学部は伊達じゃないのね」
 鈴凛は苦笑を浮かべ、手をひらひらと振った。
「それにしても、もどかしいったらないね。もう、ここまで出てるのになぁ」
 と、自分の喉を軽くチョップする鈴凛。扇風機の前に立たせたら宇宙人の声まねでもやりそうだ。
 千影も、手持ち無沙汰といった感じにほつれた前髪を指へ巻き付けながら、
「女子高生が好きな教師とか、天才小学生の女子高生とか、そんな変わり者も登場人物にいた気がする」
「そう、それそれ。同じマンガね。間違いない」
「あとは大きな犬だ。名前は……粂八(くめはち)だったかな」
「忠吉(ただきち)。最後の一文字しか合ってないじゃない。っていうか、アタシはその粂八って名前をどっかで聞いたんだけど」
「それは時代劇の登場人物だった、はず」
 言いながら千影は首を捻った。
「それにしても、千影ちゃんがマンガ読んでるなんてちょっと意外」
「それはひどいな。私はそこまで堅物じゃないさ」
 足が痺れが辛くなってきた千影は、お尻の下に組んだ足を横へずらした。「朝刊にだって一通り目は通す」
「読むと寿命が縮まる新聞じゃないよね」
「そろそろ怒るよ」
 千影は手近にあったクッションを軽く投げつけた。けらけらと笑いながら、鈴凛がそれを弾き飛ばす。
「怪しげな本ばかり読んでるってイメージがあるのよね。どうしても」
 あらぬ方へ飛んだクッションを拾い寄せ、鈴凛が笑顔を作った。
「その怪しい本を、私が鞠絵くんへ貸し出しているのさ。蔵書の数では彼女が勝っているが、ジャンルは一切被っていないからね」
 意外なことを聞いたという風に、鈴凛が小さく何度も頷いた。
「そして私は、その鞠絵くんから本を借りているというわけさ」
「なるほど、等価交換ってわけね」
 鈴凛が何気なく発した言葉を、千影が聞き咎めた。
「まさかと思うが、パチンコになど行ってはないだろうね」
「へ? 何で?」
「学生街のパチンコ屋の店先でそういう言葉を見掛けるものでね」
 と千影は、念を押すかのようにじろじろと妹を見た。
「なるほど。お姉ちゃんとしましては妹の素行が気になりますか」
 鈴凛は腰に両手を当て、姉の顔を下から覗き込んだ。
「いつもお金に困っているようだからね、きみは。もしやと思ったのさ」
 迫る妹の額をちょんと指先で突付くと、鈴凛はオーバーアクション気味に後へ転げ回った。
「えー、アタシってそんなイメージあるんだ」
「よく言うよ。昔は万事につけて私たちからお金を巻き上げていただろうに」
 落し物百円、ケンカの仲裁二百円などと家の中で看板を掲げていたが、あまりに流行らなかったので早々に店じまいしたという経緯が鈴凛にはある。落し物なら暇な誰かを借り出しての人海戦術があるし、仲裁は主に咲耶の役回り。商売内容を間違えたとしか言いようがない。
「でも、ほとんど未遂に終わったじゃない。それをみんなして守銭奴みたいに言ってさ」
「まあ、日頃の行いが悪かったと諦めるんだね。兄くんから小遣いをせびってばかりだったじゃないか。一度植えつけられたイメージはそう易々とは翻らないよ」
 その点で四葉は最も損をしているかもしれない。もっとも鈴凛と同様に、普段の素行が素行なだけに自業自得の面も強いのだが。
「しかし、貸し出してくれた本の中に、その何たら大王とかいうマンガが入っていたには意表を突かれたね」
「案外わざとだったりして」
 座卓に肘をついた鈴凛がずばりと言った。千影は首を縦に振った。
「いつだったかはハーレクインがこっそりと入っていたよ。意外に雑食なのかもしれないね、鞠絵くんは」
「あれ? 本のタイトルとか指定しないの?」
 鈴凛が頭を戻した。
「お互いに物持ち過ぎるんでね。何冊かを適当に見繕って渡している。これは読ませたいという本は優先して紛れ込ませるが」
「あぁ、なるほどね。それで鞠絵ちゃんが犯行に及んだわけだ。あまりに堅物な本のラインナップに『ここはわたくしが何とかしてさしあげないと、千影ちゃんの脳が動脈硬化を起こしてしまいます』って感じに」
「本当に怒るぞ」
 千影はぶすっと言い放った。
「それにしても意外だったのはこのコーヒーさ。まさに不意打ちだったよ。きみのイメージ的にブラックを連想していたらこのザマだ」
 未だじゃりじゃりとする口中に眉を顰めながら、千影はカップを突き返した。
「だって自分から聞かないじゃない、千影ちゃんって。いっつも、他人のことなんて知りませんって顔してさ」
 まじまじと見つめる無遠慮な視線に、千影は少しだけ首をよじって避けた。鈴凛の肩越しに見た窓はカーテンで覆われ、外の様子はわからない。
「聞いてもいいのか、いつも迷うんだ」
「でも、それこそ聞かなきゃわからないじゃない」
 鈴凛はひとつあくびをした。ふと思いついた千影が腰を浮かせてカップを掲げてみせるが、鈴凛は「いらない」と首を横に振った。
「アタシにブラックを飲ませようってんでしょ。甘い甘い」
「……なかなか勘が鋭いね」
 本当はそのつもりなどなかったのだが、とりあえずここは鈴凛に話を合わせることにした。なるほど、そういう手もあったのかと千影は改めて思った。
「しかし、そんなにも甘いコーヒーが好きなのかい? 私にはどうも理解できないな」
「悪い?」
 さすがに鈴凛が仏頂面で返す。
「そうは言わないが、こんなに砂糖ばかりを摂っていたのではね。体のどこかに溜まっているのではないかな」
 と、千影は鈴凛の体を舐め回すように観察した。たわわに実る胸のふくらみに目を止めてニヤリと笑う。
「惜しいな。きみがもう少し年増なら亞里亞くんのいい乳母になれたかもしれない。さぞや甘いんだろうね。まさに亞里亞くん好みだ」
「やぁね、アタシを勝手に妊娠させないでよ」
 胸をかばうように半身になって片手をひらひらと振る鈴凛だが、その仕草はどことなくおばさん臭い。千影は図に乗って続けた。
「そんなに立派な体形だ。あと何年かすれば、安産型というあだ名は間違いないな」
「もう、人が気にしてることをずけずけと!」
 鈴凛は姉に向かって力いっぱいにクッションを投げつけた。
「だいたい、アタシが誰と結婚するっていうのよ」
「大事な人を忘れている」
 千影は無造作に言った。
「兄くんでは不足かい?」
 やんわりと千影が投げ返したクッションを、鈴凛が腕を伸ばしてしっかと抱き止めた。その表情がふっと緩む。
「アニキかぁ……」
 うっとりと夢見がちな声でそう呟くと鈴凛は女の子座りになり、カンフーシャツの中にクッションを押し込んだ。
「アタシとアニキの赤ちゃんね」
 ぽっこりとふくらんだお腹を、鈴凛がゆるゆるとなでさする。体形とあいまって、そうしていると本当に母親らしく見えてしまう。
 俯き加減の顔には前髪が垂れ下がり、その目元は見えない。わずかに見えた口元には淡い微笑みが浮かんでいる。首筋に一房だけ遅れた髪が、自分たちの行く末を案じる寡婦のような儚さを鈴凛に与えていた。日々の暮らしに倦み疲れ、身なりに気を配る余裕すらもなくなるほどにやつれた姿。
 それでも、自らのお腹に当てた手の動きは力強い。自分と、自分の内に宿るものを励まし、勇気づけるように。そこには何があっても己の未来を信じて疑わない、強い意思が見え隠れしている。
 その姿を、千影は美しいと思った。不意に母の姿が重なって見えた。
 千影は自分の体をそっと抱いていた。痩せぎすな胸に、少し悲しくなった。
「――女の子だったら、名前はランランにでもするかい?」
 そんな思いを振り払うかのように、千影は努めて明るく言った。
「まさかぁ。それじゃあパンダよ」
 顔を上げた鈴凛は既に十八歳の女の子へと戻っていた。
 鈴凛は額に掛かった前髪を掻きあげるが、その動きが急に止まった。重大な秘密を耳打ちされたかのように、全身が固く強張る。
 やがて勢いよく顔を上げると、宙の一点をキッと睨みつけ、
「想像だけなら、兄妹でも許されるでしょ」
 シャツの中からクッションを引きずり出し、あらぬ方向へ荒荒しく投げつけた。壁にぶつかったクッションは大きく弾んで床に落ち、ベッドの陰へ転がり込んだ。
 肩で息をする妹の姿に、千影は「そうだね」とだけ相槌を打った。
「でも、あと十年もすれば皆そろっていい年になる。誰かは結婚していてもおかしくないね」
 千影の言葉に鈴凛が向き直った。憑き物が失せたかのように、さっぱりとした表情をしている。
「そう考えると何か不思議よね。全然想像つかない。しかも、生まれてきた赤ちゃんは十一人のおばさん持ちだし」
「その子に成り代わってお年玉がたっぷりせしめられるぞ。早婚も悪くないと思うが」
「でも、あまり早すぎるのも考え物ね。全員が社会人になった頃合いを見計らないと。雛子ちゃんが大学を出るまでには……あと十五年ぐらいね」
「何だ、結局は晩婚じゃないか」
 千影が本当につまらなさそうに言ったので、ようやく鈴凛が笑った。
「きみは四葉くんと結婚すればいいのさ。そうすれば全てがうまくいく。順風満帆じゃないか」
「千影ちゃん、やっぱりバカね」
 笑顔のままで顔を伏せながら、鈴凛は言った。元より冗談のつもりで言ったので、千影は素直に頷き返した。
「今は別にいいわよ。姉妹が一緒に暮らしたって、何もおかしいところなんてない。むしろそういうお年頃よ。だけど、この先はそうもいかない。無理なくやっていけるのはせいぜいがあと十年ね。二十年、三十年も経ったら、もう立派なオバンよ。体裁とか、そういう面倒なのが出てくる。それに、アタシのエゴだけでずっと縛りつけてはおけないし」
「しかし、四葉くんがそれを望んでいるとしたら」
「まさか。今にきっと、あの子にだって本当に好きな人が現れるわ。もしもそうなったら、板挟みになって苦しむのはあの子だもの。そんなイバラの道を歩ませるぐらいなら、早くから慣れたほうがいいに決まってる」
 確信めいた口調で言い切るので、千影は口をつぐむしかなかった。
 ふと真顔になった鈴凛が、
「それに、アタシにはメカ鈴凛を造るという目標がある。自力で造れるようになるまで、ずっと独身だと思う」
「それは、幸運の女神の手助けなしで?」
 造る、という言葉に引っ掛かりを覚えながらも、当然のように千影は問うた。
 だが、鈴凛は首を振って否定した。表情は硬く、唇は引き絞られているが、目はそこかしこを見ていて妙に忙しない。
 千影は鈴凛が口を開くのを待った。
「――秘密にしておこうと思ったけど、やっぱり無理。秘密って、隠そうとすればするほどに苦しくなるのね」
 頭を掻き、鈴凛は寂しげに微笑んだ。
 千影は答えなかった。急に無口になった姉をちらりと見て、鈴凛はわざとらしく大きなため息をした。
「別に、ギブアンドテイクなんて言わないから。これからしばらくはアタシのひとり言」
 小さく頷いて千影が返事をすると、鈴凛は太ももの上に両の手を置いた。モデルのように細くて長い指だが、ところどころに切り傷や火傷の痕、タコの類が見える。機械いじりに慣れ親しんだ、職人の手だ。無から有を生み出す、創造主の手。
「メカ鈴凛のことなんだけど」
 と、鈴凛は姉の様子を横目に見た。
「みんなはアタシが一から造ったと思ってるみたいだけど、本当はそうじゃない。結論から先に言うと、あれはジジが造ったものを受け継いだだけ。アタシが今までにやったことっていえば、入出力デバイスの取り付けや改造ぐらいなものよ。素体はジジが組み上げたままの状態で、ほとんど手付かずのままなの。だから、アタシの双子っていうよりはジジのもうひとりの孫って感じかも」
 鈴凛は顔を俯かせ、淡々と語る。肩を元気なく落とした姿は、誰かに叱責されているようにも見える。
「一度、四葉ちゃんの力を借りてレプリカを組んだことがあるの。時間を掛けて、ひとつひとつバラしては部品の構成をチェックして、そっくり同じ部位を作る作業。ひたすらそれの繰り返し。まさに、ラッキークローバーのご加護あってのことね。アタシひとりだったら、きっと途中で投げ出してたかもしれない」
「設計図とかは、なかったのかい?」
 視線だけをそろりと向けた鈴凛に対し、「ひとり言だ」と千影が呟いた。
 鈴凛は足を崩してあぐらをかき、両肩をぐるぐると回した。
「図面とか一応あるにはあったけど、それは設計当初のものだったから。千影ちゃんにはわからないかもしれないけど、設計図そのままに作ったからといって完成するものでもないの。プラモデルみたいに、完成形が最初から決まっているわけじゃない。トライアンドエラーの長い長い繰り返しで、少しずつ形になっていくものだから。まあ、何だってそうよね。例えば、白雪ちゃんの料理とか。材料だけ見ても、何ができるか全然わからないじゃない」
 ここまでをすらすら語った鈴凛はふと我に帰り、照れ隠しに咳払いをひとつした。
「とにかく、ひとつひとつ手探りでやっていってるから、構成されている部品の数が多くなれば多くなるほどに細かなズレが蓄積されてきて全然合わない箇所が出てくるの。ジジはひとりでやってたから、そういった変更点を図面に反映させずに自分の頭の中へ書き込んでたみたい。だから、図面と見比べても今のメカ鈴凛とは別物に近いの」
「まさに一品ものだね」
 鈴凛は大きく頷いた。
「そう、まさにメカ鈴凛は一体きりの存在なの」
 反応を確かめるように千影をちらりと見て、鈴凛は続けた。
「組み上がったレプリカは、結局目覚めなかったの。機能はどこにも異常なし。リモートコントロールならオリジナルよりも反応良かったぐらいなのに、ついに自我は生まれなかった」
「自我だって?」
 さすがに千影がきな臭い顔をした。
「自我っていうか、それに近いものね」
「機械に関しては門外漢だが、メカ鈴凛くんを動かしていたのはAIか何かだと思っていたよ」
 鈴凛は千影の視線を正面から受け止めたが、やがて耐え切れなくなったかのように俯いた。
「それが、アタシにもよくわからないの。アタシが物心ついたときには、もう『いた』の。彼女が」
「面妖な話だな」
 鈴凛は弱々しく頷くと、カーペットのほつれを指先で弄んだ。
「何もかもそっくり同じにコピーできたのに、でもダメだった。ボルトを半分入れ替えたり、手足を丸ごと交換したり。考えつく限りのテストをしたけど、何があの子をあの子たらしめているのか、そこがまだわからないでいるの」
 力なく頭を振り、鈴凛はゆっくりと天井を仰ぎ見た。
「とにかく、人間の形をした器だけじゃダメだった。魂は生まれなかったのね。アタシはずっと、身体が心を生み出すって思ってたけど、どうやらアタシの認識違いみたい」
「身体が心を作る、か」
 鈴凛の認識は、ある側面では間違っていない。
 今の千影の心は、赤毛を始めとする容貌と、人ならざる邪眼の力によって形作られている。自分は有象無象とは別種の人間だという歪んだ自尊心と、その対極に潜む自己卑下の感情。
 千影はふと想像することがある。私が普通の女の子に生まれていたら、と。豊かな黒髪、瞳は茶色で陽の光にも怯むことがなく、会社勤めの父と専業主婦の母は健在。そして、やさしい兄と愛らしい妹がひとりずつ。
 もしも自分がそんな普通の環境に生まれていたとしたら、今の私はどこまで私たりえるのだろうか。誰からも好かれる女の子になっていただろうか。
 髪が赤くなければ人の目に怯えることはなかった。青い瞳に魔の力が宿らなければ他人を見下すこともなかった。それだけは、間違いない。
「魂の人為的な錬成はもはや神の領域だ。古今東西、人の世に生命を創る秘儀は数あれど、それらでさえも心の再現までには至らなかった。きみは人という身でよくやったよ」
 千影の大仰な慰めに、鈴凛はうすら笑いで応えた。
「気休めなんか言わないで。他でもない、ジジがあの子を造ったのよ。ジジにできて、アタシにできないはずないじゃない」
 鈴凛は苦しげに絞り出すと、膝を抱えて床に転がった。ちょうど四葉と同じ格好だ。
「もしかすると、きみのおじいさんは錬金術師だったのかもしれないな」
「残念ながら、不肖この孫娘には才能がないみたい。今ごろはきっと天国で嘆いてるわ」
 くつくつという鳩の鳴き声が聞こえた。よく見ると、鈴凛の肩が痙攣するように揺れていた。泣いているのか笑っているのか、顔は前髪に覆い隠されている。
「あの子を殺そうと、何度も思ったの。めちゃくちゃに壊して、肉体という牢獄から魂を解放してあげれば、そうしたら、アタシの造った身体に乗り移ってくれるのかもしれないって、本気でそう思ったこともあった」
 千影は身じろぎも忘れ、妹の告白に耳を傾けた。
「――ねぇ、千影ちゃん」
 打って変わって、鈴凛は甘えた声を出す。
「こんな時期になってさ、留学に怖気づいたなんて告ったら、千影ちゃん、アタシのこと笑う?」
 千影が返事に困っている間に、鈴凛は勝手に続けた。
「自分で決めたことなのに、今さらビビるなんてバカみたいよね。自分の、自分だけの力でどこまでやれるのか、それを確かめたくってここを離れるのに、それを嫌がってる自分がいるの」
「しかし、四葉くんに後押しされたのだろう? ならば、全てが自分の意志ではないさ。そう責め苛むことはない」
 千影は自分なりに慰めたつもりだった。
「メッキが剥げてるわよ。千影ちゃんのバカ」
 鈴凛が心底不満そうに鼻を鳴らした。
「占い師らしくもない。人間、判断に迷いがあるときは誰かに後押ししてもらいたがるものよ。正しいとか正しくないとかそんなんじゃなくて、自分の決定を認めてもらいたいだけ。そんなのでよくタロットとかやってられるわね」
「……悪かったよ」
 千影があまりにしょげた声を出したので、鈴凛が思わず吹き出した。丸めた体を伸ばして千影に向き直ると、
「ごめーん。ちょっと言い過ぎちゃった」
 鼻掛かった声で鈴凛が言い、蛇のように全身をくねらせながら千影に這い寄った。膝元にたどり着くと鈴凛は一度上体をもたげ、千影の太ももへしなやかに崩れ落ちた。
「ともかく、アタシは留学する気だったの。でも、四葉ちゃんのことが心配で、それでずっと迷ってた。離れ離れになってもお互いにちゃんとやっていけるのかなって」
 亞里亞とはまた別種の重さに足が悲鳴を上げる。痺れがぶり返した。
「今日は、ホントにごめん」
 鈴凛が囁くように謝った。
「アタシたち、すごく変だったでしょ?」
「ああ。少し……いや、かなり変だったな」
「そっか。うん。やっぱり、変だったよね。今日のアタシたち」
 正直な反応に、鈴凛がほうっとため息を漏らした。
「千影ちゃんとじいやさんが話してたあの時ね、二人でこの屋敷を見て回ってたの。ほら、ここって昔にみんなで住んでた建物に似てるじゃない。三階建ての木造で、廊下は板張りで。すごく懐かしくなって、それで……探してたの」
「探す?」
「うん、探してた。みんなのこと」
 鈴凛がもぞりと頭を動かした。
「みんなで住んでたあの家に戻ったみたいになって、どうしてみんないないんだろうって二人で話しながら、ずっとぐるぐる歩いてたの。かくれんぼの鬼みたいに、ずっとね。最初はほんの冗談だったけど、だんだん本気になってきちゃって」
 千影はあの時の鈴凛の姿を思い出していた。文字通りの睨み合いに割って入った、威勢のいい声と足音とを。
「しかし、その割には元気そうに見えたが」
「それは」
 膝の上で頭を巡らし、悪戯っぽい目で千影を見上げる鈴凛。
「アタシの代理で四葉ちゃんに泣いてもらったから」
 ぴん、と人差し指で千影の膝を弾いた。
「悪い子だな」
「お仕置きのお尻ぺんぺんは勘弁ね」
「それは残念だ。叩き甲斐がありそうなのに」
 その言葉とは裏腹に、千影の手がするすると鈴凛の腰へ伸びる。それを察知した鈴凛が即座に迎撃を開始し、熾烈で低レベルな争いがくすくす笑いを伴いつつ繰り広げられた。
 鈴凛の防御網をかいくぐった千影の一撃が軽快な音を立てて炸裂すると、二人は息も荒いままにしばらく黙り込んだ。口を開くと何かが逃げてしまうという風に。
「――よかった」
「え?」
 鈴凛の呟きがあまりに密やかだったので、千影は覆い被さるように耳を近づけた。
「最後にいっぱい話せて、本当によかった。千影ちゃんと、いっぱい」
「最後だなんて、そんな言い方は――」
「縁起が悪い?」
 機先を制されてしまったので、言葉を奪われた千影はただ頷くしかなかった。
「大丈夫、そういう意味じゃないから。……でも、千影ちゃんとこんな秘密のないしょ話ができるのは、今夜できっと最後だと思う」
 しばらく間を置いて、鈴凛は続けた。
「歳を取れば取るほど、いろんなものを抱えなきゃいけないでしょ? 身分とか肩書とか、そんなの。だから、こうやってお互いに素直に話せる時間って、この先はもうないと思うの。アタシが戻ってくる頃には千影ちゃんも結構いい年じゃない。もしかしたら結婚してるかもしれないし。いろんなものを背負わされて喘いでる千影ちゃんに、今みたいな秘密のお話はできないもの。話す側は重荷から解放されて楽になれるかもしれないけど、聴く側はそうもいかない」
 千影は黙然と鈴凛の横顔を見つめた。
「例えば、アタシがどこかの企業に重役待遇で入った後に今の秘密を打ち明けられたら、すごく迷惑でしょ? アタシの実力100%で入ったのならともかく、明らかに下駄履いてるんだから。四葉ちゃんと、ジジの遺産と。黙っていれば秘密は守られるけど、そんないつ爆発するかわからないニトロみたいなのをずっとひとりで持ってられないじゃない。どうせだったら、誰かも巻き添えにしてやりたいと思うし、現にアタシはそうしたわ。だから――」
 ふっと鈴凛の声が沈んだ。
「本当に、これで最後」
 その一言は、自身の幼年期へ別れを告げているかのようでもあった。
 誰よりも未来を見つめている鈴凛の言葉だけに、それは千影の胸に大きく響き、染み渡った。もう終わりなんだという実感が、胸の奥底からじりじりと這い上がってくる。まるで夏休み最後の日のように。楽しかった日々は終わり、明日からは新学期という夜。何度も時計を眺めては、時が無情に過ぎ去るさまを見て落胆する。明日が来なければいいのに。今日がずっと続けばいいのに。それでも時計の秒針は止まらない。密やかな音を立てながら、時計は粛々と時を刻む。
 思えばこの告白は、鈴凛にとっての宿題だったに違いない。自らの恥を晒したにも関わらず、その口調は淡々としていて澱みがない。恐らくはこのときに備えて前々から準備していたのだろう。
 それに引き換え、千影はいつまでも宿題ができないでいる。『人ならざるもの』の秘密であることに違いはない。しかし、程度の差こそあれ、千影は自分自身が『人ならざるもの』だ。聡明な妹を前にしても、おいそれと話せる内容ではない。餞別にしては重すぎる。
 だが、この重荷をどこかで捨てねば、明日はやってこない。その場に立ち尽くしたままで、永遠に。
 ――私はいつまで、この終わらない夏休みを生きればいいのだろうか。
 波涛のように押し寄せる切なさが千影の涙腺を責め苛んだ。
 しきりに鼻をすする千影に、鈴凛が目を動かした。
「泣いたらすっきりするよ」
「私は、泣かない女なのさ」
 千影は辛うじて涙をこらえながら、即座に反論した。人前で涙を見せなくなったのはいつからだろうか。亞里亞の前で泣いたことは何度かあるのだが。
「私の代わりに、亞里亞くんが泣いてくれている。だから、私は泣かない」
 鈴凛が息を吸い込む音が聞こえたが、予想に反して彼女は何も言わなかった。それを残念に思う自分がいることに気づき、千影は思わず天井を見上げた。涙がこぼれないように。
 扉の向こうで人の動く気配がしたのはちょうどそのときだった。
 こんこんとノックする音に、衣擦れが混じって聞こえた。
「姉や、起きてますか?」
 姉たちの返事を前にドアノブが回り、扉の隙間から亞里亞がぴょこっと顔を覗かせた。首元のリボンで結ばれたナイトドレスがゆったりと広がり、顔を出した弾みでゆらりと動いた。
 亞里亞は千影の膝枕で横たわる鈴凛をじっと見つめていたが、首を傾げるばかりで何も言わない。居心地が悪くなったのか、鈴凛はがばりと上体を起こした。急速に失われゆく鈴凛の感触が惜しかった。
「ええと、ごめんね亞里亞ちゃん。勝手に姉やの膝を借りちゃって」
「ううん、いいの。姉やを借りに来たのは亞里亞のほうだから」
 頭を掻いて取り繕う鈴凛の姿に亞里亞はくすくすと笑う。ストレートに下ろした銀色の髪がゆらゆらと舞った。
「だってさ。ほーら、立った立った」
 鈴凛が足を伸ばして千影のお尻を突っついた。うるさげに手で払いながら立ち上がる千影に対し、つま先で執拗に責める鈴凛。
「ふざけてないで早く来てください。姉や」
 亞里亞は笑いながら千影を催促する。
 千影は亞里亞へ歩み寄るついでに鈴凛の背後へ回り、さりげなく足を踏みつけて行った。
「それじゃあ鈴凛ちゃん、姉やを借りていきます」
「いいよいいよ、どうぞごゆっくり。延滞料金は取らないから」
「えんたい……?」
 馴染みのない言葉に、亞里亞が千影を仰ぎ見る。
「まったく、私はレンタルビデオじゃないぞ」
 憮然とした表情の千影へ向けて、鈴凛がこっそりと中指を突き立ててみせる。千影はすかさず、立てた親指を下へ向けた。亞里亞の目に入らないよう、彼女の頭の後でやってみせる念の入れようだ。
「姉やたち、何してるの?」
 亞里亞が二人の姉を交互に見た。


  *


 照明がほとんど落とされた廊下は暗く、闇に慣れ親しんだはずの千影ですらも足元がおぼつかない。
 それでも勝手知ったる我が家なだけに、姉の手を導く亞里亞に迷いはない。ぱたん、ぱたぱたんというスリッパの合奏が闇に木霊した。
 窓の外には黒々とした緑が一面に広がっている。正門の常夜灯が木立に紛れて見える程度で、人工の明かりはほとんど見えない。公道の水銀灯は遥か彼方だ。
 おかげで山並みと夜空には継ぎ目がなく、深い闇の色が渾然一体となって一枚の織物を成していた。上は暗青色のグラデーション、下はまだらに染まった暗緑色。
 風が吹くと木々がざわめき、夜色の模様がかすかにさざなみをつくる。まるでビロードをなでつけたかのようだ。薙いだ毛羽の向きが変わると、光の反射する向きも変わる。右から左へ、左から右へ。
 そして、空は空で揺らぎがある。北の空は夜の女王の干渉を受けず、幾千もの星たちが思い思いに瞬いている。光害に犯された街中では到底お目に掛かることもできない。
「姉や?」
 足を止めて夜空に見入る姉に亞里亞が振り返る。亞里亞は何度も袖を引いて先を促すが、千影は敢えて気づかないふりをした。そうさせるほどに、この星空は千影の目に素晴らしく写った。
「何が、見えるの?」
 ようやく諦めた亞里亞がゆっくりと近づいてくる。千影のすぐ隣に立つと、背伸びをして姉と同じ高さに視線を持ち上げた。
「いつもと同じ空です」
「私の住んでいる街ではこんなにたくさん見えないんだよ」
 少し退屈そうに唇を尖らせた亞里亞に対し、千影はそう弁解した。
「でも、ここではいつもこんなです」
 二人きりのときにして珍しく、亞里亞は不機嫌さを露わにしている。千影は外を眺めたままで苦笑した。
「たまには私のわがままも聞いてほしいな」
 千影は闇に手を伸ばし、ドレスのフリルもろとも亞里亞の手を絡め取ろうとした。いつもなら即座に握り返してくる亞里亞だが意固地になっているらしく、姉の手から執拗に逃れようとする。
「――あ」
 夜空を駆けるものがあった。
「流れ星……」
 山の背後へ消えたのちに、亞里亞がぽつりと呟いた。
「何か、お願いはしたのかい」
 千影は亞里亞のあどけない横顔を見た。星明かりですらも眩しいのか、目を細めながら夜空を眺めている。おもむろに顔を伏せると、
「ないしょ……です」
 亞里亞が小声で言いながら千影の手を探り当てた。相変わらず冷たい手のひらに、反射的に身を引いてしまいそうになる。
 千影がそれに応えるように軽く握ると、亞里亞はすぐさま握り返してきた。
「姉やは、どんなお願いをしたの?」
 千影は星空に顔を向け、再び妹の手を握り締めた。今度は力強く。
「私もないしょさ」
 同じぐらいの力で亞里亞が握り返してきた。
 二人はしばらく、そのまま手を取り合っていた。
 千影の温もりが移り、二人の肌の境界が曖昧になり始めた頃。
「誰?」
 亞里亞が廊下の奥に向かって誰何した。千影の手がきつく握られる。
 つられて向き直るが、異様に深い闇は千影の視線を拒んでいる。不自然なまでに暗色が濃い。千影はふと、ここが元は療養所であることを思い出していた。
 床板の軋む音が近づくにつれて、白いエプロンドレスの形が次第に浮かび上がってきた。おぼろげに女性の姿形が現れたかと思うと、その人影は姉妹へ向けて一礼してみせた。
「亞里亞さま」
 抑揚のないじいやの声に、亞里亞が姉の腰へひしとすがりついた。
「亞里亞さま」
 返事がないのを訝しんだのか、じいやが歩をひとつ進める。その動きに呼応するかのように、亞里亞が腕を回したままで千影の背後に隠れた。それでも顔だけは覗かせ、メイドの様子をじっとうかがっている。背中ごしに亞里亞の震えが伝わる。
「亞里亞くんに、何か用が?」
 妹をかばうように千影は手を広げた。目の前の人影がかすかに頭を揺らし、きいきいと床板が鳴く。
 暗闇がふっと緩んだ気がした。
「おわかりですね、亞里亞さま」
 先よりはいくらかやわらかい声でじいやが呼び掛けた。
 じいやに無視された格好の千影だが、あることに気を取られるあまり、腹は立たなかった。腹を立てるどころではなかった。
 見られている。
 千影は、じいやと亞里亞の二人に見られていた。二対の目が、千影を前後から見据えている。
 好奇の視線に晒されることは今までしばしばあった。視線には慣れているつもりだ。しかし、今は状況が違う。――なぜ、私は見られているんだ?
 千影の脳裏に、監視カメラでのぞき見た光景が蘇る。あれは本当に、主人と従者との仲睦まじいひとときだったのだろうか。今思い返すと、亞里亞が何かを相談していたようにも感じられる。じいやが何事か言い含ませていたようにも思われる。
 ぐるぐると渦を巻く思考と平坦に塗り込められた闇とが平衡感覚を失わせ、千影はたたらを踏んだ。亞里亞を押し倒しそうになった千影は、身体を自ら壁に投げ出して難を逃れた。衝撃で窓ガラスをびりびりと鳴る。すぐさま亞里亞が駆け寄り、千影の腰に手を回した。
「亞里亞さま、よろしいですね」
 何度も念を押すメイドに、亞里亞がようやく「はい」とだけ答えた。
「では、くれぐれも亞里亞さまをおねがいします。千影さま」
 じいやは千影へ向けてお辞儀をすると、姉妹の脇をするりと通り抜けて歩み去った。
 彼女の姿が闇に消えると、亞里亞が千影の袖をぐいぐいと引いた。





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