螺旋の誘い 最新分へ

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 4 - Re-act - 2


 柱時計がかちりと時を刻むと、澄んだオルゴールの音色でアヴェマリアが流れ始めた。時計の文字盤の下では金色に輝く円盤がゆっくりと回っている。
 千影もオルゴールに倣い、ぐるりと首を回した。
「さて、そろそろおしまいにしようか」
 天蓋の支柱に手を添えながらベッドから降りようする千影の袖に、亞里亞の白い手がするりと絡んだ。
「姉やぁ、もう一回だけ」
「そんな甘えた声を出してもだめだよ。その『もう一回』を何度繰り返したと思ってるんだい」
 顎を引いて脅かし気味に視線を送る千影に対し、亞里亞は唇を真一文字に引き絞って必死にかぶりを振る。
「だって、亞里亞……」
 亞里亞はたちまちにうなだれるが、千影の袖を引く手は離そうとしない。これでは完全に悪役だ。この様子をニヤニヤとほくそ笑みながら鈴凛が観賞しているのかと思うと、少し鬱が入った。
 アヴェマリアが次第に遅くなり、やがて金属の軋む音と共にぴたりと止まった。
「わかったよ。仕方がないな。本当にあと一回だけだよ」
 ――私は本当に甘いな。
 自嘲めいた感情に口元を歪ませながら、千影は告げた。
「ありがとう! 姉や、大好き!」
 言い終えるや否や、亞里亞は満面の笑みを浮かべながら千影にひしと抱きつく。バラの香りがふわりと立ち昇った。ナイトドレスか髪の毛か、どこかに香水が仕込んであるのだろう。鼻につくばかりの安物とは違う。ほのかに甘く、優雅なバラの香り。――そうだ、これはママの匂いだ。
 千影の頬を滑り降りた水滴が、亞里亞の肩を叩いた。
「――あ」
 亞里亞がぱっと身を離し、千影を上目に見た。
「姉や、汗かいてます」
「え?」
 言われて額へ手をやると、確かにべっとりとした感触があった。手のひらが汗と脂でぎらりと光る。手のやり場に困るほどだ。
「そういえば、この部屋は少し暑いな」
 室温に意識を向けた途端、じわっと汗がにじみ出る。確かに暑い。額のみならず、服の内側も汗に濡れていた。ブラウスの一番上のボタンを外すと、汗の臭いを伴った熱気が鼻先をかすめる。
 クラシックな内装に合わせて偽装されたエアコンが、部屋の片隅で唸り声をあげている。
「そう? 亞里亞はまだ少し寒いぐらいです。だから、姉やが暑がりなだけだと思うの」
 見上げる亞里亞の顔には水滴のひとつも浮かんでいない。身に着けているドレスは薄手の布地が幾重にも束ねられており、かなり着膨れして見える。一歩間違えればマトリョーシカ人形だ。
 亞里亞がドレスの一番外の一枚を摘み上げ、千影の顔に近付ける。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ」
 脂で汚れていない左手だけで押し留める千影に、亞里亞が首を傾げる。
「まさか、それで私の顔を拭くつもりなのかい?」
「だめなの?」
 まばたきを繰り返しながら亞里亞が問い返した。くるりと丸まっていた犬の尻尾が垂れ下がるように、右手がおずおずと引かれてゆく。
「いや、だめじゃない。だめじゃないが、できればもっと別のものにしたほうがいいな。ドレスを汚してはじいやさんの仕事が増えてしまうだろう」
「はい、姉や」
 と、一応は聞き分けのいい亞里亞だったが、
「あの、でもね。これはじいやのためなの」
 今度は千影が目をしばたたく番だった。
「こうやって汚してあげないと、じいやのお仕事がなくなってしまいます。お洗濯っていうけど、洗濯機に入れてスイッチを入れるだけでしょ。だって、それぐらいなら亞里亞にもできちゃうもの」
 以前に皆で暮らしていた頃、炊事を除く家事全般はそれぞれが分担して行っていた。亞里亞も例外ではなく、窓拭きからトイレ掃除まで一通りは経験している。
「それはまあ、そうだが……」
 千影の返事は渋い。
 理屈の上ではまったく正しいのだが、仕事を与えてやる、とはまさしく上流階級ならではの発想だ。気遣いができるようになったのは結構だが、これを彼女の成長と素直に喜んでいいものかどうか。
 それに、シルクは洗濯機で洗うような素材ではない。日常で使う下着の類ならまだしも、亞里亞が着ているナイトドレスを放り込んだ日にはフリルが皺に化けてしまいかねない。
 悩む姉にはお構いなしに、亞里亞が千影の膝を跨いで腰を下ろした。ベッドが一段沈んだ。
「はい、姉や。じゃあ、じっとしててください」
 否も応もなかった。亞里亞の手が千影の顔をたちまちに蹂躙した。シルク地が柔らかに頬を滑ったかと思うと、フリルのチュール地が鼻の頭をかさかさとくすぐる。
 手つきはたどたどしいが、亞里亞は真剣そのもの。家宝でも扱うかのような念の入れようだ。切れ長の目元、前髪の生え際、小鼻のくぼみ。千影の膝からずり落ちそうになりながら、指先をそっと這わせる。
 あくまで真剣な眼差しがシルクに透けて見え、少し面映い。千影は布の下でゆるく笑いながら 脂でギラついた手を自分のブラウスにさりげなく擦りつけた。
「くすぐったいの? 姉や」
 亞里亞は敏感だった。手を止め、青い瞳を姉へ向けて固定する。
「そんなことは……いや、やっぱりくすぐったいかな」
「どこですか?」
「それは亞里亞くんでも教えられないな」
 心がくすぐったい、などとはちょっと言えない。何のかんのと口実をつけられて、挙句に胸をまさぐられてしまうのがオチだ。そういうのは風呂場だけでいい。いや、風呂場でもごめんだ。
 だが、そんな自意識過剰な悩みが亞里亞に通じるはずもない。
「もう、姉やのいじわるっ!」
 あっちいけ、とばかりに亞里亞はドレスの裾を大きく煽った。千影が上体を仰け反らせて避けると、その反動で亞里亞の体が後ろに倒れる。何の支えもない亞里亞は頬を膨らませたまま、ベッドの下へ転げ落ちそうになった。
「亞里亞くん!」
 千影は蟷螂が鎌を振るうがごとき速さで両腕を伸ばし、間一髪のところで亞里亞の脇の下に手を回した。そのまま引き上げながら腰を抱き、妹の体を固定させる。一連の動作でまたも汗が噴き出た。
 一方の亞里亞は小首を傾げ、きょとんと姉を見つめている。
「こらっ、危ないじゃないか」
 怒る姉の顔を見て初めて、亞里亞は自分の身に何が起きたのかを理解したらしい。
「……ごめんなさい」
 謝る亞里亞だが、その口ぶりには不満の色がありありと出ている。
「どうして姉やが怒っているのか、きみはまだわかっていないようだね」
「だって」
 亞里亞は小さくいやいやをする。
「亞里亞も姉やもどこもケガしてないのに、何も悪いことが起きてないのに、姉やはどうしてそんなに怒るの? 今の姉や、まるでじいやみたいです」
「しかし、その何かが起きてからじゃ遅いんだよ」
「でも、姉やは亞里亞のことをずっと守ってくれるでしょ?」
 亞里亞は姉の万能さを信じて疑わない。
 信じてくれるのは嬉しい。信頼を寄せてくれるのも、また嬉しい。
 だが、時としてそれが大きな負担になる。期待を裏切るまいとして自分の実力以上に頑張ったとしたら、その結果はどうなるか。行く手を阻むのは分不相応な高さに設定されたハードルだ。今までもやっとの思いでくぐり抜けてきたというのに。
「できればそうありたいさ。だが、私にそこまでの力はないんだ。考えてごらん? 亞里亞くんの言うように私が亞里亞くんをずっと守っているとしたら、離れ離れに暮らしている今は一体どうなるんだい?」
 千影は亞里亞の目をじっと見つめながら、やさしく言い聞かせた。
 幻滅させないように、あらかじめ幻滅させておく。大きな希望を育てるために、小さな希望の芽を間引きする。
 間引きという言葉が、千影の背筋にうすら寒いものを感じさせた。
「じゃあ、亞里亞のこと、きらいなの?」
 亞里亞の心が過敏に反応し、話を飛躍させる。目の端にじわりじわりと水滴が湧き出てきた。
「そうじゃないよ。きみのそばにいたいという気持ちに変わりはないんだ」
 千影はブラウスの袖のボタンを外し、折り曲げた袖口を当てて涙を吸わせた。
「例えるなら、人間が空を飛べないのと同じことさ」
 亞里亞は両手を揃えて、口元を軽く覆う。
「でも、飛行機は?」
 上目で姉の様子をうかがいながら、おずおずと亞里亞が訊いた。
「ああ、うん、そうだね」
 千影はわざと咳払いをして間を置いた。
「飛行機があれば空は飛べる。でも、人間ひとりだけでは無理だろう? どれだけ飛びたいと思っていても、思うだけじゃダメなんだ。人間がどれだけ羽ばたいたところで、絶対に空は飛べない」
 こくん、と亞里亞は頷く。
「私の気持ちもそうなんだ。どんなことがあっても亞里亞くんを守りたいと思っているけど、残念ながら姉やただの人間だ。きみが危ない目にあっていたとしても一緒にいなければわからないし、もしわかったとしてもきみの元へはすぐに行けない。箒に跨ってもお空は飛べないし、魔法のドアでどこにでも行けるわけじゃない」
 千影の心が疼く。少し嘘をついてしまった。だが、この子にあの力を知られるわけにはいかない。この子にだけは、嫌われたくない。
「きみが今のまま、姉やのことを信じていてくれたままで何か起きてしまったら、助けに来てくれなかったとガッカリすると思うし、私もきみを助けられなかったとガッカリしてしまう。だから……ね? 私にあまり心配を掛けないで欲しいんだ」
 ね? と、亞里亞の顔をもう一度覗き込んだ。
 青く大きな瞳が何度も不規則に痙攣する。まるで、ハードディスクの動作状況を示すパイロットランプのように。
 何かを考えている時の亞里亞はいつもこうだ。恐らくは彼女の脳内で、果てしない議論や討論が行われているのだろう。
 千影はあくまで、妹の聡明さを信じて疑わない。
 亞里亞はまだ動かない。千影のこめかみを一筋の汗が滑り落ちた。催促はしない。待つのには馴れている。
 ようやく亞里亞の頭がぴくんと動いた。忙しくまばたきをしたかと思うと、やがてにっこりと微笑んだ。
「はい。わかりました、姉や」
 柔らかな返事に千影は満足し、笑みを浮かべた。つられて、亞里亞の笑みもいっそう大きくなる。
 屈託のない妹の笑顔に、千影の心は満ち足りた気持ちでいっぱいになった。
「姉や、まだ汗が出てます」
 再び亞里亞の白い手が迫る。
 千影は逆らわなかった。その代わりに亞里亞の腰に回した両手へ力を入れ、ぐっと抱き寄せた。姉が自分の気遣いを受け入れてくれていると知り、嬉しくてたまらないという風に亞里亞がくすくす笑う。
 二人の距離が狭まっているせいか、亞里亞が手を動かすと千影の体までもが連動して動いた。ベッドが音もなくたわむ。
 ――それにしてもこの格好、どこかで見たような。
 亞里亞の手の下で、千影の顔が急に赤く染まった。
 これは、そうだ。あの秘密の上映会で見たビデオだ。
 リビングのビデオデッキの陰にラベルの貼られてないビデオテープを発見したのは、例によって四葉のチェキだった。姉妹の誰にも心当たりがなく、しかも、爪が折られた状態でテープが中途半端な位置に止まっている。鈴凛と咲耶の協議が『兄が密かに所持しているアダルトビデオ』という結論に達したのは当然の成り行きだった。
 兄と年少組を外出させ、赤外線センサーを玄関に仕掛けたり玄関のドアノブにチェーンを巻き付けたりなどと、万難を排した上で開催された秘密の上映会だったが、可憐の『お兄ちゃんはこんなのを見る人じゃありません!』の一言で五分と持たずにお開きとなった。
 ちなみにこのときの可憐の暴れぶりは今でも姉妹の間で語り草となっており、彼女を黙らせるには『ビデオ』の一言があればいいという有様だ。これもあと何年かすれば、ただの思い出話になってしまうのだろう。
 そんな上映会のブラウン管に写っていたのが、このような座位で睦み合う裸の男女の姿だった。
 カメラの先の彼女らは、これをどんな心境で見ているのだろうか。これでは『そう』見られてもおかしくないし、仮に『そう』見られたとしても亞里亞が相手ならこれはこれで悪くない。むしろ願うところだ。――千影の心に、勃然と怪しげな感情が湧き起こった。
「ところで、次はどんなお話がいいのかな」
 千影は己の邪な気持ちを切り替えるべく、慌てて切り出した。
「んー、えっとね」
 亞里亞の手が鼻を塞ぐ位置で止まり、千影は息苦しくなった。
「メリュジーヌは、ダメ?」
 少し躊躇う素振りで亞里亞がねだった。
「メリュジーヌか……」
 千影はやんわりと亞里亞の腕を取り、自分の顔から引き剥がす。
「それはとても悲しいお話だよ。せっかくだから、もう少し楽しい話にしないかい?」
「でも、亞里亞はメリュジーヌがいいの」
 亞里亞は唇を噛み締め、首をぶんぶんと横に振った。亞里亞の髪が銀色の竜のように暴れ回る。
 今日はいつになく頑迷だ。普段はもう少し聞き分けがいいはずなのだが。
 ――北風がダメなら太陽だ。
「――ねえ、亞里亞くん。亞里亞くんはどうしてメリュジーヌが聞きたいのかな?」
 千影は亞里亞を抱き寄せ、自分の胸に押し付けた。火照った体に亞里亞の冷たい肌が気持ちいい。
 亞里亞の頭がもぞもぞと動き、千影を下から覗き込む。
「じゃあ、どうして姉やはメリュジーヌがいやなの?」
「どうしてって、それは……」
 予想だにしなかった切り返しに、千影は思わず声を詰まらせた。
「姉や、どうして? どうしてイヤなの?」
 姉が答えないのをいいことに、亞里亞はさらに責め立てる。
 千影は諦め顔でため息をついた。
「わかったわかった。今回は姉やの負けだよ」
 と、亞里亞の頭に頬ずりする千影だが、当の本人はなぜそんなことをされたのか理解できていないらしい。きょとんと姉を見つめている。
 亞里亞がもぞもぞとし始めたので、千影は腰へ回した腕を解いた。その途端に亞里亞は千影の膝から降り、少し離れた場所にきちんと正座した。
「でも、姉や? 亞里亞と姉やはいつケンカしたの?」
 両手の指を軽く絡め合わせ、小首を傾げる亞里亞。
「ケンカなんてしてないさ。……しかし、おかしなことを言うね。きみも」
「でも、姉やは負けたって言いました」
「ああ、そのことか」
 千影は短く笑って、
「ケンカじゃなくて、きみの答えに負けたんだよ。姉やはね」
 その答えにますます混乱したらしく、亞里亞の眉が泣きそうな形に歪んだ。千影は膝でにじり寄って、亞里亞の頭にぽんと手を置いた。
「あれはもう一人の自分を見ているようだったよ。まさか、こちらの質問を質問で返してくるとはね。してやられたよ」
 千影は心からそう呼び掛けた。
「それが、姉やの負けなの?」
「ああ、それが私の負けだよ」
 亞里亞は笑顔の姉に納得できていないらしく、かすかに眉を顰めたままだ。心の機微を知るにはまだ時間が掛かりそうだと、千影は思った。
「でも、姉やは負けたのになんだか嬉しそうです。姉やは負けても悔しくないの?」
「そんなことはない。誰だって負けるのは悔しいさ」
 突然、咲耶の顔が思い浮かんだ。強くまばたきしてイメージを追い出す。
「だが、今のは悔しさよりも嬉しさのほうが上だったんだ。亞里亞くんがだんだん私に似て来ているのが嬉しくてね」
 亞里亞の顔にようやく安堵の色が戻った。
「亞里亞も、姉やに似ているって言われると嬉しいです。だって、亞里亞は姉やのことが好きだもの」
 亞里亞は自分の言葉を合図にくるりと背中を向け、そのままあお向けに倒れてきた。千影の膝に、ぼふん、と亞里亞の頭が乗っかる。今日はずいぶんと膝の忙しい日だ。彼女らを膝に引き寄せるフェロモンでも発しているのだろうか。
「髪の色も、姉やみたいな赤色だったらいいのに」
 亞里亞は両腕を宙に突き出し、姉のほつれた赤毛を指に絡めようとする。
「それはダメだよ。きみの青いドレスに赤毛は似合わないからね。いくら姉妹でも、似ていいこととそうじゃないことがある」
 千影は真顔でたしなめた。そして、ふと表情を緩める。
「むしろ、私が亞里亞くんのような銀髪になれればいいのにね。モノトーンの服にプラチナブロンドはさぞや映えることだろうし」
「ダメ、姉やは赤い髪じゃないといけないの」
 ついに亞里亞の指が一本を捕まえた。頭皮が引っ張られる感触に千影が逆らうと、小さく音を立ててあっさりと切れた。
 亞里亞は手に残った10センチを空中で離し、ふうっと息を吹き掛けた。
 行為そのものは子供じみているのに、その一連の仕草は亞里亞を優雅に見せていた。目を細めて髪の行方を追う横顔は、まるでどこかのマダムのよう。タイトな夜着に長キセルでも持たせればこの上なく似合うことだろう。
「――きみもだんだんと、大人になってゆくんだね」
 感慨深げに千影がぽつりと呟いた。
 千影はふと、亞里亞が全身を強張らせていることに気づいた。横へ向けた顔には表情がなく、白い喉が何度も上下している。
「どうかしたのかい」
 千影が肩に手を触れるやぱっと亞里亞は飛び起き、シーツをかき抱いて身に巻きつけながら後ずさった。
「亞里亞くん?」
 千影は戸惑った。
 亞里亞は吐く息も荒く、縋るような目つきで千影を見ている。そのくせ、千影が膝を詰めると同じだけ後ずさりする。
「亞里亞くん。私がきみに、何か悪いことでもしたのかい?」
 亞里亞は間髪を入れずにかぶりを振った。
「では、どうしてそんなことをする」
 苛立ちできつくなった声に、亞里亞が身を縮み込ませた。千影は咳払いをする。
「もしかして、姉やが怖くなったのかい?」
 猫なで声で千影は訊ねた。
 今度は少し間を置いて、亞里亞が首を横に振る。
 千影も小さくかぶりを振った。
「困ったね。何か言ってくれないと、姉やにだってわからないよ」
 亞里亞は否定も肯定もしなかった。視線を忙しくさまよわせる。
「――それは、姉やにも言えないことなのかい」
 千影はある確信を持って妹に問うた。
 亞里亞の俯いた顔が上を向き、視線が交錯した。たちまちその顔に怯えの色が広がると、細い首がかくんと下がった。
「姉や、あのね」
 亞里亞がおずおずと口を開いた。が、次の言葉がなかなか出て来ない。思い詰めたかのように、千影の顔とベッドの上とを視線が行き来している。
 やがて大きく深呼吸すると顔を上げ、ひたっと姉を見据えた。
「姉やは亞里亞との約束、絶対に守ってくれる?」
 極度に緊張しているせいか、亞里亞の声はかすれて聞き取りにくい。
「それは、約束の内容による」
 千影は安請け合いせず、正直に答えた。そんな姉の態度を見越していたのか、亞里亞の表情に変化はない。
「誰にも離さないって約束してくれたら、お話、してあげるの」
 意外に強い口調で亞里亞が告げた。
「わかった、約束しよう」
 千影は重々しく頷き、一転して明るい声を出す。
「せっかくだから、メリュジーヌのお話と交換しないかい?」
 姉の提案に、ようやく亞里亞の口元が緩んだ。
 どちらからともなく膝を詰め、指切りをする。
「先に姉やからお話して」
 甘えた声でねだると、千影の返事も待たずにころんと寝転がった。
 反動でゆらゆらとベッドが揺れる。今の千影の心のように。


  *


 この話は十一世紀のスコットランドにまで遡る。
 同地の古王国アルベニアを治めるエリナス王は少し前に妃を亡くしたばかりで、気晴らしにと一人で森へ狩りに出ることが多くなった。そんなある日、エリナスはふと立ち寄った泉のほとりで絶世の美女と出会い、一目で惚れてしまった。
 プレッシーナと名乗った美女――妖精の女王はエリナスの求婚に同意したが、たった一つだけ条件を出した。出産の現場には立ち会うな、というのだ。エリナスはたかがそれしきのことと特に問題にもせず、二人はめでたく結ばれた。
 やがて程なくしてプレッシーナは懐妊し、出産のときを迎えた。
 生まれたのは三つ子だった。それが、パラティナ、メリオール、メリュジーヌの三姉妹である。
 にぎやかな産声に狂喜したエリナスはプレッシーナと交わした約束など忘れ、産室に入り込んでしまった。そこではちょうど、プレッシーナがメリュジーヌに産湯を使わせているところだった。突如現れたエリナスにプレッシーナは悲鳴をあげ、腕に抱いたメリュジーヌだけを連れて姿を消した。後には茫然と立ち竦むエリナスと、母を失ったパラティナとメリオールの二人が残された。
 アルベニアを追われたプレッシーナとメリュジーヌは、ウェールズの沖合いに浮かぶ神秘の島、セファロニアに移り住んだ。島の高みからは故国アルベニアが見渡せる。プレッシーナは毎日のようにメリュジーヌをその高みへ連れてきては恨みの言葉を繰り返した。
「おまえの父親が約束を守ってさえいれば、今ごろは王女として何不自由なく暮らせていたものを」
 こうしてメリュジーヌは顔も知らぬ父に少しずつ憎しみを抱くようになり、心密かに復讐を誓った。
 時は経ち、メリュジーヌは美しい娘に成長した。妖精の母からは数々の魔術の手ほどきを受け、その美貌とあいまって、セファロニアの妖精たちの間で絶大なる人気を誇っていた。
 一方のパラティナとメリオールも、エリナス王の元で元気に育っていた。
 メリュジーヌはある日、かねてよりの企みを実行に移した。父、エリナスへの復讐である。
 母に内緒でセファロニアを出て、アルベニアへ渡ったメリュジーヌ。彼女は母の筆跡を真似て、エリナスに手紙を書いた。『あの日のことはもう忘れましょう。もう一度お会いしたいので、どうかブランドロワ山までお越しください』と。エリナスはこの手紙に喜び、パラティナとメリオールを連れてブランドロワ山へ出かけた。
 てぐすね引いて待ち構えていたメリュジーヌは、エリナスたち三人を自慢の魔法でさんざんに惑わせた上で洞窟に誘い込み、入口を大岩で塞いで閉じ込めた。このときのメリュジーヌは、エリナスに付き添っていた二人の少女の正体にまるで気づかなかったのだ。
 復讐を果たしたメリュジーヌは二人の姉をも巻き添えにしたと知らず、意気揚揚とセファロニアに引き上げた。
 だが、メリュジーヌを待っていたのは母の叱責だった。父親のみならず、姉二人をも閉じ込めたことがプレッシーナの逆鱗に触れたのだ。プレッシーナは三人を救出するよう、メリュジーヌへ命じた。
 メリュジーヌは慌ててブランドロワ山へ戻ったが、いくら探せど三人は見つからなかった。というのも、三人は既に自力で脱出していたのである。パラティナとメリオールは妹同様に妖精の血を引いており、それが縁で地元の妖精の手助けを得られたのだ。
 結局、三人を助けられなかったメリュジーヌは手ぶらでプレッシーナの元に帰還した。
 妖精女王の怒りは凄まじかった。
「罪深いおまえは今後、土曜日を迎えるたびに下半身が蛇になるのです。この呪いを解きたくば、おまえの求婚相手に対し、土曜日には決して会わぬように誓わせなさい。万が一にも約束を破られるようなことがあれば、この呪いは未来永劫おまえを苦しめるでしょう」
 母の仕打ちにメリュジーヌは泣く泣く故郷を後にし、海の向こうへと旅立った。


 千影が首を巡らせた途端、こきこきと骨が鳴った。
 話はようやく折り返し地点。これからが本当の意味でのメリュジーヌ奇譚だ。千影が渋ったのはもっぱらその長さにある。
 それともうひとつ――この話が悲劇に属していることだ。
 悲劇もまだ序の口だというのに、ベッドに寝そべった亞里亞は早くもぐずぐずと鼻を鳴らしている。見かねた千影が手を伸ばすと、白い指がしっかりと絡みついてたちまちに上体が引き込まれた。
 思わず笑う千影だが、しゃべり通しで喉が痛く、唇からはすきま風のような異音しか出ない。
 千影はサイドテーブルの水差しを取ろうとしたが、亞里亞は抱え込んだ姉の手を離そうとしない。目を合わせてそれとなく合図を送るが、亞里亞はかぶりを振るばかりだ。
「喉が乾いたよ。姉やにお水を飲ませてくれないかな」
 ひび割れた声での懇願に亞里亞はあっさり縛めを解き、ごろんごろんと連続で前回りをしてベッドから飛び降りる。危なっかしい手つきで水差しから汲み取り、「はい、姉や」とグラスを差し出した。千影が手を出す暇もなかった。
「ありがとう、亞里亞くん」
 薄目のレモン水は冷たく、乾いた喉に染み渡った。
 千影が喉を鳴らして飲んでいる間に亞里亞は素早くベッドへ戻り、シーツを巻き込みながら千影の膝元へぴったりと寄り添った。
「私はどこにもいかないよ」
 空になったグラスを戻しながら千影がやんわりと告げた。
 しかし、亞里亞は目元をごしごしとさせ、じっと姉を見つめている。早く続きを聞かせて、と無言のプレッシャーでも与えているつもりなのだろうか。あるいは、今夜はこのまま一緒にいてね、だろうか。
 千影は苦笑いしながらも、今度は手を伸ばさなかった。
 このメリュジーヌ奇譚は、ヨーロッパに数ある妖精譚の中でも最高のものとされている。
 当然知名度も高く、文学作品のモチーフとしても多く用いられている。ブリテン島に生まれ育った四葉は言うに及ばず、ヨーロッパで生まれ育った者なら寝物語として知っているはずだ。
 いつだったか四葉の語り聞かせを耳にしたことがあるが、あまりのアドリブの多さに千影は辟易したものだ。日本でしか小売していないベノアの茶葉で煎れたロイヤルミルクティーを一杯あげるから私に代わってくれ、と思わず言いそうになったほどだ。お調子者な四葉が曖昧な記憶を頼りに語るものだから雲行きがだんだんと怪しくなり、ついにはメリュジーヌが機織りをして羽衣を編む始末。どうやら途中で鶴の恩返しと天女の羽衣が混ざってしまったらしい。
 四葉が混乱するのも当然で、メリュジーヌのような『異種族婚』をモチーフとする話は世界の各地に見られるのだ。
 日本ではまず、天女の羽衣の逸話が有名だ。そのオリジナルとされているのがインドのアプサラスで、ペルシアのペリも同様に天女として知られている。
 ヨーロッパでは、メロウやローンと呼ばれるスコットランド沿岸部のアザラシ乙女が特に有名だ。彼女らはアザラシの毛皮を被ることによって変身し、海中に住み暮らす。彼女らとの間に生まれた子孫には、先祖返りとして水掻きが発現することもあるという。
 しかし、これらの中にあってもメリュジーヌの伝説は一際異彩を放っている。
 なぜならこの話は、れっきとした史実に属しているのだ。


 呪いを解いてくれる男性を探し求めて海を渡ったメリュジーヌは、フランスのポアトゥ地方、コロンビエの森へとたどり着いた。その地の妖精たちは由緒正しい王女であるメリュジーヌを歓迎し、彼女を自分たちの女王として頂くようになった。
 他方、人間界におけるポアトゥ地方の君主はレイモン・ド・リュシニャン伯だった。
 ある日伯爵は狩りに出て道に迷い、コロンビエの森をあてもなく歩き回った。いい加減歩きくたびれた頃、レイモン伯はどこからともなく聞こえてきた歌声に誘われ、とある泉のほとりへ出た。そこにいたのは、裸で水浴びをする絶世の美女――メリュジーヌだった。
 まだ独身だったレイモン伯はメリュジーヌに一目惚れし、即座に結婚を申し込んだ。が、彼女は結婚に際して一つの条件を出す。
『土曜日には決して私に会わないでください。それさえ守っていただければ、私は喜んであなたの妻になりましょう』
 奇妙な条件だと思ったレイモン伯だったが、彼女の美貌の前には些細なことだった。こうして二人は結ばれ、メリュジーヌは王女から伯爵婦人となった。
 レイモン伯とメリュジーヌは幸せな結婚生活を送り、十人もの子宝に恵まれた。
 ところが、二人の間に生まれた子供たちが物議を醸し出した。どういうわけか生まれた全員が奇怪な外見の持ち主だったのだ。巨大な垂れ耳のユリアン、一つ目のルノー、口から牙の飛び出たジョフロア、鼻先に斑点を持つフレモン――
 伯爵はメリュジーヌを愛していたし、また、この程度で動揺する彼でもなかった。
 しかし、彼の周囲が黙ってはいなかった。人間としての素性が明らかではない上に、結婚の際に交わした約束があまりに奇妙過ぎた。「あの約束は、浮気の時間をつくるための策ではないのか」との囁きに、伯爵の心はついに折れてしまう。
 疑念を拭えなくなったレイモン伯はある土曜の夜、メリュジーヌの部屋に忍び込んだ。カーテン越しに伯爵が見たものは、下半身が蛇となった妻が浴室から出てくるところだった。
 伯爵は本当にメリュジーヌを愛していたので、彼女への愛情に何ら揺ぎはなかった。この秘密は自分の胸にしまっておくことにし、二人は今にも増して仲睦まじく暮らした。
 しかし、運命はこの二人を見過ごさなかった。
 ある日、ジョフロアとフレモンが喧嘩をし、僧となっていたフレモンは修道院へと逃げ込んだ。ジョフロアは後に『巨人殺し』として名を残すほどの勇敢さを誇っていたが、同時に狂暴で残虐な性格でもあった。彼は弟の立て篭もった修道院に火を放ち、弟もろともに百人の修道士を焼き殺してしまったのだ。
 二人の息子が起こした惨劇に驚き悲しむレイモン伯。愛する夫を慰めようと寄り添うメリュジーヌだったが、錯乱のさなかにあった伯爵はついに禁句を発してしまう。
「失せろ、この汚らわしい蛇め! よくも我が一門を貶めてくれたな!」
 愛する人に罵倒を浴びせられたメリュジーヌは卒倒し、気絶した。
 我に返ったレイモン伯が介抱すると間も無くメリュジーヌは意識を取り戻したが、悲しげに夫を見つめて静かにこう告げた。
「呪いが私の身に降り掛かりました。ここから去らねばなりません。私は最後の審判の日まで苦しみと共に空を飛び続け、二度と地上に降りることのできない身となりました。この城が消えてなくなるまで、代々のリュジニャン家の当主の死に立ち会い、その悲しみのために嘆き悲しむことでしょう」
 それだけを言うとメリュジーヌは窓枠に飛び乗り、そのまま皆の前から姿を消した。
 エアコンの排気音に混じって、すうすうという寝息が聞こえてくる。
 千影は額をぬぐい、水差しから直接あおった。ガラス器に浮いた汗がぽたぽたと膝を濡らした。
「やはり、まだ難しかったのかな」
 亞里亞の寝顔に掛かった前髪を払いながら、千影はそっと呟いた。風が窓ガラスを叩き、木製の枠がカタカタと鳴った。
「そういえば……」
 千影はふと思い出した。メリュジーヌの足跡は窓枠に残り、城が焼け落ちるまで消えなかったという。
 この伝説には後日譚がある。
 妖精の女王の加護を失ったリュジニャン家はしばらくのちに滅びたが、それより前にアンジュー伯爵家が分家した。アンジュー伯爵家はプランタジネット家へと連なり、そのプランタジネット家は1154年のヘンリー二世即位から1485年のリチャード三世崩御までイングランドを支配し続けた。およそ三世紀もの間、イングランドの民は妖精女王の末裔を王と仰いでいたのである。
 そして今でも、彼らから枝分かれした家々が存在し続けている。
 皮肉なことに、高貴なる血統を絶やさないための近親婚が、異種族であるメリュジーヌの血を延々と受け継いでいるのだ。現在、最も有名なメリュジーヌの末裔はルクセンブルグ公国の大公家だという。もちろん、貴族とはいえどピンからキリまであるわけで、上流階級の系譜を遡ればそれこそ容易く見つかることだろう。メリュジーヌの名こそは記されずとも、彼女を娶ったレイモン伯の名はしっかりと残っているのだ。
 ――まさか。
 ある仮説に到達し、千影はうなじの毛を逆立たせた。
 ぎこちなく首を回し、傍らに眠る亞里亞を見た。ぐるぐると下半身に巻きついたシーツは亞里亞を蛇のように見せ、千影の胸を一段と騒がせる。
 亞里亞の――母の生家が上流に属していることは一目瞭然だ。世間の常識から外れた暮らしぶりを今さら挙げるまでもない。
 だが、千影が知っているのはそれだけだ。母の名前ですらも千影の記憶にない。親、親戚、血縁、自らの生まれに関わる全てが厚いベールに覆われ、見ることが許されていないのだ。
 代々続く名門貴族の家系か。それとも、成り上がり者が箔をつけようと没落貴族を取り込んだのか。どちらにしても、その可能性は十分にある。
 ――私たちは、彼女の末裔ではないのか?
 自らの生み出した疑念に駆られた千影は、亞里亞の足先に四つん這いで近寄り、膨らんだシーツの先端を手で押さえる。
 手が音もなく沈んだ。
 千影は思わず天蓋を仰ぎ見た。ほうっと息を吐き出す。何度も頷き、確信を高めてゆく。そんなバカげたことがあるはずもない。メリュジーヌの血を引いているからといって、そのものになれるわけではないのだ。
 それでも千影は手を滑らせ、心の澱みを払拭するかのようにシーツの襞を潰していった。やがて指先が何かに触れ咄嗟に引っ込める千影だったが、それは亞里亞のつま先だった。
 亞里亞がもぞもぞと身じろぎをして、目を覚ました。
「姉や、お話はもう終わりなの?」
 両手で目をこすりながら、亞里亞が小さくあくびをする。
「すまない。起こしてしまったね」
 千影が謝ると、亞里亞は「ううん、いいの」と微笑んだ。
「じゃあ次は、亞里亞がお話する番です」
 そんな亞里亞の上体はふらふらと揺れ動き、今にもシーツの海へ落ちてしまいそうだ。
「いや、それはまた今度にしよう。もう眠いんだろう?」
 亞里亞はかぶりを振った。ゆるく縦に巻いた髪が一房流れ落ち、亞里亞の片目を隠した。
「ううん、ダメなの。亞里亞は姉やにお話すること、あります」
 胸元で両手を握って少し心細げに、しかし、きっぱりと亞里亞が告げた。
「それはわかった。だが、明日起きてからでもいいじゃないか」
「今じゃないと、ダメです」
 間髪を入れずに亞里亞が応えた。
 千影は腕組みをし、隻眼の亞里亞をまじまじと見つめた。
 青い目がまばたきを忘れ、こちらをじっと見返している。
 今夜この時にしなければならない話とは、一体何だろうか。
 そしてなぜ、メリュジーヌの悲劇をせがんだのだろうか。
 そこまで考えた千影の脳裏に、ふとよぎるものがあった。もしも、仮に、そうだとしたら、全ての説明ができる。自分に秘められた人外の力すらも。
 ――先祖返り。
 かさっ、という密かな音に千影は驚き、顔を上げた。
 亞里亞が膝でにじり寄り、不安げな面持ちで姉のスカートを引いている。
 千影は胴震いを抑えながら、躊躇いがちに頷いて許可を与えた。
 しかし、亞里亞はなかなか口を開こうとしない。俯いて上目を遣ったかと思うと、目を閉じて唇を引き絞る。
 千影は根気強く待った。
「――亞里亞は、怖いの」
 今にも消え入りそうな声で呟いた。
「怖い?」
 亞里亞は、はい、と首を縦に振り、
「亞里亞は、亞里亞が怖いです」
 今度ははっきりと言った。
「自分が怖いというのは、しかし……」
 千影は思わず首を傾げた。
「それは例えば、夜中に突然目が覚めたり、とか」
 遠回しに訊ねたが、亞里亞の反応は鈍い。
「ううん。夜は、いつも夢ばかり見てます」
 亞里亞は姉に倣い、同じ向きに首を傾げた。
「そうじゃなくて、体が怖いの」
 と、ささやかな胸のふくらみに両手を添えた。
「でも、お風呂の時に話してあげたじゃないか。胸が大きくなるのだって、それは大人になるための――」
「亞里亞は大人になんかなりたくないの!」
 亞里亞は必死の形相で叫んだ。
 甲高い声が千影の鼓膜に突き刺さり、思わず頭を抱えてうずくまる。おどけたのではない。その証拠に、残響が窓ガラスをかたかたと揺らしている。
 自分の行為に気付いた亞里亞は、赤らめた顔をそっと伏せた。
 耳鳴りから回復した千影が頭を振りながら訊ねた。
「ずいぶんとまた唐突だね、きみは。クリスマスに会ったときは、中学校のセーラー服を着るのが楽しみだって言ってたはずだが」
「でも、今は怖いの。胸の奥がずきずき痛くなって、それに、身長もどんどん伸びてきて。もう、白雪ちゃんや花穂ちゃんを追い越してしまったの。最初は姉やに近づいたみたいで嬉しかったけど、みんなはそう思わないの。亞里亞は十二歳ですって言ったら、亞里亞のこと、すごく変な目で見ます。そのあとに、ママンはフランスの人なのって言ったら、変な目で見なくなったけど……」
 くぅっと亞里亞の喉が鳴った。目は充血して赤いが、涙は見えない。
 亞里亞の戸惑いは千影にも理解できた。クラスの集合写真を見ても、亞里亞の恵まれた上背は一際目立つ。姉妹の中でも、身長の高さでは中ほどに位置しているほどだ。
「それに、亞里亞が大人に近づくと、みんな離れ離れになるの。姉やや咲耶ちゃんは少し遠いところへ行って、春歌ちゃんは姉やよりも遠いところに行って、亞里亞はとっても寂しいです」
 亞里亞はうなだれ、小刻みに肩を震わせた。千影はその様子をただ見守った。
「それに、あと少ししたら鈴凛ちゃん、すごく遠いところに行っちゃう。そんなの、亞里亞はイヤです。寂しいのはイヤ。姉やに会いたくなったらじいやにお願いすればいいけど、アメリカはじいやでも遠過ぎます。だから、亞里亞は大人になりたくないの。ずっと子供のままでいたいです。亞里亞が子供のままで時間が止まったら、鈴凛ちゃんがアメリカに行く日が来なくなって、ずっとここにいられるの」
 亞里亞は姉を見つめた。期待の篭った眼差しが千影に突き刺さる。眉間がずきずきと痛みだした。
「ねぇ……そうでしょ、姉や?」
「亞里亞くん、それは……無理だ」
 千影は声を詰まらせながら顔を背けた。言葉を探しながら、ゆっくりと紡いでゆく。
「時間の流れは、絶対に止まらないんだ。亞里亞くんが子供のままでいたいと思っても、時間はそれを許してくれない。仮に亞里亞くんの成長が止まってずっと子供でいられたとしても、私たちの間に流れる時間はそれと関係なしに動いてしまう。だから――」
「ごめんなさい……」
 ふと、亞里亞が呟いた。
「ごめんなさい、姉や。時間が止まらないって、亞里亞はわかってます。でも、じいやに同じことを話したら叱られちゃったから、それで姉やに聞いてみたの」
 千影は鈍痛の残る額に手を当てながら、妹と目を合わせた。いつもは茫洋と光る瞳も今このときばかりは強く輝き、明確な意思が感じられた。
「亞里亞くん、きみはもう――」
 そのまま続けようとする千影だが、かぶりを振って思いとどまった。今の亞里亞に、きみは十分に大人だよ、とは言えない。
 しかし、自分が十二歳だった頃に比べれば、この子ははるかに大人だ。力に耽溺し切っていたあの頃の自分は、なんと幼稚で愚かだったろうか。
 ふっと眼光が弱まったかと思うと、亞里亞はさらにシーツをかき抱いた。
「だから、姉や?」
 膝と膝がぶつかる。
「ずっと亞里亞のそばにいるって、約束して」
 他愛もない妹のおねだり。いつもならそう決めつけて安請け合いするところだ。
 だが、今は違う。
「姉や」
 そう囁きながら、妹の表情が少しずつ歪む。
 亞里亞の目が、約束して、と無言で訴え掛ける。
 この子は今じゃないとダメだと言った。
 ――なぜ、今なのか。
 とりとめのない考えが脳裏で再び渦を巻く。
 千影は、自分の心が急速に萎えるのを感じていた。
「――約束して」
 亞里亞は小指を立てた右手を差し出した。今の千影にとって、それは凶器にも等しかった。
「亞里亞のこと、離さないって」
 千影が反応を示さずにいると、亞里亞の体がふらっと傾いだ。そのまま、千影を目掛けてゆっくり倒れ込む。
 咄嗟に腕を伸ばして抱き止めた千影は、亞里亞の冷たさに一瞬ぞっとした。
「姉や、姉や……」
 うわ言のように繰り返しながら亞里亞は上体をよじり、全身を這わせて千影の胸にすがりついた。胸に耳を押し当て、亞里亞は安堵のため息を漏らす。
 それとは対照的に、千影は苦痛のため息を漏らした。まるで氷像を抱いているかのような冷たさに鳥肌が立つ。心温まるはずの妹の抱擁だというのに。
「ずっとこのままでいたいけど、でも……ダメなのね」
 憂いを帯びた独白に、部屋の温度が心なしか下がった気がする。
「亞里亞くん、きみは……」
 千影は思わず唾を飲み込む。その音がひどく耳障りに感じられた。
「きみは何を知っているんだい、亞里亞くん」
 亞里亞は姉の胸へ押しつけた顔を少しだけ浮かせ、その隙間から千影を覗き見た。
 身体の陰から――地の奥底から届くような視線に、千影は我知らず畏怖した。妹が妹ではないような錯覚に襲われた。
 千影は自分の心の動きを不審に思った。妹のいたいけな眼差しに、どうして自分はこんなにも怯えているのだろうか。
 亞里亞の唇が声も無く動くと、やがてふっと顔を背けた。
「――それは、言えません」
 亞里亞のソプラノが冷たく響いた。
「教えてくれなければ、約束はしてあげられないよ」
 我ながらひどいことを言う、と千影は思った。罪の意識で胃の奥が重い。
 視線を弱めた亞里亞は千影の腕の中で縮こまり、くすんと鼻をすすった。
「どうして、そんなこと言うの? さっきまで、亞里亞のことをあんなに――」
「怖いんだよ。姉やも」
 亞里亞が「えっ?」と顔を上げた。
「亞里亞くんがどうして今になってそんなお願いをするのか、それがわからなくて姉やは怖いんだ」
 胸の動揺を聞き取られないように、そっと亞里亞の肩を剥がした。
「怖いの? 姉やが?」
 好奇心に青い瞳がくるくると動く。
「怖いものは怖い」
 千影はぎこちなく微笑み、
「三角おめめのじいやさんは、きっと誰だって怖いさ」
「そうよね。やっぱり、じいやは姉やでも怖いのよね」
 亞里亞は喉を鳴らして笑った。楽しげな声に、胃の重みがさらに増した。
 矛先はうまく逸らせた。だが、これで本当によかったのだろうか。自分が本当に怖れているのは、そんなことではないというのに。
 千影の葛藤も知らず、亞里亞は無邪気な笑顔を向ける。千影は即座に口を開いた。亞里亞にこれ以上喋らせまいとするかのように。
「だって、そうじゃないか。姉やは何があっても、ずっと姉やのままだからね」
 亞里亞が忙しなく目をしばたたかせた。
「例えば、きみが兄くん……兄やと結婚したとしよう」
 何か言いかける亞里亞を、千影は人差し指を押し当てて制する。
「すると、きみは兄やの妹からお嫁さんになって、兄やはきみの兄からお婿さんになる。わかるかい?」
「はい。でも、ええと……」
「だけど、姉妹という繋がりはこれからも決して変わることはない。姉は姉、妹は妹。きみがどうなったとしても、姉やはずっと姉やのままなんだ。そうだろう?」
 四葉の言葉を借りることに躊躇いはなかった。――そう、姉妹の絆は絶対なのだ。
 亞里亞は目を丸くし、あっ、とだけ声を出した。その顔がたちまち笑みで満たされる。
「それじゃあ、亞里亞が亞里亞じゃなくなっても、姉やはずっと姉やのままなのね」
「えっ?」
 千影は思わず問い返した。
 ――亞里亞が亞里亞じゃなくなっても。
 その言葉に不吉な響きがするのは、本当にただの気のせいだろうか。
 ベッドの揺らぎで我に返ると、クローゼットからセーラー服を取り出す亞里亞の姿が見えた。
「姉や、見て!」
 濃緑色のセーラー服を上からあてがい、亞里亞はその場でくるんと一回転してみせた。翻ったスカートのプリーツが行儀よく元に戻る。
「亞里亞は中学生になるの! 大人じゃないの! 中学生よ! 亞里亞はこの制服で、中学生になるのよ! 姉やみたいな、すてきなレディになるの!」
 その叫びは、世界中に宣誓しているかのように思えた。
「――でも」
 亞里亞は制服を胸に抱くと、糸が切れたかのようにその場へ力なく跪いた。
「これは、羽衣でもアザラシの毛皮でもないのね」
 千影は掛ける言葉もなく、ただ見守ることしかできなかった。


  *


 千影は暗闇に閉ざされた廊下をさ迷い歩いていた。
 その足取りは重い。しかし、止まらない。重い荷物を背負わされ、その重心の偏りで半自動的に足が動いている感じ。あるいは、急な坂道を走って下りるようなものだ。一度勢いがつくと容易には止まれない。自分の意志に関わらず。
 現に、千影の心は大きな荷物を背負い込んでいた。
 その重みを意識すればするほどに、重みが増してゆく。疑いが募ってゆく。
 だが、否定したくとも否定し切れないところにまで、千影は歩を進めてしまった。
 周期的に訪れる変化の呪い。
 地を這う何者かの痕跡。
 肉から滴り落ちる血。
 全ては状況証拠にしか過ぎない。動機もない。しかし、亞里亞を犯人に仕立て上げれば全ての疑問が氷解するのだ。
 それが嫌ならじいやに罪を被せるしかない。いかなる手段を用いてでも、私が犯人でした、と言わせればいいのだ。一度破られたとはいえ、千影には邪眼がある。だが、人ならざる邪眼の力こそが、実の妹である亞里亞への疑いを強める元となっているのだ。
 自分に魔性の力が宿っていなければ、その考えも一笑に付していたことだろう。――亞里亞が半人半蛇の人外へ変身するなどと、誰が信じるだろうか。
 その亞里亞は今ごろ夢の中だ。
 制服を抱いたまま眠り込んだ彼女をベッドへ運ぶ作業は、二重の意味で面倒だった。
 胃の奥が鉛を飲んだかのように重い。
 千影は足のもつれるままに、壁へ身を投げだした。
 ひんやりとしたものが手に触れ、千影は思わず手を引いた。ふと見ると、真鍮色のドアノブが闇に鈍く光っている。
 千影はマスターキーを首から外し、鍵穴に差し込んだ。そのまま、倒れるように中へ入る。監視カメラの存在を思い出したが、自暴自棄にも似た気持ちが何もかもを吹き飛ばした。
 後ろ手に鍵を掛けて部屋を見回すと、そこはいくつかある応接室のひとつだった。部屋の一角、窓際がひどく明るい。千影は誘われるままにふらふらと歩み寄り、その場に膝をついた。
 中空に浮かぶ満月が窓の外に見えた。長方形に切り取られた月明かりは、まるで光るテーブルのよう。
 千影はふと思い立って、タロットカードを白銀の中に広げていた。
 半ば無意識のまま、ぐるぐると円を描くようにシャッフルする。完全に混ざったところでひとつにまとめて縦に持ち、トランプのように手早く捌く。
 カードを切る乾いた音だけが小さく聞こえる。皆でトランプ遊びをするときには、必ず千影がカードを捌く役目を請け負っていた。タロット占いを日課とする千影にとってはまさに独壇場で、その時のためだけに派手なシャッフルを密かに練習したりもしていた。それも今となっては誰も見てくれる人はいない。皆の視線と喝采を浴びていたあの頃は、もう戻らない。
 手を止めるとカードの山を床に置き、一枚をうやうやしくめくった。
「――月」
 ちらりと見て絵柄を読み上げるとカードを場に戻し、手を大きく回してシャッフルを始めた。
 今はまだ、まともに占いができる精神状態ではない。アルカナの持つ意味合いからインスピレーションを得ようと思えば、それなりの集中が必要になる。今のままでは、表面的な意味をなぞることに終始してしまいかねない。占う事柄の内容に沿って、引き当てたアルカナの順序を解釈する。タロットで本当に占おうと思えば、ちょっとしたストーリーテリングの技術が必要なのだ。
 日常で行っていることの繰り返しによって平静さを取り戻す。千影にとって、これは準備運動のようなものだ。
 シャッフルをして、上から一枚めくる。
 それを繰り返すうち、心の澱みも少しずつ消え去ってゆく。いつもと同じ、何も変わらない日々のひとときがそこにあった。
 だが、数を重ねてゆく間に、千影はあることに気づき始めた。
 同じアルカナしか出ていない。
 千影はおもむろに手を止め、カードにそっと手を触れた。息を詰めながら、厳かな手つきでめくる。
 千影の目に入ったのは、不安と秘密とを暗示するアルカナ――月だった。
 小さくかぶりを振って身じろぐと、千影は再びカードをかき混ぜた。いつもより時間を掛けて、念入りに。
「――そんな」
 青白い明かりに浮かび出たのは、三日月の下に佇む女性の絵柄だった。今度は逆向きだ。アルカナが逆位置に出ると、その意味も変わる。逆位置の月は――真実を見出す。
 千影はそのあと四度繰り返し、四度とも同じ結果を得た。上下が交互に入れ替えた月を、千影は見た。
 もはや心の平穏を取り戻すどころではなかった。
 秘密が不安をいや増し、その行く手には真実が待ち受けている。
 半ば恐慌をきたした千影は、手つきも乱暴にベルトポーチの中へタロットを押し込もうとした。
「痛っ!」
 瑠璃色の鱗が月光の中に転がり出た。それは宝石のように鋭く輝く。
 隠し場所に困り、ベルトポーチへしまい込んだのを忘れていたのだ。人差し指からじわっと血がにじみ出て、赤い球体を形作った。
 千影は己の迂闊さを呪いながら、何気なく舐め取った。
 その刹那、千影の全身に甘やかな電流が走った。
 体が浮き上がるような開放感。身を縛り付けていた不安が遥か彼方に遠のく。かわりに押し寄せてきたのは途方もない幸福感だった。怖れも、怒りも、悲しみもない。全身に力がみなぎってくる。今なら何でもできるような気がした。夜の闇がオーロラのように輝いて見えた。
「あ、ああ……」
 全身を駆け巡る快感に、思わずため息を漏らしていた。歓喜が涙に変わり、頬を伝わり落ちる。
 千影は我を忘れて自分の指先にしゃぶりつき、ぴちゃぴちゃと密やかな水音を立てながらひたすら快楽を貪った。
 ハッと気がつくと、指先の傷は跡形もなく消えていた。白銀のテーブルはわずかに斜めへ傾いていた。
 鱗はまだ月明かりの中にあった。心なしか、先よりは光り方が鈍いような気がする。
 千影は鱗と人差し指の傷を交互に見やったかと思うとタロットを一枚取り、指先を勢いよく切りつけた。スッと赤い線が走り、血がじわじわと染み出る。疼痛に眉を顰めながら、千影はゆっくりと唇を寄せた。
 千影の予想通り、それは血の味しかしなかった。どこか昔懐かしい味。タロットを始めて間もない頃は、こうしてカードの縁でよく切ったものだ。
 苦笑いして思い出を振り解くと、千影は瑠璃色の鱗に鋭い視線を向けた。
 またひとつ謎が増えた。だがこの謎は、残る全ての謎を解き明かす鍵となるかもしれない。
 千影は満月を仰ぎ見てひとつ深呼吸すると、慎重な手つきで鱗を回収し、確かな足取りで部屋を出た。





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