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 5 - Alternative - 1


 半ば道場破りの心境で勢いよく扉を開けた千影だったが、中からぷうんと流れ出た香ばしい匂いに腰砕けとなった。緊張の糸がぷっつりと切れ、その場に崩れ折れた。
「あ、おかえりー。遅かったデスね」
 ノートパソコンの前に座った四葉が、割りばしをくわえながら振り返った。手にはスチロール製の容器がある。「これは一体どういうことだ」
 四つん這いの姿勢から顔を上げて呟く千影に対し、
「あ、千影ちゃんの分もちゃんと買ってきたデスよ。とりあえず、並にしましたケド」
 と、四葉は傍らのビニール袋を指した。袋には有名牛丼チェーン店のロゴが描かれてある。
 怪訝な表情を保ったままでのっそり立ち上がった千影を見て、四葉が首を傾げた。
「ええと、もしかして大盛りのほうがよかったデスか?」
「いや、そういうことではなくて」
 千影は渋面でかぶりを振った。今までのシリアスな気分が一挙に台無しだ。
「私が聞きたいのは、何だって牛丼がこんなところにあるのかということだ」
「それは買ってきたからに決まってマスよ。こんな山奥までデリバリーしてくれるわけないデス」
 少しむっとして四葉が答えた。
「そういうことじゃない。誰がこんなものを買ってきたんだと聞いているんだ。私たちが何のためにここへ集まっているのか、きみもわかっているだろう」
 どこまでもマイペースな四葉に、千影はさすがに苛立ちを隠せない。
「鈴凛ちゃんとじいやさんデス。じいやさんのスポーツカーで山道をぎゅわーんと――」
 その名前に千影は自分の目的を思い出した。
「で、じいやさんは?」
 千影はずいっと大きく詰め寄って、四葉の説明を遮る。
「四葉はちゃんとお留守番してたデスよ」
「じいやさんは?」
 四葉は口をもごもごとさせるが、
「――あっちデス」
 千影の剣幕に押される格好で、衝立の向こうを指差した。
 ふくれっ面の四葉に「ありがとう」と捨て置き、千影は歩き出そうとした。
「でも、今はビール飲んで寝てるかも」
「なんだって?」
 その何気ない言葉に千影は振り返り、ぎろっと四葉を睨んだ。
「あの人に飲ませたのか?」
「そうデスよ」
「何てことだ。まったく、とんでもないことをしでかしてくれたな、きみは」
 文字通りの頭ごなしに叱られた四葉だが、さすがに腹が立ったらしく、バネのように立ち上がって猛然と食って掛かる。
「ギュウドンを買ってきてくれたんデスから、お疲れサマで一本ぐらい飲ませてあげてもいいじゃないデスか!」
「一本だけ?」
「そうデスよ、一本だけデスよ」
「ちゃんと見たんだろうね」
 四葉はぎくりとした。
「ええと、それはその……」
「見てないんだね?」
 粘着質な千影の視線に四葉はぷいっと顔を背けた。やれやれとばかりに首を振る千影。その様子を四葉が横目でうかがう。
「でも、どうしてそんなこと言うデスか?」
「見ればわかるよ」
 げっそりとした顔で手招きする千影に、半信半疑の面持ちの四葉が続いた。
「あまり見たくはないんだが」
 二人同時に衝立から顔を覗かせると、そこには大の字でベッドに寝転がるメイドの姿があった。ベッドの周囲には握り潰された空き缶が散乱している。
「……六本か。まだマシなほうだな」
 しみじみと呟く千影に、四葉がなぜか悔しそうな顔を見せる。
「うー、これは四葉のチェキ不足デシタ。まさかこんなに飲むヒトだったなんて」
「そうさ。二人でショッピングに行ったときにはいつも大変さ。レストランで勝手に飲んだ挙句に酔いつぶれて、タクシーの座席に押し込むのはいつも私の役だ。まったく、冗談じゃない」
 酔っ払うことを前提とした居酒屋や赤ちょうちんならまだいい。しかし、ドレスコードのある高級レストランでテーブルに突っ伏すような真似だけはなんとかならないものか。笑い上戸でも泣き上戸でもなく、ただひたすら手酌で飲み続けるだけなので周りへの被害は最小限で済むが、じいやさんのハンドバッグを漁って取り出したカードをキャッシャーに出す、あの行為ほど惨めたらしい気持ちになる瞬間はない。おまけに、すみませんと平謝りしながら荷物を持ってもらった挙句にタクシーまで呼んでもらって「大変ですね」と見ず知らずの人に同情される、そんなのにすっかり馴れてしまったなんて我ながら信じ難い。お金は全部出してもらっているのであまり強く言える立場ではないし、翌日にお詫びの文面を綴った長文メールが届くので多少は気も紛れるとはいえ、これでは丸っきり立場が逆じゃないか。
「――今まですっごくガマンしてたのデスねぇ」
 うんうんと頷きながら、四葉がメモ帳を片手にペンを走らせた。
「千影ちゃんの愚痴はしっかりチェキさせていただきマシタ」
 四葉はペンのお尻を額にぴしっと当て、敬礼の代わりとした。
「じいやさんはミステリーの多いひとデスからね。こういう地道なチェキはとっても欠かせマセン。そうじゃないと鈴凛ちゃんみたいになっちゃうデス」
「そういえば、鈴凛くんは?」
 千影の疑問に、四葉のペン先が壁際を向いた。示す先には棒切れのようにぐったりと横たわる鈴凛の姿があった。血の気も薄い顔は目もうつろで、歯はがちがちと噛み鳴らされている。
「大丈夫かい?」
 駆け寄ろうとする千影を四葉が押し留める。手でハンドルを大きく切るジェスチャーをし、
「じいやさんのハンドル捌きは亞里亞ちゃんから聴取済みなのデス」
 と、得意げに胸を反らした。
「しかし、鈴凛くんがああまで弱るとはね。彼女はそんなに乗り物酔いしやすい体質なのかい?」
 四葉はぶんぶんと首を振る。
「んー、どちらかといえば、四葉のほうが弱いかも」
 と言うと、何かを思い出したかのように今度は首を縦に振った。
「亞里亞ちゃんの話デスと、じいやさんの一番すごい運転は亞里亞ちゃんがお寝坊したときで、ムチをばんばん叩いたギャロップぐらいだそうデス」
 千影に乗馬の経験はないが、亞里亞は上流階級の嗜みとかでそこそこに乗りこなせるらしい。四葉もイギリス出身だけあって何度か乗ったことがあるという。
 千影はとりあえず競馬のテレビ中継を思い浮かべ、騎手の視点からの眺めを想像した。いまいちピンと来ないが、揺れが激しいのは間違いない。
「敵を知り井上を知れば百戦危うからず、デス。今はそっとしておいたほうがいいと思いマスよ」
 無粋な突っ込みは敢えて入れず、千影は眉を顰めるにとどめた。
「知ってたのなら、教えてあげればよかったじゃないか」
 だが、横目に見える鈴凛の様子はやはり尋常ではない。口元を押さえ、背中を時折わななかせている。
 千影がなおも鈴凛に寄ろうとすると、四葉は八重歯も剥き出しに突然吠え掛かった。
「だって鈴凛ちゃんってば、四葉と一緒にいるよりじいやさんのスポーツカーに乗るほうがいいって言うんデスよ! 四葉が引き止めてもゼンゼン聞いてくれないんだもん。そんなイジワルな鈴凛ちゃんなんかライスプディングに頭ぶつけて死んじゃえばいいデス!」
「死ねなんて言葉を軽々しく使うんじゃない!」
 瞬間的にこみ上げた怒りに、千影は思わず怒鳴っていた。
 寝返りを打つ物音がステレオで聞こえた。
「ご、ごめんなさいデス……」
 四葉は叱られた犬のようにしゅんと萎れ、上目でちらちらと千影の様子をうかがった。
「すまない。私のほうこそ、少し大人げなかった」
 千影もあっさりと謝った。例えほんの冗談であっても、今は死という言葉を弄びたくはない。が、なぜこんなにも激昂したのか、それは千影自身にもわからなかった。普段は前世がどうのと自分から口にしているというのに。
「しかし、にわかには信じ難いな」
 鈴凛は相変わらず苦悶の表情を浮かべている。
「一体、どれだけのスピードを出したのやら」
「ええとデスね……往復で三十分も掛かってないデスよ」
 四葉が自分の腕時計を見ながら、文字盤を爪の先でコツコツ叩いた。
「三十分って、それはいくら何でも無茶だ」
 早さに定評のある食べ物とはいえ、注文を入れてから店を出るまでに数分は要する。つまり、片道を十分やそこらで麓の町まで駆け降りた計算になる。千影が日中、この屋敷へ来るまでに要した時間を考えると、そのスピードはほとんど走り屋マンガの世界だ。
 おまけに乗っているのは正真証明のメイドだ。牛丼屋にスポーツカーで乗りつけたメイド。アルバイト店員の驚愕ぶりが目に浮かぶ。
 千影は腕組みをし、改めてベッドに横たわるじいやを見つめた。メイド服の胸元は大きく開け広げられ、二つのふくらみが寝息に合わせて蠱惑的に揺れ動く。
「――で、じいやさんに用があるんデスよね。千影ちゃんは」
 下から顔を覗き見られた千影は、不意打ちに半歩下がった。
 ――今日はいつになく驚いてばかりだ。
 千影は心の中で自分を叱った。昔はもっと気を張り詰め、全てに油断なく目を配っていたというのに。
「千影ちゃん、どうしてそんな顔するデスか」
 薄く笑みを浮かべた千影を、四葉が不思議そうに眺める。
「ちょっと昔を、ね」
 言いながら千影は腕を組み直し、じいやを睨みつけた。
 今日は昔を思い出してばかりいる日だ。ふと、そう思った。
 千影ばかりではない。鈴凛がそうだ。皆がそうだ。新たな一歩を踏み出そうとするまさに直前、長い助走の終わりだ。千影は二十歳になり、四葉と鈴凛はこの街を出て、亞里亞は中学校に進む。
 未来を入れる場所を作るために過去の思い出を整頓する。皆が一斉に過去を振り返ったのには、そんな心境が根元にあるような気がする。
 そして今、もっとも大きな過去を掘り返そうとしている。それは、一人の兄を戴き、十二人の少女を姉妹たらしめている全ての元凶。
 全く予期せぬ形で自分の素性を知ることはあった。千影と亞里亞がそうだ。だが、それは例外中の例外で、自ら暴き立てようと事を起こそうものなら、あらゆる方面からの妨害が入った。命を狙われる事態にまでは発展しなかったが、不愉快な思いをしたことなら幾度とある。
 しかし、行く手を進むには秘された過去を知らねばならない。亞里亞が、そして自分が何者なのかを確かめねばならない。古びた紙の中に潜む亡霊を呼び覚まし、教えを請わねばならない。
「――しかし、その前にこの人を起こさないといけないな」
 四葉が二人を交互に見た。
「でも、すごく気持ち良さそうに寝てマスね」
 寝息も軽やかに至福の表情で眠るじいやは、およそ千影の苦悩とは程遠い場所にいた。千影は彼女の寝顔が急に憎らしく思えて始めた。謎めいた言葉を投げつけ、怪しげな行動で迷わせ、その挙句に自分だけはさっさと眠りの世界へ引き篭もってしまった。そして、そんな彼女の言葉に惑わされてきた自分自身にも腹が立った。
 どんな方法で叩き起こしてやろうかと睥睨しつつ歩み寄ると、何の前触れもなくじいやが瞼を開いた。千影は息を飲んで驚き、歩みに乱れが出る。
 そんな千影の動揺を見透かしたかのように、メイドが口元を歪めた。
「タヌキ寝入りとはね。恐れ入ったよ」
 千影は平静さを装いながら静かに切り出した。
「いいえ、まさか。そんな目で睨まれてはおちおちと寝ていられませんもの」
 じいやが上体を起こしながら易々と捌いた。
「そうは言うが、実際怪しいものだね。いつもは起こしても起きないくせに」
「大人になればわかりますわ。千影お嬢さま」
 目を細めて感情の発露を抑える千影に対し、涼しい表情で胸元のボタンを止めるじいや。手つきは意外としっかりしている。
「酔って何もかもを忘れ、さっさと寝てしまいたいときもあるのです」
「無責任な」
 千影はさすがに声を荒げた。
「無責任」
 じいやが冷たい声で繰り返した。
「ええ、そうですね。確かに、そうかもしれません」
「開き直っても無駄だ」
 顔を歪め、これ以上我慢できないという風に千影は言い捨てる。
「私に何もかもを押しつけるつもりか? 私をここへ呼んだ張本人はそんな体たらくとはね。甚だ不愉快だ」
「でしたら、最初から自室で休ませてもらうところです」
「ならば、不寝番はどう弁解する? 私が来なければいつまでも寝ていたくせに」
 じいやはふっと表情を和らげ、ゆるゆるとかぶりを振った。
「どれだけ飲んでも、酔えない日だってあるのです」
「そんな言い訳――」
 千影はなおも糾弾を続けようとしたが、じいやの顔色を見て口をつぐんだ。
 飲んで酔っているはずなのに顔色は驚くほど白く、ともすれば蒼ざめて見えるほどだ。
「それで」
 じいやが居住まいを正し、ベッドの上で正座した。
「どんなご用件でしょうか」
 黒々した瞳が千影を正面から見据えた。蒼ざめた顔には明らかに緊張の色が見える。瞼がひくひくと痙攣しているのがはっきりとわかった。千影は確信した。この人は怯えている。しかし、千影に怯えているわけではない。それも確信した。
 だが、それは千影も同じだった。自分の意志とは裏腹に、頬がびくびくと引き攣るのがわかる。何度も指先で抑えてなだめるが、筋肉は言うことを聞こうとしない。
 異様な雰囲気に四葉が後ずさりをするが、散乱する空き缶に足を取られて派手に転んだ。それでも二人は四葉を省みようとしない。四葉も二人に助けを求めようとしない。
 三人が一様に口を閉ざしたまま、時間だけが過ぎていった。
「――千影さま」
 乾いた声が千影を呼んだ。
「そのご様子ですと、亞里亞さまからは何もお聞きになられなかったのですね」
「いや」
 その問いの意味も考えず、千影は反射的に応えた。
「代わりに、メリュジーヌの話を聞きたいとせがまれたよ」
 まじまじと千影を見つめ、直後、つと視線を外すメイドの姿に、千影は不審を一層募らせた。
「じいやさん――」
「千影さま」
 じいやが素早く遮った。
「千影さまがお知りになりたい事実は、確かにこの私が隠し持っております」
 震えながらもきっぱりと言い切ったじいやの口調に、千影は一瞬息が詰まった。
「あなたは一体、どこまで……」
 それだけ言って絶句した。知らぬ存ぜぬを貫かれた怒りよりも、何もかもを知っているという驚きが上回った。
「ですが、私の一存ではお渡しできません。一介のメイドにそこまでの権限はないのです。千影さまが自らの立場を利用されて、それで初めて、お渡しすることができます」
 じいやはきれいに三つ指をつき、深々と腰を折った。
「ご指示を。千影お嬢さま」
 傍目には、千影が新たな主人として認められた瞬間にも見えたことだろう。亞里亞の実姉でありながら、正式には認められていない庶子以下の扱い。
 だが、当の千影にそのような認識はない。千影はこれを、じいやの逃げと受け取った。最後の決断はあくまで他人に押しつけるつもりなのだ。酒を飲んで酔い潰れようとし、さらなる逃げを図った。
 ――何て無責任なんだ。
 新たな怒りが鎌首をもたげた途端、千影の口がそれを吐き出していた。
「家系図を、見せてほしい」
 千影の背後で息を飲む音が聞こえた。目の前のメイドは置き物のように、平伏したままでぴくりとも動かない。
 と、じいやの頭がほんの少しだけ持ち上がった。
「奥さまのほうでよろしいのですね」
 何気なく先回りをしてみせたじいやの言葉に千影の背筋が凍った。改めて疑問が浮かび上がる。この人は何者なんだ。
 彼女の表情は、ここからでは見えない。
「千年ほど遡れるとありがたいのだが」
「具体的にはどのあたりまで」
「十一世紀」
 じいやの頭がかすかに揺らぐ。
「十一世紀……」
 いつもはよく響くアルトが、うっそりと繰り返した。千影は急に不安に駆られる。
「できないのか?」
「いえ、できます」
 じいやの反駁は速やかだった。再び頭を沈めると、
「承知いたしました。ただいますぐに」
 そう返事をしてゆっくりと持ち上げた顔には、何の色も浮かんでいなかった。純氷をくり抜いて作られた仮面にはガラス玉の眼が嵌っている。無色透明だった。
 そのガラス玉がくるりと動いて千影を捉えた途端、氷の仮面が砕け散った。ガラス玉がほんのりと明るくなる
 千影の顔を見て、じいやは満足そうな笑顔を見せたのだ。
 それは女教師の微笑みだった。難問を解いた生徒へ投げ掛ける、あの笑顔だった。よくできたわね。やればできるじゃない。
 千影が困惑のままに一度まばたきをすると、メイドの顔には仮面が再び氷着していた。
 じいやは表情を消したままでベッドを滑り降りると、尻餅をついたままの四葉を一顧だにせず、足早に去っていった。その足取りは確かで、酔いの兆候はどこにも見られない。彼女の体臭にアルコールの芳香がかすかに混じっている。
 ぱたん、と扉が閉じると、千影は大きく息を吐き出した。無意識のうちに息を止めていたらしい。
「――千影ちゃん」
 今にも泣き出しそうな声が背後から掛かる。
「四葉たち、これからどうなるの」
「どうもしない」
 振り返りながら千影は言った。「多分ね」
 尻餅をついたままの四葉は唇をへの字に曲げていたが、千影が手を差し伸べると少し表情を崩した。
「千影ちゃんのこと、信じてもいいデスか」
 上目遣いで姉の手にすがる四葉。千影はそれに答えず、妹の手を引いた。
「きっと大丈夫だよ」
 四葉を立ち上がらせたところで、千影は何の気もなく呟いた。ふと、横たわったままの鈴凛が目に止まった。
「きみがいれば、きっと大丈夫だ」
 四葉も千影につられる格好で鈴凛を見た。その横顔がわずかに曇る。
「――鈴凛ちゃんに聞いたのデスね。四葉のこと」
 その声は湿り気を帯びていた。四葉はくるりと背中を向ける。
「それは、鈴凛くんのほうから話してくれたんだ」
 言い訳じみた言葉になってしまうのは、がっくりと肩を落とした四葉に罪悪感を覚えたからなのだろう。
「ずっと二人だけの秘密って、約束してたのに」
 四葉は心底恨めしそうな声で愚痴ると、鈴凛の元へふらふら歩き出した。千影の手が思わず伸びていた。
 亜麻色の髪が指先に触れたと思った瞬間、何の前触れもなく視界が二重にぶれた。
 きぃんという耳鳴りが千影の頭蓋を襲う。マイクのハウリングなどとは比べ物にならない。今にも鼓膜が破れてしまいそうだ。もしやと思って窓を見ると、びりびりと小刻みに窓ガラスが震えていた。
 ――これは地震なのか?
 だが、異変はそれだけだ。地震であればもっと揺れている。ガラスだけが揺れる地震などあるはずがないし、この耳鳴りの理由がつかない。とすれば、これは地震などではない。では何だというのか。
 脳裏をよぎった仮説に千影は目を見開き、座卓のノートパソコンを見やった。画面にノイズが走っているのが遠目にもわかる。千影は監視カメラの中継を確かめようと歩を進めた。
 が、頭を動かした途端に目の前がぐにゃりと歪んだ。ダリの絵の中へ投げ込まれたように、目に入るあらゆる物体がねじ曲がる。
 その視界がぱっと戻るや、代わりに押し寄せてきたのは平衡感覚を失わせるほどにひどい眩暈だ。自分が今、立っているのか歩いているのか、それすらもおぼつかない。雲の上を歩いているとはまさにこのことだ。千影はたまらず膝をつき、四つん這いになった。
 しかし、安寧を求めたはずの床にも異変が現れた。カーペットの毛並みが脈打つようにうねり、そこに置いた手はずぶずぶと埋没する。波打ち際の砂浜へ立ったときのようだ。引く波が足元を攫い、砂粒が滑らかに溶け出してゆく、そんな不思議な感覚。潮騒に誘われるようにゆらゆらと体が傾ぐ。身も心も、このまま沈んでしまいそうだ。瞼が次第に重くなる。もちろん、これはただの錯覚だ。三半規管が攻撃を受けているせいで変調をきたしているのだ。千影は己の心に必死で言い聞かせる。
 だが、そうわかってはいても抗い難い。眩暈に特有な不快感がないのだ。夢遊感だけが異常に増大している。視界はゆるやかに浮き沈みし、時折ねじれては渦を巻く。こんな感覚の味わえるジェットコースターができればさぞや好評を博すことだろう。
 千影は全身をわななかせながら床を這いつくばり、必死の思いで座卓の前にたどり着いた。ケヤキの無垢板にだらしなく顎を乗せる。堅くて冷やかな木の感触が今は何よりもありがたかった。
 息を整えると、千影はディスプレイを睨みつけた。
 いくつも開いた窓には一様にノイズが走っていた。闇夜に白い砂粒がちりちりと浮かんでは消える。
 その中のひとつ、もっとも大きなウィンドウに赤い光点がふと灯った。重なりあうようにふたつ、一面の黒の中を左右に揺れ動いては不規則に瞬く。
 突然、暗闇に月明かりが差し込み、赤い光点がかき消えた。ベッドの天蓋を覆ったレースが、青白くぼんやりと照らされる。亞里亞の部屋だ。
 果たして、シーツの海には亞里亞がうずくまっていた。頭を抱え、苦しげに肩で息をしている。抱えた頭をベッドに押しつけているそのさまは、誰かに祈りを捧げているようにも見える。いや、あるいは救いを求めているのかもしれない。耳を塞ぎ、延々とかぶりを振っている。なびく銀髪とシーツの皺が交じり合い、ベッドは大河と化していた。
 その動きがぴたりと止まると、亞里亞はゆっくりと身体を起こし始める。頭を下げたまま、丸めた背中を少しずつぎくしゃくと伸ばしてゆくさまは、まるで蝶の羽化のようだ。滝のように垂れ下がった髪が亞里亞の顔を覆い隠していた。
 その銀糸の中にふたつの赤い光が宿ったかと思うと亞里亞は髪を振り乱し、勢い良くがくんと頭をもたげた。
 千影は息を飲んだ。
 亞里亞の目が赤く輝いていた。口を大きく開け、頭を左右へ緩慢に振るいながら、かくっ、かくっと背中を反らせてゆく。オペラ歌手が高らかに歌を――アリアを歌い上げるように。
 同時に千影の耳鳴りが一段と強まった。耳を塞ぐ手に力を込めるが、亞里亞の歌声はほんのわずかな隙間も逃がさず中へ入り込む。
 じいやの怯えの色は血縁のタブーにではなく、これに対して向けていたのだろう。それはつまり――亞里亞の目覚め。
 呻き声に顔を向けると、体を半分に折り曲げた鈴凛が床を掻きむしりながら転げ回っていた。その枕元では千鳥足の四葉がふらふらとしている。妹を助ける気は十分なようだが、自分の身を守るので精一杯で手が出ていない。やがて何かに引きずられるようによろめき歩き、衝立へ頭から突っ込んだ。床へ伏した四葉は転げ回って二枚をなぎ倒し、ぱたりと大の字になってそのまま動かなくなった。一瞬ひやりとするが、彼女の強運を思い出して安堵した。
 亞里亞の独唱は声量を増す一方だ。狂奔する三半規管と絶え間なく画面を覆うノイズに亞里亞の姿は消え、ほとんど見えない。
 その刹那、視界がクリアになった。眩暈も耳鳴りも一段落だ。ディスプレイのノイズも消えている。嵐の前の静けさか、それとも息継ぎのためか。
 暗闇の亞里亞は、赤く光らせた目で天を仰ぎ見ていた。宙に突き出された両腕は、風に吹かれてそよぐ葦のように弱々しく揺れる。その腕の振りが不意に強まったかと思うと、空気を掻き乱すように頭上でぐるぐると踊った。まるで溺れている人間が助けを求めるかのように。
 二言三言囁くように、亞里亞の口が動く。
 直後、今までとは比べ物にならない強さで上演が再開された。容赦のない大音声に吐き気がこみ上げ、千影は口元を押さえた。
 津波が押し寄せるように窓ガラスが鳴り、高く澄んだ悲鳴が空気を震わせた。脳裏が灼熱化し、視界までもが赤く染まる。耳鳴りは正常な聴覚を奪い、他には胸の鼓動だけがどくどくと聞こえる。千影の全身から汗がどっと吹き出た。
 不意に後頭部へ衝撃が走った。頭をかばって振り返る千影だが、刻々と歪みを増してゆく風景の中に人影はない。二度三度と衝撃が続けざまに千影を襲った。嵐の波間を漂う小舟のように、千影の上体が何度も弾む。
 最後に一度大きく痙攣すると全身から力が抜け、千影は呪歌の海へと沈んだ。





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