5 - Alternative - 2
暗闇の中から誰かのすすり泣く声がする。
くすんくすん。すすり泣きをするのはあの子と決まっている。今夜は何が悲しくて泣いているのだろうか。
千影は目を開けた。
だが、そこには漆黒の闇が広がっていた。上体を起こして辺りを見回すが、そこもまた暗闇だった。360度、天も地もない。
試しに手をかざしてみた。皺はおろか、指紋までもがくっきりと見える。服はいつもと同じだ。白いブラウスに黒いネクタイ。灰色のタイトスカートはくるぶしが隠れている。
闇に囲まれてはいるが、闇に閉ざされたわけではない。
なるほど、今は夢を見ているのだな、と千影は思った。夢を見ていることを自覚して見る夢、いわゆる明晰夢に近い状態なのだろう。これが本当の明晰夢であれば、今見ているこの夢を自在に操ることができる。無意識が司る夢の世界を意識の支配下に置いているのだから、自分の思うがままにコントロールできて当たり前だ。何だってできる。念じれば空を泳ぐことも地を飛ぶことも容易い。
千影はしばらく思案すると、爪先に点る炎を意識しながら指を鳴らした。パチンと音がし、人差し指の先に火が揺らめいた。とりあえず、夢は操れているようだ。
続けて、指先の炎で空中に魔方陣を描いた。完成すると指の軌跡を辿って燃える炎が青く転じる。懐へ手を入れた千影は、表が白面のタロットを取り出して魔方陣へ投げつけた。タロットが勢いよく燃えあがったかと思うと、魔方陣が見覚えのある木製の扉に変化する。
それは、自分の部屋の扉だった。世界で最も安全で心地のいい、自分だけの城。
まずは落ち着きたかった。自分がなぜこんなところにいるのかがわからないし、何よりもすすり泣きが一向に止まないのだ。自分の夢のはずなのだが、その元凶は奥深いところにあるらしい。声の主の頑固さが作用しているのだろうか。
――だがそれも、私の部屋までは追って来られないはずだ。
千影はドアノブを回し、引いた。
自らの行動に違和感を覚えたのはそのときだった。
中へ入るには扉を押さねばならない。引くのは、外へ出るときだ。
気づいたときにはもう遅かった。引いた扉が独りでに動いたかと思うと、千影を外へ蹴り出した。前へつんのめった千影が慌てて振り返るが、その空間にはもう何もなかった。扉の中と変わらない、漆黒の闇だけがあった。
もう一度試そうとポケットを探るが、今度は何も出てこない。おかしい。つい今しがたポケットを探ったときには、予備が何枚かあったはずなのに。
ようやく千影は、これが明晰夢ではないと悟った。自分に悪意を持つ何者かが邪魔をしている。つまり、今は泳がされているということだ。まったく、不愉快な話だ。
それと同期するかのようにすすり泣きが強まり、千影の神経を一層逆撫でする。
いらいらする。
腹が立つ。
この泣き声が始まると、皆が一斉に私を見た。
――何とかしてよ。
――姉やなんでしょ?
――邪魔だから、早く泣き止ませて。
彼女が泣こうが喚こうが、それまでは何の関係もなかった。ただ、見て見ぬ振りをすればよかった。自分ひとりだけの城砦に立て篭もり、鐘楼の高みから下界を眺め下ろしていればそれで事が済んだ。遠眼鏡であの人の横顔さえ見られれば、それだけで幸せだった。いつかあの人を、我が領主として迎え入れる日を夢見て。妻になれなくてもいい。一夜限りでも、あの人をここへ。
そんなささやかな私の願いを打ち砕いたのは、本当の妹と名乗る青い少女だった。
思い出を剣に変え、歌声に跨り、完膚なきまでに城砦を破壊し尽した少女。あのドレスの青は、黙示録の第四の騎士と同じだ。蒼ざめた馬に乗り、終わる世界の四分の一を支配する。その者の名は『死』。その名に違わず、少女は母の死を告げた。
泣く少女は必ず私の手の内にやってきた。あるときは彼女が自ら歩いて、またあるときは周囲の視線に押されて我から歩み寄った。誰かに抱きかかえられ、運び込まれることもあった。
くすんくすん。
すすり泣きが耳の中に木霊する。
思えばこの泣き声に何度叩き起こされたことだろうか。風がそよぐ音にも怯え、しがみつき、そして泣く。場所も時間もない。容赦なく私の時間を食い潰す。疫病神のように疎ましい存在だが、叱ることはできない。神は神だ。人に神は叱れない。そして、罪には罰が下される――叱ればもっと泣く。泣き続ける。
そんな彼女を静める方法はたったひとつ。胸に抱いてあげるだけでいい。
自分の肩しか抱いたことのない私に彼女はとても重く、それは苦痛でしかなかった。
それでも、銀色の髪をなで、頬を寄せ、寝物語を囁くうちにまどろむ彼女を見るのは好きだった。善を疑わず、悪を知らず、全てを委ねてこんこんと眠り続ける少女。
彼女が私の腕の中にいることが奇跡だった。
誰も信じず、信じられず、自らの影のみを友として生きてきた。そんな私のもとに、なぜこの子が――亞里亞がいる?
うっすらと微笑みながら、小さく寝息を立てる亞里亞。私の腕に抱かれて眠る彼女はとても幸せそうだ。
しかし、その幸せは私から奪ったものだ。
母を奪い、時を奪い、そして次に奪われるのは私の未来だ。
――そろそろ終わりにしよう。
内なる声に頷いた千影は、妹の首に手を掛けた。
白くてほっそりとした首は、両手で作った輪の中にすっぽりと収まる。少し輪を狭めると、何の抵抗もなく手が沈んだ。やがて、しなやかな筋肉の層にぶつかる。
千影は躊躇せず、腕に力を込めた。
穏やかだった寝顔がたちまち苦悶の表情に変わる。瞼が激しく痙攣し、顔色が朱に染まる。
千影の腕に亞里亞の手がのったりと絡んだ。が、すぐに力なく垂れ下がる。抵抗らしい抵抗もない。もうすぐだ。もうすぐで、私は自由になれる。
激情に誘われるまま、千影はさらに力を込めた。
低く引き攣るような笑いが千影の口から漏れ出ていた。こんな簡単なことに、どうして今まで気づかなかったのだろう。愉快だ。今はとても愉快な気分だ。
そのとき、紫に変色した亞里亞の唇がかすかに動いた。
「……ね、え……や……」
今にも消え入りそうな呟きが千影の胸を貫く。
「違う!」
自分の金切り声で、千影は我に帰った。
心臓が早鐘のように鳴っている。ひとつ深呼吸をし、千影は自分の首からゆっくりと手を剥がした。
――あのまま絞めていたら、死んでいたのは私だった。
全身を襲う虚脱感に千影はくたくたと崩れ落ちた。
くすんくすん。
すすり泣きが聞こえる。今まで変わりなしに、闇の彼方から聞こえてくる。
未だ動悸の治まらない胸を抱きながら、千影は体を縮めた。
――あれが私の本音だとでもいうのか。
胸の内で自問自答を繰り返す。
彼女を疎ましく思っていたのは事実だ。厄介事が増えたと頭を抱えたのも事実だ。彼女に何かあるとすぐに連れて来る姉妹らを憎く思った、それも事実だ。
だが、殺そうなどと思ったことは一度もない。
千影はそのことに強い違和感を感じた。先のはまるで、誰かに吹き込まれるままに言わされているようだった。
その場に澱んでいた闇が流れるのを感じ、千影は顔を上げた。
亞里亞のすすり泣きに混じって、もうひとり、違う誰かの泣き声が聞こえてくる。周囲から隈なく響く亞里亞のそれとは異なり、もうひとりのすすり泣きは方角がはっきりとしていた。闇の流れゆく方に、泣き声の主がいる。
千影はゆらりと立ち上がり、歩き始めた。
感情が大きく振り切れた後ということもあり、普段の冷静さを取り戻すのにさほど時間はかからなかった。耳を澄ませ、周囲の変化に気を配りながら慎重に進む。
声が近づくにつれて、それが幼い少女の泣き声とわかる。亞里亞よりもさらに幼い。小学生よりも下だ。
しかし、この声はどこかで聞いた覚えがある。
そう感じた途端、闇の行く手にぼうっと淡く光るものが浮かんだ。それは、額装を施された風景画のように見える。
黄昏の薄闇に威容を誇るメタセコイアの大樹。まばらに立ち並ぶ水銀灯は、今まさに青白く灯ろうとしている瞬間だ。原色に塗られた遊具の周りには誰もいない。砂場には、プラスチックの小さなバケツがぽつんと転がっていた。
ここは公園だ。母と一緒に遊びに来たことがある。自分と兄と咲耶の三人で、遊んだことがある。思い出の公園だ。
その光景に見入る千影の目の前で、最も手前の水銀灯がぱっと輝いた。千影は眩しさに目を閉じた。
体が宙に浮く感覚に慌てて瞼を開くと、そこは公園の入口だった。振り返ると闇が陽炎のように揺らめき、そそり立つ壁を形作っていた。黒い壁は公園を取り囲むようにして延々と連なっている。ふと空を見上げると、黄昏色も四角く切り取られていた。どうやら絵の中に閉じ込められたらしい。その証拠に、亞里亞の泣き声はもう聞こえなくなっていた。
その代わりに公園の奥から幼女のすすり泣きが響いた。千影を呼び寄せるかのように。
千影はひとつ深呼吸をして、公園に足を踏み入れた。
アスファルトの路面に沿って木々が立ち並ぶ。かつて三人で遊んだ広場はこの先だ。黙々と歩を進める千影の心に懐かしさがこみ上げてきた。知らず、千影の足が速まる。
しかし、千影がどれだけ歩いても風景に変化はなかった。訝しく思って振り返ると、すぐ後に入口が見えた。ほとんど動いていない。
ナンセンスだ、と口にしそうになった千影は、今は自分が夢の中にいることを不意に思い出した。
千影はふと思い立つとチョコレートの形を念じ、右のポケットに手を入れた。銀紙に包まれた板状の物体が指先に触れる。つまんでひねると、乾いた音を立てて小片に砕けた。
ひとつ頷くと、今度は文庫本を思い浮かべて左のポケットを探った。ざらっとした紙の感触がある。この手触りは駅前の大型書店の文庫カバーだ。
千影はさらにひとつ頷いた。ここまではいい。思えば思うがままに生み出せる。まさに夢の中だ。
だが、この舞台を用意した誰かの筋書きに反する行為はどうだろうか。
軽く背中を屈めた千影は手を一振りし、アゲハ蝶の羽を生やした。かつて読んだ絵本に登場した妖精の女王。幼心にも美しいと感じたその姿を自分に重ね合わせた。自分らしくないと千影はふと思ったが、夢の中でまで分別臭く振舞うというのもまた奇妙だと思い直した。ささやかな夢を叶えてくれない夢などあるものか。
千影は燐粉を撒き散らしながら、蝶の羽をはばたかせた。これが自分の夢なら飛べるはずだ。どこまでも高く、遠くへ。
しかし――いや、やはりと言うべきだろうか。千影の体は1ミリも浮き上がろうとはしなかった。それどころか、突如として前方から吹きつけた風が千影の羽をちぎり取っていった。千影ががっくりと肩を落とすと、その動作に合わせて跡形もなく消えた。
千影は腕組みをして俯き、大きくため息をついた。
夢であることを自覚しているのに、自分の思い通りに動かせていない。
それどころか、何者かに誘われるままにむざむざとこの結界へ閉じ込められた。しかも、先は罪悪感の渦に叩き込んだ挙句に自分を殺そうとした。一体誰なのだろうか。人の夢に土足で押し入る者は。
自分の夢は自分が主人公であるべきなのに。これでは『胡蝶の夢』ではないか。
ある日、夢の中で蝶になった荘周は、すっかり蝶になりきって大いに楽しんだ。なりきってはいたが、蝶の夢から覚めた荘周は荘周であり、蝶ではなかった。荘周が蝶になった夢を見ていたのか、それとも蝶が荘周になった夢を見ていたのか――
千影はふと、言い知れぬ恐怖に身を竦ませた。
もしかするとこれは、誰かの夢の中ではないのか。そして私は、その中の一登場人物に過ぎないのではないだろうか。
普段であれば取るに足らない妄想として片付けることもできるだろう。だが、今は違う。
茫然と立ち尽くす千影の気を引くかのように、奥から聞こえる泣き声が強まる。
千影は足取りも重く、再び進み始めた。今までとは違い、風景に少しずつ変化が見られる。木の種類が変わり、ベンチやくず入れが出没する。
そして泣き声もまた、次第に意味のある言葉へと変化してゆく。
「ママ……どこにいったの……」
左右に立ち並ぶ木々が不意に途切れたかと思うと、目の前がぱっと開けた。ようやく広場に出た。
遊具の森は静まり返り、長く伸びた影が遊具と遊具とを結び止めていた。日曜の昼下がりには順番待ちの列ができていたブランコも、今は誰もいない。
それでも、泣き声だけはどこからともなく聞こえてくる。
「ひとりにしないで、ママ……ちかを置いていかないで……」
千影は息を飲み、そして見た。広場の奥のあずまやに、両手で顔を覆って泣きじゃくる小さな人影を。
――そうだ、あれは幼いころの私だ。
フリルのたくさんついた白いドレスを着せられ、母と一緒にこの公園へ来た。言われるままに座り、ずっと待っていた。兄に会えるものとばかり思って楽しみにしていたのに、日が沈んでも誰も来なかった。
誰も迎えに来なかった。
そして母は、私を置き去りにしたまま姿を消した。
それから数日が経ち、憔悴し切った父が告げたのは『お前は私の本当の子供じゃない』の一言だった。その日を境に、父は義父に変わった。
「ママをかえして!」
幼い自分が空に向かって声を張り上げる。ただならない気配に千影の足が早まった。
「ちかのママを、かえして!」
千影は歩きながらかぶりを振る。
あの子のママが帰って来ることは未来永劫、ない。代わりに現れるのは、ママと同じ色の瞳をもつ少女だ。
「どろぼう! ちかのママをかえせ!」
その言葉の鋭さに、千影はびくりと肩を震わせた。
「おまえなんかきらいだ! ちかのママをかえせ! どろぼう! ママをかえせ!」
小さな人影がゆっくりと両手を振りかざした。その手の中にきらりと光るものが見える。彼女の視線はあずまやの内側へ注がれている。ここからでは壁が邪魔になって何も見えない。
ふらついていた小さな拳がぴたりと静止する。
「どろぼう! おまえなんかしんでしまえ!」
千影は髪を振り乱しながら駆けた。
「やめろッ!」
千影が止める間も無く、もうひとりの千影が腕を振り下ろした。
迫り来る足音に彼女が振り返る。その顔には笑みが貼りついていた。これが子供の顔かと疑うほどに口元が吊り上がり、この上なく禍禍しかった。
小さな千影は大きな千影の姿を認めると、白いドレスの裾をなびかせながらその場を空けた。
地面には亞里亞の青いドレスが人の形に広がっていた。左胸に割れたガラスの欠片が刺さっている。ふと傍らの少女を見ると、小さな白い手からは血が滴っていた。血の赤がドレスの白に飛び散っている。
「どうして、こんなひどいことを……」
悄然と立ち尽くす千影を、もうひとりの千影が目を細めて見た。
「……どうして? おとなのちかこそ、どうしてそんなこというの?」
大人びた口ぶりに、千影は彼女の顔をまじまじと見た。
頬から顎に掛けての円弧もゆるやかな、あどけない顔。こうして改めて見ると、今の亞里亞によく似た輪郭をしている。姉妹であるが故なのだろうが、その亞里亞と比べてもこちらのほうがずっと幼い。あれは小学校へ上がる前の出来事なのだから当然といえば当然だ。あの当時は三歳か四歳か、それぐらいの年齢だ。
「だって、ひどいのはこの子のほうよ。だって、ちかからママをとったもの」
幼い千影も、千影をじっと見つめ返した。
「きみのほうこそ、どうしてこんなことをするんだい。このドレスを着ているのは私たちの妹じゃないか」
「……いもうと?」
虚を突かれたようにぽつりと呟く彼女だったが、
「しらない! ちか、いもうとなんかしらない! だってママは、ちかだけのママだもん!」
青い瞳に憎しみを点らせながら、外見相応の怒りを撒き散らした。
わめき続ける姿を前にいたたまれなくなり、千影はつと視線を外した。
そう、彼女の――幼い自分の主張は、まったく正しい。今までずっと隠し通してきた、私の本音そのものだ。できることなら、母ともっと一緒にいたかった。母を一人占めしたかった。
そんな千影の本心を知らない亞里亞は、事あるごとにフランスの話を語って聞かせた。それはつまり、大好きなママンとの思い出。
「――だけど、そんな悲しいことを言うものじゃない」
千影はその場に跪き、慣れた動作で幼い体を抱き寄せた。抵抗はなかった。
「ママがいなくなったのは、私たちも、そして、あの子も同じだ。だから、そんなに邪険にしなくてもいいんじゃないかな」
顔の割に大きな目を覗き込みながら、千影はゆっくりと諭した。にも関わらず、少女は口をへの字に曲げて仏頂面を作っている。
「そんな顔してると兄くんに嫌われてしまうよ、千影ちゃん」
千影はふと思いついて、一言つけ加えた。
「イヤっ!」
もうひとりの自分が、自分の腕の中から勢いよく逃れた。
「ちかげなんてなまえはイヤ。どうして影なの? ちかはこの子の影なの? ちかは、そんなのイヤ! だから、ちかはちかよ。ちかは影がイヤ、ちかげがイヤなの!」
ちかは四肢を突っ張らせながら立ち尽くし、歯も剥き出しに千影へ言い放った。あまりに露骨な拒絶に、千影は色を失った。
「――そうか。きみは、私が嫌いなのか」
そう訊ねる千影の声はわずかに震えていた。
「だって、さっきからあのどろぼうをかばってばかりじゃない。どうして? じゃまなんでしょ? あの子がいるから、あにくんだってちかづいてこれないのに。じゃまなものは、すててしまえばいいのよ」
ちかは冷たく笑った。幼い外見に似つかわしくないその表情に、千影はなぜか打ちのめされた。昔の自分も、あんな顔をしていたのだろうか。
「亞里亞くんは、私たちの妹だよ。守ってあげなくては、いけない」
千影は力なく繰り返した。
「でも、だからってどうぼうはよくないわ」
幼い冷笑が一段と強まる。
「ねえ、どうしてなの? あの子はちかからママをとったのに、おとなのちかはどうして怒らないの?」
黒の小さなローファーが一歩前に進み出た。気圧されるように千影は一歩下がりそうになる。
小さな体には不相応なこの威圧感は何だろうか。執拗な問い掛けだけで、こんなにもプレッシャーが生まれるものだろうか。
千影はつま先に力を入れ、その場に踏み止まる。
両手を後ろで組んだちかが、そんな千影の様子をじっと観察していた。
その口元がにぃっと吊り上がる。
「おとなのちかがどうして怒らないのか、ちかはしってるよ」
頭を突き出し、丸い顎を挑発的にそびやかせた。
「ねえ、おしえてあげようか?」
嘲りを含んだそれは、紛れもない恫喝だった。
千影は奥歯を噛み締めて負けじとばかりに睨みつけるが、深青に底光りする目に今度こそ後ずさりした。
が、できなかった。背後にはいつの間にか、見えない壁がそそり立っていた。手を広げ、這わせてみても同じだった。
千影は、ここが彼女の世界であることをようやく思い出した。
ちかの笑みが一層深まる。
「おとなのちかは、今でもママにほめられたいのよね? いい子にしていればママはきっと帰ってくるって、そう思ってるのよね?」
一言一言を確かめるように区切り、ちかは千影の目を覗きながら問い質した。
「それは……」
千影は口篭もった。
いい子に見られたいと誰もがそう思う。しかし、自分たち姉妹に関しては、むしろ兄に対するアピールの意味合いが強かった。
亞里亞と過ごす中でも他人の視線を意識していたきらいはあるし、よき姉であろうと背伸びしていたのも事実だ。無理をしていたとは言わないが、ある程度自分を作っていたのは間違いない。
だが、自分を全く作らない人間がいるものだろうか。あの四葉でさえも、鈴凛に対する羨望の眼差しをひた隠しに隠してきたというのに。
「だけど、私たちのママはもういないんだ」
千影は肯定も否定もせず、事実だけを述べた。
「――うん」
その言葉に、目の前の童顔が初めて悲しみに沈んだ。
「ちか、知ってる」
ちかの頭がこくんと沈んだ。
その顔に差す影が一段と濃くなったのに気づき、千影は空を見上げた。黄昏は終わりを迎えつつあり、群青色が端からじわりじわりと天球を侵食してゆく。
「ちかのママは、もういないの」
俯いたちかは、くるりと背中を向ける。
「それでも、おとなのちかはママにほめられたいのよね。だって、ママがいないのってさびしいよね。もしかしたらママが帰ってくるかもって思ったら、なんでもしちゃうよね」
ちかは空を見上げるが、またすぐに顔を下げた。
「でもね、だからちかは、あの子がきらいなの。あの子は生まれたときからずっとママといっしょだったのに、ちかはほんのちょっとだけしかいっしょじゃなかったから。おとなのちかはママにほめられたくて、いっしょにいたくて、ずっといい子にしてたのに。わがままはいわない。さびしくても泣いたりしない。おとなのちかは、ずっとがまんしてきたのに。それなのに、あんなわがままな子のめんどうをみなきゃいけないなんて、そんなのふこうへいよね」
うなだれ、絞り出すように千影は言った。
「そんなつもりで、私は、亞里亞くんのことを……」
「はっきりいってよ」
幼い声が千影を容赦なく叩き伏せる。千影は苦痛に顔を歪めた。
「どうしてなの? ふこうへいだってしってるのに、どうしておとなのちかはがまんしているの?」
「なぜなら私は、あの子を――」
愛しているから――そう続けようとした。もうひとりの自分に、本当の想いを突きつけようとした。
だが、声が出なかった。自分の中の何かがその台詞に異議を唱えた。暗雲が立ち込めるかのように、猜疑心が頭をもたげる。
もしかすると、自分の愛情は義務感から生まれているのではないだろうか。
年上は年下の面倒を見るもの。すなわち、姉は妹の面倒を見るもの。
その中でも、咲耶が雛子へ接する態度には母親のそれが入り混じっていた。最も年齢差のある二人だけに当然視されがちだが、それ以上に強力な縁が存在していることを千影は知っている。
しかし、理由はどうあれ、咲耶が雛子に対して注いでいた愛情は本物だ。長年のライバルと目していただけに、彼女の観察は執拗を極めた。その上で導き出した結論だ。なかなかに真似できる行為ではない。比べるような事柄ではないが、やはり無意識のうちに比較してしまうのだ。
あの子への返事を躊躇ったのも、その重荷がもたらす罪悪感のせいではないだろうか。だとしたら、私はとんでもない過ちを犯していることになる。私に最大限の信頼を寄せてくれているあの子を、裏切っていることになる。
「私は……私は、そんな……断じて、違う。私は……」
千影は骨が折れんばかりの力で自分の肩を抱き寄せ、その場にうずくまった。
「――そんなに無理しなくてもいいんだよ、千影ちゃん」
不意に若い男性の声がしたのと、前方で水銀灯が点ったのが同時だった。千影はハッと顔を上げた。
そこに見えたのはスーツ姿の男性だった。上着を腕に掛け、ネクタイを緩めたブラウスの襟は大きく崩している。逆光がまとわりつき、顔の造作は見えない。
「どうしたの、千影ちゃん? そんなに驚いた顔して」
それは間違いなく兄だった。
優しい声色、傾げた首の角度、獅子のたてがみのように乱れた襟足の髪。その全てが愛しい兄だと告げていた。
「あ……兄くん?」
その人影――兄は頷くと、上着を投げ捨ててゆっくりと歩み寄る。その足元から伸びた影が千影の体を足元から侵食した。
「ぼくが来たからにはもう大丈夫だよ。……さ、つかまって」
千影はさり気無い仕草でスカートに手のひらをなすりつけ、兄の手を取った。
この大きさ、ぬくもり、手触り……。兄くんだ。私の、兄くんだ。
今すぐにでも抱きつきたい衝動を抑えながら、千影は疑問を口にした。
「でも、兄くん……どうしてここに?」
もじもじとしながら、襟元からのぞく鎖骨のくぼみに目をやる千影。
「今まで、ごめんね」
腕がぐいっと引き寄せられ、千影は兄の腕の中にすっぽりと収まった。千影の脳裏がたちまち灼熱化する。
「兄くん、これは一体……何の真似だい?」
動揺を押し隠し、努めて冷徹に振舞った。
「ごめんね、千影ちゃん。今まで何もできなくて」
兄は詫びながら、腕で作った輪をさらに狭める。
それほど背の高くない兄だが、それでも大人の男だけあって肩幅は広い。抱きすくめられた千影は黙って兄の胸板に顔を埋めた。
広い背中だ、と腕を回した千影は思った。こちらから精一杯抱き締めても、指先同士が触れ合うのがやっとだ。同じ背中でも亞里亞とは全く違う。
千影は恍惚の表情で、肩甲骨の窪みをまさぐった。
そんな千影の頭を兄がやんわりとなでる。
「千影ちゃんはいつもこうやっていたんだね。亞里亞ちゃんに」
ひとりごとのように兄が呟いた。
「亞里亞ちゃんの姉やでいるのは、きっと大変なことなんだろうね」
「そんな、私は――」
「もう隠さなくてもいいよ。ぼくはちゃんと見ていたから。ずっと今まで大変だったね。千影ちゃんは本当によく頑張ってきたよ」
「あ、兄くん……」
千影の頬がかぁっと熱を帯び始める。
「いや、でも、これで終わりじゃないよ。私はこれからもずっと、姉やのままだからね」
気丈に答える千影だったが、思い掛けない人からの思い掛けない言葉に涙腺が緩んだ。
たちまちに鼻をすすり始める千影に兄がふふっと笑った。千影は耳まで赤くなる。
「ひどいよ、笑うなんて」
千影の弱々しい抗議に兄がまた笑った。抗議の意を込めてぽかぽかと胸を叩く千影を兄がぎゅっと抱きしめる。
「泣きたいときはちゃんと泣いたほうがいいよ。千影ちゃん」
「いやだ。私はきっと酷い顔をしている。いくら兄くんでも、そんな顔は見られたくないよ」
「――亞里亞ちゃんには見せられるのに?」
あまりに寂しげな口調だったので、千影はふと顔を上げた。
兄にはまだ顔がなかった。あまりに強烈な逆光のせいだ。それでも兄は、きっと悲しそうな顔をしていることだろう。
「それは、だって、亞里亞くんとは本当の姉妹だから」
「あの子のせいでしなくてもいい苦労をしているのに、千影ちゃんはそんなことを言う」
兄はかぶりを振った。カッターシャツがかさりと鳴る。
「ぼくは、悲しいよ」
「兄くんのほうこそ、どうしてそんなことを言うんだい?」
千影は兄の態度に不審を抱き始めた。
全身を包み込んでいるのは間違いなく兄のぬくもりだ。ずっと想い焦がれてきた彼の抱擁。それが今、こんな形でかなうなんて。
だが、兄はこんなことを言う人ではない。誰かを贔屓したり、差をつけたりする人ではないのだ。
「千影ちゃんが苦しんでいるようだからね。ぼくの妹だもの。やっぱり、放ってはおけないよ」
「しかし、亞里亞くんだって兄くんの妹じゃないか」
「――千影ちゃん」
兄の声から抑揚が消えた。
「いやにあの子の肩を持つんだね。千影ちゃんは」
「肩を持つって、これはそういう問題ではないはずだ」
さすがに千影は声を荒げた。だが、兄は気にする様子もない。
「さあ、本当のことを言ってごらん。ぼくたちは兄妹じゃないか。隠し事はよくないよ。本当はどう思っているのか、ぼくに話してごらん?」
兄は執拗に千影へ迫る。腰へ回された腕に力が入り、二人の全身が密着した。兄の胸板の隆起が皮膚ごしに伝わる。同様に兄も自分の胸のふくらみを感じているのかと思うと、急に湧き上がった恥じらいの感情が胸を突いた。
「だめだ、それは……違うよ、兄くん。そんなこと、言えるわけ……」
弱々しく首を振る千影の抗議は、戸惑いも入り混じって支離滅裂になった。
潤ませた目を伏せる千影の頭に、兄がそっと手を置いた。
「――そうか、千影ちゃんは怖いんだね。本当のことを言うのが」
優しげな声が千影の心に染み渡る。言葉の内容はどうでもよくなった。千影は言葉を無くし、上の空でこくんと頷いた。
「どうしても話せないのなら、ぼくが勇気をあげるよ」
そう言うと、兄は両手で千影の頬を手挟んだ。そして、ゆっくりとじらすように顔を近づける。
兄の顔はまだ逆光の中だった。吐息を感じるほど近くにいるのに、どんな顔をしているのか何もわからない。闇を塗り込めたような顔が千影に迫る。
しかし今は、兄を疑問に思う気持ちよりも、兄をいとおしく思う気持ちが勝った。期待に胸が高鳴る。
温かな闇を前に千影はぎゅっと目を閉じ、顎を少しだけ上げた。
次の瞬間、千影の額に熱く湿ったものが押し当てられた。千影の心に失望がよぎる。
「兄くん、これは一体……」
離れゆく唇に千影は言葉を投げつける。媚びて粘っこい声に自分でも驚いた。理性が思う以上に、兄の行為は不満だったらしい。
「今のは子供のキスだよ。次の一歩を踏み出せない怖がりな千影ちゃんには、ぼくもそれだけしかしてあげられないんだ」
千影の望みを悟った兄が勿体ぶった口調で弁解した。
「だけど、もうすぐ誕生日だからね。今年は成人のお祝いも兼ねて、次は大人のキスをしてあげるよ」
「大人の……」
甘美に響く囁きが再び千影を惑わせる。はしたなく喉を鳴らしていた。
「そう、大人のキスだよ。そして同時に、目覚めのキスでもあるんだ」
機先を制した兄が頬を挟んだままで親指を動かし、千影の唇を封じた。千影は魅入られたように、兄の形をした闇を見つめた。
「目覚め、とはいってもこの夢からじゃない。かりそめの身体を脱ぎ捨て、新たに生まれ変わるためのキスさ。……そう、蛇が脱皮するみたいにね」
ぬたり、と闇が笑った。奇妙な気配を察知した千影は兄の腕に手を掛けて引き離そうとするが、十指の縛めは解けるどころかますます頬へ食い込んでゆく。
「そんなに怖がらなくてもいいじゃないか。これからはずっとぼくが一緒にいてあげるよ。亞里亞ちゃんの代わりにね」
「……ち、ちが……う」
唇の隙間からようやくそれだけを押し出した。
「昔から千影ちゃんは怖がりだからね。いや、それぐらいは知っているさ。千影ちゃんがいつもひとりでいるのは、自分が怖がりなのを悟られないためだって」
熱っぽく上ずった声が兄の上機嫌を伝えている。空はいよいよ群青色に染まり、夜の帳が降りようとしている。
「千影ちゃん。きみは生まれ変わらなきゃいけない。きみがその内に秘めた力に比べ、今の身体はあまりに貧弱すぎる。このままでは、いつかあの子に食われてしまうだろう。いや、きみ自身はそれでいいのかもしれないな。いとおしい妹の血肉となり、永遠を生きるんだからね。だが、ぼくはそれを望まない。きみには何としても生き抜いてもらわねば」
兄は千影の頬を挟んだままで前後に揺すった。
狂気すらも感じさせる言動に、千影の全身ががたがたと震え出す。
「あに、くん……」
「ぼくを兄くんと呼ぶのも、今夜が最後だ。どうしてだかわかるかい?」
千影は答えなかった。答えられなかった。
兄の手が緩むと、千影はがっくりと膝を折って兄の足元へ跪いた。
「人ではないものに、人の法は及ばない。きみが人ではないものとして生まれ変われば、ぼくはもう、きみの兄ではなくなる。そしてきみも、ぼくの妹ではなくなる。素晴らしいじゃないか。兄妹という縛めから、ぼくたちはついに解き放たれるんだ」
兄の形をした者は、感極まったという風に広げた両手を夜空へ掲げた。
「――だけど、兄くん。私たちは兄妹だったから、こうして出会えたんだよ。兄妹が縛めだなんて、そんな悲しいこと、言わないでくれ」
ぜいぜいと喘ぎながら、千影は兄だった者を見上げた。
その眼差しに応え、黒い顔が千影をじっと見下ろす。
「おやおや。よりにもよって、千影ちゃんがそんな台詞を口にするなんてね。ぼくとは前世からの縁というあの話は嘘だったのかい?」
鉄槌のごとく振り下ろされる言葉に、千影は唇を噛み締めた。
そのようなエキセントリックな言動を繰り返した時期は確かにあった。しかし、それも全ては兄の気を引くがための方便だった。咲耶を始めとする他の姉妹に負けまいと意地を張った、スタンドプレイの類だった。
たとえ影法師とはいえ、兄の声で浴びせられる皮肉は千影の心を微塵に打ち砕いた。
肩を震わせる千影に、兄だった者の哄笑が追い討ちをかける。
「そう、確かにあれは嘘だったね。とってもかわいい嘘だったよ。今思い出すと笑ってしまうほどにね。しかし、メリュジーヌの血は本物だ。邪眼など、その力のほんの一端に過ぎない」
兄らしき影は屈み込んで千影の脇に腕を通し、無理矢理に立たせた。心を蹂躙された千影に、抵抗する気力は残されていなかった。
「さあ、ぼくを受け入れるんだ。プレッシーナがエリナスを、メリュジーヌがレイモンを夫としたように、きみはぼくと結ばれるんだ」
「でも……ここは、夢の中だ。意味がないよ」
うわ言のように千影が呟いた。
「夢から覚めたら、本当のぼくを迎えにくればいい。あの子にも、誰にも邪魔はできないはずだ」
「だけど、どうして……?」
顔をかたどった闇に、ふたつの赤い光がふっと点った。
その闇が厳かに告げる。
「きみはちか。ぼくは影。きみとぼくが、ちかと影がひとつになって、きみは初めて千影になれる。本当の自分になれるんだ」
影の手が再び千影の頬を挟み込み、ゆっくりと顔を近づけてきた。
千影は自らの意思で目を閉じた。亞里亞も他の姉妹も、既に千影の意識の外にあった。自分と兄だけが全てだった。
――きみはぼくと結ばれるんだ。
こんなに優しくも露骨な言葉を掛けてくれる。それだけでもう、千影は十分に幸せだった。
兄が影だろうと何だろうと、そんなことはどうでもいい。肝心なのは、兄と結ばれるという行為そのものなのだ。かつて何度も夢に見て、そしてかなわぬものと諦めていた兄をこんなに近くに感じている。他の誰よりも。私ひとりだけが、今ここに。
誰にでもわけ隔てなく優しかった兄が、自分だけのものになろうとしている。
「兄くん……」
唇から漏れ出た吐息が、違う唇で塞がれた。
全身を駆ける甘い電流に千影は内もも同士を擦り合わせ、腰をぐいぐいと兄に押しつけた。兄も千影の足の間へ膝を割り入れ、千影の意思を迎え入れる。ふと胸を押し上げる切なさに、千影の目から涙がひとつこぼれ落ちた。
千影は唇の先端にちろちろと蠢くものを感じた。大人のキス、という兄の言葉が頭を駆け巡る。これはきっと、そういうことなのだろう。
――兄くんが私を求めている。
千影は何の迷いもなく、固く閉じた門を開いた。
その途端、熱気を帯びたぬめりが千影の口中へ殺到した。千影は兄妹での行為というシチュエーションに酔い痴れ、鼻で熱く息をした。
だが、口の中を這い回る異物感に、その熱狂は一瞬で醒めた。
この細くて長い舌は誰のものだ? 人間の舌がこんなに薄いはずはない。犬も違う。ミカエルの舌はこんなではなかった。
背筋を凍らせる千影をよそに、兄らしい者の舌は蹂躙の範囲を広げてゆく。歯茎や前歯の裏から、次第に奥へと。蠢くそれは、今や奈落へ通ずる喉を狙わんとしていた。
千影は己の舌を伸ばし、必死の防戦を試みる。だが敵は、必死の千影を嘲笑うかのようにのらりくらり避け続ける。ようやく千影が捉えたと思った途端、舌先から伝わる感触に千影は戦慄した。
それは二股に分かれていた。
千影は何の躊躇いもなくその舌を噛み切り、兄の影を勢いよく突き飛ばした。自分もその反動で後ろに転げ、地面にへたり込む。
口元を伝わり落ちる血と唾液を拭うと、千影は口中のそれを忌々しげに吐き捨てた。
先端が二つに分かれた細長い肉片。鮮血にまみれたそれは、紛れもなく蛇の舌だった。
前方の水銀灯が何の前触れもなく消え、辺りは闇に閉ざされた。夜空に輝く星明りが、生い茂る木々をほのかに照らす。
千影は地面に両手をつき、肩を上下させて喘ぎ続けた。
「――まったく、よくもやってくれたわね」
その声と同時に背後で水銀灯が点る。聞き覚えのある声に千影は振り返った。またも目を突き刺す逆光に、千影は目を細める。
「せっかく、あんたの好きそうなシチュエーションを用意してあげたのに。結構大変だったのよ。あんたが予定通りに動いてくれないから、こっちは突貫工事の急ごしらえ。それを台無しにするなんて一体どういう了見? ホント、頭きちゃうわ」
心底呆れたという声で一気呵成にまくし立てると、その人影はゆるゆるとかぶりを振った。その動作に合わせて頭から伸びた二つ括りのおさげ髪が揺れる。兄よりも頭半分は小さい。
突然のことで思考のまとまらない千影は、なじる声にもただ呆然と見つめるばかり。反応の無さに苛立ったのか、彼女は足早に歩み寄ってきた。
兄とは違い、今度は少しずつ顔が明らかになる。スリットの入った橙色のロングスカートの布地が、しゅるしゅると擦れて音を立てる。
「何よ、そんなにつまらない顔しなくてもいいじゃないの」
露骨に不機嫌そうな表情をし、緋色のカーディガンの腰に両手を当てた。
「まさか忘れたっていうの? ほら、私の名前を言ってごらん」
「……咲耶」
咲耶はやれやれとばかりに小さく何度も頷いた。
「その答えじゃ半分しか合ってないけどね」
一瞬、二人の視線が交錯した。
「なるほど。きみは、私のシャドウだね」
千影はへたり込んだ姿勢のまま、咲耶を睨み上げた。真っ向からその視線を受け止める咲耶だったが、やがてふと顔を背ける。
「――己の暗黒面。無意識に住まうもうひとり。そして、自分の生きなかった半面」
咲耶は詩の朗読のようにそらんじてみせた。
「私があんたの影だなんてね。随分と買い被ってくれるじゃない」
「あくまで外見は、だ」
大きく頷き、咲耶は肩を竦める。
「無粋ね。そんなにはっきり言わなくてもいいじゃない。私がこんな専門用語を喋る機会ってそんなにないのよ。もう少し気を利かせて欲しいところだけど、まあ、千影が相手じゃ仕方ないか。あんたの石頭ぶりは今に始まったことじゃないんだし」
シャドウの軽口は止むところを知らない。自分のもうひとつの可能性、とはよく言ったものだ。本体が無口なだけに、その半面たる影は饒舌だ。
「で、いつまでそんな格好で座り込んでいるつもり? 何か話すつもりなら、向こうのベンチで話しましょ」
ニヤリと笑った顔で一瞥をくれると、咲耶はすたすたと先を歩いた。千影は内心で腹を立てながらも、黙って姉に従った。
咲耶の背中で二本の尻尾がゆらゆらと揺れる。腰まで届こうかという長さだが、今の咲耶はここまで伸ばしていない。高校を卒業すると同時に、肩の上でばっさりと切り落としたのだ。日頃から長く艶やかな髪を自慢にしていただけに、妹らは一様に驚きさざめいた。千影も何度となく理由を訊いたが、咲耶は曖昧に微笑むばかりだった。
咲耶が肩越しに千影を振り返った。
「だって、今の私って腑抜けじゃない。あんなにお兄様に執着してたのに今はすっかり丸くなっちゃってさ」
自分の外見を他人事のように語る咲耶。
「自分の影との対決なんだから、それに相応しい姿ってあるでしょ? いくら幻とはいってもね」
咲耶は顔だけで笑い、ベンチの端に腰掛けた。千影もそれに倣うが、やはりベンチの端に座った。咲耶が横目でちらりと見て、ふんと鼻を鳴らす。
「なぜ私を殺そうとした」
千影は抜き身の刃のごとく、鋭い言葉を突きつけた。
「ずいぶんと単刀直入ね。夜は長いんだから、もっとのんびり語らいましょ」
「いや、それは遠慮させてもらう。これ以上、きみの茶番には付き合ってられないんでね」
積年のライバルの姿を前に、千影は普段の冷静さを取り戻していた。一緒に暮らしていた頃は辛辣な言葉の応酬を頻繁に繰り広げていたのだ。
「なぜだ」
千影は繰り返し問い質す。
それを受けて咲耶の目がすうっと細くなる。
「愚問ね。千影らしくもない」
「シャドウごときが私に成り代わるつもりなのか?」
凍てつくような千影の視線を、咲耶はふと浮かべた苦笑であっさりと避けた。
「ごとき、とは結構なご挨拶じゃない。そのシャドウごときに苦戦してたのはどこのどなたかしら。ねぇ、千影?」
咲耶は猫を思わせる滑らかさで背もたれに体重を預けた。木製のベンチがみしりと鳴る。
「かと思ったらお兄様にはすっかりメロメロじゃない。昔の自分にはしどろもどろになってたのに。ま、こっちが何をやってもなびいてくれないところは誉めてあげる。私の夢を砕いちゃった点は癪に障るけど」
減らず口の影に、千影はだんだん苛々としてきた。
「言いたいのはそれだけなのか。本題は何だ」
「せっかちね、千影。心に余裕がないと、うまくいくことだってうまくいかないわ」
咲耶の口調に真剣さが混じる。
「――私はあんたを助けたいのよ、千影」
「助けるだって?」
千影はうろんな目で、咲耶の形をした者を見た。
「心の影などに助けられるいわれはない。迷惑だ」
「そうやって強がっても無駄よ。全部お見通しなんだから」
「それなら、こんな回りくどいことをする必要はないはずだ。いい加減なことを言わないでくれ」
千影は苛立ち紛れに背もたれを叩いた。
「ま、イキがるのは勝手だけどね」
と、肩をすくめる咲耶。しかし、今までと違ってその顔には余裕が感じられない。
「でも、巻き添えを食らうのはごめんだわ。私はまだ死にたくない。私だって、お兄様と一緒になりたいのよ」
「それはいくらなんでも――」
話が飛躍し過ぎだ、と思った。たとえ亞里亞が魔性の使徒であろうとも、あの心やさしい子が姉である自分に牙を向けるとは思えないのだ。
「甘いわね、千影」
咲耶の表情が憂いを帯びる。
「以前から力を飼い慣らしてきた千影ならともかく、亞里亞ちゃんは自分の身体に対する知識すらも乏しい。加えて、力の強さが桁違いよ。未だに人として生きていられるのが不思議なぐらい」
「まさか」
「それに、あの子はきっと千影を殺すわ」
咲耶は事も無げにさらりと言った。
「何を根拠に、そんな……!」
そう言うや否や、千影は素早く腕を伸ばして咲耶の襟首を掴み上げた。
「亞里亞くんがそんなことを、するはずがない」
凄まじい形相で咲耶を睨む千影に対し、吊るし上げられた咲耶の顔には何も浮かんでこなかった。むしろ一層冷やかに、千影を見下している。
「ホント、亞里亞ちゃんのことになるとすぐ逆上するんだから。世話ないよね。だけど、その割にはお兄様の誘いに乗り気だったじゃない」
千影は恥辱に顔を赤くし、無言でさらに締め上げた。
咲耶が涼しい顔で口元を歪める。
「――愛憎は紙一重よ、千影」
千影の腕からふっと力が抜けた。咲耶の体がベンチに落ちる。
「千影があの子にだけは知られまいと怯えていたように、亞里亞ちゃんもきっと、自分の抱えた秘密の重さに怯えているはずよ」
千影の脳裏に閃くものがあった。幾度となく千影にしがみついてきた亞里亞。その顔には決まって、怯えの色が浮かんでいた。
「そうか、それであんな約束を」
「やっと気づいたの? バカねぇ」
背もたれに身を投げた咲耶が両手を広げる。
「あんたが臆病風に吹かれなければ、私もこんな面倒なことをしなくても済んだのよ」
咲耶の辛辣な口調に千影が渋面で応える。
「全くだね。こんな手の込んだことをしなくとも、伝えたいことがあるならさっさと言えばよかったんだ」
「どの口がそれを言うのよ、千影」
咲耶が前髪をうるさげに掻き上げた。
「人の言うことに聞く耳なんてこれっぽっちも持たない筋金入りの頑固頭にはこれでも足りないぐらいよ。あんた、昨日から何回逆ギレしたと思ってるの? 中から見てて恥ずかしかったわよ」
「あれが逆ギレなものか。私は自分の意見を――」
「ほら、ほらほらほら。今のは何? 立派な逆ギレでしょうが」
鼻先に指を突きつけられた千影は、これ以上なく不機嫌な顔で咲耶の手を払い除けた。
「不本意ながら、今の私と千影とは一心同体。本当なら以心伝心で十分に間に合うはずなのよ。それなのに、千影ときた日には自分専用のごつい城なんか築いちゃってさ」
咲耶は夜空を指差した。その先には三つ又に分かれた尖塔のシルエットが見えた。
千影はそれを見上げながら、心外だというふうにかぶりを振る。
「濡れ衣だ。覚えはないが……見覚えはあるな」
「でしょうね。私からみたイメージを投影してるだけだから」
と、咲耶は世界的なテーマパークの名前を口にした。
「なるほど、道理で」
「――実際に言わなきゃ伝わらないのよ、千影」
咲耶が急に、真面目くさった調子で呼び掛けた。
「腐れ縁の私たちでも、こうして面と向かって話さなきゃ意思の疎通もままならない。外の世界ならなおさらね」
広げた両腕をぐるりと振って、周囲を示す咲耶。
「だから、自分の意志はちゃんと口にするのよ。伝わっているだろう、では駄目なの。好きなら好き、嫌いなら嫌いってはっきり言わないと」
「それぐらいわかっている。きみに言われるまでもない」
千影はふて腐れた顔を背けた。
「そう? ならいいけどね。千影って昔から引っ込み思案だったから。あのときだって、お兄様が声を掛けてくれるのをずっと待ってたじゃないの」
あのとき、と大雑把に言う咲耶だが、当の千影には心当たりが多過ぎた。
「――あれはアイススケートだったかな」
赤く色付く自分の頬を意識しながら、千影はしばし回想に耽った。
それは三人だけでスケート場へ遊びに行ったときのことだった。スケート靴がうまく履けなくてまごついている千影をよそに、要領よく準備を整えた咲耶は兄に個人レッスンを請い、千影を残してさっさと滑り始めたのだ。千影はそこで抗議の声をあげるべきだったのだが、ひとりでスケート靴が履けない情けなさに加え、兄の楽しそうな表情を前に何も言えなくなってしまったのだ。
事実、ふたりはお似合いのカップルだった。しゃがみ込んでもそもそと手元を動かす自分に比べ、長い髪を鳥の尾羽のようになびかせて滑る咲耶は千影の目にも眩しく写った。兄の手をもすり抜けて銀盤をひとりで踊る彼女は、可憐な氷妖の類にも見えた。
兄が千影の異変に気づいたのは、それより十分も後のことだった。
「それだけじゃなくて他にもいーっぱい。――何なら全部言ってあげようか?」
千影は慌てて首を振った。彼女は自分だ。その気になれば、意識の奥底に沈む記憶を残らず攫い上げることもできる。自ら忘れようと努力した記憶も残らず。
「おかげでこっちは苦労してるんだから。少しは反省しなさいよね」
今度は千影の頬をつつく咲耶。
「きみにだけは言われたくない」
影に対して嫉妬心を覚える自分に戸惑いながら、千影はむっとした顔で応えた。
「まったく、相変わらずの石頭ね」
千影のそんな動揺も見抜いたように、咲耶が中途半端な笑みを浮かべる。
「そんなだからあんたは殺されるのよ。自分から心が離れると知ったら、きっと躊躇いなく手に掛けるわ。死んでしまえば時間は止まるもの。そして永遠に、亞里亞ちゃんの心の中で生きるのよ。『ずっと亞里亞のそばにいてくれるやさしい姉や』としてね」
「いい加減しつこいぞ。用があるならはっきりと言え」
剣呑な空気を纏って睨みつける千影に、「おお怖い」と咲耶はわざとらしく怯えてみせる。
「だから、さっきから言ってるじゃない」
咲耶は一転して力無く笑った。
「千影には生きてもらわないと困るのよ」
「なぜだ」
千影の問いは弱かった。影の行動に一貫性がないように思え始めたのだ。最初は自分を殺そうとし、散々罵った挙句に色仕掛けで篭絡しようとしたのだ。疑い始めればキリがない。
「その疑問は当然ね。私としては筋を通しているつもりだけど」
咲耶はしどけなく背もたれに身を預けた。
「私も、お兄様のことが好きなのよ」
そう言うと、咲耶は首だけを動かして千影を見つめた。
「それだけよ」
「それだけ?」
「本当にそれだけ。そのためなら手段は選ばないわ」
ふたりはしばらく無言で見つめ合った。
先に目を外したのは咲耶だった。夜空を見上げ、ぽつりと漏らす。
「あんたが亞里亞ちゃんのほうばかり見てるからよ。あの子にかまけてお兄様への想いをぎゅうぎゅうに押し込めてるから、その反動で私の想いが大きくなるの。なぜなら、あんたと私は天秤の両端。作用と反作用」
「私はそんな、我慢など――」
「していない?」
悪戯っぽく微笑んだ咲耶は、いきなり千影の左手を取って自らの左胸へ押しつけた。突然の狼藉に戸惑う千影。自分とは違うやわらかさに思考が止まった。
「ほら、わかるでしょ? 私のお兄様への想いが。こんなにすごく、脈打ってるのよ」
咲耶が腕を引くと、千影の手がずぶずぶと埋没した。その指の隙間から咲耶の肌がたぷたぷとこぼれる。複雑に渦巻く感情に、千影は瞼を閉じた。
が、次の瞬間、手のひらから触感が失せた。驚いて目を開くと、手首から先が咲耶の身体にめり込んでいた。その中で、どくんどくんと何かが息衝いている。
「ああ、ほら、感じるでしょ? 私の、お兄様への想いが。こんなにも切なくて、今にも破裂しそうなの」
頬を赤く染めた咲耶は、淫靡な息遣いで千影の耳元に囁いた。慌てて手を引く千影だが、肌同士が癒着して離れない。それどころか千影の動きが新たな脈動を呼び起こし、咲耶の吐息をさらに熱くさせる。
「素敵よ、千影。愛されるって、こんなにも素晴らしいことなのね」
咲耶の左手が千影の左胸へあてがわれたかと思うと、何の抵抗もなく千影の中へ侵入した。埋没した咲耶の手から甘い疼きが身体じゅうに迸る。
「う、あぁ……」
襲い来る快楽に身をよじる千影だが、動けば動くほどに神経が犯されてゆく。
「ほら、気持ちいいでしょ? 愛する人とひとつになるっていうのは、こういうことなのよ」
お互いの腕が少しずつ埋まり、ふたりの距離が狭まる。快感はいよいよ千影の理性を食らい尽そうとしていた。それでも千影は、眉根に皺を寄せて必死の抵抗を試みる。理由はなかった。ただ、影に対する反駁心だけが千影の支えだった。
「――千影、もう一度だけ訊くわ」
咲耶の瞳が赤く光る。
「私たちの秘密の扉を開け放つ気は?」
薄れる意識の中でそれを見た千影の脳裏には、妹の姿が鮮明に浮かび上がっていた。
「イヤ、だ……」
弱々しくも、はっきりと拒絶した。
千影の耳元で大きなため息が聞こえた。
「――本当に頑固ね、千影」
何事もなかったように、咲耶がふわりと離れた。全身を苛んでいた疼きもぴたりと治まり、左手も左胸も無事だった。
咲耶の姿が滑るように遠ざかってゆく。
「その一途さがプラスに出ることを、あたしは願ってるわ。でも、時には変わることも必要よ」
その言葉を合図に、咲耶は突然、ウサギへと変わった。白く輝く毛並みが闇の中で映える。
ウサギは鼻を蠢かし、千影の様子を窺うように何度も頭を上下している。なおも千影が動かないのを見ると、苛立たしげに後ろ足を踏み鳴らした。
千影は立ち上がり、後を追った。途中ウサギは何度も振り返り、千影がついて来ているのか確かめている。どこかへ導くつもりなのだろうか。
――まるで不思議の国のアリスだな。
そう思った千影が薄く笑った途端、足元の感覚が消え失せた。体が宙に浮き、もの凄い早さで落下している。何も見えない。闇の気配が下から上へ駆け上がってゆく。
いつまでも続く闇にうんざりし始めた頃、足元にぽつんと光る点が見えた。それはぐんぐんと大きくなって――近づいてきた。
程なくして、千影の視界が白い闇に包まれた。
*
ひんやりとした木張りの床の感触に、千影は上体を起こした。
辺りを見回すとそこは自分の部屋だった。自分だけの城砦だった。
すぐ右隣にはシーツの垂れ下がったベッドが見える。どうやらいつものように寝返りを打って転げ落ちてしまったらしい。
では、今までずっと長い夢を見ていたのだろうか。あの館での出来事も、血の宿業も、全ては幻だったのだろうか。
黙然と佇む千影をよそに、窓の外は白々と明るくなりつつあった。夜明けは近いが、動くにはまだ早い。今からならもう一眠りはできるだろう。
そう心に決めて立ち上がった千影は、ふと目を落とした自らの格好に思わず息を飲んだ。
膝上までの紺のワンピースは袖がふくらみ、エプロンドレスは細やかなレースで縁取られている。極めつけは頭上を飾る大きなリボン。これはまるでアリスのコスプレだ。
寝起きで不鮮明な意識が一瞬で覚醒した。まだ安心はできない。
それにしてもこの格好はどうだ。ここに落ちるときに余計なことを考えたせいだろうか。あるいは、シャドウの手向けの品なのだろうか。
どちらにしても、夢はまだ続いているのだ。それに、こんなにもケバいアリスが現実に許されるはずもない。
着替えようと腰のリボンに手を掛けたちょうどそのとき、扉をノックする音が小さく二回響いた。
こんな時間に誰が来たのだろうか。息をひそめて気配をうかがうと、扉の向こうからはフリルのこすれる音がする。かさかさ、かさかさ。
どうしたものかと迷っていると、焦れたように再びノックの音。
しばらく考え込む千影だったが、やがて意を決したかのようにアリスのままで扉へ歩み寄った。
千影はこの扉の向こうに誰がいるのか、わかっていた。他の誰かならともかく、彼女にならこの格好を見られたとしてもかまわない。そんな気がした。仮にくすくす笑われたとしても、だ。
――今は秘密を知られるのも悪くない。
千影はゆっくりと扉を引き開けて、彼女を迎え入れた。
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