6 - Lovin' You - 1
降り注ぐ光が瞼を射貫き、千影の意識に楔を打ち込んでゆく。
目覚めたと自覚した途端、襲いかかってきたのは猛烈な吐き気だった。
口元を押さえ、ベッドからのっそりと起き上がる千影だが、視界が一方へ流れ動くような眩暈には抗えなかった。そのまま再び横たわる。
目を閉じても酩酊感は消えない。暗闇の中で魂だけが引きずり回される。地球の自転を体感している、と言われればそのまま信じてしまいそうだ。遊園地のコーヒーカップでもいい。ぐるぐる、ぐるぐると。
枕に顔を埋め、うめき声を上げながら闇雲に伸ばした手に、ひやりとしたプラスチックの感触があった。千影は慎重に頭を傾げ、ちらっとだけその方を見た。
そこにあったのは、ベッドルームにひどく不似合いな代物だった。折り返しの縁から糸底までの滑らかな曲線を描く白いプラスチックの器――洗面器だった。
なぜこんなところに、という疑問よりも、今は安堵の気持ちのほうが勝った。これで気がねなく粗相ができる。亞里亞とは違い、メイドへ醜態を見せるのには慣れていない。たとえ誰であっても、自分の弱みは晒したくないのだ。
それにしても、実に手回しがいい。だが、手回しが良過ぎるだけに不審が募る。
じいやは、最初から何もかも知っていたのではないだろうか。
こみ上げる疑問と吐き気に眉を顰めながら、それでもありがたく洗面器を引き寄せた。
何気なく洗面器を覗き見た千影は思わず身を固くした。寄り添うように二つ、それらはあった。
厚ぼったく膨らんだクリーム色の封筒は、ご大層にも赤い蜜蝋で封印がしてある。その傍らにはあの瑠璃色の鱗が落ちていた。赤と青の鮮やかなコントラストに、千影はしばし茫然と見つめた。
ややあって、千影はまず鱗を手にした。自分の記憶が確かならば、これは自分が持っているものとは微妙に形が違う。千影は何の迷いもなく指先を切りつけ、にじみ出た血に舌を這わせた。
千影の喉から、ため息とも唸りともつかない声が漏れ出る。鼻息も荒く、目を潤ませた千影は自らの血を無心で啜った。
その血は、不快感を鎮めるのに十分過ぎるほどの力をもたらした。一滴一滴を飲み下すごとに、千影を苛んでいた苦痛は遥か彼方に遠のく。今は快楽の海にその身を投げていた。固く閉じた瞼の裏に星の海が見る。星空を写してきらめく夜の海を、千影はたゆたっていた。
潮が引くように快楽が消えると、千影は慌てて周囲を見渡した。この痴態を見られるわけにはいかないのだ。
目をすがめ、千影は油断無く気配を探った。何の物音も聞こえない。人の影もない。今この部屋にいるのは自分だけだ。
千影はほっと胸をなで下ろした。人外の力にたぶらかされたとはいえ、いい年をした大人が指をしゃぶるものではない。人に見られれば、それこそ幼児退行などとあらぬ誤解を招きかねないのだ。
千影はベッドを滑り降りた。目覚め直後の不快感が嘘のように晴れ、気分は上々だ。じいやに対する疑念も同時に消えていた。毛足の長いカーペットが素足に気持ちいい。
そういえば、気を失ったのは床の上だった。千影は振り返り、ベッドの高さを見た。同時に部屋の様子を見渡す。
ひしゃげた衝立は隅に寄せられ、綺麗に片付いていた。無造作に脱ぎ捨ててあった鈴凛と四葉の衣服も今はない。これもじいやの手が入ったのだろう。
二人が占拠していたベッドを見ると、そこには人の横たわった痕跡があった。どうやら彼女らもじいやのお世話になったらしい。四葉はともかく、鈴凛を抱え上げるのはさぞや骨が折れたことだろう。
そのベッドの脇には、千影と同様に洗面器が置かれてあった。遠くから背伸びして覗き込むが、使われた跡はない。代わりに飲み薬の小瓶が転がっていた。宴会シーズンになるとCMでよく見掛ける胃腸薬のラベルがちらりと見える。
千影は首を傾げ、手に持ったままの鱗をまじまじと見た。どうして自分にだけこれが渡されたのだろう。それはやはり――
昨夜、月明かりの中で見たときとは違い、蛍光灯の下では鈍くくすんだ青色をしている。光の照り返しも弱々しく、逆三角形を崩した輪郭とあいまって、遠目にはギターピックのように見えるかもしれない。こんな代物が甘美な夢を見せてくれるなど、誰に想像できるだろうか。
指先にはひとつの傷もない。千影は確かめるように指を舐めた。当然、何の味もしない。あの全身を駆け登るような歓喜も恍惚も、当然起こらない。想像すると、あの悦楽が急に懐かしく思えた。
ふと気づくと千影は、瑠璃色の鱗を手に黙然と佇んでいた。麻薬に等しい快楽に魅力を感じる自分がいた。決定的に違うのは、それは自らの血によって得られるということだ。購入資金欲しさに身を持ち崩すこともない。警察に咎められることもない。何か嫌なことがあれば切りつけて、血を啜るだけでいい。それで、全てを忘れられる――ただし、血が流れている間だけだ。
千影は未練を断ち切るように、鱗を壁へ投げつけた。小さく澄んだ音がし、何度か光を跳ね返しながら鱗はカーペットへ落ちた。
あまりに危険過ぎる代物だと、千影は思った。指を咥えながら嬉々として自らの血を啜る姿は、自分の尻尾を飲んで閉じゆく蛇――ウロボロスのように見えることだろう。自らで完璧な円を為すウロボロスは永劫回帰の象徴だが、それは同時に閉鎖性の表れでもある。ひとりで世界を形作っているのだから、自分意外の他者はまったく必要ない。自分だけの、閉ざされた世界。完成された永劫なる世界。
この鱗は、それを具体的に実現させてしまうのだ。自らを内へ内へと導いてゆく。
千影は慄然とした。
円が閉ざされてしまう前に、何としてもあの子を助けてあげなくては。
――しかし、どうやって?
千影は力なくベッドへ腰を下ろした。
見当はつかなかった。つくはずもなかった。晴れたはずの胸に黒雲がたちこめるのがわかる。
オカルト趣味が昂じてその手の本はいくつも読破しているが、蛇女を鎮める方法など目にした覚えはない。現在手に入る魔術書の類といえばとにかく衒学的な内容ばかりで、実践に重きを置いた魔術書は少ない。よしんばあったとしても、それらは現代の科学力で十分間に合ってしまうものばかりなのだが。
いくら魔術に造詣が深いとはいえ、千影はまだ二十歳にもなっていないのだ。そんな千影の知り合いにはオカルトのプロが何人かいる。知識も経験も千影を遥かに上回っている。数十年のキャリアを持つ占星術師や、ラテン語の奇書を専門に扱う翻訳者、模造刀を振り回す悪魔祓い師など。そんな彼らにしても、黒魔術の基礎である召喚術ですら成功した例がないのだ。
千影はそんな彼らを大きく飛び越して、本物に立ち向かわねばならない。こんな僻地では助けを請うこともできず、また、机上の理論が役に立つとは思い難い。
それに、これは身内の話だ。妹の身に起こった出来事なのだ。迂闊に口外はできない。秘密は守らねば。
自ら紡いだ連想に、千影はハッと顔を上げた。そうだ、あの封筒は? 蜜蝋で封じられた秘密の正体は?
千影は大股で部屋を横切り、分厚くかさばった封筒を手にした。
ずっしりと重い。物理的にもさることながら、前近代的な封印というギミックがその重々しさを一段と増していた。
赤い蜜蝋を乱暴に剥ぎ取ると同時に、折り畳まれたコピー用紙の束が中から飛び出てきた。
千影は何の考えもなく、ごく無造作な手つきで紙束を開いた。
千影の目に飛び込んできたのはアルファベットの羅列だった。次いで、それらの間を縦横に走り抜ける罫線。それが家系図とわかったのは、とある単語が朱色の丸で囲われてあったからだ。
Raymond de Lusignan(レイモン・ド・リュシニャン)。
あまりに唐突で、最初は何のことかまるで理解できなかった。レイモン・ド・リュシニャン、どこかで耳にした覚えがある――
その名がメリュジーヌの夫であると気づくのに五秒は要しただろうか。
思わず座り込む千影だったが、緊張で強張った指先は家系図の束をしっかりと握り締めている。千影は深呼吸し、気持ちを落ちつかせた。まだ、そうと決まったわけではない。末端に自分たちの名前が記されていない限りは。
千影はかすかに震える手で紙をめくった。
ずっしりと重いプレゼントの箱から幾重にも覆われた包装紙を剥ぎ取るように、千影は恭しく手を動かす。駅前デパートの安っぽい簡易包装ではない。ロイヤルの名を頂いた由緒正しいブランドショップの、豪華絢爛な包み紙だった。
確かにそれは、乱雑に破り取ることのできない紙だった。罫線を追って行くと、日頃の講義で耳にし目にした名前と頻繁にぶつかる。
千影は紙をめくる手を早めた。主流に連なる名前は残らず網羅されているせいで枚数がやたら多い。最後の一枚だけを見れば用は済むのだが、それは何となく憚られた。今はただの羅列に過ぎないが、そんな彼らにも確かに人生があったのだ。その中には、今の千影と同じ心持ちで家系を遡った人間もいることだろう。
残るは二枚というところで、千影の手が止まった。戸惑いを隠せない千影は細い眉をしなやかに歪める。
年代にして十九世紀というあたりだろうか。家系図が急に白くなった。全くの白紙ではないが、名前はことごとく隠されている。残っているのは血の繋がりを示す罫線だけだ。名前の上から付箋を貼ってコピーしたらしく、至るところに文字の残骸が見えたが、そういう箇所はご丁寧にホワイトで塗り潰してある。まったく、念の入ったことだ。そこまで隠しとおさねばならない事実とはどのようなものだろうか。
淡々とめくった最後の一枚もやはり白かった。あみだくじのような線だけが目に止まる。長い道程の最後に、千影はようやく二人分の名前を見出した。
Arianne(アリアンヌ)。
千影は思わず天井を仰ぎ見た。目を閉じ、胸に溜まった熱い塊をほうっと吐き出す。
亞里亞はメリュジーヌの後裔だ。もはや、疑いを挟む余地はない。
ほとんど知られていないのだが、Arianne(アリアンヌ)こそが亞里亞の本当の名前なのだ。Aria(アリア)は省略形なのだが、当の本人があれだけ連呼しているのだから知られなくて当たり前だ。
その隣、寄り添うように記された名は Charlotte(シャルロット)。
それが、この家における千影の名前だった。
初めてじいやと顔を合わせたとき、この名前で呼ばれた千影は思わず笑ったものだった。シャルロットだなんて、まるでフランス人そのものではないかと。
そもそも、千影にはシャルロット呼ばわりされる覚えはないのだ。それもそのはずで、家系図には和名を載せないとか何とかいう一悶着の末、便宜的に付けられたものだという。
記憶の中の母には『ちかちゃん』と呼ばれていた。千影は、生まれてよりずっと千影のままだった。母が呼んでくれた名を捨てられるはずがない。
シャルロットと呼ばれたのはその一回きりで、それ以降はじいやにも呼ばせていない。
千影と呼んで欲しい。そう頼んだときの彼女の顔は、どういうわけか今でもよく覚えている。さも当然だといわんばかりに涼しげな顔で了解するじいやだったが、ほんの一瞬、その瞳に激情が渦巻くのが見えたのだ。怒りを迸らせようとする寸前に思いとどまった余韻が、眉間に薄く彫られた皺となって残っていた。
彼女は何かを我慢していた。押し隠そうとしていた。
当時は自分の反駁に対して怒りを抱いたのだろうと単純に思っていた。
だが今にして思うと、彼女の怒りは何かもっと別の事柄に対して向けられていたような気がするのだ。
千影は知らぬ間に、自分の眉間をさすっていた。眉を寄せて考え込んでいただけにずきずきと痛む。今はじいやのことを考えている場合ではない。知りたい事はまだある。
千影は改めて家系図に目を落とした。そしてある一点を睨む。千影たちの一世代前。つまり、両親の欄を。
だが、じいやによる隠蔽工作は徹底を極めていた。空白が当然のように鎮座している。当然、イニシャルすらもない。千影は密かに期待していたのだ。今度こそ母の名前がわかる、と。
千影は母の名前を覚えていない。
当時、まだ幼かった千影に母の名を知る必要はなかった。他の誰でもなく、母は千影の母なのだ。千影がママと呼べばそれで済んだのだ。しかし、千影もずっと子供のままではいられない。母を探そうにも名前を知らないのでは手のつけようもなかった。
そして驚くべきは、義父も名前を知らなかったということだ。
母は、義父とひとつ屋根の下で暮らすにあたってひとつの条件を出したという。
『私の素性は決してお訊きにならないでください』
この話を聞いた当時は、たかがアル中の戯言とシニカルに笑ってみせたものだ。だが、今ならよくわかる。それは真実だったと。
義父はその約束を忠実に守った。にも関わらず、母の姿は消えた。運命による惨い仕打ちを前に、義父の悲しみはいかほどだったろうか。
千影はなおも恨めしげに空欄を見つめた。だが、千影に透視の力はない。光に透かしたが、残念ながらあぶり出しは仕込まれていないようだ。
それでもなお諦めきれずに系図を眺める千影は、奇妙な箇所に空欄があるのにふと気づいた。
自分たち姉妹と同じ並びに存在し、千影の隣に位置している。罫線は母から伸びていた。――つまり、兄か姉だ。
千影は自分の目を疑った。自分の上に兄弟がいたなどとはとても信じられない。一瞬兄かとも思ったが、それは違うような気がした。
となれば一体誰なのだろうか。年齢的に顔見知りの可能性は皆無だ。つまり、自分たちの見知らぬ人間ということだ。
しかし、腑に落ちない点が多い。我が子をどこかへ置き去りにしたまま何食わぬ顔で暮らせるほど、母は冷酷な人間ではないはずだ。それにじいやの手で名前を隠されているのも妙だ。教えたくないのか、教えてはいけないのか。あるいは教える必要がないのかもしれない。仮に故人であったならば、知る必要も知らされる必要もない。
千影は髪を掻いた。見知らぬ兄姉に思いを馳せている場合ではない。今は生死のわからぬ人間よりも、生きている人間を救うほうが先決だ。
とは言うものの、具体的な方策は相変わらず見つからない。いつまでもぐずぐずしている状況でないのはわかっているが、さりとて闇雲に動き回るのも得策とは思えない。スラップスティックは四葉の専売特許だ。千影にはとても真似できない。
膝の上に手を置いて腕を突っ張らせると、千影はそのままうなだれ、目を閉じた。
とりとめのない考えばかりが脳内を駆け巡る。これは、と思ったアイデアも形になる直前で霧散してしまう。何かが自分の意識に割り込んでいるようだ。低く地の底から響く、唸るような声。
千影は耳を澄ませるが、薄く聞こえてくるのはエアコンの排気音のみだった。手のひらで耳を塞いだときの潮騒にも似た、絶え間ない鼓動。
そんな静けさの中に異音が混じった。爪先で何かをカリカリ引っ掻くような音。
目をすがめつつ音のしたほうを見ると、そこには座卓に乗ったノートパソコンがあった。ディスプレイは折り畳まれ、側面のスロットに挿されたカードには光が点っていない。
しかし、よくよく目を凝らすと、ディスプレイとキーボードの間にはわずかな隙間があった。そこからはかすかに光が漏れ出ている。
千影は電灯に集う羽虫のように、ふらふらと引き寄せられた。
ディスプレイを開いた千影の目に入ったのは、ムービーの編集ツールだった。左下に折り畳まれたウィンドウがある。
千影は何の疑問もなくそれを最大化した。画面の半分に大きくしゅるりとウィンドウが広がる。ひどく暗い。金網が月明かりにぼんやりと浮かぶところを見ると、これはウサギ小屋に仕掛けたカメラの映像らしい。画面の左下、小屋の奥には灰色の物体がいくつもうずくまっている。
そのムービーにノイズが走った。ただでさえ解像度の高くない画像が乱れ、さらに荒くなる。ついにはウィンドウ全体がモノクロの砂嵐で覆われた。一瞬パソコン本体の故障かとも思ったが、再生画面のカウントは澱みなく時を刻み続けている。元よりそういう画を記録したということか。
数秒後、唐突に映像が回復した。
小屋の様子は一変していた。ウサギ小屋の中には目を赤く光らせた何者かが佇んでいる。ゆらゆらと規則正しく頭を揺らし、そのつどに月光の照り返しで輝く銀髪がふわりと舞った。
見間違えるはずがなかった。
それは亞里亞だった。
下半身は闇に沈み、よく見えない。だが、滑るように宙を走る上体の動きがその異常さを物語っていた。
亞里亞はおもむろにぐらりと上体を傾げてウサギたちの群れに腕を突っ込み、一羽を両耳の根元から掴み上げた。乱暴な扱いにじたばたと暴れるウサギだが、ぴんと引き伸ばされた耳へ亞里亞が二言三言と語りかけるとすぐにおとなしくなった。
それを両腕に抱え込んだ亞里亞は、まるで子守唄でも聞かせるかのように上半身を左右に揺する。赤い眼光が弱まったのは目を細めているせいだろうか。抱かれた白い毛玉はぴくりとも動かない。
不意に亞里亞の頭が止まった。赤い光が幾度か明滅したかと思うと背中をぐっと反らし、白い毛の中へ顔を埋めた。毛玉の中から長い耳がばねのように立ち、やがて陸へ揚がった魚のようにびくびくと跳ねた。亞里亞の肩もしゃくり上げるかのように、規則正しい感覚で引き攣る。
亞里亞はどれだけそうしていただろうか。
おもむろに顔を上げた亞里亞は、満足げに大きく一度、肩で息をした。口の周りが光を受けて黒光りしているのは、亞里亞が食事を終えた証なのだろう。
亞里亞は何事もなかったかのように長い耳の付根を握り、だらりと垂れ下がった体を目の高さへ持ち上げた。そして、しげしげと見つめる。見つめる一方で小さな鼻をつついたり、頭をなでたりしている。小さく傾げた首からは、亞里亞の困惑の色がうかがえた。――ねぇ、どうして眠っているの? 亞里亞はウサギさんと一緒に遊んでほしいのに。
やがて亞里亞は、何の反応も示さないウサギを無造作に投げ捨てた。まるで遊び飽きたぬいぐるみを放り置くように。
無慈悲な妹の行為に千影は思わず顔を背けた。
こんな姿の妹を見たくはなかった。ウサギたちを慈しんで可愛がる、やさしいあの子はどこへ行ってしまったのだろう。これは悪い夢に違いない。私はまだ夢の途中だ。きっとそうだ。そうに違いない――
だが、そんな千影の願いは、当の亞里亞自身によって裏切られた。
ぎらりと目を輝かせた亞里亞は手の甲で口元をぬぐい、腕を大きく振りかぶって素早く下ろした。大鎌を振るって麦を刈り取るように、新たな贄を群れから刈り取った亞里亞はしかし、今度はいくつかの手順を省いた。
頭を鷲掴みにしたまま大きく口を開け、野生を剥き出しに喉元へかぶりついたのだ。赤黒い血が白い毛皮を伝わり落ち、闇に消えた。亞里亞の喉が小さく動いている。ごくごくとうまそうに、あふれる血潮を飲み干している。白い毛皮が一回り小さくなった。
魂を抜かれたように茫然と見入る千影と、柔肌に夢中で牙を突き立てる亞里亞。
驚きに大きく見開かれた千影とは対照的に、亞里亞の目は引き絞られて細い。どこか楽しげに頭を左右に揺らしているせいで、目から漏れる赤い残影が糸のようにも見える。運命の赤い糸。
その糸がひとつに固まり、明るさが何倍にも膨れ上がった。
その途端、千影の背筋に戦慄が走った。心臓が鷲掴みにされたように、ぐっと縮み込む。息が苦しい。
カチカチと耳障りな音がしたが、それは千影自身が歯を鳴らしている音だった。止めたくても止められない。身体が動かなかった。
二人の視線が時間を越えて交わる。
時間という壁に守られているにも関わらず、彼女の赤い瞳は千影の恐怖心を呼び起こした。まさしく蛇に睨まれた蛙だ。千影の邪眼とは比べ物にならない。
赤い光が一度瞬くと、再生画面にひとつ亀裂が走った。亞里亞がまばたきをするたびに亀裂は増え、その数が二桁になろうかという頃、一面の砂嵐に覆われて再生は終了した。数秒のブルースクリーンを挟んでリピートが始まる。再び無人のウサギ小屋。
呪縛から解き放たれても、千影はしばらく茫然と座り尽くしていた。頭の奥に芯が残っているように、意識がどこかぼんやりとしている。今のは白昼夢の類ではないのか。あるいは、夢から覚めた夢を見ているのか。
今さらのようにシャドウの言葉が頭をよぎる。
『あの子はきっと千影を殺すわ』
吸血か、あるいは捕食にまで至るだろうか。彼女が理性を失ったままであればその可能性は十分にある。あのウサギたちのように。
ディスプレイの中では、亞里亞のひとり遊びが再び始まっていた。ままごとのように命を弄ぶ亞里亞。
千影は、今度は目を逸らさなかった。だが、生気の失せた虚ろな目だ。見ているようで何も見ていない。
――あの子の毒牙に掛かってあげるのもいいかもしれない。
最後に一度大きく痙攣して事切れるウサギを目にしながら、千影はぼんやりとそう思った。
いざとなれば、あの子に身を投げ出すまでだ。血を吸われ、肉を食われ、文字通りに亞里亞の血肉となって共に生きる。それもいい。悪くはない。
だが、その感情はただの逃げに過ぎなかった。そのことは千影自身が痛いほどに自覚していた。
仮に食われてやったところで何が変わるわけでもない。腹がくちくなった亞里亞は満足げに口元をぬぐい、げっぷをする。ただそれだけだ。
にも関わらず、敢えて食われてやろうとするその心は、自分の思い通りにならない腹いせに暴れて回る子供と何ら変わりない。自暴自棄になり、手当たり次第に物を掴んでは投げ、叩き、そして壊す。
あるいは一家心中でもいい。残された子供が可哀想だからと自分の不幸を押しつけ、勝手に幕を引く。そこにはただ虚栄しかない。子供のことを考えているようでその実、自分の名ばかりを気に掛けているのだ。子供を残して死ねば、その子供が生きている限り囁かれ続ける。子供を残して死んだ、酷い親だと。
――ちっぽけなプライドを守るための嘘。
自らの思いつきをそう断じた途端、千影の口からは低い笑いが漏れ出ていた。
最初は地を這うようにうねり、次第に引き攣るように高く。
滑稽だった。自分がどうしようもなく情けなかった。
えらそうなことを言っておきながら、最後の最後で怖気づいてしまった。あのとき、あの子の全てを受け止めていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
千影は襲い来る絶望から背けるように両手で顔を覆い、上体を仰け反らせ、不規則に肩を揺らせながら笑い続けた。
その笑いがあまりにも激しかったので、千影は背後で蠢く物音に気がつかなかった。
静かに扉を閉め、躊躇いがちにそっと近づく足音。
人影で光が遮られて始めて、千影は何者かの存在を感じ取った。
ぴたりと千影が動きを止めたので、その何者かは怯えたように身を揺らせた。床に近い位置から布地が触れ合う音がする。千影には、それが誰なのかわかっていた。
「――千影さま」
予想通り、大人の女性の声がした。
「ご覧になられたのですね」
背後の女性――じいやは、憐れむように小さな声で呟いた。
人ならざる主人の姿を見たにも関わらず、平板で抑揚の少ないその声は、私情を挟まずに黙々と忠勤に励む彼女ならではのものだった。メイドの鑑と褒め称えるべきだろう。亞里亞が他人であったならば。
立ち上がりながら、千影は言い捨てた。
「あなたのせいだ」
あまりに冷静過ぎるメイドの気配が千影の怒りに火を点けた。
「あの子のことをちゃんと教えてくれていれば、こんなことにはならなかったはずだ。それを、つまらない謎掛けなどしているから」
千影は振り返ってじいやを睨みつけた。
だが、なじられたというのにじいやの顔は驚くほど無表情で、ひどく蒼ざめていた。
「申し訳ございません」
幽鬼のような佇まいのじいやは、それでも作法通りにお辞儀をした。
「謝って済む問題じゃない!」
千影は感情の赴くままに吠えた。
「これを見ろ!」
液晶画面を指差し、
「あなたが勿体ぶった末がこれだ。どうして言わなかった。なぜ今まで秘密にしていたんだ。姉妹なのになぜ、隠し事なんか――」
そこまで口にした千影は自らの言葉に胸を詰まらせ、顔を伏せた。隠し事をしていたのはむしろ千影のほうなのだ。今に限っては罪悪感が何よりも勝った。
そんな千影の迷いを察した風に、じいやがゆらりと歩み寄る。
「なぜ、そこで言い澱まれるのですか?」
「黙れ!」
湿った打撃音がした。
何かを考える間も無く、千影の手が咄嗟に閃いていた。手のひらが痺れてずきずきと痛む。じいやの白い頬に赤い手形がじわりと浮かびあがった。
叩かれた頬を気にする様子もなく、じいやは千影の手首を掴んだ。冷え冷えとした感触に千影の眉が歪む。
「たとえ真実を申し上げたとしても、千影さまは決してお信じになられなかったことでしょう。それどころか、私を嘘吐き呼ばわりされたはずです。何となれば、亞里亞さまという前例がありますだけに」
「うるさい! 言うな!」
千影は身をよじって縛めから逃れようとするが、メイドの腕力はことのほか強く、逃げたくとも逃れられない。それどころかもう片方の手を掴まれ、自由を封じられてしまった。
「何物をも疑って掛かる。それは決して悪いことではありません。むしろ、亞里亞さまにも見習っていただきたいものです。しかし、千影さまのそれは度が過ぎておられます」
じいやは千影の目をじっと覗き込んだ。手を封じられ、正面から見入られた千影に逃げ道はない。目を閉じても逸らせても、千影は敗北を認めたことになる。糾弾の内容を真実だと認めてしまうことになる。
しかし、メイドが突きつけた刃はあまりに鋭利だった。
「千影さまがひとりを好まれるのは、ご自身が臆病であるが故なのでしょう。それはつまり、自分が愛されているという確証がない。確証がないからこそあなたは誰にも打ち破れない壁を築き、備えとされたのです。『私は誰にも愛されないから、ひとりでここにいる』と。だからこそ千影さまは、一度は亞里亞さまを退けられたのです」
何の裏付けもなく淡々と紡ぎ出される言葉は、千影の心を容赦なく切り刻んでゆく。心が露出するにしたがって、新たな怒りと怖れとが頭をもたげる。羞恥と憎悪で目の前が赤く染まる。
「それ以降は、私がほぞを噛んで羨むほどに仲睦まじい姉妹でしたのに、それなのに今はどうでしょうか。亞里亞さまが化生の身になられたと気づくや、くるりと手のひらを返される惨い仕打ち……」
仮面のごとく無表情だったじいやの顔がようやく曇った。
「そんな、私は、そんなつもりで――」
「千影さま」
じいやは再び仮面を付け、語気を強めた。
「千影さまは結局、亞里亞さまを愛しておられなかったのです。あなたはただ、亞里亞さまの愛を投げ返されていたに過ぎないのです」
「そんなの、出鱈目だ! 思い込みだけで言うな!」
図星を差された衝撃のままに、千影は大きく腕を振るった。じいやは何の抵抗も見せず、パッと縛めを解いた。その反動で数歩よろめいて下がった千影は、肩で息をしながらじいやを睨み据えた。
ふつふつと湧き上がる怒りが、目の前をさらに赤くさせる。
千影は唇を噛み締めた。
弾劾の内容はまったくもって正しかった。事実だった。自分でもよくわかっていた。来るものは拒まず去るものは追わず、と語れば聞こえはいいが、それは自分自身に価値があると認められない人間の使う言葉なのだ。好きになってくれたから好きになる。愛してくれたから愛してあげる。自分の本音を押し隠し、機械のように生きる。木霊のように、鏡のように、そして影のように、自律した意志もなくただ付き従い、受け答えて返す。
自分の心を偽るのに、これほど簡単な方法が他にあるだろうか。
だが、それももうおしまいだ。
なぜなら彼女が、じいやが全てを暴いてしまったからだ。
――いや、まだ手はある。
千影は内心でにたりと笑い、右足を半歩引いた。
そうだ、彼女を消してしまえばいい。
殺すまでもない。要は言わせなければいいのだ。記憶を消すか、破壊するか、いや、どんな方法でもいい。
そのための力だ。邪眼だ。
「メイド風情が、つけ上がるんじゃない!」
千影は彼女を見下すように頭を反らし、引き金を――顎を引いた。
迸る悪意はあやまたず、じいやの目を穿った。小さく何かの砕ける音がした。
不規則にたたらを踏んだメイド服が左右に揺れ動き、その膝ががくりと折れた。その姿に、千影は勝利を確信した。
だが、いつまで経ってもじいやは倒れない。それどころか、姿勢をゆっくりと起こし始めたのだ。
千影はじりっと下がった。混乱の極みだった。今の一撃には渾身の力を込めたのだ。あれを食らって平気でいられる人間など、いるはずがない。もしや、彼女までもが――
「ご懸念には及びません」
そう呟くじいやの声は、やはり苦しげだった。
「私は一介のメイドに過ぎませんので」
じいやはちらりと千影を見て、顔を伏せた。
「しかし、奥さまからの形見が……」
「形見?」
怪訝そうな千影にじいやは頷き返し、右の袖口を手で払った。何か細かなものがパラパラとこぼれ落ちる。
「奥さまより賜った、マラカイトの指輪です」
そう言いながらかざした右手の薬指に銀色の指輪が嵌っていた。空になった台座には緑色の欠片がこびりついている。
「砕けたのか」
「ええ、砕けてしまいました。あなたの力に耐え切れなくなったのでしょう」
「私の力?」
話の見えない千影は、半ば呆けたように問いを繰り返す。先ほどまで体中に満ちていた怒りは、もうどこにもなかった。
そんな千影の姿に、じいやは軽くため息をついた。
「マラカイトが嵌っていたのです」
じいやは執拗に繰り返した。
「マラカイト、つまり孔雀石は古来より邪気払いの石として珍重されました。特に、邪眼避けのお守りとして」
「邪眼避け……」
一時的に空虚となった脳に、その単語がわんわんと木霊した。
次の瞬間、千影の顔色は青く転じた。
「そんな、まさか、それでは……」
「ええ、そのまさかです」
じいやは静かに肯定しながら、首を横に振った。おいたはいけませんよ、という風に。
彼女は千影が邪眼の遣い手であると今知った、もしくは以前から知っていたのだ。何より、力に抗いきれず砕けたマラカイトが何よりの証だった。
「そして奥さまが遺言で、千影さまと会う際には必ずこれをつけるようにと」
さらなる追い討ちに千影の足はがくがくと震え、腰が砕けるままにその場へ座り込んだ。
「――ママが、そんな……どうして!」
千影の口から迸ったのは、普段のアルトからは想像もつかない金切り声だった。鼓膜へ突き刺さる声にじいやが顔を顰める。
「千影さま……」
自らの肩を抱いて恐れおののく千影の前に、じいやがしゃがみ込む。
「触らないで!」
おずおずと伸ばされたじいやの手を、千影が大きく振り払った。
「ずっと人を謀っておいて、今さらのように慰められても、私は、そんなの……」
あの母のことだ。何か理由があるのはわかっている。その形はどうあれ、死の床の中でも自分のことを気に掛けてくれたのだ。
それでも、許せなかった。自分ひとりの秘密と思いその重さに苦しんできたというのに、目の前のメイドはずっと見て見ぬふりをしてきたのだ。許せるはずがなかった。
申し訳ございません、と囁く声がした。
ハッと顔を上げると、静かに立ち上がったメイドが背中を向けようとしているところだった。やわらかな匂いを残しながら、ぬくもりが去ろうとしている。
ふと、母の背中が重なって見えた。あの公園で見た母の背中。あれが母を見た最後だった。
その背中が去ろうとしている。
「行かないで!」
千影の手がじいやのスカートを掴んだ。思い掛けない行動にじいやが足を止め、振り返った。
高みから見下ろしている二つの目は鳶色で、母の鮮やかな青とは似ても似つかない。しかし、今の千影には些細なことだった。
「ちかのこと、置いて行かないで! 見捨てないで!」
仰ぎ見た顔がどんどん歪んでゆく。
千影は涙を流していた。人前では決して泣くまいと思っていたのに、千影は泣いていた。
それは冬の名残を押し流す雪融け水のように、とめどなく流れ出た。凍てついた心に亀裂が走り、見る間に融け出してゆく。
「ちか、いい子にするから。だから行かないで、ママ。あのとき食べられなかったニンジンだって今は平気だよ。ウサギさんみたいにちゃんと食べられるから、ほら、ママのいいつけ、ちかはちゃんと守ってるの。もっといい子になるから、ずっといい子でいるから! だから、ちかを置いて行かないで! ずっとちかのそばにいて!」
千影は恥も外聞もなくじいやの腰にすがりつき、エプロンに顔を埋めた。
「お願い、ちかのこと……私のこと、嫌いにならないで……」
千影の慟哭に立ち竦むじいやだったが、やがておもむろに千影の手を取ってそのまま膝をついた。
「ご心配なく、私はメイドです。あなたが私を解雇しない限りは」
「イヤ、違うの。そんなのじゃないの」
あふれる涙もそのままに、千影はぶんぶんと首を振った。
「メイドとか主人とか、そういうのじゃないの。ちかは……私は、あなたに、もっと――」
「こうですか?」
じいやは自分の胸に千影の頭を押しつけた。千影はたちまちおとなしくなる。安堵のため息がメイドの胸元を熱く湿らせた。
物心ついてからの千影には、大人から面と向かって叱られた記憶がなかった。切れ長の目に収まった青い瞳という異相とそれにつきまとう邪眼の噂が、周囲の大人たちを遠ざけた。学校の教師はおろか、義父ですらも目を合わそうとはしなかったのだ。
それだけに、今のじいやは愛しくも恐ろしい存在だった。
ぬくもりに抱かれてひとまず落ち着きを見せる千影だったが、またしばらくすると、不安に耐えかねたようにぐずぐずと泣き始めた。
「――違う、違うの。そういうのじゃなくて、もっと」
千影は大きく一度しゃくりあげた。
「ちか、怖いの。怖いから、こんなのじゃなくて、だから」
千影は自分が何を言っているのかわからなかった。
だが、自分が何を求めているのかはわかっていた。しかし、さすがにそれを言うのは憚られた。――私のママになってなどと、どんな顔で言えばいいのだろうか。
「ですが、私はメイドです」
やさしく言い聞かせるじいやの声は、その一方で千影の甘えを許さなかった。
「どうして? ねえ、どうして? メイドは主人の言うことを聞くんでしょ? だったら、ちかのこと――」
こみ上げる感情が千影の喉を封じた。突然声の出なくなった千影はうろうろと視線をさまよわせ、再びやわらかな胸へと逃げ込んだ。それを見守るメイドの顔には、慈愛と困惑の色が半分ずつ混ざっていた。
だが、彼女の躊躇もそれまでだった。懐から瑠璃色の小片を取り出し、唇の前で横に滑らせた。
「千影さま」
厳しい声にびくりと顔を上げた千影が見たものは、口元から一筋の血を流すじいやの顔だった。瞳は焦点が合わず、半分下りた瞼が痙攣している。異様な雰囲気に千影は小さく悲鳴を上げた。
じいやは無言で千影の頬を両手で挟み、何の迷いもなく顔を近づけてくる。
「いや! 来ないで!」
千影は悪夢で味わった兄の狼藉を思い出し、じいやを突き飛ばそうとする。が、じいやの口はそれよりも早かった。
予想外のさらりとした感触に戸惑い、千影は思わず唇を開いた。じいやはその隙を逃がさずに舌を差し入れる。
女同士で、という嫌悪感に千影の顔が紅潮した。腕を滅茶苦茶に振り回し、叩き、髪を引っ張って千影は抵抗する。
だが、舌に続いて入り込んできた液体に、千影の心は魅了された。その熱い液体はチョコレートのように甘く切ない味だった。その中にかすかに混じる鉄の味――それは血だった。舌の切り傷からとめどなくあふれ出る。
喉を鳴らして飲み込むたび、千影の身体を縛りつけていた苦悩が消え去ってゆく。不安に凝り固まった感情が軽くなってゆく。
恍惚の表情を浮かべた千影はじいやの背中に手を回し、舌を甘噛みしては新たな快楽をせがんだ。
始まりと同じぐらいに唐突に、それは終わった。
じいやは舌をゆっくりと引き抜き、千影の腕の中から逃れた。桃色の唾液が名残惜しげにアーチを作り、ぷつんと切れた。膝が触れるか触れないかという間合いでぺたりと座り込む二人。
火照った体から熱気を逃がすように、二人はしばらく深呼吸を続けた。
「――どうして、こんなことを」
千影の呟きに、じいやが自分の手の内を開いて見せた。鈍く光る鱗に、千影はひとつ頷いた。もう驚かなかった。
「亞里亞くんには、いつも、その、舌先を切って?」
「ええ、まあ」
つと顔を背け、じいやは懐に鱗を仕舞い込んだ。
「最初は本当に偶然でした。亞里亞さまのお部屋で見つけたこれの角で指を切ってしまい、それで」
「確かに、心は鎮まる。いや、鎮まるというよりは、不安を覆い隠す勢いで幸福感が満ちあふれる。あの子の情緒不安を治めるには最適だな」
千影はひとりごとのようにぼそぼそと喋った。メイドが追従の頷きを返す。
「最近の亞里亞さまは以前にも増して精神的に不安定で。昔は、なだめて差し上げるのにもさほど時間は掛からなかったのですが」
「なるほど。そしてそれは、異変が境目になっているんだね」
「はい」
主人の問いに素直に応えるメイド。つい先ほどまでの昂ぶりが嘘のように、二人は普段の静けさを取り戻していた。ふとお互いの顔を見るとひどい荒れようだった。髪は乱れ、瞼は赤く腫れぼったい。
二人は申し合せたように身繕いを始めた。
「――じいやさん」
先に手を止めた千影が切り出した。
「あなたは一体、何者なんですか」
一段改まった千影の言い方に、メイドの手が一瞬震えた。
「できればメイド以外で」
機先を制されたじいやは目を伏せ、なぜか恥じらうような笑みを見せた。いつになくあどけない表情に、千影の胸が一度高鳴る。
「それでも私は、ただのメイドなのです」
「詭弁はもういい。そうやっていつまで私を騙すつもりなんだ」
「あなたこそ、どうしてそこまで私に拘るのです? たかが一介のメイドごときに」
諭すような物言いが千影に反発心を芽生えさせる。
「あなたの方こそ、どうしてそこまで隠すそうとするんだ。あなたがただのメイドではないことぐらい、私は百も承知している。そうでなければ、あの家系図だって用意できないはずだ」
千影の脳裏にふと閃くものがあった。
「――あの家系図、私の隣に空欄があった。位置的には私の姉になる」
言いながら、千影はじいやの顔色を探った。取り繕ったような無表情の中で視線だけが忙しく動いている。
「あなたはもしや、私の姉ではないのですか?」
目を伏せたままのメイドは、千影の言葉に寂しげな笑顔で応えた。そして、ゆるゆるとかぶりを振り、
「光栄なことです」
ぽつりと漏らした。
「そんなはずはない。あなたは知り過ぎている。姉ではなくて他の何だと言うのですか」
「では、知り過ぎたメイドということにしておきましょうか」
「いい加減にしてくれ!」
千影は声を荒げた。眉間に縦じわを刻む千影にじいやが少し困り顔を見せる。
「第一、年齢が合いませんでしょう? 私と奥さまとは十年そこそこしか離れておりませんのに」
千影は思わず唸る。言われてみればその通りだ。自分の思い出に住まう母はとても若々しかった。あるいは美化されているのかもしれないが、それでも目の前の彼女とは母子であるはずがなかった。
千影は唇を噛み締め、顔を伏せた。
「それでもあなたは、私にとって姉にも等しい存在なんだ。だからこそ私は、あなたが――」
「許せない。思わせぶりな態度で秘密を臭わせ、弄んだから」
あくまで穏やかなじいやの声。
千影はこくりと頷き、じいやの手をひしと掴んだ。
「教えてほしい。どうしてそんなことをしたんだ。あなたと母との間に、何があったんだ」
顔を上げた千影は、じいやの目を真っ向から見据える。じいやもまた、正面から見返した。
再び緊張の糸が張り詰める。そんな屋内とは裏腹に、窓の外からは小鳥の賑やかしい囀りが聞こえてくる。
折れたのはじいやのほうだった。
じいやは観念した風にため息し、
「奥さまには、とても良くしていただいたのです」
と、どこか遠くを見るような目つきでぽつりと呟いた。
「私の母もメイドでした。私の両親は生粋の日本人ですが、きっと何かしらの縁があったのでしょう。あるいは奥さまが日本人の血を半分引いておられたことと、何か関係があったのかもしれません」
「では、ずっとフランスに?」
「いえ、生まれは日本です。何歳かまではここに――この屋敷に住み込んでいたようですが、物心つくころにはもうフランスでした。私と母と、二人だけの家族でした」
じいやは千影の問い掛けを前もって拒むように、首を横に振った。
「父の顔は知りません。いえ、覚えていないだけかもしれませんが、とにかく私たちは二人きりでした。ですから母が病で亡くなったとき、私にお屋敷へ奉公に上がる以外の選択肢はありませんでした」
「他に仕事は?」
「十四歳だった私に、他にどんな仕事があったでしょうか。日本にも親類縁者はなく、私が頼るべきは母が掴んでいた縁でした。つまりは、このお屋敷です。それだけでも僥倖というものです。住み込みで食事付き、少なくとも衣食住は足りていたのですから」
千影は自分の十四歳を振り返った。思い出すだに憂鬱な学校生活。だがそれも、彼女の辿ってきた道程を思えばどうということはない。勉強だの部活だのと騒いでいた傍らで、彼女は自らの命を繋ぎ止めるのに必死だったのだから。
「それで、学校は」
「それは今まで通りに行かせてもらいました。もちろん、学費の相当分はお給金から引かれ、私の手元にはほんの小遣い程度しか入りませんでした。あくまでメイドとして置いてもらっていた身ですから、授業が終わればすぐに飛んで帰ってお掃除やお洗濯。少し前までは本当に普通の中学生でしたから、最初は何一つ満足にできなくて先輩に叱られてばかり」
俯き加減のじいやは自分の手を何度も撫でさすった。
「何度逃げ出そうと思ったかわかりません。でも、自分にはお屋敷以外に生きていける場所が無かったのです。本当にもう、私ひとりだけでしたから。ですから私は懸命に頑張りました。それもメイドの方を。頑張り過ぎて授業中に居眠りしてしまうほどに」
千影は『居眠り』のところで小さく頷き、賛意を表わした。
「ですが、それがよくなかったのです。居眠りがあまりに頻繁なので先生に呼び出されてしまい、そこでつい、奉公に上がっていることを喋ってしまったのです」
「それが、何か問題でも?」
何気ない千影の問いに、じいやが苦笑を見せた。
「児童虐待にあたるのではないのかと騒がれてしまったのです。加えて人身売買の疑いも。私が生粋の東洋人なので、母の死後、そういった趣味の人間に買われたのではないかと。もちろん全くの誤解ですが、児童労働は事実でしたのでお屋敷はちょっとした騒ぎになりました。政財界と繋がりが深いとはいえ、疑いが強まれば当局の捜査の手から逃れられませんし、名家であるがゆえにそのような醜聞は何としても避けねばなりません」
「醜聞は、避けねばならない……」
千影のひとりごとにじいやは一瞬、苦しそうに顔を歪めた。
「そこで、お屋敷では一計を案じられました」
顔を上げて千影を見つめるじいや。
「どうされたと思いますか」
突然の問い掛けに千影は戸惑う。小さく首を傾げて次の言葉を待つが、当のじいやは今さら何か躊躇っている様子だ。繰り返し、エプロンドレスの裾を掴んでは離ししている。
咳払いで千影が催促すると、やがて観念したかのように大きく深呼吸した。
「――私が成人するまでの間、私を奥さまの養女としたのです」
「は?」
あまりの突拍子の無さにじいやの言葉が上滑りし、何も頭に入らない。
「養女、というのはつまり――」
「あくまで書類の上での話です。家族、ということにしておけば当局からの干渉を防ぐことができますし、実際に向こうの追及も止みましたから。あるいはどこからか手が回っただけなのかもしれませんが」
「それで、その後は」
千影がぼんやりと、半自動的に先を促す。
「養女になりこそすれ、私は相変わらずただのメイドでした。ですが一つだけ変わったのは、奥さまがお傍付きのメイドとして私を引き取ってくださったことです。掃除や洗濯ではなく、奥さまの着替えをお手伝いしたり、身の回りのお世話をしたり。奥さまは母を亡くした私を憐れんでくださったのか、人目の無いところで本当にとてもよくしてくださいました。お茶のお話相手や、どこかへお出かけになる際にも私を。そして、夜お休みになるときも」
じいやは一度、意味ありげに千影を見た。
「私は毎晩、ナイトドレスを着せられました。今、亞里亞さまが着ておられるような、フリルがいっぱいついたものです。そして、頭に大きなリボンを結わえた私を膝に乗せられ、おとぎ話や子守唄を――」
「ちょっと待ってくれ」
千影は手を振って遮った。
その傍らで目の前のじいやをそっと覗い見る。涼やかな目元に、引き締まった顎のライン。童顔系の造りならまだしも、彼女の顔では到底似合いそうもない。もっと若ければ――そう、ほんの子供であればまた話は別なのだが。
「しかし、当時のあなたの年齢を考えると、それはあまりにも――」
「変だ、とおっしゃりたいのでしょう?」
さらりと言ってのけるじいやに、千影は思わず頷き返す。
「ええ、確かにそうです。奥さまの娘となるのに、私は十年も生まれが早過ぎました。私は奥さまの悲しみを癒して差し上げようと、受けたご恩を少しでもお返しできればと努力したつもりです。ですが、時間の壁だけは越えられませんでした」
一息にそう言ったじいやの顔には、悲しみの色が垣間見えた。
「夜の闇の中、私は『千影』と呼ばれていました」
「そんな……」
次々に明かされる衝撃の事実を前に、千影は言葉を失っていた。
「奥さまがなぜそんなことをされたのか、当時の私には知る由もありませんでした。日本にお嬢さまを残してこられたと聞いたのは、亞里亞さまを身篭られた後のことです。そして、そのお嬢さまの名前が『千影』ということも」
じいやは切れ長の目尻を指先でぬぐった。水滴が一文字に引き伸ばされる。
「あなたは、もうひとりの私だったのか……」
悄然と呟く千影に、じいやは頭を横に振って見せた。
「いいえ、私はただのメイドに過ぎません」
「どうしてそんなことを言うんだ。血の繋がりなんて関係ない。あなたは母の娘で、私の姉だ。あの家系図には、あなたの名前が入っていたのに」
千影は煮え切らない姉の肩を掴み、何度も前後に揺すった。メイドはその腕をやさしく取ると、自分の膝の上へそっと下ろす。
「ええ、千影さまのおっしゃる通り、あの空欄は私のための場所でした」
「だったら、どうして」
「私はもう、赤の他人だからです」
深まる困惑に千影は眉を顰めた。
「先にお話しましたように、養子の件はあくまでその場しのぎに過ぎませんでした。ですから、養子縁組は私が成人したその日のうちに解消されました。今は名実共に一介のメイドです。もはや姉などではありません。亞里亞さまのご姉妹は、千影さまおひとりだけなのです」
千影を見据えるメイドの目はあくまで厳しい。
「そんなことはない。あなただって亞里亞くんの、いや、私の姉だ。私と同じ、ママの娘だったんだ。血の繋がりなんて関係ない」
「違います!」
迸るじいやの感情が鋭く響いた。
「私では駄目なのです。たとえどれだけ尽したところで私はメイドです。今さら姉と名乗ったところで、亞里亞さまを混乱の渦に叩き込むだけなのです。私がどんなに愛しても、身も心も捧げ尽くしても、あの方は私に、主人としての愛情しか与えて下さらないのです。妹としては甘えてくださらないのです。こんなに残酷なことがありますか? 愛しているのに決して愛されない。あなたが現れてから私は疎まれる一方です。もしも私が母親であれば、それも親離れと諦めもつくでしょう。ですが、あの子は私の妹です。遠く離れられたあなたさまに成り代わり、胸の内では姉とも自認しておりました。それなのに、肝心のあなたさまは……」
風前の灯火のようにメイドの声が揺らめいたかと思うと、それはいきなり劫火へと転じた。
「なぜ、私ではないのですか!」
一瞬の沈黙があった。
「あなたより私のほうがずっとずっとずっとずっと想っているのに、あの子を愛しているのに、あの子はあなたのほうにばかり向いて私を遠ざける。あなたはあの子を内心で疎んでいるのに、あなたは愛情を受け取るばかりで自分では何もしない。どうして私じゃないのですか! 同じ姉なのに、あなたは私だったのに、私のほうがあの子の愛情を受けるに相応しいはずなのに、どうして、なぜ、あなたばかりが!」
千影へ向けて勢いよく突き出した手が直前で止まった。憤怒に染まった顔が凍りつく。
彼女は次第に歪んでゆく顔を両手で覆い、肩をがっくりと落とした。その肩が小刻みに震えている。
指の隙間から熱い雫がいくつもこぼれ落ち、エプロンドレスの上に弾けた。
「――あなたが、そこまで思いつめていたなんて」
しばらく置いて、憮然とした面持ちの千影が小さく呟いた。しゃくりあげる声に混じり、申し訳ありませんと謝る声がした。
「違う。謝らなきゃいけないのは私のほうだ」
千影は本心からそう告げた。いついかなるときも冷静さを失わない彼女がここまで感情を荒げた。彼女にとって亞里亞とは、メイドという仮面を捨てさせるだけの存在なのだ。
それはしかし、千影にも同じことが言える。ひた隠しに隠してきた本音を、この二日でどれだけ暴露したことだろうか。
「謝らないでください」
打って変わり、凛と響く声が千影の耳を打つ。
「謝るぐらいなら、その代わりに――」
涙に濡れた手が、千影の両の拳を包み込んだ。
「あの子を……亞里亞を、助けてあげてください」
その手にぐっと力が入った。千影は思わず目を剥いた。
「助けてあげてください、とはどういうことですか。あなたがこの件の手引きをした……いや、それよりも、そもそもどうしてこんなことに?」
千影の問いにじいやは力なく、ゆるゆるとかぶりを振って応えた。
「わかりません。わかっているのは、家中において奥さまが鬼子として扱われておられたことです」
「鬼子」
千影は繰り返した。その言葉の響きに、自分の気持ちが沈むのがわかる。
「向こうでも別棟をあてがわれ、本邸への出入りもままならない状態。怖れられ、遠ざけられながらも、利用価値があると見なされた奥さまに自由はありませんでした」
母もそうだったのだ。自分と同じように、遠巻きに巻かれ続けてきたのだ。
「――私が目覚めたのも、必然だったんだね」
「ええ」
じいやが頷いた。
「奥さまはそのことを何よりも心配しておられました。お二人とも、自分と同じ道を辿るのではないかと。千影さまは大丈夫ですが、今は亞里亞さまが」
「ということはつまり、あの子の変身にあなたは何も関わっていないと」
今度は無言で頷くじいや。
「では、私はどうすればいい? 何か手はあるのか?」
「それは……」
じいやは無念そうに唇を噛み締め、小声で告げた。
「ここまでとは思わなかったのです。まさかあんなお姿だったなんて、私には想像も。もっと早くに知っていれば、あるいは」
「もっと早くに?」
唇を噛み締めるじいやに、千影は思わず首を傾げた。
「その言い方だと、つい今しがた知ったようにも聞こえるが」
じいやが視線だけを動かして千影を覗い、次いでノートパソコンを見た。
「その監視カメラの映像が始めてです」
「では、昨日見せてくれたあの写真は? あれこそまさしく、蛇の身体の仕業によるものだが」
つい咎めるような口調になってしまうのは仕方がない。その後の口論で、千影は禁忌を破ってしまったのだから。
千影の目線に射竦められ、じいやの表情が一段と険しくなる。
「あれも、そうとは気づきませんでした。いえ――気づかないふりをしていたのかもしれません。奥さまからは可能性を聞かされてはおりましたが、まさか亞里亞さまがそんなことに」
じいやは息を飲み、それっきり絶句した。
彼女の心情は理解できる。最初にその可能性を疑ったときは、逆に自分の正気を疑ったのだ。いかに浮世離れた妹とはいえ、魔物に変身するなどあまりに突拍子がなさ過ぎる。
予備知識があったとしてもあの場面で冷静に振舞えたあたり、じいやはかなりの役者といえる。それどころか千影を焚きつけた上でここまで導いたのだから、その策士ぶりは相当のものだ。これも、亞里亞への愛情が為せる技なのだろう。
「――もしも、あの子が元に戻らなかったとしたら?」
不意に千影が発した問いに、白いカチューシャがぴくりと動いた。
「そんなこと、ありえませんわ。今まではちゃんと元に戻っておりますから」
それがただの希望的観測にしか過ぎないことは、当の彼女自身がよく理解しているらしい。言葉の強さとは裏腹に語尾は震え、嘘を見抜かれまいとするかのように目を合わそうとしない。
「でも、これからはそうもいかない。月が来るたびにああなっていたのでは学校生活も危ういな」
「他人事のようにおっしゃらないでください」
ひとりごとめいた呟きに眉を吊り上げるじいやだったが、すぐ我に帰って頭を下げた。顔を上げて再び見返したその目は、深い悲しみに彩られていた。
「いざとなれば、この屋敷をついの住処とにしていただくより他ありません」
「籠の中の小鳥として一生飼い殺しにするんだね、ママと同じように」
直接的な千影の言い方に眉を顰めるじいやだったが、否定はしなかった。うなだれるように首を振る。
――ここは牢獄だ。
千影はふと、そう感じた。亞里亞の置かれた環境は、亞里亞にとってあまりに不自由過ぎる。人里から遠く離れた屋敷は、結界を張り巡らせたように無関係な人間を拒む。高い塀は必要ない。
それに、亞里亞がいつも着ている――着せられている――豪奢なドレスはただ動きにくいばかりで、半ば拘束着も同然だ。脱走もままならない。
加えて、ふんわりと広がったスカートの膨らみは何かを隠すのに最適だ。あの中になら蛇の下半身だって収まるかもしれない。とぐろを巻かせてじっとしていれば誰にもわからない。まさかのときには周囲の視線を遮ることもできる。
千影は息苦しさを覚え、胸元に手をやった。その指先が首に掛かったままの鍵を探り当てる。この屋敷の全ての扉を解き放つ鍵。
ブラウス越しに形をなぞるうちに、これを託してくれた理由がわかった気がした。
千影は静かに立ち上がった。
「――行こう、姉さん」
慣れない呼び名に二人の顔が同時に赤くなった。
「でも」
姉はゆっくりとかぶりを振り、躊躇う素振りを見せた。
「今さら怖気づいたのかい? 姉さん」
千影は自分をも奮い立たせるように、わざと軽口を叩いた。そして、スカートを翻しつつ背を向ける。
「私だって怖いさ。何をどうすればいいのか見当もつかない。もしかすると、みんな仲良く食べられてしまうかもしれない。だけど、それでも私はあの子が、亞里亞くんが……」
いざ言葉に出そうとすると照れが先走ってしまう。千影は咳払いで誤魔化した。
「それに、私たちはママの娘だ。血の繋がりとか姿かたちとか、そんなのは関係ないんだ。ママの腕に抱かれたのなら、ママをママと思っているのなら、それだけでもう、私たちは」
赤も銀も黒も同じだ。ただ色が違うだけで、髪であることに変わりはない。
ならば、思い出も同じだ。時期や長さなど関係ない。目を閉じて思い浮かべるのは、同じ女性の面影なのだから。
「だからこれからは、同じひとつの記憶を紡いでゆこう。同じ流れの中を生きているのにバラバラになったままなんて、そんなのはとても悲しい」
千影はじっと自分の手のひらを見つめた。手で温もりを感じられる距離にいるのに、この人はずっと黙ったままだった。睦み合う妹たちを前に忠実なるメイドとして、無言で手を動かすしかなかった。
秘密を抱えたまま生きるのは辛い。その秘密が秘密であるほど、それを持つ者にずっしりと重くのしかかる。だから、誰かに秘密を打ち明ければ楽になれる。秘密を分かち合うと同時に、秘密の持つ重みをも分かち合えるからだ。だが、それでは秘密が秘密でなくなってしまう。打ち明けることなどできるはずがなかった。
邪眼の力を宿したその日より、それは支えであると同時に重石でもあった。自分は人と違うという事実が、千影に異様な影を投げ掛けていたのだ。千影はその影に翻弄されるまま、ひとり暗い闇の中を生きた。それはいびつにねじれ曲がった誇りと後ろめたさとが同居した、内面では騒々しくも外面で静かな生活だった。心の騒乱を誰にも知られることのないよう、息を押し殺して。
メイドに身をやつした姉は秘密を抱え、どんな時間を生きたのだろう。今さら十二人が十三人になったところで大勢に影響はない。十二人を姉妹として結びつけたものは兄への思慕と、それを巧みに利用し交錯した大人たちの思惑だった。そんな企みから遠く離れた彼女が姉と名乗るのに、何ら障害はないはずだった。
それでも彼女は愚直なまでにメイドであり続けた。主従にしては馴れ馴れしく、肉親にしてはよそよそしい、あの奇妙な態度こそが唯一の表れだった。
千影の目尻が急に熱くなった。切なさが涙腺を刺し貫く。
「一人では辛いことだって、三人が集まればきっと大丈夫だ。たとえそれがどんなに重くても、その重さを分かち合えばいい。それがきっと、家族ってものだと思うんだ」
また涙が出そうになり、千影は乱暴に目元をこすった。そして半身だけを戻し、手を差し伸べた。
「だから、姉さん。あの子を迎えに行こう。きっと、私たちが迎えに来るのを待っているはずだ。あの子がメリュジーヌだとか何だとか、そんなのはどうでもいい。私たちの妹であることに変わりはないんだ。だから、姉さん」
姉は瞬きも忘れ、伸ばされた妹の手をただ見つめていた。その瞳には涙が満ち、周囲の光をたたえながら輝いている。
「ですが、私は」
打ちひしがれるように頭が落ちる。
「ならば、主人としてあなたに命じる。あなたは、私の姉になるんだ」
驚きに強張った顔がくいっと持ち上がった。千影の真意を図ろうとするがごとく、その目は大きく見開かれている。緊張を孕んだ目元が彼女のつり目を一層際立たせていた。
その目尻がゆっくりと垂れ下がると、姉は大粒の涙を浮かべながらやさしく微笑んだ。
「そのわがままで強引で頑固なところは本当にもう、亞里亞さまそっくりです」
鼻の奥につんと来るものを感じながら、千影も微笑み返した。
「頑固なのはあなただって同じじゃないか。ほら、私たちはやっぱり――」
「ママの娘、なのですね」
姉は妹の手をそっと取り、自らの胸へ当てるように押し頂いた。
*
千影の半歩後ろにひたひたと足音が続く。
試しに歩調を速めたり緩めたりしたが彼女の距離は変わらず、ずっと半歩のままだ。
千影は急に立ち止まった。慣性でふわっと動いた香水の匂いが千影の鼻をくすぐるが、肝心の本体はかろうじて立ち止まったようだ。二人の重みを受け、廊下の床板がみしりとたわんだ。
「姉さん」
振り返って抗議の声を上げようとした千影の唇に、白魚を思わせる指がそっとあてがわれた。千影の目を見つめたまま、姉は中途半端な笑みを浮かべる。
「私はこの屋敷でメイドとして雇われているのです、千影さま。どうかそれ以上は」
「でも、今は二人きりだ」
「千影さま」
メイドの言葉じりが鋭くなる。
「そんなわがままを言うものではありません。あなたは亞里亞さまのお姉さんなのでしょう?」
「だけど、それはあなただって……」
拗ねたように唇を尖らせる千影に、メイドは小さくため息をついた。
「お気持ちはわかりますが、今はそんなことにかまけている時間はないのです。全てがうまく運んだそのときには膝枕でもなんでも、あなたのお好きなようにして差し上げますから」
密かに芽生えた甘えの気持ちを指摘され、千影は気恥ずかしさのあまりによろめいた。姉がすかさず抱きかかえるようにして支えたのは、メイドとしての習性なのだろう。
体へしなやかに巻きつく温もりが千影の心を挫き、何の躊躇いもなく体重を預けさせた。ため息が首筋に掛かる。
「千影さま」
「わかっているよ」
千影は渋々と上体を引き剥がし、不満を大きく鼻息に乗せた。
その忠勤ぶりは結構なのだが、あまりに杓子定規過ぎて千影としては面白くない。せっかく姉妹の対面を果たしたのだからもう少しくだけても、という気持ちが千影には強い。それにお互いの秘密を打ち明けた仲だ。自分を必要以上に偽る理由もない。
「――でも、ひとつだけ」
「何ですか」
甘えたがりの少女の顔で上目を遣う千影に、やや呆れた調子で姉が答えた。
「代わりに、あなたの名前を教えてほしい。そうしたらちゃんとする」
「じいや、ではご不満ですか?」
少し困った風にじいやは眉を顰めた。予想通りともいうべき反応を受け、千影は頬を膨らませた。
「大人の女性をそう呼ぶのは、あまり気分のいいものじゃないね」
「そうでしょうか? 私はもう慣れましたが」
「あなたはね。でも、私はイヤだ」
これ以上は譲れないとでもいう風に、千影はわずかに足を広げて立った。
「今さら何を隠す必要があるんだい? 素性はもう明らかになっているのに」
なだめるような千影の説得にも、じいやは首を縦に振らなかった。
「公私は混同できません。ここは私にとって、公の場なのです」
きっぱりと言い切ったその調子に、この人は骨の髄までメイドなのだと、千影ははっきり悟った。
あまりに悲しげな顔をしていたらしく、じいやがそっと肩に手を置く。
「二人だけの秘密にしてくださいますか? 千影さま」
思いがけない言葉にぽかんと口を開ける千影だったが、すぐさま満面の笑みで頷いた。
「――ジュスティーヌ。それが、奥さまより賜った名前です」
「ジュスティーヌ」
千影は繰り返した。
「何というかその、格好いい名前だね」
飾り気のない率直な感想に姉が微笑んだ。
「賜ったということは、なるほど。私と同じなんだね。つまり、あなたにはもうひとつの名前があると」
少しはしゃいだ風に芝居掛かった言い方をする千影。そんな妹の姿に姉は苦笑で応えた。
「ユウ、といいます。結ぶ、という字が一文字でユウ」
結は不意に顔を俯かせた。まるで自らの行為を恥じるかのように。
「――結姉さん」
千影が口に出すと、姉は心底慌てたように妹の口を手のひらで塞いだ。
「すみません、やっぱり駄目です。今のは聞かなかったことにしてください。私ずっとその名前は捨てていたので、その、どうしても、恥ずかしくて。いえ、それ以外にもやはり私はここではメイドですから」
メイドは顔を赤くしながらしどろもどろで弁解した。あまりに必死なので、姉の手に覆われた下でも口元が緩んでしまう。千影は姉の手を取り、静かに剥がした。
「わかっている。今は二人だけの秘密だから」
「は、はい」
たしなめられて初めて、結は自分の失態に気づいたらしい。耳まで赤くなった頭を何度も上下させる。
「でも、何やら象徴的な名前だね」
「は?」
唐突な千影の呟きに結が顔を上げる。
「結ぶと書いてユウ。あなたという存在が、私たちを結びつけている。私とママを。そして、私と亞里亞くんも」
今度は千影が顔を逸らす番だった。本心から出た言葉だが、自分の感情をそのまま語るという行為はどうにも慣れていない。そんな千影の心情を察してか、結は小さく頷くにとどまった。
そのさり気ないやさしさが千影の胸を突いた。
「さっきはごめんなさい、姉さん」
「何が、ですか?」
「何がって、私は姉さんにいっぱい酷いことしたじゃないか。さんざん罵ったり、思い切り叩いたり。それだけじゃない。あまつさえ私は、あの力であなたのことを――」
「千影ちゃん」
やわらかな呼び掛けに千影はハッと我に帰った。目の前に姉の顔がある。
「それは私だって同じよ。妹なのに、もうひとりの自分なのに、あなたのことを羨んで、妬んで、罵った。あなたをここへ呼んだのには、後ろめたい気持ちも少しあったの。あなたに亞里亞を救って欲しいと願う一方で、恐れをなして逃げ帰ってほしいとも思っていたの。そうすれば、亞里亞は私だけのものになるから」
結は顔を歪め、喘ぐように息を吐き出した。心なしか顔色が悪い。
「姉さん……」
「失望させてごめんなさい。私は、いいお姉さんにはなれそうもないわ」
「じゃあ、私のことが嫌いなのかい?」
「え?」
千影は姉の目を覗き見た。
「嫌いじゃないなら、私はそれでいいと思う。姉妹だからって、お互いの気持ちが清廉である必要はないよ。好き、が嫌いを上回っていればね。そうじゃないと、以前の私たちの立場がなくなってしまうよ。ひとりの兄くんを巡って、一体どれだけケンカしたと思うんだい?」
姉に向かって、千影は寂しげに笑い掛けた。
「私が言うのも何だけど、これはただの姉妹ゲンカだと思う。口ばかりじゃない、手もちゃんと出た。それはもう、立派な姉妹ゲンカだね」
真面目くさった口調とは裏腹の言い回しに、結の頬がたちまち緩んだ。千影もつられて笑みを浮かべる。
「でも、私は一回叩かれた分だけ損してます」
左の頬をさすりながら、結が千影の隣に立った。
「悪かったよ姉さん。でも、年上なんだからそれぐらいは我慢して欲しいな」
「今度は容赦しませんからね。スナップを効かせた本当の叩き方というものを教えてあげますから」
と、手首から先をぐるぐると回してみせる姉。
「それは、私の体で?」
「ええ、もちろん」
姉妹はしばらく見つめ合って、くすくすと笑った。
To the next day...